東京都│倉沢鍾乳洞
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 倉沢鍾乳洞
東京都の鍾乳洞と言ったらまあ出てくるのは「日原鍾乳洞」ですよね、観光地化された有名な大規模鍾乳洞の一つなのでご存知の方もさぞ多い事でしょう。しかし同じ東京都奥多摩地区においては更に大小様々な鍾乳洞が存在しています、日原三又鍾乳洞や不老鍾乳洞、養沢鍾乳洞など結構な穴数(※1)だったりします。
※1:詳しくはPCC「関東の洞穴について」を参照下さい(http://www.verte.co.jp/pcc/txt/data/kantonodoketu.htm)
行ってみたの面々は沢屋や岩屋など幾つか得意なカテゴリーが分かれているのだけれどケイビングに関してはそれら全ての要素を必要とする総合特殊登山の集大成、僕らにとって鍾乳洞と言う存在は沢や岩の延長線上なワケですよ。
故に難易度の高い物件は避けて(一次遭難・二次遭難を防ぐ為)はいるのです、沢装備と穴装備は類似する点が多いので潜り易いとも言えますがやはりロケーションが閉鎖的なのでちょっとした事で大きな怪我に発展しかねません。現役自衛隊さんやケイビング団体さんが同行すれば話は別ではあるのですが。
※ 正直なところ、我々のみでは入洞禁止の鍾乳洞での探索許可が降りないので同行者として地質学関連の大学関連の伝か有名なケイビング団体を同伴しなければなりません。
今回ご紹介する倉沢鍾乳洞、穴レベルは非常に低いと思われます。が、それはベースとして沢や岩の基礎知識があるからであって安易に足を踏み入れる事は自殺行為に等しいと理解した上で今回のレポートを読んで頂ければと。
いやね、ホントに怖いんですよ鍾乳洞って。
日本洞窟学会による近年の洞内事故報告を是非見て欲しい。
洞窟救助委員会 - 過去の事故例
http://www.speleology.jp/rescue/incident.html
※ 一部文字化けしてます(上→不に脳内変換してお読み下さい)
これらはほんの一部、もし本格的に鍾乳洞へ赴きたい場合は国内に幾つか存在するケイビング団体に参加若しくは加入した上で十分な知識と訓練、そして装備を揃えた上で挑んで欲しいと切に切に。それ位周到な準備をしても簡単なミスで死亡事故へ繋がるのがケイビングと言うスポーツです、また場所によっては多方面への許可申請が必要なのでそれらも忘れずに。
※ 安物ヘルメットにIPX8以下のハンドライトとか絶対に思い留まって下さい、ヘルニアには少々キツイ腰道具(クライムギア)と潤沢なロープが必ず必要に成ります。
※ 洞内でのハンガーノック(シャリバテ)は死亡事故に直結する事態です、必ず飲料と非常食を持参しましょう…ってこれは山全般に言える事ですが特に鍾乳洞は要注意です。
それではやっとこさの本編「倉沢鍾乳洞」さんのレポートです、もし行くのであれば…何度も書きますが自己責任の前に準備と装備+基本知識は必ず携帯して下さい。羞恥心は要りません、全裸でも靴下だけでも好きなファッションでれっつコドモ(童心)ちゃれんじ。
写真解説:倉沢谷本谷の遡行はビギナーにもお薦め
沢の遡行としてもビギナーが安心な優しい奥多摩の倉沢谷本谷、その最終地点として魚留橋が良く目印として使われる。現在林道倉沢線の終点(魚留橋が崩落の為)と成っている、その少し手前に自然に還りつつも確実に人の手が入った石階段が残っているのが来訪者には解るだろう。
ココこそが観光地化されていた頃(後述)の名残、倉沢鍾乳洞への入口だ。
沢の水量は天候次第だけどそこまで深くもなく(結構泳ぐけれど)て流れも穏やかだ、登りも降りも特に問題となる箇所は無い筈。対岸からでも十分に鍾乳洞へ至る旧道へ渡れる。そもそもこの沢、直上に林道が絶えず平行している為にリカバリー(エスケープ)が容易だ、何時でも巻けるので気持ち的にも楽だろう。
写真解説:倉沢鍾乳洞入口合計4箇所の洞口が確認出来る
崩落した旧観光用歩道を登り詰めると大きな洞口が眼前に現れる、三層構造の倉沢鍾乳洞の入口に間違いない。洞内は上下に立体的な構造で大きく分けて三層のエリアに分かれており、最下層では地底湖(池レベル)も複数存在する。
降下技術や登攀技術が必要とされる箇所は殆どなく、通常の沢遡行と基礎レベルのロープワークで対処可能(※2)なので過去はケイビングの練習の場として大いに活躍した。
※2:自力で空中登攀(若しくはセルフレスキュー)出来る事が前提です
さて、既に記述してますがこの倉沢鍾乳洞。現在はひっそりと山中に口を開けた忘却の鍾乳洞ではありますが戦後から1980年代までは簡易整備された観光鍾乳洞でした。付近には現役の日原鍾乳洞がありますね、向こうはシッカリと管理された観光洞ですが此方は簡易的なルート整備で余り一般向けでは無かった筈です。
また古くは霊場としても信仰された自然信仰の対象だった事から大本の管理は日原鍾乳洞と同様に一石山神社、その為無作為な整備を嫌ったのも一因だった様ですね。
※ 倉沢鍾乳洞は一般入洞禁止です、個人申請の許可も降りません。
この辺の歴史も交えづつ現在の洞内の様子を見ていきましょう。
写真解説:中央左側の洞口から外を望む
倉沢鍾乳洞は奥多摩地区の低山「笙ノ岩山(しょうのいわやま)」西側壁面に位置し、洞口は倉沢谷(本谷)左岸標高660m付近の切り立った石灰岩の露頭岩壁に開口している。霊場目的な来訪者達は洞口から200メートル程の週回路内で祭事が行われていたそうだ、廃墟好きには懐かしい倉沢集落(※3)の人々がこの地に腰を降ろしてからもやはり地元の山岳信仰の対象とされていたと聞く。
江戸時代には倉沢山大権現として上野寛永寺の支配を受けていた霊場として知られていた事から歴史資料に取り残された事実がまだまだありそう、また推測の域を出ないけれどそれよりももっと以前(山村が開かれる以前)から修験道の修行場として利用されていたと記す文献も残っている。
ジョイントする様なケイブシステムは今のところ存在が確認されておらず、単洞の鍾乳洞と認識されているけれど再奥地には更に上部への狭い支洞が確認されていて小規模の滝の様な流水も。
非常に多くの支洞があり、迷路状+三層の立体構造と複雑な形状ではありますが基本的に核心と呼べる難易度の高いポイントは少ない(現状把握されている内容では)と思われます。
正確な記録が無い為に観光洞としての開場時期は判明していないけれど戦後~10年の内には簡易整備されていたと思われる、洞内の周回ルート(一般公開コース)には1940年代を皮切りに1950年代末~1960年代を中心に1980年代までの来場者の落書きが散見出来る。
が、僻地故のアクセスの悪さと簡易整備と言う特性上”一般来場者”が少なかった様で。1980年代初盤には廃洞と成り受付小屋も解体、その後観光遊歩道への橋も解体されてしまう。一部の遺構を残しつつもその存在は忘れ去られ、1998年には遭難事故などの補償問題に対して対応出来ない事から一般入洞禁止の決定が管理者である一石山神社によって下された。
その後は旧道に大型の立入禁止柵が設置され、崩落が続く遊歩道の中間地点にも鉄柵が設置された。ケイビング団体の調査(極稀にファンケイビングを対象に)目的以外には入洞許可は降りず、一般の立入は現在においても禁止されている。
※3:この鍾乳洞を管理運営していた方の姓は「坂和」さん、古く開かれた倉沢集落は全ての住人が坂和姓で倉沢鍾乳洞管理人もこの倉沢集落出身。その後1944年に日原鉱業所が稼動を開始し、この地に倉沢社宅を建設すると元の山間部の住人と社宅住人が混ざり合い、最盛期には200人を超す山間集落と発展しました。
しかし1958年に完成した日原社宅への以降が進み、1967年には無人化…といっても少し下方へ下れば最後の住人と名高かった倉沢の仙人こと「坂和連」さんのご自宅があります。そう、倉沢集落最後の坂和姓だったこの方は倉沢鍾乳洞の管理人とも親密な関係にありました…が。
坂和さんは2005年に97歳でこの世を去り、その後この集落全体が同年(11月)に解体されてしまいます。倉沢集落において坂和姓は代わり映えしませんがこの坂和さんは650年前程以前にこの地へ移住する際には「神職」として同行した一家の末裔、つまり信仰の対象とされてきた倉沢鍾乳洞の管理にも深く関わっていた事になります(実際に最終代であった坂和さんも神職でした)。
もしもっと以前にお会いする機会があればこの鍾乳洞に関してより詳しく話を聞く事が出来たでしょう、これら倉沢集落に関しては以下のサイトが参考に成ります。
雛壇状石灰鉱山集落跡の謎に迫る - 東京都奥多摩町倉沢
http://heyaneko.web.fc2.com/dj31.html
写真解説:入口右側を少々アップで、閉塞気味だが実はもう一箇所穴が存在する
鍾乳洞入口には洞口が大小四つ開口しています、内二つは非常に狭く短い距離で閉塞に。どの穴とは敢えて言いませんが内二つは斜面と垂直下方へそれぞれ繋がっており、三層構造の上方と中層に分離していますが途中繋がっている箇所が幾つかあります。
また中層には更に上下層が構成されていてそれぞれに支洞や枝支洞が迷路状に広がっています、メインルートは上層・中層それぞれが周回コースとして観光洞の頃は簡易整備されていました。
洞内にはその頃の木製階段や朽ち落ちた木道跡が散見できます、が…中層中間地付近からは自然の姿を残した間々で準備や知識の無い方の踏破は非常に危険だと思われます。
写真解説:以前は木製階段が整備されていたが現在では見る影も無い
上方層へのルートは既に木道が朽ちており、中上層へもチムニーの技術が必要なので通常はこの主要空間を形成している中層へ足を踏み入れる事に成ります。
最初は凹凸のある斜面から垂直に落ち込むこの写真の場所からスタート、まあフリーでも十分ですがセルフレスキューや思い掛けない場所からリカバリー(エスケープ)を考慮してロープを垂らします。
この立体構造は最大で30メートル以上と思われ、上層へ10メートル未満、下層へ15メートル程度の竪穴が見受けられ、更に最奥地では上方への亀裂口が確認出来ます。地底湖は二つ(中層と下層)に存在し、それぞれが「ひょうたん池」と「水晶池」とPCCが命名しました。
総延長は凡そ1400メートル(現在判明している支洞なども含めて)、乳石、石灰華の他に断層も見る事が可能です。
写真解説:複雑な立体構造を成す洞内
少しばかり進むと同一フロア層の中にも複数立体的な枝支洞が散見出来た、その殆どは閉塞か上下左右の穴と通じているか…そんな程度ではあるけれど余りに多くて全てを確認するのがとても大変な作業だ。
今後更なる調査を予定しているので今回はメインのルート設定を主目的として行動を進めよう、因みに今後は周囲の地形調査も平行して行う為に現地で野営する予定だ。
石灰岩と泥岩が混じる様な壁面状態なのは事前調査で承知済なのだが写真を良く見て欲しい、壁面の色が白黒しているのが解ると思う。これがどうにも現地では不思議だった、何か煤けている様な印象が強かったので帰宅後に調べてみると…
「倉沢鍾乳洞は古くから霊場として知られ、 江戸時代には倉沢山大権現として上野寛永寺の支配を受けていました。その際に焚かれた護摩(火)の為に洞内は煤け、やがて壁面を薄っすらと流れる地下水流により煤は離散集合して、現在のような白と黒の衝撃的なコントラストを呈しています。 」
との一文をウェブ上で発見、なるほどねぇ。
写真解説:ドルファヘキセンダーにしては丸過ぎる泥団子
観光ルートから離れ、奥へ奥へと進むと人工創作物が眼に入った。堆積した泥で作られたケルンの様な泥団子の小山、これが何かは解らないけれど子供が来れる様な場所でもないしなぁ。しかも作られてたのは最近って感じでもない、抉り取った場所に新たな堆積物が少しばかり確認出来たからだ。
環境の変化が著しく遅い鍾乳洞の洞内、それでも変化は長い年月を掛けて少しづつ進む。何時ごろ作られてどの様な意味があるのか…しかし事前調査で一つだけ思い当たる節があった、そしてこの先にもまた謎の人工創造物が姿を現す。
写真解説:中下層から下層へのフロアへ向かう竪穴
三層構造の中層、その中層の上下層でみれば中下層への竪穴に到着。ここはとても複雑な地形で真下には下層への竪穴がバーチカルに続いているが途中の足場から左右に小フロアが3メートル程下方に広がっている。更に正面には上方へ向かう様な穴も見える、やはり倉沢鍾乳洞は迷路状と言える。
最下層へは10メートル程の空中ラペが必要だ、しかし実を言えばこの真下が最下層ではない。ここから更に進んだ場所には更に更に小さいながらも口を深く開けた竪穴が存在する。
まずはその場所まで行ってみよう、因みに写真に写っているスリーストランドは20年以上昔に設置されたであろう残置ロープ。怖くてまともに使えそうには無いので当然手持ちのロープを降ろす、残置されたアンカーやハーケンも。
写真解説:降下地点と中間フロアへ降り立ったU川君
かなり滑るので慎重に降下開始。
因みに洞内ではヘッドライト×1、ハンドライト×2(ストレートビームとワイド)、バックアップハンドライト×1を各々が所持している。これに撮影部隊が加わるとバッテラ×2にリフレクターレンズ、小型のレフが加わるので相当明るくなる。
この鍾乳洞に関してもその内に必ず、シッカリと写真撮りたいですねぇ。
写真解説:松本慶祐にリデザインを依頼すべき泥像
中下層から最奥地へ歩を進めると左壁に何やら石仏らしき物が鎮座していた、が…良く見ると先程の製作者と同じ者による2つ目の人工創作物の様だ。
骸骨状の頭にファットなボデー、胸には子供が抱かれて背には角だか羽だかが取り付けられている。わざわざこんな山奥の僻地、しかも核心部分に近い最奥部でこの泥像を作る意味とは…うーん怖い。
この鍾乳洞は古くから霊場としても利用されていて洞内には首なし地蔵や石仏が残っている、が…これらはシッカリと土着の山岳信仰が基に成っていて歴史的な資料や文献を紐解けばその存在は当たり前の様に残っていたりする。
んだけど…ねぇ、これはちょっと。
そうそう、実は既述の通り思い当たる節はあったりします。この場所では新興宗教のアレ的な利用方法もあった様でして過去には恐怖体験をされて逃げ帰って来たケイバーさんもいらっしゃいます。
ほんとは怖かった倉沢谷 - 今夜も山の中
http://plaza.rakuten.co.jp/yamabito/diary/200608180000/
いや、実はですね。この他にもこの倉沢鍾乳洞で何かちょっとアレな人達がアレな感じでアレしているってのはウェブ上で調べて知ってはいたのです。またそんな噂を裏付ける様に廃村後の倉沢集落には1995年に新興宗教の調査目的で警察の手が入っている事実も、と…言ってもこの時は同年の大事件だった地下鉄サリン事件の潜伏先としてだった様だけれどもこの一体はそう言ったちょっと変わった宗教関係者の往来が確かに頻繁だった時期がありました。
これらの事実から倉沢鍾乳洞で儀式的な催しが行われていた可能性もゼロではないのです、廃洞化しても入洞禁止柵が講じられる前には実に多様な人々が来訪したのでしょう。
写真解説:ライトの照射先には下層フロアが広がっている
この薄細い竪穴(恐らく10メートル以上)を降下するのが目標だったのだけれどロープを使い切ってしまい、残念ながら今回はココまで。狭い上に空中降下なので出来ればロープワークではなくて登攀機器を使用した方が良さそうなので次回は用意して来る事にしよう。この下層への穴を降りて匍匐前進で進めば水晶池と呼ばれる地底湖が姿を現す筈だ、次回は是非その美しい姿をお見せしたいと思う。
覚書として次回は手足双方の登攀機器、ドライスーツ、ナイロンラダーを数本、ハーケン(アンカー)、ディギング用のフォールディングスコップを持参だなぁ。
写真解説:中下層最奥地最後の立体構造を見せる場所、上部からは微量の流水が降ってくる
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロール、モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます。
そうそう、一応ではあるけれどこの場所一体が最奥地でここから先は閉塞している。ただ上方にも子供なら通れそうな穴が微量の流水と共に風を送ってくる、過去PCCの方が既に挑戦されたであろうこの上方への穴もどうにか攻略してみたいところだけれども…。
まずは見るべき支洞と枝支洞、確認されている地底湖などの現状を見て回った後からに成りそうだ。更に書籍や資料なども漁ってみようと思う、意外とこの鍾乳洞はロケーション以外にも面白い事実が沢山眠っていそうだ。
写真解説:照射先やや左には1972の数字が
冒頭、
「正確な記録が無い為に観光洞としての開場時期は判明していないけれど戦後~10年の内には簡易整備されていたと思われる、洞内の周回ルート(一般公開コース)には1940年代~1960年代を中心に1980年代までの来場者の落書きが散見出来る。」
と書いたけれど写真では解るだろうか。
エントリー内でも説明した煤けた黒い場所を中心に観光ルートの分岐部分などに数多く落書きが残されていた、流石にロープで降下が必要になる場所以降は皆無だったけれど。
そして偶に凄い場所に書かれた来訪記録も、何時の時代も無茶する人は居る様でして。
写真解説:早朝の入洞から戻ると陽射しは頭上から降り注いでいた(メシの時間です)
数時間の洞内探索を終えて倉沢谷に戻ってきた、旧道探索としてもこの沢上岸を走る林道倉沢線は興味深い、そして登ってみたい滝の存在も。奥秩父がメインフィールドだったけれど奥多摩も面白い、10年以上前は頻繁に来てたんだけどこの地域の面白さは再確認出来たってのも倉沢鍾乳洞のお陰だ。
倉沢谷、林道、滝。鍾乳洞の他にも遊べそうな場所が沢山のこの倉沢さんには今後もお世話に成りますね、非常に濃い時間を過ごせた余韻を引き摺りつつ今回の事前調査を終えるとしましょうか。
ちょっと本筋からズレる話を少々。
この倉沢に至るまでの道路(観光用林道)は何時頃作られたのだろうか、鍾乳洞自体は土着の信仰対象だったし倉沢集落は1350年代にこの地に定住をはじめた。つまりは山間部を走る登山道なんかより遥か以前より作業道(山岳産業の流通の為に切り開いた旧道)は存在した筈だ、が鍾乳洞を観光化する事と戦後の植林事業に付随する事業に伴う林業道路の整備、林業拡大の為の周辺地域の護岸工事など前後するとは言え主要開発時期が存在するのは確かだ。
写真解説:植林による規則正しい樹木が林道に並ぶ
日原鉱業所が稼動を開始した1944年から就労人員が増加の一途を辿り、1958年には日原社宅が建設。移行や生活に便利な倉沢橋が翌年の1959年に竣工、倉沢方面への簡易舗装を伴っての整備が進められるのは時代と逆行する様にも思えるけれど主要目的が林業ならば整備する理由としては十分だろう。
って事は洞内の落書きで1940年代があったのは整備される前の日原鉱業所の従業員だったのではと推測出来る、土着信仰の場として来訪され続けてきた地元の人間がこんな稚拙な落書きを残すとも思えないし。
その後林道倉沢線は奥へ奥へと延びていく、倉沢橋竣工の2年後と成る1961年には宮下橋(鍾乳洞まで1/5の距離)が、仮設橋との架け替えで時代が前後するが1960年には八幡橋(鍾乳洞まで2/5の距離)が、宮下橋と同年の1961年に鳴瀬橋(鍾乳洞まで3/5の距離)がそれぞれ設置されている。結局簡易舗装は全行程の20%程で潰えてしまったけれどこの先の魚留橋(1962年竣工/現在崩落の為通行禁止)の先にも作業道としての林道は延びていた、つまり…
この林道は後付として観光用林道として運用されたけれど当初は植林に関する林業の為の作業道だった事に成る、ともなれば…落書きの主要時代が1960年代だと言う事にも合点がいくと言うもの。
さて、事前調査としてのエントリーとしては少々テキストリッチだったかもしれないけれど現段階で洞内がどの様な状態かは解って頂けただろう。
暫く期間が開くと思いますが本編エントリーでは洞内の更に詳細な探索模様をお伝えしたいと考えています、本日は以上です。
アプローチ
日原鍾乳洞方面へ向かい、倉沢橋のT字路にて右折。林道倉沢線に入り終点(通行禁止地点)手前左岸、道路からは崩落した崖を上り更に崩落した遊歩道を進むが現在は一般の立入は禁止されている。遊歩道手間の進入防止柵と遊歩道途中の閉鎖柵が現役で設置されている、勿論内部は非常に危険です。車でのアクセスは可能ですがある程度の車高と駆動能力がある車種が良いでしょう、落石や崩落箇所が数え切れない位にあります。
地図リンク
https://goo.gl/maps/iRsSa35YZFA2
写真撮影:6Frogs Design Works
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