佐賀県 │ 浦の崎変電所
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 浦の崎変電所(浦ノ崎変電所跡)
2012.03.27 - 行政より情報を頂いた為に追記
以前より調査していたこの変電施設、関係各所からの回答とこの区域を担当する行政機関「伊万里市総務部情報広報課」様より報告を頂いたので追記エントリーしたいと思います。追加画像は無し、最後尾にてその内容を書きましたので興味の在る方は是非。
残念ながら解体中の川南工業浦之崎造船所跡、この造船所の関連施設は以外と語られない事が多いのだけど廃カーさんだとピンと来る方も居る筈。丁度のこの廃墟の前に設置されたバス停に書かれた停留所の名前、
「浦の崎変電所前」
造船所と直ぐ近くに残る変電所の廃墟。うん、匂いますね。しかしこの物件を扱うブログやサイトが殆ど無い事からその正体を知る物は少なく、実しやかに囁かれる「造船所の電力を変電していた」との噂。
以前レポートした造船所のエントリーはご覧に成っただろうか。
この造船所を調べている最中にこの変電施設についての文献や資料は全く出て来ていない、また佐賀県にこの造船所の歴史や不動産関係の詳細を問い合わせた時に頂いた関連資料にもやはり記載がない。
これは…。
この施設は一帯何の為に作られ、そして廃墟と成ったのか。ちょっとだけ興味が沸いたので造船所の関連物件として調査してみた、最終回答は実は県からの回答待ちなのだけどまずはレポートを読み進めてほしい。
問題のバス停「浦の崎変電所前」停留所から数分でこの廃墟に辿り着く事が出来る、バス停の名前に偽りなしの位置関係。場所は最後尾の地図リンクを参照して欲しい、写真モードではちょっとした林の中に在ると思って頂ければと。
薄っすらと残るこのライトなブッシュを抜けると小さな変電施設が現れる、それが今回の物件である「浦ノ崎変電所跡」だ。
概観を良く見渡すと少ないながらヒントが見て取れた、まず目に付くのは「佐賀労働基準局」の看板。
労働基準法
適用事業場
佐賀労働基準局
こう書かれた公称看板が今でも残っていた、「労働基準法」ねぇ…。それとこのコンクリートの建造物、ふむ…何となく正体が解ってきたぞ。
施設内は変電所として関連機器が置かれていたであろうコンクリート製のベースが並んでいる、内部には随分と荒らされた形跡も見受けられ、またゴミも不法投棄されていた。そしてこのゴミも実はヒントに成る、不法投棄された家具や家電のどれもが1970年以降の物なのだ。
そして内部に書かれた道具のアナウンス「ヂスヨン棒」の表記、まあこれは間違いなく「ディスコン棒」の事だろう。このディスコン棒とは絶縁高圧用作業具の一種で変電所の様な高電圧を扱う場所には設置されている道具、良く聞くのは鉄っちゃんが話す「パンタグラフの作動補助道具」としてのディスコン棒。
それではそろそろヒントをまとめてみようか。
・川南工業は1955年に倒産
そもそも造船所の変電施設っては何処から出て来た噂か、それが定かではないのだけれど造船所が軍需としての役目を終えたのが1955年。その後は南極観測船「宗谷」や大学設立の資金基盤として残っては居たものの実質既述の1955年の倒産をもって稼動はしていない。
・労働基準法の本格稼動は1952年から
終戦を迎えた1945年から2年を経過した1947年、現在の労働基準法の雛形が完成する。しかし時は戦後間もなく、その適正運用は10年を要した。日米地位協定締結の1952年以降やっとこ法として稼動し始め、諸問題が山積していた新安保が正式に1960年に条約締結して始めて国内法は国内法として運用される。
・軍需施設に労働基準法?
と、言う事は…だ。1955年に倒産した川南工業にGHQ撤退後直ぐの1952年から公称看板を掲げてまで「労働基準法適用事業場」を謳う意味が在ったであろうか(※1)、軍需で成長し、終戦と共にその意味を無くしたこの軍需造船所が…だ。
・廃墟化後の不法投棄
先ほども書いたのだけど残留している家具、家電が1970年以降の物。これも重要なヒントだ、それ以前に廃墟化していれば…少なくとも川南工業と同時期に稼動が停止していれば1955年以降のゴミが残っていても不思議は無い、それがどうして1970年以降のゴミしか残っていないのか(※2)。
・国内の鉄筋コンクリート構造は1950年代後半から
この建物はコンクリート構造の施設だ、戦後国内で鉄筋コンクリート製の建造物が頻繁に建てられる様に成ったのは1950年中盤以降、つまりこの建物が少なくとも1950年代以前には無かった(※3)事を意味している。
そろそろか…。
ここまでをまとめよう。労働基準局の看板が示す労働基準法の本格運用が1952年、川南工業は少々遅れる事1955年の倒産。倒産以前の不法投棄ゴミはなく、15年以上経過してからのゴミしか残っていない。建造物自体が1950年代以降の物で川南工業が手掛けた建造物としては不自然、以上の点からこの変電所は川南工業との関連性が低い(※4)と思われる。
更に。
目の前を走る鉄道、「松浦鉄道西九州線」。戦前から存在するこの鉄道の最寄り駅の表記は「浦ノ崎駅」、戦後設置された「西肥バス」の路線上に今でも残る最寄停留所の表記「浦の崎変電所前」。「浦ノ崎」と「浦の崎」、この意味と時代背景による表記の相違。オマケとして鉄道関係の変電所には必ず設置されているディスコン棒のアナウンス表記、うむ…これは。
これらの情報から導き出されるのは川南工業とは何の関係も無い鉄道関連の変電施設なのではと言う事、時代背景や残留物、位置関係や諸々の表記がそれを裏付けている。つまり…
ってトコまで考えたがそれ以上の物的証拠なし。
これ以降は改めて佐賀県や今回の考察で出て来た鉄道会社やバス会社にメールで問い合わせた、回答が集まり次第更に確証を得た上で追記したいと思う。
中途半端で御免なさい、公開しても後悔はしねぇ。
※ 重要 ※ 2014年01月に読者さんから有力な情報を頂き、注意書きで訂正を行いました。
※1:電力会社(現・九州電力)からの認可は1935年に下りており、電力関係の建造物建設に関する申請は前年の1934年に行われていました。「労働基準法適用事業場」としては法律運用後に適用された事が確認されています。
※2:大きな立替工事と2度の改修工事が記録として出て来ました、最後の改修工事に凡その以前の関連道具は撤去されていますが1974年の運用終了時の撤収作業時にほぼ全ての関連機器が撤去されました。よって残留物は1974年以降の物と成る訳です。
※3:立替の為、変電施設は1935年(申請及び認可日からすると同年に運用開始が予想される)から建設されていたものの1950年代以降の立替工事で現在の姿に成ったと思われる。
※4:これに関しては2012年の追加情報で関連施設だった事が判明しています。
これら注釈をまとめると最初期の予想と検証が全くの的外れだった事が解りました、お読み頂いた読者様には大変ご迷惑をお掛けしました。また有力な情報を提供して頂いた長崎県のK様においては感謝の言葉が尽きません、本当に有難う御座いました。
2012.03.27 - 追加情報追記 (※2014年の情報提供前の追加エントリーです)
冒頭でも書いた様に関係各所に送っていた「この変電施設に関する詳細」の回答が出揃った、最有力だった「伊万里市総務部情報広報課」様からの回答を中心にこの変電施設が何で在ったか、それをお伝えしよう。
まず最初にお詫びしたい、ウチで散々ばら推測した「鉄道関係の変電施設ではないだろうか」の部分に関しては惨敗、つまり鉄道関係では在りませんでした。付近の鉄道企業とこの変電施設は全く関係なく、松浦鉄道西九州線に関わった全ての社歴にも記されてはいなかった。
と、言うかですね。まあぶっちゃけてしまうとですね…行政曰く、
「山代町史にも関連文献にもこの変電施設に関する資料が残っておりません」
ってのが結論。アレコレと推測して来たのだけど軍需指定された建造物では無かった事は判明している、って事はやっぱり「川南造船所」とは関係ないのか…?
それが、そうだとも言い切れなく成って来ました。
付近の「変電施設を必要と予想される企業、もしくは過去に存在した企業」を洗ったのだけどどう考えても「川南造船所」しか当て嵌まらないのだ。ガラス製造工場だった頃には変電施設を必要とする電力は供給されてはいなかった、ありゃりゃ…やっぱりコイツは軍需指定されなかった軍需遺構。つまりは「川南造船所」に電力を変電、供給していたのかなぁ?って結果に。
いやいやいや、だったらオカシイだろ。労働基準局の看板や、建築方法に関する時代背景の矛盾点はどう説明すれば良いんだ?って事で今回は別の角度から攻めてみた(※1)。
川南造船所の解体、この解体には沢山の企業と地元の利権者、そして資料製の高い建造部分を保存する為に参加した大学関係者が存在する。諸事情で伏せる事に成ったのだけどこの部分保存に関係した大学の協力を得る事が出来た、しかしそこでもやはり資料は発見出来ず。なのだけど当時の軍需稼動していた状況から付近の電力供給量、そして造船作業に必要な電力の出力などを元にこの変電施設が何なのか。これを予測して頂いた、全くと言って資料が無かったのでこの予測を掲載する為に地元の方の聞き込みを同時期に行っている。
最終予測(某大学予測+地元民から聞き込み)
この変電施設「浦の崎変電所跡」はガラス製造工場から軍需稼動用に造船所として転用され、工場本来の電力設備では造船作業に支障在りと判断された後に建築された川南造船所用の電力の変電、供給施設なのではないか。それを裏付ける様に造船所稼動当時付近では電力不足により停電が頻発、しかし何故かその停電が起こらなく成る(※2)。この時に建設された事を裏付ける証言が取れれば間違いないのだけど…、しかし地元電力関連企業でこの変電施設を利用した記録は皆無。
また一般公開されていない当時の造船所の概観写真、この写真になんと山向こうから電柱を介して伸びる電線が写ってるじゃないですか。建築当初の写真には無いのだけれど軍需稼動している最中の写真にはこの電柱と電線がシロクロながらシッカリと写り込んでいる。
よって「浦の崎変電所は川南造船所用の電力の変電、供給施設」、これが最有力の説としてこの調査を終えたい。…って、あれ?んんん?こりゃあ…
最初の噂「造船所の電力を変電していた」で合ってるじゃん…
※ 重要 ※ 2014年01月に読者さんから有力な情報を頂き、注意書きで訂正を行いました。
※1:電力会社(現・九州電力)からの認可は1935年に下りており、電力関係の建造物建設に関する申請は前年の1934年に行われていました。「労働基準法適用事業場」としては法律運用後に適用された事が確認されています。
重ねて記載しますが大きな立替工事と2度の改修工事が記録として出て来ています、変電施設は1935年(申請及び認可日からすると同年に運用開始が予想される)から建設されていたものの1950年代以降の立替工事で現在の姿に成ったと思われます。また当初は周辺の家庭や鉄道関連施設に送電していた様です。
※2:送電技術が向上し、別の変電施設からの電力供給が可能に。よって浦の崎変電所は造船所へその全ての変電能力を注げる事に、これで周辺一般家庭の電力細くと軍需工場としての機能が損なわれなかった理由が解った。
結論、当ブログの調査能力の低さを露呈したエントリーだった…と言う事です。結局はその事実をしる読者様からの情報提供が無ければこの”答え”に辿り着けなかった訳ですし、今後の課題として歴史検証のルート開拓を一層強化していきたいと実感した物件でした。
アプローチ
国道204号線沿い、松浦西九州線浦ノ崎駅から徒歩5分~10分の距離に在ります。本当に道路沿いなので直ぐに解ります、夜間では街灯が無い為に解り辛いかもしれません。
地図リンク
https://goo.gl/maps/L6Bou
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