千葉県 │ 曾呂尋常小学校分教場(西尋常小学校)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 曾呂尋常小学校分教場
地元千葉県の数少ない廃校物件、知ってはいたけど中々足を伸ばす事が出来なかった「曾呂尋常小学校分教場」跡。
実はここよりもっと素敵な廃校が県下に在り、2003年の2代目サイドカー(現在は3代目)落成ツーリングの時に見つけたのは良いけど…まあ色々在りまして結局その物件には大人の事情でごにょごにょして行けずジマイ。
その後見つけたこの廃校も「規模が小さい」と以前より知っていたのでそれなら他の物件へ…と悪循環。結局今回も「君津エースGC廃橋アタック」のついでの訪問と成りました、まあ…いや、結構素敵な物件でしたよ。
曾呂尋常小学校分教場、この学校は実は結構有名でして今でも地元の方やとある大学関係者が頻繁に訪れます。その経緯は後々語るとしてまずはレポートを始めましょうか。
千葉県の山深い集落に残された分校跡、「曾呂尋常小学校分教場」のほんの一部をお見せ出来ればと思います。
当日は房総半島では本当に珍しい「雪」、道路が凍結しまくりで運転に気を使いました。私、正直申し上げると「曾呂尋常小学校(本校)」と「曾呂尋常小学校分教場(西分教場)」の場所を勘違いしてまして。
当日は軽く迷いました。
事前調査も度が過ぎると混乱を招く様です。
到着すると薄っすらと雪化粧した廃校が在りました、去年までは無かった「入んなボケ、こら、ハゲが。」テープが前面に。事件などは無かった様です、倒壊の恐れでも在るのかと思いましたが外観と内装含めて意外とシッカリしてました。
photograph:+10
手前は現在地元の集会場として利用されています、鍵も掛けられておりまして中を窺い知る事は出来ませんでした。
裏手に回ると日陰の時間が長い為か朽ち方が前面とは少々異なり、結構廃色濃厚です。ガラスも半分ほどが既に在りません。
倒壊。
早朝ですが周囲には人が一杯です、しかも校庭に地元の方(母と子の親子連れ)が写真を撮りに来てました。一言二言言葉を交わして写真を撮り続けます、すると先程の親子連れが黒服の男を連れ立って、
「おまわりさん、こっちです」
規模は確かに小さい、けれど雰囲気は良いじゃないですか。1874年(明治7年)に建てられた古い校舎だけ在って歴史を感じさせる落書きなんかもアチコチに。
この廊下にもスカート捲りとかカツアゲとか上級生の買人とかすれ違いざまにブツを受け取ったりとか沢山の黒い歴史が染み付いてるんだろうなぁ…目頭が熱くなるなぁ。
校舎の講堂、ココで色々な事を学んだ子供がナビエ・ストークス方程式の解の存在と滑らかさとかヤン・ミルズ方程式と質量ギャップ問題とかAVのモザイクを簡単に除去する方法とか発見してない、まず無い。
実は現在、以前鴨川市長に就いていた本多利夫さんが代表を務め「曽呂尋常小学校分教場再生保存を願う有志一同」と言うこの分教場を保存する有志が活動されています。この有志の方達は市民や分教場の教壇に立った教諭、城西大学関係者などで構成され、現在も保存に向けて精力的に活動されているのだとか。
地元市民や分教場の教壇に立った教諭などは解るがなぜ城西大学関係者が構成する関係者としているのか、それには簡単んな理由が在ります。
「水田三喜男」
大蔵大臣を務め城西大学の創立者の故水田三喜男さんがこの学び舎で学んだ児童の一人なのです。この分教場の近くには水田三喜男さんの生家も在り、国の文化財にも成っています。
水田三喜男さんが小学校1年から4年までの4年間を学んだ校舎の脇に立てられた記念碑、2008年の設置と書いてある。
記念碑にこう在る。
曾呂尋常小学校分教場
記念碑
村の中央までは程遠いので、低学年の児童は本校に通う事ができず、4年生までは分教場で授業を受ける事に成っていた。
1年から4年までの40人に満たない児童が1つの教室で1人の先生に教わったのだから、なつかしい想い出は多い。
(水田三喜男自伝「蕗のとう」より)
水田三喜男がこの分教場に通ったのは、明治末から大正初めにかけてである。本校(曾呂尋常小学校)までは6キロもあるので、周辺の子供たちはこの分教場へ通学したのであった。
この分教場は1874年、全国的にみてもきわめて早い時期に、この地域で開校した4つの小学校の1つで、1967年の廃校まで、90年の長きにわたって郷土の多くの人々を育んだ。
水田三喜男の父信太郎は、1909年曾呂村の村長として、3つの小学校(上尋常小学校、宮尋常小学校、西尋常小学校)を曾呂尋常小学校に1本化することに尽力し、県下の各町村に先駆けて近代的校舎を建設、人々の信頼を得た。この時、本校は上に、分教場は西に置かれた。
曾呂の地が生み、終世この地を愛してやまなかった水田三喜男(1905年~1976年)は第2次世界大戦後、新憲法による第1回総選挙で衆議院議員に初当選、以来30年間、連続当選13回、戦後日本の復興に心血を注いだ。7度に渡る大蔵大臣として、国民生活の安定と日本経済の高度成長のために働く一方、義務教育費の国庫負担、私学助成など、日本の教育の再生、復興に力を注いだ。
1965年、国と社会に有用な人材育成のために、学校法人城西大学を創立、政治家としての責務を果たす傍ら、「学問による人間形成」を建学の理念として、大学の初代理事長および学長の任に当たった。1976年、71歳の若さで急逝した。
この地に生まれ、この分教場で学んで大きく成長した人間水田三喜男の遺徳を偲び、郷土の人々との変わる事の無い心の交流を祈念して、この碑を建立する。
学校法人城西大学理事長
城西国際大学学長 水田宗子
学校法人城西大学は1965年埼玉県坂戸市に城西大学の創立に続き、新たに1992年千葉県東金市に城西国際大学を創立した。
2006年には鴨川市に同大学観光学部を開設し、創立者の故地にその教育への志と夢と情熱とを根づかせようと努めている。
この碑と分教場の近くにあり、2005年に復元された水田三喜男生家は国の文化財に登録され、多くの見学者が訪れる。
翌年の2009年には既述した「曽呂尋常小学校分教場再生保存を願う有志一同」が現在の鴨川市に保存の要望書を手渡した。因みに碑に記された現城西国際大学学長の水田宗子さんは水田三喜男さんの娘さんだ。
人と地域に歴史在りと言うか…うん、中々楽しめた廃校でした。
言語解説
・尋常小学校
明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存在した初等教育機関の名称。
>> 詳細は下記より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b0%8b%e5%b8%b8%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1
・水田三喜男
戦後大活躍した政治家で財政家、戦後復興を手掛けた大蔵大臣の代名詞。
>> 詳細は下記より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%b0%b4%e7%94%b0%e4%b8%89%e5%96%9c%e7%94%b7
・分教場
交通機関が不便な地域や離島等通学が困難な遠隔地に設置される本校と分離して設けられる教育施設である。
>> 詳細は下記より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%88%86%e6%a0%a1
アプローチ
国道410号線を鴨川方面へ南下、県道89号線に入り暫くすると大きな「曽呂尋常小学校分教場跡」の看板が在ります、敷地内には西神社が在ります。
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