佐賀県│川南工業浦之崎造船所跡(伊万里川南造船所/伊万里造船所)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 川南工業浦之崎造船所跡(伊万里川南造船所/伊万里造船所)
※ 2011年11月から解体作業が開始され、翌年2012年の3月に更地と成りました。
※ 解体の模様を更地に成るまで追跡レポートしました、貴重な途中経過の様子をご確認下さい。
今回の九州への仕事、この場所へ来る為の口実でした。気軽に行ける距離じゃないこの場所へどうしても来たかった、来なくては成らなかった。廃墟系のサイトでこの物件を知ったのは随分と昔、ずっと恋焦がれてきた憧れの廃美物件へ行くどー。
通称・伊万里造船所として廃墟好きの方には良く知られている、この廃墟のバックストーリーは酷く泥臭いものなのだけれどそんな事はお構い無しに兎に角美しい。最後にこの廃墟の詳細を記載するので興味の在る方は是非読んで欲しい。
前日に場所だけ確認し、早朝にアタック。一緒に撮影する予定だった向山炭坑跡へ向う為の下調べで周囲の道も現地で迷う事なく敷地内を闊歩出来た。ここまで来たんだ、どうせならシャブリ尽くしてやんよ。
ほんじゃ行きますか。
こいつは、ふ る え る ぜ
この概観を目にした時点で既に心拍数は上昇し、眉毛は2、3本を残し全て抜け落ちた。スッカリとのぼせあがったボーイスカウトみたいな状態に成ってしまったが、奇しくも同時期に実センセイが九州公演(※1)に訪れていたのは鳥肌ものの偶然だろう。
※1 ホップステップ玉砕Tシャツ買いそびれました。
造船所跡を回り込む様に裏手へ歩く、この場所も写真で何度も見ていたしグーグルアースなどで何本かの経路を予想していたから迷う事無く進む。
航空写真を見て頂こう、廃墟から海側に何本ものコンクリート製の支柱が伸びている。現在この柱が海側に突出した位置に居る訳だ、ココからもう少し大きく回り込んで造船所内へ入る事にした。
何本も伸びるコンクリート製の支柱下に幾つか人が踏み均した道の様な物が見て取れる、コレも事前に知っていた。釣り人がこの道を抜けて海釣りへ向う為のものだ、その中から1本の道を選びモジャモジャの藪漕ぎが始まる。
しかし。こりゃスゲーな、ちょっと言葉に詰まる風景だわ。
ゴクリ…
こいつぁ上玉だぁ、緊張してきたぜぇ。川口隊長(田中信夫さんのナレーション込み)、僕に力を貸して下さい。
み・な・ぎ・っ・て・き・た
流石に軍需産業を支えた建築物だ、未だに根幹の部分は崩壊する様な感じは見受けられない。外壁の劣化は確認出来るけど人為的な解体作業を行わなければ問題ない強度だろう、工場などのコンクリート寿命は凡そ45年~50年と言われてるから建築技術的な観点で言えばそろそろ…ではある。
口からなんか出た。モツ(内臓)かな、モツ(内臓)だったら嫌だな。
こんな美しい廃墟、勿体無いよ壊すなんて。
そう、そうなんですよ、ココってば取り壊しが決定しちゃったのです。2010年2月23日、新聞各社にて報道された内容によると、
人間魚雷製造の川南造船所跡、伊万里市が撤去へ
戦時中に特攻兵器の「人間魚雷」を製造、廃虚となって残る伊万里市山代町の「川南工業浦之崎造船所」の建物が撤去される見通しとなった。市が緑地公園として整備するため、建物の買収費用などを新年度当初予算案に計上した。公園化計画を歓迎する声がある一方、昭和の歴史を刻む戦争遺跡として建物の保存・活用を望む意見もある。
川南工業は、富山県出身の実業家・川南豊作氏が創設。長崎県の香焼島(現在は長崎市)を拠点に造船会社などを経営した。
市教委発行の「伊万里ふるさと読本」によると、浦之崎造船所は1943年に軍需工場の指定を受け、輸送船や海防艦などを製造、火薬を積んで敵艦に体当たりするベニヤ板製の特攻艇もつくった。多いときは約2500人が働き、女子生徒や朝鮮半島出身者も動員した。
戦後も社名を変えて船の建造・修理を続けたが、55年に閉鎖。以後、ごみの不法投棄などが絶えず、地元の山代町開発促進協議会と同町区長会が昨年6月、跡地を緑地公園にするよう知事に要望していた。
造船所跡は約3万3000平方メートル、建物は鉄筋コンクリート2階建て約3100平方メートル。読本には「戦争に関係のあるものをつくっていたので米軍の攻撃目標になり機銃掃射を受けた。壁には弾の跡が生々しく残る」と記され、近年は「廃虚探訪マニア」の人気の場所になっている。
市は県の補助を受け、2010年度に現在の持ち主から建物を買い取り、11年度に撤去する方針。事業費は2か年度で計約2億1000万円。
地元からは「危険だし風紀上も問題」「地域衰退の象徴となっている」との声が上がるが、「貴重な戦争遺跡であると同時に近代産業遺産」「子どもたちが現代史を学ぶ場になる。平和教育の場としての活用も考えてほしい」と撤去を惜しむ意見もある。
川南氏は、61年の元軍人らによるクーデター計画「三無事件」の首謀者として逮捕された。同事件は破壊活動防止法が初めて適用されたことで知られる。
…などと報道された。
その後沢山の廃墟系サイトやブログでこのニュースは取り上げられ、「伊万里造船所終了のお知らせ」は多くの廃カーを震撼させた。僕自身もこのニュースが無ければ無理してでも来ようとはやはり考えなかった筈だ。
陽が昇って来たのだろうか、内部も幾分明るくなってきた様だ。これでやっとこさ光量を気にせず撮影に没頭出来る。
と、その時。歴史は動かずとも人影が動いた。
「誰かいるのー?」
おばちゃんの声が響く、僕は「誰も居ないでゲソ」とイカのフリをしてやりすごそうと思ったが観念し、
「ああ、写真撮ってるんですよ」
と、声の方へ返答する。藪の隙間から顔を出したおばちゃんは近所の方で心配そうに、
「危ないから早く出ておいでー、40秒で出ておいでー」
とナイスアドバイス。
お断りします。
少々お話を伺うと最近ココで楽器演奏したり夜中に騒ぐ輩が居るのだとか、そう言えば先程発見した焚き火跡と何か関係が在るのかも。
再び静寂が訪れ、改めて写真を撮り始める。小鳥の囀りとシャッター音の競演。僕は小鳥に「ちょっと黙って、気が散る」と注意した。
けしからん、どうかしてる。
個人的に廃墟って写真も撮るけれどその歴史とか関わった人達の逸話とか、そう言う部分に惹かれて興味を持ったのだけれどこの造船所跡はちょっとアレだな。美し過ぎる、御託無しにかっけーです。
見上げると青空が覗く、鬱蒼とした木々の合間から国道204号線を走る車が見える。道路を挟んだ松浦鉄道も既に何本かの電車が通り過ぎた。
直ぐそこには地元の人にとって何時もと変わらない日常が在る筈、しかしたかが数メートルの距離と半世紀以上以前の鉄筋コンクリートを隔てた世界には日常なんて言葉は存在しない。灰色と緑色が織り成すハーモニーはまるでリンゴと蜂蜜の様だった。
そう言えば以前この伊万里造船所を調べた時に2階から撮影された写真が在った事を思い出す、登ってみるとこれはまた下から撮るのとは別の素晴らしさが。
概観からこの廃墟を取り巻く状況の話へちょいとシフト。伊万里市は焼き物で有名ですね、そう伊万里焼。でも軍事関連遺構も実は結構な数残されていて文化財的な扱いが民間でされている物さえ存在する。この九州と言う土地は軍事遺構や産業遺構を共有文化財として保護、保存すると言う考えが実に上手く寝着き、機能している。
それは電波塔だったり島丸ごと炭坑跡だったり、そういった物を保存する素晴らしい考え方が民間と行政のどちらにも定着しているは全国でも珍しい筈だ。伊万里市は民間から挙がってきた「伊万里造船所保護の声」を検討しているのだとか、伊万里焼きの他にも有名な物が近々出来るかもしれません。
2回フロア部分、本来ならもう少しエクステンションされていた筈、階段やサルハシゴは既に無いので自力で上がるしか無いのだけれどこれから撮影に行かれるとしたら是非登って欲しいと思います。
そう言えばどっかのサイトで見た上に登る為のロープはあの樹に無かったですよ。
正直来た時期は正解だった、夏場ならモスキート地獄だったろうに。蚊なんて一匹も居なかったしそれなりに緑が残っていてくれてたし、それに所々紅葉しているのがまた何とも美しかった。
随分長い時間を掛けてキャッキャウフフした所為か足腰が痛い、ホント持病のヘルニアには早々に爆発して欲しい。
帰宅するまですっかり忘れていたのだけどこの場所、1988年10月号のアウトライダーに載っていた物件なのですよ。この廃墟を知るもっとずっと以前のお話、バイクに乗らない方、もしくはツーリングはしないライダーさんには馴染みが薄い雑誌、アウトライダー。休刊したり季刊に成ったり紆余曲折あって現在は隔月間として続いているバイク雑誌だ、そのアウトライダーに九州特集記事「黙示録 - 九州」が掲載されていてこの廃墟も取り上げられていたのだ。
そう言えば以前、このアウトライダー誌の伊万里造船所の記事について全く同じ事が書かれたサイトを見た事が在る、今回見つける事は出来なかったけど…。
機会が在れば是非、因みにアマゾンでもヤフオクでもこの号は見つける事が出来なかったですよ。
さて、実はこの伊万里造船所ですが。撮影は2回行っております、光量の問題で途中に抜け出してお隣の向山炭坑跡に一回浮気しました。
なので次回は向山炭坑跡をご紹介するのですがその前に、このとっても魅力的な廃墟のバックストーリーや現在に到るまでの歴史をお話したいと思います。興味の無い方は無理をせずに飛ばしておっけー、ココからがちょっと長いですから。
取り壊し決定の報道
エントリー途中でも書きましたが2010年2月23日、この川南工業株式会社浦之崎造船所跡の取り壊し撤去が決定したとの報道が流れました。報道の内容は「治安維持、安全不安、地域衰退の象徴」などこの廃墟の負のイメージを払拭したい地域住民の意見を反映したものでした。
YOMIURI ONKINE│読売新聞
http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/saga/20100304-OYS1T00181.htm
2010年3月4日報道
確かにこの廃墟の歴史は美しくは在りません、軍需遺構である事、またその内容が人権を無視した物で在った事…それらを知る地域住民がこの廃墟の存在を良しとしないのは当然の事でしょう。
実際今までも何度かこの廃墟の取り壊し計画は在ったのだ、では何故半世紀以上もこの間々の状態で放置されていたのか。それには簡単には説明出来ない、複雑な歴史が在ったのです。
川南工業株式会社浦之崎造船所跡の立地問題
この廃墟、退かそうにも簡単に退かせない理由が在った。その最大の理由とは立地と利権だ。この廃墟が在る土地、実は正確に言うと登記義務の無い土砂を含む広大な土地の上に建設されている。
元々土地ではない場所に堆積した土砂(本来埋め立てに使用する為の土砂でもない)に対して埋め立て許可が降りている土地を含む場所がこの問題を複雑なものにしている、埋立免許失効地の為に買収も出来ずにいた行政の苦悩を含めて説明しよう。
写真の中央付近、割合にして約9分の1程の土地が川南工業株式会社が買収した土地となる。ここでこの土地の利権が複雑化して行く事に成る、まず元々ガラス製造工場だった土地を買収したのだけど造船に必要な広さを確保する為、周囲の土地も一緒に購入。
しかし埋め立て候補地と既に埋め立てられた土地、土砂の廃棄までの間で仮置きしていた土地、流出した土砂によって一部陸地化した土地、この複数の土地がまたがる様に造成されてしまったのだ。この内「土砂が仮置きされた」部分、土砂流出による「陸地化した部分」は登記義務が無かった為に利権問題として後々尾を引く事に成る。
そもそも法律上、流出した土砂は陸地ではないので同様な利権問題が当時あったのかが疑問だ。この辺は調べたのだけどこの土地に関する詳細なデータは見つける事が出来なかった。
また埋め立て候補地と埋立地の権利者が一部の部分で重複したり違ったりした為に曖昧な間々時間が経過し、元々登記義務の無かった土地の所為で取り壊し計画が何度か頓挫する内に登記義務のあった土地部分の利権者と連絡が着かなくなったり亡くなってしまったりと行政も今回の決定に到るまで苦労した様だ。
その後利権問題に関して佐賀県の協力で伊万里市が決着を着け、土地買収に関しての問題はクリア。現在の問題点としてはこの土地の再利用なのだ、しかしコレがまた面倒くさい事態と成る。
この土地、先程も記述した通り複数の条件が重なって出来た土地だ。元々陸地でなかった場所さえ在る、しかもこの土地の向こう側には近年に成って埋め立てされた土地や防波路などが設備され、それらと共有出来る施設を建設しなければならない。限られたカテゴリでの施設立案、土地の安全性問題、地元民との折り合い(治安や渋滞など生活に関する問題)をまとめるのは伊万里市なのだ。
成る程、半世紀以上放置されるのも無理も無い話しかもしれない。関連する内容でちょっと面白いページ(※2)を見つけたのでURLを置いておく。
http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/report05/imari/kawanami.htm
※2 リンク先のテキストは保存しておく事をオススメします、貴重な内容です。
川南工業株式会社とはどんな会社だったか
川南工業株式会社はウィキにも掲載されている地元では有名な会社だった、と言うか戦争時中は当時民間大手だった三菱重工業長崎造船所に匹敵する建造量を誇る造船会社だったのだ。戦争関連の造船の他に有名な船として南極観測船「宗谷」を建造した事でも知られている。
南極観測船 - 宗谷
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%ae%97%e8%b0%b7_%28%e8%88%b9%29
20年程で大きく社革が変動した川南工業、株式会社として上場もするもその歴史は短く、軍需は大きな成功の元だった当時の経済と適合したかに見えたが早すぎる成長はまた、急速な衰退への始まりだった。
株式上場
東証
1949年5月16日 - 新規上場
1954年4月1日 - 上場廃止(銀行取引停止、契約違反)
大証
1949年5月16日 - 新規上場
1955年9月16日 - 上場廃止(破産宣告)
川南工業ウィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b7%9d%e5%8d%97%e5%b7%a5%e6%a5%ad
朝鮮半島での製缶工場で財を成した川南豊作が社長と成って設立され、造船技術より財政操作の上手さによって発展した会社だ。太平洋戦争が始まると軍需造船所として機能し始め、悪名高い人間魚雷「回天」など特攻兵器の製造にも着手。「回天」は、「天を回らし戦局を逆転させる」との意味。必死必殺の救国兵器として考案された。
数日前にエントリーしたこの廃墟を覚えている筈だ。
REPORT - 066 │ 長崎県 片島魚雷発射試験場跡 - 監視所
http://ameblo.jp/6blogs/entry-10719261141.html
この魚雷発射試験場と今回の「回天」とは関係ないがエントリーの一部に関連施設を紹介したのにお気付きだろうか。
この「特攻殉國の碑」にはこう書かれている。
昭和十九年、日々悪化する太平洋戦争の戦局を挽回するため日本海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀からこの地長崎県川棚町小串郷に移し魚雷艇隊の訓練を行った。
魚雷艇は魚雷攻撃を主とする高速艇で、ペリリユー島の攻撃硫黄島最期の撤収作戦など太平洋印度洋において活躍した。更にこの訓練所は急迫した戦局に処して全国から自ら志願して集まった数万の若人を訓練して震洋特別攻撃隊伏竜特別攻撃隊を編成し、また回天、蛟竜などの特別攻撃隊の練成を行った。震洋特別攻撃隊は爆薬を装着して敵艦に体当たりする木造の小型高速艇で七千隻が西太平洋全域に配置され比国コレヒドール島沖で米国艦船四隻を撃沈したほか沖縄でも最も困難な状況のもとに敵の厳重なる警戒を突破して特攻攻撃を敢行した。
伏竜特別攻撃隊は単身潜水し水中から攻撃する特攻隊でこの地で訓練に励んだ。
今日焼土から蘇生した日本の復興と平和の姿を見るとき、これひとえに卿等殉国の英霊の加護によるものと我らは景仰する。
ここに戦跡地コレヒドールと沖縄の石を併せて、ゆかりのこの地に特攻殉国の碑を建立し遠く南海の果てに若き生命を惜しみなく捧げられた卿等の崇高なる偉業をとこしえに顕彰する。
昭和四十三年五月二十七日
有志一同
元隊員一同
軍需造船企業として一時代を極め、香焼島造船所、香焼島造船所川内分工場、深堀造船所、深堀造船所徳島分工場、そしてこの廃墟で在る浦崎造船所と多くの場所で沢山の軍需製品を製造した。
戦後も暫く戦時標準船を新造していたが艦船の設計能力に乏しく休眠状態になる。1950年に破産の申し立てをし、1955年に倒産した。
ついでだけど次のエントリーで紹介する向山炭坑跡、この施設も川南豊作が買い取って運営していました。
川南豊作と言う人物
川南工業株式会を設立した川南豊作は富山県出身、朝鮮半島での製缶工場で在る程度の資金を確保した後に造船会社、川南工業株式会を起こす。国家主義者だった川南豊作は軍部とズブの関係と成ってからは太平洋戦争での軍需から戦争成金と呼ばれる様になる。
情報が錯綜してるけど東条英機の娘と結婚してたってのはどうなの、東条英機の家族構成に川南豊作の名前は無いし良く解らない。息子が三菱重工な訳だし家族内で敵対させるのも何かオカシイ気がする、東条英機に認められたって言うエピソードが一人歩きしたのかも。
その後は産業界で大きく躍進する事に成るのだけど破防法での国内初と成る適用事件「三無事件」の首謀者として有罪判決が下された。三無事件は1961年12月12日、旧日本軍の元将校らが画策したクーデター未遂で現在でも公表されていない内容が在ったりする国を揺るがす大きな事件だった。
因みに現在「長崎総合科学大学」の元と成る「川南高等造船学校(長崎造船短期大学)」の設立者でも在る。
長崎総合科学大学
http://www.nias.ac.jp/index.html
廃墟の緑地公園化計画案
先程も少し書きましたがこの廃墟の撤去計画は今迄にも数度と在りました、しかしそこには長々と説明した数多の問題点が山積しており、実現は難しいと思われていました。
しかしこの程佐賀県と伊万里市が協力し合い、この廃墟の取り壊し計画へ着手したのは長年の問題を解決出来る素晴らしい機会に恵まれたと言えるでしょう。
なのだけど…。
やはり軍事遺構や廃墟などが好きな方からは惜しむ声が出るのは当然、正当性は取り壊し案に在りるのは十分に解ります。地元の方のお気持ちも諸々と在るでしょう、なのだけど…。
そんな中、この場所をどうにか過去と現在の価値観を共有して残せないかと模索し始めた方達がいました。
川南造船所全国同盟
http://www.geocities.jp/imari_kawanami/
この方達はこの美しい川南工業浦崎造船所を文化遺産として残し、過去を知ってもらう機会にならないかと保存の動きへ活動されています(※3)。ウェブサイト冒頭ではこの様な挨拶がされています。
伊万里市の浦ノ崎地区に、一つの遺構があります。
それは、伊万里造船所とも川南造船所とも呼ばれる戦時中の造船所跡であり、正式名称を川南工業浦崎造船所と言いました。戦時中は二等輸送艦や「人間魚雷」回天等を多数製造したと言われており、戦争遺産・産業遺産として、その歴史的価値は極めて高いものと、私は思います。
この遺産は平成23年度、伊万里市による完全解体が予定されております。私は解体計画の見直しを要望し、造船所跡の維持・保存、そして平和教育のための利用を要望するものです。伊万里市民ではない自分が差し出がましいことを言うようですが、この遺産は次世代に受け継ぐべき伊万里市の宝ではないでしょうか。
跡地の緑地公園整備計画策定は平成22年度中に行なわれることから、意見提言を行いたいなら今が最後のチャンスです。そこで、私はこのたび伊万里市・川南造船所の活用による地域振興策を考える会「川南同盟」なる有志組織を立ち上げ、募金・署名等の活動を通じて、解体計画の見直しを要望していきたいと考えております。
皆様のご協力、心よりお待ちしております。
川南造船所全国同盟 代表 梅津 知弘
※3 解体を前に活動をお止めに成られた様です、サイトは放置されています。
しかもこの様なコンサルプランも用意し、市へとお願いにも行ってる様です。本気か…こう言う行動力って尊敬しますよ、対象が廃墟だけに批判も結構在る筈なのに…。
またオンラインでこの様な署名運動もされた様です。
伊万里市・川南造船所遺構解体撤去の見直しを求める署名運動
http://www.shomei.tv/project-1519.html
以前の佐賀県の動きとしては…
現場からお伝えします
平成21年6月16日(火)「川南造船所跡地」問題の解決に向けて
http://www.saga-chiji.jp/genba/2009/09-6/09-6-16/index.html
この様な話し合いの場も設けられていました。
2010年の8月の報道では…
「川南造船所跡」解体か保存か 10月にも有識者委
伊万里市は27日、市内の「川南(かわなみ)造船所跡」の活用策を話し合う有識者による検討委員会を10月にも立ち上げる方針を決めた。委員謝礼などを盛り込んだ今年度一般会計補正予算案を9月議会に提案する。この問題を巡っては「解体か保存か」の議論が起きており、塚部芳和市長は「全部解体か一部保存かなどは検討委で今年度中に方向性を決めたい」と述べた。
戦時中、「人間魚雷」と呼ばれる特殊潜航艇なども製造したといわれる造船所跡地は、現在廃虚になっている。地元住民が昨年6月、建物の解体撤去と緑地公園化を古川康知事に要望し、県は建物の取得費などを県費で工面すると決定。これを受けて現在、撤去に向けた手続きが市によって進められている。
ところが、「戦争遺産として平和教育などへの活用」を求める千葉県柏市の会社員梅津知弘さん(31)は「川南造船所全国同盟」を結成、インターネットを通じて署名を集めるなど保存運動を展開。今月9日には、伊万里市役所を訪れて、「遺構を生かした公園化」のための私案のパネルを提出しようとしたが、市は受け取りを拒否した。
市によると、検討委は、大学教授、地域代表、建築家、教育関係者ら5人で構成。委員の要望があれば、梅津さんのパネル提出を求めることもあり得るとしている。塚部市長は「旧造船所の建物の撤去を求める地元と、全国の保存運動をどう整合させていくかが課題だ」と述べた。(2010年8月28日報道)
…と在る。現在は11月、この検討によって何か新しい動きがあったのか…現時点では新情報はまだ無い。
土地の時代背景や地域住民の意見が最重要視されなければ成らない、それは大前提として僕個人としてはこの動きに協力したいと考えています。
佐賀新聞 2010年11月27日更新
川南造船所跡を公園に 伊万里市が取得で仮契約
伊万里市は26日、緑地公園化整備計画を進めている同市山代町の川南造船所跡について、建物所有者と権利取得の仮契約を結んだことを明らかにした。取得予定価格は4615万円で、12月定例議会で承認を得て、具体的な公園化案を検討する。
川南造船所は、戦時中に特攻兵器を製造したとされる。市は、建物が老朽化して倒壊の危険性があるため解体撤去して公園化を計画したが、戦争遺跡としての保存を求める声が上がり、整備検討委員会を組織して、解体・保存を含めて検討することになっている。
委員会は12月中に開催する方向で、現在、メンバーを選定している。
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1773111.article.html
asahi.com 2011年01月14日更新
旧川南造船所跡整備 私も一案
伊万里市の旧川南造船所跡の建物を撤去して一帯を公園化する方針を決めている市は25日に、整備のあり方を話し合う検討委員会を開催する。冒頭に「建物の保存と歴史教育への活用」などを求める人たちの声を聞く予定だが、約30分間の発言時間枠に対して13日までに12人の申し込みがあった。1人当たりの発言時間は3分間を切る状況で、「十分な発言ができないのではないか」と懸念する声も出ている。(田中良和)
川南造船所跡地の活用については、塚部芳和市長が昨年の9月議会で、「検討委員会の冒頭に全国の人からいろいろな声を聴きたい」と発言。これを受けて市は、「広報伊万里」の今月号やホームページを通じて、発言者を募集してきた。
当初の計画では、市は申込者が5~6人程度と想定し、30分間でも1人当たり5分程度の発言時間を確保できると見ていた。ところが、14日の締め切りを前に、予想の2倍の申し込みがあった。
建物の撤去反対を訴えて「川南造船所全国同盟」を結成、インターネットなどを通じて署名運動をしてきた千葉県柏市の会社員梅津知弘さん(31)も意見発表を申し込んだ1人。
梅津さんは昨年8月、持参した「遺構を生かした公園化計画」のパネルの受け取りを市に拒否されている。今回はこれを再び持参して、「歴史教育への活用」などの持論を述べる予定だが、「発言時間が10分間くらいあれば、もっと突っ込んだ発言ができるのに」と残念がる。
これに対して、市は「検討委の議事の進め方はまだ、はっきり決まっておらず、30分間という発言時間も状況を見て判断したい」と話している。
http://mytown.asahi.com/saga/news.php?k_id=42000001101130001
撤去の反対賛成、内外からの意見…多岐に渡る検証を以ってしてもやはり「撤去」の決定は限りなく覆らないだろうと思う。しかし過去にはこの様な状態から復権した遺構が在る、日本人なら皆が知る「原爆ドーム」だ。そんな過去の例に幾ばくか期待と想いを込め、「川南造船所全国同盟」は今も活動しています。
川南造船所全国同盟
http://www.geocities.jp/imari_kawanami/
西日本新聞 - 2011.04.15 更新
「全面保存できず」 川南造船所遺構 伊万里市の検討委
伊万里市山代町の旧軍需工場「川南造船所」の遺構を解体し跡地を公園とする計画の検討委員会(委員長・三島伸雄佐賀大准教授)は14日、市内で第3回会合を開き、「遺構の全面保存はできない」との認識で一致した。今後、部分的な保存が可能か検討するという。
会合では、三島委員長が、建物への耐震補強工事について「膨大な費用や時間がかかる上、建物の価値を損ねる可能性がある」として否定的な見解を表明。ほかの選択肢として、建物を外側から見学するためだけの“オブジェ”として保存する▽建物を解体した後、公園のデザインを工夫することで地域の歴史を伝える-などの案を示した。
佐賀大教授の青木歳幸委員は「遺構は全国的にも数少ない造船軍需工場で、歴史的価値が極めて高い」として、一帯を平和公園とするよう提案。しかし、地元住民の委員からは遺構の早期解体を求める声が相次ぎ、委員間の温度差があらためて浮き彫りになった。
この写真は1977年に撮影された航空写真だ、40年近い以前の姿だけに解体される直近とは大きく違う様相に少々驚く。まだ廃墟歴としては浅い頃、それでも倒産から既に20年は経過している。関連遺構も残るのは向山炭坑位でその向山炭坑も今後解体する様な話を聞く。
黙して実に多くの事を語ったこの遺構、写真に収める事が出来たのはとても幸運な事だった。
※ 解体レポートの連載を終えてから新たに航空写真を追加掲載しました
アプローチ
国道204号線沿い、松浦西九州線浦ノ崎駅から徒歩5分~10分の距離に在ります。本当に道路沿いなので直ぐに解ります、夜間では街灯が無い為に解り辛いかもしれません。
地図リンク
http://yahoo.jp/rc2Q3O
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