千葉県 │ 馬来田町原競馬場跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 馬来田町原競馬場跡(草競馬場跡)
小ネタとして用意していた物件を今回は紹介しよう、房総半島に残る私設競馬場跡「馬来田町原競馬場跡」だ。以前紹介した馬来田のハンノキ湿原からも程近い場所に位置し、未舗装林道の入口にも成っているので林道野郎や酷道さんには中々にして有名な場所だったりもする。
今回はハンノキ湿原での撮影後に徒歩で向ったので山中の旧作業道を歩いて来訪した。実はこのブログでも場所が解らん(忘れた)撮影地として風景写真カテゴリーに過去エントリーしてたり。
○ SCENERY - 076 │ 牛堀の奇岩…前?
http://ameblo.jp/6blogs/entry-10698781829.html
事故でサイドカー以外のバイクを降りて以降は林道や酷道から離れてしまい、スッカリとこの場所について忘れてしまっていた。そそ、ハンノキ湿原については下記リンクから。
それでは短いけれどこの競馬場跡に関してのレポートを始めましょうか。
ハンノキ湿原から田園区間を抜け、山中を少しだけ歩く。この間ほんの20分程、緩い傾斜の旧作業道を進むと懐かしい風景が見えて来た。
ああ、ここだ。ここ。
この場所が馬来田の「町原競馬場跡」だ、地元では「草競馬場跡」とも呼ばれていて定期的に整備されている管理用地なのです。また林道さんにとってはこの最奥部から伸びる未舗装林道を経由して「林道黒田線」へのアクセスにも使われたりもするので結構人が来ます。
また山中には幾つもの作業道や簡易登山道が残っていてその辺を歩くのも以外と楽しい、実は細かな枝道に関しても説明しようと思ったのだけどウェブ上に資料やレポートが無く、また関連書籍も見付ける事が出来なくて。申し訳ないです、はい。
しかし天気が良いととっても素敵な写真が撮れるのだけどなぁ、今回はどよーんとした朝曇り。
この場所、正式には「馬来田町原競馬場跡」と言う。この競馬場に関して少々記しておこう。
1941年、国内外でも大戦中と言う世相の時。この一体は君津郡の一部として長閑な風景が多く残され、街中に在ってもこれだけの使用されない原野(整備以前は森林)が広がっていた。
そんな折、地元有力者達が共同出資して「町原競馬場」を開設開場。地元民が参加出来る小さな競馬場の運営を始めた、私設競馬場と言う事もあって草競馬の域を出ないながらも娯楽としての最低限の私設を用意していた為、そこそこの来場者は有った様だ。
第2次世界大戦真っ只中と言う事もあって競馬の運営様式は「西洋競馬」ではなく、「和式馬術」と呼ばれる日本独自の馬術様式を用いての物だった。因みにこの和式馬術にも多様な流派が存在していた様でこの町原競馬場でどの流派が主として使用されていたかは判明しなかった。
同年12月、戦局は太平洋戦争勃発によって大きく変動する事に成るのは皆さんご存知の通り。
その後この競馬場で脚を競った個人所有の馬や農耕馬が戦術軍馬の対象と成り、戦争へ駆り出される事に成ります。写真中央には「従軍馬 追悼の碑」が設置されているのがお解かり頂けるかと、競馬場設置の時代を前後してこの地から送り出された馬達を追悼する為に置かれています。
終戦の翌年、1946年。競馬法施行に伴って民間運営や私設競馬場などの競馬場設備が法適合しない物は廃場命令と共に姿を消して行きました、この「町原競馬場」は同年に法適用され「柏競馬場」に統合される形で廃場と成ります。
地方最大を誇った統合先の柏競馬場も競輪人気を押され1950年に最後の開催で終焉を迎えます、2年後の1952年には現在の船橋競馬場に移転統合され現在に至ります。
以外と歴史深い一面を見せてくれる「馬来田町原競馬場跡」、ウェブ上でも語られる事が少ない穴場物件です。マイナースポットですが当ブログとしてはオススメだったりしますよ、本日は以上です。
アプローチ
徒歩の場合はハンノキ湿原同様に県道168号線から農道経由で、車両(オフ車)の場合は日泉化学千葉工場の裏手の道から入れます。また車でも「従軍馬 追悼の碑」までは行く事が可能です。
地図リンク
http://yahoo.jp/uK_r2i
photograph - nee