栃木県 │ 本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 本山鉱山神社(杉菜畑鉱山神社)
足尾銅山地域で最古の山神社として知られている足尾銅山関連遺構の一つ、「本山鉱山神社」を今回ご紹介しようと思う。この神社、来訪した人は数多く居るけれども何故か途中で道を見失う方が多い。まあコレには理由があって別におっかない事は何一つないのだけれど、そんな些細な事を気にしない廃墟好きさんでも足尾銅山に残る沢山の遺構には足を運んでもこの神社には中々焦点を当てない様でして。
個人的にはロケーションも良いし何より雰囲気が在るし、調べれば色々とエピソードに事欠かない神社でもあるのでレポートとしてまとめてみた。
photograph:koichiro
本山鉱山神社として広く知られているけれど正式名称は「杉菜畑鉱山神社」と言う、これ以外と知られて無いのだけれど余りに通称が認知されてしまったのでこのエントリーでも”本山鉱山神社”と言う通称名で話を進めていこう。
で、この本山鉱山神社。冒頭でも書いたけれど足尾銅山を擁する足尾地域において最古の神社(山神社)です。
1889年に当時の坑長(古河鉱業所長)木村長七が中心と成り、本山抗口眼前の山に鉱山夫の安全と企業繁栄を祈願して神社を建立。本山で就労していた坑夫からの寄進も併付して”有木抗夫宿舎(杉菜畑職員住宅)”の上部に位置する形で置かれました、建立から暫くはこの神社を中心に銅山の繁栄を願って山神祭が行われましたが銅山に関する諸問題(※1)と主要エネルギーの転換期(※2)を迎えて祭事も行われなく成りました。
※1 足尾銅山鉱毒事件を中心として公害問題の事、実は現在でもその被害問題は続いている。
※2 俗に言われる「エネルギー革命」意向の産業形態の変化
ウィキペディア - 足尾鉱毒事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%B0%BE%E9%89%B1%E6%AF%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ウィキペディア - エネルギー革命
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E9%9D%A9%E5%91%BD
最初の石段を登って見えるのは”一の鳥居”、この神社には合計2本の鳥居と3箇所の灯篭門(最初の灯篭門は崩壊して殆ど消滅)が残されています。
そうそう、勘違いしている方が本当に多いけれど正確に言えば足尾地域最古の”神社”では無いのですよ。足尾地域では他にもっと古い神社が幾つか存在します、この神社は”足尾銅山地域”で最古の神社なのです。でも良く目にしますよね、”足尾地域で最古の山神社”ってフレーズ。
そう、”山神社”では確かに最古なのですわ。
山神社とは銅山や鉱山の関連諸事にて建立された神社の事、つまり祈願の内容は通常の神社と変わりなくとも山産業に関係して置かれた神様の社(やしろ)に関しては「山神社」と呼称しているのです。なので足尾銅山地域は元より”足尾地域”においても最古の”山神社”として有名なのです。
有木抗夫宿舎だった頃の形跡が参道の両脇(特に右側)に多く残されています、宿舎跡は残念ながら木造だった為に殆どが崩落して消滅したけれどポンプや電装の処理の為に置かれていたコンクリート製の建造物はまだその名残を見る事が出来たりします。
一の鳥居付近には共同浴場跡(本山共同風呂)が残されていますが参道の石段を登るにつれて住宅跡が、この形跡は中腹まで続いています。この辺の歴史に関しては太田貞祐著「続足尾銅山の社会史」に多くの実話と共に記録が残されています。
photograph:koichiro
参道では一際目立つこの廃墟、宿舎の管理棟でしたが現在はこの様な姿。2005年位まではどうには建造物の姿を残していた様です、そしてこの場所で皆さん道を外されていきます。
簡単にその理由を説明して行きましょう。
まず位置関係、この神社は精錬所手前の舟石林道沿いに在ります。ご存知の古河橋や鉄架空索道などを潜り、左手に選鉱所、医局、火力発電所、小学校、プール、スケート場跡地を越えると神社に関する看板が新設されて来訪者を迎えてくれる…のですが。
そう、場所自体は特に問題なく判明する。因みに航空写真でも鳥居から真っ直ぐ登った山間部中腹にその姿を捉える事が出来る。それなのに、何故迷う方が多いのか。
現在地の管理棟の倒壊場所から多少道が不鮮明だが真っ直ぐ(延びている様に)見える筈だ、しかしコレが落とし穴。この場所から直線に延びる道は過去現在を通して開かれた事は1度も無い、つまり道では無いのだ。ただ自然の造形が直線の1本道に見えるだけで作業道が多少左側に折れて残ってはいる物の既に薮の中、冬季においてもその正確な辿りは確認出来ない。
実はこう成っていた、現在地から大きく左側を迂回する様にグラウンド跡を経由して更に回り込む。現在地の道を潜る様に見える太い線は生活用造成河川(生活用水路)、現在は枯渇しているけれど道ではない。
当時はこの場所から子持沢へ抜ける生活道路が在ったとの情報も在るかが公式資料に道の造成記録が無い、等高線を見るとちょっとした集中区域で崖だけれど地元の人ならサクっと歩けたのかもなぁ。
現在の地図はこの様に描かれている、既に道は描かれていないので廃道化って事で認識しても良さそうだ。廃墟さんは神社で引き返すけれど廃道さんにはまだ楽しみが在りまして、これ資料が無いから正確には書けないのだけれど神社裏から製錬所を迂回してズリ山の方へ抜ける”抗夫用”の抜け道が在るのだとか。残念ながら現地でそれっぽい踏み跡を探し当てる事は出来なかった、もう見付けられないのかなぁ。
倒壊した管理棟前の折れ込んだ道上に灯篭跡が残されていた、これが3箇所在る内の最初の灯篭(だった物)でここから石階段を登る毎に異なる灯篭が姿を現す。
先程説明した生活用水路を越える橋が在ったのだけれど現在は完全崩落し、残るはその脇を通る用水管跡だけだ。まあコレのお陰で砂防ダムへ迂回しなくても渡れるのだけれど。
2006年までは踏板が残っていて渡れた様だ、ネット上でも写真も確認した。その後2007年の姿では中程の板が抜け落ち、2009年では骨組みだけと成っている。正確には解らないけれど2010年には現在の様な完全な崩落を迎えたのでは無いかと思う、アチコチのレポートを見ると恐らくその辺りの時期かと。
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2箇所目の灯篭門、参道は荒れまくっているがそれがまた良い雰囲気。興味の無い方には全くと蛇足な話だけれど灯篭って国内の神社や岬に残っている物で約30型120種類(近代創作種を除く)もの形が確認されている、構成はどれも5段式か6段式。それぞれに石材種、火袋の種類で凡その形を分けるのだけれどこの本山鉱山神社は6段式。
神社仏閣においてはその殆どが「春日型」で”宝珠”、”笠”、”火袋”、”受鉢(中台)”、”竿(柱)”、”地輪(基礎)”の6つのパーツで構成されています。
灯篭 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AF%E7%B1%A0
話を戻して地図で言う所のグランド入口部分、左端に成ると思う。ここに3箇所目と成る灯篭門と賽銭箱が残されていた、建立当時はここにも小さな社が在った様だが現在その姿を確認する事は出来ない。
右手には有名な石造ローラーが今でも残っている、グランド跡とは成っているけれどその形跡は全くと確認出来ない。明るい町編集部著「町民がつづる足尾の百年/第2部・銅山に生きた人々の歴史」にはこのグランドでの利用模様がしるされている、当時は野球などの球技の練習に使用され、子供のちょっとした遊び場でも在った様だ。下方の住宅側には低いバックネットを越えて何度もボールが落ちてしまい、拾い上げるまで往復で20分近く掛かったエピソードなどが掲載されている。
因みにローラーの他にもフェンス(バックネット)の骨組みが残されていた様だが近年に成って朽ちてしまい現在は確認出来ない。
最後の石段、これがまた凄い薮ってる。山での薮漕ぎは慣れているけれど廃物件でのブッシュはまた何と言うか、気持ちの作り方が違うと言いますか。まあ出来れば避けたいっちゃー避けたい。
奉納碑、やはり「山神社」と書かれている。ところでこの神社建立には当時で「3279円53銭」と言う金額が運用されたと言う。現在(2014年)との貨幣価値の差は約7000倍、だとすると
22960000円…
ええぇぇえええっ、2300万も掛けて造ったんかいなー。しかしこの金額が高いか安いか、ちょっと換算してみましょうか。現在同様の規模を建立すると成ると土地代を除外して檀家さんや氏子さんを抗夫(現代の工場作業員)に置き換えて…えっと物価やら資材費、人件費をほにゃほにゃすると
恐らく1億6千万位…だと思う、多分よ。うーん、結構掛かるなぁ…。
これ、坑夫からの寄進も併付って資料に在るけれど1体どれだけ徴収したんだろうか。それでも貨幣価値を同等に計算しても建立費は7分の1か…。
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セルセタの花(※3)が見付かりそうな参道を歩き続け到着した本山鉱山神社最後の鳥居、二の鳥居だ。同様に3箇所目の灯篭門でも在るこの場所を抜けると拝殿と本殿が見える筈だ、いやぁ凄い所に在るですよ。
因みに拝殿と本殿を理解していない人が良く”依り代の場”が拝殿に在ると勘違いしている、って言うより拝殿と本殿の違いを良く解っていない方が多いので簡単に説明しておこう。
神社仏閣において参拝者が最初に見る社は”拝殿”だ、拝殿は大きくて人が沢山入る事が出来る様に造られていてつまりは参拝者用社殿。その奥に祭られている神様が居る(依り代と成る木造や石造など)場所が本殿だ、本殿は神様用の神殿なので必要以上な大きさは無くて凡そ拝殿より小さい。
なので拝殿には入っても良いけれど本殿には神主さんの許可や氏子さんでなければ易々と入る事はさけた方が良い、本山鉱山神社は廃神社では在るけれどいまだ神様は鎮座されていると地元の人間は考えていて日光市でもこの社殿の保存に関しては検討中だったりする。
※3 ロダの実とセットで何かの病気を治す薬が出来るんですよ
お初にお目に掛かります、こんな夕暮れ時に少々失礼させて頂きますよ。
やって参りました、本山鉱山神社さんです。この社殿は先程の説明の中で在った”拝殿”に辺り、運営当時は多くの人がこの拝殿にあがった用です。現在は施錠されて中を確認する事は出来ません、しかしなんと立派な事か。
日光市は近年に成って足尾銅山遺構を産業遺産(足尾銅山近代化産業遺産)として保存して行こうと色々と計画を練っておりまして、行く行くは世界遺産だとか息巻いておりますがまあそれは別のお話。で、この本山鉱山神社もその保存対象として名を連ねています。余談ですが別途行政として市有形文化財に指定してされてたりします。
いや、綺麗にして頂ければさぞ神様をお喜び成る事でしょうなぁ。
さて、折角ここまで来たのだから本殿を拝見しなくては意味が御座りませぬ。拝殿の脇を抜けると崩れた手洗い場が見えます、そして眼前には最後の石段。これを登ればお目当ての本殿で在ります、うひょー。
あふぅ。
これは本物の匂ひがしますね(何が)。
本山鉱山神社、正式名称「杉菜畑鉱山神社」の本殿で御座いまする。かっけー、そして何より美しいであります。
この神社に祀られている神様は「大山祗命」、「金山彦命」、「金山姫命」の御3神。大山祗命は言わずと知れた山の神様、実は当ブログでも房総の廃神社に祀られている「大山祗命」を追いかけている。
大山祗命 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%9F
金山彦命、金山姫命は鉱山の神様、祀られている神様が山の神様と鉱山の神様ってそりゃ鉄板も鉄板のド鉄板。
金山彦命 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E7%A5%9E
本殿は倒壊の恐れが年々増していて現在は日光市の足尾銅山近代化産業遺産計画の方達によって補強工事などが計画されている、現在は簡易では在るけれどラッシングとストランドワイヤーで牽引補強して現状維持。今後近い内に、出来れば早い段階で工事が施工されればこの本殿も暫くは安泰だろう。ただこの神社の素晴らしい点の一つとして「宮大工」が挙げられる、これも知らない方が多いので記載するけれどこの本山鉱山神社、釘が全くと使用されていない旧式建築。補強工事で「鉄」が入らない事を切に願いたい所。鉄産業を見守る神様の社が鉄を使わない旧建築とは何とも皮肉なモノですねぇ。
因みに本殿の造り形式は「流造」、何故か昔から人気の高い造り種の様で国内の神社では一番メジャーな形式に成っていたりする。
さて、小難しい開設を織り交ぜながらこの本山鉱山神社をご紹介してきましたがそろそろ主たるネタは切れて参りました。出典を借りればまだまだ書ききれないエピソードが在りますが一先ずはこの辺で、今までより少しだけこの神社を知って頂けたと思います。
最後に当時のこの職員住宅群と神社の位置関係が良く解る写真を一枚掲載して終わりにしましょう。
photograph:koichiro
写真提供:日光市/足尾銅山近代化産業遺産
アプローチ
足尾銅山の本山へ向かう県道250号線を本山まで辿る、本山手前のT字路を左折して暫く走ると右側に本山鉱山神社のアナウンスボードが見える。
地図リンク
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