栃木県│愛宕下地区
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 愛宕下地区
※ 2010年10月迄に防火壁以外の全ての住宅跡が解体されました、現在は更地と成っています。
足尾銅山で最大級の居住区だった愛宕下地区、実は過疎化しているものの現在でもこの地区にお住まいの方が居る。今回は早朝の訪問でこっそりと写真を撮りに行って来た。
同じ居住区では「深沢地区」が人気だがコチラもとても素晴らしい廃具合で沢山の廃屋が残されている、アナウンスボードから抜粋してこの地区がどの様なものか説明しよう。
江戸時代の愛宕下は赤倉村字「坂詰」という地名で農家が3戸あったが、1887年に松木から起った山火事で消失し、以後草っ原となっていた。その後、足尾銅山の社宅地として開発され、始め1897年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人の飯場が建てられたが、工事が終わると撤去された。
次いで1907年代になると対岸の製錬所の社宅14棟(1棟7戸建)が建ち「赤長屋」と呼ばれるようになり、1921年に久蔵の社宅がこの地に移されるなどの変遷を経て増大した。戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから「愛宕下」と呼ばれ、1956年には181世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により徐々に減少し、足尾銅山閉山時の1973年には110世帯377人、足尾製錬株式会社設立時の1987年には49世帯127人、1997年で13世帯24人が住むのみとなり過疎化が進んでいる。
設置されたアナウンスボードの歴史から更に10年以上が経過した今(2010年現在)、この居住区の人口はもっと減少している筈だ。
細長い舗装されたアスファルトも現在では風化が進み、車はもとより人の往来も殆ど無い事が伺える。倒壊家屋も在るがしっかりと中を観察出来る廃屋も在る、管理は全くされてない様だ。
時折聞く「元住民の方が訪れて掃除をしている」などの噂も現在では本当に噂と成ってしまった様だ、確かに地域住民の聞き取り調査では20年位前までは頻繁に人の出入りが在った様だけれど流石に当時住民だった専業労働者さんも生存している方は少なくなったそうだ。
中を覗くと廃度は大して高くは無かった、ちょっと整備すれば住めそうかな…そんな状態で現在も静かにこの廃集落は残っている。
photograph:ohwashi
家と家の隙間を縫う細い道が無数に張り巡らされている、ただ通る者は居ない。
この愛宕下地区の住民が多かった頃、銅山工場からの飛火で火事が多かったそうだ。その為にカラミ煉瓦製の防火壁が幾つも連なっている。住居の建設は1907年から開始されたが増設される住居に伴って防火壁も増えていき、最終的には5枚ほどが建造されたそうだ。
この防火壁、そもそもは工場からの飛火を防ぐ為の物ではなくて密集する住居観の間に建造して延焼を防ぐ為に作られていた、つまりは工場からの飛火自体は防ぐ事が出来なかったという事。これは労働者の命より工場の運営が優先された事の何よりの証明で事実、この火事に関する問題は時代を追う毎に表面化する事に成った。
因みに健在として使用されたカラミ、これは銅精錬する時に取り出される不純物(カラミ)。このカラミを型に流し込んで作った煉瓦で防火壁として利用した。
photograph:ohwashi
集落中央に位置した大きな屋敷、随分と朽ちていた。
実はこの愛宕下地区の文献を色々と探したのだけれどどの関連書物も簡略化された歴史と数点の白黒写真しか掲載されていなかった、民間の産業遺構のNPOさんに協力を求めたけれどそこから頂いた資料も大体似たり寄ったり。
個人的には「足尾銅山の専業労働者が集う最大の居住区」ってのが気に成っていたからもっと詳しく調査さたかったのだけれど残念、勿論人口の推移や旧道が記載された旧地図などは出て来たけれど当時の住民の生活模様が描かれた資料は結局入手出来なかった。
そして撮影した2010年と同年の10月、別途の取材で日光に赴いた時に寄った時には解体されていており、お話を伺った地域の方も留守だった為に追加取材は諦めたのでした。
photograph:ohwashi
エントリー公開当時は住民が残っていた為に不掲載だったリンクなどを掲載へち切り替えました、現地には何も残っていませんが関連遺構(防火壁など)は現存しているのでそれ目当てだとしても十分歴史的好奇心を満たしてくれる場所かと思います。
アプローチ
国道122号線を足尾方面へ下り県道250号線へ折れる、わたらせ渓谷線の間藤駅から少し進んで左側に愛宕下地区の入口が。現在は更地化されている。
地図リンク
photograph - nee
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