埼玉県│茶平集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 茶平集落
「熱い心を強い意志で包んだ人間たち(※1)」でお馴染みの我々「行ってみた」メンバー、菊池俊輔作曲のテーマ曲をパワープレイで気分は既に最高潮。
※1:原田大二郎を降板させた事は絶対に許さないぞ
今回の廃村群来訪ではその荒ぶる調査意欲を惜しみなく注いで来たわけですが一先ずこのレポートで最終回、まずは前回までの
を是非読んで頂きたい。そして最後の秩父廃村群は「茶平集落」と成ります、それぞれが特有の文化形態と長い歴史を持っていたこの地域。まだまだ語り尽くせないけれど、もしこの地域の歴史に少しでも興味を持って頂けたなら本当に嬉しい。
それでは「茶平集落(チャデーラ)」のレポートを始めましょうか。
茶平集落は旧主要道路から作業道を上り詰め、斜面に開けた少ない平地を利用して集落を構築していた。良く大げさに険しい山道を登り~なんて表現をしたレポートも見るけれどサンダルで行けるレベルなので比較的来訪する敷居は高く無いだろう。
また別のサイトでは「集落の外れにあった石灯籠」やら「集団で離村したようなので、その際にお墓もきちんと移動」などと根拠の無い解説をしていたけれど現地で確認するにどう見ても「石祠(せきし)」だ、小祠や小堂とも呼ばれていて墓石との関連性も非常に深い(※2)。つまり祠を残して墓石を移動する事は通常有り得ないのだ、まあ結論を言えばこの集落にも墓地跡(※3)があるのだけれど。
※2:茶平集落の石祠は「平入り」と「流造り」でした
※3:個人墓地が2箇所、集団墓地が2箇所と合計4箇所の墓地跡があります
※ [墓地について] この集落には上林姓と浅見姓が確認出来るけれど浅見姓の墓地はとても新しく、どうやら造られたのは80年代の様だ。細かく調査していないが恐らく他にも個人墓地が存在していると思われる。
こちらのレポート(ブログ)で墓地跡の写真が確認できます→https://goo.gl/D1Vn2K
更に後述するけれど茶平集落、「集団で離村した」などの事実も無くて家屋毎の離村時期は非常に長く離れている。これは栗山集落でも説明したがダム建設と山岳産業衰退に起因しているのだが併せて説明しよう。
他にも茶平集落は上方地と下方地に分かれていて白岩集落や栗山集落同様、収入源となる生業や離村時期も分かれていた。軒数は上下併せて11軒、これに作業小屋などが3~5軒あったとされている。
この様な歴史的一致は秩父は廃村群に共通する一つの特徴と言える、集落生成時期は違えど類似する環境で同一の時代を生き、更に似た様な衰退傾向を辿ったこの一帯の着目すべき調査対象だろう。
こちらは上方地の倒壊間近と思われる家屋、内部は非常に荒れていて見るべき残留物も余りない。どういった理由からかは判明しなかったけれど2011年以降から急激に家屋の倒壊や内部の荒廃が進んだとの記載をネット上で見掛ける、家屋倒壊に関しては例の記録的豪雪(2014年)だろうと思うけれど…。
そう、この茶平集落において一軒だけ現在も管理されている綺麗な家屋がある。しっかり施錠されていて内部も綺麗な状態を維持している様だ、今回調査した一帯の廃村群では非常に珍しい。
聞いた話によると以前は廃墟同然の管理状態だったが来訪者が内部を荒らすばかりか家財道具や残留物(現役)を持ち去る事案が頻発、地元警察の指導もあって全ての窓や扉部分を施錠してトタンなどで閉鎖したそうだ。
※ 白岩集落にも似た様な対策をした家屋が確かあったな様な…。
推測の域を出ないが恐らく下方地の家屋(新しい残留物が残された家屋がある)か施錠されている上方地の家屋のどちらかが最後の離村家族と思われる、残留物から双方平成になってから…それも2000年前後と思われるつい最近まで生活していた痕跡を見て取る事が出来た。
2012年までまだ辛うじて建っていたこの家屋もここ数年で倒壊してしまった、この様に自然の力によって少しづつ廃村としての景観は失われていく。
そもそもこの浦山地区、1800年代には記録されているだけで17集落(実際に2軒~3軒の小規模集落も確認されていて20集落以上の集落群が形成されていた)、200を超える軒数を誇っていた。その後戦後復興の中で高度成長期を迎えると山岳産業が衰退し、減村したのは秩父廃村群のレポートで既にお伝えした通りだ。
現存している廃村はつまり、産業衰退の残骸かダム建設時に標高的な立地条件から難を免れた運の良かった集落と言う事になる。それもインフラが整いきらなかった現状を鑑みれば廃村化した事は当然の成り行きと言えるだろう。
ダム湖(秩父さくら湖)に現在水没している、若しくは撤去され整地された村は「道明(道明石と表記しているサイトが多数あるが間違い)」・「寄国土」・「森河原」・「寄国土」・「大岩下」・「土庄」から47軒が水没、これに加えて現在地名が残っていない2つの小規模集落が飲み込まれてしまった。
詳細に記載するとかなり長くなるので更に知識を深めたい場合は「浦山ダム水源地域整備計画図」や行政記録、また下記の書籍を参考にすると良いだろう。
過疎辺地地域問題調査報告書/過疎地域問題調査会(1983)
秩父浦山ぐらし/黒倉正雄(2005)
村とダム 水没する秩父の暮らし/山口美智子(1997)
※ これらの歴史検証に際し、ウェブ上の記載はコピペが溢れかえっている為に誤表記や歴史の検証ミスなどをその間々掲載している箇所を多く確認した。
さて、気に成る離村時期だが記述した新しい家屋は2000年前後なのは間違いないだろう。村内の離村自体は上方地と下方地でやはり別れていて多くの家屋は1960~70年代に上方地で、その後1980年代には殆どの家屋から住人は移動した様だが下方地の家屋からは新しい家具や雑誌も散見出来る。
兎に角手掛かりがバラバラで正確な離村と言うか廃村化の時期特定は出来なかった、下方地には古い生簀(池ではなくて生簀的な物と思われます)やちょっと変わった残留物もあるのだけど色々と確認が取れなかったので名言は避けよう。
関連性がある作業小屋として北東と東側にそれぞれ1軒づつ家屋跡が見て取れる、しかし資料を見る限り「茶平集落」としての軒数に数えられてはいない。
以上で「茶平集落」のレポートは終了だ、どうしても当初の「白岩集落」や「冠岩集落」に比べると情報量が少ないがそれは別に歴史や文化、独自産業の差ではなくて地域差が少ない為に補足説明する部分が減ったに過ぎない。
この廃村群一帯でみれば「浦山地区」の”浦山”とは武甲山の裏手の山間部だから「裏山」、それが転じてこの一帯を「浦山」と呼称した…と言った全体像を構成する要素の一つだと思って頂ければ間違いない。それぞれが独自の特色を保持しつつも一帯の廃村群は極めて深い関係性と類似する環境下であったと、それ故にそれぞれが魅力ある廃村として現代においても来訪者を尽きさせない理由でもある訳だ。
しかしダム建設に関する移転問題は既に解決され、補償も終了している。よって現存する廃村群は今後自然の力によって消滅する事が決まっている期間限定の”ナマモノ”なのだろう、この素晴らしくも美しい廃村群が楽しめる残された幾ばくかの時間、歴史や受け継がれた物語に着目して造詣をより深めるのも良いだろう。
本日は以上です。
アプローチ
浦山ダムを抜けて県道73号線進み、寄国土トンネルを抜けて直ぐの脇道へ。途中細い枝道(二股)から左側山間部へ入ると道路沿いに廃屋が見える、右側山間部にも関連する廃屋が残る。因みにこの寄国土トンネルの名称はダム建設で消滅した「寄国土」と言う地名が残ったもの。
地図リンク
https://goo.gl/maps/qk3Ji9TTq4A2
写真撮影:6Frogs Design Works
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