静岡県│嶺崎医院② 嶺崎邸 / 再調査編
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 嶺崎医院(怪獣病院/龍の砦/龍の籠)
2013年の初来訪から激動した翌年の2014年、鏑木氏から現所有者のYさんに所有者が移った事でこの廃墟もその姿を大きく変えようとしている。そんな中、最後の歴史的な記録写真(資料写真)の撮影を行うに至りました。
前回のエントリーでは嶺崎医院の病院部分をレポート、今回は住宅部分と成る「嶺崎邸」をご紹介したいと思う。こちらも2013年の段階では外装を目張りされた状態で内部は真っ暗、鍾乳洞探索で使用する高照度のライト1本を頼りに部分的に撮影は行ったもののやはりその時点で”再来訪”の3文字は頭に浮かんでいた。
今回は目張りも全て撤去し、外せる雨戸も取り除いて出来る限り自然光を室内に。そして物撮り用の照明を用意して病院部分と住宅部分の撮影に挑んでいる、全てを伝える事は出来ないけれど未見の方は導入エントリーと成る「嶺崎医院① 嶺崎医院 / 再調査編」をまず読んで貰えると幸いだ。
入口から玄関、病院部分をレポートした前回。一枚のドアを介して隔たるは住宅部分の「嶺崎邸」、本日はこの廃墟の核心とも言える素晴らしい意匠の数々をご覧頂くとしよう。
嶺崎邸玄関右手には直ぐに螺旋状に続く邸内階段が見える、この階段を中心に外側に各部屋が配置されている。何より驚くのが各部屋にはそれぞれ”その部屋専用の意匠”が施されており、にも関わらず全体的なデザインバランスは保たれていると言う点。まるで小説の章構成の様な建築デザインで住人は元より来客者をさぞ驚かせた事だろう、下から順番に紹介するけれど前回の冒頭でも書いたとおり、
”階と言う概念は存在しない”
って所を念頭に。それぞれの部屋が少しずつ上方へズレて設計されているので”階”が表記出来ない事を忘れないで欲しい、まずは「台所+食堂」からご紹介。
写真解説:階段入口の両壁面には電気操作盤(100Vと200V・病院と住宅部分での各ブレーカーなどが設置)、左側のドアは食堂に続いている。
嶺崎邸:食堂
階段側から食堂(カウンター外側)と台所(カウンター中側)と別の入口が用意されている、中階ベランダ(※1)を介して隣の部屋へ移動する事も可能。座席は全部で6席、ちょっとした居酒屋の店内の様にも見える。吊式の食器棚も当時はまず見なかったデザイン、国内の一般家庭で見れる様に成ったのは高度成長期以降の集合住宅が乱建設された時期からだから10年以上先のアイディアを取り入れていた事に成る。
据付家具にはデコラの様なパネルではなくて純粋にプラスティックパーツも多く使用されている、これも当時の一般住宅では余り見られなかった点。壁面クロスは廊下(玄関~階段)部分と同じ物、床のパンチカーペット(パンチクロス)も病院と同じ物が使用されている。
※1:接続ベランダが各部屋の隣に配置(円形の配置に角の部屋が設計されている)されているのは設計上の隙間を解消する為のアイディアとして採用されている、このベランダのお陰で建造物全体が円形に見える結果を作り出している。
嶺崎邸:台所
カウンター内側と成る台所側から、カウンター内にシンクが設置されていて奥はガステーブル台。本当に店舗の様な設計だ、手前には2ドアの冷蔵庫が在ったと思われる。写真でも解る様に狭い、が…必要な物は新たに家具を用意しなくても十分事足りる設計に成っている。
この限られたスペースで最大限の収納を可能にしているは棚を”置く”のではなくて予め設置している点、ここにも渡邉氏の設計に対する考えが散見出来る見所の一つ。
食器類は残されていないが細かな備品などの残留物はちらほら。棚類の可動もスムーズで大規模な清掃をすれば現役で使える状態にするのもそう難しくは無い、ただ電気配線が何箇所か断線している様で明りが灯らない場所が在った。
写真解説:設計当初から和洋(洋強め)の組み合わせが設計のポイントとされていた
嶺崎邸:老人室
建設当時の嶺崎氏の家族構成、その構成内容を考慮した各部屋の配置と配慮。それらは当時の関係書類から明らかに成っているのだけれどここでその詳細を記載するのはどうしてもプライベートな部分でもあるから留める事にする、ただ設計図に「老人室」と記載された部屋が在って純和室の造りから住人の中に年配者が居たと推測するのは皆さんの自由…としておこうか。
この「老人室」と呼ばれる和室、この1枚の写真から想像がつかない実に沢山のアイディアが施されている。
実は雨戸や各部屋に至っても同様の意匠は見て取れるのだけれどまず驚くのは窓、この窓枠には合計4枚の内戸が設置されておりまして。
・簾戸
・ガラス窓
・障子戸
・射光板戸
とそれぞれを自由に組み合わせて季節、気候、気温、雰囲気や気分に合わせた調光や風通しが可能と成っている。文章では伝え辛く、そして写真でも恐らくその素晴らしさは伝えられないのだけれど…うん、兎に角素晴らしい。
中央の暖炉は掘り炬燵としても使用出来、部屋は畳が敷き詰められている。天井の蛍光灯カバーには障子が使用されていて和風の雰囲気を壊さずにデザインを凝らした設計を実現している、また出入口とは別に各部屋を繋いでいる接続ベランダへの戸も上記4枚に+襖が用意されていた。
一見暗く見えるが全ての光取り入れ口を開くととても明るい部屋に、これ開放時の写真を完全に撮り忘れていました。
嶺崎邸:浴室
水場が集中する浴室部分、ここには脱衣場+洗濯室と浴室が配置されている。室内左側からは他の部屋と同じ様に接続ベランダに出る事が可能で実質この隣接する接続ベランダが洗濯物を干す場所にも成っている(最上階ベランダと屋上にも干し竿あり)、位置関係としては北側なのでメインは最上階ベランダ(東側)が干し場として利用された筈だ。
浴室の大きな窓からは北東方向を眺める事が出来て建設当時は季節毎の自然を楽しむ事も可能だった筈、残念ながら現在は住宅地が整備されて眺望は望めない。
位置関係の設計上の配慮としてはこの部分に水場を集中する事で配水管の取り回しを極力少なくした点だ、屋上の貯水タンクからも直下上の位置関係でしかもメインの排水経路までの距離が短い。水に因る侵食を避ける為のアイディアとも言える、この排水に関する設計は立地が斜面である事と道路が坂道である事の両方を考慮して考えられているのだけれどその点は長く成りそうなので割愛させてほしい。
嶺崎邸:脱衣場+洗面所
浴室右側から隣接ベランダには出れないがこれは設計上の妥協ではなくて”風呂場”としてのプライベートを保守する為に敢えて出入り口を作らなかった様だ。脱衣場からは別途用意されたドアを使用して接続ベランダに出る事は可能、洗面所としても利用出来る様に設計されていて給湯器も別途設置されている。
1960年代、一体どれだけの過程にシャワーが設置されていただろうか。それだけでも珍しいのにシャワーヘッドのデザインが当時高価だったイギリスデザインに見える…と言うのも。
一般的なシャワーは家庭用ボイラーが開発されてからの普及と考えれば1920年以降、イギリスが発祥とされている。勿論シャワーヘッドのみに代表される固定シャワーは14世紀辺りまで遡る事が出来るけれどそれは割愛、簡単に纏めると19世紀に現在の形が完成して20世紀初頭にヨーロッパで拡大した様だ。
日本国内においては1970年代後半~1980年代に成って一般化、そんな中で1960年代にシャワーなんて物をどれだけの人が日常的に使用していた事だろう。イギリスデザインのシャワーの造形も上記の事を踏まえれば納得、国内に在ってやっとその機構を取り入れる機会に恵まれた渡邉氏も日本では扱いが殆ど無いが故に本場の英国から取り寄せたと推測したのだけれど実際はどうだったのだろうか。
写真解説:このシャワーヘッドのメーカー、現在調査中です。ご存知の方、連絡求む。
嶺崎邸:寝室
階段(廊下)から入る最後の部屋、ここが寝室と成る。写真を見て解る様に光の取り入れ口が少ない…と言うか小さい。これも寝室と言う事を踏まえてだ、窓に関する意匠のアイディアは既に老人室の項で記載したが小さな窓も全てそのデザインが施されている。
因みにここでも網戸の代わりに簾戸が設置されている、各部屋には無かったエアコンも夏や冬の寝苦しさ、寒さ対策として設計当初から予定されてた。
左側に見える二つの小窓、そして電源には理由が在ってこの2箇所にベッドが置かれていた様だ。朝は自然光を取り入れて夜間は照明用に電源が直ぐ手元付近に設置されていた。
螺旋階段による”廊下”もいよいよ終焉を向え残すは最上階のみと成った、実はこの廃墟においてどうしても再現したい写真が在った。建設当初に取られた貴重な”現役当時”の屋内写真だ、最上階は居間+八畳間と成っているがこの建造物の中では特別な部屋(邸内で一番趣を凝らした)なのだ。
嶺崎邸:居間+八畳間(1972年撮影)
1972年4月に発行された建築関連誌「室内」208号(※2)に掲載された1枚、「龍の砦」として紹介され本当に貴重な現役時代の室内の様子を見る事が出来る。概観は関連誌や業界誌で資料写真を見る事が出来るが現オーナーのYさん持参の資料に何度も驚かされた、そしてこのアングルをどうにか現在の状況の間々再現出来ないか…現地でその気持ちが沸々と。
※2:1955年創刊のインテリア専門誌「木工界」が1961年に「室内」と誌名を変更。その中で建築家”渡邊洋治”氏を特集、「龍の砦」としてこの嶺崎医院を撮影した。残念ながら2006年に休刊(実質廃刊)し、50年の歴史に幕を降ろした。
嶺崎邸:居間+八畳間(2014年撮影)
使用したレンズが判明せず、撮影当時色々と持参した中ではこの1枚が一番当時の掲載写真に近しい物と成った。天井や障子、各部位が痛んでいるが現役当時を偲ぶ事が辛うじて出来ると思う。
この最上階が何より素晴らしいのはこのベランダから見える眺望、伊豆は宇佐美の湾を通して望む美しい相模湾の一言に尽きる。ベランダの向きには当初からこの眺望を視野に入れた設計が施されており、「龍の砦」において一番リラックス出来る居間に最高の視覚意匠を具現化した形だ。
夏には花火大会の打ち上げ花火が最高のロケーションで楽しめる事も確認済み、そしてそう遠くない内にその模様を写真に収めたいとも考えています。
嶺崎邸:屋上
最上階から屋上に移動、屋上にはBBQなどを楽しめる様に現役当時には野外シンクやガステーブル台が設置されていた。今でも照明用電源、安全灯、ガスの元栓、野外用水道管などが確認出来る。
特徴的な出入り口の意匠は舟のオールがモチーフ、引き戸は木製だけれども結構重い。
屋上もこの様に螺旋状にデザインされている、因みに写真は2013年当時の初来訪の時の物で防水処理がされてない状態だ。
屋上内に設置された据付のテーブル、当時は木製のイスが並べられていたが現在は撤去されている。左奥で光るのは安全灯で全ての段差下方に設置されている。
床の色が綺麗なのは現所有者のYさんが防水ウレタン加工を施した為、この怪獣病院購入当初から雨漏りが酷く、それは2013年の来訪当時にも管理人さんから指摘されていた。
これで屋内の腐りも進行が鈍化する事だろう。
出入り口脇の他にも水場が用意されていた、排水は床下を通り排水溝へ。
一定間隔で設置されている半円状のフックマウント、正確な使用用途は判明していないがメンテナンス時に利用された物だと推測される。
壁面の鉄骨部分の一部かとも思われたがどうやら別途単品で埋め込まれている様だ。
戦艦ならば司令部が置かれるブリッジ部分、設計当初の図面には描かれていなかったが貯水タンクの設置場所を思案した結果この位置に。結果戦艦としてのデザインの一部として機能し、貯水タンクとしても建造物最上部と言う絶好の場所を確保出来た訳だ。
左側に見えるのは「龍の角」、頭部に見立てた屋上差上部の左右に設置されている。
先程の頂上部分から降りて丁度最上階の真上に、前回のエントリーでも冒頭で紹介した旭日旗が掲げられている。アレ的な意味は全く無いので邪推しないように、いやホントに。
さて、実はこの貯水タンクを後から設置するに至り少々困った事が発生した。
このタンクの設置の為にマウントを増設してタンクをコンクリートで覆ったまでは良かったのだけれど最上部の床の排水が堰き止められる形に成り、排水が不可能に成ってしまったのだ。
そこで急遽この排水溝が作られ、問題を解決。建造物の見聞当初、この穴が何か全く解らずで謎残しと成る所だったが設計図や周囲の造形から現オーナーのYさんが推測。結果、用途が判明したのでした。
さて、一応はこれにて病院部分「嶺崎医院」と住宅部分「嶺崎邸」を一通りご紹介した。設計図と照らし合わせながら説明すればもっと事細かな意匠とその理由をお伝え出来るのだけれど余りに膨大なテキスト量と成るのでご勘弁願いたい、何れ別の場でお伝え出来ればと思う。
それではほんの少しだけれど細部の意匠とその意味を紐解いてご紹介しよう。
玄関前のエントランスから見上げるととぐろを巻く中心部に居る事が解る、そして目に入る特異な光の取り入れ口の数々。そして幾重にも並べられた板の様な模様、これらにはそれぞれに意味が存在する。
「龍の砦」と表される事で第1モチーフは勿論「龍」で在る事は間違いないのだけれどもう一つ忘れては成らないのが建築家「渡邊洋治氏」の前職”陸軍船舶兵”としての造詣、そして戦艦への拘りだろう。
建造物全体の並べられた板模様は「龍の鱗」を現し、また木造船の曲面造形にも影響されている。大きな光の取り入れ口(窓)は舟の排水口とされ、進行方向とは逆に窓が設置されている。結果東側の光を多く取り込む形に成っている(※3)。
※3:窓の位置は病院、住宅共に東北側、東側に集中している(大きな窓は東側に集中)。
散見出来るもう一つの小窓、このデザインも注目して欲しい部分だ。良く見ると全ての小窓(窓枠)が下へ向いている、これの意味する所は。
戦時下において車もバイクも夜間の走行はライトフードをレンズに装着し、遠方の敵から光が判別されない様に工夫していた。つまりは足元だけを照らす様にしていた訳だ、戦艦は海に浮いている訳で例え光を下方に向けても反射でばれてしまう…では何故窓枠がこの様なデザインに成っているのだろうか。
答えはここから銃身を出して敵船や小型の接近する船舶を掃討する為に戦艦ではこの様な銃身口が在ったから、これは「龍」よりも「軍艦」としての意匠を優先させた結果だが渡邊洋治氏らしいと言えばらしい表現だろう。
意外と知られていないがこの怪獣病院、実は庭が広い。目に見える庭の他にも池を挟んで山の斜面上部までその敷地が広がっている、池には橋やししおどし(※4)、灯篭まで在る。
斜面には野面積みで築かれた石垣、斜面には階段も用意されている。本当にこの驚かされる事ばかりの嶺崎医院、まさか庭先に池まで在るとは。これは薮を払った結果姿を現したもので2013年の放置期間が長かった来訪時(しかも夏)の時点では気付きもしなかった事。
※4:”ししおとし”と発音されたり色々と勘違いの多い”ししおどし”、漢字では「鹿威し」と書きます。もうお解りの方やご存知の方も居るかと思いますが一応リンクを貼っておきましょう。
ししおどし - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%97%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%81%97
嶺崎邸:外壁面意匠
さて、二転三転と調査が難航したこの嶺崎医院の基本構造について簡潔に答えを出すとしましょう。この作品(龍の砦)が一般的に公表された当時、関連誌では”RC構造”と表記しました。RC構造とは”Reinforced Concrete(補強されたコンクリート)構造”の略でつまりは鉄筋コンクリート建築を意味します。
しかし2013年、この廃墟に来訪した際に対応して頂いた管理人さん曰く「実は木造、外壁を良く見れば木目が見えるだろう」との事でその話を検証する事なくブログでも掲載してしまった。
はい、やっぱり「RC構造」でした。
写真を良く見て欲しい、確かに木目が見て取れる。角材、板材…それぞれが位置する場所に適切に配置された木材の様に確かに見える、が。
これ、事実を知ってホントに驚きました。全部ですね、
模様
なんです。その場所場所に適合した木材をコンクリートが硬化する前に型枠成型、完全硬化後に剥がして洗浄…それを家一軒丸ごとやってのけているのがこの「龍の砦」なのです。
スロープ天井面、これも昔の学校の教室の床を思い出させる模様です。一枚一枚全て違う板模様が貼られ、それぞれが別の模様を描いています。わざと隙間を作り、木目っぽく見せている所も注目すべきポイント。この基本的な構造に気が付いたのはオリジナルの設計図を見て整合性が取れて初めての事でして、調査内容といえファーストアナウンスで検証不足の情報を掲載した事をお詫び致します。
実は実際に裏も取れていまして、人目に付かない壁に剥がし忘れの装飾用に使用された型枠を発見したのです。写真の木材は建設当時の物でその後誰にも気付かれずに残っていました、これは今更剥がすのは野暮って物です。
その間々にしておきたい当時を偲ぶ証人に成って頂きましょう、と現所有者さんにはお願いしておきます。
一番驚いた木調装飾はこれ、ホントに1960年代の日本人がデザインしたのかと。
これ、駐車場の主柱なのだけれど見えませんかねぇ、釘の様な物が。もうお解りでしょう…化粧用の木材に釘を逆打ちしてめり込ませ、先端が外を向いた状態で枠成型。結果主柱コンクリートには木目と釘を打った(様な)模様が残されいる訳です、凄過ぎぃ。
排水口です、船のそれと同様にデザインされ役目も同義。各ベランダ、屋上から数本が一周する様に設置されていました。
何もかもが驚きの連続で撮影も当初の予定を5時間程オーバー、終った頃にはすっかりと夕方で他にも予定していた取材が若干押したのはまた別の機会にでも。
以上で建造物に関するレポートは終了です、前回今回とちょいちょい出て来たこの建造物の歴史、そして沢山の検証すべき事象。これらは次回纏めてお伝えするとしましょう、次のエントリーでは建築家の渡邊洋治氏、最初の所有者嶺崎氏、2番目の所有者鏑木氏、そして現在と今後のこの「龍の砦」について詳細を語る予定です。
ただの廃墟探訪から建造物とその所有者の歴史をこんなにも長く追い続ける事に成るとは全くと予想していませんでした、が…興味が在ればですがもう少しお付き合い頂ければと思います。
更にこの物件の深い場所へお連れ出来る筈ですよ。
現在この怪獣病院(嶺崎医院)保存の為の改修工事を行っております、今後のこの建造物については近日公開予定のウェブサイト(怪獣病院保存プロジェクト仮)で公開予定です。詳細が決まり次第、当ブログでもアナウンス致します。
※ 不法侵入が頻発した為に敷地内警備を強化致しました、無許可の撮影や進入はご遠慮下さい。
※ 取材(報道及び大学関係者)・撮影の申請などは今後公開予定のプロジェクトサイトをご覧下さい。
アプローチ
国道135号線から県道108号線を伊東線宇佐美駅方面へ。そこから私道を2本経由して川を越えた住宅地に在ります。
photograph - koichiro(FUJIOKAPIX)/ 6FROGS DESIGN WORKS
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