静岡県│久原鉱業 峰之沢鉱山住宅跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 峰之沢鉱山住宅跡(久原鉱業/日本鉱業)
どれだけの人が訪れただろうか、それ程までに有名で撮り尽くされた鉱山廃墟が静岡に残っている。ご存知「峰之沢鉱山」、その鉱山夫住宅跡だ。もう語る事も殆どないと言える位に廃墟系のサイトや石屋(鉱物系サイト)さんのサイトで紹介されているのは皆さんの知る所だろう、そこまで有名なら一度位は行っておこうか…そう思って来訪したのが夏真っ盛りの8月中旬。
結果、爆死。
いや、藪死だろうか。もうホントに嫌に成る位に藪・藪・藪、山で慣れているとは言え東亜プランな行程は流石に懲りていたのだけれどねぇ、アチコチのサイトで夏場の写真が余り見受けられない理由が現地に行ってやっとこ理解出来ました。
付近には選鉱場跡や関連施設の残留物がチラホラ、それでもカタチとしてシッカリと残っているのは今回紹介する峰之沢鉱山住宅跡(鉱山夫住宅跡)だ。折角なので詳しい歴史を交えながらこの峰之沢鉱山住宅跡をエントリーしたいと思う、有名な割りには意外と知られていない事実も結構在るんですよ。
それではレポートを始めましょうか。
一服中の農業のおっちゃんと軽トラを颯爽と駆る森林管理のじいちゃんに案内され、熾烈を極めた藪漕ぎを越え、息も絶え絶えで到着した鉱山住宅の入口。この時点でとっても帰りたい気持ちをぐぐいっと抑えて住宅跡にお邪魔します、と言っても余りの藪漕ぎに15分はその場から動けずで真っ白け。
石屋や廃墟フリークさんには本当に有名でその殆どが語り尽くされているけれど興味が在る方はまずこの鉱山がどの様な歴史を辿ったのかを知っていただこう。
静岡地方の歴史を纏めたサイトにこの鉱山に関する詳しい記述を発見した、コピペで申し訳ないが少々長い説明をさせて欲しい。隣接する古河鉱業久根鉱山などの記述も面白いのでお時間が在れば読んでみて欲しい、まずはこの鉱山の歴史の中でも「戦時強制労働」について知って頂きたいと思う。と、言うのも全国の鉱山や銅山でも同様の問題が戦時下では色々と問題視されてはいたものの、現在それを知る機会が全くと言って良いほど希薄化しているからだ。当ブログでも数多くの鉱山関係のエントリーをして来たのだけれどこの問題には触れていなかったので少しで知って欲しいと思った訳だ、ちょっと複雑な内容だけれど以下引用。
日本鉱業峰之沢鉱山
峰之沢地域での採鉱は一七世紀ころからはじまっている。当時の採鉱を伝えるものに「金山地蔵」「女郎塚」などがある。資本主義の発達とともに峰之沢での採鉱が再びおこなわれるようになり、一八八八年、峰之沢鉱山と命名された。一九○七年、日立鉱山を開発していた久原房之介がこの鉱山を買収した。峰之沢鉱山は一九一二年には労働者六一四人を雇用し、銅鉄鉱等を年に二万二九七四トン余りを生産するようになった。
一九二〇年、峰之沢鉱山は鉱山火災により一時休山したが、一九三四年から採鉱が再開され、一九三八年、日本鉱業が峰之沢鉱山を直営するようになった。日産コンツェルン下の日本鉱業は全国に鉱山を所有していた。戦時下日本鉱業は、朝鮮人強制労働に依存して鉱山経営をおこなうようになる。
強制連行期の一九三九年から一九四一年度にかけての連行者承認数をみてみれば、日本鉱業傘下の各地の鉱山へと一万一千人をこえる朝鮮人が連行されていったことわかる。峰之沢鉱山へも朝鮮人が連行された。
一九四二年には選鉱場が完成、それにより月五〇〇〇トンの処理が可能になった。政府の地下資源増産政策のもとでさらに増産がねらわれ、月九○○○トン処理が計画された。一九四四年一〇月には鉱山発展祝賀会がもたれていった。
一九四五年一月には中国人が強制連行された。同年二月に鉱山火災が発生し、休山となり、四月、中国人は日立鉱山へと転送された。朝鮮人労働者も一部は四月に尾小屋鉱山、六月には久根鉱山へと転送された。
連行された中国人たちはつぎつぎに倒れていった。中国人にとってそこでの労働は絶滅にむかう労働であった。鉱山側は連行した中国人を、生産を維持するための労働力として使用することはできなかった。
強制連行された朝鮮人について、連行者数と逃亡・争議などの抵抗を中心にみてみよう。
厚生省「朝鮮人労務者に関する調査」によれば、一九四〇年から四五年の間に峰之沢鉱山へと四九六人が連行された。中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」によれば一九三九年に五〇人、一九四一年に二〇〇人が峰之沢への運行を認可され、一九四二年六月までに一八○人が連行されている。一八○人は「募集」の形で連行された人々であった。この時期に忠南洪城郡、京畿水原郡、始興郡、慶南固城郡などからの連行がおこなわれた。
一九四三年から一九四四年にかけて、「官斡旋」の形で、忠北清州郡、忠南洪城郡、全南海南郡・潭陽郡・長城郡などから六次にわたり、計二〇一人が連行された。
一九四四年一一月と一九四五年一月には「徴用」の形で、忠北清州郡、槐山郡から計九〇人が連行された。ほかに「縁故」という名で一九三八年~四四年の間に二五人が峰之沢鉱山へと連行された。
この名簿の記載によれば、これら四九六人のうち一九四五年八月までに逃走に成功した者は二四〇人であり、逃走率は四八パーセントになる。帰国、送還者などの数は七八人である。
峰之沢は一九四五年に入り火災のため休山となり、「募集」「斡旋」の形で連行された朝鮮人は一九四五年四月に尾小屋鉱山(石川県能美郡)へと六〇人、同年六月久根鉱山へと三〇人が転送されていった。日鉱尾小屋鉱山には一九四二年六月の段階で二四二人がすでに連行されている。
峰之沢へと「徴用」された朝鮮人は多くが現地に残留している。この「徴用」された集団の逃走率は低い。日鉱側の取り締りの強化がうかがわれる。「募集」「斡旋」された人々の逃走率は六一パーセントにおよぶ。
峰之沢鉱山でおきた二つの争議(直接行動)についてみてみよう。
一九四一年一〇月、原田星鶴ら二〇人余りが直接行動に出ている。きっかけは昼食の副食に予定されていた肉が入っていなかったことという。賄係が配給において手に入らなかったことを理由にわずかな肉で雑煮をつくったところ、二〇人ほどが憤激して、朝鮮人の賄夫婦を屋外に出し「殴打乱暴」したという。これにともない警察は七人を検挙した。そしてこの七人は本籍地へ送還させられた(『特高月報』一九四一年一〇月、『在日朝鮮人関係資料集成』四所収)。
強制連行、強制労働への怒りは食事を契機に直接行動へと転化した。おそらく、朝鮮人たちはさまざまな要求を鉱山側にぶつけていったのであろう。その結果、七人の検挙・送還となったと思われる。
「朝鮮人労務者に関する調査」の名簿によれば、原田星鶴は京畿道水原郡出身、一九四一年七月に連行されている。七月に連行された八四人のうち逃亡者は四二人、帰国送還者等は三六人であり、ほとんどが現場から姿を消した。連行された七月の翌月には八人の逃走と一人の送還、争議の発生した一〇月には一七人の逃走と七人の送還という状況であり、この段階で、連行した八四人のうち三三人が現場から離脱していった。ここに「募集」という連行への激しい抵抗をみることができる。
一九四三年九月二一日にも峰之沢において直接行動が発生した。「国民動員計画」によって連行された朝鮮人のうち三九人がかかわった争議であった。この争議は連行されて「訓練」をうけている期間におきた。飲酒を厳禁する「隊律」を破ったと飯場頭が労働者を叱責した。それに対し同僚の朝鮮人たちは飯場頭夫妻を殴打したという。その結果、中心人物二人が「検挙」され、他の労働者に対しては「厳諭」がおこなわれた。これらの動きを権力側は「誤解に基く闘争」としている(『特高月報』朝鮮人運動の状況 一九四三年一〇月『在日朝鮮人関係資料集成』五所収)。
ここにある三九人とは一九四三年六月に連行された忠北清州郡などの四八人のなかの人々であろう。この集団からは連行された六月に九人が逃走、九月には八人、一〇月には三人、一一月には一人が逃走した。連行されて四ケ月の間に二二人が現場から離脱している。一九四五年六月までに残っていたのは六人であり、逃走に成功した人数は三九人である。一九四四年には六人がさらに逃走、一人が帰国。一九四五年六月に二年満期をむかえるが、三月一人、四月二人、五月四人、六月五人がつぎつぎにと逃走し、満期帰国したのは一人だけであり、帰国を期待していたとみられる六人は、久根鉱山へと転送されていく。
この集団は連行された直後と二年満期を迎えるときの逃走が多かった。一九四三年九月の直接行動はこのような動きのなかで発生している。連行され隔離収容され、隊律に束縛された訓練と暴力的管理のなかで、朝鮮人たちは直接行動をおこなったとみることができるだろう。
なお、この名簿の記載には誤りがあることが、小池善之さんの現地調査で明らかになっている(小池善之「『厚生省調査報告書』と朝鮮人強制連行」)。それによれば、一九四二年五月に全華寿さんは慶南固城郡から連行された。面の役人と警察官による命令だった。飯場は外から出られないように鉄の棒で閂がかけられた。暴力は日常的におこなわれ、逃亡者は皆の前に出され棒で叩かれて半殺しにされた。全さんは二年経って帰国したが、名簿では六ヵ月後に逃亡したことになっている。全さんの知人の巴山点王さんは連行された四ヵ月後に落盤事故で足を切断し帰されたが、名簿では四三年九月に逃亡したとなっている。名簿では逃走日が月末とされているものが多く正確とはいえない。だが逃亡が多かったことは事実だろう。
強制連行による増産が狙われた。しかし、連行された朝鮮人は現場からの逃走や争議などで抵抗しつづけた。「所長会議資料三」(日本鉱業一九四一年度・『朝鮮人強制運行の記録』所収)によれば、日本鉱業峰之沢鉱山は作業能率の低下に不安を抱き、「取締方法」の確立をもとめている。「内地人ヲ割当テズ総テ移入半島人二依リ労務供給」がおこなわれることに対し、資本の側は作業能率低下の点からいだっていたのである。逃走やサボタージュ、帰国要求のたかまりのなかで鉱山側はさらに監視と統制を強めていったようであるが、抵抗をおさえることはできなかった。朝鮮人の逃走者は増加し、名簿から一九四四年、四五年の逃走成功者数をみれば一二〇人ほどとなっている。
このように現場での逃走を中心とする抵抗がつづいた。それにより日本の戦時動員体制は現場からうちくだかれた。峰之沢鉱山においても久根と同様、強制連行による生産態勢の確保は成功しなかったといえるだろう。
引用元 人権平和・浜松(戦時強制労働の調査/天竜久根・峰之沢鉱山より一部抜粋)
人権平和・浜松 - 天竜久根・峰之沢鉱山
http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/
なぜ飛ばしたっ!
初っ端から申し訳ない、何時か取り上げようと思っていたネタだけに読んで貰えたなら幸いだ。時代背景と産業復興の波に飲み込まれた数ある鉱山の内の一つ、峰之沢鉱山。そのお隣の古河鉱業久根鉱山との相互問題も歴史を辿ると面白い、何と言っても”あの”有名な「古河鉱業」だ。そう、「足尾銅山鉱毒事件」の古河鉱業。
それだけでも当時の歴史を色々と辿りたく成るでは在りませんか、以降少しづつですが説明して行きましょう。
2棟残る鉱山夫住宅、正面左側の棟入口からお邪魔します。
薮い、暑い、帰りたいっ。
森林管理のじいちゃん達に教えてもらった当時の旧道を歩いたのだけれど、いや「歩く」では無いか。兎に角這って転げて薮漕いでこの入口に到着、夏に来る場所じゃ無かったよココ。
鉱山夫住宅と言っても鉱山関係の資料などは一切残されてはいない、メインの住人が鉱山夫の家族の為の物だったからで鉱山夫達の簡易宿舎は別の場所に建設されていた。しかし現在その姿を見る事は残念ながら出来ない、閉鎖後に直ぐ解体されてしまった為だ。
1969年の閉鎖までは診療所、娯楽会館など多くの建造物が残っていたが現在は殆どが解体されてしまっている。
住宅内部も独身の鉱山夫には広過ぎる作りで家族用だったのが良く解る、残留物は少ないが当時を偲ばせる家具や雑誌など幾つか興味深い物が。
1700年代後半から採掘生成が開始されたこの鉱山、企業の手がシッカリと入ったのは1907年。この年に久原鉱業がこの鉱山を含む山間部の山々を採掘権利と共に買収、複数に枝分かれしていた業務を一本化する事で事業を本格化・効率化して行く事に成る。
久原鉱業に関してはこれまた色々と複雑内経緯が在るので以下ウィキリンクを順繰りと読み進めて欲しい、以降その予備知識が在る物として話を進めて行きたい(長く成り過ぎて全て記述出来ないのです、御免なさい)
峰之沢鉱山 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b3%b0%e4%b9%8b%e6%b2%a2%e9%89%b1%e5%b1%b1
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久原財閥 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e4%b9%85%e5%8e%9f%e8%b2%a1%e9%96%a5
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久原房之助 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e4%b9%85%e5%8e%9f%e6%88%bf%e4%b9%8b%e5%8a%a9
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株式会社ジャパンエナジー(日本鉱業) - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%83%91%e3%83%b3%e3%82%a8%e3%83%8a%e3%82%b8%e3%83%bc
貴様、また飛ばしたなっ!
斜面にへばり付く様に建設された鉱山夫住宅、当時はこの写真上部に生活道路と往来する為に住民専用の山道が整備されていた。今でも冬季にはその姿を確認出来るが夏真っ盛りの時期はもう、ガツっ晴れの青い空と盛緑の植物が迫って来てもう駄目さ。
第一次大戦後の不況で一時期まばらに成ったと聞くこの住宅、しかも1945年4月5日の鉱山火災で一時休鉱。この為、この住宅棟を含む幾つかの鉱山夫住宅から人々が消える時期が続いた。
住宅の内部はこの様に著しい傷みが見てとれる、閉山後の放置期間が余りに長い為だ。解体予算が算出された事も何度も在るのだけれど自然に飲み込まれてしまった現在では再開発の行政予算が計上されない限り、完全な解体は見込めない状況と成っている。
因みに閉山後、背と成る斜面を擁する山から土砂崩れの被害を数度受けている。この区域の災害記録にも残されていて現在使用されている生活道路にまで被害が及んだ様だ。
その為に森林開発局や行政、地元関連企業が協力して山間部の定期伐採や簡易整備が行われている。
鉱山火災、大戦と重なる企業ダメージから復興して最盛期を迎える1956年。この年に生成出荷量が過去最大と成り、従業員700人を抱えての地元鉱山産業は多いに潤った。
しかしその後、戦後復興と経済成長の礎と成る時期が重複した為に無計画な採掘が問題視され始める。鉱量激減と品位低下、貿易の自由化と全国の鉱山や銅山が煽りを受けたこの時代、峰之沢鉱山も当然その風に追いやられる事に。
最盛期から10数年と成る1969年、地域産業を支えたこの鉱山は閉山を迎える。
さて、先程の引用元サイトからもう一説抜粋しよう。飛ばすなよぅ?
一九四三年から峰之沢で事務員として働いた山本萬さん(一九二六年生)はつぎのように語る。
「入社してはじめに現場事務所で働き、その後事務所に入った。戦時中、増産のために乱掘したため坑内が荒れた。落盤が多くなり危険な状態となり、一九四七~四八年に事故が増えた。入社したころの労働者の構成は日本人が七~八○○人、朝鮮人が三〇人くらいであり、のちに中国人が二〇〇人ほど入った。
事務の担当者として朝鮮人をうけもった。私の仕事の内容は出勤状態をつかみ賃金を算定する経理だった。坑内は一交替だったが、忙しくなると二交替となった。終戦前に相当数が逃亡した。秋葉山の山を越えて逃げた。川ぞいに逃げればみつかってしまうからだ。
戦後、偶然、佐久間町浦川で、逃亡したのち現地に住みついた人と出会ったことがあった。
鉱山には生産管理のために軍政官が駐在した。賃金には本番式(日給固定給)、半請(半分が本番、半分が請負)、請負式(切羽から○○トン掘り搬ぶと○○円など)の三つがあり、日給制だった。労働者は四人で一集団(掘削一、支柱一、運搬二)をつくり、グループ毎に賃金を払うことがおおかった。職域毎に賃金がきめられていた。
朝鮮人の名簿には番号とともに朴○○、金本○○と書かれていた。はじめは名前を覚えることができず番号で呼んだ。軍隊出身者や朝鮮巡査出身の労務担当者が六~七人いて、見張り、警戒をしていた。逃亡して捕らえられた朝鮮人もいた。
朝鮮人の飯場は鉱山事務所北側の「赤ズリ」にあり、「半島飯場」と呼ばれていた。飯場では豚をさばいて食用にしたり、ドブロクをつくったり、キムチをつくったりしていた。労務は近づくが、一般の労働者は近づくことがなかった。単身者は飯場で暮らし、家族持ちは日本人の社宅内に居住した。当時、飯場頭の娘が婿をとり、結婚式があり、招かれていった。飯場の婆さんの喪式もあり、皆アイゴーアイゴーと泣いていた。
朝鮮人が増えたのは一九四四年ころだった。はじめは三〇人くらいだったが、四四年ころ増加し、労務担当が朝鮮人を連れに行き連れてきた。一回に三〇人くらいが連行されてきたが、頻繁に逃亡した。とくに中国人が連行されてきたころは逃亡が多かった。飯場に帰ってこないという連絡があると労務が探しに出ていった。
中国人は坑外の仕事をしたが、衰弱していて皮膚病が多く、戦力にならなかった。饅頭を食べていた。」(龍山にて、一九九〇年談)
ここから、朝鮮人連行者の増加と一九四五年における逃走者の増加、朝鮮人飯場の存在、軍による管理、朝鮮人名簿の存在などがわかる。
地元の鉱山管理者は「峰之沢には中国人が強制連行されたが、朝鮮人の強制連行はなかった」と語った。史料、証言などから朝鮮人強制連行があったことはあきらかであるが、峰之沢地域において朝鮮人強制連行は事実認識として共有は不十分である。日本が植民地支配と戦争犯罪の責任をはっきりさせることなく、現在に至っていること、それは峰之沢においては「朝鮮人強制連行はなかった」という発言になってあらわれてくる。
村で出会った老女は「朝鮮人のことを『半島さん』と呼んでいた。山の中で百姓をしていたら、時々朝鮮の婆さんがチョゴリ姿でおりてきた」という。鉱山への動員は「内鮮一体」の名のもと、「半島人」という名でおこなわれた。民族性を奪い朝鮮人を「皇民化」し戦争へと動員する政策によっておこなわれた朝鮮人強制運行。この強制連行・強制労働についての事実認識がいまも共有されていないということは、峰之沢においては、朝鮮人は「皇民」「半島人」のままであり、未解放のままであるといえるだろう。
龍山村役場の倉庫の一角に戦時下の鉱山労働者名簿の一部、戦後の外国人登録関係の綴があった。これらを含めての史料調査や、運行された人々自身からのききとり調査が早急におこなわれる必要がある。
引用元 人権平和・浜松(戦時強制労働の調査/天竜久根・峰之沢鉱山より一部抜粋)
人権平和・浜松 - 天竜久根・峰之沢鉱山
http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/
見ていたぞ、スクロールバーでまた飛ばした事をっ!
さて、ただの歴史検証ではなくて今回は軍需産業の影と外国人強制労働の実態を地元産業の在り方と絡めてレポート(コピペと他サイト引用で)したのだけれど如何だっただろう。取っ付き難いし現代とはどうしても時代錯誤な問題だったりするのだけれど興味は持って頂けただろうか、詳しい歴史は有名物件なので今回は記載しなかったけれど調べてみると新しい発見がある筈ですよ。
実は近年に成って「解体しねーなら建造物文化資料として観光地化しねぇ?」ってな話が行政にもチラホラと、地元の観光関連企業、NPO団体などが集まって整備して見学出来る様にしようとする動きも在るのだとか。ただそこはやはりお金の問題がどうしても、恐らくは実現不可能だと思われますねぇ。
静岡県としては静観の構え、浜松市はそもそもやる気は無い様です。
有名物件も調査すると色々と出て来る物です、てか有名物件だからこそ…なのかも。特筆する事が無くても現存している遺構から教わる事はまだまだ在りそうですね、本日は以上です。
アプローチ
国道152号線を天竜川と並走して秋葉ダム方面へ、川を挟み県道285号線から山間部へ入る枝線に。そこからは少々複雑な道順なので地図リンクを参考にどうぞ。
地図リンク
http://goo.gl/maps/vWFdY
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