千葉県│鵜原火薬庫(日本冶金工業興津工場)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 震洋隊守谷特攻基地所属 鵜原火薬庫
房総が大好きな千葉県民、知らずと地元県のレポートが多く成ります。今回は随分と昔から知られているけれど近年まで何故かレポートが少なかった勝浦の火薬庫跡へ撮影に向いました、行政さんにも協力してもらって詳細を知る事が出来て大満足ですが個人的に「画」は薄いかなぁ。
すっかり沢屋全開のエントリーが増えましたがたまには廃虚でも、実は戦争遺構が多い房総半島の歴史を紐解いてみましょうか。
この物件は知ったのは廃虚を撮影素材として意識して直ぐの2010年位、ウェブ上では地元の青年数人が2006年に釣り人から得た情報を元に来訪したレポートが現在見る事が出来る初見の情報なのかな。まあ釣り関係のサイトやブログを探すと随分と以前から知られるポイントの様でして、その後2011年辺りから急に沢山のサイトで取上げられる事に成るのだけれど何かメディアに取り上げられたのだろうか。
詳細は少しづつ語るとして。
それではこの素晴らしい火薬庫のお姿を拝みに行きましょうか、と言っても2012年に大規模な倒壊が在った棟も在るし2006年に一番大きかった工場跡が企業買い上げで更地化、既に現在では別の建造物も建設されてしまっているので残っているのは本来の30%と言った所。
詳細な地図は掲載を控えるけど部分的にこの物件地形を交えてご紹介していこう。 帯状に広がった凹凸煽状の山岳帯に幾つかの建造物がポツンポツンと見てとれると思う、コレが件の「火薬庫」跡の廃虚だ。国有地から行政管轄に移行した後に個人、企業と部分分配されて現在では複雑に土地の利権が分割されている。
この辺は調査して判明したのだけれど一部掲載を見送った、僕自身余り興味が無かったってのも在るけど色々と在りまして。
さて、この広い敷地の中に点在する建造物達(一番大きな○部分は既に企業に買収されていて建造物が建てられています)、簡単にアプローチ出来そうでも現地に行くと一目瞭然。厳重に施錠されているし鉄柵は在るしで皆さん山を登って撮影に向われているそうだ、海岸からのアプローチも在るけれど正直ちょっと危ない。
実はね、普通に行けるんですよ。子供なんかだと特に楽にサクッと…もしくは個人所有の土地から許可を得て入れば柵の裏側に。(山中歩かずに1分程で到着します)
この物件を語る上で良くエリア別にレポートされているブログなどを見掛けます、これ実は先程記載した「地元青年による2006年のレポート」が元に成っていまして。本来はそんなエリア区分が在る訳も無くてですね、当時の資料を引っ張るとこんな感じで説明されています。
これらに加え、当時の建造物が残っていたらこの様に更に見所が在った筈、残念な事に2007年までには黄色印の全てが解体されてしまった。
因みに現在では自然に飲み込まれてしまった作業道が山間部に残っている(ハズ)、アクセスルートはそれぞれの掘削道だけでは無いのだ。
そう、この火薬庫。実は数棟づつに凹凸煽状の地形を掘削道で繋げ、専用軌道が引かれて火薬や荷物を運搬していた。現在残されている素掘り隧道の様なルートはその殆どが専用軌道の為に使用され、人間は別の作業道を歩いていた事に成る、この辺も実は資料が残されているので興味の在る方は国立図書館へどうぞ。
1973年の航空写真、この当時だと綺麗に工場(この時点で既に火薬工場では在りません)や火薬庫などが残っている。まあそれもその筈、この火薬工場は1976年まで人の手が入っていた。1975年にその殆どの稼動は終了し、翌年の前半期には全ての業務を停止している。
この辺も記述の資料に掲載されているのだけれど今回のレポートでは不掲載とした、理由は聞かんで下さい。色々と、ええ。申し訳ないです。
前置きが長くなった、それでは「火薬精製棟」が残る俗称Aエリアからご紹介しよう。
ココも数棟自然倒壊と解体が在り、現在は都合2棟が残るばかり。「精製棟」の他には電気供給用の発電が行われた「電機管理棟」等が残る、工場棟として使用された長屋棟は2012年の初頭に半倒壊してしまった。
電機管理棟は辛うじてその形を残しているけど時間の問題っぽい。
半倒壊した精製棟は幾つかの主柱でさえ限界が近い、311の大地震でも倒れなかったけれどその影響はやはり色濃くて1年と持たずしての反倒壊だった。
この他にも小さなコンソールルームなどが残っている、電機管理棟から各施設に電気を供給する為の物で幾つかの発電施設が存在したがこのAエリアには1棟(此方も半倒壊)だけ残されている。
因みに勝浦市役所の1階ロビーにはこの火薬庫とも関わりが深い戦争の歴史を紹介した展示が在ります、また個人閲覧限定(商用不可)で文献と資料が所蔵されています。今回はこの「商用不可」って事で情報を絞ってレポート、地元新聞社さんに写真提供するお約束が在りまして。それが行政経由では無くて個人経由だった為に商用扱いと成り…うう。
俗称Bエリアへ向う為の軌道用掘削道の中、途中には保管庫が残されていた。ココは精製途中の薬品などを低温保存する為に用意されていた様で。
左手側には資材庫、右手奥に向うとBエリアへ出ます。上部の掘削口には当時鉄製の階段が据え付けられており、上部に出ると作業が残されています。
本当は地図に火薬庫の番号振って一つ一つの特徴とか書いても良い位色々と調べたのですが本当に駄目、この物件色々と制約が多過ぎる。以前ウェブ上ではこの工場で働いていた方のお話が掲載されたページを発見、が随分と前に404に。
アーカイブ取っておけばよかった…。
更に軌道用掘削道を抜けると所謂Cエリアに、正面の掘削道は出口で閉鎖されている。当時はDエリアと言うより管理棟や機械整備棟へのアクセスに使用された、資材用貨物車の他にも重機運搬用の貨物車が別途走行していた様でココから整備棟へ向ったとか。
最近のこの物件レポートで良く掲載される「第五火薬庫」と「第一火薬庫」が残るCエリア、恐らく唯一の人専用の掘削道が残る珍しいエリア。勿論閉鎖されているけれど本来はDエリアと言われる解体された工場跡へ向う作業道だった、山間部を歩く作業道も別途ルートで残されている。
それでは公開出来る範囲でこの「鵜原火薬庫」の歴史を語ろう。
その正式名称を「震洋隊守谷特攻基地所属鵜原火薬庫」と言う、特攻隊と名が付く通り戦時中の基地付きの火薬庫だった事が解る。まずは震洋隊から説明しよう、最初にウィキペディアのリンクを踏んで欲しい。
ウィキペディア - 震洋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e9%9c%87%e6%b4%8b
この鵜原の火薬庫が所属していたのは震洋の中でも「第55震洋隊(1945年5月25日編成)」で神浦性太少尉が指揮官として従事していた特攻部隊の一つ、特攻部隊と聞くとどうしても空を舞う若い青年兵隊を思い浮かべるけど海にも存在していたのは余り知る人が少ない。人間魚雷に近い構想で装甲爆破艇を敵艦目掛けて体当たりして撃沈させる事を目的とし、その装甲爆破艇に積む火薬をこの鵜原火薬庫で精製(一部)したりもした。
この様な1人~2人乗りの海洋特攻船だった震洋、その搭載炸裂火薬を鵜原火薬でも生成した。
第55震洋特別攻撃隊
指揮:神浦性太(少尉)
編成:1945年05月25日
甲艇:震洋一型(一人乗用)/震洋五型(2人乗用)
艇数:50隻/5隻
兵員:214名(戦死者なし/海難事故死1名)
戦時中は通称「鵜原特攻基地」と呼ばれ、数多くの余剰兵(機体の数が揃わず海洋戦に回された青年兵)がこの地で従事した。当時の写真を見て貰おう、
これは結成当時1945年5月に撮影された第55震洋特別攻撃隊の集合写真だ、そして撮影された場所は勝浦国民学校と言う。勘の良い方はこの校名と後の背景でピンと来ただろう、そう…この場所は現在の勝浦市立清海小学校の校庭だ。
清海小学校と言えばこの火薬庫のアプローチ入口のお隣さん、当時はココに今とは別の施設と建造物が在って従事兵が常駐していたのが伺える。
この後の山向こうに鵜原火薬庫は既に存在している、と言うか。元々この鵜原火薬庫は特攻基地の「火薬保管庫」と「火薬精製工場(当時は製鉄工場も併設)」の2つの顔を持っていた、戦時中の紆余曲折で統合稼動する事に成るのだけれど少なくとも戦後も工場は運営され、約40年前までは全ての建造物も残されていた。
勘違いされる方が多いが元々は別々の施設、戦時中に日本軍が日本冶金工業興津工場を軍需工場として指定したが為に後々1つの施設として認識されたけどDエリアと呼ばれる部分は少なくとも民間企業の工場だったのだ。
ウィキペディア - 日本冶金工業興津工場
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%86%b6%e9%87%91%e5%b7%a5%e6%a5%ad
少し火薬庫に話を戻そう、勝浦市教育委員会にお話を伺う事が出来たので最後にこの火薬庫誕生の秘話と言うか歴史と言うか…そんな物を。
第2次世界大戦末期、勝浦には特攻隊の基地が集中していました。と、言うのも戦争末期のアメリカ軍の本土侵攻作戦で「千葉県の外洋側が最初の戦場に成る」と想定されていた為で、鵜原を含めた勝浦上空はB29の通過コースだったと当時の資料に残されています。
八丈島の電波探知機が敵機を捕らえると勝浦に電報が入ったそうで、特攻隊としての役目の他にも海洋戦~上陸作戦~陸戦の戦況を握る重要な地区だった事も守谷基地が設置された大きな理由だったとか。
その後日本の旗色が悪くなり特攻部隊が編成され、海洋特攻隊として第55震洋特別攻撃隊が守谷基地付きで設置されます。その震洋に搭載する火薬を用立てる為に急遽建造された火薬工場と保管庫、コレが「山中に眠る火薬庫」と噂された鵜原火薬庫の正体でしょう。
勝浦市教育委員会の担当さんによると当時の歴史を調査した「市史編纂室」も解散しており、常駐していた歴史関係専門職員が現在は居ない為これ以上の詳細(一部伏せていますが)は市でも解りかねるとの事。いえいえ、大変お世話に成りました。
諸説噂されているこの火薬庫ですが勝浦市教育委員会と地元の新聞社さん、それと国立図書館の資料にて記載されていた文献を元にまとめたので恐らくは歴史と合致しているとは思うのですが…当時を知る人が殆ど生存していない事などから更に古い歴史は辿れませんでした。
最後にこの場所が現在でも地元では心霊スポットとして知られる理由、これを書いて終わりにしましょう。
終戦後、軍需工場指定から除外された日本冶金工業興津工場。1957年の11月30日に「日本冶金工業興津工場爆発事故」と言うカーリットの填薬工室爆発事故が発生します、死亡14名、重軽傷17名の合計31名が死傷する大きな事故でした。
これは現在でも産業別爆発災害の事例として労働災害のレポートや対策会議に引き合いにだされる事でも有名だそうで。
実際には戦死者が出ていないのだけれど軍需施設だった事と記述の爆発事故が合わせて語られる内に兵隊さんの幽霊が云々とスポット化したと思われる、まあ火薬庫側の区域で事故が起きてない訳だから全く関係ない話の筈なんですけどね。
って事でこの「震洋隊守谷特攻基地所属鵜原火薬庫/日本冶金工業興津工場」のレポート終えたいと思います、写真沢山撮った割にはテキストボリュームのが重いって言うね…ええ。
殆ど答えが出てますが地図リンクは不掲載です、撮影の許可申請に関するお問合せにもお答え出来ませんです。因みにプレス以外の個人での撮影許可に関する問い合わせは教育委員会も地元企業も一切応じる事が出来ないそうですよ、まあそりゃそーか。
本日は以上です。
photograph - nee