秋田県│尾去沢鉱山跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 三菱金属鉱業株式会社 尾去沢鉱山跡(鹿角鉱山地域)
東北三大鉱山の中で一番古い歴史が残る尾去沢鉱山跡、鉱山発見当時~近代史に至るまでの資料が全て発見されていない事から正しい血筋を辿る事が出来ないでいる珍しい鉱山史跡だ。
時代毎に管理運営・出荷の目的などが右往左往した上、国政にも翻弄された一面も合わせながら東北財政をも変動させた影響力がずば抜けた鉱山だった。
今回の東北遠征でこの尾去沢鉱山跡を含む三大鉱山を見て来たのだけどこの尾去沢鉱山跡だけレポートが遅れてしまった(エントリーではなくて執筆的な)、歴史を紐解くと余りに長過ぎるので途中で放棄してしまったが掻い摘んで纏めるのに少々時間が掛かりましてね…しかしレポート内容は以外と短いと言う。
それではザックリとでは在りますが尾去沢鉱山跡、レポートを始めたいと思います。今までの東北三大鉱山関連エントリーは下記からどうぞ。
最初に言ってしまうとこの廃墟には余り廃墟美を感じる事が出来なかった、訪れた方は知っていると思うけどこの尾去沢鉱山跡は滅茶苦茶デカイ物件だ。しかもそれなりに見所も随所に在る、シックナーや煙突をはじめ沢山の遺構が広い敷地内に点在している。
しかし。
一言で言うと色味が少ない、遺構内の雰囲気は良いのだけど外観にイマイチ色味が足りないと言うか。実際この廃墟での撮影時間も撮影枚数も東北三鉱山では一番少ない、と言うかどうしても興味が持てなかった。歴史は長く、そして調べれば調べる程その歴史に垣間見れる物語は魅かれる要素が満載だ。
でもでもでも、どうしても撮影意欲が。
掲載枚数も少ないのでいつもの歴史や詳細に関する説明も大分ザックリに成るけど紹介していきましょう、長坂金山尾去沢鉱山跡のレポート開始です。
小雨の中に晴れ間が覗く変化が著しい天候の中で撮影を開始した、鉱山系の廃墟は幾つも廻ったけどココは建造物こそ中堅の規模だけど敷地は鬼の様に広い。
選鉱場跡の有名なアングル、この時点で飽きてしまっていた。まあでも折角来たのだからと少々探索する。
この選鉱場跡の奥には精練所跡、裏手の山斜面には煙突が残っています。
廃墟手前には「史跡・尾去沢鉱山(マインランド尾去沢)」が年中無休で運営されていて尾去沢鉱山の歴史を説明したコンテンツが公開されています、興味の在る方は下記リンクよりご確認下さい。
名称:史跡・尾去沢鉱山
郵便:〒018-5202
住所:秋田県鹿角市尾去沢字獅子沢13-5
電話:0186-22-0123
問合:info@osarizawa.jp
確認:http://www.osarizawa.jp
photograph:+10
この鉱山の歴史は非常に長い、近年史だけでも他の鉱山より長いっちゅーのに発見後表舞台に出たのが708年(発見はもっと古いと言う説も在るのです)と言うのだからもう。
取り合えず近年の歴史を掲載しよう。
1868年 南部藩は、鍵屋茂兵衛に採掘権を委任する。
1872年 大蔵省が没収、その後岡田兵蔵、更に東京府鉱業会社の経営に移る。
1874年 岡田兵馬が借地稼行する。
1889年 岩崎家の稼業となる。反射炉を設置。
1893年 三菱合資会社の経営となる。
1893年 薪木燃料火力発電所設置、坑内ポンプ、巻揚機に電力使用。
1894年 田郡大切坑内に電気巻揚機を設置。構所内に電話、電灯を設置。
1896年 水力発電所の建設に伴い東北地方で最初の全山電化を行う。
1916年 巻揚機より出火、選鉱場全焼。
1917年 浮遊選鉱法による最新式選鉱場を新設。
1936年 中沢鉱滓ダム決壊、死者374名の大災害発生。
1940年 月粗鉱7万トン処理の増産起業を行う。
1943年 超非常時増産態勢で月産10万トン、従業員4486名と最高を記録。
1950年 財閥解体に伴い太平鉱業(株)の経営となる。
1952年 社名を三菱金属鉱業(株)に改名。
1953年 集約排水坑道として太平坑(延長2,725m)完成。
1966年 製錬部門廃止。74年の歴史を閉じる。
1968年 品位低下と銅価格低迷のため操業規模縮小。
1972年 三菱金属鉱業(株)より分離し尾去沢鉱山(株)となる。
1978年 銅価格の低迷と鉱石の枯渇により閉山。
既述した年表の中、1872年の「大蔵省が没収」の項目。所謂「尾去沢銅山事件」というやつだ。結構有名な話なのでご存知の方も多いと思う、この顛末が中々泥臭くて調べてみると面白い。概略をウィキから引用するので興味が出たら各々調べてみて欲しい。
尾去沢銅山事件
江戸末期、財政危機にあった南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は藩から商人たる鍵屋茂兵衛に貸し付けた文面に形式上はなっていた。
1869年(明治元年)採掘権は南部藩から鍵屋茂兵衛に移されたが、諸藩の外債返済の処理を行っていた明治新政府で大蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨は、1871年(明治4年)にこの証文を元に返済を求め、その不能をもって大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえ、鍵屋茂兵衛は破産に至った。
井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを買い取らせた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。
鍵屋茂兵衛は司法省に一件を訴え出、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。これを尾去沢銅山事件という。
尾去沢銅山事件 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b0%be%e5%8e%bb%e6%b2%a2%e9%89%b1%e5%b1%b1
1966年、折からのエネルギー源転化(化石燃料への転化)で全国の鉱山の運営が危ぶまれていた時代。技術的にも時代遅れと成った精練所が停止、共に製錬部門も廃止された。
1972年、三菱金属鉱業株式会社はこの鉱山の閉山を内部決定。計画的に規模を縮小させていく、鉱山企業を独立させて母体への経営負担を軽減する為に同年尾去沢鉱山株式会社と言う倒産が決められた会社を分離設立。
1878年、鉱山企業としての残務を大方終えたとして閉山。産出鋼材の価格低迷や資源の枯渇と銘打ったが所詮は鉱山文化終焉の流れに身を投じた形だった。一時は非常勤鉱夫を入れると5000人近かった従業員も新会社設立時には400人弱に縮小、切り開いた坑道は800キロにも及び、1200年続いた鉱山の歴史に終止符を打った。
アプローチ
東北道鹿角市八幡平ICを降りて国道282号線へ、北上して暫くすると舟場交差点が見えてくるので左折。県道66号線に折れクランクを県道沿いに走ると「史跡・尾去沢鉱山」が看板が見えるので左折。施設奥に鉱山跡が残る。
地図リンク
https://goo.gl/maps/HRTPM
photograph - nee
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