岐阜県│神の住む家
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 神の住む家(旧大家邸)
とある有名物件が在る、何故か正式名称を語るのはウェブ上でタブーに成っているが今回は便宜上の「S診療所」で話を進めよう。ってかまあこの後の話の流れで「S」が何なのかは容易に想像出来る筈です、因みに次回はその「S診療所」ですよ。
さて、その有名物件とよく一緒に紹介される「ついで物件」が今回のレポートだ。特徴的なのは何故か仰々しい名前で呼ばれている、その名も「神の住む家」と。うーん、なんで?
何故そう呼ばれる様に成ったか、まあ調べた結果意外と理に適っていて関心はしたのだけどちょっと解釈に問題があるかなぁ…語り尽くされた感は在るけれど個人的にとても気にってた物件なのでほんの少しだけ掘り下げてみたいと思います、それでは「神の住む家」のレポートを。
岐阜県は広い、名所から無名の景勝地などを多く擁する自然が豊かな県なのだ。名神高速道路から東海北陸自動車道に入り、初めて通るインターで降りた。美濃IC、何か特産物が在るわけでは無いけれど大きな神社が在る事で地元では有名なのだと言う。今回はその神社を目指して車を走らせた、暫くすると成る程…とっても大きな神社「洲原神社」が見えてきた。
この広大な洲原神社の敷地内にその廃墟は在ると言う、何故か「神の住む家」と呼ばれていて直ぐ近くの「S診療所」のついで物件として多く取り上げられていると言うのだ。個人的に全く興味を惹かれない物件だったけれど歴史にちょっとだけ引っかかるモノが在った。気に成る位なら行ってしまうかって感じで今回お邪魔させて頂いた、当日は洲原神社の関係者さんにも協力してもらって色々とお話を聞く事も出来たのだけれど色々と整合性が取れない状況なのでその辺は追加調査(※1)のレポート一緒に報告したいと思う、まずはどんな所なのかを見て頂こう。
※1:この廃墟の持ち主、つまりご家族からお話をお聞きしました。
洲原神社の裏手と成る長良川の土手沿いに旧道が残っている、これは洲原神社から裏手に広がる集落への生活道路だった名残の旧道で今でも神社関係の催し物などで使用される。また地元の方の散歩道としても神社へ抜け道としても時々使用される様だ。
この旧道沿い、神社裏手直ぐの場所にこの廃屋は在った。
入口からパっと見る限り普通の家屋廃墟で特に珍しい事も無い様だ、納屋などは倒壊しかけていて母屋の中も相当在らされている様子が外からでも解る。この物件は近年に成ってから特定された廃墟らしく祭りで大量の人間が押し寄せてカナリ内部を荒らされたのだと後から知った、つまり廃墟としても殆ど終わってしまった物件という事だ。
玄関口、ウェブでも見たプレートが確認出来る。どうやらこのプレートの名前と洲原神社を開いた人物の名前が一部一致した所から色々と推測されたらしいのだけど…。お隣の洲原神社は歴史が大変古い神社で開いたのは神職三神安角の二男「泰澄」と言う人物。
泰澄 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%b3%b0%e6%be%84
修験道 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e4%bf%ae%e9%a8%93%e9%81%93
この人物の「泰」と神に住む家の家主とされる人物名の一部「泰」が同じ事から泰澄の直系神主がここに住んでいたのだと推測がされた、しかし人物名で頻繁に使用される漢字だし人名漢字としても常用範囲。また過去の偉人から一字譲り受けるのは神道でなくても普通に行われている命名方法だ、結論から言うと直系ではない。
そもそもこの神社の歴代神主の歴史は数度途切れている、それはこの洲原神社の歴史や公開されている関連資料を見ると解るだろう。しかしこの廃屋の家主が神主(もしくは関係者)だった事は本当の様だ、関連資料は入手出来なかったけど現地で地元の方(※2)からお話を聞く事が出来、ほぼ確定の内容だった。
※2:神社関係者とは別にS神社へ同行して頂いた現地の方、この廃墟にも同行して頂きました。
内部は大分荒らされていた(経年による劣化ではなくて人の手による破壊行為)、管理物件ならば(洲原神社の関係者ならば尚の事)何故この物件を放置しているのか疑問に思った。荒らされ放題で手入れも皆無、廃墟さんや心霊さんのアタックも許容している様な証言も取れた。
んー、気に成るな。
土地の管理地図(※3)を見ると驚く事にこの廃屋は神社の敷地内で在る事、旧住所の番地はふられているものの現在の住所の番地は未登録状態。仮にこの廃屋に郵便物を届けると成ると旧住所で送るか現在の住所なら洲原神社宛てに成る、って事はやはり洲原神社が管理してる…の…?
※3:行政管理で一般公開されている管理土地資料を参照
洲原神社の現神主さんにお話を聞こうと思ったら…あらら。なんと州原神社には常駐の神主さんが居ない(※4)ではないか。しかも常駐している関係者さえも社務所での電話対応を基本として本来の洲原神社関係者では無い…これでは困ってしまうなぁ。
※4:当日は付近に住む関係者さんに連絡を取って頂いたお陰で同行して頂きました
そもそもこの洲原神社って何か複雑な経緯とか歴史が混ざって現在に到ってる、これはどうやら廃屋より神社の歴史を紐解いた方が面白そうだ。が、それはまたの機会に。今回はあくまで「神の住む家」に関連する事を優先して調べよう。
廃墟の美しさは全く…なので撮影枚数は全部で10枚を切っている。撮影意欲は限りなくゼロに近い、外に出るとアチコチのサイトで紹介されている石碑が佇んでいた。
何処のフォントだよ…読めない。確かに「神入××」(※5)とは読めるけどなぁ…。
※5:書道家さんと宗教関係者さんに写真を見てもらい、内容を把握。追加調査で報告致します。
有名な「チーム廃墟」さんのレポートでこんな一文が在った、
庭先の石碑にあった「神入」という文字は、この家の主が天に召されたことと、死後神になるという特別な存在であったことを意味している。
これの詳細が知りたかった、神道の用語辞典にもこの「神入」と言葉が掲載されていない。どうやってこの言葉の意味を知ったのか、神社だから神道(洲原神社の場合は祖霊崇拝)で合ってる筈なのだけどなぁ。
確かに神道には「神」の定義の解釈に以下の様な物がある。
「人間も死後神になるという考え方があり、社会的に突出した人物や、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物」
これが「神入」?という言葉に相当するのだろうか、後日もう少し調べてみよう。
廃屋内部には戦争と随分と関わりの多かったであろう資料が過去に沢山残っていた、戦争と神社と言えば靖国神社を思い浮かべる人が多いと思うのだけどこの神社の鳥居が「靖国鳥居」なのがちょっとだけ気に成った。まあでも靖国鳥居は「神明鳥居」の鳥居造形だから特に関わりは無さそう、そもそも歴史が違うしなぁ。
因みに洲原神社の境内(舞台殿)には旧陸軍歩兵図が残っていて日清戦争や日露戦争に関する資料も残されています、この辺と廃屋の中に残された資料が関係してるのだろう。
調査した内容を考えると「神の住む家」って俗称はちょっと違うかなぁと、常駐の神主だったであろうこの廃屋の家主。今で言えば洲原神社宮司なのだけどその関係性は十分証拠として残っていた、だけど神道の解釈から言っても「神」が住む家ではない。
神道において死後の時間や場所、そもそも空間の概念は無い。神とは「住む」様な安易な存在ではなく、崇拝によって「感じ」る存在だ。結果として言えば神社の関係者が住んでいたただの廃屋、これが答えだろう。
正直「神の住む家」は大して興味は最初から無くて事前調査で洲原神社に興味を持ってしまっていた、此方は掘り下げると結構面白い話も出てきて地域信仰に根付いた農業の神社として沢山の資料が残されている。
それが何故戦争と深く関わる事に成ったのか、歴史の途切れた神社の運営形態、この地域一体の命名理由と成った「洲原」の語源など気に成る事は満載だ。
幾つかの参考サイトのURLを記載するので覗いてみてほしい。
神社探訪 - 洲原神社
http://8.pro.tok2.com/~tetsuyosie/gifu/minosi/suhara/suhara.html
シリーズ田舎探訪 - 正一位洲原神社
http://www.windsnet.ne.jp/inaka/090615/inaka.html
この物件、ウェブ上では「S診療所」と一緒に紹介されている事が多いのだけれどどうにも胡散臭い噂や憶測、思い込みで説明されている事が多い。また説明に必ず「ある神社の神主で神社を開いた僧の直系で…云々」が記載されている、もう一度言うけど直系じゃないよ家主は。
まあでも普通に調べても結局解らなかったのだけどさ…幾分悔しいがその後の調査(帰宅後の机上調査と電話調査)も含めてレポートをまとめよう。
美濃市は1945年にこの物件を擁する洲原村を含めた一町六村が合併して誕生した、美濃市には旧洲原村の詳細な村歴は残されておらず近年史が残るばかり。
行政の協力も得る事が出来たのだけど結局現職の職員さんや残された資料では詳細が判明せずに洲原神社さんをご紹介して頂いた、洲原神社はこの「神の住む家」の同敷地内に有る洲原の長い歴史を語る神社。
現在社務所で神社の一連の業務をされている宮司の跡部さんにお話を聞く事が出来た、しかし元々はこの土地の出ではなくその詳細を知る事は出来なかった。
解った事と言えば、洲原神社を開いた人物の系譜だ。
洲原神社には直系から分かれた3分家が存在する、その3分家はそれぞれが既に美濃市洲原を離れて生活している。3分家最後の関係者が「神の住む家」の家主だった事は今回の調査と洲原神社さんの協力で確認出来た、実はその後関係者さんやご家族の連絡先も解ったのだけどこれ以上は相手方のプライベートを裂いてまで知る内容ではないと判断。
この廃屋の家主は3分家の末裔では有るけど直系ではない、そしてその3分家も現在では洲原を離れていてこの地で詳細な歴史を知るものは殆ど居ない様だ。
この次にエントリーする「S診療所」でも最後尾にて再度この件について語ろう、ご協力頂いた岐阜県美濃市総務部総合政策課さん、洲原神社宮司の跡部さん、地元の方には再度感謝の気持ちを。
本当に有難う御座いました。
最後にどうでも良い話。
ここを探す過程でどうしても気に成るのが地図上でもウェブ上でも頻繁に出てくる「ブッポウソウ繁殖地」という言葉、ブッポウソウってどんな植物なのよ…と思ったら。
ウィキペディア - ブッポウソウ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%83%96%e3%83%83%e3%83%9d%e3%82%a6%e3%82%bd%e3%82%a6
可愛いじゃねぇかブッポウソウ、しかも漢字で書くと「仏法僧」?うおーっカッコイー…って鳴き声の主を勘違いしての命名…だと…。
(゚Д゚)ハァ?
次回は洲は…S診療所です。
アプローチ
東海北陸自動車道は美濃ICを降りて国道156号線を北上、長良川鉄道と長良川に挟まれた洲原駅から直ぐに洲原神社が在る。洲原神社の裏手に細い旧道が在り、神社裏手最初の廃屋が「神の住む家」と成ります。
地図リンク
http://goo.gl/maps/fOzRq
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