埼玉県│赤岩文化会館 再訪
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤岩文化会館
※ 2014年2月の記録的な大雪(※1)で日窒鉱山社宅の大部分が圧壊しました、また関連する鉱山施設においても現役・廃墟問わず数棟が崩壊した事を確認しました。赤谷文化会館に至っては現在崩壊の恐れがある為に注意が必要です。
※1:以下参照 - ウィキペディア 平成26年豪雪
http:// ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b9%b3%e6%88%9026%e5%b9%b4%e8%b1%aa%e9%9b%aa
前回より引き続きニッチツ関連遺構をレポート、今回は小倉沢集落の娯楽を一手に引き受けていた赤岩文化会館をご紹介。ニッチツ関係はどれもが有名過ぎて今更説明は不要な物件なのだけど診療所とこの講堂は特に語り尽くされた廃墟だけに今更感は否めない。
しかも以前もエントリーしてちょこっとご紹介しただけに写真の取り直し的な意味合いがどうしても大きいのはご勘弁願いたい、以前のエントリーは以下より。
ニッチツって実は結構色々と知られてない歴史が在って面白いのですが意外とそれらを説明しているサイトって少ないのが気に成ります、緘口令でも敷かれているのかなぁ?鉱山系の歴史ってどうしても泥臭かったり環境問題と切り離せないから仕方ないのだけど…うーん。
通称ニッチツで廃墟好きには親しまれている秩父鉱山、現在に到るまで日窒鉱山株式会社、日窒秩父鉱業所(これは事業所単位での変更で社名変更ではない)、日窒工業株式会社、そして現在の株式会社ニッチツと事業規模と社名の変更を繰り返している。
それらには沢山の問題と事情が在ったのだけど憶測や不確かな情報も含まれているのでここでの明言化は避けよう、興味の在る方は各々調べる事をオススメしたい。
まあ歴史と問題が山積した事業内容と会社形態において当時の鉱山夫達の楽しみが小さな講堂で昇華し切れていた1950年代、この小倉沢集落の赤岩文化会館はとても賑わっていた事だろう。
今回はこの赤岩文化会館をご紹介、当時のニッチツを知るトリガーにも成る物件をレポートしよう。
鉱山発見から紆余曲折の300年を掛けてニッチツが本格操業したのが1930年代後半、実質的には1940年からニッチツとして鉱山の運営が開始される。この地域での大規模鉱山運営は交通の便が悪い事も在り、町としての機能を鉱山自体に持たせる事で事業を拡大させていった。
既にご紹介した、
そして次回紹介する社宅跡なども含めて秩父の山奥に企業が開発した町機能が丸々存在していた、そしてこれらの遺構が現在でも残っているのはとても珍しい事なのだ。
今回は数多在る町機能の中でも「娯楽」を担当した赤岩文化会館を簡単に説明しながら進めて行こうと思う。
まずは訪れた方が必ず撮影する正面入口から入って直ぐ、この場所からの内部の様子。ここも診療所同様に訪問者の撮影ディレクションが度々行われている様で配置が来る都度変化している。
舞台際の天井は抜け落ちていて日の光が差し込んでいた、内部が比較的綺麗に残っているので初見では解り辛いのだけど建造物自体の劣化は相当進んでいる様だ。
この舞台は演劇や企業内でのイベントなどが執り行われ、また映写機が過去に数台在った事から映画館としての機能も有していた様だ。紹介しているサイトは少ないのだけど舞台裏も結構広くて未だ沢山の物が散在している。
入口から見て左側に二階へ上がる階段が残っている、この2階席からの写真も多くネット上で見掛ける。講堂自体は斜面に建てられているので2階席部分の非常口から外へ出ると階段ではなくてその間々斜面部分に出る事に成る。
つまり上から入るとその非常口が1階部分に見えてしまう訳、廃村なんかでも良く見掛けるのだけど斜面にへばり付く様に形成された建造物たちはこの様な作りが多い。
1階トイレ部分正面から舞台袖左側に成る、良く観察すると壁面は崩壊し始めていて天井も抜け落ちそうだ。
非常口から出るか下から回り込むと斜面上に出る、振り返ると社宅跡群が軒を連ねる。とっても有名な赤岩文化会館、作られたのは1940年代の様だけど外観はとってもモダンで当時としては機能性とデザイン性を併せ持った建造物だったのかもしれない。
雪深いこの地で多くの鉱山夫達を癒した娯楽施設も現在は取り壊しを待つ廃墟と成っている、取り壊しが現実味を帯びて来た昨今、再度見に行く機会が在るのならば早めに入った方が良さそうだ。
アプローチ
秩父市外から国道140号線から県道へ。県道は210号線をひたすら群馬方面へ、雁掛トンネルを抜ければ秩父鉱山です。
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