岡山県│赤磐市立吉井中学校城南校舎(白い廃校/白亜の廃校)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤磐市立吉井中学校城南校舎(白い廃校/白亜の廃校/吉井町立城南中学校/吉井町立仁美中学校/赤磐市立吉井中学校/富士興産株式会社)
仕事で九州へ行った折、帰りはゆっくりと西日本の廃墟を久し振りに巡行しようと考えていたのだけど諸事情あって急遽帰宅する事に。その僅かなタイミングで回る事が出来た数物件の内で特に期待していたのがこの通称「白亜の廃校」と呼ばれる真っ白な教室が特徴的な廃墟、随分前から知ってはいたけれど岡山県は鍾乳洞位しか来る機会が無いのでずっと来訪を先延ばしにしていたのだ。
やっとこさで来る事が叶ったこの素敵な廃校さん、情報は少ないけれど知る事が出来た歴史を軸にご紹介しようと思う。写真については色々と今更なので余り気にせずに、それではレポートを開始しましょう。
この様に概観は蔦に覆われ、校庭と思われる敷地内には草木が茂っておりまして。来訪時は夏真っ盛りの8月、普段藪漕ぎしている身としては全く何とも思わないけれど最近チャドクガの幼虫に痛い目に合わされていて少々及び腰。
正面校門を入ると左側2棟の校舎と右側1棟の教員棟に別れており、上空からは3本の建造物が見て取れる。昔の航空写真では鮮やかな赤色の屋根も現在は随分と色褪せた錆び色と言ったところ、この廃校は統合を数度繰り返してはいたが最終的には企業へ売却された。その時に若干の改築がされ、現在の「白亜」もその時の物。そう、学校現役当時は普通の木造校舎だったのです。
まあその辺も含めて少しづつ歴史を紐解いていきましょうか。
まずは一番近い教員棟から伺います。
教員棟(後の従業員詰所)は教員室、特別学習教室、事務室、教材保管庫から成り立っています。この使用形態は当初の城南中学校~吉井中学校まで変化なく運用されました。
特別学習教室、資料によると学校運用当時は教室の半分程に机や椅子が並べられいて増員時は教材保管庫から予備の机を持ってきたのだとか。これだけ広いと結構な生徒が一同に学習出来た事でしょう、当時の平均的なクラス編成からすれば1クラス45人~50人なので2クラス分は楽に収容出来た筈です。
資料では此方でも特別学習教室として運用された様ですがとても狭いですねぇ、黒板があるから教員用ではない筈だけれど…うーむ、この辺は詳しく解りませんでした。
補足だけれど教員棟は本校舎の床材が違った様でして、理由がよう解らんです。因みに50年以上昔の航空写真には教員棟の東側に校庭らしき敷地が確認出来ます、が解像度が低い上に白黒なので判別出来ず。土地運用に関する資料も敷地面積などは記載があるものの区分までは記載が無い為に此方もよう解らんでした。
校舎(後の工場部分)へ移動、左側2棟の校舎を見て初めて「白い廃校」や「白亜の廃校」の本当の意味が理解出来ます。うん、本当に真っ白やんけ。
そそ、この「廃校」って部分…実は最終的な運用目的は工場としてでした。なので廃墟の物件カテゴリーとしては「廃工場」だったりします、企業名は「富士興産株式会社」。残念ながら倒産した様で現在の企業登記名簿にこの住所と企業名が一致する項目はありませんでした、運営内容は「縫製工場」とネット上ではあるけれどこれも関連資料を見る限り業務形態などの記載が無くて確認出来ず。一体どこから「縫製工場」との情報を得たのか、地元の方も良く解らないとの話だったし…ご存知の方、是非情報をお寄せ下さい。
ああ、美しくて眼がアレしそう。
有名なこの部屋、兎に角白くて綺麗で御座います。ワタクシ、綺麗な心の人とか綺麗な物とか見ると眼がアレしそうに成るんですよ。
最近活用している360°カメラさんにもご登場頂き、この素晴らしい空間の雰囲気を幾ばくかお伝えしましょう。
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロール、モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます。
ほんま綺麗やなぁ、おっぺけぺーやで。
さて、中々と語られる事のないこの廃校の歴史。実はそんなに古くは無かった、幾つもの廃校を見ていると山岳部には実に歴史の長い廃校が今でも残っているがこの「吉井町立城南中学校」は戦後に運用が開始された学校です。
なのだけど…ちょっと校舎が古いですよね、それには理由がありまして。実はこの校舎、学校運用開始前から既に存在していたのです。これらに関しては岡山県と赤磐市から提供して頂いた資料と教育政策課(岡山県教育広報協会)の協力、それらに独自入手した資料を併せて説明していこう。
この学校、古くは現地の尋常小学校の校舎からスタートする。開校当時は戦後の資金難から独立校舎を持たない間借り中学校として運用されていた。1947年(04月01日)に中学校認可が降りるも記述の理由で仁堀村該当生徒は仁堀小学校で、布都美村該当生徒は布都美小学校で、夫々校舎の一部を借用して授業を開始します。
1946年 赤磐郡仁堀村並布都美村は村会の議決を通過
1947年 (04月01日)右両村(仁堀村及び布都美村)の組合立中学校が認可
1947年 (04月01日)岡山県赤磐郡仁堀村布都美村組合立仁堀中学校として開校
1947年 (04月28日)仁堀小学校に於て開校式
1949年 仁堀村大字仁堀西625番地へ独立の校地と校舎(木造)を新築
1949年 生徒過剰の為に元龍南青年学校の校舎の一部を移転改造し倉庫1棟を改築し授業を開始
1952年 (04月01日)校名を岡山県赤磐郡仁堀村布都美村学校組合立仁美中学校と改称
1956年 (09月30日)仁堀村・布都美村、吉井町と合併、岡山県赤磐郡吉井町立仁美中学校と改称
1969年 城南中学校と仁美中学校が統合、赤磐市立吉井中学校と改称
1971年 (03月31日)この年までの2年間は吉井中学校城南校舎、吉井中学校仁美校舎としてそれぞれ存続
1971年 (04月01日)吉井町の新しい教育の場として現在(現役校舎)の地に新校舎が完成
この様な経緯で現在の廃校舎が残る訳ですがまあ解りますよね、そう…色々とこの廃校を「城南中学校」と言えない事実があるのです。
結論から言うとこの廃校、正確には「別の土地に存在した城南中学校と現在の位置に存在した仁美中学校が統合して城南中学校は消滅、別途校地を確保して廃校側は吉井中学校城南校舎として運用し、現在も現役として残る吉井町立吉井中学校側には吉井中学校仁美校舎として2年間運用」、その吉井中学校城南校舎が現在の「白亜の廃校」と呼ばれる廃墟なのです。
解るかなぁ…つまりはこの廃校は「元城南中学校」じゃなくて「元赤磐市立吉井中学校城南校舎」なのです、現役当時の城南中学校は別の場所で運用されていました。それではこの建造物の最初はと言うと…
”1949年 生徒過剰の為に元龍南青年学校の校舎の一部を移転改造し倉庫1棟を改築し授業を開始”
沿革のここです、この元龍南青年学校の余剰敷地(古い校舎)が現在の廃校の住所である「岡山県赤磐市周匝1613(※1)」なのですよ。統廃合と行政統合の為に非常に解り辛い歴史を辿ったこの廃校、出来るならば「旧吉井中学校城南校舎」と覚えて頂ければ間違いないかと思われます。
その吉井中学校城南校舎も1971年03月31日に閉鎖(城南中学校自体は1969年に廃校)、その後地元企業の富士興産株式会社に土地と校舎が売却されます。1970年代後半までは綺麗に整備されていましたが1980年代中期には生い茂る草木が敷地内を埋め尽くしています、となれば企業として運営されたのは10年にも満たない間でして。その間に改築改装された状態(真っ白な校舎)がその間々廃墟と成って残ったのでしょう、実はまだ記載出来る歴史が幾つかあるのですが話が枝分かれし過ぎて説明が非常に難しく、また面倒でもあります。
なのでこの廃校に関する歴史はこの辺で、ただ覚えて欲しいのは物件名称が「旧吉井中学校城南校舎」か「富士興産株式会社」であると言う事と学校運用時は白くは無かった点ですね。
こう歴史を紐解くと物件も違い、整合性の取れない情報が溢れ、また白亜の廃校でもない事が解りました。廃墟好きさんはこの辺の関連史実には興味が無いと思いますがまあマメとして頭の片隅にでも。
※1:学校の統廃合に関して若干資料による住所の記載違いが散見出来ます、整合性に関しては参考程度に留めて下さい。
本日は以上です。
協力(電話取材と資料提供)
岡山県教育委員会
岡山県教育庁教育政策課
岡山県教育広報協会
岡山県赤磐市
岡山県総合教育センター
参考文献
岡山県教育史
吉井町史 第3巻 史料編 下
吉井町立吉井中学校 開校30周年記念誌
アプローチ
山陽自動車道から国道374号線を吉井川に沿って北上して赤磐市周匝周辺、中国銀行周匝支店の交差点は左折。2本目の右折路へ、浄心寺を越え数メートルで右側に廃校が姿を現します。周囲の路地が非常に狭いので道の勘違いには注意。
地図リンク
https://goo.gl/maps/UK6vho1jTR22
写真撮影:6Frogs Design Works
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