千葉県│天津滑山 大山祇神社
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 神道教派 御嶽滑山大山祇教会
※ デザインリニューアルに伴い多少の記事修正を行っております、更新当時(2012年)とは若干相違しますが出来る限り違和感の無い様に再構築しました。追加情報などのエントリーは最後尾のシリーズリンクよりご覧下さい。
興味を持ってから継続的に訪問、調査を続けて来たとある廃神社がある。そう、このブログで以前ご紹介した「天津滑山 大山祇神社」だ。この神社に関しては初動の段階で行政に協力を求めて資料を送付して頂き、更にはこの神社付近をカバーした地域民俗学の書籍まで購入して更なる理解を深めて来た。
前回の訪問時のエントリーは下記より。
前回のエントリーを読んだ上でお召し上がり下さい、何卒宜しくお願い致します。
今回再訪時の写真、現在は残念ながら休止中の同好の士ブログ「K weblog」のけいさんのレポートなどを引用しながら調査結果をご紹介したいと思う。快く御協力頂いた上記サイトのけいさんに改めて感謝、それでは早速レポートを始めよう。
http://blog.livedoor.jp/kei_oh19
今回この神社の追加調査を進めてきたのには理由がある、その理由を以下にリストしてみた。
〇 開社時期(歴史)がハッキリしない
〇 県内では珍しい主要地(据地及び異なる神道理念)が異なる御祭神を合祀
〇 現在でも参拝客が何故か絶えない
この3点がどうしても気に成っていた、もやもやっとした間々レポートを公開し続けるのが気持ち悪かったのでその後四方八方手を伸ばし、色々と調べる内に面白い事実が浮き上がって来る。
そして参拝客への直接取材で見えて来た地域密着型の信仰、近辺地域の住民の聞き込みと麓に在る天津神明宮との関係性。参照する文献や資料によって相違する歴史と開社の目的。
さて、どこから話したら良いものか。
そうだな、まずはその廃れっぷりで興味を持ったこの「大山祇神社」、初訪問から時系列で写真を並べて崩壊具合を検分してみようか。
2011年02月、初めてこの場所を知る事と成った、
房総の日々 - 太平洋を望む滑山へ
http://takaki-i.blog.so-net.ne.jp/2011-02-16
内での写真をご覧頂きたい。
今見るとこれは結構綺麗な状態だった事が解る、左側の柱は直立しているし背後の壁も半分以上がまだ抜けてない。しかしこの1ヶ月後、東北関東を襲った311の震災が起こる。
ウチの撮影部隊が初めて訪れたのが2011年07月、震災の影響で左側の柱が折れて少々傾き始めていた。しかしまだ背後の壁は残っていて折れた柱を残った壁が支えている。
「K weblog」のけいさんが2011年9月に訪れた時の模様、背後の壁が崩れ落ちて屋根を支えていたブレスが殆ど崩壊。建造物全体が大きく左に傾いて来た事が解る、そして右側は見えない後ろ側で崩壊し始めている。
2012年1月再訪、いよいよ崩壊が秒読み段階に。以前と大きく変わったのは左側の壁が全て崩落、裏口の側面が外側に傾き、更には屋根が半分無くなっていた。地元の方にお聞きした所2011年9月後半の台風で一気に崩落が進んだ様だ。
さて、それではもうちょっと解り易く検証してみよう。
最初の訪問から約半年、2011年7月の画像と2012年1月の画像を比べてみた。度重なる震災の余震や新たな震源による地震、そして初秋の大型台風。これによって半年間でどれだけのダメージを被ったかお解かり頂けるだろう。
※ 赤線は2011年07月の部分軸
※ 緑線は2012年01月の部分軸
まず①、これは屋根を支えている内部の横を走る支柱の傾きの変化。外からは解らないけどこれだけ左側に下がったのだ、それによって屋根全体が入口手前にずり落ち、台風によって屋根瓦は半分ほど滑落している。
次に②、これは見えている横を走る入口上部の支柱の傾きの変化。前面の2/3が左側へ傾いている。
③は左側の柱の傾きの変化だ、途中で折れた角度が更に進んでいる事が解る。また立体的に見ると左側側面が上を向き始めた、つまり潰されそうに成っている状態。
④の丸の中には屋根が崩れ落ちた時の瓦礫が横倒しに写っている、⑤は手前屋根部分の突き出しが以前より突出した事を現している。
この他に内部の床は抜け落ちが進み、裏手の壁も一部崩壊。炊事場は奥へ倒壊しつつ在った、大きな地震を待つまでも無く近々崩壊してしまうだろう。
なんだろう、ちょっと泣きたくなって来た。
と、まずは概観に関してのご報告。たった半年なのにこれだけの崩壊が進んだのは地震と台風の所為だけでは無いかもしれませんね、何よりは信仰が薄れ、これが一番の原因なのではと。
少々怖い気もしますが内部を見てましょう。
入口から入って右側の小さな祭壇、やはりこちらも2011年07月の段階より随分と崩れかけています、正面の祭壇や押入れの状態は特に変化なし。
祭壇脇の崩れた壁から裏側を覗きます、こちらも特に変化は在りませんが祭壇裏は壁が傾いています。
正面の賽銭箱から左側側面を見ると実に危険な状態なのだと言う事が解ります、本当にギリギリのバランスで建物が建っているんです。
表から見るとこうだもの、こう…だもの…。
振り返ります、右奥の柱が折れた時点で崩壊するでしょう。屋根も落ちてしまい、内部は今まで以上に朽ちる速度を早めています。
奉納額が屋根の崩壊によって天井から落ちていました、2011年9月の台風の所為でしょう。普通「奉納額」は学術的な算額や文化などを記した絵図が多いのですが此方の「奉納額」は二代目教主から三代目教主に移行した折に改修を行い、その時に寄付をした人物が書かれていました。
中央に篆書体で「奉献」と書かれ、以下貢物をした人物の名前が書かれています。大山祇神社の神様はオオヤマツミ、酒造の神としても知られているのでさぞ奉献酒も多かった事でしょう。
篆書体 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e7%af%86%e6%9b%b8%e4%bd%93
オオヤマツミ - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%82%aa%e3%82%aa%e3%83%a4%e3%83%9e%e3%83%84%e3%83%9f
気に成ったのは左側の奉献日の記載、「明治35年(1902年)」と書かれています。右側には「上総国長生郡一松村」と書かれている事、おいおい…旧高旧領取調帳で確認したけどこの場所より随分と上の地域だぞ?今でも該当する長生村と言う地域が県内に成るのだけど「九十九里」の辺りなのだ、あれ…?この奉納額ってはこの「大山祇神社」の物ではないの…か?
んん?そう言えば該当する地域にはデカイ神社が在ったなぁ…えーと一ノ宮の辺りに…。
地図を確認すると…、一松村って丁度この辺だろ…、あっ。
玉前神社
http://tamasaki.org/home.htm
いやいやいや。玉前神社と大山祇神社は同じ神道でも山岳信仰と海信仰で由緒も神様も違う、関連性はない、ただ気に成るのは雅楽の面が大山祇神社置かれていている事。いや、別に神社に天狗面が在るのは何も不自然では無いのだけど上総神楽ってこの地域では有名だしなぁ。
うーむ、解らん。この奉納額に関してはかなり調べたのだけど解りませでした、申し訳ない。
※ 他にも疑問点
普通奉納額って祭壇の間の天帯上部に掛けるのだけどこの額、入口裏側の上部にヒッソリと掛けて在った様でして。きっと何か理由が在る筈なんですよ、理由が。
ささ、これで概観と内部の現状の様子はお解かり頂けたと思う。次にこの神社の歴史を以前のエントリーより更に掘り下げてみようか。
まずは前回のエントリーのお浚いからしましょう。
一般的な文献で最初に登場するのが1894年、「大山祇大神と御嶽大神を合祀し、御嶽滑山巴教会所と改称」との既述。
つまりは「大山祇大神」と「御嶽大神」のそれぞれ隣接する形もしくは同時期に同所で存在したという事、何故ならば麓の「天津神明宮」が房州伊勢の宮として1184年には存在して居るからです。本来なら、
大山祇大神→天津神明宮の大山祇大神へ吸収
御嶽大神 →天津神明宮の御祭神へ合祀
この様な形に成る筈、それを態々「大山祇大神」と「御嶽大神」とで合祀するには何か理由が在った事だろうと推測出来る。その要因の一つに「隣接もしくは同所」が重要な意味を持っていてもおかしくはない、その証拠は実は後々出てくるのだけどその前に。
※ 大山祇大神は1908年に実際合祀されています。(詳細は後程)
まずはそれぞれの神様と総本社について知ってもらおう。
大山祇神社
大山祇神社 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%a4%a7%e5%b1%b1%e7%a5%87%e7%a5%9e%e7%a4%be
日本全国に「大山祇神社」と名の付く神社は沢山存在する、愛媛県今治市大三島町宮浦に総本社を構え、主祭神は大山積神(オオヤマツミ)と成る。オオヤマツミは大いなる山の神とされ、別名の和多志大神とも称される。この和多志大神の「ワタ」とは海を現す古語で海の神と言う事。つまりは山と海の両方を司る神なのだ。
お?
そう言えば…。
先程詳細が解らなかった奉納額での話、大山祇神社は山岳信仰で玉前神社は海信仰。玉前神社が座する地域が書かれた奉納額、その玉前神社には神様は違えど双方「海の神」を信仰…これは何か接点が在るのか。
まあこれについては後述するとしよう。
話を戻そうか。
大山祇神社の主祭神オオヤマツミは大山積神、大山津見神、大山祇神などと表記される様に「山」の神様だ。
オオヤマツミ - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%82%aa%e3%82%aa%e3%83%a4%e3%83%9e%e3%83%84%e3%83%9f
神道、この場合山岳信仰の中でこの地に「大山祇神社」が根付いた理由は直ぐに解る。背後に聳える滑山、恐らくはこの山を据えた山岳信仰だったとの既述を発見した。実際滑山と拘らず、周囲を山々が囲む山岳地帯なのだから別段「山岳信仰」についての疑問点はない。
実は江戸時代後期、滑山には「滑山大明神」として名指しで山岳信仰する文化が既に根付いていた。1200年辺りに海側から少しづつ開拓が進みつつあったこの地域で自然災害を恐れた居住民達が地霊や地神の鎮座を願った信仰、それは神道と非ずとも身近に自然と生きた当時の人々にとっては当たり前の事だった様だ。
そして後の現地取材で面白い事が解る。
この地域出身者の中に「伊予国」に家系の祖が在る人が数人確認出来たのだ、「伊予国」。ほほう、伊予国ってのは現在でいう所の「愛媛県」…ほれ。
ほれ。
大山祇神社の総本社は何処だったっけよ?
地元の漠然とした山岳信仰「滑山大明神」、そこへ由緒正しいオオヤマツミを主祭神とする「大山祇神社」を崇拝する伊予国の人々との邂逅。ふむ、どうやら大山祇神社の土着成立は解って来た。
詳細な年代こそ明らかに成らなかったがどうやら1700年代には「滑山大明神」と「大山祇神社」が並行する様に祀られ、1800年代に「大山祇神社」として統一された様だ。参照文献には先程も書いた様に1894年「大山祇大神と御嶽大神を合祀し、御嶽滑山巴教会所と改称」として名が顕わに成る。
次に。
御嶽大神
御嶽大神は御嶽教の「国常立尊」、「大己貴命」、「少彦名命」の三柱の大神を奉斎主神の奉称だ。御嶽教自体の歴史が少々複雑と言うか枝分かれした分派によって諸説あり、個別の宗教理論に正当性の合否は信者の方に失礼と成るのでここでの明記は控えたい。
よって「大山祇神社」付近限定での御嶽教、「大山祇神社」付近限定での御嶽大神として既述していこうと思う、ご了承願いたい。
御嶽教 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%be%a1%e5%b6%bd%e6%95%99
御嶽教大本庁
http://www.ontakekyo.or.jp/content.html
さて、長野県木曽郡木曽町に御嶽登拝の安全を祈願する為の神殿「木曽大教殿」、それに 御嶽山を信仰根本道場としている事からも解る通りこの「御嶽大神」も山の神様だ。
神道十三派の一つとしても数えられ、その歴史はとても長く古い。故にその正しい由緒が判明し辛くも在る様だ、ウィキペディアには、
「江戸時代に覚明行者が黒沢口登山道、普寛行者が王滝口登山道を開闢する。御嶽大神を崇拝する信仰者が集団結合して1882年に立教独立。」
と記載されている。つまり神様は古くても御嶽教としての歴史はココから始まる、房総半島には元々「御嶽教」は存在して居なかった。「御嶽教」が房総半島、しかもこの地に土着したのは少なくとも立教後1882年から地元文献に名が残る1894年の間だ、この12年間の内に一体何が在ったのだろうか。
この地での最初の布教は初代教主「金高重五郎」と言われている、この「金高重五郎」成る人物だが本当に「金高重五郎」が「御嶽教」をこの地で開いたのだろうか。この時代にはまだ宗教法人名簿は無く、教主と成る者が人徳によって教えを説く事はどの地方で普通に在った事だ。しかし。
御嶽教が立教したのが1882年、しかもこの時は御嶽山の鎮災と山岳信仰。御嶽山を信仰根本道場としているこの御嶽教が広く世間に知られるまでにはどの位の時間が必要だろうか。
件の人物「金高重五郎」が逝去したのが1905年、長野で立教し23年間の間に遠く房総の地で新派を開く事は果たして可能なのだろうか。しかもこの23年間には新派を開いてから逝去するまでの期間も含まれる。
そして房総の地域民俗学を調べている方の取材で全く別の事実が姿を現す事に成る、まあそれは後ほど今までの謎と一緒にお伝えしよう。
さて、一先ずはこの2つの神様がどの様に合祀へ至るのか…ちょっと調べてみよう。
あっ。
確信にせまる所での「あっ。」、この感じ…文字数制限か…。
ご存知通り、勿体漬けは漬けない主義で「1物件は1エントリー」を掲げている当ブログ。過去に一度だけ「八坂集落」で文字数オーバーで2回に分けました、そして今回も…。追加調査の内容が余りに膨大過ぎて噛み砕いても重要な部分だけ書いた結果やっぱり駄目、申し訳ないです。
今回はちょっと内容も複雑なので記憶が薄れない様に明日に後編をエントリーします、ホント御免なさい。明日も見てつかぁーさい。
個人的心情から地図リンクは不掲載です。
アプローチ
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
地図リンク
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
※ 自分も教えて頂いた身です、場所がどうしても解らず現地に赴いてみたいと思う方は御連絡下さい、対応致します。
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