岐阜県│洲原村診療所(S診療所)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 洲原村診療所(S診療所/健全ナル国民ノ診療所)
前回のエントリーで「神の住む家」と「洲原神社」を簡単にレポートさせて貰ったのだけど岐阜県の物件としてはこの廃屋をメインに据えてやって来た、「S診療所」や「健全ナル国民ノ診療所」と呼ばれ長い事廃墟さんを魅了し続けた医療系廃屋「洲原村診療所」をご紹介したいと思う。
実はこの物件を調べるにあたり、歴史を探ろうとこの土地の所有権や設置時期、どうして廃業したのかなどを調査した。申し訳ない、本当に解らない。実は所有者は解った、この診療所が業務を行っていた当時のだけど…しかし現在は誰が所有しているのかなどが机上調査では判明しなかった。
現地での聞き込みを行ったのだけど詳細を語って頂ける方と出会う事は無かった。有名なのに、沢山の廃墟さんが訪れているのに、膨大な残留物が在るのに、何故かその詳細が解らない。
美濃市は1945年に洲原村を含めた一町六村が合併して誕生した、「合併前の町村に関する内容については資料がとても少なくてそれ以前の様子を調査するのは非常に困難」とお答え頂いたのは岐阜県美濃市総務部総合政策課の方。つまりは行政側でもこの物件どころか付近の歴史を把握出来ておらず、その詳細を調べる事は難しい様だ。
洲原神社同様、この物件も何れ追跡調査の結果をお知らせしたい。
この診療所は明治時代に設置され、昭和30年代までは稼動していたと思われる。それは郵便物や残された書籍、地域の聞き込みによって判明してるのだけど詳細な年月日までは解らなかった。
一部の廃墟さんの間ではヒッソリと人気が在り、2006年頃から特定される事が増え、「神の住む家」と同時期にネット上の「祭り」で随分と荒されてしまった。本来なら場所や正式名称を伏せるべきなのかもしれないけど完全に廃墟コンテンツとして終了しているので当レポートでは明記した。
因みにこの診療所は洲原神社や神の住む家などとは全く関係がない単一物件だ、それでは久し振りに設定弄りまくりでジックリと撮影した診療所のレポートを始めよう。
入口からしてもうこんなん、夏場ならもじゃもじゃブッシュで何処だか解らんく成るな。場所は洲原神社裏手から旧道を歩き、「神の住む家」を左手に通り過ぎて1分程の距離。右側に獣道が見えるのでソコへ入るとこの場所と成る。
まあ屋根がちょこんとブッシュの間から覗いているからそこまで探すのに手間は掛からないと思う。
っじゃまっしゃーす。
ああ、ココだ。ココだよ、ずっと来たかった洲原村診療所。やっとこそのお姿を見る事が適ったんだ、うひょー血圧上がって来た。だれか救急車呼んでーっ。
…などと騒いでいたところ、横に控えていた秘書の女性から鎮静剤を注射され、おとなしくなった。
※ 2014年現在、この受付などのガラス窓が持ち去られて無くなってしまいました。
こりゃーアンタ…美しいじゃねぇですか、それと反射で僕が写ってるのは内緒です。
廃墟系サイトでは昭和初期とか戦前とかその辺から廃墟に成ってたとか書いて在る、土地の所有者を調べた時に解った土地管理記録だと昭和30年代~40年代前半までは管理されていた事が解る。何故明確でないかと言えばその時期の記録が前後して確認出来ない部分が在るからだ、机上調査を照らし合わせても昭和42年の時点ではまだ管理の手が入っていた。
※ 2014年現在、内部の医療機器が持ち去られて無くなってしまいました。椅子も壊れてしまった様です。
狭い空間に沢山の残留物が在る、それらの中に時代を特定させる物も多い。薬品箱に書かれた旧製品名(意外と現在でも名前だけ変えて成分は殆ど変わらない薬剤が在ったりする)、新聞、雑誌、小説本など。見た限りだと新聞は古い物で昭和13年の物を発見、雑誌は昭和22年、本は昭和10年、その他にカレンダーや診療記録などが残っていた。
診療記録も昭和10年代で終わっているがその後の物も在ると聞く、一体いつ廃墟に成ったのか…。恐らく廃業時期と管理放棄時期には開きが在る筈だ、廃屋化してからも暫くは管理されていたのだろう。
※ 2014年現在、内部の書籍や関連資料が持ち去られて無くなってしまいました。
あれれ、幾つか見たネット上の写真と配置が違う…しかも薬品棚の中の薬も随分と減ってる(※1)…?海外で生活していた時にちょいと薬学を齧った頃が在った、放浪前の学生時代だ。そんな記憶を辿って薬品名を見ると…うわっ今でもちょっと危ないなぁって物が残ってる。有名どころでは覚醒剤の一種、こんなもん残しておいてイイのか。
針やらメスやらこの部屋は結構おっかないなぁ。
※1:殆どの薬品が持ち去られた様です、薬品に関する窃盗なので地元警察が現地調査を行いました。
2階に上がって来た、倒壊が進んでいると聞いていたので慎重に傾いた階段を登る。なんだかこの辺から屋内と外の隔たりが曖昧に成ってくる、裏手はもう壁が崩れ落ちて(※2)いた。
※2:2階部分の半分が倒壊しました、現在は全壊の恐れが有る為2階へは上がれなく成っています。
おおぅ、美しいな。
うーん、どうにも誰かのディレクションの匂いがするぜぃ。アチコチに都合良く配置された椅子や残留物が撮影する時のフレームインに対してスンナリと行き過ぎる、まあ撮る方としては助かるけどその間々の配置にしておいて欲しいなぁ。
( ゚д゚)
落ちてた、半分以上が崩落してる。ここももう直ぐ崩れ落ちるんだなぁ(※3)…因みに「健全ナル国民ノ診療所」はまだ残っていました(※4)、紙の劣化も進んでいたのだけど。
※3:崩落しました、現在裏手が半壊状態と成っており大変危険な状態です。
※4:人の手によって持ち去られてしまいました、薬品や資料・器具などと一緒に持ち去った人物は同一の様で一時期特定しようとする動きがウェブ上で垣間見れました。
以前はまだ壁や窓が在った筈だったんだなぁ。
一通り撮影してこの廃墟を後にする、廃病院は幾つか周ったけど美しさはずば抜けていた廃墟でした。心残りなのは現地で有力な情報を入手出来なかった事、机上調査じゃどうしても限界が在るし。2度と行く事はないと思うけどスッキリしないからもう少し詳しく調査して必ず詳細ををお伝えしたいと思う、しかし岐阜は遠かった。
最後にもう一度レポート結果を。
今回のレポートは地元の方の聞き込みを始め、実に多くの方の協力を得る事が出来た。まずは岐阜県美濃市総務部総合政策課さん、数度に渡る情報提供をして下さったが公開出来る内容は最初の導入部分の、
「合併前の町村に関する内容については資料がとても少なくてそれ以前の様子を調査するのは非常に困難」
が全て。
1945年に洲原村を含めた一町六村が合併して誕生した美濃市、それぞれの村の歴史がとても古く、行政側では町歴、村歴を含めてそれ以前の詳細な資料を持っていないのだと言う。今回の物件「洲原村診療所」と「神の住む家」、その両方が旧洲原村だ、その洲原村の歴史が実は近年史しか残されていない事が判明…今後も追加情報は難しい状況だ。
美濃市からの紹介で次にお世話に成ったのがなんと洲原神社、社務所に電話すると宮司の跡部さんと言う方がこれまた親切に色々と教えてくれたのだが…
「自分はこの土地の者ではないので越して来た以前の町の様子や歴史は詳しくは解らない、神社裏手の診療所に関しても存在の把握はしているが詳細は知らない。神社敷地内の廃屋(物件名:神の住む家)の家主は確かに洲原神社の関係者、しかし現在は亡くなられ親族に関しても自分は詳しく知る立場ではない。」
との事。
ここからは「神の住む家」エントリー最後尾の内容と同じ(コピペ)だが再度記載しようか。
洲原神社には直系から分かれた3分家が存在する、その3分家はそれぞれが既に美濃市洲原を離れて生活している。3分家最後の関係者が「神の住む家」の家主だった事は今回の調査と洲原神社さんの協力で確認出来た、実はその後関係者さんやご家族の連絡先も解ったのだけどこれ以上は相手方のプライベートを裂いてまで知る内容ではないと判断。
と、言う事でこの2つの物件に関して当ブログでは珍しくその詳細を把握出来なかった不完全燃焼なレポートと成ってしまった事をお詫びしよう。
しかし諦めた訳ではない。
ヒッソリととある大学の地域民俗学の教授さんにコンタクト、ついでに美濃市の地元紙(新聞社)の協力を要請。僕は仕事しないで国立図書館へ、出来ればこのエントリーが錆び付かない段階で追加の情報を投下したいと思っています。
期待せずに待たれよ。
アプローチ
東海北陸自動車道は美濃ICを降りて国道156号線を北上、長良川鉄道と長良川に挟まれた洲原駅から直ぐに洲原神社が在る。洲原神社の裏手に細い旧道が在り、神社裏手最初の廃屋が「神の住む家」。その間々旧道を1分も歩けば右側に「洲原村診療所」が見えます。
地図リンク
http://goo.gl/maps/tEwVd
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