静岡県│東伊豆町隔離病舎
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 東伊豆町隔離病舎(伊豆隔離病棟/稲取隔離病棟)
心霊スポットとしても絶大な人気を誇る古い廃病院が伊豆に今でも残っている。随分古い建造物で地元民の間でも有名らしく、廃墟ブームが訪れる遥か以前より知られていた物件だと言う。
幾つかのサイトでこの場所の写真を見ていて直感した、こりゃー綺麗な写真が撮れそうだ…場所も直ぐに判明したので早速伺う事に。ゴールデンウィークで直上の国道は大混雑、しかし1本旧道を降りると時代に取り残され、自然の力に押し潰されそうな廃墟が眼前に現れました。
国道から旧道に下りる獣道が在り、10メートル程下るとこの病舎の入口部分に出ます。この病舎には沢山の俗称が在り、どれが正確な名称か解り辛いのですが1920年に稲取村が町制施行して稲取町と成ってからの地域の歴史を記した行政の資料を入手。
その資料にはこの病舎だけでなく付近の地理や歴史も詳細に記されていました、正式名称は「東伊豆町隔離病舎」だと判明。病舎の建設計画段階からどの様な経緯を辿ったかは少しづつお話して行きましょう。
この病舎には大きく分けて3棟の病舎とそれらを繋ぐ渡し廊下2本が在ります、竹林の斜面に別々に建造されていて主舎とされた中段の病舎から上段の個別隔離病舎までの階段廊下は現在倒壊しています。
写真は中段の主舎入口、この病棟では受付、診察室(検査室)、一般炊事室、一般病室などが機能していました、調薬室も在りましたが上段の個別隔離病舎までの階段廊下が崩壊した時に一緒に倒壊した様です。
中段主舎入口の内部から外側を、自然崩壊が進む中で今だ沢山の残留物が。暗いが中央には消毒用の洗面器が置かれていた。
因みに当時の隔離型の病舎では外部から(又は内部から)の服や靴なども相互出入りが禁止されていて(病舎全体の消毒能力や管理技術が今ほど確立していなかったので)この場所で靴は強制的に脱がされ、別室で服も着替えさせられたとの事。
主舎の病室、入口から数室の個室病室が用意されている。この隔離病舎の中でも比較的経度の病人が入院していた、隔離レベルの低い人が主舎で治療を受けていた様だ。
入口から左側最奥部、ここには複数のベッドが置かれ一般病室として機能していた。
よくこの病舎を戦前からの施設だと書かれたサイトを見かけるがこの病舎が運営を開始したのが1958年、実は意外と新しい近年の隔離病舎なのだ。この病舎が町営だった事もあり、翌年の稲取町と城東村合併による東伊豆町営を見越しての実験的な隔離病舎だった事も時代背景から解るだろう。
残されたベッドは2台、多い時は4~6台のベッドが置かれていたと記録に在る。しかしこの部屋にベッド6台は少し狭い気もする、1958年から運営されていた訳だけどベッドが旧式の物で予算的に厳しい病舎だったのだろうか…。
崩落した階段廊下を迂回して竹林の斜面を登ると最上段に個別隔離病舎が在った、この病舎は主舎と違い完全に隔離された個室のみの病舎で炊事室も別途用意されている。
ところで毎度の事ながら脳味噌が耳から垂れ洩れている心霊さん達のブログなどのエントリー内容が酷過ぎる。
・軍服を着た男が医師と話しているのが見える
・天然痘に冒された病人の苦しむ姿がアチコチに…
・伊豆大島近海地震で倒壊に巻き込まれた人が泣いている
はぁ…
施設の運営開始は終戦した1945年から10年以上経過した1958年、終戦後に軍を持たない日本に軍服に身を包んだ人間がなぜこの場所へ?天然痘はね、国内では自発発生は1955年で最後ってのは学校でも習う事だろうに。因みに伊豆大島近海地震は1978年、この病舎は1982に統廃合によって運営廃止の病舎。後は解るな…?
まあ心霊さんってのはまともに義務教育も受けなかった人達だから文字も読めないだろうし歴史を調べられないのは仕方の無い事なのかなぁ、
あそこに霊が見えます(キリッ
とか。正気の沙汰とは思えん。隔離されるべきはこの手の人達だと思うのだけど…。
当時の雑誌に混ざって近年のエロ本さんが、誰が何の為に…?
主舎、個別隔離病舎と見て周り、最後に下段の病舎に向う。
この病舎は詳細が記されておらず、また棟内も崩壊が進んでいてどの様な使用がされたのかが不明でした。正式な病棟名も残されておらず、ネット上で調べても判明せず。
中を見て周ると病舎っぽくないので事務室や書類管理室などに使用されたのかも、どちらにせよ病室と言うより病舎関係者の為の棟の様な気がするのだけど、うーむ。
さて、最後にこの東伊豆町隔離病舎の歴史をまとめようか。
東伊豆町隔離病舎
1957年から稲取町と城東村の合併への動きが本格化して1959年に合併が決定、予定通りに合併して東伊豆町がスタートする。
合併前に既に隔離病舎の計画を稲取町がしており、事実上稲取町が町営として合併前年と成る1958年に病舎の運営を開始。翌年1959年からは東伊豆町営として本格的な隔離病舎としての機能が始まる。
結核患者を主要とした感染症患者の隔離病舎で初期症状から中期症状の患者が大半を占めていた、末期患者は別に収容された施設が在り、ここでの治療は回復施術や投薬治療が行なわれていたとの事。
1978年に伊豆大島近海地震が発生、旧道、国道135号線共にこの病舎と連結していた舗装道路が分断。しかしこの病舎へは別のルートも確保されていた為に本来のアクセスルートを介さずに1982年までは運営がされていた。
と言っても地震発生の翌年の1979年には殆どの業務が終了していた様で実質は地震の翌年には病舎としての役目は終了、患者さんは町営管理病舎から近代病院へ移送され1982年には町営管轄が終了。現在土地の主有権は行政と成っていますが解体の為のルート確保や(旧道は地震以降崩落して分断された間々)予算の算出の問題で放置された状態で残っています。
主舎から個別隔離病舎への廊下階段は地震での崩壊では無い様で正確な時期は解りませんが1984年以降の台風などの影響で小規模な土砂崩れが発生して崩落した様です、この辺の資料は出て来ませんでした。
現在の国道135号線から旧道を見下ろす、通常の手段では行く事が出来なくなってしまった廃病舎はこの間々朽ちていくのか、それとも行政の手によって解体されるのか。どちらにせよそう遠くない内に見る事が出来なくなるだろうと言う事は解ります、個人的にとても撮影意欲掻き立てる物件でした。
周囲の廃道も気に成るので再訪するかもしれません。
アプローチ
国道135号線、トモロ岬方面へ南下すると友路トンネルを出て直ぐの脇に駐車スペースが在ります。その駐車スペース脇から下方へ降りる獣道が在るので降りれば病舎入口付近に出る事が出来ます。
地図リンク
http://goo.gl/maps/AUD0O
photograph - nee
ここから下はブログ内容と一切関係ないブログサービスの広告スペースです、誤ったクリックなどにご注意下さい