千葉県 │ 湊川水系本村川源流 - 後編
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 湊川水系本村川源流
ベータで録画した川口探検隊の水スペ映像で驚く時のリアクションはインプットナウ、足りないのは田中信夫の声と演出SEだがコレばかりはご勘弁願いたい。さて、前編は以下よりどうぞ。
( ゚д゚)
正直驚いた、この風景が房総だと言う事に。
しかし長かった、時計は12時半を過ぎた辺り。4時間近く経過してやっと出会えたこの狭い谷間だがその怒涛の美しさは留まる事を知らなかった、いや本当に凄いぞこの場所は。
無駄に挙がる変なテンションで、
「あの倒木、渡ろう」
よろしくない持病が発病した。
地上に居る僕からは見えていなかったが空中散歩を楽しむ彼には見えていた、深く切り落とされたゴルジュを裂くその川筋が、これから目の当たりにする絶景が。そして今回の目的地が直ぐそこに迫っている事を。
「行きますか」
「そうね」
慢性化した疲労が眼前の絶景さえ凌駕していくのを如実に感じながら、それでもやはり押さえられない期待感を辛うじて維持しながら。
ほんの少し、歩を進めてまた立ち止まる。
photograph:+10
こりゃ凄ぇえっ!
こ、ここは一体何処なんだ。
今回の湊川水系本村川源流において目的地として設定していた連続瀑布帯にとうとう到着。しかしこの異様な地形は何だ、濁流に抉られた様なカーブを描く涸沢に圧倒されながら更にその先はどうなっているのか興味が尽きない。
この地形を形作っている要因は幾つか考えられるけれどそれは時代の移り変わりと共に変化した水量と水位だったり、それに伴う侵食だったり。例に良く出す同じ房総半島の「間滝」でも似た風景を見たがこの圧倒する迫力と規模はその非では無い。
そして急激な水圧の上昇と下降を繰り返す内にこんな特殊な地形を形成したのだろう、写真では解り辛いけれどあのブラインドの先ってば…うん、確実に落ち込んでいる。
しかしグングンと高度を下げてくな(※11)、ちょっと怖いわ。
※11:見える範囲だけで10メートル以上は高度を下げています
簡易的な図では説明出来ない地形、単純にこんな感じではない事だけは伝えておこうか。
しかし図でも言葉でも、うん…実際に見ないと解らない複雑なこの地形は確実に房総半島の最終兵器と言える。狭さと足場の悪さ、そして急激に落ち込んでいるこの連続瀑布帯。
求めていたモノが確かに在った。
中央に突出した苔生した岩、これ実は人工物だ。こんな場所にどうやって…と思うかもしれないけれど実は1970年代に整備された上流の砂防ダムが破砕して一部分がここまで流れて来たのだ、つまり涸沢に成る前にここまで濁流に運ばれた事に成る。
先端に乗るとグラグラと揺れた、いや揺れているのは視線かも。
だって震える様な絶景がね、もうね。
こいつぁやべぇって。
あれ?ここ房総半島だよねぇ?
後の机上調査で正確な測量が行われていない場所だと知った、その理由は沢が生きていた当時(水が流れていた頃)はその立地により高精度な測量が不可能だった事、そして涸沢に成ってからは荒廃して近づけなく成った事に起因している。
そりゃそうだ、頻繁に地形が変化するしその変化を起こしているのは自然自らっていうね。GPSと現在位置が合致しない、等高線が描かれた国土地理院の地図と現場の地形が違う…これら多くの原因はこの場所が抱える多くの要因に対応出来ないからだったんだ。
しかしこの落ち込みは凄いな、チムニーとチョックストン、それに様々な倒木が最後の抵抗を僕らに試みる。
人一人が辛うじて通過出来るかって程の狭い瀑布帯、それぞれのテラスも2人がギリギリ足を下ろせる広さだ。まずは10メートル少々の最大落ち込みが予想される第2瀑布を確認する為にフリーで降下してみようか。
場所はこの辺だと思う、GPSが完全に沈黙して電波を拾ってくれないからあくまで予想。いや、だけどもさぁ…地図とこの現状じゃ違いすぎるだろうよ。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
現在この場所を降下中、やはり図では解り辛いけれどかなり危険な場所です。この数段のチムニーを含めると20メートル近くの行程差だ、壁面や足場が崩落すれば命の保障は勿論無い。
目視で第3瀑布を確認してラペリングが可能な事と着地点が問題無い事を把握、上り返してチョックストンからロープを延ばす事で連続瀑布帯+第3瀑布を降下する事に決めた。
ラペの準備を進めていると右側壁面に珍しい昆虫を発見、頭上の樹木から落下してしまった様だ。山中では珍しくないけれどこの種類は余り見ない、トビナナフシだ。
通常山の中で出会うのは普通のナナフシとエダナナフシが殆ど、トゲナナフシに至ってはまだ見た事もない。トビナナフシも相当見る機会が少ない種類、まさかこんな秘境でお逢いするとは。
枝に擬態する事で有名なナナフシ、その中でも異端児としてこのトビナナフシは有名だ。と、言うのもその名の通りにこのナナフシは”飛ぶ”のである。
「枝が空を飛ぶ」
なんとシュールな事か、ボディサイズと造形特徴からこの固体はトビナナフシのメスと判断。僕らの遊びに巻き込まれない様に撮影後は壁面を登り切るのを待つ、丁度良い休憩時間に成ったですよ。
カーンマントルを上流のチョックストンから延ばした、流石に本物のロープを使いますよ。
情報以上に高く感じる第2瀑布最後の滝口のテラスでサブビレイ、相棒がスラスラと降下して行く。まずは特攻(ブッコミ)担当が更に下流を確認しに、いてらー。
どうやらブラインドの先30メートル程で最後の第4瀑布が顔を覗かせている様だ、地形も問題無さそうだし返しの登攀も大丈夫そう。
次にステップラダー×2本、ナイロンスリング×2本、カメラを降ろす。これで準備は整った、本当はビレイ担当で降りるべきじゃないのだけれどね。
この景色を見る為にやって来た、感無量で御座います。
房総半島にこんな素敵な、そして厳しい自然が残っていた事に感動しましたですよ。そして更なる興味も出て来ました、この本村川とはどんな歴史を辿った川なのか…と。
既に翌年の再訪に向けて現地では動画撮影のアングルや更に簡単にアクセスする為のルート探索も行ってある、次回は今回の半分以下の時間と労力でこの場所まで来れる事だろう。
それらの事前調査も含めて帰宅後の机上調査を冒頭の件(前編参照)と合わせて最後に語ろう。
photograph:+10
GPS精度が下がっているが現在地はこの辺を指している、地形を見る限り恐らくはもう少し下方の回り込んだ場所ではないかと予想。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差10m
事実、第3瀑布を降下して直ぐに左側へ緩やかにカーブを描いている。滝の高低差を考えるとやはり現在地は更に下方であると思われる、沢沿いに歩くと直ぐに最後の第4瀑布が姿を現した。
ロープが尽きて降下出来ないのが残念だがこれが滝口から見下ろす形と成る第4瀑布、高さは先程の第2瀑布よりちょっとだけ低い様に見えるけれど10メートル位だろうか。この本村川の滝は全て90℃の直角に近い落ち込み地形だ、大型の滝では珍しくないけれど小型と言える10メートルそこそこの滝でこれだけ垂直に落ちる滝は珍しいとも言える。
因みに下流側からこの直下に行き着く事が出来るのでその内歩いても良いだろう、まずはこの上流域で再度カメラセットの内容を見直して別機材と撮影機材を揃え、記録用写真(+動画)の撮影に再訪したいと思う。
以上が現地での模様だ、房総半島の最終兵器はお楽しみ頂けただろうか。まだまだ語り尽くせないし実際に見ていないエリアも在る、再訪時に合わせてお伝え出来ればと考えている…が。今回は帰宅後の机上調査内容をまずは見て頂こう、辿れたのは戦後間もない1948年から。
それでは引き続きレポートを続けるとしよう。
photograph:+10
本村川源流及び上流の連続瀑布帯
この本村川、元は神野寺を要する低い山を源流に持つ川だ、冒頭でも説明したけれど湧水地は複数在るけれど本源流と成るのは山頂付近。道路整備によってその流れは隔たれて以降は道路下方の別の湧水地と山中の雨水とが複合的に流れを作り出していた。
1940年代には別の流れが形成されている事が確認出来る、それ以前の記録や写真が無い事で詳細は不明なのだけれど残されている情報からこの沢を解明してみようか。
※ オンマウス(ロールオーバーで画像が切り替わります)
1948年撮影の航空写真、撮影は何と米空軍。戦後の日本国土を調査撮影していてその中の1枚だ、オンマウスで現在のグーグルマップの航空写真とリンクしている。多少の誤差は勘弁願いたいけれど約70年でどの様に周辺とこの沢が変化したかを参考にして欲しい。
源流は間違いなく神野寺後方の山頂付近(※12)、しかし道路がその流れを隔ててしまい新たな支流が生まれる。偶然にもこの支流が出来る沢の形状が絶壁だった為に滝と成った、これがレポート内で言う「第1瀑布」だ。
※12:神野寺を記録した風土記に記載アリとの情報、未確認です。周囲の聞き取りでも昔は寺の脇から川が流れていたとの話を聞きました、本源流はかなり細い川だった様です。
写真の時点ではその新たな流れを正確には確認出来ない、その代わり西側の斜面には製炭時代に作られた旧道を利用して畑が作られている。自然林が残る事からまだ植林事業も本腰を入れて進められていない時代と推測出来る、この時ならば旧道からこの本村川には簡単にアクセス出来た筈だ。
1961年撮影の航空写真、1948年からの間に東側にはゴルフ場が建設されている。実はこの航空写真撮影の前年と成る1960年に完成、運営開始までは造成に数年掛かった様だ。この建設に関連して土壌開発が行われ、本村川東側の山中に含有されていた雨水はその大部分を失ってしまう。これによってこの区画では小規模ながら水害が発生し始める(※13)、一方西側は順調に農耕開発が進んで大分山を切り開いている。
※13:行政記録に基く
畑の維持の為、用水路を整備した為に土壌には潤沢な水分が残されていた事だろう、しかし大雨などで余分な水を沢へ流し込む用水路とキャパオーバーした山中の土壌水分。これらが二股地点の大きなガリー形成に一役買って現在と近しい形状を作り出す結果と成った。
上流部分では植林が完了して沢を両側から覆っている、この為沢自体には余計な植物が育成出来なくなってゴルジュから少しづつ水分の含有量を減らして行く事に結果に。
1966年撮影の航空写真、道路開発が行われて本来の源流からは完全に水の流れが消失。その後の流れから少量の水が流れるナメ沢を形成していたがこの時代辺りから農耕での開発を地域住民が諦め始める、高度成長期を前にして日本の産業が大きく変化する黎明期にこの地域も差し掛かり始めていた。
沢はまだその姿を明確に残し、砂場のテラスを所々に残す美しいゴルジュが見て取れた筈。既に二股西側からガリーが発生しているので周辺の複合的な開発の余波は山中に確実にダメージを残していた事だろう。
瀕死間近のこの場所に水害対策で本源流に2箇所、次点の本流に3箇所の砂防ダムを行政が設置。更に本村川上流には2箇所の砂防ダムを設置して水害対策としている、しかし行政が本格的に動いたのはこの時だけで以降は放置される事と成る。
現在ではその崩壊した砂防ダムがチョックストンとして沢のあちらこちらに残されている。
1975年撮影の航空写真、約10年で周辺は大きく変化している。まず畑が消滅して自然に帰りつつ在る、そして新たな植林計画で西側が大きく削り取られている。結果、これがこの沢を涸沢にしてしまう原因を作った。
源流付近では道路開発の影で下水整備が整って水害は格段に減少、砂防ダムはその役割を終えるが時折見舞われる大雨で氾濫するとコンクリート片を破砕しながら下流へ運んだ。これが更に微弱な水の流れを殺してしまう、そしてゴルフ場では地盤を整備し易くする為に地盤凝固材を使用。植林事業も相まって北側と東側からは壊滅的なダメージを追う、本来湧水の無い西側からの自然水が唯一の流れの源流だったが畑が無くなった事で用水路は破棄。
これら複数の要因によってこの沢は枯渇し、涸沢と成った。
現在の地形と開発の所為で今後、この沢が恒常的な流れを取り戻す事は完全に無くなった。たまの大雨や集中豪雨で土砂崩れが起きれば更に荒れ、倒木や落石が増えて行く事だろう。本来この本村川上流は実に面白い地形だ、流れが残っていれば人気の沢スポットに成ったに違いない。
現在の涸沢でも魅力は十分だしテクニカルで踏破し甲斐の在るルーファンを求められるから謳い文句の「房総半島の最終兵器」で間違いは無いだろう、机上調査を終えて尚更そう思った。
これにてこの本村川の源流とその連続瀑布帯のレポートは終了です。そして最後にこのレポートでも幾度も目にした車のデポ地「神野寺駐車場」、その「神野寺」に少しだけ焦点を当てて終わりにしよう。
神野寺と有名なエピソード
この神野寺、1979年に全国区に名を馳せる事件を起こした。世に言う「神野寺の虎騒動」だ、当時飼育許可などの申請が不要だった猛獣飼育をこの寺の住職さんが行っていた。飼育動物は「トラ」、飼育していた12匹の内2匹が脱走して約1ヶ月間周辺を恐怖に陥れた事件だ。
神野寺トラ騒動余波 - インジエア
http://www.geocities.jp/kkktkh/joyrepo/joyrepo02.htm
写真引用:東風庵│http://v-violin.blog.so-net.ne.jp
これは神野寺に今でも残されている当時トラを飼育していたゲージ、よくよく調べるとトラを飼育していたってよりも小規模な動物園を運営していたって事みたい。
鹿野山神野寺公式ホームページ
http://www.geocities.jp/jinyaji_598/
本日は以上です、やっぱり房総は面白いですわー。
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