岡山県│日本弁柄工業株式会社 和気工場
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 日本弁柄工業株式会社 和気工場
岡山県、特殊登山を愛する僕らにとっては魅惑の鍾乳洞が残る素敵な土地。まあその鍾乳洞に関しては何れ語るとしては今回は廃墟とその歴史についてでして、と言っても「超」が付く程の有名物件である「弁柄工場」が今回の物件だったりします。
そう、あれです。あの「紅い」工場廃墟ですね、最近レポートした「白亜の廃校」と場所も近い事から良く一緒に紹介されています。いや、紅白で大変縁起が宜しいのでは有りますが…うーむ。この物件、非常に調べるのが面倒臭ぇでした。
これだけ有名ならその歴史を辿るのは簡単かと思っていたのだけど、いやはや。白亜の廃校も相当厄介でしたがコイツは殆ど資料が無い状態で行政も把握していない状況、まあ出来るだけやってみましょうかねぇ。
それでは早速とはじめましょう、ご紹介しますは「日本弁柄工業株式会社 和気工場」です。
そもそも弁柄とは何か、そこから入ろう。
弁柄 - ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E6%9F%84
語源はインド・ベンガル地方産の紅顔料を仕入れた江戸時代の通用名称が輸入帰化した結果ベンガル→ベンガラと訛り、その後当て字された現在の「弁柄(弁殻とも表記)」に定着呼称される様に。
用途は現在でも多種多様で広く使用され、顔料としてのその歴史も世界的に古い。今回の弁柄工場は岡山県和気郡に廃墟が残るが県内では別の場所が特産地として有名、岡山県って弁柄が特産らしく観光地にも成っているのでご存知の方も多いだろう。
高梁市吹屋観光協会(公式ホームページ)
https://sites.google.com/site/fukiyakankou/home
資料としては此方が参考に成るかと。
https://www.khi.co.jp/knews/backnumber/bn_2005/pdf/news138_04.pdf
岡山県での弁柄の生産及び加工に関して掘り下げていくと全く別のレポートに成るので今回は割愛、まあ知識としてキャッシュしておいて頂ければ。なのでこの有名な廃墟「弁柄工場」は特産として和気の町を盛り上げたワケではなくて大きな弁柄企業の数ある工場の一つ、そんな感じでご理解頂けば間違いないでしょう。
時勢と企業の諸事情あって事業が細分化していき、結果大企業の子会社化(吸収合併及び事業譲渡)されてしまう運命を辿るこの工場の母体であった「日本弁柄工業株式会社」、それらを含めた歴史を少しづつ紐解きながらテキストリッチなレポートをお届けします。
弁柄の製造を中止してから16年(2016年現在)、その着色性の良さは放置された建造物を見れば納得の一言。一見錆とも思えるが間違いなく弁柄で着色されている、しかもこの毒々しい紅色が人の身体に無害だと言うから驚く(合成弁柄は別、初期の天然弁柄は完全無害)。
建造物の殆どは放棄されて何の役にも立っていない、正直なところこの古い工場が2000年まで稼動していた事に驚く。
そう、この弁柄工場は2000年の05月まで操業していたのだ。
しかも驚くのは創業が1922年のこの場所、第一次世界大戦から間もない岡山県の山中に起こした合同会社がその後世界シェア60%の企業に成長するって事でしょうか。この辺の経緯を最後の年表に集約する様に話を進めていきますよ。
今と成ってはこの工場を運営していた日本弁柄工業株式会社の沿革を辿るには非常に難しい、と言うのも2005年にこの会社は吸収合併されており、社内部署は異なる企業へ分散化して譲渡されてしまったからだ。しかもその時期がバラバラ、事業者名簿からも削除されていて正直この会社の影を掴むのにはかなり苦労した。
まあそこはアレですよ、ホラ…ね。大人のね、ええ。
※ 地元新聞社のご協力で詳細な情報を得る事が出来ました、また協力頂いた関連企業の担当者の方にも感謝です。
マップは絡めませんが現在の姿が全てではありません、時代と共に増改築したり解体したりを経て今の山間部斜面へ操業行程が並ぶ(製造工程が下方に向かう程出荷状態へ近付く)形に、現在は
・管理室
・貯水施設
・消化水タンク(消火用貯水施設)
・原料倉庫
・原材料貯蔵施設
・作業員事務所(作業員休憩室)
・場内運搬車両倉庫
・貯蔵施設
・混合待機室(保管設備室)
・分離精製施設
・調色室
・事務室(事務員休憩室)
・集塵設備室
・混合粉砕製荷設備室
・出荷待機倉庫(運搬車両倉庫)
とそれぞれ15のエリア(建造物)で区分けされて残っている、細かく説明すると20以上の施設があるけれど重複する設備に関しては割愛。
※ 創業当時の資料を元に記載しています
マメ程度で語ればこの工場(この場所)、実は創業当時は本社兼合同操業工場だったりします。その後事業は大きく躍進して別の場所に本社を建設(1995年に更に移転しますが)、会社としては最初期の製造工場と成る訳です。その後工場の数は海外のシンガポール工場を入れて4箇所を運営、バブル崩壊ギリギリまでは順調に業績と従業員を増やしていきました。
※ シンガポールの工場の所在も判明していますが現在どの様に再利用されているか不明なので記載を控えました
皮肉な事に本社を計3回移動しましたが結局最後までオリジナルで残ったのは創業時の工場と言うのもなんとも、当時バブルが弾けなければ更に工場を増やす計画もあったとか。
※ 他の社屋や工場は全て転用、または更地化されています。
※ 2000年前後、この会社のウェブサイトを製作した関係者に話を聞く事が出来ましたが最初期の操業時工場とあって会社としてもこの場所ははじまり大切な地としており、ウェブサイトにもその様な事が記載されていた様です。
そうそう、この場所は建造物が残っているのでまだ検査が入っていませんが既に解体された工場跡(現在更地)では土壌汚染の報告がされています。
岡山県環境への負荷の低減に関する条例に基づく届出状況
http://www.pref.okayama.jp/uploaded/life/455304_3128203_misc.pdf
※ 和気郡和気町塩田307(塩田工場跡)の欄が該当地です
それではこの弁柄工場の核心部に触れて見ましょうか、まずはどの様な会社だったかを。
日本弁柄工業株式会社
設立:1922年06月
資本:3億円(授権資本5億6000万円)
代表:永田長寿
事業:弁柄製造・ボンド磁石用・カード用・(焼結磁石用)ハードフェライト粉の製造
取得特許:http://tokkyoj.com/syutu/595156333.html
本社所在:岡山県久米郡柵原町吉ヶ原1045(※1)
塩田工場:岡山県和気郡和気町塩田307(※2)
和気工場:岡山県和気郡和気町矢田1099
棚原工場:岡山県久米郡美咲町吉ヶ原1089(※3)
物流倉庫:岡山県和気郡和気町矢田1004(※4)
この他にもシンガポールに加工工場を所有、ボンド異方性フェライト粉で世界の60%以上のトップシェアを誇った。また上記工場の他にも母体企業の同和鉱業の資本により本社内に品質管理課と研究開発(同和鉱業株式会社磁性材料研究所)が運営されていた。まあ資料を見る限りバブル崩壊までオリャーな企業だった様ですねぇ、その辺は年表を見ると一目瞭然なんですわ。
さあ、恐らく関係者以外全く知らない(そして興味を持つ人も殆どいない)日本弁柄工業株式会社の沿革を。これ、多分ネット上には残ってないと思うので意外と貴重かも。
1922年 和気郡佐伯町矢田において日本弁柄工業合資会社を設立
1951年 日本工業規格表示許可(許可番号401番)
1959年 希土類酸化物の製造開始(姉妹会社、日本希元素工業株式会社を設立)
1964年 塩田工場完成
1969年 日本希土類元素工業株式会社と合併、社名を日本弁柄工業株式会社と変更
1980年 物流センター完成
1983年 同和鉱業株式会社の系列企業に(※5)
1986年 研修施設「青雲寮」落成
1987年 シンガポールに日弁マグネティックス・シンガポール株式会社(NMS)設立
1989年 NMS社シンガポール工場完成・操業開始
1990年 研究開発本部棟落成
1995年 営業権を同和鉱業株式会社へ移管
1997年 研究開発部門を同和鉱業株式会社磁性材料研究所に統合
2000年 同和鉱業の弁柄事業撤退を受けて弁柄事業を戸田工業に譲渡(※6)
2000年 弁柄事業担当だった日本弁柄工業の弁柄担当従業員は戸田工業へ受容
2005年 日本弁柄工業株式会社柵原工場の操業停止(※7)
母体企業だった同和鉱業の弁柄事業撤退により日本弁柄工業の全工場は操業停止、工場だった物件は順次売却される。受け容れ先の戸田工業にとっては日本弁柄工業の顔料部門を吸収統合した形と成る、しかし日本弁柄工業が消滅した訳ではなくてあくまで主要事業だった「顔料部門」が自社操業から離れたと解釈して欲しい。
一方本社及び2つの工場と物流センターからの4つ物件は同系列企業のDOWAエフテック株式会社が購入、その後本社跡地は更地に成っておりこの企業から手を離れた模様。棚原工場と物流センターは現役で運用されているが今回の弁柄工場の廃墟である和気工場は取材先の希望で割愛する、問い合わせ先も非公開とさせて頂きたい。
※1:現在は「美咲町柵原居宅介護支援事業所」に
※2:現在この場所は更地と成っている
※3:同和鉱業母体関連事業のDOWAエフテック株式会社が同系統事業の工場を継続運用(一部解体)
※4:同和鉱業母体関連事業のDOWAエフテック株式会社が同系統事業の倉庫を継続運用
※5:同和鉱業グループに加入
※6:同和鉱業株式会社創業百年史(https://goo.gl/fnQT6P)
※7:産業新聞/同和鉱業が弁柄事業から事実上撤退(https://goo.gl/ZUfUp8)
因みに2005年の操業停止に関してはこの様な資料が出てきた。
簡易株式交換による完全子会社化に関するお知らせ
http://www.dowa.co.jp/jp/ir/pdf/news2005/release050711_kabukou.pdf
既に弁柄部門は細分化譲渡され、日本弁柄工業とは名ばかりにフェライト粉の製造を主事業としていたこの会社。母体企業が更に効率化統合を進める中で系列企業から完全子会社化、これにより企業の「個」たる意味は消滅し、企業名称を残した同和鉱業株式会社の一部と成った。
工場の歴史で言えば2000年05月で終わっているので工場内に残された事務所のカレンダーが「2000年」で止まっている事も頷ける、長い歴史を誇った弁柄企業ではあったがバブル期手前の合成顔料の台頭。そして平成大不況の煽りを受けての吸収合併に泣かされた近年、現在その流れを見る事は叶わない状況だ。
外観にばかり目が行ってしまう程インパクトの大きいこの弁柄工場、異様な紅色一色の世界は蓋を開ければ企業運営の難しさを体現した地方産業の一例だったと言う訳ですね。
現在は簡易倉庫として使用されているので建造物に関しては手付かずの間々、車庫使用されている部分(2箇所)以外は操業停止当時の姿をその間々残していると言って良いでしょう。
が、近年は無断で入る輩が多いと関係者の方は嘆いておりました。手摺や階段の破壊行為も過去にあったようでして不審者が絶えない様なら防犯カメラを設置するとも、中々個人では許可が得辛い廃墟物件。この弁柄工場も撮影が厳しい状況へ移り変わりそうな時期を迎えた様です、本日は以上と成ります。
※ 今回「画」的な興味が全く沸かなかったので山で活躍しているWGでの撮影でした、旬を過ぎた所為か人の手が入ったからなのか…写欲を掻き立てる要素は既に薄い様に感じました。
写真撮影:6Frogs Design Works
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