栃木県│熊の木小学校西高原分校
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 塩谷町立熊の木小学校西高原分校
2012.12.23 - 関係者から当時のお話お聞きしました、最後尾に追記。
夏場って意外と廃墟の写真が撮り辛い、何せブッシュが酷くて目的地に辿り着けない場合も在るし建物が緑に覆われて撮影する対照として魅力が隠されてしまう事も。廃墟と緑って綺麗なのだけど余りに自然の侵食を受けてしまうと勿体無い事に、まあそれに夏場はヒルやヘビ、その他の虫にも攻撃されるし大変なのです。
そんなのはビッグなお世話だ、と言う屈強な廃カーさんの写真はそれはそれは綺麗なのですけども。
さて、以前ご紹介した廃校を覚えているだろうか。
同じ栃木県内で場所もそれ程遠くないからセットで行くのもアリかと、場所は後の地図リンクでどうぞ。
時、既にお寿司。来るのが遅過ぎた、覆われてるよモッサリと。それでも間近で見られた感動は大きい、この廃校は廃校さんでさえ余り有名では無いらしく、ウェブ上の廃墟仲間でも2人ほどしか知る者がいなかった。また廃校に成ったのが1975年と近隣地区では結構時間が経過していて覚えている方も少なくなった事も起因しているのかもしれない。
行程側から正面を撮影、駄目だコレ。石垣に植樹された植木達に阻まれて折角の校舎が写せない、それでも雰囲気でだけでもと思って色々な角度から撮影はした。
この場所、そもそも見つけるのが面倒な立地条件。現在は不定期で地元公民館として使用もされているらしいのだけど肝心の地元の方もどの様に運営されていてしかも使用されているのか殆ど知らない始末、本当に現在も使われているのだろうか。
窓などは施錠されていて勿論正面口にもシッカリと鍵は掛かっていた。
これが一番この校舎を広く写せた写真だった、ガラスの割れも無くて管理はされていそう。
帰宅後にこの学校の歴史を調べてみたのだけど情報が少なくて記載できる事が無いのが残念、廃校後に統合された小学校でさえ2000年を前にして廃校していた。
裏手に回るとトイレの別舎、給仕関係の物置と倉庫が在った。緑の侵食が目立ったけど此方も管理されているのかも知れない、特に人的破損が在る様には見えなかった。
水は通ってないから使用はされて無いのだろうな。
最後に校庭と遊具を撮影、校庭内は茂っちゃってヒルのパラダイスでした。アチコチでうねうね、にょろにょろ。
遊具は錆が進んで自然に帰ろうとしておりました、んでも綺麗だなぁ。この廃校、なんで注目されないんだろう…綺麗だし人的被害も受けてないしかなりの良物件の筈なのだけど。
もし来る事が在ればゆっくり見て欲しい、一見狭い様に見えるけどこの学校の敷地自体は実は広い。樹や土地の形状に騙され易いけど校庭は全部で3つ程、関連建造物は5舎以上在る。是非時間に余裕を持って訪れて欲しい、因みにココに向かう途中の私道は完全な個人所有の土地内に在ります。またこの廃校の先には一般住宅と畑が在って人も居ますので不審者と思われない様にご注意下さいませ。
2012.12.23 - 追記 運用当時の関係者さんからお話をお聞きしました。
当ブログの中では比較的簡素なレポートだったこのエントリー、見返してみれば成る程…全くとこの廃校の歴史などを掲載していなかった。と、言うのも掲載当時は別件の大型物件のエントリーが目白押しだった事やこの廃校自体に然程の興味が無かった事なども影響していた。
そんなイージーレポートでもテキストリッチがお好みな読者さんから是非この廃校の詳細が知りたいと問い合わせを貰う事数件、それならと久し振りに調査内容を掘り起こしてみた。以外と掲載していない内容も含めて新たに各方面に協力を求めると何ともタイミング良く素晴らしいお話を聞く事が出来た。
この分校が運用当時に地域ボランティアで遊具などを設置した関係者からのお話だ、数十年前なので記憶も曖昧らしいが貴重な内容のお話を聞けたので追加掲載したいと思う。今回も行政の担当さんと地域ボランティアのNPO代表さんに色々とご協力頂けたのは幸いでした、地域復興の企画などでこの廃校が使用される時はカメラマンとしてお呼び頂けるとの事、お仕事まで頂いてなんとも嬉しいばかり。
それでは追加エントリーを少々ながら記載したいと思う。
まずはこの「熊の木小学校西高原分校」の歴史を辿ろう。正式名称を「塩谷町立熊ノ木小学校 西高原分校」と言う、正しい表記は「熊ノ木」なのね。
1889年に「玉生村」、「船生村」、「大宮村」が成立、それまでは別称で集落単位の呼称だった様だ。1957年に上記3村が合併して「塩谷村」と成る。戦後の人口増加と都市部復興の人員が周辺地域に増加した事により1965年の町制施行と共に「塩谷町」と改称、以降1985年までは人口の増加もしくは極小さな増減で水位する。当然子供の比率も増え、既に開校していた「塩谷町立熊ノ木小学校」から分校として山中に小学校を設立する事に。ここから僅かながら山村教育を育んだ「塩谷村立熊ノ木小学校西高原分校」の歴史が始まります。
1957年 塩谷村立熊ノ木小学校西高原分校 開校
1965年 町制施行により「塩谷町立」へ改称
1975年 地域の子供の人口比率が低下した事で塩谷町立熊ノ木小学校へ統合(分校は廃校)
1999年 人口減少に伴い塩谷町立玉生小学校へ統合(熊ノ木小学校は廃校)
たった4行の歴史、しかも分校としては18年間しか運用されなかった訳だ。当時は本校の塩谷町立熊ノ木小学校から教師が1人赴任し、校舎手前の小さな教員宿舎に居住して職務に当たっていたそうだ。試行錯誤した上でこの過疎化した山中少人数教育が残した功績は大きい、実はこの学校が廃校されてもなお卒業生や関係者が協力して地元のNPO団体として活動されている。
特定非営利活動法人塩谷町旧熊ノ木小学校管理組合
http://kumanoki.or.jp/index.htm
現在は「星ふる学校・くまの木」と名打って地域ボランティアと中心とした多くの企画、活動を行われている。地域の歴史に関してもより深く知る切っ掛けとして地域の住民でなくても参加してみるのも面白いだろう。
さて、別のルートからこの分校が運用されていた当時に地域ボランティアとして遊具の設置や夜間宿泊学校(別地域の学校生徒を招いて校内に宿泊して相互意見の取り入れや文化交流などが行われていた)などの活動に参加されていた方にお話を聞く事が出来た。
当時は既に子供が減少傾向に在って山中での少人数教育に関しては行政、教師は元より生徒自身が一番「人が少ない」事を実感していた。少しでも子供達の楽しみの一つに成ればと行程の遊具増設を手伝ったり廃タイヤなどを活用してタイヤ飛びを作ったり、夏季には林間学校の様な宿泊学習も行って他地域の子供と交流も行った。
先生は数年おきに本校(熊ノ木小学校)から派遣されていて生活の道具や周辺の説明なども地域住民が率先して協力していた、一緒に食事をしたり時には授業の手伝いをする事も在った。廃校してから一部の教師や生徒と交流が在ったが今は流石に40年近く経過しているので誰も解らない、地域のボランティア(呼称が無かったのですが恐らく「塩谷町旧熊ノ木小学校管理組合」だと思います)さんが今でも関係者とお付き合いが在るそうで。
当時の話ならそちらの方面の方が詳しく聞けると思う。
本当に有難う御座いました、大変貴重なお話でした。実はこの地域には別にも類似するNPO団体さんが活動されています、何れ双方のNPO団体の聞き取りを纏めて追加エントリー出来ればと考えております。
短い内容ですが今回は以上です。
アプローチ
県道63号沿いに進入路が在りますが本当に見つけ辛いです、もしナビが在れば塩谷町内で「高原公民館」で検索して出れば楽でしょう。地図リンクを参考に見つけて下さい、説明し辛い場所なんです、ホント。
photograph - nee