埼玉県│冠岩集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 冠岩集落
虫の居所をどうにか掴みたい、そんな愉快な仲間が集まる残虐ファイター集団「行ってみた」が今回お邪魔するのは数ある伝説を擁する「冠岩集落」さんです。
今更ながらの秩父廃村群、前回は有名物件の白岩集落についてレポートしましたが今回は双子集落としてしられるこの「冠岩集落」を皆さんにご紹介しようと思います。
冠岩集落、白岩集落とは鳥首峠を挟んで西東の関係にありまして。立地や隣接集落としてもその関係性は密接な物でした、なのでお時間がある方は是非前回の白岩集落に目を通して頂いてから此方をお読み下さればと。
冠岩集落は将門の残党が追ってから逃れる為に身を潜めた(※1)と言い伝えが残る他、「首無武者の伝説(※2)」など将門に関する伝記が残されています。
それは即ちこの地の歴史が非常に古い事、そしてそれらを言い伝えるだけの長きに渡り人が定住していた事を証明しています。
立地としては白岩集落の様に急斜面に点在する様な事はなく、山間部の比較的平地が広がる場所に住居が集中する様に構成されています。大正時代以降昭和初期までの地図では5軒(※3)の家屋が残っており、その後2軒が自然倒壊して現在では3軒の家屋が残っています。
その内2軒は廃屋化、残りの1軒は林業の作業小屋として利用されてきましたが現在では随分と手入れをされていない状況が続いています。
ですが施錠され内部は恐らく比較的綺麗に保たれているだろうと予想出来るだけの状態を保っている点と野外の水道が生きている点でまだまだ人の気配を感じる生きた廃村とも言えるでしょう、その他には倉庫と厠が見てとれました。
※1:後程詳しく説明します
※2:旧名栗村に残る伝説で剣ヶ峰で将門と秀郷が勝負を行い(後に勝負平と呼ばれる地名になる由来でもあります)、首を取られた将門が首無武者と成って名栗村に逃げ込んだと言う物。またその時に名栗村の村人達に「追っ手に言うべからず」と箝口令を敷いたが村人が口を滑らせてしまい、この一体の人々に代々に渡り癩の呪いを掛けた、そんな内容の物語が残されています(首から上の無い将門がどう箝口令を敷いたのかは秘密です)。
※3:大久根茂・著「峠 秩父への道」によれば往時に6軒の家屋がと記載あり
広河原逆川線へ至る道すがら、上名栗への車両進入禁止の枝道へ。ハイキングコースを暫く歩くと登りの折り返し途中に廃村への入口が現れます、冠岩はその昔カムリイワと呼ばれており、この読みに至った経緯(※4)も少しばかり判明しているのですが余りに説明が長くなりそう…しかも更に「ウノタワ伝説」などの地場伝説も絡んでくるので興味のある方は是非各々で調べてみて下さい。
因みに「ウノタワ伝説」、そう遠くない内に別途調査しようかなぁと思っています。
※4:ハイキングコースか少し入った場所に冠岩と呼ばれる岩がありましたが林道整備時に撤去されました、これとは別に幾つか地名由来の伝説があります。
離村時期は白岩集落より10年程早い1980年代、しかし先の説明の通り近年(2000年代)までは作業小屋の管理で人の行き来が頻繁にあった為に新しい残留物も意外と残っている。これにより来訪者が物を移動したりと諸々の介入もあって1990年代に離村したと言う説や実は限界集落じゃないか、なんて話まで。
いえいえ、そんな事は地域の住民推移の資料を見れば解ります。が、解らないのはこの地にどれだけの人が住んでいたのか、って事。実はこの冠岩集落、定住しない林業従事者が出入りしていたと言う資料なんかもありましてねぇ。
まあそれが白岩集落の住人じゃないかって話もチラホラ。
いや、ね…この辺を調べている最中に白岩集落の最盛期の家屋数と恐らく住んでいたであろう人間の数字が合わない(どうしても溢れてしまう)と悩んでいたのです。そこへ関連性の深い双子集落の冠岩集落の存在、そして同じ山岳産業の林業で生計を立てているとあらば邪推も強ち無理な考えでもないなぁと、国民全員に番号がふられる以前の時代ですからねぇ。
こちらは現在も人の手が入っている(だろうと思われる)家屋、窓の破損もなく施錠されていて内部を窺い知る事は出来ない。因みに庭の水道は地下水汲み上げで井戸が併設されていた、今でも十分な水圧を確保出来ている事から潤沢な地下水源があるのだろう。
さて、ここでこの家の家主に関する重要な事をお話しようと思う。
今回諸事情あって写真には収めなかったけれどこの冠岩集落には来訪者が必ず出会う「冠岩の板碑」があります。
以前は社の中に板碑と地蔵が大切に保管されていましたが自然災害(詳細な内容と時期は不明ですが2007~2012年頃の台風に因るものだと思われます)で社が崩壊、現在は屋根が転がるのみとなりました。
これは「青石塔婆」と呼ばれ、非常に古い石の塔婆。秩父で産出した緑泥偏岩に文字が彫られており、1403年(応永10年)の物や1475年9月29日(文明7年)の年号が現在判別可能な状態と成っている。室町期の青石塔婆で鎌倉時代から戦国時代までの間で一般化した石塔婆だ、しかし江戸時代に入ると「異端の教えからなる悪しき慣わし」と弾劾され、この青石塔婆は世から姿を消します。
そんな歴史の長いこの青石塔婆、なんと管理をこの家屋のご主人が担当されていたと言う。現在ではどの様な状況が判断出来ないのだけれど少なくとも近年までは掃除など手入れが行き届いていたのは確かだ。
余談だがこの青石塔婆、一体誰の物なのかを少しだけ。
この冠岩に「将門の残党が追ってから逃れる為に身を潜めた(※1:参照)」と書いたがその残党の方達が村人に感謝(匿ってもらった)の気持ちを込めて御堂を建立しようとした、が完成間近に成って追っ手によって惨殺されてしまう。
哀れに思った村人達が供養の為に立てた…そんな言い伝えが残ってはいるのですが。板碑に刻まれている通り1403年や1475年などそれぞれの塔婆には開きがあり、恐らくは集落の住民の物だろうと推測されています。
こちらは作業小屋、1960年以降に建てられた物です。
この一体は戦前から大量の植林が行われており、林業衰退後(小屋はギリギリ衰退前に建造されたと思われます)は全くと手付かずの状態が続いています。故に枝払いもされておらず、集落一体は昼間でも陽が照る事は殆どありません。
その為か植林された樹木以外の植物は背が低く、地面は絶えずジメっとしている。過剰に植林された樹木は十分に根を張る事も出来ず、近年の集中豪雨などの災害がこの地を襲うと大規模な土砂崩れを発生させる可能性も懸念されています。
実際にこの一帯の山間部では小規模な崩落が見て取れます。
吐血しそうやで、なんてフォトジェニックなんざんしょ。
山中で見つけた素敵な廃要素はホンダのC100、簡単に説明すると昔のカブです。シート下のタンクマークがネジ留めではないのでどうやら1960年以降のモデル、テールも鷲鼻ではなくて大型化された物(マウント)が着いていたのでほぼ間違いなし。
このモデルと時を同じくして北米仕様として製作されていたCAシリーズなんか涎物でしてね、特にCA100のロードスターなんて現物見たら目ん玉破裂するんじゃないかと。
うーん、ゲボい(吐くほど美しい)。
そう言えば同じ秩父廃村群の山掴み集落にもホンダのC72が転がってた筈、アレも良いねぇ…神社仏閣だよなぁやっぱり。
って、そうそう。このカブちゃん、実は以前は倒壊した家屋に潰されておりました。そこへやって来た若者が居たんですねぇ、ええ。
リベンジ!廃集落と山歩き。白岩-鳥首峠-冠岩
http://archive.is/WisWu
※ アーカイブ化してリンクしました
この邂逅から既に6年、改変された廃美の歴史は既に正史と成りつつあるようです。
うーん、ゲb…( ゚д゚)、ペッ
洗濯機などにゲボ程の興味もないわ、いや綺麗ですけどね…ええ。
えっと、冠岩集落…実はこんな感じでレポート終了です。意外と書く事沢山あるんですよ、この集落の歴史に関して。が、どうにも「伝説」とか「言い伝え」とかが多くてそれらを全て検証するとちょっともう、なんか…ねぇ。なのでその辺はまあ、アレで。
真面目な話、産業に関しては白岩集落とほぼ同じ様な形態と歴史的背景を辿っています。それでは何故冠岩集落の方が離村が早くて白岩集落ほど語られる事が少ないかと言えば、それは単に他の集落や主要産業地との距離と位置関係と言えるでしょう。
白岩集落は林業での商品化された物を比較的楽に取引場所まで運ぶ事が出来ました、しかし冠岩はダムが出来る以前は本当に山奥に存在しており、その交通手段も限られていたのです。
そんな立地問題も”近しい関係にあって終末期を違えた双子集落の歴史”が物語る面白い一面と言えるでしょう。
次回は栗山集落へお邪魔します、本日は以上です。
協力(電話取材又は資料提供)
埼玉県立歴史と民俗の博物館
参考文献
あなたの知らない埼玉県の歴史/著・山本博文
地名でたどる 埼玉県謎解き散歩/著・宮内正勝、加藤隆榮、千田文彦
埼玉県の歴史/著・田代脩、重田正夫、森田武、塩野博
さいたま市の歴史と文化を知る本/著・青木義脩
アプローチ
浦山ダムを抜けて県道73号線進み、浅見キャンプ場先のT字路を左折。県道の終点地点から始まるハイキングコースを歩くと程なくして冠岩集落の入口と出会う。
地図リンク
https://goo.gl/maps/tPV4pzv3n8H2
写真撮影:6Frogs Design Works
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