千葉県│磯根崎海岸砲台管理道
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 磯根崎砲台管理道(磯根崎未成道/磯根崎海岸道路/磯根崎軍需整備道路)
嗚呼、SCC音源の何と素晴らしい音色かな…上原和彦はホンマ神様やで。
竹村延和からスイサイダル・テンデンシーズまで何でも食べる雑食性の高い「行ってみた」のメンバーがポルカドットフライングVを背負って房総半島の廃道へ、実は以前エントリーした「REPORT - 0712│磯根崎未成道」の補完レポートと成ります。
※ 統合した為にジャンプページに成っております
前回のエントリーが2013年なので随分と期間が開きましたが今回無事完結出来る運びと成りました、既に詳細なレポートを掲載したブログやサイトが幾つか見受けられますが新事実などを踏まえて「この道」って結局なんだったの?って疑問に終止符を打とうと思います、いやね…タイトルでネタバレしてるんですけどね、ええ。
時は満ちたっ!
忘れていたワケじゃないんですよ、ただ面倒臭かっただけなんですよ。行こう行こうとは思ってたんですよ、でも何か面倒臭かったんですよっ(重複表現)。そんな感じで放置してたら東京湾観音周辺で民間企業が開発始めちゃいましてね、こりゃ早く行かんと廃道が無くなっちゃうってんで仕方なく行って来たんですよ。
房総半島には結構な数の廃道さんが残るのだけれどもこの「磯根崎海岸道路(仮称)」はトレッキングコースにも利用される位ちょろい行程でして。疲れますよ、そりゃ。辛いですよ、それなりに。んだどもこう「地球終了じゃん」的な?そんな一瞬で腋毛が5センチ位伸びる様なアプローチの難易度は在りません、んじゃ何故行くんだと問われると。
うーん、仕方なく。(本音)
ああ、この廃道。仮称名の名付け親でも在る廃道系サイトの大御所「山さ行がねが」の廃道レポートにもリストされております。詳細はこの際そちらでお願いします、アレコレやってると必ず先人の素晴らしいレポートを見つけます。皆頑張ってるんだなぁ。
山さ行がねが - 磯根崎海岸道路(仮)
http://yamaiga.com/road/isone/main.html
予備知識として上記のサイトの内容を読んだ上でこのエントリーをご覧下さい、又はこの廃道をある程度ご存知だとより美味しくお読み頂けます。
※ 今回のエントリーで色々と新事実の追加記載があるので是非最後までご覧下さい。
※ ご注意 ※
通常の導入説明と随分と違うので戸惑われている方も居るかと思います、このエントリーは約4年前に全行程の半分程をレポートした後に追加エントリーを放置された掘り起こし企画です。
今回のその残りの部分を踏破して上で机上調査を行い、この廃道の全容を明らかにすると言うのが当エントリーの目的です。ですが物件が余りに有名になり過ぎてしまい、地元トレッキング系サークルなどで散歩レベルのコースとして利用されている事も踏まえ、予備知識を前提とした構成と成っています。
初めてこの廃道を知る方は廃道系の大御所サイトである「山さ行がねが」の対象エントリーをお読み頂いた上でこのエントリーをご覧下さいますとより深く理解が進むかと思います。また参考サイトの「山さ行がねが」とは調査内容とその結果が少々異なっております、予めご了承下さい。
今回は再編集と再訪にあたり、前回とは間逆の東京湾観音側からアプローチ。3月も中盤に差し掛かるとは言えまだまだ寒い早朝から入山と成ります、今回は海岸線も歩く予定なので結構行程的には時間がギリギリなんですよね。
入山地点はこの辺。
この辺は東京湾観音の建設時に作業道として使用された「磯根崎海岸道路(仮称)」とは全く関係の無い道でして、この道とは別に海岸沿いに整備予定だった道路(※1)が外側に在ったのですが海岸線崩落の為に物理的に無くなってしまったので現在はこの道が廃道直通のアプローチルートと成っています。
※1:東京湾観音の周辺散策を目的とした観光用遊歩道(富津市/都市づくりの方針)
暫く歩くと海岸側にガードレールが見えた、こんな山中に何故ガードレールがと思われるが答えを言ってしまえば車両通行を想定した道路整備が計画(※2)されており、実際に2つの区間で舗装開通した記録があるのだ。
実のところ未整備区間を合わせれば全線開通していたりする、これは行政記録にも残っており、実際に走行された方の写真(※3)なども現存している。
更にこの車道から更に海岸側には木製階段と簡易木道整備で人が歩く為の遊歩道(※4)も用意されており、こちらも実際に人が通行した記録が残っている。
※2:富津市/都市づくりの方針の予想図に”臨海縦貫道”と記載あり
※3:行政広報に開通時の記録が現存
※4:富津市亀田地区にお住まいの方で実際に写真が残っています(所有者希望により写真は不掲載)
この辺は後程詳しく語るとしよう。
廃道と海岸の距離が近いとこんな風景が木々の合間から見える、これは岸壁ギリギリに道路が整備されたのではなくて時間の経過と共に海岸線が侵食されていき、この様な接近する位置関係と成った。
いずれこの場所も崩落の危険にさらされる事になろう。
※ 崩落の報告記録も行政と地元警察に残っています
道路脇には舗装されていた当時の路面が崩壊して転がっている、これは舗装区間に関して言えばアチコチと散見出来るて側溝の未使用パーツなんかも集積されていたりする。
道路整備計画では全線舗装が計画されていたけれど建設時から地盤の弱さと崩落が危惧されていて実際に工事中に海岸線の崩落事故も起きている、先程記載した遊歩道も現在ではその殆どを見る事が出来ず、半分は崩落してしまった。
ここで一つ面白いエピソードをご紹介しよう。
この道路の整備には都市計画の一環として観光道整備が行われた過去がある、実はその計画は一本化されておらず東京湾観音周辺整備と道路自体をバイパスとして海岸線に伸ばす行政主導整備と土地権利者の思惑が入り乱れた不協和音が目立つ計画だったと言われている。これは行政資料と地元建設会社及び地元住民からのヒアリングで解った事だ。
その中で東京湾観音側の観光道(遊歩道)を含む業者名簿(非公開資料)に見覚えのある業者名を見つけた、
山口総合建設株式会社
うーん…あっ!
あの牧場で放置されていた建設会社のトラック、そのドアパネルに記載されていた業者名じゃないか。まさかこの道路の整備にも関わっていた…いや、まぁあの車両だって盗難車の可能性もあるワケだから色々と繋がりの確証性は薄いけれど…。
※ 非公開資料は入手ではなく、日本建設業連合会に所属する地元組合から特別に見せて頂いた物です。
緩急のあった上り返し区間を過ぎると急に開けた、この場所は大正時代後期に海外敵勢力(仮想防衛)の内湾拠点として監視及び初期攻撃設備が設置された場所だ。明治時代までは周辺と同じ海岸線を含んだ起伏の富んだ山間部だったが防備施設設置に伴って簡易整備(平野化)された数箇所の内の一つでもある、その後は富津拠点と平行して軍需防備施設が幾つか設置されていく事に。
※ 江戸時代から防衛拠点として使用されていましたが土地整備は大正時代に入ってからとなります
つまりはこの廃道の初期整備の目的は軍需と言う事になる、各記録から考察するならば第一次世界大戦後と成るが個人的な推察は大正初期にはすでに軍備の一環として設置計画があったのではないか…そう思えて成らない。
その後第二次世界大戦時に再度軍需利用され、この「磯根崎海岸道路(仮称)」上のこの場所には斜面の上部から
・軍需施設送電用発電所
・帝国陸軍駐屯兵兵舎
・帝国陸軍冨津岬砲台試験場(磯根着弾観測所)
・帝国陸軍富津機関銃座
・帝国陸軍策敵探照灯
と順に設置されていた。現在でも幾つかの建築遺構を探し出す事は可能だが非常にブッシュが深くて実質的にはその姿を確認するのは不可能に近い。まあ、見れたとしても基礎部分位なものだけど…。
この廃道の成立ちに関する一つの答えとして少々早いがまず結論付けられる事実、それは第一次世界大戦後の軍需設備の為の軍用道として整備された道だったと言う事だ。幾つかの資料を考慮して推論を重ねた結果その整備時期は1915年~1919年だと思われる、設備の内容を考えるなら正に対戦中にガッツリと活躍した軍用道だ。
※ 資料の確証性が乏しく、行政にも正確な記録が残っていません。聞き取り調査と幾つかの風土資料を元に推察推論した結果なので正史回答ではない事をご了承願います。
ただ確信的な地域の歴史も風土資料から見て取れる。
この場所からやや南下した場所には1810年以降、江戸防衛拠点の重要箇所として沿岸防備の地として運用された記録が複数の書籍から確認出来た。つまりは江戸の時代から軍需施設が設置され続けた防衛拠点だったと言える、近代道路整備で言えば大正時代に入ってからだが歴史は更に古いのだと言えよう。
送電柱が海岸線に幾つか残されている、これは今迄の説明にあった軍需施設の遺構ではなくて戦後の観光利用を目的とした観光道整備の為に設置された物。そう、この道…江戸時代から軍需として利用されて来たが1950年代後半になってやっと復興の名の下に一般利用を目的とした道路整備へと姿を変える事になるのだ。
さて、ここらでこの道路の歴史を一先ず纏めておこうか。
磯根崎海岸道路(仮称)としてネット上で知られるこの廃道、正式には「道路名が存在しない」が正しい。軍需として使用されていた当時(1915年以降)は「磯根崎砲台管理道」と呼ばれていた、しかしこれも正確は判別するに十分な資料は存在しておらず、しかも現代において言えば
「元・磯根崎砲台管理道」
と言う呼称が正しいと言える。それも1956年から計画が開始された東京湾観音の建設に伴う観光道路整備計画で呼称を失い、1973年の千葉県幹線道路整備計画発表に伴って富津市が用意した都市づくりの方針と道路整備を調整し「臨海縦貫道」と名を変え現在に至る様だ。
写真説明:工事が中止された直後の1974年の航空写真
道路整備に関する正式な計画発表は1973年だったものの以前より富津市独自の都市計画は進められており、また観光道として重要性を見出していた行政は東京湾観音完成直後の1961年からこの道路の整備を進めていました。本格的に道路整備が開始されたのが1963年頃、1966年以降どのタイミングかは判明しませんでしたが一度磯根崎~亀田間で道路が開通。小久保地区から舗装区間が前後に延びるも度重なる崩落によって翌年には道路工事が中断、工事自体は1973年は完全ストップした様です。
奇しくもその同年に千葉県幹線道路整備計画が発表された事になります、しかしその後20年は道路として使用された形跡があります。正確な廃道化は解りませんがやはりバブル崩壊前後の1992~1993年辺りが妥当と言えるでしょう。
※ 最後尾にて年表を記載しますのでそちらも合わせてご覧下さい
魚つき保安林、なんでしょうねぇコレ。
魚つき林 - ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E3%81%A4%E3%81%8D%E6%9E%97
へー、山やっててもこんなん知らへんかったわ。それより調べてて驚いたのは海の無い埼玉県にも「魚つき保安林」が在るって事、不思議が一杯やで。
ウィンチェスターの猟銃用薬莢、この中に沢山のツブツブが入っております。海外に居た時はイノシシや鹿撃ったり捌いたりしてましたねぇ…そう言えば。最近「猟師」の資格を本格的に取りたく成って来たのでそろそろ勉強しないなぁ、ってかこの辺って猟区なの?
場所はこの辺、丁度この場所の上部斜面に防衛拠点と成った幾つかの建造物が在った筈だ。現在はすっかりと解体されてその姿は見る事が出来ない、その代わりこの素晴らしい景観を見る事が出来た。
崖っぷちギリギリまで降りたU田川君が名言を残した場所でもある、
「俺これ以上降りたら昇っちゃいます」
以降、この様な場所で幾度と無く語られる名言にして至言と成るだろう。
海岸から凡そ25~35メートルの標高、ラペで是非降りてみたいがロープをフィクスする場所が皆無なのが何とも残念だ。
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一度谷へ降りて北側の丘陵へも登ってみた、こちらも本当に素晴らしい景観だ。因みに此方は海岸から50メートル程の高さとなる。
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さてさて、前半部分で随分と歴史検証にテキスト量を費やしたので後半はもう少し緩く行きましょうか。
休憩の為に後方の山間部を少し昇り返して再び海岸線の道路へ出ます、すると2013年に歩いた廃道と繋がりました、ここからは前回のエントリーを再構築してレポートを進めて行きましょう。
小久保地区からアスファルト舗装の為に大型車両がこの谷間を幾度と無く走行した場所、現在は目新しい重機が置かれ何かしらのアクションが期待出来る…かも。
しかし道路整備ではなさそうですねぇ…。
よく見ると綺麗に整地されている事が解るだろう、写真右側が大坪山になるので富津市が過去計画していた「大坪山リゾート」がいよいよ開発開始…とは成りません。ちょっと調べましたがどうやら全く関係ない建築関係の倉庫を作る計画があるみたいですね、それも周辺の住民の聞き取りからの情報なので定かではありませんが。
と、言うのもこの一帯の土地が国有林、県有林、個人所有と未だバラバラに管理されておりまして。その所為で一元化した開発や整備が行えないのが現実なのです。
これは1950年代から続く道路整備の時にも問題になった様でした。
軽く背を超えるブッシュの中、大坪山に入ります。
たった5分で景観変わり過ぎぃ。
女子力高ぇ。
大坪山は円錐状の山と言うより複数の円錐が連なった大型の丘陵って感じ、なので気に成った斜面を少し登るとこの様にピークへは直ぐに出る事が出来た。
この辺は車が走れた道路だったと如実に解る数少ない場所だ、平面で直線的な以前整備されたであろう事がハッキリ解る。と、言う事はこの廃道の探索も終わりに近づいているのだろう。道路整備においてのその先端部分は綺麗に残っている事が多い、それが廃道であるならば尚更だ。
歴史検証と共に意外と楽しめたこの廃道、成程…トレッキングなどのコースとして利用されるのも頷ける、景観も見事だし何より歩き易い。
途中大きく円を描く場所が在る、これは進入口手前の「浅間神社の鳥居」の参道入口と成る本当の鳥居。手前の鳥居(※5)はこの廃道が新設された事によって新たに設けられた仮設置の様な鳥居なのだ、昔は別の参道が在って現在も実はその道を歩く事が出来る(もう道とは言えない状態だけれど)。最初は里宮と奥宮かなぁとも思ったのだけれど設置された経緯を調べるとやはり道路工事に関係しての新設された鳥居と本来の山宮と言う関係っぽい。
※5:この廃道の進入口(磯根崎側)にも鳥居が設置されている
磯根崎浅間神社。
設置にあたっては諸説語られている、が…道路を作るとなれば山神社の様な役割(地の厄を沈める)を果たしたのだろう。
地図上ではこの辺、ループ橋から山中へ延びる短い直線部分だ。ここまで来るとこの廃道が実際に車道として使われていたのだと実感出来る、この道路整備計画がもう少し内陸側だったら現役の道路として利用されていた可能性もある。
そんな思いを馳せながら、我々は最終到達地点へ。
磯根崎側の廃道進入口、ループ橋へ到着。さて、ここで先程お約束したこの道路の年表を記載しよう。
1915年 磯根崎砲台管理道の整備開始(推測)
1919年 磯根崎砲台管理道の利用開始(推測)
1956年 東京湾観音建設計画が発表される
1961年 東京湾観音が完成、それに伴い周辺観光道整備計画が本格化
1963年 磯根崎海岸道路(仮称)の道路整備が開始
1966年 磯根崎海岸道路(仮称)磯根崎~亀田間で開通
1973年 この道路を含む千葉県幹線道路整備計画が発表される
1973年 道路整備に関する工事が完全中止へ
※ 工事が中止さえても車両の往来は1980年代後半までは頻繁にあった様です
写真説明:観光道整備が開始された1961年の航空写真
これより以前の江戸時代に関する防衛拠点までの交通として利用された旧人道は敢えて排除、近代利用の歴史として整備された海岸線道路の年表と成っています。
呼称としては
1915年~1945年 磯根崎砲台管理道
1945年~1956年 名称なし
1956年~1973年 磯根崎海岸道路(仮称)
1973年~1992年 臨海縦貫道(※6)
1992年~現在迄 名称なし(計画資料には臨海縦貫道が残る)/廃道化
※6:バブル崩壊によりリゾート開発(大坪山リゾート)が中止、それに伴い周辺道路開発も中止された。
と、こんな感じかと思われます。富津市の建設経済部(都市政策)としてはこの道路を再利用または再開発の計画は今の所ないとの事でした、「山さ行がねが」さんでは東京湾口道路との関連性も指摘されていましたが千葉県及び富津市共にお聞きしました結果「その様な関連性は無い」との事で「未成道は、まだ死んでいなかったのである。」との〆言葉に関しても
「現在の都市計画にこの区間の道路整備は残念ながら含まれて居ない」
との回答を頂きました。うーん、これはとても残念だ。ロケーションも素晴らしいからせめて人道としてトレッキングコースの整備でもして頂ければ幾ばくかの観光資源に成りそうではあるけれど…と言うわけでこの廃道に関するレポートは以上と成ります。
因みに年表以前の関しては以下の資料を参考にされるとその歴史が多少垣間見れます。
研究紀要 第28号 - 千葉県教育振興財団
http://www.echiba.org/pdf/kiyo/kiyo_divi/kd028/kiyo_028_p3.pdf
写真説明:ハッキリと道筋が辿れた1981年の航空写真、この頃はまだ廃道化していない。
折角なので廃道から回り込んで海岸線に出てみる事に、この日は偶然にも大潮で更に来訪時間が丁度低潮だったので安心して汗顔沿いと歩く事が可能だった。
※ 満潮時は水没して歩けないので潮位に留意して下さい
完全な低潮まではもう少し時間があるが他の予定も詰まっていたので気にせず進む事に、この辺はハマヒルガオ群落の復元活動が行われていて5月半ばになればその素晴らしい群生を見る事が可能だ。
今回はまだ時期が早かった為にその姿を見る事が出来なかったが時期を見て再訪したいと思う、このレポートに追加エントリーするので是非ご覧下さい。
磯根崎先端部分、奇岩として話題に成るが防波堤の一部が崩落して残った部分がこの様な姿に成った。この防波堤の意味に関しは色々と説明したいのだけど今回の趣旨から外れるので割愛、潮流の関係とかちょっと面白いエピソードが垣間見れるので気になる方は各々調べてみて下さい。
この海岸線は潮位の関係上来れない場合が多いので大坪山の廃道から更に獣道を辿って海岸線に出れる様に釣り師の方が開拓した釣師道、崖部分には虎ロープが設置されていた。
こんな迂回路を作ってまで釣りに来るとは…いや、ご苦労様です。
こちらも潮位の関係上、プライベートビーチ化する磯根崎からアプローチする海岸線。
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロール、モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます。
磯根崎から車を回して亀田地区までやって来ました、本来ならココまで通過して川を挟んだ新舞子海岸まで道路が延びていた筈だった。と、言うか実はここまで廃道の軌跡が地図では見て取れるのです。
いやぁ、そりゃ無理でしょって位の場所を林道扱いで記載されていますけど…うん、もはや人間が通れる道は残っておりませんでした。
意外と長いレポートに成りましたが個人的には現場・机上調査共に楽しめた物件でした、本日は以上です。
情報提供協力
・富津市教育委員会 生涯学習課
・千葉県教育振興財団
・日本建設業連合会(所属組合名は諸事情により不記載)
※ 富津市にはいつも無理難題に対して対応頂き、大変感謝しております。
アプローチ
この廃道のアプローチには全工程を通してのスタート地点と後半の海岸部区間から歩く途中エントリーのスタート地点が在ります。今回は山間部区間を歩く全工程を通してのスタート地点にてご説明します。
目指すは大貫中央海水浴場や大貫漁港を擁する磯根崎、国道465号線から川端鮮魚店から漁港方面へ折れます。漁港入口の偏差路で磯根崎へ方面へ折れると突当たり(アスファルト舗装道路の)から更に砂利道が続きます、その砂利道を更に直進すると車両通行止めの簡易ゲートが在ります。その地点から廃道スタートと成ります。
写真撮影:6Frogs Design Works
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