東京都 │ 清華寮(旧・高砂寮)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 旧台湾総督府関連財団法人 - 学租財団 台湾人留学生宿舎 清華寮
※ 2013年05月から周囲住民の安全面の確保と土地利権に関する法的手続きが完了した為に解体工事が開始され、6月初頭に更地と成りました。
拓殖大学の文京キャンパスが在る文京区茗荷谷の住宅街に鬱蒼と手付かずの木々が茂る一角が人目を引く、お寺さんが多いこの住宅街だから新しい住人は神社仏閣関係とも勘違いしそうだけど現在は有名な廃墟として名高い「清華寮」跡がその実体だ。
日清戦争の副産物として下関条約により1895年~1945年まで台湾の日本統治時代が在った事は誰もが知る事実だ、ポツダム宣言の1945年10月25日までの間「台湾」は先の通り日本の統治下に在り、多くの台湾人や中国人が日本へ渡って来た時代でも在った。
今から84年前(このエントリーの執筆は2011年です)、つまりは1927年。当然当時は台湾に台湾総督府が設置され、そこから沢山の留学生や労働人員輸入が行われていた。その台湾総督府によって建設されたのがこの「清華寮」、建設当時は高砂寮と呼ばれた事もあったらしいのだけどこの辺の事実は卓上調査で把握出来なかった。
更に掘り下げるとこの清華寮、直接台湾総督府が設置した訳ではない。台湾総督府の関連財団法人「学租財団」が留学生や労働人員用の宿舎として建て、終戦後に組織解体された台湾総督府の管理から離れるまでは国内においても管理物件として周辺住民にも認識されていた。
台湾総督府、そして関連財団だった学租財団。どちらも終戦と共に消滅した事によって「管理」の呪縛から離れた清華寮は複雑な経緯を辿る事に成る。
ちょっと長くなりそうな物件の調査内容、いつも通り詳細は末尾に掲載します。まずはこの廃墟に足を踏み入れて堪能すると致しましょう、住宅街に眠る「清華寮」は規模の割りには迫力のある物件でした。
廃墟に成った簡単な経緯を書くと火災による事故物件として再利用されていない状態です、先程も書いた通り管理されていない物件での火災だったので事故後は放置されています。と、言っても。火災はつい最近で2007年7月19日の出来事、結構大きなニュースにも成ったのだけど38人居た住人の内9人が病院に搬送され、2人が死亡する凄惨な火災だった様です。
火災事故に関しても後程詳しく記載します。
入口から火災後に廃墟となったこの建物に入ります、玄関口は意外と綺麗。行政によって2008年に清掃が入っているけどそれさえ数年前、現在は結構荒れている状態。荒らされているのではなくて風化が進んで荒れている感じ、悪戯描きなども全くない。
目を奪われる1階エントランス部分、火災前は屋根が在ったものの吹き抜けと成っていてモダンな建造物だったのだろう。雰囲気としては千葉県の検見川送信所、茨城県の東京医科歯科大学霞ヶ浦分院(海軍鹿島航空隊基跡)に似ている。
階段は玄関横の北側階段と建物奥の南側階段の二つ、この写真は南側だ。階段下には地下へ降りる細い階段も在り、大浴場とボイラー室が残っている。北側の入口脇階段にはランドリースペースへ向う廊下が有り、奥には小さな洗濯室と個人用の風呂が残っていた。
1階中央部分に位置するトイレ、当然の事かもしれないけどトイレやランドリースペース、風呂場など水場は比較的綺麗に残っていてる。
北側階段から広角で。
2階に上がった、どの部屋も酷く燃えている。東西南北関係無く延焼した様だ、しかし幾つかの部屋は丸っと生活感が残る。
不思議な光景。
今回の探索で一番迫力の在った西側の部屋、3部屋の壁が燃え崩れていた。散乱する燃え残りの遺物には中国語が目立つが日本語も見掛ける事が出来た、どうやら住んでいたのは外国人だけではなく日本人も居た模様。
火災後のニュースでは全住民38人と発表されている、しかし色々と調べると随分と沢山の(50人以上)人が出入りしてた様だ。
手摺の無くなった階段、無機物的な螺旋が人の居ない事を物語っていた。
南側階段、屋上から降りてグルッと周って来た。随分と沢山の荷物が積み上げられていたのだけど明らかに火災後だと思われる新しい物が混在している、まさか不法投棄とか…いや野良の可能性も有るかも。
この物件で一番気に入った1枚。
南側の地下浴場から上って来た所、裏口(勝手口)部分。このエントリー最初の画像がこの階段の下を写したモノ。
帰り際にエントランスを見上げる、燃え落ちた屋根部分に残るのはフレームのみ。不透明な部分を隠し続けた清華寮の数十年、火災によって人が居なくなり初めて陽の光と人の目に晒された結果と成った。
見所の多かった清華寮、現在解体の計画が持ち上がっている。実に沢山の問題を抱えた物件だけに建物の解体と共に問題も解決へと導き出せるかは疑問が残る。
清華寮 - 台湾総督府関連財団法人 学租財団 台湾人留学生宿舎
日本の統治下だった台湾の台湾総督府、その関連財団「学租財団」が台湾人留学生宿舎として1927年に建設したのが清華寮の長い歴史の始まり。住所は東京都文京区小日向1丁目23-31、目と鼻の先に拓殖大学の文京キャンパスが在る。
拓殖大学の設立理由を知っている者ならばこの地にこの「清華寮」が在るのは自然と見える筈だ、後20年近くに及ぶ大学と寮生の関係は特に深かった事だろう。
元々は国有地、と言うか一貫して国有地の筈の場所。財団法人・学租財団が国から国有地を借りて建設した、当時は台湾の統治を行っていたので国内機関の指導も有った可能性も在る。1945年に大戦が終結し、台湾は日本の統治下を離れる。勿論この清華寮も学租財団の管理から外れた形と成った。
時代は混沌渦巻く終戦直後、国内の管理体制も間々成らない時代の外国人達にとっても辛い時期と成っただろう。戦後の混乱に乗じて独立した清華寮は所有者がハッキリしない治外法権物件として国有地を不法占拠し続ける事に成る。
当時を語る記事として2008年のasahi.comのソースを引用したい。
清華寮、所有権の怪 国・日中台の元住民ら無効訴え
2008年01月06日 asahi.com
清華寮は、1927年、旧台湾総督府関連の財団法人・学租財団が台湾人留学生用の宿舎として、国有地を借り建設した。約3100平方メートルの敷地に鉄筋3階建て地下1階の建物が立つ。
戦後、台湾総督府が消滅し、学租財団の実態はなくなった。その結果、所有者不在の建物が国有地を「不法占拠」する状態となったが、その後も入寮は続いた。
やがて、中国からの留学生も住むようになった。台湾系、中国系で自治組織を作り、それぞれ入寮希望者を審査。中国系の留学生が日本人にまた貸しするようにもなり、台湾、中国、日本の人たちが家賃8000円で電気や水道を共同で管理して生活していた。
立ち退きは求められなかった。72年の日中共同声明で日本は中国と国交を正常化、台湾と断交した。寮の帰属先はどこになるのか。台湾、中国、日本の三つの見方があったが、外交問題になるのを恐れた政府が手を出さなかったためとみられる。
近年、この清華寮の存在を揺るがす問題がぶり返す。土地の建物の所有権を巡る裁判が結審し、意外な結果へと話が転がったのだ。
寮の所有権をめぐる異変は火災の少し前にあった。消滅した学租財団とは別の財団法人「進徳奨学会」(東京)の当時の理事が寮を訪れ、住民に建物の所有者であると宣言した。
進徳奨学会は03年12月、所有権の移転登記を求める裁判で勝訴し、06年1月に登記を済ませていた。判決や答弁書によると、78年に学租財団の理事から寮の寄付を受けたとする奨学会の主張が認められた。
建物の譲渡は、寮の住民にとって寝耳に水だった。焼け出された住民らは弁護士を立て、「裁判で奨学会が提出した証拠に偽造の疑いがある」と判決の無効を主張し、争う構えを見せている。
一方、静観していた財務省も、借地契約は奨学会に継承されていないとして、土地の明け渡しを求める訴訟の準備を始めた。
進徳奨学会は、苦学生への奨学金支給を目的に60年に設立したとされる。しかし、所管する文部科学省によると、近年は「活動実態がない」状態という。昨年11月に就任した奨学会の理事は、取材に対し「設立の趣旨に立ち返り、時代に合った形で奨学会の立て直しをはかっている最中」と説明。国が提訴した場合、建物の譲渡から10年以上の経過を理由に土地使用の正当性を主張するとしている。
都心に近い寮の土地は、最低でも二十数億円の価値があるとされる。この土地をめぐっては「払い下げで利益が出る」と架空の投資話を持ちかけた詐欺事件も起きている。
清華寮の敷地ではいま、奨学会が雇った警備員が監視を続ける。年に1度、寮生総出で草刈りしていた庭は枯れ草に覆われたまま。「本国有地を売却する予定はありません」と書かれた財務省の看板が立っている。
この手の問題で状況が近しい物が在る、「光華寮訴訟」がそれだ。
光華寮訴訟
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%85%89%e8%8f%af%e5%af%ae%e8%a8%b4%e8%a8%9f
清華寮の現状と環境や経緯が酷似している、興味深い内容だ。
火災までの清華寮は寮内の自治体組織が在り、その組織力は意外と効率的に稼動していた様だ。敷地内には月極駐車場、公共環境の設置管理、擬似不動産など調べただけでも小さな町がこの敷地内に在ったのだと思い知らされた。
しかし近年はその組織力も弱まったのか生活保護受給者や又貸しで入居した人間と元の居住者とのトラブルなどで近隣住民からの危機感が強まっていたと聞く、そして国と進徳奨学会が再度問題の解決へ向けて動き出そうとした矢先の2007年。
2007年07月19日 毎日新聞
外国人寮火災 女性2人が死亡7人軽傷 東京・文京
19日午前5時ごろ、東京都文京区小日向1の外国人寮「清華寮」208号室から出火、鉄筋コンクリート地上3階地下1階延べ1770平方メートルのうち、1300平方メートルを焼いた。この火事で住民の女性2人が死亡、7人が煙を吸うなどして病院へ運ばれたが、いずれも軽傷とみられる。住民のたばこの火の不始末が原因とみられ、警視庁大塚署は身元の確認を急いでいる。
同署の調べでは、亡くなったのは70歳代と40歳代の女性とみられる。208号室の男性は「午前2時ごろ、たばこの火が原因でぼやがあった。消したつもりだったが、午前5時ごろに目が覚めたら火が上がっていたので119番した」と説明しているという。
現場は東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅の南約200メートルの住宅街。
写真:小出洋平 撮影(毎日新聞)
火災の様子を捉えた動画も発見した。
進徳奨学会が2006年1月に登記を済ませた翌年の2007年、この火災が「失火」とは別の意思によって引き起こされたと邪推する者は意外と多かった様で。僕自身もこの火災に関してはただの「タバコの火の不始末」だけでは説明出来ないモノが有るのではないかと考えてしまいます。
と、言うのも火災の約2ヶ月前のニュースソースにこんな記事が。
2007年05月30日 産経新聞
「清華寮」30万課税 都が1日に通知 国は土地返還訴訟も
戦前、旧台湾総督府の財団法人が文京区の国有地に建設した留学生用の学生寮「清華寮」の所有者が昨年、約60年ぶりに文部科学省認可の財団法人「進徳奨学会」に決まったことを受け、都は29日までに、寮の家屋部分の固定資産税課税を6月1日に通知することを決めた。課税評価額は約1700万円で、税額は約30万円になる見通し。一方、敷地所有者の国が「進徳奨学会」に土地明け渡しを求める訴訟準備を進めていることも新たに判明。戦後処理の中で外交のはざまに埋もれた同寮をめぐる混乱はまだ続きそうだ。
清華寮は昭和2年、台湾総督府の財団法人「学租財団」が、台湾在住の日本人子弟や台湾人留学生の宿舎として建設した。約3100平方メートルの敷地に鉄筋3階建て地下1階、延べ床面積は約1万7771平方メートル。
寮の敷地は、財務省関東財務局が所有する国有地で、建物は一昨年末までは、現在は実体のない「学租財団」が所有する形になっていた。所有権をめぐり、(1)日本の台湾領有権放棄と同時に所有権は台湾に帰属(2)昭和47年の日中共同声明で日本が中国を唯一の合法政府と承認し、台湾と断交したため所有権は中国(3)寮は、日華平和条約の対象外で日本の所有-などとする見方に別れていた。
しかし、平成15年に東京地裁が「学租財団」から「進徳奨学会」へ贈与を認める判決を出したことで、昨年1月に同会が所有権移転を登記、60年近い論争が決着した。
現在、清華寮には台湾や中国出身者ら約50人の外国人が居住。3世代で暮らす家族や生活保護を受ける永住者もおり、台湾系と中国系が別々の自治会を組織して“平穏共存”している。
築約80年を迎える建物は老朽化が激しく、敷地もほとんど手入れされていない。草木は伸び放題で、近隣から“お化け屋敷”呼ばわりされるほどで、敷地の一部は駐車場として有料で貸し出されている。
「進徳奨学会」は昭和35年3月に財団として認可され、設立目的は「経済的な理由により修学が困難な者に対し奨学援護を行う」こと。しかし、近年の活動実態はほとんどなく、文科省が存続の可否を検討している。役員には過去、法人税法違反で東京地検に在宅起訴された男性も名前を連ねていた。
「清華寮」をめぐっては、都と財務、外務の両省に文京区を加えた4者で連絡会を設置。合同で現地調査を実施している。ただ、財務省関係者は「清華寮が新築された当時、国は学租財団に土地を提供したが、進徳奨学会との契約はない」と指摘。財務省は進徳奨学会が国有地を“不法占拠”している状態と判断。近く建物撤去と土地明け渡しを求める訴訟を起こす予定という。
きな臭い、いよいよ問題が露呈しようとした矢先のこの火災。その後は地域住民や行政の攻勢が始まる、まあ当然の事だ。メディアも一過性ではあったけど「清華寮」に興味を持って取材した様だ。
以上が卓上調査で解った事だ、個人的にはとても良物件だったのだけど素直に「綺麗だった」とか「廃ダイナミックレンジだ」とか口に出せない事情とバックストーリーが写真を選択している最中でさえモヤモヤさせた。
最後にレポートを書く為に事前調査の内容と現地の写真を確認しながらの追跡机上調査をしている最中、不動産の事故物件の紹介ページが目に止ったので記載しよう。
物件概要
事故物件の住所・所在地
東京都文京区小日向1丁目23-31
発生年月日
2007年07月19
不動産の種類
共同住宅
物件情報
火災
重要事項説明書
同建物から出火。この火災で住人とみられる女性2人が死亡した。
不動産情報・部屋番号
鉄筋コンクリート3階建て外国人向け共同住宅(元学生寮)「清華寮」303号室
2013.05.25 - 清華寮の解体工事開始に伴い解体に関する情報を追記
写真引用:私的散歩記録│http://visit-sumida.hateblo.jp
5月から開始された行政主体の解体工事が6月初頭までに完了、とうとう更地と成りました。行政としては火災の一件以降ずっと懸念していた清華寮の扱い、2012年の年末から活発に調査が入っていたのでそろそろかとは思っていました。
2013年03月21日に東京地裁から公示書が発行され、翌月の04月17日に強制執行が行われる旨が一般公示された。以前お世話に成った新聞社の担当さん伝いに知らせを受けたのは更にその翌日、今更撮影する気も無かったのでお礼だけ言ってスッカリと忘れていた先月半ば。
とうとう解体工事開始されたと同じ新聞社の担当さんから連絡が入った、水面下では色々と問題が出て来ていた物件だったので国としても早々に解決したい事案と1つだったに違いない。
とても綺麗で心奪われる廃墟が解体されたのは残念だ、けれども実は問題は全て解決はしていない。この清華寮も含めて戦後の事後処理で利権関係が複雑化した類似した物件は以外に残っている。清華寮と一緒に語られる光華寮訴訟で有名な光華寮まどもその一端、2013年の世相も相まって幾つかの古い膿が潰される時期が来た様だ。
光華寮訴訟 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%85%89%e8%8f%af%e5%af%ae%e8%a8%b4%e8%a8%9f
アプローチ
茗荷谷駅の出口3前のT字路をデイリーストア目印に拓殖大学へ、細い住宅街の路地を進むと拓殖大学が見える。正門前はT字路ですが道なりに坂を少し登ると「立ち入り禁止」の札が掛かったロープが張られた枝道が見て取れます、そこから侵入すると正面口です。もう少し進むと裏口と成る駐車場入口も解ると思います。
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