滋賀県│向之倉集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 霊仙廃集落群 - 向之倉集落跡
以前の霊仙廃村群のエントリーは以下より。
前回のエントリー(後谷集落)は以下より。
霊仙の廃村群、実は同区域ながらその形成時期はバラバラだ。その中で形成時期はハッキリしないものの随分と歴史の在る廃村が在る、「向之倉」集落だ。「むこうのくら」、「むかいのくら」、「こうのくら」など後谷集落同様に幾つかの呼称が在った様だけど正式名称は「むかいのくら」。
2006年頃までは自立していた廃屋も多くて一帯の廃村群でも人気の廃村だった、しかし2008年を過ぎた頃から度重なる倒壊により現在は自立廃屋が無くなってしまった…とても残念だ。それでも歴史在る廃村が故、その経緯を調べるととても面白い。
今回は写真数こそ少ないがその長く深い歴史に少しだけ光を灯してみたいと思う、向之倉集落跡のレポートを開始しましょう。
向之倉集落の形成は江戸中期と言われている、中でも1700年~1750年の間に家屋が集まりだして江戸時代の後期には現在の造成地形が確立していた様だ。
山間部においてに貨幣経済が民間にまで浸透した時代だ、林業、山間部農業、山窩木工など様々産業形態を経てこの村では製炭が主な産業として落ち着いた様だ。多賀町の山間部での産業は製炭が多いが形成時期が異なっても地形が地形だけに似通った産業で生業を立てるのは当然の事だろう。
それでは現在の村内を見ていこう。
集落内を碁盤上に走るかつての道、倒壊後に回収された廃屋建材の残りと最近に成って倒壊した最後の家屋、そして苔生した石垣が廃村だと強く感じさせる。正直霊仙の廃村群はどれもが廃村として不自然に綺麗…と言うか「廃村」と言うイメージ通りで写真映えするものばかり、だけれども向之倉集落に関してはリアルに「廃村」感じられる貴重な場所だと思うのです。
1990年代まではこの集落跡に実に多くの廃屋が残されていた、現在は倉庫以外の家屋が全倒壊してしまった。豪雪地帯でしられる鈴鹿山系霊仙地区、人の手を介さなくなった家屋は驚く速さで朽ちていく。
向之倉集落には一時期とは言えこの様な山間部に20軒の家屋が立ち並び、100人近くの人間が住んでいた。1880年頃の話だ。
それからは定住者が減り、冬季限定廃村と限界集落を繰り返しながら1985年に廃村と成った。しかしその後再度冬季限定廃村として復活、1992年頃まで人が住んでいた様だ。
人口の推移としては、
1880年 95人
1960年 52人
1965年 43人
1970年 10人
1975年 3人
1980年 2人
1985年 廃村
しかし元住民の期間在宅や冬季限定での廃村なども考慮すると1992年頃までは実は村民の出入りは在った思われる、現在この集落の関係者やご家族は各地に転居しているが今でも訪れる事が在るそうです。
廃村の一番の理由は他の製炭で生計を立てていた霊仙の廃村と同様、やはり多岐に渡る産業の燃料と成る「炭」が電気やガス、石油にとって代わった事が原因。国内では高度成長期を待たずして戦後電気機器が浸透し始め、工業が盛んに成ると石油の需要が増加。その為生産効率とエネルギー変換率の悪い炭は衰退、産業を失った村は他の経済需要を探して住民がこの地を離れるに十分な理由となった筈。
人口推移からも国内の炭に変わる代替燃料が色々と出始めた時期と一致、時代の流れによる廃村が全国で爆発的に増えた時期とも合致する。
向之倉集落入口から少し進み、山間部土手の下方に井戸神社が残る。この井戸神社には樹齢300年を越えるカツラの木が有名で県下一の巨木だと言う、御神木として地元民ならず行政の保護も受けていて町指定天然記念物と成っている。
樹齢300年と言えばこの村が形成した時期と同じ頃、人と木が同じ時間を過ごし、現在においては人が去り、この巨木だけが取り残されてしまっています。定住者が居なくなっても、せめて人々の歴史を見つめたこの木をこれからも大切に残していって欲しいと思いながら次の集落に向いました。
アプローチ
県道17号線、芹川沿いに集落までの舗装林道が延びる。
地図リンク
photograph - nee
ここから下はブログ内容と一切関係ないブログサービスの広告スペースです、誤ったクリックなどにご注意下さい