千葉県│天津滑山 大山祇神社
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 神道教派 御嶽滑山大山祇教会
※ デザインリニューアルに伴い多少の記事修正を行っております、更新当時(2012年)とは若干相違しますが出来る限り違和感の無い様に再構築しました。追加情報などのエントリーは最後尾のシリーズリンクよりご覧下さい。
前回のエントリーを読んだ上でお召し上がり下さい、何卒宜しくお願い致します。
文字数制限で弾かれてしまい、2部構成と成った今回の追加調査レポート「天津滑山 大山祇神社 追加調査結果」ですが昨日の内容は記憶に御座いますでしょうか。取り合えず時系列にエントリーを並べてみます。
それでは早速始めましょうか。
前回までで崩壊が進む外観と合祀された二つの神様の説明、それにちょっとした謎解きと新たな疑問を残して終わりました。今回でその謎や疑問が解決され、そして「大山祇神社」の全貌が明らかに成って行きます。
んだば続きをどうぞ、ホント突然昨日続きに成ります。
この地には既に「大山祇神社」が山岳信仰の中心として存在していた、後に入る「御嶽教」。どちらも山岳信仰と言う事で相性は良い、しかも「大山祇神社」に至っては「海」までカバーし、酒造神として、武神としても名が知れているオオヤマツミを主祭神としている。山は配し諸々の神に振舞う酒を造り、尚且つ海まで守ると言うのだから豪気な神様だ。
滑山には昔、主祭神「大山積神」の為の石碑が残っていたとされている(滑山の山岳信仰を顕著化した滑山大明神の石碑だったとも言われる)。その滑山を背後に現在の大山祇神社から数十メートル離れた場所に「大山祇神社」は在った、三代目教主の金高照次が「房州滑山御嶽教・滑山様大山祇教會開祖之碑」を建てた場所から少々奥になる所だ。
最初は江戸後期に建築され、その後も改築や建て直しが行われたが最終的に明治時代を最後に使用され続ける事に成る。
この頃この一体は藤井家が周辺山岳地帯を含む土地を所有しており、大地主として農耕を主に繁栄していた。藤井家はこの地に昔から住む家系でこの山を農耕地として開くにあたり、古くから信仰される滑山の神に「大山積神」を迎える。これはこの地に移り住んだ伊予国の者が藤井家に「大山積神」を進言した事からと言われている、この時点で「滑山大明神」は転じて「大山積神」と成り、大山祇神社が本格的に土着する事に成った訳だ。
1868年、神仏分離によって「大山積神」は土着前の状態へ戻る事に。つまりは「滑山大明神=滑山(山岳信仰)」と「大山積神(大山祇神社)」を分ける事に成ってしまったのだ。
藤井家は本家が大山積神を(神仏分離によって神社や神具が破壊される事が多かった為に多大な土地有権者で在る藤井家本家がこれを守ったとされる)、分家が滑山大明神をそれぞれ継承崇拝した。
継承崇拝した藤井家の分家は新たに元々の大山祇神社を密かに使用し続けていたが5年程した後の1872年に「滑山教会所」を設立、これは明治元年に成り神仏分離の考え方が全国的に柔軟に成った事を受けての事。その後神祇省廃止・教部省設置で神仏共同布教体制に成った事で公に活動しても良い状況可に。
1880年代に入って麓の天津神明宮が藤井家より境外飛地としてこの「大山祇神社」を含む複数の土地を取得、同時期に国政の関係で藤井家は土地を区分け分配していきます。(その後、第二次世界大戦後にも土地の振り分けが行われた様です)
元々藤井家の土地だった周辺地域は国有林(県有林)や別の地主、天津神明宮などに振り分けられた様です。
これによって本家分家と共に藤井家が守ってきた「滑山の神」は天津神明宮の管轄下に置かれます、1889年には「滑山教会所」を廃社。大山祇神社はこの地の歴史から消えてしまいます。
所変わって長野の地、御嶽山。神仏分離の終焉から約10年、1882年御嶽教が立教しています。元々長野県には御嶽大神を崇める山岳信仰は複数在りましたが御嶽教の立教が知名度を更に上げる事に一役買った様で信者の数は伸びていきます、他県にもその名は知れるのですが何故か12年後に突然この房総の片田舎、しかも山中に「御嶽教」が姿を現します。
1894年、金高家が「滑山教会所」跡に「御嶽教滑山巴教会所」を設けて再興、大山祇大神を請けて御嶽大神に合祀しました。
さて、やっと出て来ました「御嶽教」、そして初代教主の「金高重五郎」。先程も話しましたが出版社伝に地域民族学に強い大学を紹介して貰い、地域民俗学を調べている方に協力を要請。
そこから意外な事実が浮き上がってきます。
詳しく説明すると長くなるので要点を最初に言ってしまいましょう、金高重五郎がこの地に「御嶽教滑山巴教会所」を設立したのが日清戦争の最中と成る1894年。しかしこの地域に関して地元では1900年代前半まで「御嶽教」の活動に関する記載が存在しないという事。御嶽教滑山巴教会所が1894年に設立された記録は確かに在ります、しかし活動していなかった…?何故…?それとも活動を書き記す事が出来ない理由が在った…?
あれ?だって記録を見ると1894年~1905年の間に信者を増やしたのではないの?あれれ、いや待てよ。
金高家はどうやって「滑山教会所」の跡に「御嶽教滑山巴教会所」を設立したのだろうか、土地所有権はこの時点で「天津神明宮」の物だ。
幾つかの事実と資料、推測を租借して推古しよう。金高家は元々土地の人間では無い、移住の者だった。確かに金高家自体は御嶽教だったが異なる地からの者が土着の神を借りたとて神社を運営するのは容易ではない、そこで金高家は御嶽教を拝しながらも麓の神社「天津神明宮」から神具や仏具を借りて祀り、天津神明宮の境外飛地としての役目を請け負いながら「御嶽教」を広めたのではないか。
※ 全国的に小さな宗教や神道の団体が拡大する過程で地元宗教団体の協力を仰ぐ例は他にも在り、今回の様な「物」を借りて土着との一部融合を図る事も珍しい事では無かった様です。
※ この地域の場合、天津神明宮も土着の滑山大明神(大山積神)を無視出来ず、境外飛地としての利点と土着神との折り合いを図る為に土地使用を許した可能性も在ります。
幾つかの事実が語るのは初代教主「金高重五郎」が逝去し複数在った神具や仏具も天津神明宮へ返還され、しかも逝去から3年後の1908年には大山積神が天津神明宮へ移動・合祀されている事。
成る程、それならば天津神明宮の威(この場合「居」とも)を借りていた「御嶽教滑山巴教会所」が表立って「御嶽教」の活動を書き記せなかった事にも納得が行く。天津神明宮との関係性も見えて来た。
因みにちょっと解り辛いのが天津神明宮への合祀の話、これ「大山祇神社」の事ではない。昔より「大山祇神社」付近には滑山大明神の頃から山の基点となる場所に石碑や祠を祀っていた、大山祇神社と滑山大明神が併祀されている頃には旧社殿地の更に奥に「山祗社(滑山大明神)」が在り、後に滑山大明神=大山積神(大山祇大神)と図式が形成されていく。
現在天津神明宮の御祭神には以下の様に、
・天照皇大神
・豊受大神
・八重事代主神(えびす様)
・大山祇大神 ほか七柱の神を合祀
が名を連なれ、山祗社(滑山大明神)合祀時に大山積神を一緒に連れて行った事が解る。(大山祇大神=大山積神/オオヤマツミ)
調査結果で天津神明宮の威(この場合「居」とも)と記載したのはコレを受けての事だ、結果的に考えれば大山積神だろうが大山祇大神だろうが同じオオヤマツミな訳でして。大山祇神社自体から大山積神を移動・合祀したと考えて差し支えは無いでしょう。
天津神明宮
http://www.shinmei.or.jp/ja/yuisho.html
これで正面が「御嶽教」で右側面が小さく「大山積神(と、言うより滑山大明神)」を祀っている事に納得が出来た。開社時期がハッキリしないのは土着の滑山大明神(地元民による山岳信仰)が始まりだからだろう、これも不明なのは仕方ない。
当初の疑問点
● 開社時期がハッキリしない
● 県内では珍しい主要地(据地及び異なる神道理念)が異なる御祭神を合祀
○ 現在でも参拝客が何故か絶えない
奉納額での疑問点
・ 玉前神社とは神様は違えど双方「海の神」を信仰と言う共通点(奉納額)
最初の疑問点に関して上記2点は納得出来た。さてさて、そろそろ巻くとしようか。前回のエントリーでは簡易的な年表を記載した、今回は追加調査も含めてもう少し詳しく記載しよう。また訂正点も在るので(※)にて注釈する。
天津滑山 大山祇神社/御嶽教滑山大山祇教会
1200年代 地霊や地神の鎮座の為の山岳信仰を開始
1700年代 滑山を滑山大明神として山岳信仰の信仰対象を明確化
1700年代 滑山大明神と大山積神を併祀
1800年代 大山祇神社を開社
1868年… 神仏分離により滑山大明神と大山積神を別祀
1872年… 滑山教会所を設置
1880年代 藤井家土地分配、天津神明宮が大山祇神社付近を取得
1889年… 滑山教会所廃止
1894年… 金高家が滑山教会所跡に御嶽教滑山巴教会所を設置
1905年… 初代教主の金高重五郎が逝去
1905年… 二代目教主に金高たき
1908年… 山祗社(大山積神)が天津神明宮へ合祀(※1)
1940年… 御嶽教滑山大山祇教会と改称
1957年… 二代目教主の金高たきが逝去
1957年… 三代目教主に金高照次
1958年… 御嶽教滑山大山祇教会が一部火災の為取り壊し(※2)
1959年… 現在の場所に移動(※3)
1970年… 房州滑山御嶽教・滑山様大山祇教會開祖之碑を建立
1980年代 三代目教主の金高照次が逝去
1980年~ 後継人が居ない為に廃墟化
※1) この時点で「神社」としての機能は終焉し教会として存続
※2) 現在でも旧社殿跡は確認出来、房州滑山御嶽教・滑山様大山祇教會開祖之碑が残る
※3) 前回の調査で「廃社」と勘違いした痛恨ミス報告
ええ、仰りたい事は解りますよ。まだまだ謎は解けていませんね、大丈夫。これから説明ますから大丈夫ですよ。
まず一番の疑問は初代教主の金高重五郎が「どこから」来たのか、これに尽きる。何処から、何故この土地に。来てからの足取りは多少今回のレポートで判明(推測)出来たがその出発点が解らない、この点に関しては最後まで解りませんでした、本当に申し訳ない。
初代当主が亡くなられて金高家は鴨川市からお隣の丸山町(現在の南房総市)へ引っ越した様だ、しかし現在でも金高家の家が在るかと言うとそうでは無いらしく、血は途絶えてないものの現在は別の場所に住んでいる模様(この件に関しては諸事情で明記出来ません)。
金高の姓は国内ではそう珍しいモノでは無い様だけど知り合いでは1人も居ないなぁ、ちょっと調べてみると関東地方に多い苗字だという事。中国地方にも見られ、瀬戸内海の海岸、島々で塩田をしていて水軍にも加わっていた…と在る。
「御嶽教」から推測しても長野と瀬戸内では離れ過ぎてるし信仰対象がそもそも違う、資料が残っていない以上は進展は見込めそうにないな。
どちらにせよ、1880年代に天津神明宮が大山祇神社付近の土地を取得してから130年余。不動産の取得時効は「善意なら10年、悪意なら20年」と在り、この場合初代教主の時は「善意(事情不知)」、その後どの段階かは解らないけど1908年に大山積神を合祀してからと考えても「悪意(事情認知)」の期間が104年とは恐れ入る。
三代目教主が逝去してからと考えても天津神明宮が現在も「境外飛地」として主張するのは難しそう、って事は…
そうか!
そうなんだ、だからか。
鴨川市内宗教法人名簿
http://www.pref.chiba.lg.jp/syozoku/a_gakuji/shukyo/230kamogawa.html
に今でも包括団体名「御嶽教」、法人名「御嶽教大山祇教社」と登録されている。これはつまり、天津神明宮だった土地が「悪意(事情認知)」で20年間以上「御嶽教大山祇教社」を主張し続けた事によって金高家へ帰属した事を示すのか。
そしてもう一つ、宗教法人を登録抹消が出来ない理由が在った。
疑問点に在った「現在でも参拝客が何故か絶えない」、これだ。宗教法人登録を抹消してしまうと土地は個人私有地と成る、相続を放棄していれば国有地に成るかもしれない。そうした場合、だ。
参拝者の「御嶽教大山祇教社」への立ち入りは…うん、勿論違法だ。そして現在の参拝者は「御嶽教」としての信者より地元住民が元々信仰していた「大山積神」へ、いや「滑山=滑山大明神」が殆どと聞く。地元感情を考慮した行政の粋な計らいなのかもしれない、そう思うと建物が自然倒壊するまで「御嶽教大山祇教社」は在り続けて欲しいと思ってしまう。
山間部で生活して、農耕をする者にとって山岳信仰は宗教ではなく、自然な事だ。現在でも参拝客が絶えないのも頷ける事だった。
当初の疑問点
● 開社時期がハッキリしない
● 県内では珍しい主要地(据地及び異なる神道理念)が異なる御祭神を合祀
● 現在でも参拝客が何故か絶えない
奉納額での疑問点
・ 玉前神社とは神様は違えど双方「海の神」を信仰と言う共通点(奉納額)
さて、奉納額を残して疑問は払拭された…かと言うとそうでもない。ここからは写真写真とレポートを提供してくれた「」のけいさんのエントリーから気に成る点を解決していこう。
かつて社殿には太鼓があったが、廃れてからしばらくして麓の神社の人たちが持って行ってしまった。(K weblog 抜粋)
確かに社殿内で太鼓の撥が残されている、これに関しては恐らく記述した内容が当て嵌まるのだろう。
「金高家は御嶽教を拝しながらも麓の神社「天津神明宮」から神具や仏具を借りて祀り、天津神明宮の境外飛地として役目を請け負いながら「御嶽教」を広めたのではないか」
この太鼓も元々が天津神明宮から借りた物だとすると合点が行く、もしくは大山積神に由来する物だすると合祀の前提上持ち帰ったのかもしれない。
現在でも約3キロ離れた市街地からほぼ毎日80歳過ぎのおばあさんが徒歩で参拝に訪れ、板の間を掃いたり、榊を供えたりしている。(K weblog 抜粋)
残念ながらこの方は今では訪れていない様だ、少なくともけいさんが2011年9月5日に訪れてから他の人が手を入れた形跡がない。参拝者は在っても中にまで手を入れる人は稀という事だろうか。
写真は2011年9月5日にけいさんが訪問した折に遭遇した神奈川から来た参拝客の物、この時に飾っただろう草木花は変えられる事無くその間々枯れていた。ペットボトルなども同様にその間々だった。
「こちらの教主様に命を救ってもらった両親の遺言で毎年正月と9月に参拝に訪れている。」(K weblog 抜粋)
との事だったが正月の連休が過ぎた2012年1月某日、この祭壇には2011年9月の状態と同じだったのは少々寂しい。
因みにこの時に読み上げていた経は「般若心経」だったとか。
般若心経 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%88%ac%e8%8b%a5%e5%bf%83%e7%b5%8c
特に宗派選ばない般若心経、神道とてこの限りではない。
さて、一番最後まで引っ張った玉前神社との関連性。山岳信仰で言えば寧ろ「清澄山」を怪しむけどあそこには県下有数の寺「清澄寺」が、で玉前神社ですが神社通しの付き合いと言うより参拝客同士の繋がりが在ったのは事実の様です。
その参拝客を通じて仏具などの寄付を行ったかもしれませんが奉納額の謎は依然として不明です、名前の部分が残っていれば遡れるのになぁ…。
調査を終えて外に出る、ふと脇を見ると炊事場も更に荒廃していた。
ああ、随分と壁が捻くれちゃって。
廃村で見かける石の釜場に近い、近いけどこっちの方がもっと古い感じがするな。
さて、最後に「房州滑山御嶽教・滑山様大山祇教會開祖之碑」を紹介して終わろう。三代目教主の金高照次が建てたこの石碑、場所は旧社殿脇に残る。
1980年代に三代目教主の金高照次が逝去した後、この地は荒れ、社殿は廃墟と化した。地元民と登山客しか知らないその神社(ではないのだけれど)の名前は「御嶽教大山祇教社」、土着の神様と新たな山岳信仰が隣り合って土地の山を鎮めた古い歴史を持った神様の家だった。
一枚の写真から随分と時間と労力を費やした、ここで発表出来る事、諸事情で控えた事を踏まえてとても興味深い事実を教えてくれた。その切っ掛けと成った在る山歩きのブログをもう一度ご紹介しよう。
房総の日々
http://takaki-i.blog.so-net.ne.jp/2011-02-16
このエントリー内の、
http://takaki-i.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_c0e/takaki-i/DSC03039.jpg
この写真から始まり、行政や他のブログ管理者さんの協力を得て大学関係者や図書館の書籍の力も経てどうにか納得出来る形としてレポートをエントリー。推測の域出ない推古も在ったけどこれにて「御嶽教大山祇教社」は終了したいと思います、いずれ風の噂で倒壊の知らせを聞いたら。
その時はもう一度見に出掛け様と思います、山に下りた神様がまた山に戻るその時を撮影しに。
個人的心情から地図リンクは不掲載です。
アプローチ
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
地図リンク
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
※ 自分も教えて頂いた身です、場所がどうしても解らず現地に赴いてみたいと思う方は御連絡下さい、対応致します。
photograph - nee
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