埼玉県│栗山集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 栗山集落
古賀竜一郎博士によって組織された我々「行ってみた」一同、怒りと感情が最高潮に達する素晴らしき廃村を求めて遠路遥々「栗山集落」へやって来たぞ。雄闘バーロック(※1)が幼少期を過ごしたと噂されるこの集落は一体どんな闇を抱えていたのだろうか、期待と不安を胸に秘めいざ推し参る。
※1:第8話にして傑作回、主人公クラスです。
さて、秩父廃村群三回目のエントリーは「栗山集落」です。前回の「冠岩集落」より少々移動して離れた場所と成りますが同じ名栗・浦山エリアの廃村群の一部となります、浦山ダム建設(※2)によって消滅の危機にさらされた時期もありましたが細い山道を挟んで便宜呼称「上栗山」と「下栗山」に分かれる形で現存しています。
※2:最後尾にて詳しく説明します
上栗山には5軒の家屋と農耕地跡(現在は確認出来ず)、下栗山には4軒の家屋と林業用作業小屋と倉庫が見て取れます。地図上では小さく見えますが実は結構な広さの集落でして、斜面にへばり付く様に家屋が密集する様に形成されていて他の廃村群とも良く似ています。
また名栗・浦山エリアの廃村と同様に主要産業は山岳産業(林業)で、それに加えて上栗山には既述の通り斜面を利用した平地での田畑運用が行われていました。この栗山集落の田畑は小規模ながら比較的広い面積を確保出来ていたの自活農業としては廃村群で一番の大きさだったと言えるでしょう。
この一帯は他にも有名どころで「岳集落」・「茶平集落」・「細久保集落」・「山掴集落」なども、どれも浦山ダム建設に際して語るストーリーがあるのだけれど後ほど簡単に説明したいと思う。特筆すべき伝記や歴史は無いものの、とあるゲームのロケ地(※3)としても知られたこの地域の廃村取材の話なども絡めながらご紹介していくとしよう。
※3:後程詳しく説明します
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この集落の特色として上栗山は主に農業を主とする世帯が、下栗山には林業を主とする世帯が道を隔てて軒を連ねていた。
当初はそうでなかったかもしれない、しかし長い年月の中で合理化を進めていった結果が現在の形成状態なのだと言える。
この栗山集落、その地名の所以となるのは裏手に聳える標高813.9メートルの栗山だ。対岸にも796メートルの山が存在するが此方は囲む様に「山掴」・「茶平」・「武士平」・「大神楽」と4つの集落を擁していたが栗山集落はこの集落だけで栗山の潤沢な林業資源を使用出来た事は立地上の幸運と言える。
この家屋は下栗山の一番の見所と言える家屋だ、2013年位までは玄関の扉も綺麗に残っていて内部も殆ど荒らされる事は無かった。転機は2014年、その年に関東を襲った記録的な豪雪(※4)によって奥の別棟が地盤ごと崩落。
※4:平成26年豪雪→https://goo.gl/iR4ndy
何故か時を同じくしてその年からウェブ上のレポートでは扉が開いた状態の写真を多く見掛ける様に成った、現在内部は動物にも人間にも物色されてしまい当初の人の気配などは微塵も感じない廃屋と化してしまった様だ。
上下に分離している栗山集落だけれど離村時期が大きく異なっている、どちらかと言うと下栗山の方が主要道路にアクセスも容易なのだけれど驚く事に上栗山には2000年の新聞が残されていた。正確な離村時期は判明しなかったけれど2001年辺りに最後の住民が山を下りたそう、主要道路からは100メートル程急な斜面を登らないと一番上の家屋へは届かない。
一方、下栗山の方は1970代後半には離村(道路沿いの家屋のカレンダーは1977年05月で止まっている)。この開きはどうやら高度成長期の製炭産業衰退に因ると思われる、この地域に限らず林業(特に製炭などの山岳産業)は1970年代に急激な衰退傾向を見せている。
山により近く、そして運よく平面に農業用地を確保出来た上栗山は細々ながら生き長らえたと考えられないだろうか。この件に関しては資料もなく、行政も詳細を把握していなかった。
先程の立派な家屋の内部はこんな感じ、此方のお宅のカレンダーは1986年で止まっていた。正月飾りが残されているので年が明けて間もない時期に急を要する状況で離村したと思われる、兎に角と生活観が色濃く残っていてまるで夜逃げの様な体。
まあそんな謎を残した様相が企画と合致したのだろう、ソニー・コンピュータエンタテインメントジャパンが発売したホラーゲーム「サイレン(※5)」のロケーション取材地の一つだったりする。とても知れた話なのでご存知の方も多いだろう、元々はアメリカの地方都市での物語がベースと成っていたがシナリオライターの佐藤直子さんが廃村の民間研究者である浅原昭生さん(※6)と知人だった為にジャパンテイストを取り入れる為に相談、結果取材地に秩父の廃村群が選出された経緯がある。
SCE - サイレン
https://goo.gl/5crzfd
その取材の模様も浅原昭生氏のウェブサイト「HEYANEKOのホームページ」で一部だが確認出来るので是非見て欲しい、該当ページでは取材地は「栗山」・「岳」・「茶平」・「武士平」・「大神楽」・「山掴」の各集落との事。
山の斜面にある暮らし - あった暮らし 平成14年春
https://goo.gl/RqkfBp
このゲーム関するロケ地に関してはウェブ上に諸説語れているが資料として文献や写真は参考にしてもモデルと成ったのはこの地域のみ、よく奥多摩地区の倉沢集落なども語られるがどうやら間違いの様だ。
また特定の集落を指して「ここがモデルと成った廃村だ」などと書かれたサイトも見掛けるが記述の通り、この一帯の廃村を統合的に具現化したもの、それがこの取材背景なのだとお解かり頂けるだろう。
※5:参考(ウィキペディア)→https://goo.gl/XEqG7N
※6:ウェブ上ではHEYANEKOと言うHNで知られている廃村研究家
集落として伝える事が少なかったのでどうしても周辺の歴史や全く別のアプローチでご紹介した「栗山集落」、最後に浦山ダムの建設に際してダム湖に沈む可能性もあった事をお伝えして終わりにしようと思う。
冒頭でも少し書いたがこの集落、ダム建設によって消滅の危機にあった。それはまだ人が住んでいいた1947年、戦後間もないこの一帯の山間部で治水の為に建設された「二瀬ダム」まで時間を遡る事になる。
二瀬ダム - ウィキペディア
https://goo.gl/YyVL9i
その後の経緯は再度「浦山ダム」のウィキペディアを参照して欲しい。
浦山ダム - ウィキペディア
https://goo.gl/HQ57KR
1972年の着工後、やはりと言うべきか…周辺住民への理解はそれほど進んではいなかった様で幾つもの集落と建設反対問題で衝突する事になる、金銭的解決で自主的に離村した集落はダム湖の底に沈んでいたりダム施設用の敷地として再整備されたりと現在でも跡地を見る事が出来る場所はチラホラ。
着工2年後の1974年の航空写真では現在と大きく異なる地形が容易に見て取れるだろう。
現在では以下の様に大きく変化した。
栗山集落では最後の離村が2001年頃だと推測されている、ダムの完成が1998年で即時運用が開始されている事から少なくとも完成後2年以上は住み続けた様だ。これは他の同一廃村群では断トツで遅く、不便を感じながらも建設中の20年以上の歳月をこの地で過ごした事に他ならない。
そう、この集落にはまだ解明しなければ成らない謎が残っている。それは近年まで住民が残り、そしてどの様に去っていったのかだ。栗山集落内では生活観が残された家屋が多い中、1軒だけ長期在住した理由や他の村内住民の様子を知る事が出来る重要な鍵にも成り得る。
が、それも既に15年以上の歳月(2017年現在)が経過している事を鑑みれば…少々遅過ぎたのかもしれない。どちらにせよ、この廃村群の中で唯一継続調査物件として資料精査を行っていきたいと思う。何か情報があれば是非お寄せ頂きたい、追加エントリーがいつになるか確約は出来ないけれどこれらの謎を解明してみたい…そう思える廃村でした。
本日は以上です。
アプローチ
浦山ダムを抜けて県道73号線進み、浅見キャンプ場先のT字路を左折。途中細い枝道から山間部へ入ると道路沿いに廃屋が見える。
地図リンク
https://goo.gl/maps/8uvtLwybKSw
写真撮影:6Frogs Design Works
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