千葉県│湊川水系支流高宕川 T秘境 高宕山牧舎跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 湊川水系支流高宕川 高宕山牧舎跡
※ 2013年4月以降、アプローチルート(未舗装)最後の分岐に「車両進入禁止」の柵が設置されました。地元民への聞取り調査で不法侵入や手前空地での不法駐車は即通報との事です。
3夜連続でT秘境の魅力に迫る「湊川水系支流 T秘境」最終夜、余りに有名に成ってしまったこの場所の過去と現在を知って頂こうかと思いエントリーしてきました。
最終夜と成る本日は前回まで「支流」「滝」とT秘境の魅力を踏まえ、このT秘境の歴史と「そもそもこの場所は何なのか」をお伝えしたいと考えています。約100年以上の歴史を刻むこの一帯、過去・現在・そしてこれからどの様に触れ合っていけば良いのか。
少々堅苦しいですが興味を持って頂けたらと思います。
関連エントリーは以下より。
昨夜までの関連エントリーは以下から。
それでは最終夜、「高宕山牧舎跡」を始めましょう。
前回まででこの一帯には沢山の本流と支流、また支流に存在する幾つもの枝と成る水路が存在する事を知って頂けたと思います。また川廻し造成に伴い、この高宕川の水量や流れが大きく変化した事も合わせて知って頂けたと思います、前夜までのお浚いをちょっと(結構長いけど)だけしましょうか。
明治初期まではこの様な川の流れと成っていました、本流の流れも大きかった事で今より流水量は多く、水深は1~3メートル程在った様です。
現地でも両岸の侵食が2メートル前後の場所で一番進んでいる事から当時はこの水位で安定してと推測出来ます。
川廻しによって河川が痩せ細る典型的な例と言えます、これが1888年の川廻し造成によってどの様に変化したか。
特に第三川廻しによって大きく川の流れが変化し、本流上に在った宮内滝などは枯渇状態と成りました。
枯れてしまった宮内滝、増水時期でも100年前の迫力ある瀑布は見る事が出来なくなってしまった。
その最大の理由としてはこの一帯の川廻し最大の造成である急駟滝だ。
photograph:saorigraph
高低差約30メートルに及ぶ大規模な造成、急駟滝。黒滝や宮内滝と違い削岩造成された人工滝なので明治初期の地図にはこの滝が描かれていない。
この滝に関する詳しい記述は前回も書いたが再度転載しよう。
1995年にこの地域で、千葉県教育委員会発行の「高宕山ニホンザル綜合調査」報告書が刊行されているが、滝の記載はなく、川廻しとも認識していなかった様で、急駟滝下流の支流流路を高宕川の本流とする図と成っている。
滝として最初の発見者は、君島安正氏と思われ、1980年頃から氏によって所在が知られる様に成った。
名称も当然記録が無く、地元の郷土史家、故菱田忠義先生の教示による。人工の滝であるので、本来名称が無かったと思われ、謂れなどは明らかでない。漢学の素養がないととても付けられない名前で、菱田先生が故あって命名されたのではないかと想像しているが、確かめようもない。
尚、1993年刊行の、「続・千葉県地学のガイド」のP119~124、14.高宕川の上流にこの滝の地質が紹介されているのが、最初の文章記録である。ただ、この紹介では滝を自然の滝と誤認した文章となっている。
滝を観る
http://chibataki.poo.gs/index.html
※ このサイト内「急駟滝」の項から抜粋
と、この辺で前回の「滝」のエントリーを終了した。随分と長いあらすじだったけれども本日はここからが本題と成る、そう…この川廻しがどうして作られ、現在はどの様な状態なのか、だ。
今まで何度か書いたこの川廻しの真実「牧場経営の為に造成された川廻し」、前回の終着点のこの写真に実はその「牧場」の入口が隠されている。
写真右側に素掘随道上部から垂れるクルクルと巻いた枝が見て取れる、その更に右側の土手にこの牧場への入口は今でも残っている。
場所としては川廻し以前の本流右岸と成る、この場所に行くと解るのだけど川幅がとても広く、流水量は3メートル近く在った事が良く解る。
元々本流だった牧場跡付近の左岸、侵食跡が下流よりも随分高い。それだけ造成前は水位が高く、両岸の壁を削り取るだけの流水量が在った事を語る。
写真右側は100年前までは川底だった場所、この川底だった場所も牧場の一部として使用されていた。
この牧場、名称を「高宕山牧舎」と言う、前回もお世話に成った滝サイトと地域民俗学の資料にこの牧場に関して同様の事が書かれていた。抜粋してご紹介しよう。
※ 地図上ではT牧舎跡と記載
川廻しされた場所は、小字「牧舎」という所で、現在では、えらい山奥で、完全放置された林地と化しているが、牧場として開発された物である。
この牧場は、明治時代に開発され、「高宕山牧舎」と言ったとの事。
「株式会社、高宕山牧舎、営業所を宇藤原におき、明治21年3月環村高溝の吉田栄蔵他が設立。明治33年株式会社組織となり、社長吉田米蔵。収支つぐなわず廃業。いつ止めたのかは不明である」(富津市史編さん委員小沢先生より聞き取り)
この牧場については、もっと調べないと解らない事が多いのだが、川廻しは、牧場造成の為に行なわれたと思われる。川廻しの目的が牧場造成の為であった例は、房総ではこの例だけである。
尚、この牧場は造成後、下流に荒廃をもたらした様で、現在宮内滝から黒滝にかけての旧本流の河床には、細粒の赤い土でできた、比高2メートル以上の段丘化した地形がある。 これは、造成後(あるいは牧場放置後)に下流に流失した牧場の造成土の堆積跡と思われる。
この地形の為、本来の本流の谷が、支流の谷より狭く成っていて一見本流に見えないという変わった景観を示している。
本流だった場所の左岸側を少し歩いてみる、すると過去に開けていたであろう場所が眼前に広がる。
牧場だった思われる場所、本流だった水路が大きく迂回する右岸付近だ。1888年にこの牧場を建設する為にこのT秘境は生まれた、本来なら本流から十分な水量を誇る高宕川は湊川の湧水地から続く水系の1つとして現在も付近の山々と下流の集落に豊富な水源を提供していた筈だ。
1990年代、更に土地の含有水量が減り、2000年代に入りその減水は顕著な物と成った。1960年代から下流集落の水源として行政が入り、水管工事も行われて現在でも水質調査などが年に数度行われている。
2000年代に入って雑誌、TVに取り上げられ一時期地元の方が驚く様な人数の訪問者が在った、ピークは2004年頃だろうか。この時期には実に多くのトラブルが続き、有名な脳足○ん4駆集団や知恵遅○BBQ団体、今現在においても文字が読めない教養不足な林道ライダーがこの場所でアタックを行う。
地元の方にお聞きした話では黒滝を乗り越え、急駟滝までトレールで突っ込んだツワモノも居た様だ。警察沙汰も在った様で以前は車両進入禁止の看板が立てられていた、しかし木製だった事も在って現在は第二川廻しの水路脇に朽ちて倒れている。
当然の事ながら今でも下流に住む集落の水源として使用されており、一部は個人の所有地で一部は県有林、一部は国有林と成っている。水源として使用されている場所は第二川廻しから第三川廻しに至る高宕川右俣支流でこの場所は県有林地区、行政の方の話だと地元釣り客もいるので河川法で規制は掛けないが車両進入は一貫して禁止しているとの事だった。
房総には沢山の景勝地が在ってこの場所もその一つ、折角残っている美しい場所を自ら壊す道理も無い。願わくば川廻しによって土壌さえ変化してしまったこの土地にこれ以上の危機が訪れない事を祈るばかりだ。
これにて3夜連続でエントリーした「湊川水系支流高宕川T秘境」を終了したいと思います、今まで余り語られる事の無かったこの場所について知る事が幾つか在ったとしたら是非もう一度この場所を訪問してみて下さい。行った事が無い方で興味を持って頂けたのなら、場所を探してその目でこの美しい場所を堪能してみて下さい。
ええ、僕はもう行きません。
だってもう楽しんだもの。
アプローチ
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
地図リンク
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photograph - nee
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