千葉県│君津市黄和田畑 旧(字/あざ)湯ヶ滝 再訪
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 千葉県 湯ヶ滝廃屋 再訪
本当に廃村物件が無い房総半島、その理由もこの「湯ヶ滝」の以前のエントリー冒頭でご説明した。色々と興味を持ってはいたのだけれど機会が無くて再訪はして居なかった、今回「キンダン川」遡行の為に同区にお邪魔したので寄ってみた。
以前のエントリーは以下よりどうぞ。
ほんの少ししか追記する情報がないけれどレポートをお届けしたいと思う。
キンダン川に残る「キンダン川の川廻し」を見て引換えし、川の途中に薄っすらと残る旧道へ。2年半振りの湯ヶ滝集落跡へ向う、道中の山道は以前以上に荒廃していたけれど記憶を辿ってどうにか例の廃屋まで来る事が出来た。
当然と言えばそうだけど若干の崩落を除いて大きな変化は無い、勿論人の入った形跡もほぼ見る事は無かった。
裏手に回ると壁が大分崩れ落ちていた、釜の煙突も外れて壁の腐りも進行している様だ。反比例する様に周辺の樹木は大きく成長していて何れ自然に飲み込まれるのかなぁと、まあ柱はまだシッカリとしていたから崩壊は無さそうだけど。
いやでもこの場所も地震で揺れたのだからそれなりにはダメージを受けてはいるのだろうなぁ。
以前撮影したアングルと同じ様に撮ってみる、下の写真は以前(2010年1月)に撮影した物だ。
季節と天候が違うので写り方に若干の違いは在るけれど殆ど同じアングル、ベニヤ板や土壁の崩落、その他にも細かく見るとやはり崩落が進んでいる事が解る。
内部を見ると本当に以前から位置関係が変わってない、座布団は獣が荒らした状態でその間々。しかも綿の位置も大して変化してないって言う、風だって吹き込むのになぁ…。
障子紙も変化なし、紙って以外と強い。
兎に角暗い、磯爆上げで手持ち1/4でもやっぱり暗い。そしてブレる。
炊事場に回る、コチラも以前と変わりない…いや、何かオカシイ。物が減って…いる…?ここの写真が無くて(以前の訪問時に撮影しなかった)確証は持てないけど確かに以前より物が少ない、誰か来たのか…こんな場所に。しかも持っていく物なんて無いだろうに…うーんなんだろ。
裏手の壁が崩壊していた、そして気付いた。中に在った物が幾つか外に出されている、と。風呂関係の部品なども外に転がっていたので確証に変わった、誰か解らんが人の手でほんの少しだけど荒らされた形跡が。
素敵サンダル、こいつはずっとこの間々。
photograph:+10
裏手から少しだけ歩くとこの集落の集合墓地が残されている、以前調査した時に「元住民が手入れに訪れる」と聞き込み調査で判明したのだけれどその形跡は無い。手前の覆いかぶさる2本の折木が奥に移動した位かな。
さて、ここからは前回より少々突っ込んだ内容をお伝えしよう。
前回のレポートではこの「湯ヶ滝集落跡」をこの様に説明した(前回訪問した時のレポートから文章を抜粋)。
山の斜面下側にはこの家屋の他にも家が建っていた事が解る基礎が幾つか発見出来た、この場所に関しての資料は房総史と市歴に幾つか記述が在って多い時で6軒の家が立ち並んでいたそうだ。主な収入は山岳集落では多い炭焼き、周囲の斜面には炭窯跡も残っていて集合墓地も苔むして並んでいる。
現在のアプローチルートと昔のアプローチルートは違っていて昔は橋が架かっていた為に今よりは多少楽な山道が存在した、今でも踏み後はシッカリ残っていて道祖神や石仏が。
その後の調査で詳細が判明した。
まずは軒数、以前同様最大軒数は6軒。だけれど生活されていた世帯数は4世帯だった、残りの2軒は物置や作業小屋の様な建物が在ったそうだ。
主要な産業はやはり炭焼きだった様だけれどそれより以前には畑や田んぼを作って農業をされていたとの事、そうか…札郷の川廻しを利用したのかもしれないしその支流(川廻しから更に細い枝が数本残っている)を使った可能性も在る。
また炭焼きに移行した後もこの湯ヶ滝集落を含む複数の周辺集落が共同で農耕をしていた事も地元住民の聞き込みで判明している、町歴などにも残されていない事実だ。
1963年迄には2軒が対岸へ移転しており、残す世帯数は2世帯と成っていた。1軒の世帯1963年に対岸の千石代へ移転、1966年までに残りの1世帯がやはり対岸の札郷へ。
送電や通電などのインフラも1970年までには打ち切られて完全な廃屋化…と成る予定だった。しかし。
どうやらそうでは無かった様だ。
ここから更に調査を進めた切っ掛けが実はこの再訪時に在ったのだ、それは炊事場でふと目が移った残された調味料の賞味期限だった。
最初に気付いたのは「ごま油」だった、印字された賞味期限の年度を見てちょっとだけ驚いた。
1989年9月15日
んんん?
1989年だと?確かに食用油が腐る事は無い、空気や光、熱などで酸化や劣化が進んで風味が落ちる事は在っても使えなく成る事はない。食用油の中でも一番劣化し辛いと言われる「ごま油」なので10年先20年先の賞味期限(消費期限)が記載されていてもオカシクは…いやオカシイな、やっぱり。
なので農林水産省が定める「賞味期限」についてちょっと調べてみた。
農林水産省 - 消費期限と賞味期限の違いは?
http://www.maff.go.jp/j/fs/f_label/f_processed/limit.html
リンク内を参照して頂いた上で国内と食品メーカーが共同で遵守している賞味期限の長さを見て頂こう。(ごま油限定)
缶製品:平均2年6ヶ月
瓶製品:平均2年1ヶ月
PP品:平均1年8ヶ月
油の容器は材質によって光の透過度、空気の通気性が異なり、油の賞味期限は容器の材質によって異なる。上記の平均期間が全てだとしなくても約2年程前に購入された物だと予想出来る。
他にも炭酸飲料や沢山の食料品のパッケージが残されていた、それら(他の賞味期限や消費期限の印字)を考慮すると1988年までは人が住んで居た事に成る。聞き込みやインフラの断絶を考えると1966年~1970年には完全に無人化している筈なのだ。
因みに飲み水は廃屋から10メートル程離れた所に石で出来た水瓶が在り、溜め口を確認すると湧水していた。後の調査でも廃屋脇の井戸と繋がっており、汲み上げ用の電気ポンプも現地に残されていた。つまり「水」だけは困らなかった事に成る(電気が断絶しても常に湧水しているので)。
どちらにせよ、だ。
1970年以降、人が住むには少々困難な状態と成っていた訳だ。しかし凡そ20年間、もしくは一部期間、ここには確かに人が住んで居た事に成る。こりゃー面白く成って来た、もう少し突っ込んで調べてみるか…そう思ったのが再訪した次の日。
で、どうしたかと言うと。
本人に聞いてみた。
そう、この廃屋の元家主(と、言うか関係者)さんだ。実はこの辺の歴史を調べている段階でこの廃屋の持ち主は判明していた(とても珍しい苗字なのでグレーの状態から凄く気に成っていた)、なので直接話を聞いてみようと。
要約すると。
・随分前(1966年~1967年)に引っ越した
・暫くは無人ながら管理訪問はしていた
・1980年位から人に貸していた
なにぃぃいいっ?
人に貸していたんですか、そうかーってアレ?電気とかガスとかは?まさかその間々貸していたんですか、この場所を。
「その間々貸してた」
おおう。
昔の人は凄ぇですわ、何と言うかいい意味で大味と申しましょうか。他にも色々と周辺の方の聞き込みで判明した事が在った、
・旧道沿いに残るヌタ場が実は田んぼだった(廃田)
・家主さんは炭焼き業から会社員にジョブチェンジ
・キンダン川からと七里川以外にもアクセスルート在り
などなど、色々と。
プライベート満載でココでは書けない内容もチラホラ、それでもこの場所がどんな所でどんな生活だったのか。残された物にはやはり歴史が付いて来てそれを調べると付随する文化や物語が掘り起こされてくる、とても勉強に成る物件でした。
と、言う事でこの物件に関する調査は今回で終了。恐らく行く事ももう無いかなぁ、最後に気に成る事が一つだけ。
この湯ヶ滝集落に向う道すがら巨木の根城が目を引くお地蔵様が居たのだけど。何故か屋根部分のトタンがとっちらかって肝心のお地蔵様も居なかった、これは本当に気に成ったのでご存知の方は是非教えて欲しいと思います。
今回は以上です。
アプローチ
秘境及び危険物件は自然保護と建造物保護、安全確保の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
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