茨城県│東京医科歯科大学霞ヶ浦分院
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 鹿島海軍航空隊指令室(東京医科歯科大学霞ヶ浦分院/鹿島海軍航空隊司令部庁舎)
2010年最初のエントリーで探索レポートを書いたこの物件「鹿島海軍航空隊」基地跡、関係建造物の探索は以下の通り行ったものの本命の「鹿島海軍航空隊司令部庁舎」への撮影は不発に終わった。今回は1年振りのリベンジとして万全の準備と関係各所への仕込みを行っての再訪なのです。
と、言っても。
このレポートが掲載される2011年6月現在ではこの鹿島海軍航空隊司令部庁舎を含む周囲の区画で大規模な工事が行われている、その中には地震に関する補修工事も含まれていたのも幸いだった。復興工事の取材撮影扱いにて地元新聞社と出版社からGOサインが出たのだ。
厳密には屋内撮影に関する取決めが無かったのだけど「無い」が故にちょっとだけ、先っちょだけだからお邪魔しようかなぁ…なんて。まあコソコソせずに撮影出来るのは在り難いこってす。
この時のエントリーでは「機械室」、「変電施設棟」、「ボイラー室」、「倉庫」をレポートした。今回は既に書いた通り以前行く事が叶わなかった「鹿島海軍航空隊司令部庁舎」へと向う。
鹿島海軍航空隊司令部庁舎は1938年、鹿島海軍航空隊の軍用道路や関連施設と共に設置された。1937年の設置工事着工から1年余りで完成、設置当初は安中航空隊と呼ばれた様だ。
1938年5月11日に「霞ヶ浦航空隊安中水上隊」として運営開始、同年8月30日には「鹿島海軍航空隊」と改称。第2次大戦中は1000人を超える国内でも大規模な基地で実に多くの海戦に参加、1945年5月5日に練習航空隊の指定を解除。その後鹿島海軍航空隊北浦派遣隊と改称し終戦と共にその役目を終える。
その後再利用で東京医科歯科大学霞ヶ浦分院として長い間運営されるが詳細は後程記載するとしよう。
今回はこの鹿島海軍航空隊の「司令部庁舎」を探索、撮影を行ってきた。既に沢山の廃カーや軍需遺構フリークによって沢山のレポートがウェブ上にアップされているのだけど何番煎じだろうともやはりエントリーはさせて頂こうと思う。
それでは茨城県の鹿島地区に眠る大規模廃墟「鹿島海軍航空隊司令部庁舎」のレポートをお届けしたい。
1年振りの司令部庁舎、前回では周囲に沢山のブッシュがモッサモサで結構機材を気にしながらの探索だった、しかし今回は違った。司令部が置かれた頃に建設された滑走路の工事と先端海岸の護岸工事が始まっていて「倉庫」の隣に作業員ハウスが作られ、重機も搬入されている。随分と薮も取り除かれていて周辺の見晴らしは非常に良くなった。
前面正門跡からスロープを登ると以前は施錠されていた扉が開放されていた、お…おおお…お邪魔しましましま、エックシ。します。
あ、いや。余りに綺麗で舌噛み切っただけですよ、ご心配には及びません。
1階は暗い、お先真っ暗。僕の人生と同じだ、大丈夫だ…怖くない。
東側階段前、この階段が唯一屋上まで繋がる階段だ。
2階にやって来た、1階と打って変わって光が外から入っている。撮影しやすくて本当に素敵、しかし悪戯書きが多いなぁ。
が幾つかはセンス汁が滲み過ぎて思わずカメラが邪気眼レフ化する事も。僕が大好きで良く見させて頂いているブログ「くろべぇの廃墟」の中でこの写真を発見。
くろべぇの廃墟 - 鹿島海軍航空隊指令室(東京医科歯科大学霞ヶ浦分院)
http://blog.livedoor.jp/kurobee_ruins/archives/3980267.html
から1枚、
http://livedoor.2.blogimg.jp/kurobee_ruins/imgs/7/5/758b4fda.jpg
自宅で見つけた時など我が家のニャーズがフェレンゲルシュターデン現象を引起す程、プロの犯行と思われる。
廊下にも沢山の悪戯書きが、犯人はヤス。
暗い部屋で数秒開ける。
2秒開けてもこの写り、暗いなぁ。しかし雰囲気はすんばらしく良い。
3階に上がって来た、ここに来て更に廃墟としてのクオリティが上昇。悪戯書きは相変わらず酷いけど美しい物件である事は間違いない。
ここ、ここが見たかった。
アイシンクソートゥー
当時としては珍しい水洗トイレが設置されいた、実はこの建造物は歴史的な建造技術の資料としてもその重要度が高い。内装やその装飾、鉄部の加工技術、コンクリートの使用技術、電気や水道などの利用技術は国内でも取り分け高い物だったと言われている。
最上階、この上には貯水槽などが残る。屋上部分とこの上部に登って見た、カナリ目立つが誰も気付かない。直ぐ隣には稼動施設「独立行政法人国立環境研究所(水環境保全再生研究ステーション)」が置かれている、入口には警備棟も在り撮影には意外と周囲への注意(※1)が必要だ。
※1:研究所敷地内の建造物や内部の撮影は厳禁されていて撮影規約に色々と引っ掛かります
鹿島海軍航空隊司令部庁舎
1945年5月5日に練習航空隊の指定を解除され、その後鹿島海軍航空隊北浦派遣隊と改称し終戦と共にその役目を終えた司令部庁舎。しかしこの歴史的にも重要な役割を務めた建造物はその間々終わりを迎えた訳では無かった。
翌年の1946年12月2日、東京医科歯科大学霞ヶ浦分院が同舎に開院する、同敷地内には時を同じくして国立公害研究所が置かれる。双方の役割としては結核療養の治療、研究、実験などが行われ、近年の1997年まで運営されていた。
さて最後に。
鹿島海軍航空隊基地跡の随分昔の空撮写真を入手、撮影時期は1984年4月。まだグーグルマップどころか一般家庭におけるインターネットも普及するずっとずっと前の空撮写真。
この写真が撮影された1984年、良く考えてみれば東京医科歯科大学霞ヶ浦分院だった同舎の国立公害研究所が現役で稼動していた当時の貴重な写真だ。
どうりで敷地内は綺麗に整備され、今では解体された施設棟が数棟残っている筈だ。それではもう少しズームして見てみよう。
入手したのはフィルムベースなので拡大してもピクセルノイズは出なくてもどうしても少々ボケてしまう、お許し願いたい。
現在では取り壊され撤去された物、付近の敷地では新しく建築された物が写っていないなどの違いが良く解ると思う。と、言う事で現在の同じアングル空撮は以下。
ほら、随分と違うのが解る筈です。
特に今回取り上げた鹿島海軍航空隊司令部庁舎は国立公害研究所として現役稼動していたので当時の写真では小さなロータリーと植樹がとても印象的、現在では見る影も在りません。
結局残っているのは同舎とボイラー室、機械室、変電施設棟、そして少し離れた倉庫だけ。他は全て撤去されてしまいましたが何故これ等が残されたのかは解りませんでした、しかし時代を感じますホント。
こちらはつい最近(2007年頃の空撮)の鹿島海軍航空隊司令部庁舎をズームした物、ちょいちょい関係者や工事業者が入っている様です。写真でも関係者の車が同舎の前に止められています、無許可の撮影はお気をつけて。
アプローチ
美浦方面へ国道125号線を走行、JRA美浦トレーニングセンター→バイオ・エコエンジニアリング研究施設と探していくとそのバイオ・エコエンジニアリング研究施設の裏手が海軍鹿島航空隊基地跡です。
地図リンク
http://goo.gl/maps/CqrRi
photograph - nee
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