千葉県│盤州干潟 浸透実験池
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 八幡製鐵(新日本製鐵) 工業用水浸透実験池
過去にもレポートをお伝えした事がある新日本製鉄株式会杜(旧・八幡製鐵)が建設した浸透実験池、その変わった地形とラムサール条約の候補地としても名乗りを上げた事も在って盤州干潟のランドマークとも成っている。
過去のレポートでは有名な物件な為、その詳細には触れなかった。そのエントリーは以下より。
有名が故、その詳細を記した資料的なサイトが存在するか…と、言うとそうでも無い。ウェブ上に散見する既存の説明が余りに表層的な物で全容を明かすにはどうにも物足りない感じがしたのだ。って事で度重なる現地調査(恐らく一般では足を踏み入れていない区域も含めて)と行政、NPO団体「盤洲干潟をまもる会」、新日本製鉄株式会杜の協力の下に半世紀前の産業遺構をレポートしたいと思う。
まずは一般的な認識としてウィキペディアから。
盤州干潟 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e7%9b%a4%e5%b7%9e%e5%b9%b2%e6%bd%9f
イキナリ総括的な詳細説明から始めても面白くない、まずは航空写真から見て「コレは何?」と疑問に思った物を細かく追って行こうか。
古代魚の頭部の様な地形とドコサヘキサエン酸がたっぷり含まれていそうな浸透実験池、この奇妙な自然と人口の造形がこの地を有名にした一因だろう。それではグッと寄りまして本題の施設遺構をチェックしましょう。
コンクリート製の遺構と浸透実験池が残るこのエリア、航空写真でズームすると色々と気に成るモノが点在する。細かなチェックポイントは後述しよう。
漁業関係者か各企業の測量目的で来た人しか足を踏み入れていないだろうと思うこの区画、ココにも良く見ると人工的な道や建造物跡の様な物が見える。た、確かめたい。
何だろう?網の目に規則正しく建造物の基礎の様な痕跡が見て取れる、しかも結構な大きさなのが写真で解るだろう。こんな大きな遺構が残っていながらウェブ上にひとつも取上げた記事が無い、こりゃ干潮時を狙って見にいくしかないでしょう。
って事で前振りが長かったのですが検証してみましょう。
※ 数度の現地調査の為、夏季~冬季の写真が入り乱れてアレな感じですが気にしない。
国土地理院さんの地図、何時もの様に全裸に正座で拝見させて頂く。この地域全体を荒地の地図記号が並ぶ、そして気に成る人工遺構跡らしき顎の部分は針葉樹林の記号。廃屋もシッカリ記載している国土地理院さんの地図にも遺構の影は無い。
うーむ。
それでは机上調査と現地調査を合わせて少しづつこの盤州干潟の謎を解き明かしていきましょうか、まずは入口から左側に広がる湿地帯、そこに残る建設遺構物などを。
実は既に埋没しているのだけどこの干潟内には無数の側溝が巡っている、この残された側溝は解体時のモノではなくて新設用に在庫されていた名残。つまり一度も使用される事が無く、その後数十年をこの姿で過ごした事に成る。
側溝奥の電信柱は数本残る内の1本、干潟内には倒れた電信柱や既に腐食して電装部分だけ残った物などが散見出来る。浸透実験池稼動時には100本以上の電信柱が存在した。
夏場は歩く事を許さない湿地地帯、地面は泥濘でブッシュは人の背より高い。この場所が数年間だけの期間ではあるけれど綺麗サッパリ整地されていたなんて今ではちょっと信じられないな。
皆さんが疑問に思うコンクリート製の遺構前の貯水池、まずはコンクリート製の遺構ですが当時の資料にはこの建造物に関する項目が無く、どの様な役割をしていたのか全くと不明です。未確認情報として、
① 海水濃度を計測する施設だった(現地の聞き取り調査)
② 海水の汲み上げ電送施設だった(出版物の記載を引用)
この2点の情報が在った。眼前に貯水池が在る事から②の可能性が高い、しかもこの貯水池は全部で3つ存在していてそれぞれの塩分濃度を変化させて計測していたとの情報も②の出版物に記載が在った。情報の正確性が確保出来ないので出版物の名称は控えよう。
浸透実験池、現在ではカワウの繁殖地かって思う位沢山のカワウ地獄。通常カワウは樹木の上に営巣するが浸透実験池では樹上と地上両方にコロニーを形成している、一時期は絶滅を危惧される程個体数が減ったのだけど現在では狩猟鳥として害獣駆除指定も受ける厄介者にされてしまった。
さて、遺構を細かく調べる前にこの盤州干潟がどの様な場所なのかお浚いしようか。
盤州干潟は埋め立てではなくて元々自然の干潟としてこの場所に存在した、既に多くの人に知られている様に工業用水確保の為の水質変化実験の為に「浸透実験池」が建造される。この時にこの池だけではなく、実に沢山の施設(小規模)も建造された。
建設は八幡製鐵(新日本製鐵/新日鉄)で「第二次合理化(技術先進国からの技術導入による設備の近代化の2次計画)」に基づいて1960年に建設計画が発案、君津製鐵所建設も進められている中で企業力を国内外に示す為に急ピッチで建造される事になる。
1964年、建設がスタート。1966年には試験運用が開始されたが海水の塩分濃度が余りに高く、冷却用水として海水を使用する計画は直ぐに頓挫する。
そもそもは君津市が大規模な企業誘致計画を発表してその代表企業として名の挙がった「八幡製鐵」が本格的に君津市の小糸川河口の造成を始めたのが切っ掛け。市のみならず県が助成する形で関連企業やその後の他企業進出を勘案、結果大量の工業用水が必要と成り、1日45万立方メートルの工業用水が必要と見積もった。
ここからは千葉県の県企業庁、永田一海施設管理室長のお話を纏めた新聞の記事を抜粋したい。
県と同社は協力し、小糸川だけでなく、木更津市の小櫃川や富津市の湊川からも水を確保する計画を立てる。ただ3川はすでに農業用水として利用されており、水利権の調整が難しい。このため、小糸、小櫃両川の河口部の干潟を堤防で囲うように埋め立て、内部に巨大な淡水湖を作り、農閑期などに、工業用水をため込む構想が動き出した。
ただ、問題が一つあった。河口湖へ海水の浸透を防止する対策だ。工場内で使用する冷却水や洗浄水は淡水でなければならない。そこで、県は通産省(現経産省)や工業用水の確保に苦慮していた他県とともに、小櫃川河口の低地に「モデル河口湖」を作り、海水流入防止策の実験を始めた。これが、ドーナツ状の二重の池=浸透実験池なのだ。
毎日新聞 - 地方版から抜粋
更に追跡調査で毎日新聞がこの盤州干潟に触れているので抜粋引用しよう。
ただ、問題が一つあった。河口湖へ海水の浸透を防止する対策だ。工場内で使用する冷却水や洗浄水は淡水でなければならない。そこで、県は通産省(現経産省)や工業用水の確保に苦慮していた他県とともに、小櫃川河口の低地に「モデル河口湖」を作り、海水流入防止策の実験を始めた。これが、ドーナツ状の二重の池=浸透実験池なのだ。
淡水で淡水を守る
さらに詳しい経緯を聞くべく「県の工業用水の生き字引」と紹介された木川進さん(86)を訪ねた。当時、県工業用水部工務課長で、河口湖の開発調査委員会のメンバーでもあった木川さんによると、実験池の仕組みはこうだ。
まず、二重の堤防の中央の深さ10メートル程度の丸い貯水池に小櫃川から取り入れた淡水を張る。しかし、放置すると、東京湾の海水が地中からしみ込むため、更にその周りにドーナツ状の池(外回り水路)をつくり、ここにも淡水を流した。
この構造は、水路から地中に浸透した淡水が、地中で外から浸透する海水を押し戻し、内側の貯水池に海水が入るのを食い止める効果を期待したものだった。淡水で淡水を守るこの手法は地中に水の幕を張るような構造のため「ウオーターカーテン」と呼ばれた。四方からの海水浸透に対応するため、モデル湖は円形に作られた。
実験は64年から3年間続き、海面と貯水池や水路の水位の差や、土砂の粒子の細かさを変えながら、試行錯誤を続けた。浸透阻止を徹底するため、打ち込んだ板で、貯水池を囲う取り組みも試した。
一方、実験と並行して作られた実際の河口湖計画は、小櫃川と小糸川の最下流部に面積計約500万平方メートルで、約3500万立方メートルを貯水できる二つの人工湖を作り、1日11万5000立方メートルの確保を目指した。千葉が頼みとする江戸川や利根川の利水は、古くから東京や埼玉、茨城などの都県と競合する。新日鉄自身も、君津への進出に関し「最も危惧したのは『水』の問題」(君津製鉄所25年史)と記しているほどだ。房総半島の中小河川から工業用水を調達できるかは、工業立県を目指す県政の重要課題だった。
ところが、その後、70年代前半にオイルショックが始まり、世界的な生産の減少が起きた。埋め立て計画や進出企業数、さらに、水需要予測も減り、すでに建設されていた豊英ダムと郡ダムなどの活用で十分間に合う見通しが立つ。70年代半ばには河口湖構想そのものが消えた。
65年に経済企画庁から出向し、高度成長期の県内の工業用水確保にまい進してきた木川さんは「確かに、実用化はされなかった。しかし、需要になんとか応えるため、技術者たちが、いかに苦悩したかを示すひとつのモニュメントです」と振り返った。
実験池では貴重なデータが収集され、報告書にまとめらたが、地形や地質の異なる他地域で、そのまま応用することは難しい上、河川の汚染が全国的に進み、河口湖を人工的に作る試みはなかなか実現しなかった。最近、佐賀県伊万里市に国内初の河口湖が建設され、09年から工業用水の給水が始まっている。
毎日新聞 - 地方版から抜粋
つまりは一度も本格運用される事もなく、現在は解体されなかった幾つかの遺構が残る広大な干潟と成っている。役50年の月日で消えていった数々の遺構、現在航空写真で確認出来る小さな「気に成るモノ」を追っていこうか。
まずはコレ、浸透実験池の右下に白い建造物が見える。大きさにして小型のプレハブ位、周囲から目立つ1本の樹木の脇と言う見つけ易い立地だ。レッツ藪漕ぎ。
あれ?
樹木は確かに在るけれど白い建造物は?グルッと回っても何も無い…相当デカイ物だから簡単に飛んだり流されたりは無いと思うのだけど。しかし無い物は仕方ない、次のポイントに向おう。
この池はずっと気に成っていた、周囲のブッシュが深いものだから目視出来る場所に到達出来なかったのですわ。浸透実験池の高台からも夏場は見えず、時期を秋にずらして確認しに。
在った!実はこの干潟最大の貯水池だったりします、コンクリート製の遺構前の貯水池は2分割されていてこの池が最大貯水量を誇ります、周囲はヌカっていて近付く事は出来ませんでした。
一際目を惹く正方形のプールと左側の建造物、これも先ほどと同じプレハブの様に見て取れる。んでも浸透実験池へのアプローチ道の直ぐ脇だなぁ、何で今迄気付かなかったんだろう。
あれー?
なんもねぇよ。どういうこった、コリャ。埋まってんのか、ああん?初秋でブッシュが深い、こりゃ2月位に再訪してもう一度確認しなくちゃならんですな。
結局まだまだ気に成るポイントは在るのだけどブッシュが深くて近づけない、上記の通り2月に再訪して追加レポートを記載したい。
この干潟に関して調査していると一つの団体名がチラチラしておりました、ウェブ上でも出版物でも新聞でも見かけるその団体。
「盤州干潟をまもる会」
ウェブサイトも在って現在も活動されている様だ。
小櫃川河口 - 盤州干潟をまもる会
http://www.river.sannet.ne.jp/haruet50/
この「盤州干潟をまもる会」の代表、田村満会長さんのインタビュー記事を見つけたので記載しよう。
20年以上にわたりこの干潟の生態を守る活動に取り組む「盤州干潟をまもる会」の田村満会長によると、堤防上に育った木々には、90年代半ばから、研究員も驚いたカワウの大群の営巣が始まった。使命を終えた実験池は、利用目的も決まらず荒廃が進み、一時は更地にする計画もあったが、同会の活動もあり、自然保護の視点から、実験池の堤防などの構築物は、そのままの状態で残されており、カワウの巣の数は現在、500個程度にもなるという。
盤洲干潟は、自然の干潟が少なくなった東京湾岸で、淡水と海水が混在した汽水域にしか生息しない貴重な動植物を育んでいる。実験池周辺にも、1平方メートル当たり50から100個という無数の穴が開いている。珍しいチゴガニのすみかで、多くの雄ガニが白い爪を振り上げ、雌にアピールする姿が見られる。シオクグやハママツナなどの貴重な植物の群落もある。
豊かな自然環境が、干潟を埋め立て「淡水湖」に変える高度成長期のプロジェクトの遺構をのみ込み、50年の時を超えて残存させる結果となった。田村会長は「実験地の周辺はすでに貴重な生態系の宝庫。このままの形で、残したいものです」と話している。
さーて、コレで浸透実験池付近の調査は一端終了だ。地元の方の聞き取りと新聞、出版物などの情報を纏めた訳だけれども今だ触れられて居ない場所が在る。
これだ。
この建造物跡が一体何なのか、八幡製鐵と関係が在る研究施設の遺構なのか…兎に角見に行きたい。満潮時や満潮に向う時間は危険なので干潮時を狙って彼の地へ行ってみる事にした。
普段は小櫃川で分断されているこの区域、流石に人が出入する事は少ない様だ。それでも地元の方なのか一対の足跡と犬の足跡が残っていた、通常は一般の方は恐らく訪れないだろう場所へ向う。
定置編みが設置されている先端部分、足跡は流石に消えているが漁業関係者は船で寄せるだろう場所だ。この右側の針葉樹林地帯に建造物の遺構が残されている筈、うほーい。
最先端部、この裏側から内部にアプローチする。
?
???
帰ろうか、だって何も無いんだもの。どっち向いても何処から入っても何も…
何も無いよっ!
だから帰ろう…。
デザインのお仕事で出入している出版社さん経由で地図を編集している会社に問い合わせ、千葉県を担当している方に直接お話を聞いた。地図を製作する時にはその場所その区域の過去の地図と照らし合わせなどをすると聞いた事が在ったので過去の改定版地図を見せて貰うのと航空写真を見て確認したかったのだ、アレが何なのかを。
「マルマルウマウマでほにゃほにゃっぽいんですよ。」
手振り身振りを交えて説明すると担当さんが「ああ、なるへそー」と過去の地図を見せてくれた。確認すると過去の航空写真には網の目の遺構が写ってない、更に後日問い合わせていた行政さんから返答メールが。
「んなもん作ってねぇよ、妄想乙。」
海きれーだなー(真顔)
期待した遺構は無かったけど盤州干潟を良く知る切っ掛けには成った…かなぁ。実はまだまだ資料は沢山在るんです、1人で盛り上がって各方面に協力してもらって紙媒体でも色々と送ってもらったもので。本当に協力して頂いた各方面の方には感謝しております。
最後に参考に成りそうなウェブ資料を置いておきます、興味が在る方は是非。
小櫃川河口・盤洲干潟を守る連絡会 - 盤洲干潟通信1号(発行2001.07.30)
http://homepage3.nifty.com/szk-nrys/tusin/bansu/bandu01.htm
小櫃川河口・盤洲干潟を守る連絡会 - 盤洲干潟通信2号(発行2001.09.21)
http://homepage3.nifty.com/szk-nrys/tusin/bansu/bandu02.htm
小櫃川河口・盤洲干潟を守る連絡会 - 盤洲干潟通信3号(発行2001.10.22)
http://homepage3.nifty.com/szk-nrys/tusin/bansu/bandu03.htm
記述の地図会社の方から提供して頂いた1975年に撮影された航空写真、今と大して変わらない様に見えるけど拡大するとね。うん、色々と。まあそれは次の機会の時に取っておきましょうか。
今回のエントリーは以上です、追々ですが追加情報の記載を行います。
色々と調査を進めてきたこの物件、現地調査も含めて残されている謎について追加報告を行いたいと思う。個人的に気に成ったのは以下の項目、
・発見出来なかった遺構
・この場所の代名詞的なコンクリート遺構の役目
・何故この場所に施設が建設されたのか
この3点だ。干潟としての重要性や浸透実験池の現在の様子などはここで詳しく語らなくてもその現状を知る事は用意だ、と言う事で上記3点に関しての追加情報としたい。
最近(2014年現在)ではある程度の認知度でニュースや書籍などでもその名前や映像などが出る機会が多い、しかしその姿は大きく変化していて水位や地形などを含めたこの盤州干潟自体が消滅(本来の姿に戻ろうとしている)に向かっている事に気付いている人は少ない。
※ 最後尾にて”消滅”の意味をご説明します
1961年09月28日に撮影された航空写真、そこにはまだ古代魚の目玉は描かれていない。1964年から建設が開始され翌年には一部施設が稼動開始、1965年に当初の計画施設の殆どが稼動開始。正式に実験施設として稼動が公に記録され始めたのが1966年に入ってからの事だ、この工事期間(※1)で一体何を建造したのだろうか。
※1:1964年~1966年の3年間
良く考えてみて欲しい、その後に出来た施設を考慮しても3年間の工事期間が必要な”モノ”が果たして現場に在っただろうか。そしてその後解体されたとして何処にその形跡が残れていると言うのだろうか、答えは歴然。この場所は干潟だ、つまり約3年間に及ぶ工期の中で大部分を占めたもの…
そう、それは地盤造成と埋め立て。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=424378&isDetail=true
この1961年の航空写真と下記リンクの1970年に撮影された航空写真を比較して欲しい。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=545926&isDetail=true
干潟の形が大きくと言わないまでも大分変化している事が解る筈だ、干潟の様な湿地帯は兎に角整地造成が難しい。何より”時間”が掛かるのだ、選考して施設が稼動した事を考慮すると最低限の移動用車道を造り、正接稼動を優先させたと推察出来る。
上記リンクと同じ画像だけれど写真は1970年05月22日に撮影された物、お気付きだろうか。この浸透実験池のランドマークとも言えるコンクリート製の建造物がまだ存在していないのだ。
航空写真で確認が出来るのは1975年01月6日の撮影画像に成ってからだ、1月初頭を考慮して少なくても1970年5月~1974年12月までの間に建設された事は間違いない。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1001634&isDetail=true
この干潟施設の一番の存在意義はどうしたって「浸透実験池」、と言う事はこの施設全体が稼動してから役10年もの歳月が経過した後に新たに作られたと言う事に成る。元々必要ならば当初から建設する筈、では一体この施設は何なのだろうか。
この物件のエントリー(2012年12月16日)では幾つかの複合的な要因を推察した結果、このコンクリート製の施設を「海水の汲み上げ電送施設」と仮説した。しかし組み上げが必要ならば最初から建造している筈だ、そしてもう一つの記録をかいつまんで書こうか。
東京湾平均海面(水準原点の標高の変動)
1891年 24.5000 m
1923年 24.4140 m
2011年 24.3900 m
若干降下気味だが100年以上その水位に大きな変化は無い、だがこの干潟において一つだけ大きな変化をもたらした事が在ったではないか。
”干潟の湿地帯整地造成”
そうなのだ、この干潟施設を作る為に大きな造成が行われた為に干潟の土壌(水の含有率)と周囲の地形が変化してしまったのだ。って事はやはり幾つかの資料に記載されている「海水の汲み上げ電送施設」と言う仮設(※2)もあながち間違いでは無いのではなかろうか。
※2:どうしてもこのコンクリート製建造物の正体が解りませんでした、情報をお待ちしております。
とても残念だけれど「この場所の代名詞的なコンクリート遺構の役目」は結局解らずじまい、判明次第正しい由来とその役割をお伝えしようと思う。
次に「何故この場所に施設が建設されたのか」だ。
これに関しては至極簡単で東京湾において大規模な”海水と淡水の境界”と成る場所を検討した結果と言える。手付かずの状態で1960年の東京湾、この湾内の海岸線沿いをぐるっと航空写真で見てみれば一目瞭然。こお盤州干潟が選ばれた事は当然の事とも言える。
最後に「発見出来なかった遺構」だけれども在りました、”検査用プール”は見えないだけで今でもしっかりと残っております(※3)。
※3:現地撮影を行っておりませんが目視で確認済みです
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=529514&isDetail=true
リンクの航空写真は2009年09月10日に撮影されたもの、この写真を拡大していくとシッカリと写されているじゃー在りませんか。
これで個人的にランドマーク以外の殆どの疑問は解消されたと思っています、そして予想以上に情報や記録がなくて右往左往した物件でも在りました。読んで頂いている人の中で”他にも疑問が在る”、”仮説に対する正しい情報や記録”などをお持ちの方が居ましたら是非その旨ご報告頂けましたら幸いです。
ついでといっちゃあ何ですが最近のこの干潟の航空写真を置いておきましょう。
それでは追加エントリー冒頭で記載した”この盤州干潟自体が消滅(本来の姿に戻ろうとしている)に向かっている事”に関してお話して終るとしよう。
このい干潟、施設建造によってその土壌を大きく変化させた事は既に書いたと思うけれど自然の力は侮る事は出来ないものでして。湾内水位に変化は無いものの年々”相対水位”は変化し続けている、環境保護を目的とした北関東のNPO団体の資料ではこの干潟、その相対水位を”浸透実験池建設前の状態まで戻す”のでは無いかと言われている。
1986年(※4)に人の手を離れて数十年、この盤州干潟は今在る姿を消滅させて本来の自然の干潟へ還ろうとしている様だ。
※4:この施設は1986年に完全閉鎖、その後幾つかの解体工事を経て現在に至ります。
これにてこの物件は一先ず調査終了とさせて頂きます、本日は以上です。
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