岩手県 │ 和賀川発電所跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 和賀川発電所跡(旧和賀川水力発電所)
2013.01.15 - 詳細問い合わせ多数の為に追加エントリーしました。
有名物件の為にこの発電所の詳細を割愛していましたが昨年末(2012年)辺りから何故かお問合せが多かったので以前机上調査した内容を追加エントリーとして掲載したいと思います、と言っても沢山の廃墟サイトや林鉄サイトで解説されているので殆どの方がご存知の内容かと思います。
最後尾に追加エントリーが在ります、ご覧下さい。
美式(うつくしき)かな、久し振りの廃墟美を堪能せしたるは岩手県の山中に在る旧発電所跡。余り取上げられる事がない物件だけどその美しさと言ったらもう、見た瞬間眉毛がごっそり抜け落ちるレベルなのです。
さて、この物件「和賀川発電所跡」。まずアクセスが容易ではない、物件後方に聳える山を巻くか手前を流れる川(和賀川)を渡るかの何れかと成ります。川は比較的浅いのですが流れが急な上、場所によっては沢屋位しか歩けないガレ沢状態。
よって人気のルートは山を巻く方に成ります、僕らも今回は当初そのルートでアタックしたのだけど台風のおかげで土砂崩れを起こし、地形図と合致しない事ともはや山屋でも無理(岩屋ならまあ行けます)な地形へと変化しておりまして。
結局は川を渡るルートを選択したのですが運の良い事に素晴らしい協力者と出会う事が出来、比較的安全にこの廃墟に到達出来ました。
それでは美式「和賀川発電所跡」のレポートをはじめましょう。
先人の例に倣って僕も山を巻くルートを選択した、と言うのももう一つの前菜物件がその手前に在るからでして。
なんでも踏み板の無いオッカナイ吊橋が在るとか無いとか、在っても首だけ無いとか。割橋ストとして吊橋は大好物な物件、行くしか在りません。
この和賀川発電所跡は岩手県北上市の「和賀仙人」と言う変わった駅名の近くに在る事は知っていた、航空写真でも確認出来るし国土地図さんで地形図もバッチリ。
現地入りしても迷う事無く車のデポ予定地まで到着する事が出来た、それでは早速参りましょう。
車のデポ地はこの場所、この場所の直ぐ脇に「踏み板の無い吊橋」とやらが在るらしい。皆さんはそこを渡って「和賀川発電所跡」向かっているらしいのでまずは前菜を頂きに、さてどんなモンよ。
え…っと、これ?いや…確かに踏み板は無いけど、さ。低いし揺れないし、えええ?普通の吊橋やんか、いつもの相棒もガッカリ気味。
比較的怖がりな弟子(26♀)も普通に渡ってる、あれ…ココじゃない…?
photograph:+10
渡ってみて暫く周辺の地形を確認する、うーん等高線通りの地形じゃな無いなぁ。初めての山でルーファン間違えると何があるか解らん、しかも今回は弟子と関西からゲストも迎えての合同撮影。相棒と2人でいつもの無茶は出来ない、ロープを使用すれば何処でも登る事は出来るのだけど。
当初予定していたのはこのルート、実はこの山には定期的に人が入っている様で行政の山林調査用の作業道が薄っすらと残っている。お馴染みの赤スプレーや赤紐も随所に在るのだけどどうも様子がオカシイ、斜面のエグレ具合が普通じゃない。
こう言う時って絶対無理しちゃ駄目、大怪我の素です。
後から知ったのだけど台風で土砂崩れが起こり、地形が随分変わってしまっていたのだ。その時はまだその事実は知らなく、どうしたもんかと悩む。
時間の無駄に成るので引き返し、川を渡るルートを再度検討する事に決定。しかし予定していなかったのでココでも30分程崖下に下りる場所を探す事に成った、どうにも地形がアクセスを許さない。地元の方に道を聞くがそれも少々僕達の本意とはズレていた、地図を見る限りとある場所からアクセスし易い所が在る…行ってみるか。
赤丸の部分、ここには等高線が描かれていない。ポイントなのは対岸にも描かれて無い点、これはこの部分が川の水位と1000mmも変わらない事を顕著に教えてくれている。
ココしかない。
しかも写真だと解ると思うけど川にガレ砂利(小岩)が集まっていて川底が浅い事を示している。んだどもどうやら工場の敷地内、許可を取るしかありますまい。
ご協力頂いたのは日本重化学工業株式会社南岩手事業所の方、通常は許可など出さない様でそもそも無断でこの場所からアクセスしようとする者も居て警備している位だそう(実態は廃墟じゃなくて釣り目的らしいけど)。
僕らには地域民俗学の調査と登山と言う大義名分が在ったのが幸いした、道案内までして頂いて自分達も6年位前にあの廃墟には行ったよと教えて頂いた上に色々と親切にしてくれスッカリほノ字。
東北人は優しいなぁ。(しみじみ)
これでお膳立てはやっとこだけど揃った、行くぞ「和賀川発電所跡」に。
途中この「和賀川発電所跡」にアクセスする為に作られた吊橋が廃橋(※1)として残っていた、崩壊具合が栃木の「旧竹の上橋」にソックリで割橋ストの血が騒ぐ。
が、今回はこれじゃない。先を急ごう。
※1:この発電所へのアプローチルートは過去3本、吊り橋が2本と陸路が1本在りました。現在は2本の吊り橋は崩落し、陸路も自然に還りつつあります。当初の渡川に利用した踏み板の無い吊り橋はこの発電所用ではありません。関連施設を含めると全5ルートで詳細は最後尾の追加情報にて説明します。
「 ぅぉぉお… 」
相棒がこの美式「和賀川発電所跡」を目の当たりにして興奮している。
「 うおおおぉぉぉおお小田急線の車両は化け物か 」 うっ
「何の話してんだよ、落ち着け」
吹き矢で相棒を眠らせて場を収め、残った者で向かう事に。さらば、相棒よ。
( ゚д゚)!?
素敵ー、耳から血のゲロ吐きそー。これは好物です。
緑と廃墟は大好物なんですよおおおぉぉぉおお小田急線の車両は うっ
入口からしてもうヤヴァい、夜間撮影でライトマジックやりたいなー。
oioi(おいおい)これはヤベェな。こりゃ今まで見て来た廃墟の中でも3本の指に入る物件ではありませぬか、血が滾るな…おい!弟子は何処だ。弟子っ(26♀)!
|д・)
「ちょこっち来い、ワリとマジで」
|д・) < またぱーんってやるんでしょ ※ 田老鉱山、松尾鉱山レポート参照
「やらねぇよ、やるとしても言わねぇよ」
|д・) < いや、そこは誤魔化せよ
「ほら、どんどん焼きあげるから。キャベツ太郎もあるぞ」
|・д・) < 現金3万円やてぇ?
「ねぇよ、ねぇし言ってねぇよ」
「まあ100円位ならあげてもいいかなぁ…」
|...(・д・) < ト、トリニダードトバゴ$で…
「…」
「…?」
「…」
「???」
「…」
「せめて何か言わないんですか?」
1940年稼動開始、1964年の稼動停止までの24年間と言う短い期間水力発電所として地域の鉱業電力(※2)を支えた。
種別:一般水力
形式:落差水路式
方式:流込利用式
当時の認可最大出力は解らなかった、似た様な水力発電の方式は多かったけど年代的にはちょっと時代遅れだったかもしれない。
しかしタービン室の広い事、そして高い事…高い、うん…高いなら登らないとね。
※2:極一部が家庭用に利用されていましたが基本提供先は鉱業施設への送電でした
なんという。
正面口の上部にタラップが在ったので登ってみた、ちょっとした屋上スペース(更に本当の屋上が在ります)が広がっている。端からパースを利かせて一枚。
それでは始めますか、この場所に来る事自体随分と面倒な場所(※3)なのだけけれどコレだけは真似しないで欲しい。
本当に。
※3:2015年現在、この場所へ至る幾つかの場所で崩落の危険性が確認されています。
この写真が撮りたかった。
ありがてぇありがてぇ
タービン室の2階、台座の形状からして設備用の発電機か誘導電動機が設置されてたのかなぁ。廃墟美は素晴らしいけど歴史(※4)には余り興味が沸かない物件なのです、地域の過去の産業を考えると恐らくは鉱山関係の電力を担っていたと推測されるのだけどその鉱山物件がここから遠いのと資料が上手く引き出せなかったのが原因。
いずれ本格的に調査するかもしれません。
※4:お問い合わせが多かった為、行政の協力の下2013年に追加情報を掲載しました。
( ゚д゚)!?
ジャッジ、これは…。
「はい、美しいでおま」
ん?誰だ今の。このタイミング…まさかちくわ大明神の人か。
タービン室の地下、この更に下層にはサージタンクからの水路などが在ります。タービン室から複数開いている穴(タービンシャフトとクランクギアの穴でしょうか)からこの層、更に下層と結構な高さが在るので撮影時は注意しましょう。
地下から戻ると相棒と弟子が撃ち合い(ホローポイント弾R.I.P.)をしてました。
元気だなぁ。
時間の都合でサージタンクには行けず、折角ラペで降下しようと思っていたのに本当に残念だ。しかし驚くべき美しさで僕らを魅了したこの廃墟「和賀川発電所跡」、来る者を選ぶだけ在って人為的な崩壊は全く無い。
それ故自然に任せた朽ち具合が素敵な良物件でした、機会が在れば是非再訪したい場所です。類似物件だった埼玉の「矢納水力発電所」のリンクを最後に記載して今回のレポートは終わりたいと思います。
2013.01.15 - 詳細問い合わせ多数の為に追加エントリーしました。
有名物件の為にこの発電所の詳細を割愛していましたが昨年末(2012年)辺りから何故かお問合せが多かったので以前机上調査した内容を追加エントリーとして掲載したいと思います、と言っても沢山の廃墟サイトや林鉄サイトで解説されているので殆どの方がご存知の内容かと思います。
旧和賀川発電所
まずはこの発電所の成り立ちを説明する上で大切な湯田ダムについてウィキペディアの一節を引用して解説を始めよう。
ウィキペディア - 湯田ダム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%b9%af%e7%94%b0%e3%83%80%e3%83%a0
1953年より実施計画調査に着手したが、ダム建設に伴い湯田町中心部が水没する事で反対運動は強く困難を極めた。湯田ダムが完成すると湯田村の中心部が水没する。水没対象となるのは湯田村川尻・大石・大荒沢の三集落、民家405戸・622世帯・3,200人でこれは小河内村(現在の奥多摩町)全村が水没した東京都の小河内ダム(多摩川。奥多摩湖)の945世帯に次ぐ全国最大級の水没世帯数となるからである。これに加え水田63ヘクタール、畑地57ヘクタールといった農地、国道107号線約13キロメートル区間と村道約22.5キロメートル区間、国鉄横黒線(現在のJR北上線)大荒沢駅・陸中大石駅・陸中川尻駅の三駅と15.3営業キロメートル区間、鉱山13ヶ所そして水力発電所2ヶ所及び発電用ダム1基が水没するという大規模かつ複雑な水没物件となる。このため補償交渉は村民・国鉄・鉱業権所有者・山林所有者・水利権所有者と多岐にわたるものであった。
約3年間、全くの膠着状態が続いた。この時期は田子倉ダム補償事件を始めダム建設に伴う水没地域問題がクローズアップされており、全国屈指の補償問題となった湯田ダムは新聞などで報道がなされ注目された。事業の早期進捗を願う事業者の建設省は度々住民団体と交渉を進めたが、生活基盤が完全に喪失することを懸念する住民との溝はなかなか埋まらなかった。事態が動き出したのは1956年(昭和31年)9月のことで、建設省は水没補償基準を発表したのと同時に補償方針を定めた「湯田ダム水没者更生大綱」を発表。水没対象者の生活再建について最大限住民の要望に沿った形で進める旨を示したのである。これに対し水没者側では翌1957年(昭和32年)5月に開催された湯田村ダム水没者大会において「大綱」に応じ、補償基準の妥結を決議した。住民側の大多数は家屋現物補償による村内近隣への集団移転を要求、建設省もこれに応じダム水没予定地上流部の湯田村館・上野々・耳取の三地域を移転地として計4万坪の宅地造成を行った。この移転地は生活道路・上水道・電気といったインフラが完備されたものであり、1963年(昭和38年)頃にはほぼ移転を完了した。
国道107号線付け替えについてはダム水没予定地の北岸に道路を新設。国鉄横黒線付替えについては国鉄との合意で1959年(昭和34年)8月より付け替え工事に入り、ダム水没予定地の南岸に路線を新設すると同時に陸中川尻駅を水没予定地西端に、陸中大石駅を南岸にそれぞれ移転。さらに下流にある和賀仙人駅も移転させてルートを付替えた。大荒沢駅については大荒沢信号場に格下げし、1970年(昭和45年)廃止された。鉱業権補償については湯田村が東北有数の鉱産地であったこともあり難航、鉱産物内容の評価鑑定によって補償を行う方針とし東京大学や東北大学から専門家を招聘し鑑定を行った上で補償を行った。水力発電所の補償については、東北電気製鉄(現在の東北水力地熱)が所有する発電用の大荒沢ダム(重力式・26.0メートル)と出力15,500キロワットの発電所が水没することから、代替補償として湯田ダムを取水口とした和賀川発電所(後述)を建設することで妥結した。
こうしてダムによる水没補償は1960年代には概ね解決したが、その後の水源地域対策特別措置法制定(1973年)を始めダム事業において多大な影響を与えた補償交渉となった。北上川流域全体の治水・利水のため3,200人に及ぶ関係者の犠牲の上に成り立った事業ともいえる。
ここで勘違いし易いのは上記の和賀川発電所と「旧和賀川発電所」は別物と言う事、大荒沢ダムと共存していた「旧和賀川発電所」は湯田ダム建設の為にその役割を終える事に成ります。
元々は東北電気製鉄(現日本重化学工業)の鉱業用発電所として大荒沢ダムと時を同じくして建設された訳ですが湯田ダム建設の為に大荒沢ダムは錦秋湖に水没処理されます。大型発電什器を撤去され、放置されてから約50年。解体の予定は全くなく、行政としても現段階でこの発電所の処理に関してはノータッチと成っています。
因みに新たに建設された「和賀川発電所」に関して。
湯田ダム建設に伴い、ダム水没予定地の代替補償が問題と成った。その中には鉱業用発電や個人宅へ送られるインフラ用の発電を賄っていた大荒沢ダム水力発電所が入っていた為、新たに代替発電所として「和賀川発電所」の建設を発案。
諸々の代替補償問題が1960年代の最中右往左往するのだけれど発電に関しては決着を見る、建設は1961年から開始され運用は1963年の12月からと資料には在る。
水力発電所のデータベースとも一致する内容だ。
水力発電所データベース - 東北 > 北上川 > 和賀川
http://www.jepoc.or.jp/hydro/index.php?_w=usData&_x=detail2&pp=1&OwnerNo=514&AreaNo=02&RiverSys=2340&fd=1
この廃墟に訪問するには大凡5ルートが在る、メジャーなのはサージタンク建設時に使用されていた吊橋を渡って急斜面(若しくは通常の登山ルート)で迂回する行程。次に良く使用されるルートは眼前の川を直接渡ってしまう行程、これは水量や水温、季節などに寄って厳しい時期も在るので留意して欲しい。
今回のレポートでは台風直後だったので水位の低い場所からの特殊なアプローチだった、エントリー内でも書いたけれど企業敷地内なので通常は使用出来ないと考えて欲しい。これが第3のルートだ。
残る2つのルート、これは中々知られていない。と、言うのも一つは森林軌道(北本内川森林鉄道)の旧作業道で現在は殆ど道筋を辿るのが難しいからだ。もう一つは旧道を歩くルート、有名な廃道サイト「山行が」さんでも歩かれているルートで関連廃墟も数件見る事が出来る。
しかしとんでもなく大回りな迂回コースと成るのでオススメはしない、よって詳細な地図の記載は控えるけれど調べれば直ぐに判明するだろう。
以上、追加エントリーはこれにて完了。もう一度位は行ってみたい素敵な発電所跡「旧和賀川発電所」、少々危険な場所に在るので行かれる場合はお気をつけて。
アプローチ
秋田自動車道北上西ICを降りて県道225号線を北上m国道107号線との合流で左折(和賀仙人方面)。国道107号線(子規ライン)を暫く走り、2度目の川越え(和賀川)後のT字路を右折し山間部へ。大きくL字クランクに成る場所に車のデポ地として最適な空間が在ります、目印は廃橋と成った石造の主柱です。
地図リンク
https://goo.gl/maps/TFasfJnYqGC2
photograph - nee
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