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REPORT - 0412│折門八坂地区 三ツ沢集落 - 後編
山梨県│八坂集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 三ツ沢集落(八坂集落、旧八坂集落)
・富士山の麓の孤立した集落
35.505446,138.588215
こんなレスを見た事はないだろうか。
前回こんな件(くだり)で開始した富士山麓の八坂集落レポート、ネット上で騒がれ、実際に見に行けば違う場所へ…そんな摩訶不思議な集落の真相に迫ろうと仕事を放り出して現地に向った。
そしてとうとう見つけました、正式名称「三ツ沢」集落への入口を…。
が。
なんとも後味悪い「後半へー、つづくー」のナレーション、日曜日の18時16分付近を思い出す。
本日は前回眼前に現れた三ツ沢集落への舗装林道へ入り、集落入口まで来た所で閉幕と成った前編の続き。今回でこの噂の集落の全て?がお解かり頂けるでしょう、多分。それでは前編最後尾辺りのコピペから開始します、コッチが先の方はまず直下のリンクから迂回して起こし下さい。
前編最後尾から
ここにて急に「三ツ沢」の文字が増えて来た、橋の名前や電信柱に書かれた住所など本丸に近づいて来た事を実感する。しかし一体何処まで車で行く事が出来るのか…。
国土地図で言えばこの先に旧八坂集落へ向う舗装林道が在る筈…なんだけど…。
あったけど…あれ?普通じゃね?
なんか普通の道路じゃね?
いや、実は確信が在るのだ。この道で間違いない、前振りで散々地図に道が無い!とか県が八坂の事を教えてくれない(後に協力してくれました)とかラッパ吹いたけど…実はね。
今回の取材は行政さんが全面的に協力してくれているのです。
今回協力して頂いたのは山梨県身延町教育委員会/生涯学習課/文化財担当/主任の坂口さんと地元の方、それと今回の取材にとってはなくてはならない人物。その人物に行き先を先導されながらずっと気に成っていた旧八坂「三ツ沢」へ向う。そう、この時点で実は三ッ沢集落の住人(後に詳細を交えてご紹介します)と合流して集落に向っているのだ。
まあその詳細は後程、まずはレポートを続けようか。
と、言うか何故皆さんこの道に入らず真っ直ぐ天空菜園へ?
集落入口。
文献や資料は正しかった、旧八坂集落へは車で来る事が出来た。意外とアッサリ来ちゃったもんだから感動が若干少ない…が、実感は出来る。
ここがアノ航空写真で異彩を放っていた旧八坂集落「三ツ沢」なんだと。
ふと路地脇を見ると古い道祖神が、歴史の在る場所なんだと実感してきた。
ここに来て少々ネタをドロっと流すと「旧八坂」って言い方も正しくない、この辺は折門八坂地区、略して折八地区として地元の方には当然の様に知られている。ウェブ地図を製作する過程で折門八坂と記載すべき所を折門集落が無人化してしまった事を受けてどうやら「八坂」だけを名称として記載した様なのだ、そしてこれまた偶然にも広い折八地区の「三ツ沢集落」の真上に広域名称として「八坂」の文字が載ってしまった事でこの場所を「三ツ沢」ではなく「八坂」と勘違いする者が沢山出て来たと言う訳。
これで旧ではなくて現在も折八地区で在る事は理解して頂けたと思うし名称の勘違いで「三ツ沢」ではなくて「八坂村」の天空菜園へ向う人(※1)が沢山現れた事への回答としたい。
※1 2014年現在でもこの場所に関して地名を混同している方が多いらしく、意外と問い合わせが在ります
生活感有るでしょ、そう…この山深い三ツ沢集落は現役の山岳集落なのです。生活しているのは若干2名と言う超限界集落では在りますが現役の在住村で廃村では無いのでした。
村内はこんな感じだ。
一番下の写真、2人の人物が写っているのだけど左が三ツ沢地区の区長さんである今福さん、右側は折八地区の管理をされている方。で、先の今福さんが今回のなくてはならない人物でなんとのこの三ッ沢を開村した先祖直系の子孫さんなのです。
ここでやっとこネタ明かし。
実は県に問い合わせた後に身延町へ直接問い合わせた所、懇切丁寧にこの地区の事を教えて頂きました、担当されたのは先ほども紹介した山梨県身延町教育委員会の坂口さん。
その後資料もウチ事務所へ送って頂き、しかも取材当日は史跡資料まで拝見させてくれる様に手配してくれるとの事。しかしコレで終わりではない、この地区に関する歴史を語る上で欠かせない方をご紹介頂いた。
今回全面的に取材協力して頂いた仏様の様な人物、先ほどから多少引っ張った感は否めないけどそれ程この「三ッ沢」と言う集落に重要な人なのだ。今までもちょいちょい出て来た「なくてはならない人物」とお伝えしてきた人、もうお解かりだろう。
今福さん、その人だ。
この方は現在三ツ沢集落に住む現役村人でしかもこの集落のご先祖さんの直系。色々とお話を聞かせてくれるばかりか周辺の町指定文化財や資料を見せてくれるとの事…
うひょー、テンション上がって来た。
ココまでをまとめようか。
・まず八坂と呼ばれる集落の本当の名前は「三ツ沢集落」だった
・三ツ沢集落は廃村では無く限界集落(季節限定)ながら現役の村
・道路は普通に在る
・住んでる方は開村の直系子孫
・山梨県身延町教育委員会の坂口さんは良い人
今福さんには後程登場してもらうとして集落内をもう少し紹介しよう、実は今でも謎が多く残る地なんですよココ。
この地の正式名称は「折門八坂地区/三ツ沢」、3つの沢が重なり合う地形からそう名付けられた。人々が集まりだしたのは平安時代とも言われ(※2)、富士山麓の山岳集落では最古の集落の一つだと言われている。
集落としての最盛期は製炭産業だったけどこの集落の歴史を紐解くとちょっと面白い産業が基盤に在った事が解る。
それではその歴史を紐解く為に、この三ツ沢集落の端に有る神社を訪問する事にしよう。
※2 開村の起源は諸説あり、現在ではその真相を確認する術が全くありませんでした
八坂金山神社。
地図上では国土地図にしか描かれておらず、航空写真などでも確認は出来ない山間部の急斜面に建造された古い神社。現在は昭和に入ってから立て替えられた小屋の中に奉り物と奉納品、伝承されてきた木の彫刻像が納められている。
※ 通常は閲覧不可、これらを見る為には地元教育委員会の許可が必要です。
この場所が知られる様に成ってから勝手に入ろうとする方が居る様です、この場所は手前から進入禁止と成っており、また設置されている社には施錠されています。
観光地でもありません、一般の来訪者へは未公開です。
同行者は先ほどもご紹介した今福さんと折八地区の管理をされている方、それとウチの撮影班2人を合わせて合計5人。この鳥居から急な登り(そして前日までの雨でマディ)道をひたすら歩く。
やっとこ見えて来た、あの青い小屋の中にこの三ツ沢に関する貴重な資料が納められている筈だ。しかし…ちょっと急過ぎるでしょ、この立地。
到着。
まず再度確認しようか、この場所について。
航空写真が発端と成って廃村と勘違いされ、その余りに山深い立地から憶測が色々と飛んでしまった限界集落「三ツ沢」。グーグルマップやヤフーマップの誤表記(三ツ沢集落の場所に八坂と表記)されてしまった事からこの三ツ沢を八坂と勘違いしてしまう者が続出。
たまたま現八坂集落が「天空菜園」として機能している事からこちらが航空写真の八坂と思い込んでしまう者も出て来た、そして見付からない「八坂」…。
そりゃそうだ、この場所は八坂じゃなくて「三ツ沢」だもの、道路標識が在ったって聞いた事も無い地名ならスルーしてしまうに違いない。また中途半端に道路が地図に描かれてない物だからこの地を目指した方々はさぞ混乱した事だろう。
さてこの三ツ沢、元を辿ると八坂とは一つの系譜を持った一つの家族集落だった。本家が三ツ沢で分家が八坂、その名残でこの2つの集落には「今福」姓が多い。
その本家と成る三ツ沢の今福姓は歴史を遡ると1500年代中程までに及ぶ。
集落自体は平安時代に形成された様だ、西暦3桁代に形成と成るとこの付近一体の集落では最古参と成る。平安時代は1192年までなのはご存知の通りだがその平家没落後辺りから一端この集落の歴史は途切れる(集落は存続しているが歴史的資料がこの期間存在しない)、次に資料から推測される時代は少々時代が移り変わった1573年(天亀3年)の頃だ。
1573年の三方ヶ原の戦い、武田信玄は徳川家康に快勝するのだけどその中には小さな小競り合いも多く在った。詳細な資料が残されていないのだけどこの三ツ沢の地へ逃げ延びた人々が居た(三方ヶ原の戦いとしては大勝した戦いも付近の緒戦では敗戦も在った筈、そうして小さな戦場から逃げ延びた人々が居たと言う言い伝えが在る)。記録として残るのは1573年にこの地へ逃げ延びて生活していたと言う事だ、現住の三ツ沢民と逃げ延びた武士が一緒に成ってから三ツ沢の歴史が史跡に残る様に成る。
当時まだ八坂の集落は小さく、そこで開墾して集落を大きくしたのが現在の今福姓の始まりとされている。逃げ延びた人々は三ツ沢に残ったり新たに八坂の土地拡大の開墾に勤しんだりと様々だったろう、そして多様な生活形態において八坂から三ツ沢に戻る者も出て来てその子孫が現在三ツ沢で生活されている今福さんだろうと考えられている。
なので八坂、三ツ沢全ての今福姓が同じ系譜では無いにしろその基本と成る人々の素性は同じようだと結論付けられる。またその証拠にこの地域では武田菱の家紋が残されていて武田筋の人間がこの地にやって来た事は間違いない、そうやって少々複雑な経緯で三ツ沢は小さな集落から村として機能し始め、人口も少しづつ増加していった。
この時三ツ沢では現住の人々は製炭、移住の人々は刀鍛冶と言うそれぞれの産業をこの地で行なっており、この刀鍛冶の貴重な歴史的資料が今でも八坂金山神社に奉納されている。
写真は去年腕の修復を終えたばかりの木の彫刻でこの地での刀鍛冶が彫ったと言われる彫刻像達だ、年代鑑定もされたが詳細は不明だった様だがとても古い物だと言われている。
年式鑑定は通常木の素材や経年調査、彫り方や彫り跡(製鉄技術の違いによって深さや鋭さなどが年代によって相違する)などで解明していく。の、だけど…僻地での歴史民俗学上の資料では往々にそのフォーマットが適用されない事例も幾つかある。それは僻地ゆえに製鉄技術の遅延、交流が頻繁で無い為の独自の技法などが用いられるからだ。
専門の大学調査機関が過去に鑑定してもこの彫刻の年代は判明しなかったのだけど、それを抜きにしてもこの地での歴史を語る上でとても貴重な資料で在る事は間違いない。(非公開)
普段は入る事が出来ない場所だ、当然とシャッターを切る回数も増えてしまう。
折八地区の管理をされている方が詳しくこの奉納品の品々を説明してくれた、神祭用具の幣がなかなか面白くて色々と聞いてしまう。と、言うのも通常紙の部分が鉄製なのだ。
こんな幣は僕自身初めて見た。
「すこし休憩しましょうか、家でジックリこの地の事をお話します」
今福さんに促されてこの集落唯一の現役居住のお宅へお邪魔する。
今福さんのお宅で山菜とお茶をご馳走に成りながらお話を伺う、最後尾で総括してまとめよう。
奥さんにも大変お世話に成った、本当にご馳走様でした。今年の夏に「潰れるまで呑みましょう」ともう一度伺う約束まで、三ツ沢の真夜中の風景にも興味が出て来た。
星が綺麗なんだろうなぁ…。
今福さんのお宅でお話を伺っていると「天空菜園」に1979年に町指定文化財に指定された「八坂金山神社諸商売役免許木札」が保存されていると聞かされた、「見ますか?」の問いに「是非に」と。
早速車に乗り込み、天空菜園へ。
天空菜園の入口、何故かココが「八坂(本来は三ツ沢)」と勘違いされている。机上調査でも、
「結局”八坂”って廃村なの?」の問いに対して、
「山奥で宿やってるだけで廃村じゃない」の答え。
地図を見てほしい。
八坂と誤表記された三ツ沢集落から車で15分、更に山を登ると天空菜園「八坂村」が在る事が解る。まあココが「八坂」で合ってはいる、本来ココが八坂村な訳なのだから間違いではないのだけどネット上で騒がれた八坂は誤表記で本来の名称は三ツ沢だ。
コレの所為でややこしく成ってくる。
三ツ沢に関しては既に詳しく説明したのだけどこの天空菜園、実は希望者によって宿の用意もしてくれる。上記のネット上でのやりとり、勘違いして名称と場所が入り乱れてはいるものの天空菜園の八坂村が宿をやっている事は確かな事実だ。
しかしこの集落も常駐ではなくて季節限定の限界集落、三ツ沢同様廃村ではなくて人が今でも住んでいる(※3)事を付け加えよう。
※3 住む事が出来る住宅が残っているが2014年現在はほぼ不在で廃村に近い状態です
さてお目当てのお宝「八坂金山神社諸商売役免許木札」を拝見するとしましょうか…と待っていると今福さんから、
「金庫が開かない」
この木札は大きな業務用金庫の中に保管されている、勿論持ち出しも一般閲覧もしてない完全非公開の貴重な資料だ。保管は怒デカイ金庫で二重の小屋の鍵+金庫の鍵と厳重だ、小屋はすんなり開いたのに…何故…。
何回やっても開かない…
「8月の樹海アタックの時に再訪しますし、その時にもう一度見せて下さい」
そう伝え、今回は「八坂金山神社諸商売役免許木札」にお逢いする事適わず。だども、ここまで三ツ沢、八坂と一緒に歴史を辿る同行者として協力して頂いた事に感謝感謝で御座います。
最後に今福家のお墓にお邪魔させて頂きました、八坂の道祖神も並んでお出迎え。手を合わせ、今回無事に取材を終えた事を感謝の気持ちでお祈り。
こうして謎に包まれ、色々と噂されていた「八坂」の取材が終了した。協力頂いた教育委員会の坂口さん、地元の方や区域管理者の方、そして何より開村直系子孫の今福さん夫妻に大変お世話になった旅でした。
本当に有難う御座いました。
では最後にもう一度ザックリまとめましょうか。
三ツ沢集落
まず八坂ですがネット上で騒がれた場所は八坂ではなくて「三ツ沢」です、八坂は天空菜園が有る八坂村がその場所でグーグルマップなどのウェブマップは誤表記と成ります。
歴史は古く、開村は平安時代後期。その後武田側(三方ヶ原の戦い以降の戦)の逃げ延びた人々と合流し製炭と刀鍛冶の産業を山中で行なう歴史がスタートします。元々の住民は製炭、合流住民は刀鍛冶と分担しての生業ですが時代が進むにつれて混ざり合っていった様です。現在この集落は廃村ではなく、冬季は甲府の別宅で生活して春~秋はこの三ツ沢でご夫婦2人で生活されている限界集落。
※ 年代などは記事内参照
集落無いには幾つかの畑が整っていて野菜などを作っています。
この三ツ沢へは車でのアクセスが可能、しかし山中の小さな集落です。訪問の際は事前の連絡(各々お調べ下さい)や教育委員会への許可申請などを経て山岳部における地域民族学に触れて下さい。
今回ご紹介した資料や彫刻などは基本非公開と成っています、此方の公開希望についても身延町教育委員会にお問い合わせ下さい。
現地調査を終えてみれば実に簡単な答え、記載地名の勘違いによって辿り着く事が無かった限界集落。それが八坂改め「三ツ沢」集落の正体でした。
しかしその三ツ沢にはとても親切で親身に過去を語る住民の方や富士山麓で最古の部類に数えられる集落としての歴史、そして未だ解明されていない残された史跡資料の数々が僕らを出迎えてくれました。
そして幾つか気に成った点も在りました。
近隣集落との関係(実はこのレポートを書いている時点で調査済み)、それぞれの姓と新たな居住者との生活、最盛期から廃村に到った周囲の集落の経緯など…そしてこの三ツ沢に続く幾つかの廃道(旧生活+産業道路)の存在。
解明したい事は沢山残ってしまった。
2011年8月、僕は別途計画を立てている「青木ヶ原樹海アタック」時にこの三ツ沢へ訪問する事を既に決定している。その時までに更なる机上調査を進めて現地訪問に挑みたい、地域民俗学とトレッキングが一度に楽しめるチャンスと言う訳だ。
しかも滅多に撮影出来ない「生活光が無い山中での夜間山間部の風景写真撮影」付きとくればもう。これは大玉だけどF1.4とかマジすげぇなレンズをレンタルするしかあるまい。
これにて当ブログ最長と成った三ツ沢集落レポートは終了です、現地取材の1ヶ月以上前から三ツ沢集落との繋ぎ役をして頂いた行政と地元の方々には再度お礼申し上げます。やはりモニター越しよりも現地での見聞が確実で面白い事だと気付かせてくれる良い物件でした。
協力
・山梨県
・山梨県身延町教育委員会 生涯学習課 文化財担当 主任 坂口様
・折八地区管理担当様
・三ツ沢地区区長 今福様
・天空菜園 八坂村
再度追記します、この場所自体は通常の村ですので出入は自由ですが基本過疎集落の場合は都市部の様に好き勝手出来る場所では在りません。この集落全体が現在の集落の住人の方の努力で運営されており、予期せぬ来客にも対応出来ない状態です。
また集落入口からは完全な個人敷地内の私道と成っており、車両の乗り入れも出来ません。神社への侵入や文化財の閲覧も基本的には未公開と成っており、現地での許可も出来ない為対応出来ないそうです。行政と管理者の許可を得てからと成りますが非公開文化財ですので閲覧も研究している大学関係者や広報関係者に限られる様です。
三ッ沢集落の今福さんをはじめ、周辺集落の人達は静かに暮らしています。その辺をどうか留意頂いた上で各々ご考慮下さいませ、今後新たな問題が起きないとも言い切れません。よって追加調査の内容の掲載は見送る事に致しました(今まで非公開の情報を多く含むので)、何卒ご了承下さい。
今福さん自体はとても親切で訪問者も歓迎しているのですがほんの僅かな不届者が出没する事によって不慮の事態が起きるのを懸念されております、追記は以上と成ります。
アプローチ
エントリー内を参照下さい。
地図リンク
photograph - nee
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REPORT - 0819│鶴舞の農業用野外ハウス
千葉県│鶴舞の農業用野外ハウス
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 鶴舞の農業用野外ハウス
台風が近づくと空の様子はいつもとは全くと違う顔を見せる(撮影当時は9月です)、気流が台風に因って乱される事で様々な種類の雲が一同に揃うからだ。この日も後数時間で台風が上空を通過しようか、と言う時間。
写真では秋を告げる高高度の巻雲、低気圧の接近を如実に表す巻層雲、そして台風の風で駆け足で通り過ぎる層積雲。いつもは個々に見られる事が多い雲が異なる高度と異なる速度で流れる様は見ているだけでも結構面白かったりする、いやぁ雲が好きなんですよ(本当に雲好き)。
で、今回の物件ですが。
本日お邪魔するのは旧車の集まりでたまたま見つけたステキな温室栽培用のグリーンハウス(※1)、発見当時はエンフィールドやらヴェロセットやらトライトンやら約10台程の非常に喧しいバイクが田舎道を走っておりました(※2)。迷い込んだ小道をノロノロと走っているとあらいやだ、ステキな熟成廃墟さんが居るじゃありませぬか。
※1 温室栽培の農業用ハウス、ビニールハウスとは違いガラスやプラスチックの透過壁面で構成されている
※2 発見当時に畑で作業していた爺様2人に「うるせぇ」と怒鳴られはしましたが「随分古いバイク乗ってるな」と一緒に一服しながらお話しました、再訪時(菊川ほうじ茶の茶葉持参)にもシッカリと覚えていて貰えました。昔はRQ乗ってただのトーハツのランペットがどうのだとか、ドリームのE型が…
ドリームのE型が何だって?(※3)
※3 どうしても実物が見たいバイクリスト上位のホンダの大ヒット作品、格好良い
閑話休題。
折角見つけたステキ廃墟さんではありましたが発見当時はバイクのツーリング途中、既に道端にてキャブ全バラ再組み+イグニッションコイル不良のトラブルマシン1台を抱えての走行だったのとカメラ一式を持参して無かったのとで写真は撮らずに帰路と成ります(一服中にコンデジで数枚は撮影)。その後ずっと気に成っていたものの場所が全くと解らずに数年が経過、読者さんからの情報提供でやっとこ発見出来たのが今回のレポート物件と成るワケです。
いや、仰々しいアバンですがレポートが薄いんで誤魔化す為に…ねぇ?
発見当時、今回のエントリーから凡そ4年前は普通のハウスの廃墟に植物が絡みつく概観だった。個人的にはその姿に見惚れて再訪したのだけれど改めて来て見たらこの有様、スッカリと緑に覆われて原形と言うか当初の姿が覆われてしまって名状しがたい何かに。
台風がもう直ぐ通過しようかと言う時間帯で余り周辺を調べる時間も無く、まあ取り合えず写真でも撮影しておきましょうか。しかしアノ”もっさり”に入るのはちょっと勇気がいるなぁ。
発見当時の写真:コンデジでささっと撮影①
これが通り掛かりに撮影した当時の本物件、本来で在ればこの状態から少し植物の侵食が進んだ感じを予想して再訪したのだけれど。
発見当時の写真:コンデジでささっと撮影②
内部はこんな感じだった、側面と天井のガラスはほぼ全て落ちてしまっている。今にも崩れ落ちそうな洋風のテーブルセットが妙に印象的だった。
発見当時の写真:コンデジでささっと撮影③
入口部分はこの用にハッキリと全体像が判別出来る状態だった、って言うかバイクで走行中に気付く位だから当たり前か。
それが、ねぇ…まさか数年であの有様ですわ。
これです、これ。
何かムシムシしてるし実際虫も飛びまくってるし、地面ガラスの破片だらけだし。
発見当時は無かった物が結構増えておりました、この部品は天井部分で地震の所為でしょうか…完全にある一面が抜けてまして。
個人的に気に入っていた洋風のテーブルセットは一体何処へ、昔読んだプロレタリア文学の一場面を思わせるステキ空間の立役者だったのにぃ。
”それならデカダンスだろ?”ってツッコミは無しで、だってまんまじゃないですか”廃墟とデカダン”って。
モスキートが荒ぶってるのでそろそろお暇致します、献血し過ぎぃ。
さて、最後に歴史検証でも…って物件でも無いのです。至って普通の畑とグリーンハウスですからねぇ、しかしたった数年でココまで侵食が進むとは。当初の予想とは随分と”画”が違ってしまったけれど概ね満足です、ついで物件で寄ったので寧ろ十分過ぎるかと。
因みに付近の歴史はこげな感じ。
ウィキペディア - 鶴舞藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%88%9E%E8%97%A9
地図リンクは今回ナシで、最後にこれだけは言っておこう。深蒸しのほうじ茶は非常に旨い、ホントに旨い。
本日は以上です。
photograph - nee
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REPORT - 0414│ 折八地区 御弟子集落
山梨県│折八地区 御弟子集落跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 折門八坂地区 廃村 御弟子集落跡
※ 折門八坂地区の連続エントリーの関連レポートです
・富士山の麓の孤立した集落
35.505446,138.588215
この集落の取材の為に富士山麓まで足を伸ばした当日、最初に伺ったのは上暮地の石碑なる物件。
残念ながら準備不足の為に最後まで到達出来ず、此方は現在も調査中物件として今後追加レポートを投下したいと考えている。
んで本来の取材対象だったのは此方。
コッチの物件は無事取材を終える事が出来、また再訪して更なる追跡調査を行う予定。
そして今回の物件は言えば。
折八地区 御弟子集落跡
正式には折門八坂地区御弟子集落跡、廃村なのだけど無人化してからはまだ数年の新しい廃村だ。三ツ沢集落の取材の前に時間が空いたので後から訪問しようとしていた折門集落を先に周る事にした、それでは廃村「御弟子」のレポート始めましょう。
三ツ沢集落へ向う途中、沢集落の中程に「林道折八古関線」の支線が現れる。この舗装林道へ入るとお目当ての廃村御弟子へ向う事が出来る…のだけど。
実は2011年05月に発生した土砂崩れの所為で車の通行が非常に困難な状態と成った、取材当日は6月だったけどその時でさえ上部斜面から転がり落ちて来た岩が路上にゴロゴロしていた。
例え車だとしてもボーリングの玉より遥かに大きな岩が落ちて来たら無事では済まない、済まないのだけど…ここWR450辺りですっ飛ばしたいです。
車を走らせる事15分程、目的地の御弟子集落の入口に到着。その少し先に近年まで廃校好きにも愛された「古関小学校校折八分校」が校舎ごと残っていたのだけど2007年に取り壊されてしまいました。
三ツ沢のレポートでも書いたけどこの小学校の簡単な略歴を。
1877年 折門分教場設立
1889年 下九一色尋常小学校折門分教場と改称
1941年 下九一色国民学校折門分教場と改称
1947年 下九一色小学校折門分校と改称
1951年 下九一色小学校折八分校と改称
1954年 古関小学校校折八分校と改称
1973年 廃校
御弟子の道祖神、この地域の道祖神の石像には癖と言うかフォーマットが存在する様でどれも形が似ているのです。
道祖神の移動の看板が在りました。
そう、この御弟子集落。無人化して廃村に成ったのは2009年(※1)と最近の事、建造物が綺麗に残っている集落なんですがそれはこの様な理由から。
※1:取材当時としては「最近」でしたが現在では幾分その表現が正しくないかもしれません
集落入口、舗装林道の支線から更に下る細い道。
これ、結構有名ですよね。山深い集落跡に何故か大量の布切れの乱舞、この布の事を地元の方に聞くのをスッカリ忘れてしまって。
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
なパース。
ここから集落のスタートと成る、御弟子の集落は道路上に2軒、道路下に6軒の合計8軒が立ち並んでいた。総軒数はもう少し多く、倉庫や別棟なども含めると結構な家屋数(※2)だった。
※2:この集落は幾度かの衰退と繁栄を繰り返しており、ピークの総軒数が正確に記録されていません
同地区の方がたまに来て管理されているそうです、だから集落内はとても綺麗で人の気配がするんですよね。
この御弟子、地名に成っている”弟子”と言う言葉に焦点を当てるとちょっと面白い歴史を垣間見れる。
三ツ沢、八坂で製炭とは別の移住者によって始まった新たな産業「刀鍛冶」。この刀鍛冶のお弟子さんがこの地の開祖だと言う説が在りまして、似たり寄ったりの諸説仮説が沢山在るのだけど調べてみようかなぁ。
集落の最後尾、奥に向う程に自然に飲み込まれそうな雰囲気だった。
縦長の集落開始部分に戻り、下へ向う細い道へ降りてみた。
綺麗な竹林が姿を現す。この地域一体では製炭の山岳産業は確認されているけれど竹炭は記録に残っていない、これだけ立派な竹林が残っているのだから過去に産業しての記録が有っても良いと思うのだけれど…。
因みにこの竹林の斜面には幾つかの古道が残されていて現在では失われてしまった製炭釜場や加工小屋などに続いていたと聞く。
凄い斜面に作られた集落だった事が解る。
三ツ沢、八坂、そしてこの御弟子の集落。兎に角滋賀県の霊仙廃村群の集落跡と酷似している。同じ山岳集落で斜面にへばり付く様に形成され、主な産業や生活形態が似通う…場所も違うし形成時期も気候も違う。だけでもとても似ているのです、不思議。
御弟子集落、身延町の町歴にも沢山の事柄や資料が掲載されていて少し調べただけでも複雑な経緯を辿ったのだと解る。今回は三ツ沢がメインだったが次回はこの御弟子を含んだ上折門や下折門を同様に調査しても面白そうだ。
さて、この集落を後にして僕ら取材陣は三ツ沢へと向うのだけれども。
そのお話は既にエントリーした通りだ、夏に再訪する時にもう少し調査を進めて新たな発見に努めたい。
今回は以上です。
アプローチ
県道416号線から御弟子方面への支線に入ります、途中下方へ延びる細い道が見えますがその道が御弟子集落への入口です。
地図リンク
photograph - nee
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REPORT - 0415│東伊豆町隔離病舎
静岡県│東伊豆町隔離病舎
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 東伊豆町隔離病舎(伊豆隔離病棟/稲取隔離病棟)
心霊スポットとしても絶大な人気を誇る古い廃病院が伊豆に今でも残っている。随分古い建造物で地元民の間でも有名らしく、廃墟ブームが訪れる遥か以前より知られていた物件だと言う。
幾つかのサイトでこの場所の写真を見ていて直感した、こりゃー綺麗な写真が撮れそうだ…場所も直ぐに判明したので早速伺う事に。ゴールデンウィークで直上の国道は大混雑、しかし1本旧道を降りると時代に取り残され、自然の力に押し潰されそうな廃墟が眼前に現れました。
国道から旧道に下りる獣道が在り、10メートル程下るとこの病舎の入口部分に出ます。この病舎には沢山の俗称が在り、どれが正確な名称か解り辛いのですが1920年に稲取村が町制施行して稲取町と成ってからの地域の歴史を記した行政の資料を入手。
その資料にはこの病舎だけでなく付近の地理や歴史も詳細に記されていました、正式名称は「東伊豆町隔離病舎」だと判明。病舎の建設計画段階からどの様な経緯を辿ったかは少しづつお話して行きましょう。
この病舎には大きく分けて3棟の病舎とそれらを繋ぐ渡し廊下2本が在ります、竹林の斜面に別々に建造されていて主舎とされた中段の病舎から上段の個別隔離病舎までの階段廊下は現在倒壊しています。
写真は中段の主舎入口、この病棟では受付、診察室(検査室)、一般炊事室、一般病室などが機能していました、調薬室も在りましたが上段の個別隔離病舎までの階段廊下が崩壊した時に一緒に倒壊した様です。
中段主舎入口の内部から外側を、自然崩壊が進む中で今だ沢山の残留物が。暗いが中央には消毒用の洗面器が置かれていた。
因みに当時の隔離型の病舎では外部から(又は内部から)の服や靴なども相互出入りが禁止されていて(病舎全体の消毒能力や管理技術が今ほど確立していなかったので)この場所で靴は強制的に脱がされ、別室で服も着替えさせられたとの事。
主舎の病室、入口から数室の個室病室が用意されている。この隔離病舎の中でも比較的経度の病人が入院していた、隔離レベルの低い人が主舎で治療を受けていた様だ。
入口から左側最奥部、ここには複数のベッドが置かれ一般病室として機能していた。
よくこの病舎を戦前からの施設だと書かれたサイトを見かけるがこの病舎が運営を開始したのが1958年、実は意外と新しい近年の隔離病舎なのだ。この病舎が町営だった事もあり、翌年の稲取町と城東村合併による東伊豆町営を見越しての実験的な隔離病舎だった事も時代背景から解るだろう。
残されたベッドは2台、多い時は4~6台のベッドが置かれていたと記録に在る。しかしこの部屋にベッド6台は少し狭い気もする、1958年から運営されていた訳だけどベッドが旧式の物で予算的に厳しい病舎だったのだろうか…。
崩落した階段廊下を迂回して竹林の斜面を登ると最上段に個別隔離病舎が在った、この病舎は主舎と違い完全に隔離された個室のみの病舎で炊事室も別途用意されている。
ところで毎度の事ながら脳味噌が耳から垂れ洩れている心霊さん達のブログなどのエントリー内容が酷過ぎる。
・軍服を着た男が医師と話しているのが見える
・天然痘に冒された病人の苦しむ姿がアチコチに…
・伊豆大島近海地震で倒壊に巻き込まれた人が泣いている
はぁ…
施設の運営開始は終戦した1945年から10年以上経過した1958年、終戦後に軍を持たない日本に軍服に身を包んだ人間がなぜこの場所へ?天然痘はね、国内では自発発生は1955年で最後ってのは学校でも習う事だろうに。因みに伊豆大島近海地震は1978年、この病舎は1982に統廃合によって運営廃止の病舎。後は解るな…?
まあ心霊さんってのはまともに義務教育も受けなかった人達だから文字も読めないだろうし歴史を調べられないのは仕方の無い事なのかなぁ、
あそこに霊が見えます(キリッ
とか。正気の沙汰とは思えん。隔離されるべきはこの手の人達だと思うのだけど…。
当時の雑誌に混ざって近年のエロ本さんが、誰が何の為に…?
主舎、個別隔離病舎と見て周り、最後に下段の病舎に向う。
この病舎は詳細が記されておらず、また棟内も崩壊が進んでいてどの様な使用がされたのかが不明でした。正式な病棟名も残されておらず、ネット上で調べても判明せず。
中を見て周ると病舎っぽくないので事務室や書類管理室などに使用されたのかも、どちらにせよ病室と言うより病舎関係者の為の棟の様な気がするのだけど、うーむ。
さて、最後にこの東伊豆町隔離病舎の歴史をまとめようか。
東伊豆町隔離病舎
1957年から稲取町と城東村の合併への動きが本格化して1959年に合併が決定、予定通りに合併して東伊豆町がスタートする。
合併前に既に隔離病舎の計画を稲取町がしており、事実上稲取町が町営として合併前年と成る1958年に病舎の運営を開始。翌年1959年からは東伊豆町営として本格的な隔離病舎としての機能が始まる。
結核患者を主要とした感染症患者の隔離病舎で初期症状から中期症状の患者が大半を占めていた、末期患者は別に収容された施設が在り、ここでの治療は回復施術や投薬治療が行なわれていたとの事。
1978年に伊豆大島近海地震が発生、旧道、国道135号線共にこの病舎と連結していた舗装道路が分断。しかしこの病舎へは別のルートも確保されていた為に本来のアクセスルートを介さずに1982年までは運営がされていた。
と言っても地震発生の翌年の1979年には殆どの業務が終了していた様で実質は地震の翌年には病舎としての役目は終了、患者さんは町営管理病舎から近代病院へ移送され1982年には町営管轄が終了。現在土地の主有権は行政と成っていますが解体の為のルート確保や(旧道は地震以降崩落して分断された間々)予算の算出の問題で放置された状態で残っています。
主舎から個別隔離病舎への廊下階段は地震での崩壊では無い様で正確な時期は解りませんが1984年以降の台風などの影響で小規模な土砂崩れが発生して崩落した様です、この辺の資料は出て来ませんでした。
現在の国道135号線から旧道を見下ろす、通常の手段では行く事が出来なくなってしまった廃病舎はこの間々朽ちていくのか、それとも行政の手によって解体されるのか。どちらにせよそう遠くない内に見る事が出来なくなるだろうと言う事は解ります、個人的にとても撮影意欲掻き立てる物件でした。
周囲の廃道も気に成るので再訪するかもしれません。
アプローチ
国道135号線、トモロ岬方面へ南下すると友路トンネルを出て直ぐの脇に駐車スペースが在ります。その駐車スペース脇から下方へ降りる獣道が在るので降りれば病舎入口付近に出る事が出来ます。
地図リンク
http://goo.gl/maps/AUD0O
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REPORT - 0416│乾坤山 鋸山採石場
千葉県 │ 乾坤山 鋸山採石場
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 乾坤山 鋸山採石場跡(鋸山石切場跡)
千葉県に住んでる方なら絶対知っている山が在る、その名を「鋸山」。標高は329.4m、建築などの資材として適している凝灰岩を江戸時代から採石し、房州石と呼ばれ一時代を築く。採石当時は今とは別の名前(正式名称である乾坤山)で呼ばれていたが盛んに採石された結果、露出した山肌の岩が鋸の歯状に見える事からこの名で呼ばれる様に成ったと言う。
僕の大好きだった東京湾要塞「第二海堡」建築にもこの房州石が使用されている、有名どころでは靖国神社にも使用されていて全国的にもかなり有名な様だ。
で、今回。
何度も登っているし回数を忘れるほど訪れているこの鋸山において余り知られていない場所をご紹介したいと思う、その場所はこの鋸山を語る上では絶対に避けては通れない「石切り場」そのものなのだから。
鋸山の石切り場跡として紹介される場所は「地獄のぞき」で有名な百尺観音付近だ、千葉県民ではなくともアチコチのブログなどで紹介されている。
しかし。
そう、しかし。ここじゃないんだ、本当の石切り場跡はもっと下の方に存在する。余り人が通らない場所にひっそりと、だけれども今だシッカリとその場所は残っている。夏場に行く馬鹿は滅多に居ないその場所へ、夏場なのに行く馬鹿がそこに居た。
日本寺の拝観料600円を払って境内敷地内へ、山頂部一帯はこの日本寺が擁している。地獄のぞきや百尺観音、千五百羅漢など見所が沢山有るのだが今回は石切り場へ直接向う。
採石は1986年まで続いていたがピークは大正中期まで、現在は全く手が付けられて居ないので秋~冬に「鋸山アドベンチャーコース」を歩く登山客が通り掛かる程度。
途中二手に別れ、上部へは地獄のぞき。こちらの下部には百尺観音が聳えている。
こちらが百尺観音、デカイ。石丸電気より雰囲気的にデカイ。
さあ、もう後戻りは出来ない。一度だけ後を振り向く、やっぱり帰ろうかなぁ…。薮漕ぎ嫌だよう。
無人の管理棟を抜け、いざ登山コースへ。この登山コース、一般的に知られている道でさえ適当な整備状況なのですが知る人ぞ知る採石当時の職人道なる物が数本存在します。もう獣道どころか道筋さえ残っていない状況ですが機会が在ればご紹介したいと思います、今回は取り敢えず石切り場へ直接向いましょう。
正規の登山コースから石切り場へ向う獣道へ、通常この場所へ夏場は行かない。その理由は後々解るのだけど…この場所は旧道で切り通しに成っている。鋸山には何箇所かこの様な切り通しが存在している、しかしやはり夏場は蒸し蒸ししてます。
更に進むと薮漕ぎ+急斜面の獣道が顔を出します、山屋さんにはちょろい道だけどブッシュが酷くて進むのが面倒な場所です。そして良く滑る。
そろそろ道が解らなく成ってきます、蜘蛛とヒルのエンカウント率は急上昇。ビール呑みたい。
湿度が。湿度が。
コマメに拭かないと直ぐ曇る。湿度が。
お久し振りです。
やっとこ着いた、冬場なら楽勝なコースなのに茂ると難易度上がるなチクショウ。
縦構図。
うーん、ブッシュもじゃもじゃの時期に来たのは初めてだけどこりゃ迫力有るわ。こういう遺構は盛緑の時期に限るなぁ、写真映えも随分と良いや。
口を開けて見上げます、心のゲージが揺れますな。
帰路面倒:□□■■■│■■□□□:風景素敵
降りてみます、まあ何度も来た場所なので特に撮る物もないのだけど。
見上げると随分と陽が昇った事に気付く、時計の針は9時過ぎを指す。
1時間前に通った切り通しを再度通過して本来の登山コースに戻ります、久し振りに来たけどなんか草茫々具合が随分と進みましたねぇ。
今度からはW90(※1)が活躍しそうですわ、バッテリーグリップ着けたデジ一(※2)じゃ気に成って歩き辛いです。
※1:当時のOptioシリーズ最新機種、2014年現在では後継機を経てWG-3に成りました。GoProシリーズも素敵。
※2:当時と言うか今もですが基本へタレの為現場にはD300などの壊れても良い散歩カメラで挑んでおります、仕事用のデジ一はおっかなくて無理。でもバッテリーグリップは着けるんですの、うふふ。
さて今回紹介した場所は実はトレッキングコースとして名が残る登山道です、俗に言う鋸山下山コースですね。行程はちょろいです、特別な靴や服装は要らない素人さん大歓迎な道ですが夏場はブッシュに阻まれてルート選択を誤ると若干面倒な事に。
なので初めて行く方は道順を知っている方と同行するか事前にシッカリと調査してから行かれる事をオススメします、メジャーな観光地ではないですがオフシーズンにご年配の方がトレッキングを楽しまれる事も有るので興味の有る方は是非訪問してみて下さい。
10年振りの石切り場、やっぱり素敵でした。
アプローチ
ロープウェイと自動車専用道(鋸山登山自動車道)、裏手中腹部駐車場から徒歩にて向う3つのアプローチルートが在ります。一般的には自動車専用道が楽、他にもオススメ出来ない登山道や獣道からのルートも在りますの。この場所までは国道127号線にて、入口は上記の様に数箇所在りますので各自お好きなルートを選択して下さい。
地図リンク
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REPORT - 0417│神の住む家
岐阜県│神の住む家
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 神の住む家(旧大家邸)
とある有名物件が在る、何故か正式名称を語るのはウェブ上でタブーに成っているが今回は便宜上の「S診療所」で話を進めよう。ってかまあこの後の話の流れで「S」が何なのかは容易に想像出来る筈です、因みに次回はその「S診療所」ですよ。
さて、その有名物件とよく一緒に紹介される「ついで物件」が今回のレポートだ。特徴的なのは何故か仰々しい名前で呼ばれている、その名も「神の住む家」と。うーん、なんで?
何故そう呼ばれる様に成ったか、まあ調べた結果意外と理に適っていて関心はしたのだけどちょっと解釈に問題があるかなぁ…語り尽くされた感は在るけれど個人的にとても気にってた物件なのでほんの少しだけ掘り下げてみたいと思います、それでは「神の住む家」のレポートを。
岐阜県は広い、名所から無名の景勝地などを多く擁する自然が豊かな県なのだ。名神高速道路から東海北陸自動車道に入り、初めて通るインターで降りた。美濃IC、何か特産物が在るわけでは無いけれど大きな神社が在る事で地元では有名なのだと言う。今回はその神社を目指して車を走らせた、暫くすると成る程…とっても大きな神社「洲原神社」が見えてきた。
この広大な洲原神社の敷地内にその廃墟は在ると言う、何故か「神の住む家」と呼ばれていて直ぐ近くの「S診療所」のついで物件として多く取り上げられていると言うのだ。個人的に全く興味を惹かれない物件だったけれど歴史にちょっとだけ引っかかるモノが在った。気に成る位なら行ってしまうかって感じで今回お邪魔させて頂いた、当日は洲原神社の関係者さんにも協力してもらって色々とお話を聞く事も出来たのだけれど色々と整合性が取れない状況なのでその辺は追加調査(※1)のレポート一緒に報告したいと思う、まずはどんな所なのかを見て頂こう。
※1:この廃墟の持ち主、つまりご家族からお話をお聞きしました。
洲原神社の裏手と成る長良川の土手沿いに旧道が残っている、これは洲原神社から裏手に広がる集落への生活道路だった名残の旧道で今でも神社関係の催し物などで使用される。また地元の方の散歩道としても神社へ抜け道としても時々使用される様だ。
この旧道沿い、神社裏手直ぐの場所にこの廃屋は在った。
入口からパっと見る限り普通の家屋廃墟で特に珍しい事も無い様だ、納屋などは倒壊しかけていて母屋の中も相当在らされている様子が外からでも解る。この物件は近年に成ってから特定された廃墟らしく祭りで大量の人間が押し寄せてカナリ内部を荒らされたのだと後から知った、つまり廃墟としても殆ど終わってしまった物件という事だ。
玄関口、ウェブでも見たプレートが確認出来る。どうやらこのプレートの名前と洲原神社を開いた人物の名前が一部一致した所から色々と推測されたらしいのだけど…。お隣の洲原神社は歴史が大変古い神社で開いたのは神職三神安角の二男「泰澄」と言う人物。
泰澄 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%b3%b0%e6%be%84
修験道 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e4%bf%ae%e9%a8%93%e9%81%93
この人物の「泰」と神に住む家の家主とされる人物名の一部「泰」が同じ事から泰澄の直系神主がここに住んでいたのだと推測がされた、しかし人物名で頻繁に使用される漢字だし人名漢字としても常用範囲。また過去の偉人から一字譲り受けるのは神道でなくても普通に行われている命名方法だ、結論から言うと直系ではない。
そもそもこの神社の歴代神主の歴史は数度途切れている、それはこの洲原神社の歴史や公開されている関連資料を見ると解るだろう。しかしこの廃屋の家主が神主(もしくは関係者)だった事は本当の様だ、関連資料は入手出来なかったけど現地で地元の方(※2)からお話を聞く事が出来、ほぼ確定の内容だった。
※2:神社関係者とは別にS神社へ同行して頂いた現地の方、この廃墟にも同行して頂きました。
内部は大分荒らされていた(経年による劣化ではなくて人の手による破壊行為)、管理物件ならば(洲原神社の関係者ならば尚の事)何故この物件を放置しているのか疑問に思った。荒らされ放題で手入れも皆無、廃墟さんや心霊さんのアタックも許容している様な証言も取れた。
んー、気に成るな。
土地の管理地図(※3)を見ると驚く事にこの廃屋は神社の敷地内で在る事、旧住所の番地はふられているものの現在の住所の番地は未登録状態。仮にこの廃屋に郵便物を届けると成ると旧住所で送るか現在の住所なら洲原神社宛てに成る、って事はやはり洲原神社が管理してる…の…?
※3:行政管理で一般公開されている管理土地資料を参照
洲原神社の現神主さんにお話を聞こうと思ったら…あらら。なんと州原神社には常駐の神主さんが居ない(※4)ではないか。しかも常駐している関係者さえも社務所での電話対応を基本として本来の洲原神社関係者では無い…これでは困ってしまうなぁ。
※4:当日は付近に住む関係者さんに連絡を取って頂いたお陰で同行して頂きました
そもそもこの洲原神社って何か複雑な経緯とか歴史が混ざって現在に到ってる、これはどうやら廃屋より神社の歴史を紐解いた方が面白そうだ。が、それはまたの機会に。今回はあくまで「神の住む家」に関連する事を優先して調べよう。
廃墟の美しさは全く…なので撮影枚数は全部で10枚を切っている。撮影意欲は限りなくゼロに近い、外に出るとアチコチのサイトで紹介されている石碑が佇んでいた。
何処のフォントだよ…読めない。確かに「神入××」(※5)とは読めるけどなぁ…。
※5:書道家さんと宗教関係者さんに写真を見てもらい、内容を把握。追加調査で報告致します。
有名な「チーム廃墟」さんのレポートでこんな一文が在った、
庭先の石碑にあった「神入」という文字は、この家の主が天に召されたことと、死後神になるという特別な存在であったことを意味している。
これの詳細が知りたかった、神道の用語辞典にもこの「神入」と言葉が掲載されていない。どうやってこの言葉の意味を知ったのか、神社だから神道(洲原神社の場合は祖霊崇拝)で合ってる筈なのだけどなぁ。
確かに神道には「神」の定義の解釈に以下の様な物がある。
「人間も死後神になるという考え方があり、社会的に突出した人物や、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物」
これが「神入」?という言葉に相当するのだろうか、後日もう少し調べてみよう。
廃屋内部には戦争と随分と関わりの多かったであろう資料が過去に沢山残っていた、戦争と神社と言えば靖国神社を思い浮かべる人が多いと思うのだけどこの神社の鳥居が「靖国鳥居」なのがちょっとだけ気に成った。まあでも靖国鳥居は「神明鳥居」の鳥居造形だから特に関わりは無さそう、そもそも歴史が違うしなぁ。
因みに洲原神社の境内(舞台殿)には旧陸軍歩兵図が残っていて日清戦争や日露戦争に関する資料も残されています、この辺と廃屋の中に残された資料が関係してるのだろう。
調査した内容を考えると「神の住む家」って俗称はちょっと違うかなぁと、常駐の神主だったであろうこの廃屋の家主。今で言えば洲原神社宮司なのだけどその関係性は十分証拠として残っていた、だけど神道の解釈から言っても「神」が住む家ではない。
神道において死後の時間や場所、そもそも空間の概念は無い。神とは「住む」様な安易な存在ではなく、崇拝によって「感じ」る存在だ。結果として言えば神社の関係者が住んでいたただの廃屋、これが答えだろう。
正直「神の住む家」は大して興味は最初から無くて事前調査で洲原神社に興味を持ってしまっていた、此方は掘り下げると結構面白い話も出てきて地域信仰に根付いた農業の神社として沢山の資料が残されている。
それが何故戦争と深く関わる事に成ったのか、歴史の途切れた神社の運営形態、この地域一体の命名理由と成った「洲原」の語源など気に成る事は満載だ。
幾つかの参考サイトのURLを記載するので覗いてみてほしい。
神社探訪 - 洲原神社
http://8.pro.tok2.com/~tetsuyosie/gifu/minosi/suhara/suhara.html
シリーズ田舎探訪 - 正一位洲原神社
http://www.windsnet.ne.jp/inaka/090615/inaka.html
この物件、ウェブ上では「S診療所」と一緒に紹介されている事が多いのだけれどどうにも胡散臭い噂や憶測、思い込みで説明されている事が多い。また説明に必ず「ある神社の神主で神社を開いた僧の直系で…云々」が記載されている、もう一度言うけど直系じゃないよ家主は。
まあでも普通に調べても結局解らなかったのだけどさ…幾分悔しいがその後の調査(帰宅後の机上調査と電話調査)も含めてレポートをまとめよう。
美濃市は1945年にこの物件を擁する洲原村を含めた一町六村が合併して誕生した、美濃市には旧洲原村の詳細な村歴は残されておらず近年史が残るばかり。
行政の協力も得る事が出来たのだけど結局現職の職員さんや残された資料では詳細が判明せずに洲原神社さんをご紹介して頂いた、洲原神社はこの「神の住む家」の同敷地内に有る洲原の長い歴史を語る神社。
現在社務所で神社の一連の業務をされている宮司の跡部さんにお話を聞く事が出来た、しかし元々はこの土地の出ではなくその詳細を知る事は出来なかった。
解った事と言えば、洲原神社を開いた人物の系譜だ。
洲原神社には直系から分かれた3分家が存在する、その3分家はそれぞれが既に美濃市洲原を離れて生活している。3分家最後の関係者が「神の住む家」の家主だった事は今回の調査と洲原神社さんの協力で確認出来た、実はその後関係者さんやご家族の連絡先も解ったのだけどこれ以上は相手方のプライベートを裂いてまで知る内容ではないと判断。
この廃屋の家主は3分家の末裔では有るけど直系ではない、そしてその3分家も現在では洲原を離れていてこの地で詳細な歴史を知るものは殆ど居ない様だ。
この次にエントリーする「S診療所」でも最後尾にて再度この件について語ろう、ご協力頂いた岐阜県美濃市総務部総合政策課さん、洲原神社宮司の跡部さん、地元の方には再度感謝の気持ちを。
本当に有難う御座いました。
最後にどうでも良い話。
ここを探す過程でどうしても気に成るのが地図上でもウェブ上でも頻繁に出てくる「ブッポウソウ繁殖地」という言葉、ブッポウソウってどんな植物なのよ…と思ったら。
ウィキペディア - ブッポウソウ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%83%96%e3%83%83%e3%83%9d%e3%82%a6%e3%82%bd%e3%82%a6
可愛いじゃねぇかブッポウソウ、しかも漢字で書くと「仏法僧」?うおーっカッコイー…って鳴き声の主を勘違いしての命名…だと…。
(゚Д゚)ハァ?
次回は洲は…S診療所です。
アプローチ
東海北陸自動車道は美濃ICを降りて国道156号線を北上、長良川鉄道と長良川に挟まれた洲原駅から直ぐに洲原神社が在る。洲原神社の裏手に細い旧道が在り、神社裏手最初の廃屋が「神の住む家」と成ります。
地図リンク
http://goo.gl/maps/fOzRq
photograph - nee
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REPORT - 0418│洲原村診療所
岐阜県│洲原村診療所(S診療所)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 洲原村診療所(S診療所/健全ナル国民ノ診療所)
前回のエントリーで「神の住む家」と「洲原神社」を簡単にレポートさせて貰ったのだけど岐阜県の物件としてはこの廃屋をメインに据えてやって来た、「S診療所」や「健全ナル国民ノ診療所」と呼ばれ長い事廃墟さんを魅了し続けた医療系廃屋「洲原村診療所」をご紹介したいと思う。
実はこの物件を調べるにあたり、歴史を探ろうとこの土地の所有権や設置時期、どうして廃業したのかなどを調査した。申し訳ない、本当に解らない。実は所有者は解った、この診療所が業務を行っていた当時のだけど…しかし現在は誰が所有しているのかなどが机上調査では判明しなかった。
現地での聞き込みを行ったのだけど詳細を語って頂ける方と出会う事は無かった。有名なのに、沢山の廃墟さんが訪れているのに、膨大な残留物が在るのに、何故かその詳細が解らない。
美濃市は1945年に洲原村を含めた一町六村が合併して誕生した、「合併前の町村に関する内容については資料がとても少なくてそれ以前の様子を調査するのは非常に困難」とお答え頂いたのは岐阜県美濃市総務部総合政策課の方。つまりは行政側でもこの物件どころか付近の歴史を把握出来ておらず、その詳細を調べる事は難しい様だ。
洲原神社同様、この物件も何れ追跡調査の結果をお知らせしたい。
この診療所は明治時代に設置され、昭和30年代までは稼動していたと思われる。それは郵便物や残された書籍、地域の聞き込みによって判明してるのだけど詳細な年月日までは解らなかった。
一部の廃墟さんの間ではヒッソリと人気が在り、2006年頃から特定される事が増え、「神の住む家」と同時期にネット上の「祭り」で随分と荒されてしまった。本来なら場所や正式名称を伏せるべきなのかもしれないけど完全に廃墟コンテンツとして終了しているので当レポートでは明記した。
因みにこの診療所は洲原神社や神の住む家などとは全く関係がない単一物件だ、それでは久し振りに設定弄りまくりでジックリと撮影した診療所のレポートを始めよう。
入口からしてもうこんなん、夏場ならもじゃもじゃブッシュで何処だか解らんく成るな。場所は洲原神社裏手から旧道を歩き、「神の住む家」を左手に通り過ぎて1分程の距離。右側に獣道が見えるのでソコへ入るとこの場所と成る。
まあ屋根がちょこんとブッシュの間から覗いているからそこまで探すのに手間は掛からないと思う。
っじゃまっしゃーす。
ああ、ココだ。ココだよ、ずっと来たかった洲原村診療所。やっとこそのお姿を見る事が適ったんだ、うひょー血圧上がって来た。だれか救急車呼んでーっ。
…などと騒いでいたところ、横に控えていた秘書の女性から鎮静剤を注射され、おとなしくなった。
※ 2014年現在、この受付などのガラス窓が持ち去られて無くなってしまいました。
こりゃーアンタ…美しいじゃねぇですか、それと反射で僕が写ってるのは内緒です。
廃墟系サイトでは昭和初期とか戦前とかその辺から廃墟に成ってたとか書いて在る、土地の所有者を調べた時に解った土地管理記録だと昭和30年代~40年代前半までは管理されていた事が解る。何故明確でないかと言えばその時期の記録が前後して確認出来ない部分が在るからだ、机上調査を照らし合わせても昭和42年の時点ではまだ管理の手が入っていた。
※ 2014年現在、内部の医療機器が持ち去られて無くなってしまいました。椅子も壊れてしまった様です。
狭い空間に沢山の残留物が在る、それらの中に時代を特定させる物も多い。薬品箱に書かれた旧製品名(意外と現在でも名前だけ変えて成分は殆ど変わらない薬剤が在ったりする)、新聞、雑誌、小説本など。見た限りだと新聞は古い物で昭和13年の物を発見、雑誌は昭和22年、本は昭和10年、その他にカレンダーや診療記録などが残っていた。
診療記録も昭和10年代で終わっているがその後の物も在ると聞く、一体いつ廃墟に成ったのか…。恐らく廃業時期と管理放棄時期には開きが在る筈だ、廃屋化してからも暫くは管理されていたのだろう。
※ 2014年現在、内部の書籍や関連資料が持ち去られて無くなってしまいました。
あれれ、幾つか見たネット上の写真と配置が違う…しかも薬品棚の中の薬も随分と減ってる(※1)…?海外で生活していた時にちょいと薬学を齧った頃が在った、放浪前の学生時代だ。そんな記憶を辿って薬品名を見ると…うわっ今でもちょっと危ないなぁって物が残ってる。有名どころでは覚醒剤の一種、こんなもん残しておいてイイのか。
針やらメスやらこの部屋は結構おっかないなぁ。
※1:殆どの薬品が持ち去られた様です、薬品に関する窃盗なので地元警察が現地調査を行いました。
2階に上がって来た、倒壊が進んでいると聞いていたので慎重に傾いた階段を登る。なんだかこの辺から屋内と外の隔たりが曖昧に成ってくる、裏手はもう壁が崩れ落ちて(※2)いた。
※2:2階部分の半分が倒壊しました、現在は全壊の恐れが有る為2階へは上がれなく成っています。
おおぅ、美しいな。
うーん、どうにも誰かのディレクションの匂いがするぜぃ。アチコチに都合良く配置された椅子や残留物が撮影する時のフレームインに対してスンナリと行き過ぎる、まあ撮る方としては助かるけどその間々の配置にしておいて欲しいなぁ。
( ゚д゚)
落ちてた、半分以上が崩落してる。ここももう直ぐ崩れ落ちるんだなぁ(※3)…因みに「健全ナル国民ノ診療所」はまだ残っていました(※4)、紙の劣化も進んでいたのだけど。
※3:崩落しました、現在裏手が半壊状態と成っており大変危険な状態です。
※4:人の手によって持ち去られてしまいました、薬品や資料・器具などと一緒に持ち去った人物は同一の様で一時期特定しようとする動きがウェブ上で垣間見れました。
以前はまだ壁や窓が在った筈だったんだなぁ。
一通り撮影してこの廃墟を後にする、廃病院は幾つか周ったけど美しさはずば抜けていた廃墟でした。心残りなのは現地で有力な情報を入手出来なかった事、机上調査じゃどうしても限界が在るし。2度と行く事はないと思うけどスッキリしないからもう少し詳しく調査して必ず詳細ををお伝えしたいと思う、しかし岐阜は遠かった。
最後にもう一度レポート結果を。
今回のレポートは地元の方の聞き込みを始め、実に多くの方の協力を得る事が出来た。まずは岐阜県美濃市総務部総合政策課さん、数度に渡る情報提供をして下さったが公開出来る内容は最初の導入部分の、
「合併前の町村に関する内容については資料がとても少なくてそれ以前の様子を調査するのは非常に困難」
が全て。
1945年に洲原村を含めた一町六村が合併して誕生した美濃市、それぞれの村の歴史がとても古く、行政側では町歴、村歴を含めてそれ以前の詳細な資料を持っていないのだと言う。今回の物件「洲原村診療所」と「神の住む家」、その両方が旧洲原村だ、その洲原村の歴史が実は近年史しか残されていない事が判明…今後も追加情報は難しい状況だ。
美濃市からの紹介で次にお世話に成ったのがなんと洲原神社、社務所に電話すると宮司の跡部さんと言う方がこれまた親切に色々と教えてくれたのだが…
「自分はこの土地の者ではないので越して来た以前の町の様子や歴史は詳しくは解らない、神社裏手の診療所に関しても存在の把握はしているが詳細は知らない。神社敷地内の廃屋(物件名:神の住む家)の家主は確かに洲原神社の関係者、しかし現在は亡くなられ親族に関しても自分は詳しく知る立場ではない。」
との事。
ここからは「神の住む家」エントリー最後尾の内容と同じ(コピペ)だが再度記載しようか。
洲原神社には直系から分かれた3分家が存在する、その3分家はそれぞれが既に美濃市洲原を離れて生活している。3分家最後の関係者が「神の住む家」の家主だった事は今回の調査と洲原神社さんの協力で確認出来た、実はその後関係者さんやご家族の連絡先も解ったのだけどこれ以上は相手方のプライベートを裂いてまで知る内容ではないと判断。
と、言う事でこの2つの物件に関して当ブログでは珍しくその詳細を把握出来なかった不完全燃焼なレポートと成ってしまった事をお詫びしよう。
しかし諦めた訳ではない。
ヒッソリととある大学の地域民俗学の教授さんにコンタクト、ついでに美濃市の地元紙(新聞社)の協力を要請。僕は仕事しないで国立図書館へ、出来ればこのエントリーが錆び付かない段階で追加の情報を投下したいと思っています。
期待せずに待たれよ。
アプローチ
東海北陸自動車道は美濃ICを降りて国道156号線を北上、長良川鉄道と長良川に挟まれた洲原駅から直ぐに洲原神社が在る。洲原神社の裏手に細い旧道が在り、神社裏手最初の廃屋が「神の住む家」。その間々旧道を1分も歩けば右側に「洲原村診療所」が見えます。
地図リンク
http://goo.gl/maps/tEwVd
photograph - nee
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REPORT - 0419│足尾小学校神子内分校
栃木県 │ 神子内小学校(足尾小学校神子内分校)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 神子内小学校
足尾銅山の関連遺構群から目と鼻の先なのに全く取り上げられない物件が在る、日光から足尾を結ぶ国道122号線沿いにひっそりと残る廃校「神子内(みこうち)小学校」を紹介したいと思う。
この学校はとても歴史の古い学校なのですが何度も起こった洪水の所為で校舎をその都度建替えてきました、この学校が安住の地として付近より高台に建設されたのが昭和中期。しかし折角手に入れた定住地も足尾銅山の閉山に伴い現在では休校扱い、この辺の詳しい歴史は何時も通り最後に記載したいと思います。
廃校ではなくて休校扱いの物件、だけども2度と復校する事の無い「神子内小学校」をご覧下さい。
近年、恐らくは2007年位までは内部に残留物は殆ど無くて綺麗に保存されていました。時折行われる区域内での催し物や集会で使用されては居た様だけど管理物件として地元住民に大切に保存されていました。
教室内もとても綺麗です。
しかしここ数年、地元住民とは全く関係ない自称[禁止事項です]な人達が…おっとこれ以上は。
因みに地元の方に後日聞き込みをした所「なんやら良く解らん事をやっていて大変迷惑した」とか「段取りも片付けも現地任せで勘弁してもらいたい」とか…結構愚痴の多い内容でした、これはあくまで現地からの情報で内容に責任は持てないので悪しからず、です。
一番写真栄えする校舎中央の教室、概観を含めてまだまだ使用出来そうな校舎ですねぇ。この学校の卒業生の中にはやはり復校を望む方達も居る様で現地に足を運ばれる事も在る様です。
狭い廊下には沢山の催し物の残留物が、出来る限り写らない様に撮影してもどうしても入り込むですよ。裏手は山の斜面、夏場は熊も出没するそうで学校の敷地内で発見された事も在るのだとか。
昇降口左側の部屋、教室…じゃないよなぁ…。札を撮ってくるのを忘れてしまった為に各部屋の役割が解らずジマイです、申し訳ない。
と、まあ小さな校舎な物でこの位しかお見せする写真がないのです。しかし綺麗なんですよ、この学校校舎。特に夏場はもう緑に囲まれてホント美しい、概観だけでもオススメ出来る物件なのです。
神子内小学校
神子内小学校は創立が1875年に足尾小学校の分校として設置されました、当時足尾銅山の労働者達が近隣に増えて行き、人口増加に伴って分校としての歴史をスタートさせます。当時は「足尾小学校神子内分校」と呼ばれ、1911年には76名の児童を抱える最盛期を迎えます。
道路を挟んだ神子内川の氾濫洪水の為に幾度と無く校舎の移動を余儀無くされ、1958年に現在の高台に移設されるまで自然の脅威と隣り合わせの学び舎だった様です。
1916年の児童数60名から以降、次第にその数は減り続け銅山閉鎖もその減少に拍車を掛けました。1984年、児童数4名を残す形で休校。以降は廃校にも成らず、休校扱いで現在でも校舎が残されています、歴史としては109年を数え、決して多くは無い児童数では在った様ですが地元民から愛された学校だったと記録に記されています。
敷地内には教員用の臨時宿舎も残されています、遊具も少ないですが幾つか残っていますが錆びだらけの状態…廃校の雰囲気を纏っていますが今後も「休校」扱いとして地元の方達に管理されて行くのでしょう。
※ 内部見学は行政・自治体の許可が必要です、通常は施錠されているので概観のみの見学と成ります。
最初のエントリーは2011年4月、とは言っても豪雪地帯の日光やら足尾ですから景色は丸っと枯葉模様。その後同年の夏季に再訪して通り掛けの撮影、丁度お祭りの準備をしていました。
月日は流れて3年後、2014年の5月半ばでしたが新緑とヤマツツジに彩られとても綺麗でした。
盛緑の深いグリーンも良いけれど新緑の青臭いグリーンもまた良いもの也、そしてヤマツツジが本当に映えるのですよ。
アプローチ
国道122号線沿い、最寄り駅は間藤駅。最寄り駅側からだと日光方面へ向い、右手に足商生コンクリートを見て過ぎ直ぐ。左側に高台へ登る枝道が在るので登りきった所で車を止めると良いでしょう、国道からは意外と見つけ辛い位置に在ります。
地図リンク
http://goo.gl/maps/qaujQ
photograph - nee
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REPORT - 0420│松原リゾートマンション
静岡県│松原マンション(鉄骨マンション)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 松原マンション(鉄骨マンション)
割橋、それは危険だけど少年の頃の木登りにワクワクした童心を蘇らせる魅惑の遊戯。僕と山の相棒で遊んでいる割橋の候補地としても挙がっていた伊豆の大型廃墟が在る。長い間山中に鉄骨が剥き出しの間々放置されている事から「鉄骨マンション」と呼ばれ、廃墟としてはイマイチだけど割橋としては最高の物件が伊豆に在る事は以前より知ってはいた。
しかし廃墟の魅力を余り感じなかった事から随分と時間が経過し、残念な事に2007年には鉄骨部分が解体されてしまった。丁度伊豆方面に廃線歩行と他の物件の撮影で出掛ける予定が入ったのでついでに行くか…と撮影候補に追加、くねくねと細い住宅街を抜けて高低差の少ない峠に差し掛かった時、この廃墟は顔を見せた。
ウェブ上にもチラホラとレポートやら撮影された写真やらが散見出来るこの物件、皆さん通称で呼ばれているので正式名称をお伝えしましょう(※1)か。
※1:エントリー公開時点では行政問い合わせの記録も無く、初の名称公開でした。
松原リゾートマンション
静岡県内の不動産業者が1980年代前半に企画して建設を開始した山中に聳える高層リゾートマンション、建設当時既に分譲と賃貸の募集が行なわれていた様で開発中止後は購入者(契約者)とトラブルに成ったとの情報も在る。
残されているマンションの廃墟は2棟だが建設当初の計画書にはこの土地を含め、数棟の高層マンションの建設が予定されていた。結局道路側の駐車場を含む2棟が先行着手され、基礎部分・1階部分・2階部分が建築された。基礎部分から延びる鉄骨は計画当初14階が予定されていたが後に12階へ変更された様だ、現在残されているこの区域の建築資料が何分少なく、また別々のルートで探した混ざり混ざり情報で一体どれが正確な計画書なのかも正直良く解らないのであくまで参考程度に。
※ これらの情報も県内の不動産業者から得た物で恐らくは正しい内容と思われます
バブル期の構想だけ在って結構ずさんな建築計画がこの区域一体に広がっていたらしく、この他にも似通ったリゾートマンションが計画されていた様だ。
工事は1年弱で中止し、現在に到るまで30年間程を皆さんが知る状態で廃墟化して残されたのだけど2007年、急に鉄骨部分の解体が開始。あっとい言う間に2階部分までの状態へ、夏場に見る事が出来た山中にポツンと聳える鉄骨建造物は見る事が叶わない状態に成ってしまった。
解体業者は解ったのだけど建設時の業者とは全く関係なく、その依頼が何処から行なわれたかなどは興味が湧かず未調査の間々このレポートを書いています。
何分古く、資料が集まり辛い物件だったのでご勘弁下さいませ。
それでは現地で撮影した鉄骨マンションをどうぞ。
入口部分、施錠も無く完全ウェルカムでした。
おっとー、こりゃ思いがけず美しい。俄然撮影意欲が沸いて来た。
マンション内部はこの様にコンクリートの外壁と内部基礎を作った状態で放棄されている、階段の設置予定場所や電気設備の為の穴や構造がアチラコチラに見て取れる。ウッカリすると小さな窪み何かに足を奪われるので注意しながら進むとしよう。
ここに鉄骨が伸びていたのだけどなぁ…ハーネス着けてブラブラしたりラペリングしたりしたかったなぁ…。
階段部分が狭くて暗いのです、外部フラッシュを色々と設定変えて撮ってみるのだけど上手くいかんので途中で諦めたですよ。
ベランダ部分には苔が生えてふつくしきかな。
凝った趣向の建造物で建築が大変そう、デザイン先行だったのかぁ…。コンクリートは随分とヤレていて所々に顔を出す鉄骨は錆び錆びの状態だ、
仕事で建築関係のパンフレットの写真とか撮影した事が在るのだけどこの廃墟の方がよっぽど様に成る物件だった、予想外のアタリを引いたけど建造物の歴史にイマイチ興味が湧かずに机上調査は終了。
資料を見る限り付近の再開発の予定は無い様だけど全て解体されるのも遠くない日なのかも、ご馳走様でした。
アプローチ
国道135号線から伊東温泉で有名な伊東の駅を越え、細い道を岡住宅街へ。大きな丸山公園へ目指すと解り易く、公園出入口から少し登ると鉄骨マンションが見えます。
地図リンク
http://goo.gl/maps/QPirD
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REPORT - 0421│三島隧道
千葉県│三島隧道
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 三島隧道
いやぁココ来たかったんですよ、ずっと以前から知ってはいたけどなかなか機会が無くてですね。ロケーションが素晴らしいんで是非緑が映える季節に撮影に来たかったのですがやっとこさで念願適いました、やったー。
房総の三島隧道ったらちょっと有名でしてね、林道ライダーさんなんかも林道の分岐の途中に存在している事から三島隧道に続く廃道を走ったりとか良く話を聞きました。
三島隧道が残る国道410号線沿いにはこの他にも沢山の旧道(現在は廃道)が在りまして、それらの廃道には興味が在ってアチコチとお邪魔していたのだけどこの三島隧道はずっと後回しだったのです。
場所はココ。
現在の国道410号線から沿う様に旧道が描かれていてその先にトンネルの存在が見て取れる、ココが三島隧道だ。因みに旧道は国道からの分岐後直ぐにゲートで封鎖されている。
航空写真だとこの辺に成る、山の中で全く解らんです。
そしてこの様な立地だと必ず沸くのが夏の虫と心霊さんである、半ば宗教的妄信振りで「ここには霊がっ!が、が、がっ!」と凄んで来る。山奥、トンネル、廃道…彼らを奮い立たせるには十分な素材が用意されている事から幾つかの脳足○ん心霊サイトでもこの三島隧道が紹介されている、そして決め台詞である。
「ココには霊が居るっ!」キリッ
ほいじゃ行くでー。
通行禁止のアナウンスゲートから少し歩くと旧道と新道の併走区間が現れる、下を走るのが現在の国道である国道410号線(君鴨トンネル)だ。今居る高台の廃道は旧道だった道。
もうこの時点でアタシはとても気分が御宜しかった、こういう人工的(アスファルト舗装などの)な廃道は嫌いなのだけどココはイイよ。立地も面白いし景色がガラっと変わるのも素敵だ、そう…この先から道は驚くほど廃ちっくな様相なのです。
匂う、廃道臭がすんごく匂う。うん、やっぱりココ凄くイイ、スズメバチさえ居なければもう。脳内でボコスカウォーズ(※1)が無限ループ、怖い。
※1:イタチョコシステムは偉大であり、そしてロデムは可愛い。シャーマニック・マスクド・シャンソンはやや微妙。
暫く進むとお目当ての場所が、どうやら隧道入口に着いた様だ。この三島隧道は地図でも解る様に君津市と鴨川市を跨ぐ様に存在している、
こんな感じだ。
今回は君津側からのアプローチ、なんて言ったって僕は三島隧道の隧道自体には興味が無い。写真でもちょろっと見える廃車を撮りに来たのだから。
あーん、濡れちゃうー。
綺麗だナー、凄く良いナー、おしっこしたいナー。
ずっと我慢してんだ、御免ね…シーチョロチョロピッピッ
ふぅ。(残尿感ゼロ的な意味で)
補足的な説明を書こう、この美しく自然装飾された廃車なのだけど実は2003年まではココに存在しなかった。随分前から在る様に思われているけれども確実に2002年の後半までは何も無かった、ウェブ上のレポートでも2003年以降の報告にこの車が現れ始めていて草ヒロ風味に味付けされたのは驚く事にほんの近年に成ってからの事。
そう言えば最近ノスヒロ買ってない、OTも買ってない。別冊MCはたまに買う。
君津側も鴨川側(言い辛い)も封鎖されているけど鴨川側(変換し辛い)の方は封鎖用の鉄板を止めるボルトが何本か外されていて内部に侵入し易い、んでも内部には別段興味が無いから今回はパス。
いやぁ凄く良かったです、三島隧道。隧道入ってないけどそんな事はケツを拭いた紙と一緒に便所に流して忘れよう、そうしよう。
この三島隧道、君津側、鴨川側共に林道との分岐を含んだ道路上に在る。分岐地点が現在の国道から近い君津側(今回のアプローチ)だとゲートから幾分歩く事に成る訳だけど兎に角風景が素敵、廃車もなかなかに濡れる。
鴨川側からは林道分岐が隧道側に近い事も在ってアクセスは良い、周囲の風景に興味が無くて隧道に直接アクセスしたい場合は鴨川側からのアプローチをオススメしたい。
さて、最後に簡単にではあるけれどこの隧道の歴史を書こうと思う。この三島隧道は戦後復興中の1953年に竣工、山間部を抜ける主要生活道路として山中を掘り進めた素掘り掘削隧道がその歴史の始まり。1993年(02月24日)に君鴨トンネルが開通するまでトンネルとしての役目を担っていた、壁面には殉職者碑が建てられていて今でも掘削工事時に無くなった工事関係者を鎮魂している様だ。
新設の君鴨トンネルと一番の相違点と言えばその場所だ、と言うより標高だろうか。現在の国道410号線を貫く君鴨トンネルと比べ、三島隧道は40メートル程その標高を稼いでいる。この意味は隧道掘削が道路工事の後期に計画され、本来は峠道として造成する計画だった事を示す理由にも成ろうか。
結局はトンネルとして100メートルにも満たない長さの三島隧道が完成し、その後数年後とに改修されて1993年までその役割を勤め上げた。しかし何故そうしなければ成らなかったのか…、そこは以下リンクよりご確認頂きたい。
君鴨トンネル - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E9%B4%A8%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
本日は以上で御座います。
アプローチ
国道410号線、君鴨トンネル付近。アプローチは上記の通り、それぞれの入口を下記の地図リンクしておきます。
君津側 - 地図リンク
http://goo.gl/maps/0HIfQ
鴨川側 - 地図リンク
http://goo.gl/maps/mda5Z
photograph - nee
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REPORT - 0422│庚申川の立枯樹木
栃木県 │ 庚申川の立枯樹木
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 庚申川の立枯樹木
ネットで見掛けた1枚の写真、その風景に強く惹かれて数ヶ月後に現地では僕は酷くガッカリするのだけどそれは後程語るとしましょう。
まずは見て貰いたい、この魅力溢れる1枚を。
写真引用:へっぽこ写真部屋│http://mocomarimoco.blog.so-net.ne.jp
僅かに揺れる水面、立ち枯れした樹木。うーん、美しいでは御座いませんか。この写真の掲載先を調べると意外と早く見つける事が出来た。
へっぽこ写真部屋
http://mocomarimoco.blog.so-net.ne.jp/
と言うブログ内でエントリーされた写真の内の1枚、しかしそのエントリーがまた…。僕が大好きな「宇都野火薬庫跡」のオマケで掲載されている、って事は宇都野火薬庫跡から近い場所なのか…。
国土地図とグーグルさんで検討をつける、航空写真でそれらしい場所も発見出来たのでちょっくら行ってみますか。
地図リンク
http://goo.gl/maps/isZAY
この場所です、道幅が広く見えるけど道幅は変わらず、砂利のエスケープゾーンが在るって感じです。で、既述のブログでこの場所について説明しているのだけど…
「水面に降りれないかなぁ~~~。探したんだけど無理そう。。。」
そんな事は御座いません、成らば私が降りましょう。お任せ下さい。
早速ですが入口と言うか川に降りれそうな場所を発見、ガードレールが見えると思うけどまだ降り始めて1分位の場所。
この位の地形なら何処からだってアプローチ出来る、まあ下調べした結果この場所でイワナやヤマメを釣ってる方がいらっしゃいまして。その方は随分と下流からのアクセスだったみたいだけどこの場所から直で下に降りる事が可能です。
ちょっとだけ斜面がキツイけど服が汚れる事も無く、正直準備体操にも成らない程チョロイ地形でガッカリ。
石垣が在るのは県道293号線の旧道から更に川へ降りる旧々道が存在した名残りで現在はもう殆ど道は残っていません。
降り始めて下流方向へ降りていたのだけど地形と川の立ち枯れの位置を確認してこの辺で一端上流方面へルート変更。
よっし、ピッタリと横付け出来そうだ。この間々いっきに下ろう。
立ち枯れ真正面に到着…っておい。
水位が…水位がぁぁああっ。
これまたガッカリ、なのだけれども。実は知ってました、あの写真の風景が雨季と晩秋の降水量が増える時期だけしか見れない事を。
この場所、実は釣り好きさんには結構有名なポイントらしくてネット上では意外と情報が溢れているのです。どうやら2004年頃を境にこの川、名前を庚申川と言うのだけどその水位がどんどん下がっているらしくて。
自然の降水量と土壌の水含有量が景観を左右する現在、どうやら上流の開発の余波も有って川の流れは微々たる物に。そして夏季とも成るとこの有様なのだとか、上流には温泉などが在るのだけどそこまで有名じゃないしなぁ…。
僕が心惹かれた写真は2009年10月に撮影された物、時期的に駄目なのは解っていたから今回は下見のつもりでやって来たのだ。
うむ、こりゃ同じ時期…そうだな、10月に再訪しよう。朝靄が掛かる雨上がりってシチュで行ってみるかな、時期的にも戦場ヶ原にアタックの予定が在るし丁度良い。
って事でこの物件も再訪決定、イイ写真撮りたいなぁ。
アプローチ
日光方面の国道120号線から足尾方面へ延びる国道122号線へ、足尾温泉のアナウンスボードを目印に県道293号線へ折れる。同じ県道沿いには宇都野火薬庫跡、そこから更に数分車を走らせると左手にこの風景が見える筈です。
地図リンク
http://goo.gl/maps/isZAY
photograph - nee
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REPORT - 0423│白雲瀧
栃木県│白雲瀧
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 白雲瀧(華厳渓谷/鵲橋)
※ 2014年05月現在、ガレ場壁面から先が崩落して大変危険です。スロープ(配管整備用)より先は行けません。
海外放浪から帰国して国内にやっとこ興味を持ったのが20代前半、J53に登山用具とキャノンデールを積み込んで日本をグルグルっと2周位した。その中で随分と長い期間、まぁ長いと言っても3ヶ月程の間。旅費算出の為に働きながら滞在した場所が在る、栃木県は奥日光。
奥日光の湯元温泉で働いて居た期間、仕事をしながら結構付近を歩き回りまして。金精峠を越えて片品村から鳩待峠経由で尾瀬(※1)を歩き回ったりマタギの方に霧降の滝裏手に残る旧道(※2)へ誘われ、山菜摘んだり釣りしたり。その中でもちょっと危なくて面白かったのが華厳の瀧で有名な華厳渓谷、今回はこの華厳渓谷が舞台と成る山屋で沢屋なお話だ。
※1:尾瀬ロッジと山ノ鼻山荘でも数ヶ月働きました、7月後半に雪降るわ熊が暴れるわ…ああ、尾瀬ビル喰いてぇよ。
※2:2014年に違う旧道経由ですが霧降の滝の滝壺と滝口へ来訪しました、詳細は以下バナーより。
今でこそ知る者は減ってしまたけどそれはそれは素晴らしい滝が華厳の滝から程近い場所に今でもドバドバしている、この場所へは山好きさんには有名な華厳渓谷を練り歩く有名なルートが御座いまして。僕は以前そのルートで言った事が有ったのだけど今回は廃道さんが大好きなサイト「山行が」上で取り上げられたコースが気に成ったのでその辺を考慮して歩こうかなぁと。
あ、目的地。まだ言ってなかったよ、目的地。
白雲瀧
今回ワタクシが目指すのはこの日光では聞きなれない「白雲瀧」と言う本当に素晴らしい滝なのです、この滝に関しては既述の「山行が」さんで詳しくレポートされているので是非ご覧下さい。
山さ行がねが - 橋梁レポート 華厳渓谷と鵲橋
http://yamaiga.com/bridge/kasasagi/main.html
さてさて、最初に注意したいのだけど今回のルート…登山未経験者さんは元よりビギナーさんにもちょっと危険な場所が多いのでオススメ出来ない。エントリー内では独自開拓ルートも含め、滝の昇降等も在ってルートファインディングが出来ないと迷う可能性も在ります。
また夏場は茂っちゃってまったくホントにもう、ホントに。
なので挑戦したい方は経験者さんと一緒か完全な自己責任でお願いします、ガレ場に慣れてる方ならチョロいレベルですが地震の影響か部分的に地すべりしている場所(※3)が在りますのでロープが在ると便利です。
※3:崩落が進み、現在入渓は困難です。沢屋さんか岩屋さん同行で行って下さい。
それではレポートを開始しましょうか、例によってこの物件の詳細は最後尾に。興味の在る方は是非続けてお読み下さいませ。
まずはどんな行程なのかを簡単にご説明しようか。
写真を見て貰うと解るけど華厳の滝から見手前に延びる崖が丁度崩れている様な地形が在る、ココが今回のアタックで唯一(違う場所からは数ルート在ります)目的地へのルートと成る。
実際は途中で滝を昇っているから記したコースとは若干異なるけど気にしない。
地図上ではココだ。(クリックするとヤフーマップへリンク)
明るく囲んだ場所一体を今回歩いた訳だけど…うーん正直歩くってのとはちょっと違うな。途中途中にガレが在ったり崩れた斜面が在ったりでホントにビギナーさんにはオススメ出来ない状況が続く。
国土地図には「白雲瀧」が描かれていた、しかし道はない。まあでも等高線見る限りどうにか成りそうな地形だし渓谷まで出てしまえば行った事在るから何とか成るでしょ。
さて、それではスタートしますか。写真右側に見える石碑は白雲瀧への道を開拓した星野五郎平が建てた物、石碑には「明治三十三年十月開鑿竣工 星野五郎平」と記されていた。現在は廃道どころか道筋さえ残されていない、しかも夏場で茂々しい一帯だがまあ何となく歩く。いつも何となくだし。
地図上でココから山へ入る事に成ります、左側の山の麓を舐める様に歩きます。
この区間は右手に国道120号が顔を覗かせ、人の気配も近隣のレストランや市営駐車場から感じ取る事が出来る。
さて、ここからが本番だ。最初の難関で在る崖に挟まれた急斜面区間だ、この場所は地すべりを起こしており地盤が非常に緩い。そして樹木が疎らでハング出来る物が少ないので太めの枝を見繕って降下した。
え?ココ降りるの?マジで?
あ、そう言えばココ「山行が」さんでも通ってたな。んじゃ大丈夫だろう、因みにココは自然の滝では無くて自然放水を前提とした生活廃水の処理後排出口の下部。まあ…うん、結構浴びた気もするけど。
昭和後期に設置された梯子(配管整備用)だそうで現在は劣化していて危険と聞く、なので写真左側の岩場を這いながら降下する。
岩場にへばり付いて降下中、何やら頭上でブーンと大きな羽音がする。しかも2匹いる、オレンジとクロの縞々で強力な顎の持ち主で1日70キロの連続飛行が出来て時速90キロで飛べて無限針持ってて毒性最悪のアイツです。
しかも僕ってば過去に2度ほど刺されておりましてアナフィラキシーがおっかねぇええ。
これはアレだ。
[注意点]
この辺は沢全体がナメ部分で占めていて流れの場所を下るのは止めた方が宜しいでおま。
崖と崖の間を抜け、等高線が若干集中している斜面まで来ました。ココは鬱蒼と樹木や草が茂っているお陰で傾斜がキツくても木の根が足掛かりに成って比較的楽、それでもやっぱり気を抜くと滑るです。
これ、解り辛いけど凄っい傾斜なんですよ。ホントですよ。ってかまだ滝登ってないのに身体が滝の様な汗を…。因みに中央の道筋は道ではなく、成り掛けのガリーさんです。
最後の難関、滝沿いの急斜面です。
マッシブなガレ場スタートのお知らせ。
と、その時である。僕の右手がフックしてた筈の岩がポロっとしやがりましてってうわあああぁぁぁあああっ痛っってぇええええっ。
凄い落ちました。(問題に成る様な怪我なし・カメラ無傷)
そして割りとガチでびっくらこいた。
今回のルートが一時期話題に成った事が在る。1990年代後半、釣り雑誌にこの場所が掲載されて人が結構入り込んだのだ。その後は地元の人が滝の上流部に網や籠を仕掛けたり釣りをする位、写真に見えるトラロープはその様な方達が定期的に設置している様です。
鵲橋が見えてきた。
割橋(※4)は好きだけれどもこう言う橋はちょっと…えっと余り興味在りません、件の「山行が」さんで詳しくレポートされているので興味のある方は是非そちらを。
※4:えーと最近はスッカリご無沙汰ですが詳しくは以下バナーより
今と成っては観光客も来る事適わず、ヒッソリと静かに朽ちるのを待つ石造の橋を登る。
右側には「白雲の瀧」、左側には「かささぎ橋」と書かれています。この橋を渡り山中を抜けると華厳瀧へ向う事に成ります、元々は華厳渓谷遊歩道として機能していたのだけど現在は馬道発電所(※5)の管理用通路として使用されているので侵入禁止です。
※5:華厳渓谷下流に位置する古河日光発電が擁する発電所、現在も稼動中している。
馬道発電所 - 水力ドットコム
http://www.suiryoku.com/gallery/tochigi/umamichi/umamichi.html
そうそう、コレが目的だった白雲瀧のお姿です。鵲橋から正面に見える絶景で華厳渓谷遊歩道の目玉(華厳を除いて)でも在りました、水量も多くて素晴らしい。えらいベッピンさんや、ホントに来て良かった。しかし僕にはまだ仕事が残っている、そうこの瀧を昇るのだ。
[注意点]
通常のシャワークライムと違ってこの場所は非常に危険な地形の滝です、絶対に真似しないで下さい。水量も多く、単独でのアタックはほとんど自殺行為です。また救助は絶望的な場所と思って下さい。
恐らくココまでスタートから1時間経ってない、それなのに結構疲れてる自分に驚く。そうか、コレが加齢か…。コレが現実ってやつなのか…。
しかしこの絶景、魂持っていかれる美しさだな。次回来る時はバッテリーグリップ付のデジイチなんて馬鹿なもん持ってこないでコンデジにしよう、それと装備ちゃんとして崖とかラペリングしよう。
んじゃ行くぜよ、白雲さんに挑戦だ。
いや、なんとなくそんな予感はあった…。
あったけどさぁ…。
これは美し過ぎるだろっ。
上流部、実はまだもう少し先が在りますが流石にジップロック+ウレタン巻き巻きのカメラが心配で荷物を放置してアタックしました。幸いにして派手に転がり落ちましたが身一つなので被害なし。
沢屋として挑戦したかったって言うよりカメラ装備が邪魔でフリーの状態でのシャワークライムがどうしてもしたくて…、沢シューズでもないし鋲付きグローブも無し。本来はドライスーツにヘルメット、ハーネス類も装着するのだけど我慢出来なかった。どうしても直ぐに登りたかった、これは絶対にしちゃ駄目な事。単独アタックもこの傾斜と水量はベテランでもかなり危ないレベル、まあ廃道目的なら問題はないでしょう(それでも十分気をつけて)。
死ぬかと思ったけどなんとか致命傷で済みました。
[総合的な注意点]
フック出来る場所は多いです、ですが全体的にナメが多くて滑るとポックリな場合も在ります。水量も多くてスパイクソック(沢用の特殊なシューズ)や沢用アイゼンが有った方が安心して登れます、今回は普通のブーツで登りましたが案の定滑り落ちる事数回…。
正直に白状します、今回アタック(シャワークライム)する予定じゃ在りませんでした。ルート確認の為に下見して入口と簡単な地形が解れば良いなぁって気持ちで装備はツナギにブーツ+ゲイター、アームカバー、グローブ。バックパックの中にはレインスーツとカメラのみ、コレはイケマセンです。
どんな山でも沢でも、絶対に油断だけはしては駄目。
軽い気持ちで行ったけど、ノリで滝登ったけど。でも本当はシッカリと準備、用意をして挑んで欲しい場所です。もし行かれる方はたとえ廃道目的だとしてもその辺に留意して欲しいと思います、怪我の準備と虫対策も在ると尚良いと思います。
それでは白雲瀧の詳細といきましょうか。
白雲瀧(白雲の滝)
華厳の瀧と双璧を為す美しさ
日本国内では日本三名瀑の内に数えられ、古くから愛された華厳の瀧。発見者は勝道上人との説が常説と言われるが諸説語られる、また命名は仏教経典の1つである華厳経から。付近の滝には五時八教説からそれぞれ命名された滝が昔から知られている、豊富なら水量を誇る中善寺から流れ落ちる美しさは歴代の偉人達にも影響を与えた程とされている。
その中で汚名として刻まれる史事に「自殺の名所」とされた時期が在る、有名な藤村操の投身自殺がキッカケと成り、その後に出版された雑誌に掲載された「巌頭之感」が多くの文学家達の興味を引く結果と成る。
藤村操の通っていた、一高で彼のクラスを英語教科で担当した夏目漱石の晩年に暗い影を落とした投身自殺と言う話題性も有って現在でも多くが語られるに到る。現在ではそんな話題も成りを潜めた華厳の瀧、その美しさにおいて双璧を為す瀧が発見されたのが1890年代(1892年頃との記載資料あり)。その新しく発見された瀧こそ白雲瀧だ。
偶然の発見だった白雲瀧
白雲瀧は華厳の瀧の滝壺へ至る道を開拓した星野五郎平が道を切り開く過程において発見した瀧だ、1890年から開始された華厳の瀧滝壺までの遊歩道開発で思いもよらない産物だったろう。
明治時代後期から昭和初期まで(昭和10年位までとの記載資料あり)は華厳瀧を擁する華厳渓谷に渓谷遊歩道が設置されており、華厳の瀧滝壺から現在の国道120号線(いろは坂内)途中の大谷川支流まで数キロのトレッキングコースが存在した。新しく発見された瀧を含む滝壺への道は1900年に完成しており、華厳の瀧エレベーターが完成して間もなくまでの間40年近くは使用されて居た様だ。
写真:栃木県日光市立図書館
その当時に設置されたのが今回のレポートでも写真を掲載した「鵲橋」、石造の橋だが通る物が居なくなって80年近く、静かに朽ちて行くのを待つ筈だったろう。
地元の釣り好きと全国の釣り好き
実はこの華厳渓谷、釣り好きの間では意外と知られているポイントの様だ。また昔から太平山に出入りしているマタギの方や地元の釣り好きにも華厳渓谷が実質閉鎖されてからも良く訪れる場所としてその道筋は残されていた、しかも馬道発電所が設置されてからは関係者や工事関係者が工事要路(※)として使用していた様で行政にもその様な記録が残っている。
※ 華厳渓谷の数箇所は馬道発電所の管理区域と成っていて立入禁止です。
※ 華厳瀧付近は市が関している管理区域と成っていて立入禁止です。
つまりは廃道でも廃橋でもなく、現在も一部の人には使用されている現役さんだった訳です。その証拠に鵲橋付近は去年と今年にそれぞれ小規模ですが工事の手が入っています、橋自体の補修は予定に無いそうですが階段や道は今後も追加工事が行なわれる様です。
さて、この華厳渓谷。1990年代に再度注目を浴びる事に成ります、当時発刊されていた釣り雑誌にこの場所が掲載され、場所も比較的解りやすく解説されて居た為か沢山の人が押し寄せる結果と成りました。それによって地元の方と全国から訪れた釣り好きの間でトラブルも起きたようです、白雲瀧へ至る過程で沢山の懐かしいジュースの空き缶などを発見しましたがコレはこの時の物の様です。
白雲瀧の現在
この美しい白雲瀧、間近で見るには成人男性平均値の体力と少々の登山経験が有れば大丈夫ですがやや危険な場所も在るのでオススメは出来ません。ルートファインディングと沢登りのスキルが有れば楽しい滝登りも可能ですがやはり単騎アプローチは無謀でしょう、下流から華厳の瀧へ到る旧遊歩道は結構時間が掛かりますが現在でもアクセス可能です。
気軽に見るなら明智平から華厳の瀧左下にその雄姿を望む事が出来ます。が、迫力にはどうしても欠けてしまいます、地元の釣り好きさんは定期的に白雲瀧の上流部に仕掛けを置きに訪れていますのでお知り合いであれば連れて行って貰うのが一番確実でしょう。
関係者が訪れると言っても極僅か、とても静かな渓谷に響き渡る滝の音を人知れず轟かせている白雲瀧。アクセスは容易でない事を今一度留意して頂ければ自己責任で是非、美しい景観が貴方を待っている事でしょう。
アプローチ
中禅寺湖T字路から国道120号線下り方面(いろは下り)のみとなる分岐部分、手前のガソリンスタンドが目印。石碑は道路から比較的発見し易いので入口は間違わないと思います。
地図リンク
http://goo.gl/maps/CuZ18
photograph - nee
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REPORT - 0424│追原の大楓
千葉県│黄和田畑字追原集落 - 大楓
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 追原の大楓(黄和田畑字追原集落跡)
※ 2012年01月現在、老朽化の為に行政がこの吊橋の通行を禁止しました。この先に行くには対岸の林業関係者、追原集落出身者との同行許可を得た者(渡橋許可)、巻きルートにて対岸へ行くしかありません。
久し振りに房総の山々を周った時に以前紹介した物件の再撮影に行ってきた、夏場に行くとヤマビル天国のこの場所。まあそれでもどうしてもこの場所を撮りたくて準備も色々として行って来ましたよ。
以前のエントリーは下記より。
前回は何年か振りに来訪したのだけど河川工事と山林の計画伐採の工事中で途中までしか行く事が出来ず、今回は山間部奥地の集落まで行く事が出来ました。
それでは追原の大楓をご紹介しましょう。
七里川温泉から程近い県道81号線上に入口が残る、細くて急なワインディングが続く事でも知られているこの区間はバイクで攻めると結構楽しい道路。
地図リンク
http://goo.gl/maps/RaX9E
地図上でも確認できる吊橋(※1)を渡って山道を歩きます。
※1:現在この吊橋は経年劣化の為、崩落の恐れを懸念されて通行禁止に成りました。
酷いブッシュ、この時期は誰もこの場所には近づかないのかなぁ。途中に小さな沢を渡る手製の橋が在る、10年位昔にも在ったけどもう少しシッカリしてた様な。
photograph:+10
黄和田畑字追原集落跡に到着、この集落手前の道が最近に成って土砂崩れを起こしまして。削れた斜面を登る事に成りますが危なくは無いので簡単に見つける事が出来るでしょう、ただ付近にはヒルに加えマムシがウニョウニョしてるのでお気をつけ下さい。
この日もマムシさんがウニョってました。
さて、この一帯には集落跡とこの大楓、少し離れた所に墓地が残っています。昭和30年代まで世帯が残り、以降は忘れ去られた集落跡として一部の登山客の来訪しか無かった場所。
しかし1990年代後半からダム建設の候補地として地元民を巻き込んだ大騒動が勃発、結局この場所はダム建設の白紙と言う形で現在まで残っています。詳細はウェブ上に当時のレポートが沢山在りますので興味が在る方は是非検索してみて下さい。
※ とにかくヤマビル天国
繰り返します、この場所はヒルの生息地としてハイカーにも知られていて恐ろしい程の攻撃を受けます。歩いていても眼を離した数秒でブーツに取り付き、10秒程撮影の為に足を止めると10匹ほどがニョロニョロと登ってきます。
そこで山屋さん沢屋さんが愛用している自家製忌避剤をご紹介しましょう。
自家製のヒル忌避剤ですが羽虫、蚊、アブ、蜂(種類により効果に相違有り)などにも効果が在ります。忌避剤なので寄って来ない(刺され難い)為の物ですが刺されたあとの消毒にも効果的です。
用意するのは「ハッカ油」、「エタノール」、まあ他にも色々とレシピは在るのですが基本形はこの2種類の薬品。
総量の10%をハッカ油として調合して下さい、ブーツやタイツ、靴下などに事前にスプレーすれば忌避剤として15分~30分程度の効果が在ります。また登ってきたヒルに一吹きすれば脅威の効果でポロっと落ちます、血を吸われている最中でもポロリするのでホント便利。
因みにエタノールには通常「無水エタノール」、「消毒用エタノール」、「消毒用エタノールIP」と3種類が売り場に並びますが買うのは後者の2種のどちらか。
無水エタノールは純度100%ですが消毒効果などに後者2種と違いはなく、税金の問題で価格も高いです。含有成分の話を始めると実はもっと細かく再分化されるのでこの辺で、あ…粘膜にはスプレーしちゃ駄目ですよ。
行政も地域のNPO団体もこの地を沢山の人に知って貰いたいと行政誌や広報誌で取り上げたりしています、が…中にはこういう馬鹿が居ます。
元スクんちゅブログ - リベンジ大楓ツー
http://penguin774.exblog.jp/14537683/
無許可(行政に確認したところ個人でのバイクツーリングの過程で渡橋許可は一度も出していないとの事)で吊橋を渡るわ、大楓によじ登るわ…一応アーカイブも取ったのでリンクを記載しておきます。
元スクんちゅブログ - リベンジ大楓ツー(アーカイブ)
画像(アーカイブ)
画像(アーカイブ)
これらは地元山岳会所属のNPO団体の方から教えて頂きました、行政と警察に相談済みだそうですがその後の経過は…詳細が解りましたら掲載するとしましょうか。
本日は以上です。
アプローチ
エントリー内文章と下記と下記地図を参照。
地図リンク
http://goo.gl/maps/RaX9E
photograph - nee
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REPORT - 0709│八幡製鐵 工業用水浸透実験池
千葉県│盤州干潟 浸透実験池
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 八幡製鐵(新日本製鐵) 工業用水浸透実験池
過去にもレポートをお伝えした事がある新日本製鉄株式会杜(旧・八幡製鐵)が建設した浸透実験池、その変わった地形とラムサール条約の候補地としても名乗りを上げた事も在って盤州干潟のランドマークとも成っている。
過去のレポートでは有名な物件な為、その詳細には触れなかった。そのエントリーは以下より。
有名が故、その詳細を記した資料的なサイトが存在するか…と、言うとそうでも無い。ウェブ上に散見する既存の説明が余りに表層的な物で全容を明かすにはどうにも物足りない感じがしたのだ。って事で度重なる現地調査(恐らく一般では足を踏み入れていない区域も含めて)と行政、NPO団体「盤洲干潟をまもる会」、新日本製鉄株式会杜の協力の下に半世紀前の産業遺構をレポートしたいと思う。
まずは一般的な認識としてウィキペディアから。
盤州干潟 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e7%9b%a4%e5%b7%9e%e5%b9%b2%e6%bd%9f
イキナリ総括的な詳細説明から始めても面白くない、まずは航空写真から見て「コレは何?」と疑問に思った物を細かく追って行こうか。
古代魚の頭部の様な地形とドコサヘキサエン酸がたっぷり含まれていそうな浸透実験池、この奇妙な自然と人口の造形がこの地を有名にした一因だろう。それではグッと寄りまして本題の施設遺構をチェックしましょう。
コンクリート製の遺構と浸透実験池が残るこのエリア、航空写真でズームすると色々と気に成るモノが点在する。細かなチェックポイントは後述しよう。
漁業関係者か各企業の測量目的で来た人しか足を踏み入れていないだろうと思うこの区画、ココにも良く見ると人工的な道や建造物跡の様な物が見える。た、確かめたい。
何だろう?網の目に規則正しく建造物の基礎の様な痕跡が見て取れる、しかも結構な大きさなのが写真で解るだろう。こんな大きな遺構が残っていながらウェブ上にひとつも取上げた記事が無い、こりゃ干潮時を狙って見にいくしかないでしょう。
って事で前振りが長かったのですが検証してみましょう。
※ 数度の現地調査の為、夏季~冬季の写真が入り乱れてアレな感じですが気にしない。
国土地理院さんの地図、何時もの様に全裸に正座で拝見させて頂く。この地域全体を荒地の地図記号が並ぶ、そして気に成る人工遺構跡らしき顎の部分は針葉樹林の記号。廃屋もシッカリ記載している国土地理院さんの地図にも遺構の影は無い。
うーむ。
それでは机上調査と現地調査を合わせて少しづつこの盤州干潟の謎を解き明かしていきましょうか、まずは入口から左側に広がる湿地帯、そこに残る建設遺構物などを。
実は既に埋没しているのだけどこの干潟内には無数の側溝が巡っている、この残された側溝は解体時のモノではなくて新設用に在庫されていた名残。つまり一度も使用される事が無く、その後数十年をこの姿で過ごした事に成る。
側溝奥の電信柱は数本残る内の1本、干潟内には倒れた電信柱や既に腐食して電装部分だけ残った物などが散見出来る。浸透実験池稼動時には100本以上の電信柱が存在した。
夏場は歩く事を許さない湿地地帯、地面は泥濘でブッシュは人の背より高い。この場所が数年間だけの期間ではあるけれど綺麗サッパリ整地されていたなんて今ではちょっと信じられないな。
皆さんが疑問に思うコンクリート製の遺構前の貯水池、まずはコンクリート製の遺構ですが当時の資料にはこの建造物に関する項目が無く、どの様な役割をしていたのか全くと不明です。未確認情報として、
① 海水濃度を計測する施設だった(現地の聞き取り調査)
② 海水の汲み上げ電送施設だった(出版物の記載を引用)
この2点の情報が在った。眼前に貯水池が在る事から②の可能性が高い、しかもこの貯水池は全部で3つ存在していてそれぞれの塩分濃度を変化させて計測していたとの情報も②の出版物に記載が在った。情報の正確性が確保出来ないので出版物の名称は控えよう。
浸透実験池、現在ではカワウの繁殖地かって思う位沢山のカワウ地獄。通常カワウは樹木の上に営巣するが浸透実験池では樹上と地上両方にコロニーを形成している、一時期は絶滅を危惧される程個体数が減ったのだけど現在では狩猟鳥として害獣駆除指定も受ける厄介者にされてしまった。
さて、遺構を細かく調べる前にこの盤州干潟がどの様な場所なのかお浚いしようか。
盤州干潟は埋め立てではなくて元々自然の干潟としてこの場所に存在した、既に多くの人に知られている様に工業用水確保の為の水質変化実験の為に「浸透実験池」が建造される。この時にこの池だけではなく、実に沢山の施設(小規模)も建造された。
建設は八幡製鐵(新日本製鐵/新日鉄)で「第二次合理化(技術先進国からの技術導入による設備の近代化の2次計画)」に基づいて1960年に建設計画が発案、君津製鐵所建設も進められている中で企業力を国内外に示す為に急ピッチで建造される事になる。
1964年、建設がスタート。1966年には試験運用が開始されたが海水の塩分濃度が余りに高く、冷却用水として海水を使用する計画は直ぐに頓挫する。
そもそもは君津市が大規模な企業誘致計画を発表してその代表企業として名の挙がった「八幡製鐵」が本格的に君津市の小糸川河口の造成を始めたのが切っ掛け。市のみならず県が助成する形で関連企業やその後の他企業進出を勘案、結果大量の工業用水が必要と成り、1日45万立方メートルの工業用水が必要と見積もった。
ここからは千葉県の県企業庁、永田一海施設管理室長のお話を纏めた新聞の記事を抜粋したい。
県と同社は協力し、小糸川だけでなく、木更津市の小櫃川や富津市の湊川からも水を確保する計画を立てる。ただ3川はすでに農業用水として利用されており、水利権の調整が難しい。このため、小糸、小櫃両川の河口部の干潟を堤防で囲うように埋め立て、内部に巨大な淡水湖を作り、農閑期などに、工業用水をため込む構想が動き出した。
ただ、問題が一つあった。河口湖へ海水の浸透を防止する対策だ。工場内で使用する冷却水や洗浄水は淡水でなければならない。そこで、県は通産省(現経産省)や工業用水の確保に苦慮していた他県とともに、小櫃川河口の低地に「モデル河口湖」を作り、海水流入防止策の実験を始めた。これが、ドーナツ状の二重の池=浸透実験池なのだ。
毎日新聞 - 地方版から抜粋
更に追跡調査で毎日新聞がこの盤州干潟に触れているので抜粋引用しよう。
ただ、問題が一つあった。河口湖へ海水の浸透を防止する対策だ。工場内で使用する冷却水や洗浄水は淡水でなければならない。そこで、県は通産省(現経産省)や工業用水の確保に苦慮していた他県とともに、小櫃川河口の低地に「モデル河口湖」を作り、海水流入防止策の実験を始めた。これが、ドーナツ状の二重の池=浸透実験池なのだ。
淡水で淡水を守る
さらに詳しい経緯を聞くべく「県の工業用水の生き字引」と紹介された木川進さん(86)を訪ねた。当時、県工業用水部工務課長で、河口湖の開発調査委員会のメンバーでもあった木川さんによると、実験池の仕組みはこうだ。
まず、二重の堤防の中央の深さ10メートル程度の丸い貯水池に小櫃川から取り入れた淡水を張る。しかし、放置すると、東京湾の海水が地中からしみ込むため、更にその周りにドーナツ状の池(外回り水路)をつくり、ここにも淡水を流した。
この構造は、水路から地中に浸透した淡水が、地中で外から浸透する海水を押し戻し、内側の貯水池に海水が入るのを食い止める効果を期待したものだった。淡水で淡水を守るこの手法は地中に水の幕を張るような構造のため「ウオーターカーテン」と呼ばれた。四方からの海水浸透に対応するため、モデル湖は円形に作られた。
実験は64年から3年間続き、海面と貯水池や水路の水位の差や、土砂の粒子の細かさを変えながら、試行錯誤を続けた。浸透阻止を徹底するため、打ち込んだ板で、貯水池を囲う取り組みも試した。
一方、実験と並行して作られた実際の河口湖計画は、小櫃川と小糸川の最下流部に面積計約500万平方メートルで、約3500万立方メートルを貯水できる二つの人工湖を作り、1日11万5000立方メートルの確保を目指した。千葉が頼みとする江戸川や利根川の利水は、古くから東京や埼玉、茨城などの都県と競合する。新日鉄自身も、君津への進出に関し「最も危惧したのは『水』の問題」(君津製鉄所25年史)と記しているほどだ。房総半島の中小河川から工業用水を調達できるかは、工業立県を目指す県政の重要課題だった。
ところが、その後、70年代前半にオイルショックが始まり、世界的な生産の減少が起きた。埋め立て計画や進出企業数、さらに、水需要予測も減り、すでに建設されていた豊英ダムと郡ダムなどの活用で十分間に合う見通しが立つ。70年代半ばには河口湖構想そのものが消えた。
65年に経済企画庁から出向し、高度成長期の県内の工業用水確保にまい進してきた木川さんは「確かに、実用化はされなかった。しかし、需要になんとか応えるため、技術者たちが、いかに苦悩したかを示すひとつのモニュメントです」と振り返った。
実験池では貴重なデータが収集され、報告書にまとめらたが、地形や地質の異なる他地域で、そのまま応用することは難しい上、河川の汚染が全国的に進み、河口湖を人工的に作る試みはなかなか実現しなかった。最近、佐賀県伊万里市に国内初の河口湖が建設され、09年から工業用水の給水が始まっている。
毎日新聞 - 地方版から抜粋
つまりは一度も本格運用される事もなく、現在は解体されなかった幾つかの遺構が残る広大な干潟と成っている。役50年の月日で消えていった数々の遺構、現在航空写真で確認出来る小さな「気に成るモノ」を追っていこうか。
まずはコレ、浸透実験池の右下に白い建造物が見える。大きさにして小型のプレハブ位、周囲から目立つ1本の樹木の脇と言う見つけ易い立地だ。レッツ藪漕ぎ。
あれ?
樹木は確かに在るけれど白い建造物は?グルッと回っても何も無い…相当デカイ物だから簡単に飛んだり流されたりは無いと思うのだけど。しかし無い物は仕方ない、次のポイントに向おう。
この池はずっと気に成っていた、周囲のブッシュが深いものだから目視出来る場所に到達出来なかったのですわ。浸透実験池の高台からも夏場は見えず、時期を秋にずらして確認しに。
在った!実はこの干潟最大の貯水池だったりします、コンクリート製の遺構前の貯水池は2分割されていてこの池が最大貯水量を誇ります、周囲はヌカっていて近付く事は出来ませんでした。
一際目を惹く正方形のプールと左側の建造物、これも先ほどと同じプレハブの様に見て取れる。んでも浸透実験池へのアプローチ道の直ぐ脇だなぁ、何で今迄気付かなかったんだろう。
あれー?
なんもねぇよ。どういうこった、コリャ。埋まってんのか、ああん?初秋でブッシュが深い、こりゃ2月位に再訪してもう一度確認しなくちゃならんですな。
結局まだまだ気に成るポイントは在るのだけどブッシュが深くて近づけない、上記の通り2月に再訪して追加レポートを記載したい。
この干潟に関して調査していると一つの団体名がチラチラしておりました、ウェブ上でも出版物でも新聞でも見かけるその団体。
「盤州干潟をまもる会」
ウェブサイトも在って現在も活動されている様だ。
小櫃川河口 - 盤州干潟をまもる会
http://www.river.sannet.ne.jp/haruet50/
この「盤州干潟をまもる会」の代表、田村満会長さんのインタビュー記事を見つけたので記載しよう。
20年以上にわたりこの干潟の生態を守る活動に取り組む「盤州干潟をまもる会」の田村満会長によると、堤防上に育った木々には、90年代半ばから、研究員も驚いたカワウの大群の営巣が始まった。使命を終えた実験池は、利用目的も決まらず荒廃が進み、一時は更地にする計画もあったが、同会の活動もあり、自然保護の視点から、実験池の堤防などの構築物は、そのままの状態で残されており、カワウの巣の数は現在、500個程度にもなるという。
盤洲干潟は、自然の干潟が少なくなった東京湾岸で、淡水と海水が混在した汽水域にしか生息しない貴重な動植物を育んでいる。実験池周辺にも、1平方メートル当たり50から100個という無数の穴が開いている。珍しいチゴガニのすみかで、多くの雄ガニが白い爪を振り上げ、雌にアピールする姿が見られる。シオクグやハママツナなどの貴重な植物の群落もある。
豊かな自然環境が、干潟を埋め立て「淡水湖」に変える高度成長期のプロジェクトの遺構をのみ込み、50年の時を超えて残存させる結果となった。田村会長は「実験地の周辺はすでに貴重な生態系の宝庫。このままの形で、残したいものです」と話している。
さーて、コレで浸透実験池付近の調査は一端終了だ。地元の方の聞き取りと新聞、出版物などの情報を纏めた訳だけれども今だ触れられて居ない場所が在る。
これだ。
この建造物跡が一体何なのか、八幡製鐵と関係が在る研究施設の遺構なのか…兎に角見に行きたい。満潮時や満潮に向う時間は危険なので干潮時を狙って彼の地へ行ってみる事にした。
普段は小櫃川で分断されているこの区域、流石に人が出入する事は少ない様だ。それでも地元の方なのか一対の足跡と犬の足跡が残っていた、通常は一般の方は恐らく訪れないだろう場所へ向う。
定置編みが設置されている先端部分、足跡は流石に消えているが漁業関係者は船で寄せるだろう場所だ。この右側の針葉樹林地帯に建造物の遺構が残されている筈、うほーい。
最先端部、この裏側から内部にアプローチする。
?
???
帰ろうか、だって何も無いんだもの。どっち向いても何処から入っても何も…
何も無いよっ!
だから帰ろう…。
デザインのお仕事で出入している出版社さん経由で地図を編集している会社に問い合わせ、千葉県を担当している方に直接お話を聞いた。地図を製作する時にはその場所その区域の過去の地図と照らし合わせなどをすると聞いた事が在ったので過去の改定版地図を見せて貰うのと航空写真を見て確認したかったのだ、アレが何なのかを。
「マルマルウマウマでほにゃほにゃっぽいんですよ。」
手振り身振りを交えて説明すると担当さんが「ああ、なるへそー」と過去の地図を見せてくれた。確認すると過去の航空写真には網の目の遺構が写ってない、更に後日問い合わせていた行政さんから返答メールが。
「んなもん作ってねぇよ、妄想乙。」
海きれーだなー(真顔)
期待した遺構は無かったけど盤州干潟を良く知る切っ掛けには成った…かなぁ。実はまだまだ資料は沢山在るんです、1人で盛り上がって各方面に協力してもらって紙媒体でも色々と送ってもらったもので。本当に協力して頂いた各方面の方には感謝しております。
最後に参考に成りそうなウェブ資料を置いておきます、興味が在る方は是非。
小櫃川河口・盤洲干潟を守る連絡会 - 盤洲干潟通信1号(発行2001.07.30)
http://homepage3.nifty.com/szk-nrys/tusin/bansu/bandu01.htm
小櫃川河口・盤洲干潟を守る連絡会 - 盤洲干潟通信2号(発行2001.09.21)
http://homepage3.nifty.com/szk-nrys/tusin/bansu/bandu02.htm
小櫃川河口・盤洲干潟を守る連絡会 - 盤洲干潟通信3号(発行2001.10.22)
http://homepage3.nifty.com/szk-nrys/tusin/bansu/bandu03.htm
記述の地図会社の方から提供して頂いた1975年に撮影された航空写真、今と大して変わらない様に見えるけど拡大するとね。うん、色々と。まあそれは次の機会の時に取っておきましょうか。
今回のエントリーは以上です、追々ですが追加情報の記載を行います。
色々と調査を進めてきたこの物件、現地調査も含めて残されている謎について追加報告を行いたいと思う。個人的に気に成ったのは以下の項目、
・発見出来なかった遺構
・この場所の代名詞的なコンクリート遺構の役目
・何故この場所に施設が建設されたのか
この3点だ。干潟としての重要性や浸透実験池の現在の様子などはここで詳しく語らなくてもその現状を知る事は用意だ、と言う事で上記3点に関しての追加情報としたい。
最近(2014年現在)ではある程度の認知度でニュースや書籍などでもその名前や映像などが出る機会が多い、しかしその姿は大きく変化していて水位や地形などを含めたこの盤州干潟自体が消滅(本来の姿に戻ろうとしている)に向かっている事に気付いている人は少ない。
※ 最後尾にて”消滅”の意味をご説明します
1961年09月28日に撮影された航空写真、そこにはまだ古代魚の目玉は描かれていない。1964年から建設が開始され翌年には一部施設が稼動開始、1965年に当初の計画施設の殆どが稼動開始。正式に実験施設として稼動が公に記録され始めたのが1966年に入ってからの事だ、この工事期間(※1)で一体何を建造したのだろうか。
※1:1964年~1966年の3年間
良く考えてみて欲しい、その後に出来た施設を考慮しても3年間の工事期間が必要な”モノ”が果たして現場に在っただろうか。そしてその後解体されたとして何処にその形跡が残れていると言うのだろうか、答えは歴然。この場所は干潟だ、つまり約3年間に及ぶ工期の中で大部分を占めたもの…
そう、それは地盤造成と埋め立て。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=424378&isDetail=true
この1961年の航空写真と下記リンクの1970年に撮影された航空写真を比較して欲しい。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=545926&isDetail=true
干潟の形が大きくと言わないまでも大分変化している事が解る筈だ、干潟の様な湿地帯は兎に角整地造成が難しい。何より”時間”が掛かるのだ、選考して施設が稼動した事を考慮すると最低限の移動用車道を造り、正接稼動を優先させたと推察出来る。
上記リンクと同じ画像だけれど写真は1970年05月22日に撮影された物、お気付きだろうか。この浸透実験池のランドマークとも言えるコンクリート製の建造物がまだ存在していないのだ。
航空写真で確認が出来るのは1975年01月6日の撮影画像に成ってからだ、1月初頭を考慮して少なくても1970年5月~1974年12月までの間に建設された事は間違いない。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1001634&isDetail=true
この干潟施設の一番の存在意義はどうしたって「浸透実験池」、と言う事はこの施設全体が稼動してから役10年もの歳月が経過した後に新たに作られたと言う事に成る。元々必要ならば当初から建設する筈、では一体この施設は何なのだろうか。
この物件のエントリー(2012年12月16日)では幾つかの複合的な要因を推察した結果、このコンクリート製の施設を「海水の汲み上げ電送施設」と仮説した。しかし組み上げが必要ならば最初から建造している筈だ、そしてもう一つの記録をかいつまんで書こうか。
東京湾平均海面(水準原点の標高の変動)
1891年 24.5000 m
1923年 24.4140 m
2011年 24.3900 m
若干降下気味だが100年以上その水位に大きな変化は無い、だがこの干潟において一つだけ大きな変化をもたらした事が在ったではないか。
”干潟の湿地帯整地造成”
そうなのだ、この干潟施設を作る為に大きな造成が行われた為に干潟の土壌(水の含有率)と周囲の地形が変化してしまったのだ。って事はやはり幾つかの資料に記載されている「海水の汲み上げ電送施設」と言う仮設(※2)もあながち間違いでは無いのではなかろうか。
※2:どうしてもこのコンクリート製建造物の正体が解りませんでした、情報をお待ちしております。
とても残念だけれど「この場所の代名詞的なコンクリート遺構の役目」は結局解らずじまい、判明次第正しい由来とその役割をお伝えしようと思う。
次に「何故この場所に施設が建設されたのか」だ。
これに関しては至極簡単で東京湾において大規模な”海水と淡水の境界”と成る場所を検討した結果と言える。手付かずの状態で1960年の東京湾、この湾内の海岸線沿いをぐるっと航空写真で見てみれば一目瞭然。こお盤州干潟が選ばれた事は当然の事とも言える。
最後に「発見出来なかった遺構」だけれども在りました、”検査用プール”は見えないだけで今でもしっかりと残っております(※3)。
※3:現地撮影を行っておりませんが目視で確認済みです
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=529514&isDetail=true
リンクの航空写真は2009年09月10日に撮影されたもの、この写真を拡大していくとシッカリと写されているじゃー在りませんか。
これで個人的にランドマーク以外の殆どの疑問は解消されたと思っています、そして予想以上に情報や記録がなくて右往左往した物件でも在りました。読んで頂いている人の中で”他にも疑問が在る”、”仮説に対する正しい情報や記録”などをお持ちの方が居ましたら是非その旨ご報告頂けましたら幸いです。
ついでといっちゃあ何ですが最近のこの干潟の航空写真を置いておきましょう。
それでは追加エントリー冒頭で記載した”この盤州干潟自体が消滅(本来の姿に戻ろうとしている)に向かっている事”に関してお話して終るとしよう。
このい干潟、施設建造によってその土壌を大きく変化させた事は既に書いたと思うけれど自然の力は侮る事は出来ないものでして。湾内水位に変化は無いものの年々”相対水位”は変化し続けている、環境保護を目的とした北関東のNPO団体の資料ではこの干潟、その相対水位を”浸透実験池建設前の状態まで戻す”のでは無いかと言われている。
1986年(※4)に人の手を離れて数十年、この盤州干潟は今在る姿を消滅させて本来の自然の干潟へ還ろうとしている様だ。
※4:この施設は1986年に完全閉鎖、その後幾つかの解体工事を経て現在に至ります。
これにてこの物件は一先ず調査終了とさせて頂きます、本日は以上です。
photograph - nee
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REPORT - 0820│エコー牧場
千葉県│エコー牧場
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - エコー牧場(相川の廃牧場/株式会社スタッフサービス試験運用委託牧場)
久し振りに夏季の薮漕ぎをしたら思いの外身体に響きましてねぇ、スリ傷の治りは遅いわ鎖骨に枝が刺さって化膿するわコンビニで買い物してオツリ貰って商品は置いて帰るわ…老化って本当に怖い。くっ、だけど負けない!大人の第二次性徴期の力、魅せてあげるっ!
心と身体に少々のダメージを残した今回の物件、実は再訪だったりします。それも今年(2014年05月)からの直近来訪、前回のエントリーは以下よりどうぞ。
今回のエントリーは前回の内容を確認してからお読み頂くとよりいっそう美味しく頂けます、500Wなら1分30秒が目安ですよ。
さてさて、前回は広大な敷地内の半分も回れなかったので今回は登山で使用するGPSを導入してシッカリと全てを見て回る用意をして来た。廃牧場と言っても自然の山間部を簡易的に切り開いただけの牧場なので行程の殆どが普通の登山と薮漕ぎに。遠目に見え隠れする廃屋らしき建造物もどうやったら辿り着けるのか、沢歩き前のついで物件として位置付けていたのだけれど意外と苦労しそうだ。
まずは入口付近で発見したこの牧場の看板をご紹介してから話を進めて行くとしようか。
「これより先 牧場に付一切の発砲を禁ず エコー牧場長」と書かれている。そう、この山間部は解禁時期には狩猟区としてしていされた地域。同地域には野鳥類の他にもキョンやイノシシなども居て遭遇率も高い、来訪時はキョンがアチコチに居て一見すると鹿と見間違える程の大きな固体も。
入口脇に居を構えるお宅の小学生が「中で遊んだ事は何回もある」、「迷子に成るくらい広い」と元気に語っていたのが印象深い。大丈夫か、一応伐採道具を持った林業関係者や猟銃持った狩猟関係者が入ると言うのに。
それでも登山者には寛容な管理体制で許可さえ取ればこの中に入る事は難しい事では無かった、今までは。実は今年の8月に成って色々と動きが在りまして、その辺は最後尾に記載したいと思います。
photograph:koichiro
前回はこの地図の明化部分しか歩く事が出来なかった、当時として「こんな薮の中に入りたくねぇ」と思わせる5月の新緑。しかしどうしてもその先に残されているだろう多くの廃墟が気に成っていた、「こりゃ再訪だなぁ」とその時既に考えてはいたのです。
それがMOTTO酷い薮の時期に成るとはね、てへへ。
今回の再訪で確認するべき範囲はマップの明化されている部分、前回の倍近くの広さで歩くルートで考えると2倍以上の距離と成る。しかも眼前を覆い遮る様に深いブッシュが行く手を阻む自然の雄大さったらもう。
ま、途中の行程なんてツマラナイのでサクっと飛ばして最初の目的場所へ。この牧場最大の牛舎で最奥部と成る、実は地図に描かれてないし航空写真でも確認出来ないけど更に奥にもう一軒崩れ落ちそうな簡易牛舎が残されていた。
なんか見えて来た、散々歩いてやっと目にした大きな廃牛舎に歩の進みは加速する。
はーしーれー、こうそくのー
photograph:koichiro
み、みさくら…なんこつ…
漏れてしまった、余りの美しさに。その佇まいに思わず出てしまった言葉がみさくらなんこつ、意味を調べると不幸に成るで。
恐らく数十頭~百頭近くは軽く収容出来たであろうこのエコー牧場最大の牛舎、作りは古い木造だけれど建造は1980年代の筈。それが少しだけ違和感を感じさせるけれど理由を探ろうとまでは思わない、電気関係も昭和を感じさせる設備だった。
photograph:koichiro
向こう側でぽけーっと空を見上げてるのはワ・タ・シ。疲れて放心の図、セガ魂よ永遠に。
ムネン アトヲ タノム
photograph:koichiro
前回も盗難車が残されていた件で色々と物語が見え隠れしたけれどココでもやはり気に成る車両に出会った、最初は「何でこのトラックだけ空気パンパンに入ってるの?」って疑問に思っただけ。が、ドアパネルの名称がハッキリと残されてるし帰宅後に机上調査しようとメモショットを撮っておいた。
予め書いておくけれどもうこの会社は存在していない、その他諸々を含めた諸事情をクリアしたので公開している事を念頭に置いて読み進めて欲しい。
この「山口総合建設(株)」と言う会社、1990年代には倒産して存在していない。同カテゴリにおける企業登録者名簿にも名前が記載されておらず、その実態を把握出来ない。しかも牧場とは関係ない建設会社のトラック、この牧場建築に関係しているのか中古車を購入して使用していたのか…。
まずはほにゃほにゃして記載されている住所の権利関係を調べてみた、すると現在までに所有者は変わっていないものの利用者が3回変わっている事が判明した。
グーグルマップさんで確認すると2回目の利用者で登録されていた看板業者「丸和工芸」の工場として確認する事が出来た、しかしこの業者も廃業済みで利用者登録では更に違う人名が記載されている。
これ以上は調査の意味が無いので明記は終了、どの様に「山口総合建設(株)」がエコー牧場に関わったのかは結局と判明しなかった。
実に謎が多い牧場で在ります。
photograph:koichiro
航空写真でも一際大きい廃屋として確認出来ていたこの牛舎、内容も素晴らしかったけれど沢歩きの予定で時間も押して来ている。
そろそろ次の廃屋に移動するとしよう。
photograph:koichiro
最大規模の牛舎から少しだけ移動すると直ぐに廃屋が見えて来た、ここは廃屋よりも周囲の樹木の形に特徴が在って建造物事態には余り興味を惹かれなかったけれどまあ一応。
元々牛舎として利用していた様だけれどその後飼料庫して利用した様だ、改築した跡が所々に散見出来て実際に飼料も残されていた。
写真では明るく見えるけど木々に囲まれてとても暗い場所です。
photograph:koichiro
そこだ、同じ印が君の家の古い暖炉にあった、この石にもね。
移動します。
photograph:koichiro
牧場敷地内最北部に位置する廃屋へ、ブッシュがヤバイ。よくもココまで草木が侵食したなぁって位自然が猛威を振るっている。割れて歪な曲面を魅せるアスファルト、背の高さ以上の薮。
自然は偉大である、しかし我とてデリケートゾーンの毛がモサモサの猛者(自信家)。Bダッシュジャンプで大人の余裕を魅せる良い機会と言えるでしょう。
使用用途が不明な細い獣道が幾つか確認出来た、事前に調査していたので
・更なる開発の為に整備中だった道路
・登山道と一部を連結する為の人道
・東京電力の鉄塔管理道
などの情報を元に見てはみたものの。うーん、何か違う。当時の道じゃなくて廃墟化してから作られた様な、時間的な問題で進む事は出来なかったけれど新たな謎が生まれてしまったです。
因みにこの廃屋は養豚施設だった様で牛舎より建造物の背も低く、規模も小さい物でした。
photograph:koichiro
敷地内の放牧区画を囲む様に車道と人道を経由してグルッと回って来たこの廃牧場、前回のエントリーで「絶景」と位置付けた枯木っぽい何かが群生する場所付近まで帰って来た、最後の廃屋だ。
この廃屋の利用方法が解らなかった、柱は細くて牛舎でも飼料庫でも無い。農業に詳しい方、解る方が居ましたら教えて下さいです。
この先に更にもう一軒の飼料庫が在り、GPS上では湿地帯へ道が延びている。しかし眼前には身の丈2倍程のブッシュが、既にこの後の沢歩きをスッカリ忘れて全力の我々。
この程度の薮など…笑止。
photograph:koichiro
「牧場のばっふぁろー」などと人前では絶対に口に出せない叫び声を上げながら突き進むと以前のエントリー最終地の湿地帯へ出た、辛うじて道が残る場所へ出れた事が何より嬉しかったがその後更に嬉しい誤算が待っていた。
あ、あれ?前回と随分雰囲気が…違う?
photograph:koichiro
たまんねぇなおい!
写真だとこの感動が伝わらないのが口惜しい、いやホントに凄いんだよココ。前回と全く違うもの、まさかあの枯木達が生きている群生植物だったとは思いもよらなかった。てっきりと枯れてしまった死んだ土地かと思ったけれどこりゃー凄い、ちょっと前回と比べてみましょうか。
こうだもの。
いや、最後の最後でビックリさせて頂いた。敷地内のその殆どを回る事が出来た(と、この時点では思っていた)しこんな素晴らしい風景にも出会えたしとっても満足です。まだ朝の8時だけど帰ってビール呑みたい気分だ、って事で現地での撮影と調査はこの辺で終了です。
ここから帰宅後の机上調査の結果を少々お伝えするとしましょう。
エントリー冒頭でも書きましたが2014年の8月にこの廃牧場に関して動きが在りました、今後近い内に再開発が行われると言う内容です。
前回のエントリーでこの牧場の成り立ちと運営、そして廃業への経緯をお伝えしました。今回は歴史よりも行き着く事が出来なかった廃屋の撮影をメインにしていたワケですが思いもよらず大きな分水嶺を迎えた時期と重なった事に成りました。
前回までの机上調査では牧場自体の運営に主眼を置いた調査だった為に完全に見落としていた内容、「現在の利権内容と今後の展開」…これらの調査です。残留物にも目を奪われ、本当に一番大事な事を忘れていました。
で、早速と登記関係を調査すると…ん?
一般公開されていない不動産情報リストにこの牧場の住所が掲載されているでは在りませんか、早速詳細を調べると昨年の時点でこの牧場一体を以前の管理人さんが売却、売り手が付くまでは今まで通り簡易的な管理を行う形を取られて居た様です。
しかし2014年08月、とうとうこの土地を買いたいと言う方が現れて商談が開始されました。そして現在の所有者である不動産会社のウェブサイトにも売り物件として一般に公開され、本格的な再開発の動きが始まろうとしています。
これで合点が入った、現地で感じた人の気配。幾ら房総の登山人でもこの夏季には入ろうとはしない、せいぜい春先か秋口だろう。それなのに直近で人が入った形跡(足跡や明らかに人の手による残留物の移動など)が気には成っていた、そう言う事だったのか。
そして入口の看板の変更。
photograph:koichiro
管理者の変更に伴って真新しいボード(※1)が貼られているとは思っていた、全てが繋がった。関係者にお話を聞く事が出来たのだけれど内容としては、
「現在商談中で決まれば別荘地などの再開発が行われると聞いている」
との事、まあ広いですからねぇ。今回の撮影調査でも新たな謎を生んだこの物件、どうやらこの間々迷宮入りで終了しそうだ。と、言ってもその大部分は解き明かせたし当ブログとしても不満はない。
※1:登山者として入山許可を得て入っております
が、んんん?
先ほど物件紹介の画像を良く見ると「高圧鉄塔有」と書かれている。この牧場敷地内に高圧鉄塔なんて無いぞ?と疑問に思って航空写真を広域にしてみると…
「在った!牧場敷地から更に北西に鉄塔が数本在る!」
…え?牧場だけでも広大な土地なのに、あれ?あの鉄塔が在る場所も売り物件の敷地内なの…か。いやいや、それ入れたら更に倍以上の広さに成る計算なんです…けど…。
実は更に広かった、と言う二転三転の面白おかしく、そして大変お美しい廃墟物件だったエコー牧場。大変美味しく頂く事が出来ました、再開発は残念ですが大好きな房総半島のイチ歴史に埋もれる前に触れる事が出来たのは幸運と言っても良いでしょう。
本日は以上です。
アプローチルートは近隣の配慮及び管理体制が変わった事から地図リンクは不掲載です。
photograph - nee
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REPORT - 0821│笹川湖の立ち枯れ
千葉県│笹川湖
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 笹川湖(片倉ダム/君津エースゴルフ場廃橋)
当ブログでも度々エントリーして来た房総半島の廃橋が在る、既にティンと来た方も居ると思うがゴルフ場建設時の工事車両搬入路として建造された鉄骨トラス橋の「君津エースゴルフ場の廃橋」だ。ご存じない方は過去のエントリーを参照して欲しい。
その他の廃橋物件は「割橋プロジェクト」別途ソーとページをご覧下さい。
今回のエントリーとどの様に関係して来るかと言えば件の廃橋、この笹川湖の北部に架かっているのだ。以前よりカヤックを降ろしてアオリの写真を撮りに行きたいと考えていたのだけれどこの廃橋に興味が無くなった事と房総半島でのカヤックの遊び場が亀山湖に集中している事でこの笹川湖に食指を伸ばす事を忘れていたのだ。
今回は同行する人も居るのでカヤックではなく電動モーターを装着したボートで廃橋の下まで向う事に、しかし行ってみたらこれが廃橋なんてスッカリ忘れる位の絶景さんの連続でして。
このブログにしては珍しいイメージリッチな内容で大変美しい「笹川湖」をご紹介しましょう。
今回ボートのレンタルでお世話に成ったのは笹川湖で長く釣りボートのレンタル業を営むお店「レンタルボート笹川」さん、カヤックと違い電動ボートは浅瀬に弱いので水位の低い夏季などの湖内の浅瀬ポイントを丁寧にレクチャーして頂いた。
レンタルボート笹川
http://www1.odn.ne.jp/~cbg17200/sasagawaboat/home.htm
名称:レンタルボート笹川(笹川ボート)
住所:〒292-0526千葉県君津市笹1743-28
電話:0439-39-3655
連絡:sasagawaboat@pop21.odn.ne.jp
当日は写真撮影の為に色々と協力して頂いて有難う御座いました、またお世話に成る予定も在るので今回同様何卒宜しくお願い致します。
地図上での「現在地」がレンタルボート笹川さんの船着場、ココから遠く君津エースの廃橋まで延々とボートで向う事に成ります。車なら数分の距離ですが釣り用の電動ボートは全くと事情が変わってきます、何せ遅い。そして最高速度は持続して出せない(モーターが焼けてしまう)のでじんわりと進む事に成ります、よりによって一番遠い笹川湖最北端…片道30分以上の船旅に成ります。
湖上に出てから15分、立ち枯れの木々が姿を現し始めた。この笹川湖に来た目的は本来君津エースのアオリ撮影だったけれどもう一つ、この「立ち枯れ」を撮りたかった事も理由のひとつだったのだ。
立ち枯れと言えば大正池や青池が有名だけれど房総半島にも笹川湖と言う素晴らしい「立ち枯れ」の景観ポイントが在る事を知って欲しかった、いや実際北海道の青池が一番綺麗だったけれどもねぇ。
更に進むと大きな立ち枯れの群生(生きてないけれど)が、これは中々綺麗じゃないですかー。そもそもこの立ち枯れ、要因は色々と在って立枯病や青枯病など水生植物にも影響を及ぼす細菌性や水分の供給過多(水没)に因る単純な立ち枯れなどが知られている。
笹川湖に至ってはダム化(※1)した際に周囲の水位が上昇して水分過多と成り、単純な水没の為の立ち枯れが発生した。現在この美しい景観を見る事が可能だが釣り人からは木々が邪魔でポイントに行けない、行きづらいとの理由で伐採の声が挙がっている。実際この笹川湖でも幾つかのポイントで伐採跡が確認出来た、景観と商業の両立が難しい問題だ。
※1:周辺の小櫃川流域の水害対策の為、2002年に片倉ダムが完成した。
片倉ダム - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E3%83%80%E3%83%A0
あ゛あ゛~これはEよ、これEじゃないか。
この時点で既に廃橋の事は忘れてしまって立ち枯れの魅力にすっかりと取り込まれてしまっていた、後程「レンタル時間」の延長料金に泣かされる事に成るのだけれど今はヨシとしようじゃないか。
見えて来た、君津エースの廃橋だ。当日は水位がえらく低くて直下に行く事は適わなかったけれどこの立ち枯れとのコンビネーションが撮れた事にテンションがボルKノ状態、夏が暑い。
この「画」を見た所為で興味が失せていた廃橋を絡めた新しいアイディアが浮かぶ、その内やろう。次はボートに固定出来る三脚を用意して撮影だ、やるんだ…あの場所でハイジのブランコを。
無線と固定用三脚ドーリー、あと気合。うん、気合以外は全部持ってるぞ。
Uターンして帰路に着きます、途中別アングルで立ち枯れの集中する場所を重点的に撮影。
と、各所に写り込む「赤い」何かが気に成りませんか?ボートを操作中にもこの赤い何かのお陰で推進力が低下したり景観が阻害されたりと少々イライラしておりまして。
最初、落葉かと思ったけどそんな時期でも無いし。そうすると水生の植物なワケだけれど特徴的に「アカウキクサ」かなぁと推測、肉厚の赤い藻の仲間です。
アカウキクサ - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%82%AD%E3%82%AF%E3%82%B5
が、調べると農薬散布の影響で現在では絶滅危惧種だと?流石にコレだけ大発生している藻の正体が絶滅危惧種では無いだろうともう少し調べてみると…
「アゾラ・クリスタータ」
同じアカウキクサの仲間で外来種だと言う事が判明、これアチコチで大発生の被害を齎している害草。類似の在来種を減少へと追いやるだけでなく、周囲の生態系にも著しく悪影響を及ぼす事から問題視されている。
アカウキクサ属 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%82%AD%E3%82%AF%E3%82%B5%E5%B1%9E
カヤックでないと進入が難しい水位の低い雑群地帯、来年の雨季にでも再訪したいと思います。
今回の撮影、ワタシがボートの操縦を行っていたので撮影は全くあれでした。パシャって頂いたのは2014年の霧降アタックから参加のkoichiroさん、最近良く一緒にお出かけします。
KOICHIRO'S PHOTOGRAPH GALLERY
http://ameblo.jp/koichiro-m
大きな声が言えんけれどもカメラから開放されて楽ちんやで。
本日は以上です。
アプローチ
東京方面からだと国道465号線から房総スカイラインを経由して出口と成る県道24号線へ、出口T字路を右折すれば笹川湖(片倉ダム)と成ります。
地図リンク
http://goo.gl/maps/kYP7A
photograph - koichiro
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REPORT - 0822│天津滑山 大山祇神社 確認再訪
千葉県 │ 天津滑山 大山祇神社
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 神道教派 御嶽滑山大山祇教会
房総半島におけるライフワーク、出会ってからは初詣の如くお邪魔している廃神社が在ります。勿論このブログでもご紹介しているばかりか詳細をまとめた内容を公開している訳ですが本年の参拝は随分と遅れてしまいました。約1年半振り、ご無沙汰しておりました。
天津滑山の大山祇神社です。
過去には鴨川市教育委員会さんにも協力頂いてこの廃神社の謎を解き明かした訳です、が。何故かそれだけでは終らせてくれない不思議な魅力を持ったこの廃墟、朽ち倒れるまで見届けたいと勝手ながらずっと追い続けているのですよ。
今年(2014年)の2月には記録的な豪雪で関東も漏れなくその被害に合いました、この神社を擁する鴨川市もやはりその雪害は甚大で多くの家屋や農業関係のハウスを圧落させています。2011年の震災で既に虫の息だったこの廃墟ですが果たして豪雪のダメージは如何程に、ふと思い出して遅めの初詣は9月と成ってしまいました。
それでは2014年の大山祇神社をご覧下さい。
おおおおおおうっ
まだ建ってたー、良かった…地震に耐えて尚あの豪雪にも負けはしなかったか。が、しかし流石にそのダメージは目に見えておりまして。
木々で邪魔されて見え辛いですが向って右側の炊事場は完全に崩落しております、何より正面が既にヤバい。折れ掛かった主柱1本でどうにか屋根部分を支えている状態、これは非常に危険な状態でいつ崩壊してもおかしくないってレベル。
ちょっと怖いけれどそろ~りと中にお邪魔しましょうか。
もうね、色々と。
左側面は柱と壁が共に消失、右奥も傾斜がついて勝手口部分も崩落寸前。屋根は所々抜け落ちていて光が差し込んで逆に神々しい、正面神棚が辛うじて解る姿を残していた。
因みに屋根の瓦は半分以上が落ちています。
この神社の本来の信仰、「大山祇神」を祀る神棚は完全に崩壊。2012年までは確認出来た関連する神具は持ち去られたのか所在は不明、どうやら主神「滑山大明神」は山に帰った様だ。
神社を形作る柱や床板などに宿っていたであろう威力を無くしたこの廃神社、崩落は近い。
こちらは合祀されていた…と、言うより後の主神と成る御嶽大神の神棚。奉物(お茶のペットボトルなど)は2012年に確認した物がその間々残されている、つまりはここ2年間はまともな参拝者は居ないと言う事に成る。
だけれど来る度に微妙に位置が違っていたり物が減っていたり、掃除はされている様子が無いからどういった経緯かは解らないけれど人が来ている事は解る。
神具が残っているので奉称「御嶽大神」の「国常立尊」、「大己貴命」、「少彦名命」の三柱の大神はまだこの場所に鎮座されている様だ。しかしそれとて何時去るのか、本当にもう直ぐなんだと切実に思う様相だ。
これ、見てよ。
理屈は解らない、だけれど不思議な力で辛うじて。どっきりどっきりどんどん不思議な力が湧いている様だ、どうして倒れないのかホントに謎ゾーン。
これが同アングルの2012年1月、これだけ崩落が進んでいる。狛犬さんも寂しそうであります。
少し離れた場所に残されている顕彰碑、成長した木々に覆われてしまっているけれどまだシッカリとその姿を残していた。
最後に追い始めてからの崩落の経過を見てみようか。
次回は来年(2015年)の何時に成るか、それでも毎年必ず訪れるこの廃神社。4年も見続けていると奇妙な愛着も沸々と、どれだけ頑張ってくれるか解らないけれどまた来ます。
それまで、どうか。
※ 個人的心情から地図リンクは不掲載です。
アプローチ
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
地図リンク
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
REPORT - 0823│湊川水系本村川源流 - 前編
千葉県│湊川水系本村川源流 - 前編
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 湊川水系本村川源流
正直舐めていた、房総半島には間滝を越える面倒な滝は無いと。正直侮っていた、房総半島に梨沢を越える美しい沢は無いと。千葉県の沢は意外と凄かった、その最終兵器が満を持しての登場だと銘打ちたい。
冒頭にも書いたが、
この2つの物件は房総半島でも抜きん出て美しく、そして沢屋として純粋に楽しめる数少ない景勝地だ。特に間滝は近年では最短ルート(※1)が一般化するまではそのアクセスの悪さから数十年と新たな情報が無かった場所でも在る。そんな間滝さえ稚戯に思える場所をご紹介しよう、
湊川水系本村川源流。
ここはヤバい、兎に角ヤバイ。傾斜のキツイ深い植林+ブッシュと倒木、そして切り込んだゴルジュ。地質は泥岩質で崩落箇所も多いと言う沢歩きの”泣き所”が大盤振る舞い。ヤマダニやヤスデ、マムシさんの楽園でも在るこの場所、人を寄せ付けないその地形は原生する生態系と美しいゴルジュを今に残していた。
※1:県有林を無許可に通過するだけでなく、案内板まで勝手に設置して開拓されたルート(旧作業同)。
この美しいゴルジュに魅せられるキッカケと成ったのは山岳会の知人から送られて来た1通のメールの内容に起因する、
「鹿野山にやべぇ沢在るんだけど見て来てくんねぇ?」
要約するとこんな感じ、東沢や丹沢ならまだしも房総ですか。確かに房総の山は低く、登山としての難易度は低くて面白みに欠ける。一方で高低差の激しい起伏に富んだ沢の形状はオフシーズンに全国の岩屋や沢屋がトレーニングに集まる程、温暖な気候で冬季でも安全に自然が楽しめるのも手伝って密かに人気が在るのだ。
結論として今回の本村川源流の沢アタック、房総半島の中でトップクラスに厄介なラスボス級の物件でした。危険な場所だとは聞いていたから出発前に情報収集に取り掛かったのだけれどこれが全くと言えるほど手掛かりが無い。
場所は幸運にも山岳会の方からお聞きしていたので現地に到着出来れば自分達でどうにか攻略は出来るだろうと思う、しかしレポートに必要な歴史や情報はどうやって仕入れれば良いのだろうか。
色々と思案して県内の航空写真を撮影している測量会社さんに協力を願って現在公開されていない古い時代の測量データを閲覧、また海外のウェブサービスから米軍が撮影したこの地域一帯の航空写真を入手。そこからは古書や聞き取り調査でこの沢の外殻を少しづつ剥がして行く作業が続いた、伝聞記録も多分に含む内容だけれど少しでも多くの情報を残せればと今回のレポートにドリップしている。
実質調査としては本流湊川から支流の飛清川を経て更に支流の本村川、更にこの本村川を形作る支流の一本として現在では涸沢が残っている場所が今回の目的地だ。
手掛かりが少ない以上は現地での状況を優先。必要十二分な準備を行い、早朝4時に自宅を出発。予備物件を撮影して現地に到着したのが9時過ぎ、ここから地獄の山行が待っているのだがその先には房総半島とは思えない絶景が待ち構えて居ようとは夢にも思ってはいなかった。
それではレポートを始めましょう、ツーマンセルで挑んだ房総半島の最終兵器をお楽しみ下さい。
車のデポ地は鹿野山カントリークラブから程近い神野寺の駐車場、ここをお借りして着替えと装備の装着を行う。今回は最初からラペ装備(※2)で完全に崖対応を念頭に置いている、ロープも小分け(※3)で3本の合計60m。ジョイント器具も用意しているので60m一本降下にも対応出来る、まあ房総にはそこまで高低差の在る崖や滝は珍しいので小分けで使用して上手く目標地点まで行ければと考えていた。
※2:通常のクライミング道具+スリングラダーや登攀器具、シャックルプーリーなど。
※3:豚鼻や小型のカラビナなどロープとロープを接続する道具、ロープワークでも代用出来る。
国土地理院の地図で等高線を参考にすると航空写真ではこんな感じで行程は進む、3mまではフリーで対応してそれ以上は身体能力依存とナイロンスリングで対応。それ以上の高さや難しい場所はロープを使用してクリアして行く予定だ。
神野寺の駐車場の裏手から植林地帯に入る、が既に傾斜が殺人級(※4)で降下出来る場所がかなり限定されてしまう。比較的緩やかな地形を舐める様に降下、しかし緩急と言うか起伏に富んでいると言うか…兎に角歩き辛い場所だ。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差5m
※4:傾斜が急なだけでなく、踏破可能な場所が限定される場所も多数で困難を極める。
[ 注意 ] クライム経験者及びロープワーク熟練者以外の来訪は避けて下さい
この場所の入渓ポイントは詳細に説明はしません、序盤こそ体力に自信が在れば進める行程ですが落ち込んだ地形のゴルジュ帯に関しては房総半島とは思えない難易度の高いエリアと成ります。木々に阻まれGPS感度は低く、また携帯の電波も疎らです。ソロアタックは元よりツーマンセルでも危険な状況が多々予想されます、生粋の沢屋や岩屋(※)なら問題在りませんが興味本位での立入は切に控えて欲しい場所です。
※ 沢屋や岩屋なら特に問題無いレベルと思われます、エントリー表記での難易度は一般の見識を具体化した内容です。
傾斜がキツくて樹木達も根を伸ばしながらへばり付く様に成長を続けている、根が出ている原因は豪雨などで斜面の土が流されたか地盤が弱くて他方へ延ばさないと幹を維持出来ない、または地質的な問題が在るなど色々と考えられる。この場所は急な斜面と地盤の問題の様だ、登りに関してはフック+ステップ(※5)として機能してくれるので実は以外に在りがたい。
※5:急斜面において延びる根は正に雲の糸と言えるバイトポイントと言える、実際何度も助けられた。
時折現れるフロア(※6)に少し気を緩める、相棒も前日にボルタリングで剥がした爪を気にしながら歩いている…のか?。
※6:重力が真下に働く水平の場所、非常に在り難いエスケープポイントと言える。
降下地点としてどうにか利用出来そうな場所を見つけた、標識など一切無い山中でも誘われる様に導かれる場所が在る。きっとココがベストなポジション(と自分に言い聞かせて)、ベースと成る樹木もシッカリとしていて心配なさそうだ。ここからまず3メートル程降りて45度程度の緩い斜面を経由して4メートルの壁面をラペリングで降下、房総特有の泥岩質だけれどナメと言うよりサラっとしてる(※7)。まあどちらにせよ滑るのですが。
それじゃオッパジメますか、この難攻不落の涸沢にギャフンと岩瀬太郎っ。
※7:泥岩質でも長期間涸れが続くとサラサラの表面に、その代り崩れる時は大規模にボロっと落ちます。
そうだ、最初にこの沢の全体図を見て貰おう。
現在の合計7メートルの降下地点を基準とすると最終目的地の連続瀑布(涸滝)までは直線距離にして300~350メートル(高低差の在るゴルジュ帯入口まで)、大荒れの沢なので総合的には倍の距離を歩かされると考えて良い。山岳会の方からは「テクニカルな場面が多いから丸一日掛けて遊んでおいで(ニッコリ」と言われているので体力を温存しつつ攻略を進めて行こう。
まずは入渓の為に着地点(※8)を良く確認して降下開始。
※8:着地点がポットホールだったり堆積物が軽くて実は凹地だったりと確認作業はとても大切です。
太くシッカリしている樹木にロープをセット、そこから3メートル降下して中間ビレイを確保する。斜面だけれど足場は固い、多角的な場所なので人を介してロープの垂らす方向を変えて更に3メートル程降下したのがこの写真。
プーリーをセット出来れば良いのだけれど捨てロープのスリーストランドで10mmオーバーはそもそも入らない、スリーストランドはグリップが高いからその間々下方7メートルのゴルジュ壁に取り掛かろう。
※ 三打は捨てロープとして意外と使える、命預けないレベルなら意外と重宝するのです。
地形が入り組んでいて降下し辛い、が涸沢の為か壁が意外とナメていないのでスンナリと降りる事に成功。写真は降下途中の僅かなステップでシェイク中の1枚、マッシャーなどを使う場面でもない。
元々は神野寺付近が山頂の小さな山が在り、その入り組んだ山間から湧出している自然水と地中に含有されている雨水が源流と成った沢だ。これは最後尾で説明するので興味が在れば読み進めて欲しい、開発前の古い航空写真を交えて解説したいと思う。
話を戻すけれど房総半島がまだ製炭産業を残していた頃は随分な湧出量を誇る川だったに違いない、それが道路整備によって県道93号線が出来ると源流とその直下の滝の間で分断されてしまう。
これに因って周辺では整備後に水害が幾度と無く発生してその場限りの砂防ダムやコンクリートによる整壁工事が行われた様だ、現在では下水整備が整った事で水害に悩まされる事も無くなり、過去の産物と成った砂防ダムなどの崩落破片が沢に転がり落ちている。
※ 砂防ダムの破片が原因で様々な問題が発生、詳細は後ほど記載します。
※ 毎度ですが捨てロープとして補助用のスリーストランドで降下してますが本来は全てカーンマントルを推奨します
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降下地点から上流側を撮影、中央で二股に分かれており、向って左側は製炭時代の旧道(廃林道で地図には辛うじて描かれている)から見えるガリーに続いている。右側は源流へ続いていて涸滝(※9)がこの先に残る、GPS上では上り詰めれば車のデポ地付近に到達出来る様な位置関係だ。
※9:滝の名前は確認中です、判明するまで今暫くお待ち下さい。
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二股右側(源流)に進入、この先に小滝を含んだ複合滝が幾つか残り、本源流近くには名称未確認の滝(第一瀑布)が。この滝の名称は行政や関係が予想される各所に確認したが記録に残されておらず、測量関係企業のデータベース(地図製作に利用される測量データ)には名称不明の川(滝表記無し)として書かれていたので何れ確認したい最重要項目だ。
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中央左側のガリー、恐らく旧道から降下出来るものと推測される。しかもそれだけじゃない、現地で幾つか思いついた事がある。
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現状今見えているゴルジュの上部へ行くのは現在地から稜線沿いに目視出来る事から実際に行く事は可能だ、成らば今回の降下地点よりもステップが多い中央の壁面や左側の傾斜の緩い壁面をフリー(※10)で降りる事も可能では無いか。
※10:山間部の降下手段としてロープは温存したい、フリーで降下出来るポイントはその必要不可欠要素。
降下地点やその方法は更なる調査の為に次回までの課題としたい。
第二瀑布へ続く狭いゴルジュ間のフロア、昔は水量が在って流れも強かった事が両壁面から伺える。ましてこの川幅(1.5メートル程)だ、今では見る影もないが少々寂しい気がする。
中央に見える苔生した倒木、これは途中で折れてはいるものの滝口まで延びている。と、言うか滝口より更に突出しているので倒木の先までヨチヨチと歩けば滝の直下を見る事も出来そう。と、成れば。
ビレイの為に一度登攀して上部で待機人員を置いて丸太の上を慎重に歩いてみようじゃないか。
滝口、ここまでは丸太から地上までの高低差が少ない為、恐怖心も無い。が、丸太自体は腐っている為にいつ折れてもおかしく無い状況だ。ここから更に突出している先端部分に向う、空中散歩は凡そ2メートル。
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写真では解り辛いかもしれないが直下10メートルの滝口よりも先に出ている、丸太は相変わらずメキメキと音を鳴らして警報を鳴らす。
下方を見ると滝壺付近が非常に複雑な形をしているのが見えた、本来見えない滝壺も涸れればこの様に姿を現すのか。そしてその奇妙に形成された地形に好奇心が沸々と。だけれど降下出来る可能性が低い立地と状況だ、今回は対岸を巻いて最終目的に向うとしよう。
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ところ変わって対岸を上り詰めての急斜面。
最初の懸垂降下地点から対岸壁をフリーで登攀(※)して回り込む様に旧作業道方面へ、一度高度を上げて周囲の状況判断とルーファンを行います。
※ 残置ロープは帰路にて回収しています
最初の降下地点は植林地帯だったけれどここは自然群生している樹木の様だ。GPSで確認すると途中に狭いゴルジュが在る、山岳会の情報で崩落が沢を埋没させている上に倒木が進行の邪魔に成っていると聞いていたのでその場所を避けての行程が僕らにとっての予定設定ルート。
この面倒なルート取りも踏破不可能エリアの存在を踏まえ”巻いてから再度沢に降下”しようと現地で状況判断を下した結果でして、1時間近くロスはしたけれど思惑通りの場所に出られそう。
年間を通して源流湧出が枯渇した事で完全な涸沢と成っており、ゴルジュ壁面は砂壁化。その割りに土壌の雨水含有量が多い事で植物の群生を促して何処を歩いても薮、薮、薮。ハーフマディの非常に歩き辛い山中で脆弱なGPSを頼りに進路を南に向けて歩きます、ガリガリと体力を削られてメンタルゲージはもう僅か。
因みに傾斜は写真の様な非常にキツイ状況、豪雨に因る土砂崩れも散見出来ている事から頻繁に地形の変化が生じていると予想されます。
地図を見る限りゴルジュで囲まれたこのエリア、しかし良く見ると傾斜の甘い場所が2箇所程見て取れた。その様な場所は崩落し易い形状とも判断出来るので安全に降下出来そうな場所を探しながらラペポイントを設定、フリーで降りれる地形だけれども返し(※10)の事を考慮して20メートルのロープを垂らした。
※10:帰りの登攀の事や体力を考慮してイージーな場所でもロープを出す判断も必要、傾斜角度より泥岩質や砂壁質でのバイトレスが問題に成ります。
GPS上での場所はここ、感度は最低を示している。時間は11時45分を少し経過した位、入山してからは3時間近く経過していても目的地に到着出来る感じが全くしない。期待する風景は高低差の在るゴルジュ、苦労してここまで来たのだし房総半島特有の歪な地形を見るまではどうしたって帰れないんだ。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差20m(時々圏外表示)
ラペの最中にロープをロックして目線を下方に向けてみた。解り辛いけれど崖の途中で首だけ下に向けた様な状態、少なくても見えている部分は全て崩落箇所と言えよう。
どうやらこの沢の中でも最悪の崩落+倒木地帯の先端に降り立つ位置関係、不幸中の幸いでギリギリこのエリアを巻いた場所に出る事が出来そうだ。
乾いた斜面でズリズリだけれど慎重に降下、時間はまだ在るので興味本位で崩落+倒木エリアに少しだけ足を踏み入れてみましょうか。
思いのほか威勢がよろしい
土砂崩れに巻き込まれた樹木が折り重なる様に天然のダムを形成している、更にその樹木から若い薮が発生。これはちょっと歩けない、地面も殆ど見えない状態だ。この中に入るとGPSは精度を落とすばかりか完全に沈黙、現在位置を見失ってしまった。
うん、もういいや。
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涸沢に降り立つと木々の合間から空が見え隠れ、お陰で微弱ながら現在地を確認出来る事が出来た。等高線には存在しない小さな落差(1m~2m程)の幾つかの涸小滝を下ってみると美しいゴルジュが姿を現した、そう…やっとこさで今回のメインエリアの入口に辿り着いたのだ。
地図上ではココ、車のデポ地から直線距離では300メートル位。しかし既に山中を数キロ分は歩いている、正直この手探りの山行は非常に辛い。
地形の所為で進行方向が定まらず、しかも時折現在地点も解らなく成る。加えて帰路を踏まえての懸垂降下、嫌な条件が揃い過ぎててもう。
だけれど僕らは歓喜する、緩やかに下るその先に求めていた風景が顔を出したのだ。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差10m
!!!
お、おおお、おいおい。何だこりゃ、ゴルジュの廊下が…こんなにも綺麗に続いているなんて…。既に頭の中で破裏拳ポリマーのOPが8ループ位していて「そろそろEDに切り替えるか…」とかちょっとヤバイ精神状態だったけれども既の所で正気を取り戻す事が出来た。因みにEDは1回だけ脳内再生した、短いからなっ。
予想以上に長かった(ポリマー8ループもな)、時計は12時半を過ぎた辺り。4時間近く経過してやっと出会えたこの狭い谷間だがその怒涛の美しさは留まる事を知らなかった、いや本当に凄いぞこの場所は。
この間々どばばぁーっと続けたいけれどアメブロのテキスト24キロバイト規制の為、後編へ続きます。後編は以下よりどうぞ。
※ エントリーは2日間に分けて行っております、後半は明日(141011/2000)に更新致します。
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