滋賀県│桃原廃集落(過疎集落)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 霊仙廃集落群 - 桃原集落跡
滋賀県多賀町、霊仙山の麓には多数の廃集落や残段数1人の電撃級に過疎化した限界集落が多数見受けられる。霊仙廃集落群と時を同じくして訪れた桃原(もばら)集落は近代化と昔ながらの生活観が同居するちょっと不思議な限界集落でした。
良く廃村と勘違いされるけれど厳密には限界集落であり、通年住居をされている方がいらっしゃいます。2010年現在で定住者が何人居るかは正確には解りませんでしたが冬季にも住まいに明かりが灯る事が在ると聞きます。この辺の集落では冬季限定廃集落が幾つか現存してますが1年を通して通われる方が居るのは珍しい事です。
手入れがされている様で実は一切されていない集落の裏手の路地、最近までは細かく剪定などがされていた様ですが今はどうなんでしょうねぇ。切り口が残る葉がなかった事から1年以上は剪定されていません、あらら…実は最近になって廃村化した?
いやいや、人は住んでますよ確かに。ごく僅かなんですけれどね、なのにこれだけ綺麗に残っていてしかも崩壊している家屋も少ないってのが霊仙の廃村群の中では本当に異質、ここだけ普通の田舎の山岳集落って感じなのです。関連書籍を見ると平家の没落武士が開墾した記述も見受けられますが公に残されている町暦資料には江戸時代からの歴史が書かれています。
1765年に発刊された「江左三郡録」に桃原が紹介されており、干柿やゴボウを中心にした農作産業と製炭に関する記述が出てきます。近代では1970年代までは京料理に使用されるゴボウはここから出荷されていたとする記録も在り、江戸時代末期から続く「お多賀ごぼう」として高級食材の一つに数えられていたとも聞く。そうか、庭木が今でも綺麗に残る理由は他の廃村より土と草木に特化した村だった事に起因しているのだろう。
主要道路(県道17号線)から小道を辿り裏手に出ます、この裏手の路地から更に奥へ延びる路地が何本も網の目の様に作られていて複雑な形成です。ただ斜面に作られているにも関わらず、霊仙地区特有のへばりつく様な集落形成ではなく、比較的平地を宅地、もしくは利用して作られています。
この平地と言う好条件と周囲はシッカリと山岳地帯な立地、これがここに新たな産業を生み出します。
1948年頃から斜面のゴボウ畑に積雪し、特に開けた場所をスキー場として冬季限定の商業区域を作るとこれが大当たり。旺盛時に60軒を越えた落合集落に次ぐ人口、それと農業、製炭、スキー場と行政側も無視出来ない発展を迎えます。
1960年代に入ると周囲は急激な近代化を迫られ、その波に飲まれていく集落が目立ち始めます。スキー場はメインの車道が遠い為に敬遠され始め、通年を通した農業技術の発展でゴボウの取引量も激減します。製炭も化石燃料に取って代わり、桃原の詠歌も間もなくして終りました。
主要道路は近代化してから作られた物でそれ以前は県道17号線にあたる旧山道からと歩道のみのアクセスでした、その頃に作られた家屋は総じてこの様な姿に成っています。風化が激しい、もしくは倒壊家屋は主要道路から2本ほど内側に入った旧路地に隣接する物が多く、桃原地区は上からではなく下から形成されたのではないかと想像出来ます。
因みに地図には表記されていない徒歩でのみ往来可能な山道が桃原から無数に延びています、一説には同じピーク沿いに位置する向之倉集落と繋がっていたとも噂されますがこれは事実では無かったようです。畑の開墾に四苦八苦した結果、残ってはいるものの実際生活道路として利用されたのはその内の5分の1程度。他は製炭用の釜場への産業道路として利用された様です。
いや、凄い。
新緑に遮られて桃原の旧家屋群が全く見えませんです、自然はホントに凄いですよ。
気に成った点、幾つか在るんですがちょっとホラー。明らかに最近まで人が住んでいた形跡、もしくは現在も住んでいる形跡が在るのに途中の道路の轍が古かった事。比較的新しい家ほどポストは在るのに名前の部分が剥がされていた事、屋外の蛇口が左に捻られた状態で水が止まっていた事。
どれもちょっと不思議、帰宅後調べたのですがこの桃原に注目している方が極端に少ない…これも不思議な事です。廃集落としても大変美しい場所だし、霊仙廃集落群からも近い筈なのに…。
最後にこの土地にまつわる言い伝えを幾つか(他サイトからの引用です)。
其の一「泣き地蔵」
昔、松兵衛さんという人が杉苗を植えこの木が立派に大木になったら自分は極楽浄土にいると思ってくれ。と家人に言っていた。そして傍にお地蔵さんを祀ったという。時が経って、立派な地蔵さんが1本杉の根元にあるのを隣村の二人の人が見つけて担いで帰ったところその夜、二人の夢枕にお地蔵さんが「早く桃原に帰りたい」といって泣かれたので元の場所に背負っていった。1本杉は大木になり、泣き地蔵様は今もそこにいらっしゃる。
其の二「金の鶏」
「朝日チラチラ夕日チラチラする所に埋めておくぞよ金の鶏を」という言い伝えがありその場所を示す書類もあったという しかし大火があり焼けてしまった。
其の参「火事と観音祀り」
昔、絶家になって放置されていた観音像を見つけた子供たちが、縄で括って引きずり回して遊んでいた。村人はすぐ止めさせたが、その日火事が起こり村の中心部を焼き尽くしてしまった。 宝物の在処を示す書類もこのとき焼けたという。村人は観音像を村の一番たかい場所に堂を建てて安置し、火事の起こった五月一二日に毎年火祭りを行っている。
其の四「室三郎」
昔、室三郎という剛の者がいたが、だまし討ちに会い生き埋めにされてしまった。そのあとに立派な蕨が生えるようになった。食べると腹痛や、高熱が出るというので村人は室三郎蕨を採らない。室三郎には姫があり父の仇を とろうとしたが殺されてしまった。その血潮の後には、毎年きれいな花が咲いたという。
其の五「大蛇」
桃原に「ジヤレ」という所がある。松の木が倒れているのだと思って、跨いだらそれは大蛇だったと何人もの村人が言う。そんな大きな蛇がいるわけない。と思うけれど、山へ行ったきり帰ってこない村人もいた。「ジャレ」は「蛇出」と書くのだろうか。
引用:桃原の伝説 - 滋賀県多賀町の山村「桃原」について、お話しましょう。
アプローチ
彦根ICより国道306号へ彦根市外方面へ、途中県道17号との分岐から霊仙地区へ。幾つかの分岐が在るので地図上で確認して下さい。
※ ウェブマップには道路表記が無い物が多いです、国土地図で確認して下さい。
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