岩手県│田老第二小学校跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 田老町立田老第二小学校跡
実に見所の多い田老鉱山、管理会社の方にこの学校周辺は熊が良く出ると脅されての見聞だけど気にしない。選鉱所跡、鉱業事務所と見て来たけどこの田老第二小学校は良物件だと噂されていたので楽しみだった。まずは前回までの関連エントリーを記載しよう。
田老町に存在した小学校は田老第一から第三までの分校を含む8校、以下その廃校をちょっとだけリスト。
1971年 田老町立田老第二小学校
1985年 田老町立田老第一小学校田代分校
1987年 田老町立田老第一小学校末前分校
1987年 田老町立田老第三小学校畑分校(田老第一小学校分校から改称)
1988年 田老町立田老第一小学校樫内分校
1988年 田老町立田老第三小学校水沢分校(田老第一小学校分校から改称)
1989年 田老町立田老第一小学校青の滝分校
2004年 田老町立田老第一小学校堀内分校
今回のレポートで紹介するのは1971年に廃校と成った田老町立田老第二小学校跡だ、不況下で運営が危ぶまれた田老鉱山が同年に休山を決定している事から翌年の休山を待たずして鉱夫達がこの鉱山を離れた事は予想に容易い。実際1960年代後半から田老鉱山は規模を衰退して行った事は記録によって明確と成っているわけだし、災害後の再調査で判明した鉱床規模が予想を下回って居る事などから鉱山集落は少しづつその人口を減らして行ったのだろう。
既に今までのエントリーで説明した通りこの廃校を含め鉱山集落の広大な敷地は明星大学が後任として管理している、譲渡に至る経緯を話すと長くなるので割愛するけれどこの田老キャンパスを重要視しなかった事が幸いして現在でも沢山の関連施設の廃墟が楽しめるのは幸運だと思いたい。
それでは簡単な説明も済んだので廃校「田老第二小学校」跡をご紹介しようと思う。
位置関係だとこの場所、選鉱所より更に奥に成る。管理人さんや関係者に後程工場跡に再度戻って話を聞きたい旨を伝え移動、明星大学のセミナーハウスと管理棟へ続く道が急カーブを描くのだけど丁度その地点から封鎖されている廃校への道が延びている。
※ 厳密には管理管轄が工場とは別との事、勿論一般的には侵入禁止です。
校門から小さな校庭を抜けるとブッシュの中に小学校跡の校舎が見えて来る、松尾鉱山では既に雪が降っていたがこの場所ではもう少し先に成りそうな茂り具合だ。
まず目に入ってくるのが体育館跡、この建物は比較的傷みが少なくて内部の残留物の保存状態も良い。
長くこの区域を知っている管理会社の爺様によるとこの体育館では過去に卒業生が集まったりして思い出を語り合ったりなどのイベントも開催されていたとの事だ、しかしそれも今では全く無くなってしまったと話しておりました。
まあ何だ、「廃」としての美しさは皆無なので然程探索する事も無く本丸の学校跡へ足を向ける事にしよう。
体育館横手の川沿いから渡り廊下を介して田老第二小学校跡の校舎と成っている、対岸から延びる橋は酷い劣化の為渡る事は出来ないので此方からのアプローチが正解。
校舎内は朽ちてはいるものの建造物としての強度はまだ保持されていた、降雪によって年々その姿を変えつつ在るのだけどこの校舎に関しては卒業生が中心に成って保存しようと言う働き掛けも今後始まる様だ。
給食室、何度か廃校の校舎内で見かけた給仕釜が姿を保っていた。と、ここでやっとこ気が付いた。木造だとばかり思っていたこの校舎、よく見ると所々にトラスが組まれている。この年代の学校校舎で鉄骨トラス?
そうか、成る程。調べると施工主が鉱山関連企業だったのか、選鉱所と同じトラスが組まれていたのが帰宅後の調査で理解出来た。
※ 同年代に建造された山間部の学校で鉄骨建築はとても珍しく、トラスが剥き出しは更に希少。
校舎の中には再来した元卒業生、明星大学の学生など沢山の書き残し(落書きも含めて)が描かれている。教室、廊下、もう本当に至る所に。その中で僕は見つけてしまった、そうか…貴方もここにいらっしゃったのですね…。
つ…つの丸大先生…こんな山奥に何用で…いや、しかし。
サバゲーのロケーションにこんな山奥を選出するとは…ご苦労様です。
※ 2012年以降、無関係な来訪者に対する本格的な調査が在りました。その後の警備も人員的な物ですが強化されています。
確認を忘れたけどこの学校にはHONDAの名車、CⅡ72が朽ちていると聞いていたのだけれど…うーむ。総一郎がデザインした神社仏閣スタイルには10代の頃の僕もすっかりホの字でしてC92プレスハンドル、CⅢ92ダブルシート仕様、C72とレストアした思い出が。
今なら…今ならJC57とかレストアしてみたい…しかし無いだろうな。ずっと欲しいんだよなぁ、JC(女子中学生じゃない)。余裕が在ればキャブのRTFとか…どっかに落ちてないかなぁ、ミュージアムコンディションで。
photograph:+10
一通り巡った様なのでこの廃校を後にした、思い出とBB弾が沢山散らばった素敵な廃校だった。実はこの廃校の歴史をちょっと調べたのだけど資料が複数出て来て開校時期が合致しない、って事でもう少し調査を進めてからこの廃校の年表を掲載したいと思っている次第で在ります。
田老関係で追跡調査はこの物件だけ、有名物件でも以外と解らない事が出てくるものです。
管理会社の爺様は語る。
「この場所はんなぁ、時代と人の欲、そして今は自然に呑み込まれてしまったんのす。んだんも俺が飲まれんな酒だけなんのす」
イ…イイハナシカナー
のす…そういえばATOMでのモジャ桐仁さん以来だ、この語尾ってば。そんな事を思いながら移動しようと思った矢先。
「後、ほら、あそこな。あの山のあそこさ、あっこでマツタケ採れんだ」
何ぃぃいい?
アプローチ
エントリー導入部を参照。
地図リンク
https://goo.gl/maps/hD0sm
photograph - nee
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