静岡県│未完成ループ橋(赤沢八幡野連絡橋)- 廃道 前編
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤沢八幡野連絡橋/八幡野開発工事連絡路
謎が多い通称伊豆のループ橋、未完成ループ橋などとも呼ばれているがその実は八幡野地区の別荘開発の為に建設された工事車両道路。八幡野の開発が終了すれば一般道として使用された可能性も在るけれど今と成っては確認の方法がない。
前回は余り知られていないこの廃橋のレポートをお伝えしたのだけれど「赤沢八幡野連絡橋」と言う名称が以外と認知されて驚いた、まあそれは良いとしてまずはお浚いとして前回のレポートを見て頂きたい。
※ 今回のエントリーを読むにあたり、前回のエントリーは是非お読み下さい。
今回のエントリーは前回の情報の未完全な部分の検証、追加調査の報告です。このエントリーだけだと理解しきれない箇所が在ると思います。
簡単に纏めると1973年から計画されていた八幡野の山間部開発、この場所に5区画に分けられた別荘地を建設する為に山間部への連絡橋を設置。当初は赤沢地区からの工事が予定されていたが地域住民の反対に合い、八幡野の調整区域から新規で連絡橋を設置して開発計画は進められた。実際に橋は完成し、多くの工事車両が八幡野の山間部へ行き来している。
1978年に開発業者が倒産、その後開発区画と共にこの連絡橋も破棄された。その後連絡橋入口が簡易封鎖され、1990年代(1993年の崩壊以降)には一部の解体作業と周囲の囲い込み鉄柵を設置。現在に至るのだが行政が1993年に廃橋の崩落の確認を発表した事で多くの人にこの廃橋の存在が知れる事に成る、諸説在るが地元住民の話を纏めると1980年代に入ってから自然崩壊した様だ。
よく語られる「伊豆半島沖地震で崩壊」なんて話、まだ橋出来てないし。そもそも開通したのが1976年なのにどうやって完成前の橋が崩落するのかと、…って言いながら崩落の正確な時期は調査しても解らなかったのはとても残念。
そして今回。
いよいよ皆様にこの廃橋の先の「開発途中で閉ざされてしまった廃道」をご紹介する、エントリーまでに2年余り掛かったのは途中忘れてたり房総の「間滝」に心を奪われていたりとか言い訳はしない。
開発が進められていた1974年から約3年間、通常の開発と違い山間部の土地造成はとても難しい。連絡道の整備や土地の造成(再度根が張らない様に樹根を綺麗に掘り出すのも大変な手間だと言う事です)、開発資材の搬入。しかしその3年間に開発が進められていたという事はだ、この先に確実に道が在る事を示唆する。
廃道歴としては30年そこそこの新しい道とも言えなくも無いけど廃橋ばかりに目が行く様で少々勿体無い、そこで今回は歴史検証も兼ねてこの廃道を実際に歩いてみた。そしてそこには確かに開発の痕跡が残っていて更に新たな謎も浮かび上がります、そんな仰々しい前振りだけれど実際は廃道歩いただけなんですがね。
それでは追加情報や行政の協力で判明した新しい事実などを踏まえてレポートを開始しましょう。
今回もお邪魔しますよ、この廃橋さん。ずっと「伊豆の廃ループ橋」として知られていたけれど2011年のエントリーで橋名を明らかにしてからは「赤沢八幡野連絡橋」の固有名詞も随分と浸透してきた、代名詞じゃあ可哀想だしねぇ。
取り敢えずは登りましょうか、上がるのではなくて「登る」んです。
あらやだ、歳かしら
するすると登って行く相棒だがこっちは身体が重い、ウチ帰って猫抱いて寝たい。
崩壊してズレ落ちた廃橋の一部区間、この部分は初の来訪からずっと登って見たかったのです。出来れば山間部に残るジョイントも確認したかったですし、んでいつもの「割橋」の装備でちょっくら登攀です。
剥き出しに成った鉄骨は意外と脆くて何よりこの傾斜、写真じゃ伝わらないけれど兎に角重力がこれでもかって地面に引き寄せる、セーフティには10mmのカーンマントルとストランドを更に三網した自作帯を併用して登攀して行く。
登っていて気づいた事があった、この折れた部分は山の斜面に寄り掛かって入るのだけれど先端は橋柱ジョイントが地面に突き刺さっている状態。つまり意外とバランスが良くないのだ、しかも先端部分は本来の廃道部分と接地しておらず大きくズレ込んでいる。
ちがう!考えてたのと違う!
よって登りきった場所から廃道が見える筈も確認する事も出来ず、この部分からのアプローチはどうやら不発だった様だ。いや、ね。元々はただ登りたかっただけなんですよ、だから満足なんですよ。
当初は相棒を登頂させてコッチは廃橋へ回り込んで”やったー(?)”の写真が撮りたかったけど面倒なのでやめました、暑いんだもの。
ごめりんこ(^ _-)☆
さて、まずは「折れた箇所で遊ぶ」って自己満足を無事終えたので廃橋を2年振りに確認してみますか。話では自然の侵食が更に進んでE感じらしいのでちょろりと期待。
あー、前回は5月だったけど今回は盛緑の時期に合わせたからモッサモサやな。こりゃー藪漕ぎもキツそうだ、やだなー。
さて、いつもは折り返し地点の廃橋崩落の先端部分。ジョイント部分を良く見ると綺麗に剥離しているのが解った、これ本当に自然崩壊したのかって位に綺麗。崩落時期は行政さんでも机上調査でも周辺地域の資料を探してもやはり解らない、コレだけ大規模な崩落なら廃道(廃橋)だったとしても地元のニュースに取り上げられてもおかしくは無い筈なんだよなぁ。
廃橋に成った経緯は前回のレポートを参照して頂くとして、まず疑問に思うのは、
・いつ崩落したのか
・何故そのニュースソースが無いのか
崩落に関する疑問はこの2点と成る、まずはこの2点の疑問に焦点を当ててみよう。前回でも記述したが行政としては「1993年に崩落の確認をした」のみで崩落に関する調査資料は残されていない、と言うより行政として崩落に関する調査は行われていない。そしてこれには理由が在った。
崩落当時、この場所は予定されていた別荘地を手掛ける不動産会社とは別の企業が所有していた。崩落前に別荘地開発の不動産会社は倒産しており、資産管財企業がこの土地を管理(放置)していた事に成る。行政としは企業が所有する敷地内の私設道路(工事車両運用道路として登録されていたので)の崩落に手が出せる訳も無く、またこの時点で開発中止から随分と時間が経過していた事も相まって正確な調査は行われなかった様だ。
この辺に関しては伊豆の不動産業者の協力を得て更に詳しく調べて見た。
国内で山間部の開発が目立つ様に成った1970年代、リゾートやゴルフ場建設で伊豆半島も開発の波に乗り、半島のあちらこちらで開発が始まる。そしてこの八幡野山中の別荘地開発も1973年に企画され1974年に開始する訳なのだが…。
時を同じくして1974年、山間部の土地開発に関する法律が改正された。森林法改正の際に山間部における開発事業の法律を新たに設置、それが「林地開発許可制度」だ。大規模土地開発事業が活発に成るにつれて法改正や細かな条約文などの見直しが国に求められる様に成って来た時期と成る、実はこれがこの「八幡野別荘地開発」に影を落とし始め、その後の開発中止のトリガーと噂される様に成るのは開発が開始してからの話。
開発許可制度 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e9%96%8b%e7%99%ba%e8%a8%b1%e5%8f%af%e5%88%b6%e5%ba%a6
林地開発許可制度 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%9e%97%e5%9c%b0%e9%96%8b%e7%99%ba%e8%a8%b1%e5%8f%af%e5%88%b6%e5%ba%a6
直ぐ近くの赤沢別荘地を成功モデルとして隣接する山間部の開発に着手した県内の不動産会社だったが工事車両の通行を赤沢別荘地の住人に反対される、そこで八幡野の私道から山間部へ抜ける仮説橋を立案。これが後の「赤沢八幡野連絡橋」だ。しかしこの立案時期が記述の法改正の前だった事や事業拡大の為の資金不足、工期の短縮から当時の橋梁整備手順を踏んで居なかったのではいかと地元建築業者(現存する伊東市の建築会社)の一部は指摘する。
この指摘が事実ならば違法な建築基準不足の橋を製作したのだ、この実態は現地に行った者なら直ぐにでも理解出来るだろう。あの歪な橋のネジレはこの様な理由が在った訳だ、が…確かな情報源が今と成っては得る事が出来ない為に確証を持ってお伝え出来ない事に関してはお詫びする。
この指摘は当時からあったものの随分と後に周知するに至る、勿論当時この橋の建設に関わった建設業者も知る所ではない。開発が中止され、1993年前後と予想される崩落当時においても薄広な情報だった。結果、その崩落当時に所有していた不動産業者がこの場所を放置していたのもこの様な理由が在った為で行政に知られる訳には行かなかった事に成る。
またこのニュースと言うか指摘が公にされない理由も判明している、詳細は控えるが実はこの土地の再開発の話が伊東市の企業意外にも持ち上がっていた事に起因する。つまり、「行政としては収入源(開発・観光・税収)と成る場所←→不動産業者としては土地を転売したい」の様に相互の思惑が一時期だとしても一致していた事、これが一番の理由だろう。いや、他にも色々と細かくは在るのだけれどね、うん。
そしてこの違法(全ての基準に適合していない)な工事はこの橋だけに留まらず、開発区画全域に飛び火していた事もその後の調査で明らかに成る。断っておくのだけれど当時この橋を担当した企業が率先してこの様な工事をした訳ではない。開発を企画した不動産会社が主導で図面が引かれ、法改正の時期と着工が被ってしまったが為に結果的に基準不足と成った恐れも在るって事。
また橋の工事と道路の工事、開発区画の工事などには複数の企業が名を連ねている。一部の廃墟系サイトでは崩落部分に記載されている建設会社”「池田建設」がこの開発を主導した”とか”「池田建設」の倒産によって開発が中断された”など勝手な憶測で纏められている情報を目にするが全くのデマ、この企業は橋の工事に名を連ねた企業の一つであってこの八幡野別荘区画開発を主導した訳でもない。そして倒産もしてはいない現役の企業だと言う事を付け加えておこう。
開発区画に関するこれらの件については廃道パートで再度詳しく語ろうと思う。
※ 複雑な経緯なので最後尾にて年表を掲載します
崩落したジョイント部分から廃道入り口を望む、うーん…道らしき物は見えるけれど、どうだろうか。この橋と道が一続きに成っていた当時の写真を参照するとこの先で大きく右折して山間部を登る様に見える、下部からアプローチするにはブッシュで時期も悪い。
どうしたものか。
恐らくはこんな感じで続いていた筈なんだよなぁ。右側斜面は冬季ならフックもステップも目立って登攀出来そう、この時期は背負ったバックパックが枝やブッシュに邪魔されて滑落の危険が在るからやはりアプローチは諦めるしかないか。
と、成ると付近の山間部からGPSを頼りに廃道へ直接ぶっ込むしかなさそうだ。写真の為にこの時期を選んだけど廃道を確認する事に関しては間逆の冬季にすべきだったかもなぁ。
さーて、折角だから降りてみるかねぇこの柱。高さもそれ程ないしビレイ取れば余裕のよっちゃんイカでしょ…そう考えていた時期が私にも在りました。
この柱、兎に角ツルツル。履いているフットギアはファイブテンの沢シューズ、これナメに強くてシャワークライムや比較的傾斜がキツイ岩場もツルりといかないナイスガイ。
しかし、そうはイカのキ○タマだったのです。
まあ、やるだけやってみる事にしよう。
この場所の写真は見た事ないなぁ、リブを伝って向こうまで行くってのも面白うだが時間がないなぁ。
面倒なのでビレイ役を買って出て相棒に降りる様に指示、アンタ身体軽いから大丈夫でしょ。ステップテンション取れなかったらパワフリャーに引っ張り上げてやろう、だから行け。
5分位アレコレ試行錯誤してる様だが既に姿が見えない、が。
変態だー!!
絶叫にびっくりしてザイルを引くと普通に相棒が顔を出した。
「なに、どうしたの今」
「あ、山に来たんで叫んでみたんですよ」ニカッ
まじなんなのアンタ。
それでは本格的にこの未開発区間(開発が中断した廃道)をご紹介して行きましょう。
と、行きたい所で3度目の悪夢。八坂(三ッ沢集落)、大山祇神社と引き続き文字数制限のアウトを喰らってしまいました。って事でキリの良いこの辺で前後編に分割エントリーとしたいと思います、通しで読みたかった方には本当に申し訳ないです。
と、言っても明日には後半のエントリーをアップ致しますので是非お読み下さい。
それでは本日は以上と成ります、後半リンクは上記よりどうぞ。
アプローチ
国道135号線から伊豆急行線の陸橋から八幡野住宅街に枝を折れます、赤沢住宅街へ向う途中、この枝の道路途中に廃橋が見える筈です。
地図リンク
http://yahoo.jp/U-SiYx
photograph - nee