静岡県│未完成ループ橋(赤沢八幡野連絡橋)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤沢八幡野連絡橋/八幡野ループ橋
どんよりと曇った伊豆の山中、旧国道沿いに在ると言う通称未完成ループ橋を見にやって来た。この物件も沢山の廃墟系サイトで紹介されていて御馴染みっちゃー御馴染みなんだけど色々と謎も多い廃橋で個人的に調べて見たかったのです。
ネット上では諸説語られておりまして、
・建設途中で放棄された
・地震で一部が崩れその間々放棄された
・渋滞緩和の為に製作されたが計画が変更されて放棄された
などなど、他にも細分化された心霊さん混じりの変な説までそりゃーもう。こりゃ卓上調査と行政への聞き込みだけじゃ勿体無い、取り敢えず現地に行ってみっか…と早速赴く事を決定、決行。
現地では思ったより沢山の資料も発見出来、卓上調査もすんなり進んだので個人的には楽な物件でした。それでは未完成ループ橋のレポートをどうぞ、語られていない事実も在るかもしれませんよ?
伊豆半島伊東市、赤沢温泉から程近い国道135号線から一本中に入ると旧国道とは言えない人通りのない抜け道が山中を走っている、再開発も始まってはいるけれどもまだまだ閑散とした雰囲気で夜間などは色々と注意が必要な細い道。
そんな山中の道を走っていると突然視界が開け、眼前には大きなループ橋が顔を出す。ほう、これが有名な未完成ループ橋ですか。
今と成っては走る者の居ない橋へ上がってみた、これは…うん、酷いな。道路建設としてもループ橋としてもとても通常の強度が在るとは思えない方法で作られていた、土木関係の方なら直ぐに解ると思うけど施工方法が古いのか(建設当時に当て嵌めても)何か他の理由が在ったのか…。
写真は丁度山中へ延びる部分の崩落した橋部分でジョイント部分からポキリと、しかし放棄された間々ってのも凄いなぁ。
橋の地盤歪曲が酷くて人が歩いても揺れる位の状態、ここを別荘地開発の為の重機や重機を積んだダンプが走ったと言うのだから恐ろしい話だ。
そう、この橋。
実は未完成ではない、この橋は一度完成し一般通行と工事車両通行が極短い期間だが行なわれた稼動後に放棄された橋なのだ。つまりは普通の廃橋さんなのです、この辺は後程詳しく語ろうと思う。
最上部、ジョイント部分から崩落してしまった先端の場所へやって来た。普段登山でもっと高所のアタックをしているので別段怖くは無いけど強度的な危機感が頭を過ぎる。
高架下、5月の初旬とはいえ既に自然の力が浸食を始めていた。
さて、この廃橋に関して少々語ってみようか。
1973年、県内の不動産業者(既に倒産済で詳細が解らず)がこの廃橋から直線距離で2キロほどの場所に別荘地を企画。道路建設地と八幡野山中の土地を無事購入して建設が開始された。
開発予定だった場所はこの辺。
地図リンク
http://yahoo.jp/OyzzoO
その後別の不動産業者も中途参入して別荘地+宅地開発が計画されたのが翌年の1974年、当初区画の開発は赤沢別荘地の道路から行なわれる予定だった。
開発経路の道路建設予定だった場所はこの辺。
地図リンク
http://yahoo.jp/yP1fa4
しかし近隣の住民などからの反対も在って赤沢の住宅街から少々逸れたこのループ橋手前の場所から開発用道路を計画、土地の買収もすんなり行って道路の建設がスタートした。
ループ橋の入口だった場所はこの辺。
地図リンク
http://yahoo.jp/fQRU3k
多少の紆余曲折は在ったものの1976年には開通、実は開発区域まで道路は完成しました。このループ橋から少し上部には当時砂利道が敷かれ、建設の為の関係車両や一般車両がこの山中へ車で走行した記録が今でも残っています。
しかしこの区域開発を計画した不動産業者が1977年(1978年との情報も在って不正確ですが)に倒産、中途参入した不動産業者も開発計画から脱退し開発は頓挫します。
その後何回かの再開発の計画は持ち上がったものの結局買い手は現れず、上部の土地の権利者が多岐に渡っている事と開発計画をした事業主が倒産した事によって一括的な撤去が難しい状況を生み出しました。その結果、現在でも全ての土地管理者の承諾不受理や撤去費用の出資問題で行政も頭を抱える廃橋が残ってしまった…これがこの廃橋の全貌です。
またこの廃橋を他の廃橋と区別する上で語られる迫力の崩落、伊豆半島沖地震。しかし良く考えるとこの地震での崩落は辻褄が合わない事が直ぐに解る。
伊豆半島沖地震 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e4%bc%8a%e8%b1%86%e5%8d%8a%e5%b3%b6%e6%b2%96%e5%9c%b0%e9%9c%87
そう、この地震は1974年に起きている。関連地震だとしても、
・1974年 - 伊豆半島沖地震
・1976年 - 河津地震
・1978年 - 伊豆大島近海地震
とループ橋の放棄と時期が少々ずれ込む。そもそも伊豆半島沖地震後もこの道路を通行した記録が行政に残っている、崩落はずっと後の事だとは容易に想像が着くだろう。
因みに崩落の時期が民間、行政ともに把握しておらずネット上でも正確な時期を明記したサイトは無い。行政としては1993年に崩落の確認をしたのみと記録に在り、現在でもいつ崩落したのかは謎の間々だ。
橋の支柱部分にはこのループ橋の建設を担当した建設業者の情報が書かれています、この建設会社は現在でも運営されている会社でなんと東京の業者でした。当時の担当者は流石に見つける事は出来ませんでしたが本社は数度の移転を繰り返し、現在は港区新橋に会社を構えています。
池田建設
http://www.ikeda-kk.co.jp/index.html
因みに現地ではこの情報が書かれたプレートはペンキやスプレーで塗りつぶされています、また当時の情報が書かれているので現在の情報とは幾分相違しています。
分電盤にも同じ業者の名前が見て取れます。
こちらは建設時に発電機や移動出来ない電気機材が置かれたコンクリート製の倉庫、恐らく完成後は街灯などの配電、分電施設に成ったと思われます。現在は残留物が殆ど無し、扉も既に在りません。
実はもう少しキナクサイ事実も発見出来ました、業者間や行政との癒着、開発に関係した不動産業者の現在などちょっとココでは書けない資料が驚く事にネット上に転がっておりました(グーグル先生凄いっすよ)。
興味の在る方は自己責任で探してみて下さいませ、ホントにちょっと公開するには度胸がいる資料ですよ。
余談と成ります。
先程も書きましたがこの廃橋、開発予定区域までの道路が通しで完成しておりました(道路区間は舗装と砂利敷きの複合舗装)。勿論の事ですがその道路、今でも残っております。
つまり廃橋だけじゃ無いんですよ、この物件。
この廃橋の先にはそれこそ人を寄せ付けない廃道と手の入れられていない開発予定区域が残されています、しかしそのレポートは又の機会に。コレがまた結構…へっくし。
グーグルマップだと…ほら…少しだけ見える筈…。
でもちょっと辛いです、この後の行程は。もし行かれる方はそれこそ自己責任で、危険が一杯の探索に成る事でしょう。
以上で赤沢八幡野連絡橋のレポートは終わりです、また廃道などの山中へのアクセスは廃橋とは別ルートですのでお間違え無き様に。
2013.08.16 - 廃ループ橋の先がどうなっているのかを見て来ました。
アプローチ
国道135号線から伊豆急行線の陸橋から八幡野住宅街に枝を折れます、赤沢住宅街へ向う途中、この枝の道路途中に廃橋が見える筈です。
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