滋賀県│杉集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 霊仙廃集落群 - 杉集落跡
以前の霊仙廃村群のエントリーは以下より。
今回の多賀町廃村群エントリーは以下より。
旧脇ヶ畑村の三集落で一番歴史が古いと言われるのが実は杉集落だ、旧脇ヶ畑村の三集落と言うのは「杉集落」、「保月集落」、「五僧集落」なのだけどこの3つの集落は保月集落を中心とした組織的な集落を形成していた。
では複数の集落の中心だった保月集落より「杉」が長い歴史を持つと言う説が在るのは何故だろうか、それにはこの地名と他と異なる産業を保持した文化、それに山間部においての立地条件が物語るのだけど簡単に説明していこうか。
※ この地域の集落形成には諸説在り、現在はっきりその歴史を辿れる資料が在りません。当ブログにおいては多賀町史に加え、幾つかの関連書籍を交えた上で一つの可能性として語られる「三集落における杉集落最古開村説」を軸に話を進めて行こうと思います。
国道306号線から県道17号線に入り、道なりに進むと入谷集落や落合集落へ向うのだけどその手前の分岐で県道139号線に入れば別の廃村群に出会う事が出来る。
旧脇ヶ畑村の三集落。
さっきも書いたのだけど旧脇ヶ畑村の三集落は杉集落」、「保月集落」、「五僧集落」から成る組織的な連携を執っていた集落群で今回お邪魔したのは「杉集落」と「保月集落」、その内の「杉集落」についてエントリーしていこう。
この三集落については形成時期に諸説在る事は記述したけど当ブログでは杉が一番歴史が古いと言う説を推したい。
と言うのも霊仙の廃村群はどれも江戸後期から明治初期に掛けて村としての組織が出来上がっていたのだけど(後谷は除く)この杉集落、「杉」と言う名前が着く位地域の状況に則った村形成をしている。
命名は恐らく付近に点在する杉に関係する信仰に関係しているとの記述も良く見掛ける、杉坂峠の祠や御神木と共に祭られている杉坂峠の3本杉などがそうだ。樹齢は400年以上との事で他の村の形成より遥かに古い、つまり周囲にまだ村が出来て居ない当時にこれらの信仰が既に根強く定着した村が在った事を意味する。
今と成ってはその先の保月集落の方がこれらの信仰跡と近しい距離関係に在るが杉集落が出来上がった当時は付近の住民(山に点在する単独住居)も含めて杉集落を中心に生活していた事だろう。
ネット上で良く見る杉集落の以前の状況と随分と違う事に違和感を覚えた、写真でも解る通り倒壊家屋が増えているのだ。豪雪に加え人の手が離れた家屋の脆さは今前でエントリーした他の集落での様相と同じなのだろう、とても残念な事だ。
廃村時期は1976年(行政側は1973年と認識)の様で翌年の1977年には集落内の寺院だった公明寺も移設されている、寺院跡には「公明寺之跡」という石碑が建てられいる。
杉集落には他の山間部集落と少々異なる産業を手にする土台が既に用意されていた、それは「平地」である。他の集落の殆どが斜面にへばり付く様に形成されているのに対し、この杉集落は山間部の窪地に位置している為に村内が平地なのだ。つまり。
それは田畑などの通常農耕が出来る事を意味する。
山間部農耕はその規模や農作出来る種類が色々と制限されているが平地なら水路を確保する事で山間部では出来ない農作が可能だ、加えて周囲は山に囲まれている為他の集落同様に製炭なども行なっていた様だ。
成る程、杉集落から幾つも延びる山道(現在は廃道)の理由がようやく解った。近隣集落において他の集落に出来ない産業を手に入れていた事で沢山のアクセスを用意し、経済の運搬経路として利用していたのだろう。
特に有名な山道は桃原集落に続く物で今でも登山好きの方がトレッキングで使用するそうだ、国土地図では更に幾つかの分岐道を発見出来る。
家屋内部は既にこの有様、朽ちるのも時間の問題だ。
最近になって頻繁に人が来る様に成ったと話を聞く事が出来ました、実は訪問時に元この杉集落の住民の方が戻って来ていて話を聞く事が出来ました。
地震(東北地方太平洋沖地震)から自分の家屋や他の家屋などの倒壊が心配で見に来ており、以前から村内の掃除や管理で訪れているとの事。この様な辺鄙な廃村を知って貰う事は歓迎するが(地方文化などの面で)家屋内部を荒らしたり破壊行為をする輩も居て心配事は耐えないそう、一時期雑誌などにも取り上げられたけど現在は取材なども断っているのだと言う。
山間部へ延びる山道、この道はどうやら桃原集落へ続く様だ。
村内で一番の高台に残る廃屋、概観は今でも十分住めそうな雰囲気だが内部へ入るとそれがとても恐ろしい認識だった事が解る。
入口付近でこの有様、倒壊も近い。そして驚愕の内部へお邪魔する。
お解かり頂けるだろうか、家屋自体の重さで柱を含め家全体が押し潰されそうな程歪んでいる。正直アチコチでミシミシ言ってるのが怖くて直ぐにこの家屋を後にした。
以上で杉集落のレポートは終わりと成ります、町歴資料によるとやはりこの集落の形成時期は「とても古いが何時頃出来たのかは不明」という事らしい。先に書いた「杉」の信仰関連との繋がりは深い筈、だとすれば樹齢400年以上を数える御神木と共に歩んだ歴史が何処かに刻まれている筈だ。
山岳信仰、更に樹木信仰と自然を畏れ(恐れではなく)、自然を敬い、そして自然と共に生きた村民達の長い歴史は現在と成っては解らない。だけれどもその不明とされる村の起源を彷彿とさせる痕跡は到る所に残されていた、これから風化が進むその歴史もせめて人の記憶に留まっていてくれれば…そう思える廃村だった。
最後に町歴資料に残されている人口推移を見てみよう。
近歴での最多人口は明治時代、
1878年 18軒74人
それから昭和後期までは少しづつ人口は減少していく。
1970年 8軒14人
この時期に急激に減少する、鈴鹿山系霊仙の廃村群ではこの時期での衰退が顕著だがそのどれもが燃料産業(この地域で言う製炭)が後退した事による人口流出が最もな理由だろう。
1976年には完全な廃村と成るもののその後期間限定で住む元村民が居た為(併せて理由を述べるなら住所変更をしなかった為)1985年位までの10年間は人口推移の表に3人~6人の人口が計上されている、行政側の廃村認定では記述の通り1973年と成っているが幾つかの矛盾点は期間限定での廃村で在る為だろうか。
アプローチ
県道17号線と県道139号線の分岐を県道139号線へ、そこからは一本道で最初の集落が杉集落と成ります。
地図リンク
photograph - nee
ここから下はブログ内容と一切関係ないブログサービスの広告スペースです、誤ったクリックなどにご注意下さい