埼玉県│白岩集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 白岩集落
久しくご無沙汰していた廃村物件、余りに有名過ぎて今では来訪者が少ないと聞く秩父の廃村群にお邪魔して来ました。幾分廃墟に対する写欲が薄れつつありますが素晴らしい廃美に触れると沸々としてくるじゃないですか、今日ばかりは防水コンデジにはゆっくりとお休みして頂きましょ。
( ˘ω˘)スヤァ
まずはこの秩父の廃村群一帯の歴史と簡単な現状をご説明しましょうか。
近代では石灰採掘による鉱石産業が有名な武甲山、古く江戸時代では「御林山」と呼ばれる自然保護(山林保護政策)の為に一般の周辺居住者が入山する事を禁じられていた。それは山菜取りや狩猟、材木の伐採など山に手を入れる事を全て禁止とする”山岳集落に住む人々には非常に厳しい政策”だったと言えるだろう。
しかし地場産業が無かったこの地域では集落から一里半(約6キロ)の範囲(※1)において「稼山」と呼ばれる入山許可が与えられた者のみが入れる”指定区域”が存在し、木製加工品や製炭などを許されていた様だ。結果、この微小な山岳産業が昭和初期まで残る事になるのだけれど明治時期に良質な石灰岩の大鉱床である事が判明すると大規模な採掘事業が次々に開始。
1940年に秩父石灰工業が操業を開始して以降は「山姿が変貌するほど大規模な採掘(※2)」が無計画に薦められ、度々測量を行う(地図の書き換えも)までに。
※1:一理とは特定の距離を指すのではなく、一定時間で歩く事が出来る距離をそう呼んだ。つまり正確な距離を示す単位ではなく、また元と成った中国の一理ともその距離感は相違する。
※2:採掘事業によって標高さえも変わったのは有名、結果的に1336mから1295mを経て現在の1304mと成った。ただ三角点と最高地点が別々に指定されている事で国土地理院は今後その表記方法が変わる事も示唆している。
今回お邪魔した廃村群「白岩集落」・「冠岩集落」・「栗山集落」・「茶平集落」はその何れも類似する繁栄と衰退を経ており、各詳細な歴史を紐解くと特色も垣間見えてはくるが凡そ特色といえるだけの文化的違いはない。
参考 - 秩父山地の歴史と文化
https://goo.gl/PHf7Sy
武甲山 - ウィキペディア
https://goo.gl/z6RnKe
それでは最初に来訪した「白岩集落」、その今と歴史をご紹介していこうか。
白岩集落へは武蔵白岩鉱山(JFEミネラル武蔵野鉱業所)脇のハイキングコースから急な勾配の山道を通って行く事になります、2015年までは現役であったこの鉱山だけれど事業縮小で同年3月31日に閉山。翌月からは早々に解体が開始され、特徴的だった軌道桟橋や工場施設が、その後同年10月にはサイロ四兄弟を含むほぼ全ての施設が撤去されて騒々しく稼動していた山中の鉱山施設は静まり返っていました。
武蔵野鉱業所 - 武蔵白岩鉱山の閉山について
https://goo.gl/zwPygM
入山して暫く歩くと頭上に廃屋が見えてきた、白岩集落は上白岩と下白岩に分かれていて最初に見えて来たこのエリアは下白岩地区。実はこの下白岩地区も上下の平地をやっとこ確保する様に分かれて、下白岩の上方地と下方地に別けて来訪する事になるのだ。
・白岩集落
│
├・上白岩地区
│
└・下白岩地区
│
├・上方地
└・下方地
※ 現在はありませんが別の場所に作業小屋が別々に2棟程存在した
※ 炭釜へ至る作業道も沢山存在
※ 昭和初期に消滅しましたが上白岩と下白岩を繋ぐ獣道も
今回時間の都合で上白岩にはお邪魔出来ないので土産物屋の「しらとり」やアノ車のおもちゃには会う事は出来ないけれど機会があればまた何れ。
※ 最後尾にちょっとしたサービスレポートを用意しました
さて、そろそろ廃村内を歩くとしよう。
こちらは白岩集落下白岩上方地、このお宅は外観こそ保っているものの内部はこの有様だった。床は抜け落ちて土壁は剥がれ、天井も崩落寸前と言ったところ。
江戸中期から製炭で生計を立てており、村内には小さいながら農耕跡も。明治以降鉱山事業が盛んに成った事で山間部では早い段階で電気が来ていた、これは居住者にとっては嬉しい誤算だっただろう。水道は山水を農耕用水と下水に利用し、井戸水を上水水利用していた。
製炭と鉱山事業で潤っていた最盛期では上白岩に6戸、この下白岩には23戸もの居住者が。
※ 戸数に関しては諸説ありますが恐らく合計29戸が正確な数かと思われます
風呂と釜場のエネルギーは主に薪(※3)、流石に製炭で生計を立てていた家系。その土地柄「火」に困る事は終ぞ無かったご様子。車も他の運搬方法も無かった急斜面の村ですからプロパンの導入も厳しい状況だったと言えます、しかし近年で言えば相当不便ではあったかと。
※3:1970年以降は灯油などを利用する家庭も。
1994年(※4)に最後の居住者として生活されていた90代の女性(神林・姓)が亡くなると完全な廃村に、超過疎集落であったこの村もいよいよ終焉を迎えました。
※4:別資料によると翌年の1995年とする記載も
この地区には神林姓と新井姓の二つの苗字が確認出来た、特に新井姓に関しては秩父の山間部で本当に多い。この新井姓は元を辿れば群馬県多野郡神流町の新井姓(この地域も新井姓の占有率が高い)ともルーツは同じ、そして何れも山間部に多い…実はこの符合、歴史的な実証があった。
金達寿の著「日本の中の朝鮮文化」によれば
「関東の新井姓は、668年朝鮮半島で唐・新羅軍に敗れ日本に亡命してきた高句麗の王族 高麗王若光から出た者である」
とあり、群馬県南部から埼玉県北部に安住地の地を見つけたとする文献(716年に高句麗からの渡来者は埼玉県の日高に集められそこを高麗郷として定住したと記載)も。
あくまで少数の出典なので確証はないけれどその様な背景があったとするならば集中する特定の苗字にも納得がいく。因みに過去にレポートした、
もこの歴史的検証に合致した内容と言える。
別のお宅にもちょっとだけお邪魔する、こちらは床が抜けていない…と言うか抜ける寸前の状態。気になるのはちょいちょい真新しい缶などがある事。ハイカーさんかそれとも廃墟さんか、いやしかしどうやって中まで入ったんだよって言うね(床抜けそう)。
因みに日めくりカレンダーが1995年の4月3日になっているけれど廃村化したのは1994年だ、だれかが悪戯で捲ったのか…。いや、それなら態々1995年の日捲りカレンダーなど設置しない筈。ならば状況証拠から推測すると実際の廃村時期は1995年と言う事になるのか。
※ 当ブログでは判断出来ませんが1995年が濃厚です
玄関先にNHKのステッカー、うーむ…ここまで来るんかいっ。
この白岩集落を過ぎて鳥首峠を超えると「東の白岩」・「西の冠岩」と呼ばれた双子集落、「冠岩集落」があります。この廃村同様に製炭産業で生計を立てており、峠向こうの情報交換や物資のやり取りもあった様。
※ 冠岩集落は次回のエントリーでレポートします
ここらの廃村に限らず問題になるのは産業として残された物流(人・物・付随する関連性)、冠岩との関連性を深く掘り下げると長くなるので控えるけれど実は現在残る家屋とそうでない家屋…これにはこの”関連性”が少なからず関わっているのだ。
廃村後暫くは住民や離村した元住民で家主が居なくなった家屋を解体していたのだけれど1980年代に入る頃には放置する家屋も増えていき、廃村後の1990年代後半から自然倒壊を待つ廃屋ばかりに。
故に綺麗な跡地と自然倒壊した残骸が残る場所が混在しているのです。
それでは何故この様な両極端な状況が発生するのか、この白岩及び冠岩に限れば単独移住してきた家族は自然倒壊した家屋に住む率が高く、撤去作業が行われたのは冠岩集落ほか別の集落と家系的関連性や地場産業で繋がっていた家族が多いという事。
これは昭和中期までの地場産業に関する資料にも記載されているのだけれど他の企業や家系の一族と繋がりが強かった家庭は離村後の法的な後処理も含めて進める事が出来た、しかし単独移住の家系や産業と関わりの無かった家庭はそう簡単には行かない。
この様な山奥の廃村で解体されずに家屋が残っているのには意外と現実的な理由が介在している事が多い、この白岩集落も恐らくは。土地や家屋によっては現代の処理能力をもってしても所有者がハッキリしない物件もあるのだ。
白岩集落の該当地区の地名「白岩」、これは上白岩地区から眺望できる山の岸壁が石灰岩の為白く見える事から命名されている。白岩の由来は白い岩とは何ともシンプルで解り易い。
残念ながら下白岩地区からは見る事が出来ない、が土に覆われた斜面を掘削していけば同じ石灰岩の地肌が顔を出すに違いない。
※ 命名元となった白岩周辺は武蔵白岩鉱山の所有地で眼下では掘削作業が行われてた
※ この先にはウノタワと呼ばれるちょっと興味深い場所も(何れレポートします)
村内の生活道を通って白岩集落下白岩下方地へ、斜面にへばり付く様に建設されているが意外と地盤はシッカリしているのか建造物自体の強度はまだ保たれていた。
現在の建築基準では斜面の家屋建設に関する取り決めはとても厳しく、その基準を満たすには大規模な地盤整備工事が必要となる。
こちらのお宅はカレンダーが1990年の1月で止まっていた、隣接している家屋でも離村時期には随分と開きがある様だ。
別のお宅の新聞には1985年のテレビ欄が、残留物から各家屋の離村時期や家庭環境が窺い知れる。産業の乏しさから廃村と成った集落は全国に沢山あったがそのどれもがエネルギーの近代化などで山岳産業の衰退、そして代替燃料の普及が影を落としている。
製炭産業は1950年代後半には減少を始め、1960年代には化石燃料へと移行が開始。戦後復興のインフラ充実拡大がこの様な山間部での離村を推し進めたのは事実であろう、だからこそなのか全国的な廃村への道は同時期に集中しているのは歴史が語っているし有名な霊山廃集落群も廃村の理由から離村時期まで本当に酷似していた。
※ 霊山の廃集落群レポートはこの他にも沢山あります、是非ご覧下さい。
今更ながらの秩父の廃村群、その中の有名物件である「白岩集落」は如何だっただろうか。この廃集落が注目を浴びたのは2000年代初頭、心霊さんや廃墟さんが関東から程近い廃村写真をネット上にアップした事がはじまりだ、その後東京都の「峰」や「倉沢」など魅力溢れる廃村が周知となるのだけれど軒並み解体される中で今だ辛うじてその姿を見る事が出来る稀有な存在と言える。
そうそう、この地方にこんな昔話もあります。
埼玉の民話 - 機織淵
http://archive.is/53bWl
※ 埼玉県飯能市上名栗の白岩地区の昔話です
まだまだ興味が尽きないこの廃村、これからも是非残って欲しい廃墟物件の一つです。
さて、最後に皆さんご存知のアノ”車のおもちゃ”の詳細を伝えて終わりにしたいと思う。知ってはいるし見た事もある、けれども一体アレは何なんだ?と思われている方が非常に多い様でして。
写真引用:MIMIZUのパワーアップBlog(ameblo.jp/pairzu)
これです、コレ。白岩集落と言ったらこのペダルカーですよね、来訪する皆さんが必ず撮影すると噂されるこの車のオモチャ。
このペダルカー、お名前は「スモールバード」さんと言う。株式会社モーリが1962年から10年間ほど企画製造した子供用のペダリングで進む車玩具だったのです、東京オリンピック開催の年(1964)には特別仕様となる、
写真引用:CBXmaster2004のブログ(blogs.yahoo.co.jp)
「スモールバード64」が発売されて爆発的に知名度が向上する。
この成功を元に毎年前面ナンバープレートに西暦が記載される様になって保存状態の良い車両になると発売年となる「1965」や「1966」などのステッカーが現存している、因みに「スモールバード64」だけはボディサイドパネルに車名が記載されている。
近年ではこんなノスタルジーなアイテムを復活させよう、なんてプロジェクトもありました。
ペダルカーマニアによる「スモールバード」復刻プロジェクト
https://goo.gl/8hfHdH
写真引用:五部輪通帳(blog.goo.ne.jp/smallbird2)
現存するスモールバードの中にはミュージアムコンディションレベルの物もあり、状態が良いと¥100000前後、デッドストックだとそれ以上の値が付く事も。ヤフオクなんかでも見掛ける事があるので欲しい方は探してみては如何だろう、相場は¥30000位の様だ。
写真引用:昭和的心の遺産を求めて(blogs.yahoo.co.jp/naohiro064)
余りに売れた為に他社から類似品も販売され、一時期は似た様なデザインのペダルカーが氾濫する事態に。結局造型精度の緻密さが勝っていたモーリ社が覇権を維持した様ではあるのだが。
写真は競合とも言えないパクリ他社”Nobu Cut”社のペダルカー(車名不明)、モーリ社のスモールバードは販売終了までの10年強の間に年間1万台を継続的に売り上げて最終的には累計台数10万台以上のペダルカー(スモールバード以外のペダルカーも含む)を売り上げたと言う。
これはモーリ社のスモールバードでないペダルカー、4輪化されてより安定性が増している。車名は「マイクロレディ」、名前から察するに女の子向けのペダルカーだった様だ。
知ってる人は知っている、そんなペダルカー「スモールバード」。随分昔に北原照久さんの著書か何かで偶々知る機会があって覚えていたんだけれどまさか廃村を調査していてペダルカーに行き着くとは夢にも思わず、いえいえ…これも廃墟物件の楽しみの一つと言える筈です。
本日は以上です、ほな。
協力(電話取材又は資料提供)
埼玉県立歴史と民俗の博物館
埼玉県飯能市上
参考文献
あなたの知らない埼玉県の歴史/著・山本博文
地名でたどる 埼玉県謎解き散歩/著・宮内正勝、加藤隆榮、千田文彦
埼玉県の歴史/著・田代脩、重田正夫、森田武、塩野博
さいたま市の歴史と文化を知る本/著・青木義脩
アプローチ
旧JFEミネラル武蔵野鉱業所脇のハイキングコースから鳥首峠へ向かう途中に下白岩集落と上白岩集落が点在している。
地図リンク
https://goo.gl/maps/F4VUAJqLder
写真撮影:6Frogs Design Works
ここから下はブログ内容と一切関係ないブログサービスの広告スペースです、誤ったクリックなどにご注意下さい