岩手県│松尾鉱山 至誠寮・緑ヶ丘アパート・松尾鉱山中学校跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 松尾鉱業株式会社 松尾鉱山関連遺構群
東北三大鉱山合同撮影でご一緒「The Decadent World」のHYPOさん、ウチのメンバーと僕を含む合計4人でこの松尾鉱山に訪れたの10月に入ったばかりの頃。関東を出る時は半袖で「暑い、ビール、梵ちゃん(ウチの愛娘/猫/とても可愛い)」を呪文の様に口にして東北道を走った。松尾八幡平ICを降りる頃には「寒い、熱燗、梵ちゃん(ウチの愛娘/猫/激しく可愛い)」と呪いの言霊は変化しておりました。
高速を降りていよいよ松尾鉱山と対面だーと八幡平アスピーテラインに入って直ぐでした、「降雪の為アスピーテラインは通行止め」との看板。
?
というわけで、流れ解散となりました。
いや、まて。
ニンジン振ってる道路関係者に詰め寄る、何せ関東からえらい距離を不眠で走って来たんだ。どうしてもココを通らねばならない、松尾鉱山さんにタイマン張る為に。
「ちょっと!降雪で通行止めってどういう事だ!」
「ああ、雪が降ったんで道路を一時的に封鎖しているんです」
で、ですよねー
「そうですか、それは大変ですね」
「お気をつけてお帰り下さい」
いや、これはご丁寧にどうもじゃねぇ静脈掻っ切るぞ!
どうやら予想より早い初雪で除雪の準備が出来ておらず、走行上の安全が確保出来ない為に24時間程アスピーテラインを封鎖した様だ。
オーライ話は聞かせてもらった、しかしこちとら男の怒勝負が待ってる身。詳しく事情を話して通して貰う作戦に出た、
「この度はうんぬんかんぬん、ほにゃほにゃうまうまで可及的速やかにですね…」
「いいよ」
いいの?
「いいよ、わりとマジで」
いいの?わりとマジで。
何か通れた。やったー
いやぁ良かった、道路関係者のパンツが作業服からちょっと見えていた事が幸いした。同乗者全員で、
BVD!BVD!
と連呼(恥ずかしさを狙った呼称波状攻撃)した甲斐が在ったよ。1人だけVOD!って叫んでた奴が居たかもしれないけど気にしない、取り合えず誰も居ない松尾鉱山に誰への気兼ねもなく自由に探索出来る状況が揃った事に成る。
一般車両は入って来ないし、うん…こりゃ好都合やでぇ。
松尾鉱山に関する詳細はいつもの様に最後尾にて説明しましょう、最初の写真は管理職単身寮「至誠寮」から探索メンバーと緑ヶ丘アパートを広角で。いやぁ「絵」に成るなぁ、ホント来て良かったよこの廃墟は。
至誠寮はこれと言って掲載する写真も無いので本命の緑ヶ丘アパート群に向かう、この至誠寮は他の集合住宅とちょっと歴史が違うので詳細をお伝えしよう。
photograph:+10
・至誠寮
この独身寮は戦前から松尾鉱山の管理職向けに松尾鉱業が用意していた物、当時は木造2階建ての1945年8月9日、米軍の空襲にて全焼消失。翌年から付近には仮設住宅が建設されましたが鉱山復興は比較的早く、緑ヶ丘アパート建設の1951年には既に全室の入居が完了していました。
この地域では初と成る鉄筋コンクリート4階建て、地下(窪んだ地形の為実質的には1階部分)に暖房機器などの設備室と管理人が常駐していた管理人室などが。鹿島建設がそれまでのノウハウと積雪に耐える為の研究を繰り返した40年耐久の建築物でした、その技術はその後の建設ラッシュと成る緑ヶ丘アパートに引き継がれます。
閉山後は鉱毒水処理施設の倉庫として使用されましたが1978年頃には使用されなく成ったようです。
付近にはこの様な独身寮が幾つか在り、至誠寮同様に現存する廃墟も。
・五寮 - 崩落激しいが現存
・桂寮 - 現存
・鶉山集合住宅群 - 1972年(8月25日)消防実験の為故意的に全焼消失
・野田山集合住宅 - 1972年(8月25日)消防実験の為故意的に全焼消失
※ 野田山集合住宅は少し離れた管理職独身寮が単独で1棟現存してます
緑ヶ丘アパート群の位置関係はここ、連棟なので一番目立つし何よりココを訪れた方が絶対に撮影に訪れる鉄板の場所です。
緑ヶ丘アパートの配置図はこちらでご確認を、遠目で煙突が2本立っていたから関連施設が隣接してると思い込んでいた。違うのね、ボイラー室なのか成る程。
斜面手前の「い・は・ほ・と」棟、一番有名なアングル。緑ヶ丘アパート群は松尾鉱山の鉱山バブルが膨れるちょっと前、1951年に松尾鉱業初代社長の中村房次郎氏が主導で建設されました。
岩手県全域を通して標高1000メートルと言う場所での初の大規模な集合住宅建設、そして厳冬期の降雪での耐久性。まして鉄筋コンクリート高層(当時は4階建てでも一般住宅としては高層でした)4階建ての建築、松尾鉱山としどれだけこの住宅群の建設に力を入れていたかが窺い知れます。
この一大プロジェクトを請け負ったのは鹿島建設、前身の鹿島組の立役者鹿島精一氏が岩手出身だった事も在り設計から建設まで全てを依頼したそうです。
「は」・「ほ」間の中央通路、通称「大階段」前、有名な場所ですがサバゲーの舞台としても人気で階段前には沢山のバリケード。仕方ないのでちょっとだけ御片付けをして後程(太陽の傾き加減を考慮して)撮影致しましょう。
驚く事にこの緑ヶ丘アパート群、その巨大さ故に建物内にテナントが入っておりました。売店、クリーニング店、理容室などの他鉱夫用に用意された大浴場など福利厚生にも力を入れていた様です。
また県内はおろか東北地方で生活基盤のインフラが十分では無かった1950年代初頭、上下水設備、水洗トイレ、ダストシュート、作業用道路と生活道路の区域別け、車道の拡大など工業機能と都市機能を上手く合要した区画設計がされていました。
スチームを利用したセントラルヒーティングは特に堆力した様で厳冬期には十分その役目を果たした様です、しかしこのセントラルヒーティングにも弱点は在ります。
日本では「中央暖房」と呼ばれていましたがつまりはコレ、暖房施設から一括して暖房熱を配分しています。と、言う事は「個人や個室で暖房の温度設定が出来ない」って訳です。まあ厳冬期ならまだしも、春先や晩秋など気温の体感差が個人で出る様な季節はさぞ大変だったでしょう。
緑ヶ丘アパートは棟によって入居していた家族スタイルがすごし易い様に設計されていました、夫婦、+子供1人~3人、2世帯など間取りも幾つか用意されていました。独身寮は既述した用に少し離れた場所に在ったのですが鉱夫の方達にはやはりこの山間部の大都会、「緑ヶ丘アパート」が人気だった様です。
因みに建設としては「い・ろ・は・に・ほ・へ」棟が1951年10月25日完成、2ヶ月程の後に「と・ち」棟が完成しました。この時既に先に完成していた「い・ろ・は・に・ほ・へ」棟には入居者がおり、「と・ち」棟も我先にと入居を希望する人達で溢れたと記録に在ります。
その後1年以内には更に上部の「り・ぬ・る」が別棟として建設され全11棟が完成した時点でプロジェクトは終了しました、当初の予定では20棟程の計画が在ったようですが…。
photograph:saorigraph
大階段。
「おい、弟子(26♀)!」
「はーい、何ですか」
「え…また…ぶたれた…」
「勝ったヤツはいないよ。ただ負けたと思ったヤツがいただけだ」
「え?あ…はい。んんん?え…っと…はい?」
写真左側はクリーニング店跡、右側手前が売店でその奥がアパートの管理部が在りました。更に階段を登ると左側に理容室がその名残を残した間々と成っていました、確かにこの規模だとこの様な施設が在るのは便利です。
こちらは売店の内部、天井が崩れ落ちてしまっています。売店の他にも通常の部屋と違う作りの間取りが存在します、在庫管理や事務に使用した感じですが調べても解りませんでした。
photograph:saorigraph
中にはこの様な小さな部屋も在ります、どの様に使用されたかご存知の方、どうか教えろください。
さて「い~ち」棟を堪能したので上部棟の「ち~る棟」へ移動しましょう、この3棟は高台に建設されているのでこの緑ヶ丘アパート群の中で一番見晴らしが良いとの噂。勿論屋上に上ってその風景を堪能したいと思います、別動班を無線で呼んでみる。
「 なのは完売、なのはが完売。どうぞー 」
程なくして合流、いざ松尾の全景を見に。
ほう…。
ほほう…。
相棒が何やら忙しなくカメラの設定を弄っている、がそれはいい。それはどうでもいいのだけど…。
この人の場合撮影する写真より撮影している自分を撮って欲しいタイプだからなぁ…ポーズとか考えてるのかなぁ…嫌だなぁ。まあ仕方ない…
俺ら全力で受け入れるんで。
「 風が…そうか、今か。 」
かっけぇえよアニキ。
はい、アニキ終了、もう終わり。じゃあな。
!?
こ、これは…こりゃまた呼ばないとな、弟子を。
「おい!何処行った、こら弟子(26♀)!」
|д・)
「ちょこっち来い」
|д・) < また叩くんでしょ
|彡 サッ
「いや、違うんだ。この美しい風景を一緒に楽しみたいだけさ(棒」
|д・) < そんな事言って本当は叩くんでしょ?
「ばっかやろう、ほら飴ちゃんあげるから」
|・д・) < 飴ちゃんやてぇ?
「ほら、この景色見てみろ。飴ちゃんもあげるから」
|...(・д・) < あ、飴ちゃん…
「何故叩くのかと聞きたそうなツラだな、まあぶっちゃけ理由はねぇよ」
「よくぞ聞いてくれ…はい?」
セントラルヒーティングを支えたボイラー室、現在でもその煙突が2本残る。これ実は登ろうと思いまして実際少し登った結果タラップの強度は上々、これなら相棒と二人で別々の煙突に登ってお互いを写そうと相成りました。
が、まず風が強い。
車まで戻ってハーネスとか装備しなくちゃらなないのも面倒、しかし今思うと何故途中でやめたのか…ホント登っておけば良かった。
これだけの為に再訪してもいいな、ココは。
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ところ変わりまして松尾鉱山中学校跡にやってまいりました、この物件は閉山後に色々と所有者が変わりまして。まず簡単にその歴史を辿ってみましょうか。
1947年 松尾鉱山小中学校開校
1953年 小中を別けた為に松尾鉱山中学校開校
1969年 会社更生法を申請して松尾鉱山が倒産(元従業員の下山開始)
1970年 閉山処理に伴い閉校
1969年の倒産にて鉱夫を含む全ての社員が解雇、それに伴い一緒に住んでいた家族も下山する事に成った。この学校に通学していた生徒達はそれぞれの家族の転居先で新たな区域指定の学校に通う事に成り、1970年には最後の卒業生を送って廃校。
こちらは体育館、1階部分も2階部分も体育館って始めて見た。現在はご覧の通りサバゲーの舞台として活躍している模様。当時、体育館は学校の生徒の他に松尾鉱山でのイベントや集会なども行われた。
それにしてもこの廃校と体育館、緑ヶ丘アパートと2年しか建設期間が開いてないのにその建築技術の向上は目を見張る物が在る。同時期の建設には思えないほどだ、鹿島建設がこの松尾鉱山で得た過酷な環境での住宅建築のノウハウ。それは現在でも生かされていて後の類似物件で発揮される事に成る。
校舎の屋上部分、と言うか屋根の上。長い期間積雪を繰り返した為か崩壊が進んでいる、特に問題に成る様な場所は無かったので訪問の際は是非ここへ…と言いたいが自己責任でお願いします。
・松尾鉱山中学校
松尾鉱業が松尾鉱山一帯に鉱夫住宅の建築を決定、先行して従事していた鉱夫の家族用に設置予定だった松尾鉱山小中学校が1947年に開校。その後1951年に緑ヶ丘アパートが完成して大規模な鉱夫家族の転居が可能に成った、1953年に兼ねてより小中分離教育を希望していた父兄の願いが叶い松尾鉱山中学校が開校。
その後この土地がどの様に分配されてどの様な区域別けで譲渡などが進んだか定かではない、と言うか資料が見つからない。
この学校周辺の土地は閉山後は盛岡大学が部分的に購入し、校舎はその間々利用した形で合宿施設を開設。その名が今でも残る「生活学園」だ、学園と言ってもここに学校が在った訳ではなくてあくまで合宿施設として使用されていた。
閉山後の1970年代後半までは解っているけど細かな年数が不明、しかしその頃にこの場所に「盛岡大学付属生活学園松尾合宿校」が開校。1992年までは管理下に在りましたが実質的には1980年代後半でその役目は終了していた様です。
いつもの。
photograph:saorigraph
グラフィティが無かった頃に来たかった、しゃんないから消してみたけど途中でスタンプ作業に飽きてしまいました。ちゃんとやらなくて御免なさい。
まあいいか、綺麗だしやるか…アレ。
「おい、で(ry」
|д・) < いかねぇよボケ
|彡 サッ
それにしてもこの通称「赤い部屋」は本当に素敵、だった。初期の頃、グラフィティが無い頃は本当に廃墟美が在ったなぁ。仕方ないから僕が上から塗って行こうっと、何せ”赤い塗料”には困りませんからねぇ…。
一体この男は何と戦ってるんだ、何故すぐに登るんだよ。
「おーい、どうした?そんなに急いで…」
ああ、そうか。コレを撮るのか、うん…これは撮っておこうか。
標高1000メートル、山間部の天気は目まぐるしく変化する。この日の撮影も快晴やら霧雨やら魔理沙やらとレンズのフィルターの掃除には随分と時間を取らされた、この場所を去る前にもう一度最初の撮影ポイント「至誠寮」へやって来たのだがまさか鉱山跡に掛かる虹が見れるとは。
美しいな、ホント。そんな場所が多過ぎた松尾鉱山跡、そうだ…、こういう時こそ。
「おい、で…」
そうだ、もう弟子(26♀)は居ないんだった。馬鹿だな…僕は”赤い塗料”と引き換えに何かを失った気がした…したけど直ぐ忘れた。
うん、僕らは最初から3人でやって来たんだった。そうそう、うっかりさーん。
車に乗り込むその刹那、虹越しに顔のボヤケタ誰かが微笑んでいる気がした。移動中の車内は何故だか妙に広く感じ、とても快適だった。
松尾鉱業株式会社 松尾鉱山
1766年 寄木村茶臼ヶ嶽下通・沢目筋の硫黄調査がその歴史の初御披露目
1879年 現在の八幡平市緑ヶ丘一帯の硫黄調査及び鉱山発見の記録
1882年 佐々木和七が自然硫黄の大露頭を発見
1888年 試掘失敗
1911年 横浜の貿易会社増田屋が松尾鉱山の利権を掌握(買収ではない)
1914年 松尾鉱業株式会社設立(初代社長は中村房次郎氏)
1934年 松尾鉱山鉄道が開通
1949年 朝鮮人労働者投入
1945年 米軍の空襲で住宅を含む鉱山施設が消失
1946年 住宅などの鉱夫施設を再建
1947年 松尾鉱山小中学校校舎完成
1953年 松尾鉱山中学校開校
1951年 緑ヶ丘アパート完成
1955年 採掘最盛期を迎える
1969年 会社更生法を申請して倒産(同年全従業員を解雇)
1970年 一部の事業部を残し、黄鉄鉱専門の新会社を設立
1972年 鉱業権を放棄しての計画倒産
「雲上の楽園」、「雲の上の都市」そう呼ばれた松尾鉱山、最盛期の1955年には13594人もの従事鉱夫関係者を抱えた山間部の都市だった。写真は操業時の物で硫化鉄鉱を運んでいる時の状況が写されている、背後の精錬煙は有毒だったけれども鉱夫は野外でマスクなどは着用しなかった様だ。
精錬場が残っていた時代の貴重な写真、当時はまだ木造の施設が多くて火を常時使用している鉱山施設においてはとても危険状態での操業だった。少しづつ石造、コンクリート、鉄筋と建設技術が向上していく訳だけど施設を大規模に改築するのもは大予算と成り苦労したようだ。
鹿島建設が緑ヶ丘アパートを建設するに当たって周囲の関連施設を同様の建築技術で改築したものの本格操業当時から一度も改装されない施設も在った。
まだ緑ヶ丘アパートなどが建築されていない、しかしながらのこの規模。1955年に迎えた最盛期、国内に於ける硫黄産出は40%近くまでこの鉱山が賄っていた、人工約1400人は現在の八幡平市の総人口の半数に匹敵。アジア圏においても硫黄産出量は一時期ではあるけれど1位に成ったりもした。
2棟(ぬ・る棟は建設中)を残すだけと成った緑ヶ丘アパート群建設当時の写真、手前には至誠寮も見える。
栄華を極めた松尾鉱山だったが1969年3月に会社更生法を申請して倒産、同年11月には採掘と精錬を中止。1972年に一部事業部と合理化を図った新組織を合わせて作られた新会社も鉱業権を放棄、歴史にその名前を刻んでから206年、本格操業開始から58年の歴史に幕を閉じた。
その後の松尾鉱山
企業の残務部隊と企業再建の試算管財人、そして県+国とで鉱山自体は閉山されました。その後の鉱毒水中和を請け負ったのは現在の国土交通省、暫定中和処理施設を運営していましたが岩手県の管理下に置く為に1976年、新たに中和処理施設を建設する事が決定。
1982年に中和処理施設が完成、1984年には恒久排水路トンネル(鉱毒水の導水路)が完成して本格的な中和処理が県主導で開始します。
と、言っても。中和処理施設に約62億円、貯泥ダムに約31億円、更に年間運用費が6億円と莫大な予算が鉱毒水と共に流れていきます。勿論岩手県のみの財政予算では運用は儘ならず、結局は現在でも国が管理していると言うのが実情です。
住宅群に関しては八幡平市民から安全上の問題と観光面での景観上の問題が指摘され続けています、閉山後直後においては既に倒産していた松尾鉱山からの資本は見込めず、「木造家屋延焼実験」と言う名の下に県が主導で解体計画を立案。決行されます。
古い木造建築住宅群や関連施設はこの時に殆ど消失しました、点在したその他の20棟ばかりの木造建造物も1974年に消防庁消防研究所が企画した「大規模火災を想定した延焼実験」で消失。
1970年代後半には延焼実験で燃え残った灰などを計画的に埋め立て、植林も開始。暫定的に国が中和処理を行っていた同時期に廃材や埋め立て、植林の基本計画が決められて行った様です。
延焼実験後の空撮、1976年のもの。現在の状況とほぼ同じ様な建造物配置と成っています。
さて、それでは緑ヶ丘アパートなどの新規建築された鉄筋コンクリート建造物はどうなったか。皆さんも知ってる様に今でも廃墟として残っています、それでは何故今でも残ってしまったのえしょうか。
解体予算の問題
延焼実験からも除外され、解体する筈の母体企業は倒産済み。只でさえ予算の厳しい状況下に在った松尾鉱山の解体問題、木造建築物に関しては「実験」として予算が下りました。
中和処理施設は国が主導、まあこれは税金で賄われています。残るは一部の鉄筋コンクリート建築物、独身寮や緑ヶ丘アパート群。これらの解体には規模が規模だけに企業や県が負担出来る金額では無い上、現在も中和処理施設の予算も計上しなければ成りません。
そこで次の手。
分割譲渡、まあ早い話転用販売です。松尾鉱山病院は学習院が買収して現在でも研修施設として運用されています、驚く事に建設時期は緑ヶ丘アパート群と同じ…片や廃墟、片や現役施設。鹿島建設の技術が凄いのか、自然の侵食力が凄いのか。
松尾鉱山中学校は盛岡大学が生活学園の合宿施設として買収転用、1992年までは管理下に在りましたが実質的には1980年代後半でその役目は終了した事は既述の通りです。
盛岡大学も2005年にはこの生活学園関連施設を放棄、2006年に解体そて現在は旧」校舎と体育館が残るばかりと成りました。
1992年に無料一般開放された八幡平アスピーテラインからアクセスする観光地の観光団体が松尾鉱山跡地の安全・景観の問題を提起、車から見える場所は必要が無くても全てスノーシェードで覆われました。
しかし八幡平市民からも同様の問題提起がされている事を重く見た県は八幡平市に跡地を譲渡、八幡平市は大規模な予算を組んでこの場所を「メモリアル公園」とする事を立案。
数年後には建築開始…だった筈ですが。311の影響でこの計画も少々間延びしそうな雲行きです、松尾鉱山の緑ヶ丘アパート群廃墟…崩壊具合と相談しながらもう少し楽しめそうでは在ります。
長かった松尾鉱山のレポート、如何でしたか。「八坂」の様に前編・後編に成りそうでしたがどうにか1本に纏められました、廃墟としてだけなく、鉱山遺構としても興味深いこの場所。是非一度遠目からでも良いので見に行ってみて下さい、素晴らしい景観と人の歴史が体感出来ると思います。
本日は以上です。
アプローチ
東北自動車道松尾八幡平ICを下り、県道45号線を八幡平方面へ。松尾八幡平ビジターセンターのT字路を右折して八幡平アスピーテラインへ、4キロ程走ると左側に緑ヶ丘アパート群が見えます。
地図リンク
https://goo.gl/maps/ehGuk
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