長崎県│亀野小島
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 亀野小島(亀野小島真珠養殖場跡)
滅多に取上げられる事が無い(公開した2012年当時)九州の良物件をご紹介したい、長崎県は佐世保。自衛隊や米軍基地が所狭しと軒を連ねる殺伐としたこの場所も九十九島湾を中心に真珠養殖で名を馳せた場所として一部では知られている、現在でも養殖は続けられているけれど一時期の様な盛り上がりは既に無く、現在ではその業者も少なくなっている。
九十九島湾南部に位置する俵ヶ浦半島、この半島に今回ご紹介する物件が今でも残っている。過去に小さな島が真珠養殖場として使用されていたのだけど今では知る者も少なくなったと聞く、その小さな島の名は「亀野小島」。
聞き覚えの無いこの小さな島に廃墟好きには涎滴る物件が存在した。
亀野小島、この特殊な立地場所を少々みてもらいましょうか。地図でもわかる様に下部周囲を森に囲まれ、上部周囲は海に囲まれています。
等高線を見てもらうと更に解ります、複合扇状丘の端に位置し、周囲は地図記号から広葉樹林が犇いている事が解る。またアクセスには複合扇状丘を縫う様にして残る林道(現在ではブッシュが酷い)を通るしかない、こんな場所に何故養殖場を…と言った環境だ。
まあネタ明かしをすればこの場所、稼動当時は徒歩より舟などでアクセス(※1)する事の方が多かったらしく、それほど不便は無かった様だ。
※1:旧作業道は稼働当時にも利用されていましたが今回のアプローチとは別の道です
俵ヶ浦小学校の裏手から旧道が現在でも残る、しかしこの旧道を見つけるのが以外と上手く行かずにココを目指す方は森の中で迷う事も多い様だ。
地形図を見ると扇状丘と扇状丘の間を縫う様に低海抜の歩道(林道)が見て取れる、これは亀野小島へのアクセス道路と言うよりこの複合扇状丘に過去棚田が存在し、その棚田用の作業道として利用されていた様だ。
※ 現在ではその殆どの棚田跡を見る事は出来ません
実は調査が至らない為、詳しく説明出来ない物も残されている。旧棚田作業道を抜けて亀野小島の対岸へ出る手前、石造の祠と民家が残っている。小さな半島や小島には祠を建てる風習は昔から在るのだけど場所的に少々おかしい、亀野小島の祠は島内頂上部に存在している。ならば俵ヶ浦半島の物かと言えば余りに小さ過ぎるしそもそも主要道路を挟んで神社と寺も在る、調べたのだけどこの祠の詳細は解らなかった。
また比較的大きな民家の廃屋も残るがこの廃屋が亀野小島とどの様な関係が在ったか、これも判明しなかった。残念。
※ 古来の山岳信仰において海岸沿いに道祖神や祠を置くのは余り見掛ける事が多くない、と言うのも山岳信仰の場合その地域の「山頂」に神を祀った(若しくは崇拝した)からだ。ならば何故「海寄り」の場所に祠が現存するのか、これは山岳信仰とは別の「何か」を祀った為だと推測される。
棚田に関して言えば潮風の為に農作物の育成は通常の山中より気を使う、また漁業においては流動的な海洋狩猟を模して動的(小さなお守り的な物)を信仰対象にする事もあった。複合的要素から最良の答えを導き出すのは難しいが周辺地域の伝承や記録を読む限り「山岳信仰」ではないと判断出来る。
干潮時だと橋を渡らずともその間々陸続きに成るので渡る事が可能だ。
この亀野小島、面白い事に過去幾度と無くその名称を変えている。他のサイトでも取上げられていたのだけれどウチで調べても同様の結果だった、その内容を少々掻い摘んでご紹介しよう。
まずこの島が最初に歴史上に登場するのが1656年に発行された「明暦二年田方帳抜書」の中の相神浦大里村船越免(この地方の旧称)部分に「かめの小嶋」と記載されています、田方帳とは農耕整理区画の調査帳なので農耕に不向きな島(しかも面積の小さな小島)などは記載されない事が殆どです。
その中でこの島が記載された理由はとは?
実はこの「かめの小嶋」には対岸の複合扇状丘が含まれており、干潮時半島とこの島が繋がる事から島としてではなく半島の一部として当時認識された様です。複合扇状丘は勿論棚田としての機能を当時は有していたので必然的に複合扇状丘を含めた島(干潮時は半島の一部)を「かめの小嶋」と総称したのでしょう。実は現在もこの事実は変わっておらず、島単一での呼称ではなくて対岸の複合扇状丘を含めて「亀野小島」と地図上では記載されています。
※ 写真で干潮時と満潮時の違いが解ると思います
豊臣政権を発端とした国絵図「天保国絵図」では1800年代、「みやのこ嶋」と記載されていて1821年に発行された伊能大図彩色図(大日本沿海輿地全図)では「宮子島(測量日記内では宮ノ小島)」と記載されています。更に明治17年発行の北松浦郡村誌に「亀甲島(かめのこうじま)」と改称されていて1910年発行の国内地図には「亀ノ小島」と改称、その度重なる改称については諸説在りますが現在でも判明していません。
満潮とまではいかないけれど水位が上がってくるとココが島なんだと実感します、この橋の必要性も見た目以上にその意味合いを上げますねぇ。
渡橋途中で半島へ振り返ると複合扇状丘の特徴と民家の廃屋が見て取れます。
※ 海流変動の関係で昔(時期は不明)は完全な小島だったとの記録もあります
亀野小島に到着、この島で行われていた真珠養殖場を見に行くとしましょうか。
上陸して最初の細長い建造物、この建物は事務所や在庫倉庫、出荷用製品を一時保管するのに使用されていたようです。内部のカレンダーでは2001年4月で時間が止まっています、ウチで調べたこの真珠養殖場が倒産した時期とはちょっと合致しないなぁ。
※ 一応業者名称や代表者などの情報は抑えましたが未公開とします
真珠養殖加工場跡に来た、橋を渡って右側の建物だ。海上で養殖された真珠を最初に加工処理する場所だ、だからと言っては何だけれど一番汚いのもこの建物。
何故か此方の建物のカレンダーは1999年の物が貼られていた。
最初の方で掲載した航空写真と比べると良く解るのだけど。
そう、航空写真では海上養殖容器がまだ残っているのだけどこの写真では既に取り除かれている。倒産後、どの位の時期で撤去されたのかは解らないけれどこの航空写真は独自調査で2004年~2005年に撮影されている事は判明している。
橋を渡って正面裏手と成る。
養殖前の貝や養殖に必要な道具が置かれていた倉庫、裏手にはこの様な小さな建物が3棟残っている。
ところで真珠の養殖の歴史は意外に浅く、ここ100年の技術だ。しかも真珠の養殖技術は日本が発端であり、しかもその主要養殖地域にこの長崎も含まれていた事で亀野小島が養殖場として使用されたのも歴史を紐解く上で重要な事実だ。
また何故亀野小島の養殖が終わりを迎えたか、それも1996年から蔓延した養殖貝のウイルス感染症(アコヤガイの大量斃死現象)などが影響している筈だ。倒産時期を考えるとウイルス感染症から幾分か持続した事の方が驚きだ。
参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0
この亀野小島、アクセス道が山屋じゃないとまず見付からないってのが来訪者を拒む様でして。そのお陰で保存状態はとても良いのです、なので詳細なアクセス道へのナビは控えます。数百メートルですが険しい山道を右往左往すれば見れるのでどうしても行きたい方は自己責任で。
因みに亀野小島へ至る橋、橋桁、道板共にかなりの腐食が進んでおりまして。渡るには十分な強度だと思うのですが一応干潮時に陸続きに成るのでその時を狙って訪問した方が安全でしょう、また裏手の建物は崩壊が激しいので内部探索はお気をつけて。
余談ですが行政主導で観光地化が計画され、一時期「イルカパーク」なるアミューズメント施設の建造計画が立ち上がりました。しかし立地(手前に小学校が在る事や交通整備費用産出)、景気の悪化、参加企業の社数不足なども相まって結局は中止に成ったそうです。
その為、今後行政、民間共にこの地の再開発は当分されない様ですね。ゆっくり廃墟を楽しむには絶好の良物件と言えますよ。
アプローチ
佐世保中央IC(西九州自動車道/佐々佐世保道路)から県道145号線を俵ヶ浦半島方面へ。半島中央を走る山間道を抜け市街地手前の俵ヶ浦小学校裏手から小道に折れて下さい、車で多少は進めるのでデポ地からは旧道を探すか山を無理やり抜けて海岸に出て下さい。
地図リンク
https://goo.gl/maps/UZ4N7sP4V872
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