栃木県│鹿沼市石裂集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 加蘇路地区 - 鹿沼市石裂集落
気に成っていたこの集落の歴史を調査しました、過疎集落では在るけれどそこには歴史の生き証人が生活を続ける日本の良き”田舎風景”が残っていました。上記バナーから追加更新分の下方へ移動します。
前回と今回は栃木県鹿沼市の加蘇路地区のエントリー、石が裂けると書いて石裂(おざく)と読む集落へ行った時の模様をお伝えします。
前回のエントリーは以下のリンクよりどうぞ。
廃村が気に成り出してから全国の過疎集落や限界集落を調べたり実際に訪れたりする事が増えたのだけど中々滋賀県の霊仙地区を越える物件には出逢えない、まあそれは規模だったりバックストーリーだったり歴史だったり沢山の要素が物件の色を作り出すから一概には言えないのだけれど。
で、この石裂地区。規模は小さいながら歴史を辿ろうとすると一筋縄ではいかない、そしてこれがとても面白い。長い歴史の在る集落はその筋の人達には必ず注目されて沢山のソースがウェブ上に転がるのだけどこの石裂地区に関しては本当に出て来ない、その殆どが登山(石裂山)に関する情報ばかりだ。
まずは現地で見た物をまとめよう。
石裂地区の終点地点手前、ここで左側が登山道入口、右側が川沿い住宅の私道と更に置くに進む道へと分かれる。この赤い屋根のお宅は見事な屋敷で現在も人が在住、この地区には廃屋も沢山在るのだけど意外と最近の建造物も在って一見すると過疎化してるのかどうかが判別し辛い地域でもある。
中を覗くと手入れをされた小さな日本家屋庭園が在った。
この地区を語る上で見逃せないのがこの加蘇山神社、実は創立年代が判別出来ない程古い、と言っても兵火で記録が焼失してしまい、詳細が不明との事。しかし現在解っているだけの記録によれば「陽成天皇の元慶二年九月一六日下野国加蘇山神に従五位下を賜う」と在る、878年にはそれなりの神社としての認知度が在った事が解る。一説によるとその数百年以上前から神社が在ったのではないかとの事、今後の追加調査の課題だ。
この加蘇山神社が鎮座する石裂山、現在では熱心な登山家で賑わう。意外と登山者を選ぶテクニカルコースらしいが今回は登らなかった、山男としても気に成る山に成りそうだ。加蘇山神社の資料がウェブ上に転がってたので転載しておく、因みにこの神社に関しても調査と同じく沢山の写真を今後取に行く予定だ。
加蘇山神社全国神社名鑑由緒
再三の兵火によって記録が焼失のため創立年代不詳。光仁天皇の時代に勝道上人の開山によるものといわれている。また三代実録によれば陽成天皇の元慶二年九月一六日下野国加蘇山神に従五位下を賜うとあり、五穀豊穣を祈念し、農業の祖神を祭る神社として由緒の正しさがしのばれる。境内は周囲二里余、樹齢千年余の檜・杉等五本(神代木という)があり、森厳な神域にふさわしい。なお永承年中源頼義奥州征討の時鎧太刀等奉納。天文年間皆川山城主が神馬・太刀を奉納祈願。江戸時代は日光御入山の際、一品親王宮の御直持として守護せられた。旧県社。
栃木県神社誌由緒
創立年号は、詳細にはわからないが第四九代光仁天皇の御代に、勝道上人が開山したといわれ、磐裂命、根裂命、武甕槌命の火の神の御分身の三柱を奉り、五穀豊穣を祈念して、農業の祖神を祭ってある神社という。境内は周囲二里余りあって、老樹が繁茂して、古檜、古杉及び桂木など千有余年を経過したものが多く天然記念指定になっている。なお、昔から武勇の神様としても崇拝され、永承年中に、源頼義奥州征伐の折り、鎧太刀などを奉納し戦勝を祈念したといういい伝えもある。
社名:加蘇山神社(かそやまじんじゃ)
祭神:磐裂命 根裂命 武甕槌男命
鎮座:栃木県鹿沼市上久我3440
川沿いには沢山の廃屋が在った、この日は幸運にも現地の人がちらほらと居たのだけど余りに高齢の方で詳しく話を伺う事適わず。神社の社務所からおよそ3キロの場所で蕎麦屋を経営されているご主人にお話を聞きたかったがこちらは運悪く営業時間外、評判の蕎麦屋さんなので次回は是非。
石裂山神水そば うえ田”
http://www.tochinavi.net/spot/home/?id=4371
実はこの地域に関してはもう少し調べが付いているのだけど詳細は次回の調査後に合わせてお伝えしようと思います、大河ドラマや映画のロケ地でも好評な地域なのでTVや映画関係者さんなんかは詳しいのかもしれませんね。
中々と来訪する機会に恵まれなかったこの石裂集落、霧降の滝アタックで栃木を訪れた際に時間が取れたので本当に久し振りに来る事が出来た。調査中物件としては約4年間もホッタラカシ状態だったけれど机上調査はある程度進めてあって後は現地の方のお話を聞いて整合性を取るだけの段階まで来てはいたのだ。
この地域の特色と言えば廃屋が多い事、観光のメインは石裂山の登山で在る事、集会場と隣接する廃校(鹿沼市立石裂小学校跡)がランドマーク化している事位だろうか。もう一つ挙げる成らばこの僻地において有名なそば店で在る「石裂山神水そば うえ田」の存在、今回はそれに付け加えて付近の旧道などを調査した。
余りに歴史が長く、そして全てを語るには石裂山の存在や地元信仰の宗教遍歴なども視野に入れなくては成らないので今回は現在に至るまでの集落の簡単な歴史と現在残されている廃墟に関する情報などを中心にまとめた。更に興味が沸いた方は各々調べてみても良い、この地域は奥が深いんですわ。
集落自体は記録では江戸時代には既に存在しており、集落の人間は山岳信仰をもってその結束を高めていた様だ。諸説在るが878年に加蘇山神社開社と在る。だけれども度重なる火災や戦火によって由来や記録は焼失、関連する賀蘇山神社と同時期に建立されたと言う一節から878年と言う数字が出てきてはいるけれど正確には判別不可能だ。
どちらにせよ何故この深い山中に神社を開いたのかはどの説にも語られてはいない、しかし神社が開かれると言う事はその地に人が集まっている事を同時に語ってもいる。記録は江戸時代までしか遡れないとしても実際はもっと古くから山岳信仰の民が居住していた筈だ。
今回の調査に当たりお話をお聞きしたのは集落に沿って流れる荒井川(釣漁管理)と神社の管理をされている方でこの地には1952年から住んでいると言う、この集落においては生き字引の様な方で聞けば何でも答えてくれる凄い方だった。
その方曰く
・1950年代に成って急に人が増えた
・神社付近だけで13軒の家が連なっていた
・長谷山弘宣寺(廃校よりやや鹿沼よりの寺)より下(の集落)は別の管理者が居た
・1980年代に入ってまた人が減ってしまった
廃校の追加エントリーでも書いたが産業の中心が都市に集中しだした事でどの山中集落でも人の流失が起こった事は想像に容易い、勿論この集落においてもだ。実際このお話を聞いた方の息子さん達は鹿沼市にて働いていると聞いた、こんな山中では仕事など無いのだと。
子供が減り、学校も廃校。僻地が故に神社の社務所にも常駐が居なくなって代わりに管理しているのがこの方なのだ、因みにこのエントリーの2枚目と3枚目の立派な屋敷だが2014年現在で居住者は居なくなっていた。聞くとこの屋敷は「加蘇山神社」の神主さんのご自宅だったらしく、しかし来訪者が居ない(減少した)事でその職を鹿沼市に移転。鹿沼市内の神社の神主として現在はその神社の近くに住んでいて此方は空家と成っている、その管理もされているので少々中を覗かせて貰ったが何とも綺麗に掃除されていた。
嫌な話に成るけれど度々泥棒の被害にも在っている様で川沿い奥の蔵に埋蔵して在った荷物も移動したそうだ、こんな場所にまで泥棒さんがねぇ…いやご苦労様です。
廃校、神社、大きな屋敷とお話を聞き進めて最後にどうしても気に成っていた対岸の廃墟について聞いてみた。
「川の向うのあの廃屋、随分と大きいですが」
「ああ、アレね」
「お寺か何かの跡ですか?蔵も在るようですが」
「ああ、あの家は湯沢さんの家だよ」
湯沢さん?誰ですか。
この大きな屋敷、2階建ての木造建築で2棟と蔵が2棟。見えるだけでも300坪以上の敷地で門構えもとても立派だ、その持ち主は「湯沢さん」だと言う。何故名前を伏せずに実名で記載出来るのか、それはこの湯沢さんが「公」の人だからだ。
photograph:koichiro
この屋敷の所有者の名前は「湯沢三千男」、元内務大臣だった人だ。
ウィキペディア - 湯沢三千男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E4%B8%89%E5%8D%83%E7%94%B7
東條内閣で二期目の内務大臣に就任、戦中から戦後の政治家として手腕を振るったが1963年に亡くなっている。家族は既に鹿沼を経由して別の場所へ引っ越されている様でこの土地は長い事放置されている、政治家として都市部に出向した時点で家族も引っ越しているので空家と成ったのは1950年代だ、つまり廃墟歴は眼前の廃校「鹿沼市立石裂小学校」より長い事に成る。
湯沢家は先に紹介した加蘇山神社との関係も在ったけれどその辺はちょっと複雑なんで割愛、いやぁやっぱり調べると面白い集落だなぁ。
立派な正門、湯沢三千男の生家なので少なくとも1888年には建っていた事に成る。明治時代で言えば中期だがデザインが明らかに江戸時代後期の流れを汲んでいる、湯沢家自体はこの地に数世代居住していたとされているので最初の建築年代はうっかりすると江戸時代かもしれないって言う…うへー、古そうに見える訳だ。
いや、実際100年以上の歴史が在る訳だから古いのよね。
2棟在る内の新しい建築の方が先に倒壊している、明治時代に数回増築改築を繰り返していた記録も在るのでどちらが強度的に問題が在ったかは判断しかねるけれどやはり日本の木造建築の素晴らしさは廃墟に成ってもその成果を継続し続けるのねぇ。
霊仙の廃村群を思い出した、中でも山中に取り残された「杉集落」や「保月集落」に似ている。冬季は雪深く、誰にも管理されない家屋の廃れていく過程。それもホントに最後の方の、そんな匂いと言うか雰囲気がこの廃屋からは感じられた。
photograph:koichiro
さてさて、これにて4年間も放置していた物件を一先ず〆る事が出来ただろう(と、思いたい)。いや、書ける事はまだまだ山の様に在るのだけれど多分そこまで面白いモノではない。個々の現住者の歴史とか山岳信仰の移り変わりとか、恐らくその手の地域民俗学に興味が無いとツマラナイ内容だ。
なのでこの集落に関してはこの辺で勘弁して欲しいと思う、で最後に。
ずっとね、気に成っていた「道」が在るのですわ。
加蘇山神社前の橋を渡り、上久我林道に入ると暫くは舗装林道が続く。しかし地図上では数本の枝を残すものの道路は中断している。
上久我林道のスタート地点
http://goo.gl/maps/QIJc4
地図上で終焉を迎える地点
しかし航空写真にすると道路はずっと続いているのです。
この道、どうやら未成道と旧道が複合的に混ざった廃道(しかし交通は結構在るって言う矛盾した道)の様だ。途中幾つかの工事車両を見たがその工事車両も廃車の様な状態、地図から削除された廃道だけれど地元民は生活道路として今だ利用している様だ。
で、この廃道のゴールはココ。
やっぱり地図は無いけれどストリートビューでは青看も道もシッカリと確認出来る、それに休日ともなれば沢山のライダーが走るし渋滞を避けたい地元の方の抜け道にも成っている。ただこの道、運転に自信の無い方は絶対に通らないで下さい。それはどうしてか…
・車幅が非常に狭い
・相互通行が出来ない為に細いワインディングで長い距離バックを強いられる場面が在る
・ガードレールが殆どない(高所を走行しているのに)
・落石と土砂崩れ、道路の崩落箇所が結構在る
・ライダーが突っ込んでくる
以上の点から毎日運転している方、しかも車は軽かコンパクトカーの人限定って道です。デカ目のセダンや大きめの車は本当に通行は無理です、それでもって方は…うん、頑張って。
あ、石裂集落から3キロ位先に例のそば屋が在ります。本当に凄い所で営業してます、旨いです。
石裂山神水そば うえ田”
http://www.tochinavi.net/spot/home/?id=4371
以上、石裂集落の追加レポートでした。ふう、あの道路は2度と通らんぞっ。
アプローチ
鹿沼からだと国道121号線から県道へ。県道は14号線と240号線をハシゴして上久我方面へ、石裂集落までは国道から30分~40分程。
photograph - nee
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本当に判らないです。でもでも!見つけたのです。
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皆様も見てみてください。
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