滋賀県│後谷集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 霊仙廃集落群 - 後谷集落跡
約1年振りにやって来ました霊仙の廃村群、この廃村群の存在を知ってからは霊仙三集落を中心に歴史や時代背景を反映した開拓のプロセスなど興味が尽きない地域でして。
前回の訪問(2010年06月)では時間的な制約で行く事が出来なかった幾つかの廃村へ、今回の旅でも予定していた全ての村へは行けなかったけど十分楽しめたし新たな発見も在りました。
以前の霊仙廃村群のエントリーは以下より。
初春の山中では雪が残り、迂回させられたり通行を断念させられたりと残念な事も在りましたが新たに幾つかの廃村へ赴きました。最初に向ったのは「後谷」と言う廃村、っと思ってましたがどうやら現在「限界集落」に成っている様で期間限定の廃村の様です。
2006年辺りでは廃村だったとの情報が在りますが2009年位からでしょうか、厳冬期以外は人の気配が感じられる…との現地を訪問した方達の報告が急増。僕自身も1軒の家屋にて人が住んでいる事を確認、なので正確には廃村ではないですがレポートを始めるとしましょう。
記録では豪雪と評された年の2006年、この後谷は廃村と成っている。林業と鉱山で一時期は人口も増え、1936年には218人もが暮らしていた。
明治から昭和初期までは後谷をウシロダニではなくウシロダンと呼んでいた様だ、この後谷に限らず霊仙の廃村の中には以前と現在で呼称が違う地名が幾つか存在するので歴史を辿る調査中に戸惑う事が在る。
倒壊家屋は意外と少ない、と言うのも現在残されている家屋はその管理者がハッキリしているか現在も物置などで使用されているからでずっと以前の家屋などは取り壊されたそうだ。
最盛期では20後半~30軒近くの家屋が並び、また林業や鉱山関係の倉庫なども在ったと聞く。実質的に現役の家屋は1軒だが夏季には元住民の方々が各々の家屋に戻ってくる様で廃村ではなく、やはり冬季限定の廃村と言う認識が正しい様だ。
現在でも20軒近くの建物が残っている、雰囲気は廃村なのだけど。
この一帯には道の分岐を隔ててもう一つの集落「屏風」が存在する、此方は今でも人が住んでいて自家栽培で小さな農作を行なっている。屏風と後谷は距離も離れて居ない事から行政の区域管轄としては同地区と判断されていた様で学校なども共通学区で展開されていた。
1974年 多賀小学校後谷分校開校
1963年 多賀小学校芹谷分校と改称
1993年 本校への統合に伴い閉校
更に詳しい歴史は此方から。
多賀小学校の歴史
http://www11.ocn.ne.jp/~tagasho/info/history.html
廃校物件としても知られ、一部の廃校マニアさんにも人気が在りましたが2004年3月に解体。卒業生の中にはその解体を惜しむ声も少なく在りませんでした。
さて、この集落を一時的に発展させた産業が在りました。今回のエントリーでも数回書いていましたがその産業とは「鉱山」です、この山奥の小さな村に鉱山が在ったのは実に驚く事実でした。
と、言うのも付近の集落において林業が中心で在った霊仙廃村群の当時の産業でこの後谷だけが「鉱山」と言う特色を持っているからです。
「多賀鉱山」
余り聞きなれない鉱山名です、勿論既に事業は終了していますが集落への道とは別ルートで鉱山跡へ行く事も可能です。
住友セメント多賀鉱山
四国カルストや秋吉台などでも有名なカレンフェルト地形、その斜面に多賀鉱山は在ります。鉱山の発見は1910年代後半で開発が本格的に始まったのが1936年、閉山は1965年。正式名称は住友大阪セメント株式会社多賀鉱山、前期は発破、後期はベンチカットによる砕石だった様です。
今でも鉱山跡には関係施設が残り、訪問者も居る様でネット上にたまにアップされています。
鉱山手前には後谷集落では有名な砂防ダム、真新しい建造物がちょっと違和感を引き立たせます。
此方のお宅が現在も住まわれている様で生活感がヒシヒシと伝わってきました、声を掛けましたが残念ながら留守の様でお話を聞く事は出来ませんでした。
残念。
意外と魅力的だった後谷、痩せた猫が道路脇で此方を観察してました。冬季に十分な餌と寒さを凌げる環境が在るのかなぁと心配に成りながらも次の目的に向う為、集落を後にしました。
アプローチ
県道17号線と県道239号線の分岐を落合集落方面(県道17号線)へ、分岐から暫くして集落へ向う舗装道が左側に顔を覗かせます。途中屏風集落との分岐が在りますが標識が在るので後谷方面へ直進、行き止まりが後谷集落と成ります。
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