栃木県│鹿沼市立石裂小学校跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 加蘇路地区 - 鹿沼市立石裂小学校跡
月日の経過と共に風化した埋没歴史をちょっとだけ掘り起こしてみた、やっとこさで判明したこの学校の謎は行政も把握していない忘れ去られた事実だったのです。
追加調査内容のエントリーは上記バナーより、追加更新分へ移動します。
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ちょっと前に霊仙廃集落群をご紹介した、内容は各々興味の在る集落のエントリーを参照して下さいまし。
これらの集落は国内でも稀に見る「廃村」としての色合いが非常に強く、限界集落、過疎集落としての貴重なモデルケースとしても取り扱われる事も少なくない。滋賀県霊仙地区は日本国内に置けるこの手の調査では欠かす事の出来ない地域と言える。
その中でも冬季限定で無人化する期間限定限定集落や数少ない住民で運営された通常の限界集落、その形態と非常に酷似した地域が栃木にも存在した。大まかな括りでは「加蘇路地区」と表現出来、今回紹介するのは栃木県鹿沼市上久我の「石裂(おざく)集落」だ。
この石裂集落は歴史も古く、地域に密着した産業や文化を大切にしてきた集落だ。現在の居住人数は少なく成りつつ在るが調査対象としてはとても興味深い。今回はその石裂集落の児童教育を支えた鹿沼市立石裂小学校をレポートしたい。
因みに奥に見える赤い屋根の物置小屋は現役当時は教室として使用されておりました、どの様に使用されていたかまでは判明していませんが仮説は在りますので最後尾にて少々記載しようと思います。
この鹿沼市立石裂小学校は廃墟さんや廃校さんにも余り知られておらず、素晴らしいロケーションが現在でも残されている。場所を特定してアナウンスするか考えたが地域文化や廃校のデータベースにはシッカリと記載されている場所なので当ブログでも普通に掲載する事にした。
データベースには廃校後に鹿沼市石裂寄栗地区集会施設として転用と在る、しかし現地の方にお話をお聞きした限りはもう何十年も使用されておらずに機能していない。と、言うより別の場所に集会所が新築されており、集まりはその建物で行っているそうだ。
入口は2箇所、此方は裏手にあたる。今回はこの裏手からお邪魔した。
とても古い作りの校内、撮影後に自宅で詳細を調べた。するととても長い歴史を持った学校だった事が解った、創立はビックリの1873年(明治6年)。その頃は民家を仮校舎に充てた簡易的な学校だったが1902年に現在の校舎が完成した。
増改築を何度も経てこの校舎が残ったのだけどそれもいつ迄見れるのか、窓ガラスは年々割れて行き、知るだけでも3枚は新たに割れていた(訪問時)。
ネット上で幾つかこの学校を取り上げているサイトやブログを目にした、運悪く近年に心霊にもさん知る物件と成った様だ。幾つかその形跡も垣間見れた、ホント勘弁して下さい。
自治体では夏季の間を中心に夜間の見回りをするそうだ。
ちょっとニッチツ鉱山を思い出した、こんなロケーションが確かに在った。この鹿沼市立石裂小学校は近年の市町村統廃合とは関係なく、随分昔に廃校と成っている。簡単に歴史を振り返ろう。
栃木県の地域文化冊子によるとこの学校は意外と複雑な経緯を辿っている。
1873年 - 創立(当時は民家を仮校舎として運営)
1892年 - 久我尋常小学校石裂分校として運営
1894年 - 久我尋常高等小学校石裂分校と改名
1900年 - 石裂小学校として独立運営
1902年 - 校舎を新築
1912年 - 校舎の増築
1926年 - 校舎の増築
1941年 - 加蘇村石裂国民学校に改名
1947年 - 加蘇村立石裂小学校に改名
1954年 - 鹿沼市立石裂小学校に改名
1964年 - 鹿沼市立久我小学校と統合し廃校
この様に約90年間に及び、長い歴史を刻んだ。簡易的な流れを記載したがこの学校には地域と国の問題、そして戦争、過疎化と多くの問題を抱えた児童教育の場だった。深く調べるとその時代背景に翻弄された地域性が良く解る、それでも約90年間に渡ってこの地域の児童の教育を担った素晴らしい学校だったのだ。
この学校の卒業生に話を伺おうと考えると現在46歳以上の方でこの地域の出身者と成る、探すのは大変そうだ。
さて、冒頭でもちょっと離した赤い屋根の元教室として利用されていた建造物。ボロボロに見えるんですがこれ、実は本校舎より新しい建築物でして。それは記録にも残ってるので解る、そしてその建造が1950年前後だと言うのも複数の証言から明らかに成っている。
ところでこの小学校、一時期(約7年間)だけ中学校が併設されていた事は余り知られていない。その中学校の名を「鹿沼市立加蘇中学校石裂分校」と言う。しかしこの中学校の分校、現在の中学校(鹿沼市立加蘇中学校)に統合されるまでの所在などが明らかに成っていない。
行政の資料にも残されておらず、ちょっとした謎だったりするのです。当時は鹿沼市立加蘇中学校ではなくて「加蘇村立加蘇中学校」と言う名称、その分校が先程の「鹿沼市立加蘇中学校石裂分校」だ。この分校は1950年10月21日に校舎新設と資料に記載されているが…ん?ちょっと待てよ。
鹿沼市立加蘇中学校石裂分校の校舎が1950年に新設されて。
その後7年間だけの運用で統合先の中学校へ(1957年3月31日に閉校)。
あれ、鹿沼市立石裂小学校の赤い屋根の元教室として利用されていた建築予想時期って確か1950年前後って…。ああ、そうか。多分だけれど、恐らくは。
この同じ土地に小学校と中学校の両方が存在していたんだ、一応と思って中学校の方の現在のサイトを見ると「沿革」に資料と同じ年表が記載されていた。
鹿沼市立加蘇中学校 - 学校概要
http://www.school.kanuma.ed.jp/j-kaso/gaiyou.html
正式な資料や記録が行政に残されていない以上は確認のしようがないけれど、まあその内現地調査で聞き込みが出来れば確証が持てて良いのだけれどねぇ。うん、個人的にはこんな予想。
※ 他にも解体された建造物が過去に存在したとの情報もあり、あくまで予想と言う仮定の話です。
この学校、と言うよりこの石裂と言う集落は実に面白い歴史を見せてくれます。今後霊仙の様に何度かに分けて調べて行きたいと思える場所でした。次回のレポートではこの石裂集落を含む加蘇路地区を掘り下げてみようと思います。
本日は以上です。
全くもってお久し振りです、長い事ご無沙汰してました石裂集落さん(集落の追跡調査で再訪した際に地元の方と寄りました)。いやぁ4年振りか、この集落に来るのも。今回は他の物件で栃木に来たもので兼ねてよりこの集落の調査を行いたいと思っていた身としては又と無い機会、来訪を決めてから事前調査も行い万全の体制で挑みます。それでは集落の顔でも在る「鹿沼市立石裂小学校」の追加調査をお伝え致しましょう。
前回は時間都合でユックリと見て廻れなかったけれど今回は周辺をジックリと観察、まず小学校跡の右側奥に倒壊した家屋を確認しに。
いや、残ってますね。これ、前回も目には入っていたのだけれど興味が無くてスルーしておりまして。帰宅後にこの集落の歴史を調査する過程でどうしても気に成って撮影したいなぁとずっと思っていたのです、ではこの家屋から説明に入りましょうか。
photograph:+10
普通学校と言ったら誰が居るでしょう、まあ普通に考えて生徒と先生でしょうか。それでは生徒は校舎で学ぶとして先生はどこで採点をし、授業計画を練るのでしょう。って事でこの家屋、2棟倒壊している内の左側ですが「教員用の別棟」だったのです。
実はこの小学校が運営当時、この学校に出入りしていた業者さんを特定致しまして。そこで色々と聞く事が出来ました、と言っても既にその業者は廃業しており担当されていた方も亡くなっています。今回この集落出身の方の紹介でお話を聞かせて頂いたのはその担当のご家族で在るSさん、そのSさんも大分昔の話なので整合性がどれだけ取れているかは…まあ貴重な話なので意訳して掲載致します。
で、この教員用の別棟。当時は少ない先生方がこの狭い別棟で生徒の帰宅後も仕事をされていたとか、廃校が1964年って事は東京オリンピック開催の年。その廃校の年から幾分経過しても夜間に電気が灯る事が在ったとか、何でも統廃合されてからの残務処理がこの僻地で行われていたと聞くが事実はやはり解らない。
倒壊したもう一つの家屋は「教員用宿舎」、つまりは派遣された先生の宿直室だった様だ。この分校は元々この集落の人口増加に伴って増設された学校で先生はこの地から排出されてはいない、つまりこの学校で教鞭を執っていたのは別の地域の方だったのだ。
これで倒壊していた建造物の謎は解けた、が。
最初のエントリーでも宿題事案と成っている「7年間だけ運営された小中学校共学時の校舎」が何処に在ったか、だ。人口増加で分校化したのだから更に中学校を増設するのは難しい、この問題には当時を知る方に聞くしか無かった。
この集落に1962年から住み、現在も居を構えている方にコンタクト。来訪時に色々とお話を聞く事が出来た、その時にこの学校に関しても勿論聞いたのだが聞けば成る程…全ての答えが当たり前の様に判明した。
栃木県の地域文化冊子にはこの学校の複雑な歴史が記されている。
1873年 - 創立(当時は民家を仮校舎として運営)
1892年 - 久我尋常小学校石裂分校として運営
1894年 - 久我尋常高等小学校石裂分校と改名
1900年 - 石裂小学校として独立運営
1902年 - 校舎を新築
1912年 - 校舎の増築
1926年 - 校舎の増築
1941年 - 加蘇村石裂国民学校に改名
1947年 - 加蘇村立石裂小学校に改名
1954年 - 鹿沼市立石裂小学校に改名
1964年 - 鹿沼市立久我小学校と統合し廃校
そして別の資料にはこの「鹿沼市立石裂小学校」と同じ敷地内に「鹿沼市立加蘇中学校石裂分校」の名が突如現れる、しかも「1950年10月21日に校舎新設」とも記されている。
この「鹿沼市立加蘇中学校石裂分校」はこの地で7年間だけ運営された短期間の中学校の分校だ。
1950年 - 沼市立加蘇中学校石裂分校新設
1957年 - 鹿沼市立加蘇中学校へ統合の為に廃校
しかし新しい校舎が建設された記録も形跡も無い…いや、まてよ。そうか、「新設」か。新たに建設したのではなくて同じ校舎に「新設」したのか。
ここまで予想して地元の方に聞くとその答えは呆気無いモノだった。
「戦後人が増えて今まで小学校に通っていた子供をその間々同じ校舎で中学生として学ばせていた」
つまりは同じ校舎で最長9年間学んだのか、まあ子供が増えれば外の学区域まで歩かせるより余程合理的だ。それでは何故たった数年で廃校に至ったのか、それは戦後復興から国内需要が高まり、産業の中心が都市に集中しだした為だとも言われている。これはこの学区に限らず他の地域でも同様な問題が同時発生していて現代においてもその現象は継続している。
まあ解った事は中学校が短期間この学校に併合されていた、その期間は1950年から1957年。そしてその7年間だけは
「鹿沼市立石裂小学校(加蘇村立石裂小学校)」
「鹿沼市立加蘇中学校石裂分校」
の2つの名前を持っていた珍しい学校だったと言う事だ、これは現在の行政も把握していない事実で知る人も殆ど居ないと言う貴重な情報だ。いや、追加調査して良かったですわホント。
校舎の方はと言うと保存計画は頓挫して現在は倒壊へ一直線です、内部も大分腐って廊下も教室も底が抜けそうな状態。窓枠も落ち、ガラスも割れてそう長くは持ちそうにないですねぇ。
photograph:+10
90年の歴史を誇り、廃校から50年の月日を耐え抜いた学校「鹿沼市立石裂小学校」。新改築からも100年以上を経過したこの校舎が何時まで建っていられるか、それは季節的な問題だったり天候的な問題だったり。それでももう少しその姿を見ていたいと思うのはノスタルジーなんて言葉を創ってしまった人間のエゴだったりするのかもしれませんですねぇ、って事でこの学校の追加調査は以上と成ります。
あれ、もう終っちゃった。
アプローチ
鹿沼からだと国道121号線から県道へ。県道は14号線と240号線をハシゴして上久我方面へ、石裂集落までは国道から30分~40分程。
photograph - nee
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