REPORT - 0508│三島湖の廃橋
REPORT - 0505│乾坤山 鋸山採石場跡 - 旧道
千葉県│鋸山採石場跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 乾坤山 鋸山採石場跡 - 石切作業夫道
今迄も何度か取り上げてきた鋸山の石切り場跡、今回は現在殆ど人が通らない廃道へ行って来ました。つい最近、1ヶ月位前(再訪時)にも通り道をエントリーしたばかりですが燻っていた種火を完全鎮火させる為に再訪。
やっぱりココは面白いです。
ちょっと前にエントリーした内容は下記より。
さて本日の鋸山はいつもとちょっと違う、何て言ったって殆ど人が歩かなくなった場所を薮漕ぎして進もうって言う怒M企画。そして最初に言ってしまえばその廃道の写真が全然無いと言う…うん、面倒なんだよ…あんな激しい道だか何だか解らん場所でカメラ構えるのは…。
何時もの「割橋」コンビで行く、マゾッ気たっぷりのエントリーを始めると致しましょうか。
地獄のぞき、そして直ぐ脇には百尺観音。普段の鋸山だ、平日だと言うのに親子連れや観光客が多い。そんな中、明らかに場違いな2人組みがその場所に居た。
これから行くは鋸山が石切り場として現役だった当時に作業夫達が使用した道路、現在は登山客も使用しない完全な廃道だ。そもそも当時からして記録にない道路、地図にも関連資料にも記載は見当たらない。
それでは何故知っているのか…。
大きな声では言えないがこの場所、許可を無しにロッククライミングする輩が結構存在した。随分前の物だけどウェブで拾った記録を。
http://www.honjo.gr.jp/climbing/chibafree/chibafree_area_nokogiri.html
現在ではこんな酔狂な人達も来なくなった、と言うか場所を移して今でもやっているのだけどそれは内緒なんですよ。
そしてそんな人達と一緒に遊んでいた僕としては当然この場所も知る事と成ります、先程も書いたけど最初はこの場所でした。
更にロックからトレッキングの人達伝いに今回の作業夫道路の存在を教えられ、10年以上経過した今もう一度その道を歩こうと。
そしてその廃道っぷりに閉口し、開いた口が塞がらない素敵な荒れ具合。写真はそんな場所へ到る酷いブッシュの途中に思い出した様にカメラを取り出した所からと成る、夏場に行っては駄目だった。
1ヶ月前、約10年振りに通った石切り場への道。薮々っとしてるのは以前と同じだけど成長著しく、孫とて男なら3晩会わずば活目せよとの言葉通り。この付近はヒルが居ないのでそれだけが救いです。
前回はココで遊びました、今日はスルーしてどんどん進みましょう。一山越えてお隣の石切エリアへ。
凝灰岩が砕けて出来た砂の斜面を滑る様に降りる、帰りの登りが不安で一杯。
写真左下に薄っすらと光が見える筈だ、そこが人一人通れる岩の割れ目でして。ココから隣のエリアに向います。ええ、10年前はココから先に進めたんですよ。10年前までは…ね。
おい、何か昔と…違う…ってか狭ぇよ。何だコレ、地震で崩れたのか…って狭ぇってホント。イタ…痛い痛い痛い、挟まるって…いってぇえ。
ふぅ、どうにか乗り越えた。写真中央の小さな隙間から登ってきましたよ。
って、あれ?
解り辛いと思うけど写真中央の草が茂っている場所、昔はもっと下が見えていた筈なんだ…なんで地面が上昇してるの…?
ん、いや…これは水溜りか。
岩場と岩場の間に雨水が溜まったのだろうか、そして深さは驚きの2メートル越え。ああ、ココまで来て行き止まりとか勘弁して下さい。
迂回するか…にしても本当に作業夫道に迂回出来るのかよ…もう道が無いんだぞ、迂回すると。
そしてこのブッシュである。
あああああああああっブッシュ鬱陶しいわぁぁああ
懐かしいな、この象さんもこの廃道も。さて、進むか。しかし先程から相棒の掛け声が気に成って仕方が無い、
( ゚∀゚)o彡°粉!( ゚∀゚)o彡°砕!( ゚∀゚)o彡°骨!( ゚∀゚)o彡°折!
とけたたましく声を張上げて着いて来る、どうした相棒よ…心と一緒にどこか骨でも折れたのか。
あ、迷いました。道が解りません、記憶も御座いません、本当に有難う御座いました。
当日、真面目に道が解らなくなって山中をウロウロ。昔は更に石切の絶壁伝いに奥地へ行ったもんだけど地形が変化し過ぎちゃってるのなんの、時間的にコレ以上迷うと復旧路へのルートファインディングに支障が出そうだ。相棒が重い空気を見かねてか再び大独唱…
( ゚∀゚)o彡°粉!( ゚∀゚)o彡°砕!( ゚∀゚)o彡°k…
だまれっ!
ココは帰宅してからのビールの為に勇気ある撤退を、僕らは負けたのではない…早くビールが呑みたいだけなんだ。
40分程小さなピークを無理矢理乗り越えて最初の石切り場まで戻る事が出来た、これから登山道に戻って更に長い階段を登るとか…嘘だろ。
ヨレた歩きを見て相棒が心配の声を掛けてくれる。
「大丈夫ですか、腰とか歳とか、仕事とか…(棒」
彼のギラついた優しさが骨身に沁みて、痛い。
高台からお別れの挨拶、楽しい時間を有難う。でももう来ません、アリーデヴェルチ(CV:小山茉美)。
今回の旧道(廃道)はちょっと危険な行程も在ります、技術的な問題ではなくて崩落の可能性が非常に高いと言う観点から正直行かない方が良いと思われます。
ロープも必要ない場所だけど、それでも危険が危ないルートなのでオススメ出来ないと書いておきます。
山頂駅(鋸山ロープウェイ)側から石切の絶壁裏に出て酷いブッシュを書き分けると幾つかの石切り場が顔を覗かせます、地図上でも解るとおり裏手から再度鋸山自動車専用道路側に出る事が出来る場所が在ります。
しかし地図上と違い、この場所も道具と技術がないととても降下出来る場所では在りません。ロック経験者なら随分と遊べる場所です、ですが凝灰岩の岩肌の自然侵食(加工された壁面に関しては特に)が酷くて現在はクライミングもラペリングも出来かねる状況です。
アプローチ
ロープウェイと自動車専用道(鋸山観光道路)、裏手中腹部駐車場から徒歩にて向う3つのアプローチルートが在ります。一般的には自動車専用道が楽、他にもオススメ出来ない登山道や獣道からのルートも在りますの。この場所までは国道127号線にて、入口は上記の様に数箇所在りますので各自お好きなルートを選択して下さい。
地図リンク
photograph - nee
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REPORT - 0507│下九一色小学校下芦川分校
山梨県│下九一色小学校下芦川分校(下九一色尋常小学校分教場)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 下九一色小学校下芦川分校(下芦川学校/下九一色尋常小学校分教場)
※ 2013年04月、兼ねてから危険視されていた校舎が解体されていました。眼前の畑作業の邪魔に成る事と崩壊寸前だった事で周囲地域住民の安全性を考慮したものでした、前年と成る2012年には市川三郷町一般会計補正予算に「下芦川分校解体工事費」が計上されています。議案としては2011年には既に、現在は農地と成っております。
平成24年度市川三郷町一般会計補正予算(PDF)
http://www.town.ichikawamisato.yamanashi.jp/40administration/10section/files/h24.9gatuhosei.pdf
(2015.07 リニューアルエントリー時に上記追加情報掲載)
廃校系の廃墟で僕が一番好きな物件へやっとこ来る事が出来た、日本全国にはそれこそ沢山の廃校が在る。廃的に美しい物や雰囲気やロケーションもそれぞれがとても素晴らしい、だけども何故だろう…どうしてもこの廃校には来たかった。
個人的に言えば「廃校」って言葉がとても似合う、この下九一色小学校下芦川分校をご紹介するとしよう。
一時期日本全国を沸かせた一大事件で名を馳せた、ちょっと不名誉だけどいまだに記憶にへばり付く村の名前。
上九一色村。
その上九一色村と相為すのが今回の廃校が座する下九一色村だ、と言っても現在は平成大合併の為に新しい市川三郷町と言う名前が正式な名称だ。
この市川三郷町はとても複雑な合併の経歴を持っていた、市川三郷町の行政資料から歴史を抜粋してちょっとだけ解説しよう。
1872年 九一色村発足
1889年 生活区域拡張の為に区域分割、上九一色村と下九一色村が発足
地域拡張によって区域分割が行われ下九一色村は誕生した、下九一色村は更に八区域に分割されていてそれぞれ畑熊、中山、三帳、垈、高萩、下芦川、八坂、折門の地区で一つの村として機能していた。
この中の下芦川地区にこの下九一色小学校下芦川分校は設立され、山間部の子供達の学び舎として大きな貢献を果した事だろう。
1954年 上野村、大塚村、下九一色村が合併し三珠町発足
2005年 三珠町、市川大門町、六郷町が合併し市川三郷町発足
こうやって現在の市川三郷町が出来たのだと資料に綴られている。
そろそろこの廃校の歴史に入ろうか。現在の市川三郷町が九一色村だった頃、それはまだ下九一色村が単一の村として区域分割されていない時期と成る1876年に下九一色小学校下芦川分校は創立した。
世の中はグラハム・ベルが電話機を発明したり日本では廃刀令なんてのも在った頃だ。
うはぁ、本当に古い学校なんだ。歴史を知る前からホントに「廃校」って言葉が似合う校舎だったけどその雰囲気はそれだけの歴史を背負ってのモノなんだろう。
些か町内で探してしまった、10分程探しても解らず畑仕事をしている老夫婦さんに声を掛けると親切に教えてくれた。神社の脇道から細い坂道を登るとその廃校は在った、やっとこお逢い出来ましたよ。
こりゃまた凄いね、色々と。
現在の校舎創立当初の物では無くて意外と新しい1954年、いや確かに古いけど50年代の建造物は都内にでさえ沢山残ってるからそこまで古くは感じられないのです。それにしても凄いね、色々と…ねぇ?
学校脇には近年に成って建てられた記念碑が。
記念碑と関係ないのだけど実は最近に成ってこの校舎をどうにか保存出来ないかと考える人達が現れたそうで。跡地の校庭では地元の方達が開墾して小さな畑を管理しているのだけど校舎はご覧通り、この間々では朽ちて何れ倒壊してしまうだろう。
裏口からお邪魔した、抜けそうな木版の廊下を歩く。うーむ、これは保存云々の問題ではないかなぁ…着手するには手遅れな感じ。
1974年、長い歴史を誇った下九一色小学校下芦川分校は廃校と成る。その時からこの校舎全体の時間は止まってしまい、現在はこの様な状態だ。
下芦川学校として創立され、下九一色村が発足した1889年に下九一色尋常小学校分教場と改称。1954年に校舎を改築して現在残されている校舎と成った。
期間にして実に98年間、凡そ1世紀の間沢山の卒業生を輩出した下九一色小学校下芦川分校は本校となる下九一色小学校へ統合(廃校扱い、在校生の一部が本校へ)。しかしその本校も1979年に市川三郷町立上野小学校へ統合、下九一色小学校としての103年の歴史に幕を落とした。
因みに写真は教員室だ。
ここが見たかった。
下九一色小学校下芦川分校は養蚕を授業の一環として取り入れていた珍しい学校だ、と言うのも地域自体が近代化するまで養蚕業を行っていたのと養蚕信仰のシンボルであった蚕影山(石碑)が集落に残っている。
この辺に関しては全くと専門外なので以下のサイトを参照してほしい。
道祖神 、蚕影山と石尊山
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3160/doso.html
その養蚕の形跡が教室内でもアチラコチラと残る。
再び廊下へ出た、この日はまだ訪問物件が残っていたので次の場所へ移動しなければならない。そろそろ時間だ、出来ればまだまだユックリとこの素晴らしい廃校を堪能したいのだけど。
再び教員室。
なんだろうねぇ、こう言う美しさってのは人工的には創造出来ないんだよな。廃的な美しさってどうしても時間が必要で、それも人が介さない長い時間でないといけないのだから容易に目に出来ないのは当然の事なんだろうなぁ。
さて、とってもエロかったこの下九一色小学校下芦川分校を後にします。もう一度、夏の時期に撮影に来たいと思います、それまでどうにか倒れずに頑張って頂戴。
いやどうせならずっと頑張ってもらいたものだけど。
下九一色小学校下芦川分校
1876年 下芦川学校創立
1889年 下九一色尋常小学校分教場と改称
1954年 校舎改築、下九一色小学校下芦川分校と改称
1974年 廃校(本校下九一色小学校へ統合)
1979年 市川三郷町立上野小学校へ統合
単一の校歴として98年、同名称(本校統合)としては103年の長い歴史だった。
アプローチ
中央自動車道の甲府南IC国道358号線を精進湖方面へ、県道36号線の分岐を市川三郷町方面へ曲がる。県道36号線を暫く走ると下芦川の集落に入るので集落中程の神社入口を探して下さい、神社の脇道を登ると廃校が見えます。
地図リンク
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REPORT - 0508│C大黒用水管理吊橋(無能吊橋) 再訪
埼玉県│C大黒吊橋(無能吊橋)再訪
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - C大黒吊橋(無能吊橋)再訪
8月の暑く成りそうな早朝、僕らは1ヶ月振りにあの場所へ向かう。通称「無能吊橋」と呼ばれる美しくも危険なあの場所へ、やり残した事が多過ぎたあの場所へ。
前回は元々場所に検討(幾度となく通過した道路の頭上)が着いていた事も在ってすんなりと到着し、下見を行った。見覚えが在る場所とは言え、地上と上空50メートルでは見える景色が段違いに変化する。そんなワケで今回はメインが別物件だったけどこの吊橋にもお邪魔して前回撮れなかった写真を撮影して来た。
前回の「無能吊橋」のエントリーは以下より。
※ 上記リンクの先行調査エントリーとこのエントリーを統合し、再構築しました。
いやぁやっぱり良いねぇこの吊橋は、程良く死の臭いがするし心地よい緊張感がテンション上げるわぁ。それでも最初見た時は流石に、
だっけたけどねぇ。
さて、この吊橋に関しては以前のエントリーで詳しく書いたのだけど実は追加情報が御座いまして。それを記載しようと思っていたのだけどそれを書いてしまうとこの場所へ関係者以外入れなくなってしまう可能性が、少々時間を頂いてから追加情報の記載をしたいと考えております。
それではC大黒用水管理吊橋、通称「無能吊橋」の再訪エントリーを始めたいと思います。
ほら、これからアソコに行くんだ。高いよね、オッカナイよね、だけど何故か血が滾るよねぇ。はやくひゃっほいしたいよねぇえ。
因みに高さは地上50メートル位、ラペリングでもちょっと考えちゃう高さだな、ホントは吊橋中央からラペで降下しようと思いましたがロープの長さが足りずに断念したのは内緒です。
細ーいブランコが沢山、しかも錆々のワイヤーとジョイントで作られた配管管理橋。吊板と吊板の間は狭くて1500ミリ、場所によっては2000ミリ以上の間隔が開いている。
ワイヤーは3種類使用されていて9ミリ、11ミリ、13ミリ。それにロックジョイントとM14のIボルト、9ミリの丸棒、ワイヤーエンドなどで構成されていた。主柱は鉄製で一般的なアングルトラス、溶接は古いウエルダーを使用していた様でビートは汚かった。
主柱のワイヤーは2桁クレーン用の130ミリオーバーのワイヤーだったと思うけど計測忘れ、主柱ベースは基礎用コンクリートと混ぜ砂利の併用で強度はいまだにこまけぇこたぁいいんだよ。若いパトスがフルバーストの相棒さんも右心房が破裂しそうな面持ちで
「落ちたら死ぬだけさ、目の前の獲物に食って掛かる…それが狼の生き様。」
え?何?もう1回言って。
さあ行くべ。
※ 管理企業側が無断進入による滑落などの危険を重要視した為、2014年辺りから作業動入口及びこの吊橋付近に新たなセキュリティを設置しております。また巡回も増やしたと関係者からの情報も頂きました、現在は登山客も通行禁止と成っております。
当日は別物件がメインだった為に大した登山道具も無い状態だったけれど普段からガレ場で遊んでいるご両人、ルーファンや危険を冒す事もなく岩盤が脆い緩土斜面をスルスルと目的地付近まで登っていく。岩は石灰岩と凝灰岩が入り混じっている様で兎に角脆い。
ピークまではまだ数十メートル在りそうだけどそれなりの高さの地点で遺構が目に入った、この付近はちょっと荒ガレっぽいけど特に地形的にも問題に成る様な点は無くてアプローチは容易。
吊橋の主柱は腐食しているもののまだ強度は十分、ワイヤーは経年劣化が著しくてそろそろ寿命を向えそうだ。メインワイヤーは大丈夫そうだがバックアップは駄目そう、因みにこの吊橋は上下2段で配管も2本通っていたとか(人道用では在りません、最後尾にて詳細を記載しております)。
その荷重耐久性が健在なら人間位どうって事ないだろう。
マラディェッツ!
繁々る木々の合間から今回のお目当て、無能吊橋が姿を覗かせる。写真では解り辛いだろうが高さにして地上50メートル位、こりゃー過去最高のテキサススピリッツが発揮出来そうだ。
そうだろ?テリー(相棒)。
てr…あれ、居ない。(CV:米澤円)
僕が台本通りの講釈をしてる間に下半身の服を脱ぎ捨て、彼は待ちきれず既に吊橋へ。そう、それが彼のテキサススピリッツ。
しかしこれ、高い所に慣れてない人はカルネアデスの板の取り合いに成るだろ。しかし美しいな、この場所は。さぁて、どうやってクックしてやろうか…ココでどんな事をしようとどんな事が起きようと。
それが俺達のディステニー。
(´・_・`)オカシイダロ…
幾ら高いとは言えズーヒルギロッポンの5分の1程度、自家発電も出来ない廃橋に恐れなど片腹痛い。
遺構調査機構さんのレポートに感化されたのか、相棒が何かをやる様だ。いや、既に僕の見えない所で色々とやっている様だが。
「馬鹿やるならハーネスは付けなさい」
どうせやめておけ、と言ってもきかんのだろうな。悔いは残さない方が良い、パンツ脱いで赤白帽被って待っててやるから何時でもはじめなさい。
こ、こ、コペルニクス。
貴様その状態で移動するのか、そんな中途半端な芸は認めないぞ。解らないのか、だから最初からあざとさで定評の有るLat式しか認めないってあれほど
こりゃ凄ぇ風景だ、いや久し振りに死の臭いがするよココ。強度などをシッカリと確かめとこう、次回は僕も多少無理をするしテリーは夕陽に叫ぶだろう。
今回はメインの別物件の跡に行きましたが予定として組み込んでいた為、天候や時間(太陽の位置)などを最大限に考慮して撮影に挑みました。個展用の素材としても素晴らしい写真が何枚も撮影出来た事は幸運です、当分来る事は無いと思いますが何度でも再訪したい「割橋」にも適したロケーションで気に入っております。
特定される要素は写真から省いていますがもし解ったとしても単騎アタックや装備が不十分な訪問は避けて下さい、死んじゃいます。
※ 現在登山者も含め、関係者以外立入禁止と成っています。
前回のエントリーからのコピペですが。
C大黒用水管理吊橋(無能吊橋)
この橋、近年では遺構調査機構さんが名付けた「無能吊橋」と呼ばれているけど資料を見ると吊橋の名前が在った…のだけど。実はちょっとやっかいなんですよね、と言うのもこの吊橋には当初正式名称が無かった様なのです。
竣功前に工事関係者が閲覧する工事資料に幾つかの記載が在るのだけど手書きの物を含めると5種類位の名前が見て取れる、その中で一番シックリと来る名称を選んで今回記載した。
C大黒用水管理吊橋。
この付近には二つの鉱山が在りまして、その鉱山と鉱山を繋ぐ様に幾つかの用水管が沢沿い、道路沿い、そして山中の谷を越える様に吊橋で。それぞれが別の用途の配管として何本も運用されていました、この吊橋には2本の配管が通っていた様です。
何が流れていたかも資料に書かれていますがこの辺は伏せます、もう検討が着いている方もいると思いますが程々の情報規制をしておかないと危険な場所と言う事も在って了承頂きたいと思います。
鉱山はそれぞれ採石、生成と分かれていますがどちらの鉱山も単独生成出来る工場です。この辺は周辺の歴史と古い地図を見ると色々と解ります、実は周辺にはこの場所以外にも類似する廃橋(吊橋)が2本在ります。
その2本の内1本は今でも今回の無能吊橋の様に人が渡れます、しかし場所が少々山深く、現在では廃道も廃道な恐ろしく険しい山道を歩いて行かなくては成らない為殆どの方が知りません。
因みにこの吊橋に通していた配管、山を越え、川を越えて通されていた訳ですがその配管を管理する為に互いの山間部に人の為の作業道(一部大変な急斜面)が今でも残されています。企業敷地内で頻繁に現在も関係者が使うので今回は撮影出来ませんでいたがその作業道もなかなか…おっとこれ以上は。
アプローチ
秘境及び危険物件は自然保護と建造物保護、安全確保の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
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REPORT - 0524│仏石山鍾乳洞上部壁ラペリング
REPORT - 0513│天津滑山 大山祇神社
千葉県 │ 天津滑山 大山祇神社
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 神道教派 御嶽滑山大山祇教会
※ デザインリニューアルに伴い多少の記事修正を行っております、更新当時(2012年)とは若干相違しますが出来る限り違和感の無い様に再構築しました。追加情報などのエントリーは最後尾のシリーズリンクよりご覧下さい。
今回ご紹介するのは本当にマイナーなスポット、半年間の机上調査でもその素性が明らかに成らず、鴨川市の教育委員会と郷土資料館の協力を経てやっとこさで判明と言う古い歴史を持つ神社です。
人里離れた山奥の、更に生活道路からも逸れた高台にその神社は在ります。自然に侵食されてもう直ぐ存在その物の歴史も閉じようとしている倒壊寸前の廃神社にお邪魔しました、それではレポートを始めましょうか。
この神社を知るキッカケと成ったのが下記のブログで掲載された1枚の写真、僕が房総の山や沢の情報を探してウェブ上をウロウロしている時でした。
房総の日々 - 太平洋を望む滑山へ
http://takaki-i.blog.so-net.ne.jp/2011-02-16
2011年の2月16日にエントリーされた「太平洋を望む滑山へ」と言う記事の中に興味を引く写真が掲載されていたのがそれ、自力では詳細が解らずブログを書いている方へ直接メールして質問した事で少しづつこの廃神社に近づく。
約半年後の同年7月、僕はとうとうこの魅力溢れる廃神社の入口へ。薄曇の早朝、雰囲気たっぷりの「大山祇神社」へ足を進めた。
その日、予報では晴れの筈だったのだけれど出発時には晴れていた空が山間部へ向う頃から怪しくなって来た。待ち焦がれた廃神社と対面する時間の頃には小雨が降って来たけど気にせず神社へ歩き出す。
写真は入口付近、左側に狭いけど車が走れる生活道路。しかしこの先は暫くすると行き止まりだ、そもそも民家など付近には無いので周囲の畑などの為に敷かれた道路なのだろう。
ジメっとした空気の中、草木に暴力的に侵食された廃神社が現れた。コレだ、この場所へ来たかった。廃墟が好きってのはまあ在るのだけどそれ以前に地域民俗学が好きな者としては廃神社のバックストーリーは非常に興味深い。
因みに先に紹介したブログ内で掲載されていた写真は下記リンクから。
http://takaki-i.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_c0e/takaki-i/DSC03039.jpg
時期が異なるから印象は随分と違うけど、うん…間違いない。
これは…これは凄いぞ。一見そこまで古くない旧家の様に思えるけど建築様式が昭和の物じゃない。結構古そうだ、兎に角釘が少ない、そして間取りが近代建築のセオリーとも異なるのも気に成った。どちらかと言うと江戸後期に近い様式だ、コレは後程資料を入手して再考しよう。
しかし一番気に成るのはネットで見た写真と比べて崩壊が進んでいる事、これには随分と驚かされた。正直311の地震で倒壊しなかったのが奇跡なのだけど…。
神棚に声を掛けて中にお邪魔した、不思議な事に正面の神棚の他に右側にも小さな神棚が在る。この件に関しては後の資料や情報などから推測解明、押入れには布団などが残されていた。
狛犬の上に成体に成って間もないカエルが、数枚撮影してこの廃神社を後にしました。それではこの廃神社の詳細を書いていきましょうか、ちょっと長いですが興味が在る方は是非。
天津滑山 大山祇神社
この神社、実は何時頃建造されたか判明しておりません。現存する資料で一番古い既述が1894年、と在るだけ。略歴を下記に。
建設年不明 神道教派 御嶽滑山大山祇教会として開社
1894年 大山祇大神と御嶽大神を合祀し、御嶽滑山巴教会所と改称
1940年 御嶽教 滑山大山祇教会と改称
1957年 教主逝去
1958年 廃社
※ 1940年代から大山祇神社と呼称される様に成る
なんと少なくとも100年以上以前よりこの神社が存在した事に成る、旧木造建築の強固な造りが今も尚倒壊から逃れている事は驚きの事実だ。
さて、恐らくは山岳信仰から派生した神道教派をその起源としたであろう大山祇神社、屋内に2つの神棚があった事は既述の「合祀」からそれぞれを祀った物で間違い無いだろう。融合せずに末期まで2つの信仰対象を守り続けた県内でも珍しい複数信仰の神社、それがこの「大山祇神社」と言うわけだ。
今回この廃神社を調査するにあたってご協力頂いた、
・鴨川市教育委員会生涯学習課文化振興室
・鴨川市郷土資料館
各担当さまには大変お世話に成りました、有難う御座いました。また関連資料の写しまで送付して頂き、より深い歴史を知る事が出来たのも幸いです。
実はまだまだこの廃神社に関連する資料が手元に在り、記載出来る事は沢山在ります。しかしそれらを網羅すると風呂敷が少しづつ広がってしまい、畳み込む事が困難に成りそうなので今回はこの辺で終わりたいと思います。
最後にこの神社を知るキッカケを頂いた「房総の日々」の筆者さんには情報の提供と共に感謝致します、有難う御座いました。
※ このエントリー以降、毎年1回は来訪して追加調査と崩落の様子を見に伺っております。仲間内ではその年で最初に行く時を「初詣」と称し、ライフワークとして土に沈むまで見届けようと来訪し続けています。
そんな再訪エントリーをシリーズとして以下リンクにまとめて在ります、知れば知るほど面白いこの廃神社…今後も注目物件として追っていきたいと考えています。
個人的心情から地図リンクは不掲載です。
アプローチ
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
地図リンク
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
※ 自分も教えて頂いた身です、場所がどうしても解らず現地に赴いてみたいと思う方は御連絡下さい、対応致します。
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REPORT - 0523│ 佛石山 仏石山鍾乳洞
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REPORT - 0512│狩倉岳 石舟沢鍾乳洞
REPORT - 0515│ ラサ工業株式会社 田老鉱業所
岩手県│ラサ工業田老鉱山跡 明星大学田老キャンパス(明星大学田老宇宙線観測所)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 田老鉱山 選鉱所跡
東北三大鉱山跡に名を連ねる大規模な鉱山廃墟、「田老鉱山」跡。廃墟美としてもとても評価が高く、是非一度訪れたいと思っていた。ウェブ上で何度も見たこの鉱山跡を撮影する為、僕を含む当スタッフ3人と関西から参加して頂いた廃墟サイト「The Decadent World」の管理人HYPOさんの合計4人で一路東北へ向かったのでした。
The Decadent World
田老鉱山、廃墟好きの世界ではとても有名で沢山の方が撮影に訪れている大型物件。現在では明星大学の田老キャンパスとして使用されているのだけど実質的には明星大学さえその殆どの役目をこの場所から退けており、明星大学田老宇宙線観測所として現役稼動するのみと成っている。
山奥に在りながら平日休日を問わず宇宙線観測所の管理会社関係者が出入りしており、またこの廃墟から更に続く山道で山仕事をされている方達も居る為に以外と人通りは多い。春と秋には山菜を求めて遠方からも訪問客が居るらしく、年々管理会社の目が厳しく光る結果と成っている。
今回の訪問では運良く管理会社さんから撮影の許可を頂けたので気兼ねなく実に沢山のアングルから撮影出来た、これはとても幸運な事だった。それでは簡単にだけど田老鉱山について説明しよう。
一般的には1919年からラサ島燐鉱(現在のラサ工業)によって開鉱されたとされているけれども1857年、横浜の実業家「高島嘉右衛門」によって上部褐鉄鉱床が発見され、その歴史が始まりました。
コストマネジメントの観点から当時はこの鉱山に魅力が無いと判断され、高島嘉右衛門は鉱山の利権を売却、紆余曲折の細い歴史を編みながら1918年に当時の利権を持っていた井口儉治が資金難の為に放棄、釜石鉱山が引継事業者に成る。
そして田老鉱山の一時代を築く立役者、ラサ島燐鉱が田老鉱山を買収する事で廃墟好きの聖地の一つとまで言われるこの場所が本格的に運営を開始する事に成った様だ。詳しい歴史などは少しづつキャプションとして、またいつも通り最後尾に詳細説明を記載するので興味の在る方は是非読んで頂きたいと思う。
公式訪問が故に出入口に車を番長止め、その後「いくらなんでもそこは邪魔だから車を移動しなさい」と注意されての撮影と成った田老鉱山。その美しさに溜息が止まらず、管理会社のジイ様の昔話にもやっぱり溜息が止まらなかったこの物件のエントリーを開始するとしよう。
※ 無許可で進入する者が増えた為、現在は報道や関連取材などを除いて通常の撮影見学などはお断りしている状況です。敷地内には現役稼動施設も在り、関係者が絶えず居る状態ですので無理な違法な進入は控えて下さい。
311の震災で大規模な被害を被った宮古市から国道45号線を北上、地図リンクの場所から田老鉱山へ道は伸びているのだけど非常に路面が悪い。軽トラやジムニーなら楽しい道中でも人と機材を満載したミドルワゴンではどうにも厳しい、気を付けながら走っていると有名な沈殿池が見えて来た。
似た様な風景を思い出した、そう言えば足尾銅山にも非常に良く似た景観を持った沈殿湖が在るのだ。その辺については各々調べてもらえば解るが足尾銅山はちょっと酷い内容でして、今回は割愛しよう。
場所はココ。
田老鉱山への道へ折れてから500メートル位だろうか、足尾銅山同様に現役で稼動している施設の一部の池が確認出来る。鉱毒処理用の沈殿池で道路から下るゲートで閉じられた細い枝を更に1キロ程、今でも鉱毒処施設が過去の大きな代償を払い続けている。
4キロ程更に進むと今回の本丸、田老鉱山跡が見えて来た。選鉱所手前には鉱夫住宅跡が今でも6棟残されていてる。
以前にはこの住宅跡の他に役員社宅が在った様だけど随分と前に解体された様だ、しかしその社宅へ続く獣道は今でも残っていた。
場所はココ、本当に選鉱所の真裏と言っても良い。さて、長い悪路を走って来たのだけどやっと報われる瞬間を迎える。田老鉱山をやっとこさで拝めるのだ。
位置関係としては本当に住宅跡から近い、住宅跡の裏道からも行けるが現在では獣道。普通に撮影に訪れるなら道路沿いに回り込んだ方が良いだろう。
田老鉱山はこの様な位置関係で廃墟が残っている、と言っても道路側のシックナー(貯水槽)や宇宙線観測所などは現役稼動している。少しだけ解説してみようか。
ゲートで閉鎖された入口(今回は公式訪問なんで管理会社さんによってゲートが開けられています、通常は閉鎖されています)から車を滑り込ませると最初に目に入るのが明星大学の理工学部土木工学科が過去に使用していた実験トラス橋、カーブをその間々登ってT字路を右へ行くと正面に選鉱所跡が。
右手(道路側)には管理会社が使用している明星大学倉庫、現役稼動中の宇宙線観測施設と事務所が併設されている。一番奥には有名なシックナーが残っていて此方も現在稼動中だ、全部で3基在るシックナーだけど基本的には絶えず2つは稼動してる様だ。
これらのシックナーは宇宙線観測とは全く関係なく、鉱山運営時から続く鉱毒処理用貯水槽として運営され続けている。
先程のT字路を左に折れると作業倉庫と鉱山事務所跡が現在でも残っている。
さて、それでは待ち焦がれた田老鉱山の選鉱所内部へ向かうとしますか。今回は撮影機材の他にラペ道具も持って来たので余り見ないアングルなども撮影したいと考えてココまで来たのだ、そんじゃ行くぞー。
…
弟子(26♀)!ちょ来い!
「美しい所だな…」
「い、痛ーぃ…え?ちょ、なんで今叩かれたの…」
「凄いな、ここ…」
「いや、え?あぁ、はい…そうですね…あれ?」
選鉱所のコンソールルーム、選鉱用重機のコントロールやホイスト、各接続電子機器、その他排水などの操作がココから行われた。このコンソールルーム一帯の網板はとても腐食しており、随分と歩き回ったけど主柱が朽ちていたコンソールルームからの渡り廊下部分が一番緊張した。
1919年から開鉱操業を始めた田老鉱山、不況の為に幾度かの操業停止を余儀なくされていたにも関わらず一時代を築いていたと記録に在る。鉱床枯渇のため閉山するまでの間鉱山集落として一つの町機能まで擁したのだからその反映振りが伺える、類似物件は全国に幾つか残っているけども現役だと埼玉のニッチツ位だろうか。
ピーク時では常駐鉱夫1800人、臨時鉱夫数百人と2000人を超える人々がこの鉱山で働いていた。現在では随分と変わってしまったけれども当時をしのぶ写真を発見したので掲載しよう。
現在と随分風景が違う事が解ると思う。
余り知られていないエピソードを語ろう。田老鉱山は操業当時からこの姿だった訳ではない、実は再建されてからの選鉱所跡が現在残る廃墟なのですよ。
1944年4月24日、田老鉱山の選鉱所は火災によって一度消失している。と言っても稼動施設としては一部の機能を失ったに過ぎず、翌年には復旧していた。(その後の大規模山火事によって全焼の運命に在りますが)
が、時は2次大戦終盤。1945年4月28日、軍需省及び航空本部の命令により休山。戦後と成る翌年の1946年6月15日、実に2年振りに通常の商業状態へと戻ったと記録に在る。
photograph:+10
さて、折角色々な道具を持って来たのだからと気に成っていたこの場所へ登る事にした。と、言っても余りにすんなりと登れてしまい、道具も使用しない素手登りOKの場所でした。
どこかのサイトで「行く事の出来ない場所」なんて書いてあった記憶が在ったので期待したのだけど…。田老鉱山自慢のスカイオアシスへは普通によじ登るだけでした、ただブロック塀のブロックが崩れ易いのでお気をつけて。
相棒が上から飛び降りて踵を傷めたのは内緒にしておこう。
photograph:+10
ここに来る方がまず抑えるアングルと言ったらこの場所だろう、確かにこの場所は田老鉱山を代表する廃墟美の画角だろう。
しかし。
取り合えず高い所が好きな僕らは天井のトラスにでも登ってみるか…とアプローチを考え出した、まずは余り見かけないこの場所の正面のショットを。
側面トラスが4段に成っていたので一番上まで登れば天井トラスへの道が開けると判断、ハーネスと自作安全帯+カラビナでするすると登っていく。
写真は下から3段目のトラス横柱の上から。
一段降りて2段目のトラス横柱から、1段下がるだけで随分と視界が変わる。だけれど思ったより建物全体の高さが無くて残念だった。
見上げているのは弟子。
少々パースを効かす、あれ…でもこのアングルって見た事在るなぁ…以外と登る人多いのか…。まあそんなに高くないですし。
相棒も後から登って来た、僕の2倍の速さで。若さが、若さがっ、若さが!
先に降りて相棒を写す、丁度3段目のトラス横柱の中央辺りに居るのが解る。噴出しに拡大写真を、ピースをしている様だが良く解らん。
考えたルートはこうだ、難しくもないし何しろ低い。しかし、しかしなのです。
天井トラスが部分的に腐食が激しくて強度が不足している、しかも迂回ルート(右側のコンクリート主柱ルート)は手前が崩れている。
「どうする?」
「めんくせ、やめっぺ」
止めた。
「その代り何か」
「んじゃコイノボリでも」
選鉱所から更に奥に現役稼動しているシックナーが在る、温泉みたい。
「入れ」
「簡便して下さい」
最後に記念撮影をする事にした、「脱力、無気力、抑止力(?)」で視線は晴れ晴れしきかな明日の方角へ。
photograph:saorigraph
いやぁ綺麗でしたよ、田老鉱山。しかし我々撮影班はそれだけでは終わらないのです、ずっと以前に企画倒れに成った「深夜の廃墟」。その撮影をここ田老鉱山で行おうと出発前から考えていたのです、バッテラの充電不足で光量が全く足らない状況下での深夜の田老鉱山。
大失敗だったけど良い勉強に成りました、次回は「真夜中の田老鉱山」でお会いしましょう。それでは最後にこの田老鉱山についてまとめたので興味が在りましたらお読み下さいませ、今回のレポートは以上です。
田老鉱山跡 - ラサ工業株式会社 田老鉱業所
1857年、密貿易の罪で幕府に追われ盛岡へ逃亡した高島嘉右衛門が発見した。盛岡藩(南部藩)の助力も在り、田老鉱山の初期開鉱地から釜石の精錬所へ鉱石を供給。しかし幕末の混乱期に突入し、コストマネジメントの観点から当時はこの鉱山に魅力が無いと判断され、高島嘉右衛門は鉱山の利権を売却。紆余曲折の細い歴史を編みながら1918年に当時の利権を持っていた井口儉治が資金難の為に放棄、釜石鉱山が引継事業者に成る。
同年1918年に田老鉱山を買収したラサ島燐鉱株式会社が翌年の1919年に操業を開始、東北鉱山の三大巨頭の一角に上り詰める事に成る。しかしラサ自体この鉱山で本格的な操業を行うのはずっと後に成ってからで不況の煽りも在ってか試験的な操業も1923年に一度打ち切られてしまう。
幾つかの坑口を開拓して鉱山操業としての地盤を固めたのが1926年に成ってから、この段階で試験操業が再開されている。1933年、本鉱床着床。翌年にラサ島燐鉱株式会社からラサ工業株式会社と改称し、休山扱いにしていた田老鉱山を本格操業に導いたのは1936年。発見から79年、買収から18年も経過してからだった。
因みに田老鉱山の鉱山敷地約102万坪を当時の金額で17万円で買収、換算額としては高額だけど敷地利用面積と将来性を考えて安い買物だった…とは現在も続く鉱毒処理用貯水槽の管理も含めて一概には言えないだろう。
1944年(4月24日)、機械トラブルに因る選鉱所の火災によって鉱山機能の一部が消失。しかし深刻な問題では無かった様で翌年には操業再開。
しかし時は2次大戦終盤、1945年(4月28日)には軍需省及び航空本部の命令により休山。主戦間際の同年8月9日、米軍の無差別空爆攻撃によって微粉炭工場、送風機工場、ベルトコンベア、粉鉱舎などが壊滅。
終戦を経て同年初冬には修復工事が開始、翌年の1946年(6月15日)にはついに操業再開にまで漕ぎ着けた。
新たな鉱脈が発見されるなど暫く続いた平穏な操業だったが1961年(5月29日)、日本海を北上した台風4号の影響で太平洋側が異常乾燥のフェーン現象となり、三陸地方では各地に大規模な山火事「三陸フェーン大火」が発生した。この山火事は同時に複数の山間部で延焼が進み、田老鉱山も飲み込まれてしまう、殆どの施設と社宅400戸が全焼して操業停止。
東北の鉱山では比較的資金力の在った田老鉱山の管理会社「ラサ工業」は鎮火直後に再興計画を立案、同年12月には総工費11億円を掛けて再建への工事を開始した。翌年1962年には操業を再開、新たな鉱床を求めた調査も平行して行われた。
1960年代後半から暗雲が立ち込め始める、災害後再調査した鉱床の規模は予想を下回り、鉱石品位も低下。指摘されていた埋蔵鉱量減少が本格的に問題と成った1971年には休山を決定。
石油ショックと流通変革に伴い輸出入の均衡が破れ世界経済自由化の波が国内の鉱山需要に烙印を押す形と成った、と言うのも大規模な施設と人件費のかかる国内鉱山は徐々に下火に成っていたし国内の鉱山自体に国が経済資本としての重要度を見出せなくなった事もその理由の一つだった。
1972年休山、1974年には明星大学が敷地内の一部施設を転用する形で譲渡された。その後は施設周辺は明星大学田老キャンパスと成り、明星大学田老宇宙線観測所として現在も稼動中だ。
それでは現在に至るまでその後の歴史も踏まえた簡単な年表を確認して頂きましょうか。
1857年 高島嘉右衛門が田老鉱山を発見
1918年 井口儉治が資金難の為に放棄、釜石鉱山が引継事業者に
1918年 ラサ島燐鉱株式会社が田老鉱山を買収
1919年 試験操業開始
1923年 不況の為に試験操業を停止
1926年 試験操業を再開
1933年 本鉱床着床
1936年 本格操業開始
1944年 機械トラブルに因る選鉱所の火災によって鉱山機能の一部が消失
1945年 操業再開
1945年 軍需省及び航空本部の命令により休山
1945年 米軍の無差別空爆攻撃によって鉱山機能消失
1946年 操業再開
1961年 三陸フェーン大火の為全焼
1962年 操業再開
1971年 不況の為に休山を決定
1972年 休山
1974年 明星大学へ鉱山施設敷地を譲渡
1979年 宮古精錬所、電気精錬部門が操業停止
1980年 肥料工場の人員整理
1981年 宮古工場を合同資源株式会社へ譲渡
1983年 肥料部門をコープケミカル株式会社へ営業譲渡
1984年 明星大学田老宇宙線観測所完成
1990年 小山田用地を宮古市総合体育館用地として市へ譲渡
こうして133年間続いたラサ工業における田老鉱山の歴史は終止符を打たれた、今でもラサ工業は別事業で現存しており、田老鉱山の鉱毒処理に関しては明星大学が地元鉱山企業と協力して行っている。
さて、最後にラサ工業について面白いエピソードを書こう。まずはラサ工業のサイト、その中の「社名の由来について」を見て欲しい。
ラサ工業 - 社名の由来について
http://www.rasa.co.jp/MFra_k_index.htm
リン鉱石の採鉱は当の昔に終了したラサ島、そんな価値が無い様なただの無人島を国ではなくて一企業である「ラサ工業」が何故今に至っても保有しているのか。島の管理や固定資産税とて馬鹿に成らない筈だろうに…、しかしラサ工業にはこの島を手放せない絶対的な理由が在りました。
「在日米軍の爆撃射撃場」
これが理由、正式には「沖大東島射爆撃場」として現在でも在日米軍が射撃場としてこの島を使用している。かつては大日本帝国海軍の気象台があり、1945年に空襲で焼失するまで、日本の台風観測上重要な位置を占めていた。
南大東島や北大東島と異なり、現在でも一貫してラサ工業の私有地だ。沖縄返還時には誤って国有地とされてしまったが、翌年にはラサ工業の所有権が確認された。1980年には燐鉱床の探鉱が行われ、燐鉱石が約300万トン残存している事が確認された。
一時期、ラサ工業による再開発計画もあり、残存しているとされる燐鉱石を採掘しつつ、島内に石油備蓄基地を設ける計画もあったが、空対地爆撃射撃場が返還されない事、燐鉱埋蔵量が不透明などといった理由から消滅している。
しかし真実はどうやら違う様でこれは対外的な風評対策だとする声もチラホラと聞かれる、私有地だと認められたこの島に在日米軍の射撃場が在る。
と、言う事はこの島の使用料は国ではなくてラサ工業に支払われている事になる訳でして。その額大凡にして年間数十億(詳細が明記されたソースが発見出来ず)、成る程…これは手放せませんね。
関連リンク
田老鉱山 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e7%94%b0%e8%80%81%e9%89%b1%e5%b1%b1
ラサ工業 - 企業サイト
http://www.rasa.co.jp/
ラサ工業 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%83%a9%e3%82%b5%e5%b7%a5%e6%a5%ad
明星大学 - 法人サイト
http://www.meisei-u.ac.jp/
明星大学 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%98%8e%e6%98%9f%e5%a4%a7%e5%ad%a6 ]
現在の田老鉱山の管理状況
田老鉱山跡は関連施設を含め「明星大学」がその所有権を有しています、当然ながらの私有地、出版の様な利権の絡む取材の場合は明星大学の許可が当然必要に成ります。
周辺は山菜採取の場所としても有名で春先や秋頃には結構沢山の方が山菜を求めてやって来ます。この場合は付近の山毎に割り振られた山間部の管理者や管理会社が存在しています、田老鉱山の宇宙線観測所もこの管理会社の一つが管理していて最終的には明星大学の判断を仰ぐ事に成っています。
最初に言ってしまうと個人では許可が下りる事は無いそうです、実は近年に成って廃墟の撮影で問題に成っていると勘ぐったのですがどうやら盗難事件が多発している様で。施錠された倉庫から鉄関連を盗んだり松茸の群生地へ無断で侵入して採取したりと、管理人のお1人に色々と事情を聞く事が出来ました。
管理会社の方に無断進入が発見された場合は状況にも依りますが厳重注意だそうです、しかし明星大学関係者が発見した場合は即警察へとの事。今後この田老鉱山跡へ撮影に行かれる方は十分にその辺の事情を把握した上で来訪して下さい、鉱山跡の先に伸びる山道(徒歩のみの道)にも実は知られていない関連施設が在りますがそちらはまた管理されている方が違う様です。
現地には空撮写真でも見えず、また国土地理院の地図にも記載されていない施設跡などが現存しています。それらの探索もとても楽しいのですがくれぐれも上記の旨を租借した上、単独事故、下山が不可能ほどの怪我、そして熊(ツキノワグマの生息地です)に気をつけて下さいませ。
アプローチ
エントリー導入部を参照。
地図リンク
https://goo.gl/maps/cmSKl
photograph - nee
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REPORT - 0516│ ラサ工業株式会社 田老鉱業所 夜景
岩手県│ラサ工業田老鉱山跡 明星大学田老キャンパス(明星大学田老宇宙線観測所)夜撮
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 田老鉱山 選鉱所跡 夜撮
深夜の廃墟、以前より興味が在って是非撮影したいと思っていた。夜間の建造物の撮影、しかも廃墟と成ると一番ネックに成るのが光源だ。多様なバッテラは用意出来てもその光源を十分に発揮出来るバッテリーが必要に成る。
今回は車の積載量の都合でケイビングに使用しているヘッドライト×2、ハンドライト×2、懐中電灯×2、250Wのバッテラ×1、バイクのバッテリー×2、インバーター×1。それに通常のカメラの機材と夜間に強い明るい玉(レンズ)を持参して田老鉱山の夜間撮影に挑んでみた、初めての事ばかりで色々と戸惑ったけどまあ習作と思えば悪くはないだろう。
これからも創意工夫して夜間の廃墟撮影を行って行きたいと思う、前回の田老鉱山の続きと成るので詳細はそちらのエントリーで確認して頂こう。
光源に種類が無いのとカラーフィルムを持って行かなかった、これは失敗だった。どう撮影しても面白みの欠ける写真と成ってしまう、そこで現地で色々と考慮した結果以下の様な事を試した。
まず前提として一発撮りは無理、ホタル写真同様合成を前提に考える。
・ホワイトバランスの設定を多様に試す
・光の方向を毎回変える
・ハンドライトで照射先をバラす
・シャッタースピードを多様に試す
以上の事を4人で1人づつ違うカメラとレンズ構成で撮影していった、今回僕は28mmのF1.8を選択。本当は広角16mm以下でF値2以下のレンズを導入したかったけどまず買える価格じゃないしレンタルも殆ど見つからない、今後の課題と成りそうだ。
昼間なら誰もが撮影する鉄板のアングルも試してみた、これは帰宅してから後悔したのだけど光源を下に持っていくべきだった。当日は無線も持っていったので光源のオンオフは別段問題なかった筈なのにカメラ機材と一緒にバッテラも一緒に持って来てしまった事を酷く後悔した。
さて、習作にしても酷い内容と成ってしまったので掲載は3枚のみに留めておこう。今後の技術向上に期待して頂きたい、しかし深夜の廃墟撮影は結構楽しい事が解った。以外と早い段階で挑戦しようと思っています。
あ、一言書いておきましょうか。深夜の物件撮影は本当に危険が一杯です、ちょっとした油断が大きな事故や怪我に繋がります。興味が在って撮影したい場合は出来る限り管理者の許可を取る様にした方が良いですね、もし個人で許可が取れる自信が無い方、それでも撮影したい方はご一報下さい。
こちらの撮影予定物件と上手くマッチングした場合一緒に撮影に行きましょう。
現在の田老鉱山の管理状況
田老鉱山跡は関連施設を含め「明星大学」がその所有権を有しています、当然ながらの私有地、出版の様な利権の絡む取材の場合は明星大学の許可が当然必要に成ります。
周辺は山菜採取の場所としても有名で春先や秋頃には結構沢山の方が山菜を求めてやって来ます。この場合は付近の山毎に割り振られた山間部の管理者や管理会社が存在しています、田老鉱山の宇宙線観測所もこの管理会社の一つが管理していて最終的には明星大学の判断を仰ぐ事に成っています。
最初に言ってしまうと個人では許可が下りる事は無いそうです、実は近年に成って廃墟の撮影で問題に成っていると勘ぐったのですがどうやら盗難事件が多発している様で。施錠された倉庫から鉄関連を盗んだり松茸の群生地へ無断で侵入して採取したりと、管理人のお1人に色々と事情を聞く事が出来ました。
管理会社の方に無断進入が発見された場合は状況にも依りますが厳重注意だそうです、しかし明星大学関係者が発見した場合は即警察へとの事。今後この田老鉱山跡へ撮影に行かれる方は十分にその辺の事情を把握した上で来訪して下さい、鉱山跡の先に伸びる山道(徒歩のみの道)にも実は知られていない関連施設が在りますがそちらはまた管理されている方が違う様です。
現地には空撮写真でも見えず、また国土地理院の地図にも記載されていない施設跡などが現存しています。それらの探索もとても楽しいのですがくれぐれも上記の旨を租借した上、単独事故、下山が不可能ほどの怪我、そして熊(ツキノワグマの生息地です)に気をつけて下さいませ。
アプローチ
田老鉱山跡のレポート、エントリーの導入部を参照して下さい。
地図リンク
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REPORT - 0518│ ラサ工業株式会社 田老鉱業事務所
岩手県│ラサ工業田老鉱山跡 田老鉱業事務所(明星大学田老鉱山資料館)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 田老鉱山 田老鉱業事務所跡
田老鉱山の関連物件で概観が近代建築の為に以外と人気が無い物件が在る、それが旧田老鉱業事務所、後の田老鉱山資料館(明星大学運営)だ。手前に作業倉庫と車庫、一番奥にこの事務所跡が残るのだけれどどうしてか廃墟サイトでは余り取り上げれる事が少ない様だ。
※ 2012年中盤から取り上げるサイトが増えました、しかし内部は崩落が進み危険な常態です。
これまでの田老鉱山関係のエントリーは以下より。
まずはこの建造物の位置関係を説明しようか。
イエローポインタの場所が事務所だった場所、元々はこの場所に事務所は存在していなかったのだけど鉱山後期にRC5階建てとして建築された比較的新しい物件。崩壊が特に進んだのは近年10年(1990年代後半~2000年代下一桁)らしいのだけどその辺の詳細は判明しなかった。
もう少しズームした位置関係を参考にレポートを進めていこう。
選鉱所へ向かうT字路を逆の左に折れると今回の物件が見えてくる、手前から作業倉庫、車庫、旧事務所と成っている。この他にも過去には建造物が在ったのだけど現在はこの区画には3棟のみ、概観から紹介していこう。
PLフィルターにゴミなんか着いてないんだからね。(小さな点がね)
一見するとまだ現役施設かと思う位普通、ホント普通。だけれども航空写真で確認した限り屋根部分の大崩壊は確認出来る、近づくと外壁にも無数のクラックが入っているし実は崩壊が近いのかなぁ。
※ 2014年確認、外壁の一部が崩れ落ちています。
右奥が作業倉庫、施錠されているけど中を見る事は可能。だけれどもレンズ付け替えて撮影するまでもないかなぁとスルー、僕はさっきからチラチラと目に入る車庫に収まる車両が非常に気に成っていた。
ゴーマルじゃないですかー。
うひょー、しかもFJ56Vのオリジナルカラー。かっけー、欲しいー。これ下さい、レストアします。過去にBJ41V幌、BJ42長箱と乗り継いだけど状態の良い50は全くお目に掛からず入手する事が出来なかった。廃墟見に来てノスヒロ魂が再燃するとは思わなかったさ、思わず管理の方に「あれ、欲しいんですけど」って本当に迫ってしまいました。
※ 本当に管理の方や関係者に聞いたのですが所有者がハッキリしない様でして、この状態ないらレストア可能なので勿体無い…ゴーマルってば本当に貴重なんです。
久し振りにSJ30でも欲しいなぁ、いやココは大人っぽく遊び心溢れるSJ40か。
それた。
それではちょいとお邪魔しましょうか。
中は天井が崩壊した為にその階下まで侵食が進んでいた、コンクリートは所々剥離して鉄部の酸化は予想以上に酷い。階段もこの通り、因みに1階(本当は2階部分)部分は床が腐っていてウッカリすると落ちるので気をつけて進んだ。
ガラスが割れた部屋に関してはこの様に自然の侵食が進んでいる。
鉱山の鉱業事務所から明星大学の田老鉱山資料館に鞍替えしたのが1975年、翌年には一般にも開放したと話を聞いたのだけどウェブに転がっている記録と上手く合致しない。管理会社の方の中には実際にココで働いていた方(と言っても閉山処理に従事した程度)が居たのだけど詳しく話しを聞く時間が無かった、勿体無い事をしたなぁ。
4階部分に到着、成る程…確かに崩壊が進んでいる。そう、進んでいたのだ。この建造物の屋根が崩落している事は以前より知ってはいた、幾つかのサイトでもこの崩落した現場の写真が掲載されていたのだけど数年前の写真と比べると更に、大規模とは言えないけど随分と空を仰ぐ部分が拡大していた。
そう言えば松尾鉱山では雪が降っていた、東北の秋は短い。直ぐに真っ白な世界が寒さを風に乗せてやってくる、そんな世界を撮ってみたいけど何しろ遠いんですよ。関東から東北の物件目指すと片道800キロは覚悟しないと。
そうそう、この事務所。
実はこの5階部分から鉱山の抗口に入坑出来るのです、裏手の抗口間際にこの事務所を建設するのはそのアクセスを簡易化する為でも在った様で現役稼動時は沢山の鉱夫がここから入坑したと聞いた。
抗内軌道は508mm、全国の鉱山で使用された鉱山起動軌間610mmと508mmの内田老鉱山は508mmを選択した様だ。
田老鉱山が閉山してラサ工業が撤退、その明星大学が管理したものの名ばかりの「田老キャンパス」。実質的な運営は数年しか続かず結局は宇宙線観測所として稼動するのみと成った場所、今後どの段階で解体されていくのかは解りませんが自然に因る侵食崩壊の方が先の様な気がします。
見るなら今の内、この廃墟も写真の中だけの存在に成りそうです。さて次回は引き続き田老鉱山の関連施設「田老第二小学校跡」をレポートしたいと思います、田老鉱山関係もう少し続きますよ。
アプローチ
エントリー導入部を参照。
地図リンク
https://goo.gl/maps/cmSKl
photograph - nee
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REPORT - 0518│田老町立田老第二小学校
岩手県│田老第二小学校跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 田老町立田老第二小学校跡
実に見所の多い田老鉱山、管理会社の方にこの学校周辺は熊が良く出ると脅されての見聞だけど気にしない。選鉱所跡、鉱業事務所と見て来たけどこの田老第二小学校は良物件だと噂されていたので楽しみだった。まずは前回までの関連エントリーを記載しよう。
田老町に存在した小学校は田老第一から第三までの分校を含む8校、以下その廃校をちょっとだけリスト。
1971年 田老町立田老第二小学校
1985年 田老町立田老第一小学校田代分校
1987年 田老町立田老第一小学校末前分校
1987年 田老町立田老第三小学校畑分校(田老第一小学校分校から改称)
1988年 田老町立田老第一小学校樫内分校
1988年 田老町立田老第三小学校水沢分校(田老第一小学校分校から改称)
1989年 田老町立田老第一小学校青の滝分校
2004年 田老町立田老第一小学校堀内分校
今回のレポートで紹介するのは1971年に廃校と成った田老町立田老第二小学校跡だ、不況下で運営が危ぶまれた田老鉱山が同年に休山を決定している事から翌年の休山を待たずして鉱夫達がこの鉱山を離れた事は予想に容易い。実際1960年代後半から田老鉱山は規模を衰退して行った事は記録によって明確と成っているわけだし、災害後の再調査で判明した鉱床規模が予想を下回って居る事などから鉱山集落は少しづつその人口を減らして行ったのだろう。
既に今までのエントリーで説明した通りこの廃校を含め鉱山集落の広大な敷地は明星大学が後任として管理している、譲渡に至る経緯を話すと長くなるので割愛するけれどこの田老キャンパスを重要視しなかった事が幸いして現在でも沢山の関連施設の廃墟が楽しめるのは幸運だと思いたい。
それでは簡単な説明も済んだので廃校「田老第二小学校」跡をご紹介しようと思う。
位置関係だとこの場所、選鉱所より更に奥に成る。管理人さんや関係者に後程工場跡に再度戻って話を聞きたい旨を伝え移動、明星大学のセミナーハウスと管理棟へ続く道が急カーブを描くのだけど丁度その地点から封鎖されている廃校への道が延びている。
※ 厳密には管理管轄が工場とは別との事、勿論一般的には侵入禁止です。
校門から小さな校庭を抜けるとブッシュの中に小学校跡の校舎が見えて来る、松尾鉱山では既に雪が降っていたがこの場所ではもう少し先に成りそうな茂り具合だ。
まず目に入ってくるのが体育館跡、この建物は比較的傷みが少なくて内部の残留物の保存状態も良い。
長くこの区域を知っている管理会社の爺様によるとこの体育館では過去に卒業生が集まったりして思い出を語り合ったりなどのイベントも開催されていたとの事だ、しかしそれも今では全く無くなってしまったと話しておりました。
まあ何だ、「廃」としての美しさは皆無なので然程探索する事も無く本丸の学校跡へ足を向ける事にしよう。
体育館横手の川沿いから渡り廊下を介して田老第二小学校跡の校舎と成っている、対岸から延びる橋は酷い劣化の為渡る事は出来ないので此方からのアプローチが正解。
校舎内は朽ちてはいるものの建造物としての強度はまだ保持されていた、降雪によって年々その姿を変えつつ在るのだけどこの校舎に関しては卒業生が中心に成って保存しようと言う働き掛けも今後始まる様だ。
給食室、何度か廃校の校舎内で見かけた給仕釜が姿を保っていた。と、ここでやっとこ気が付いた。木造だとばかり思っていたこの校舎、よく見ると所々にトラスが組まれている。この年代の学校校舎で鉄骨トラス?
そうか、成る程。調べると施工主が鉱山関連企業だったのか、選鉱所と同じトラスが組まれていたのが帰宅後の調査で理解出来た。
※ 同年代に建造された山間部の学校で鉄骨建築はとても珍しく、トラスが剥き出しは更に希少。
校舎の中には再来した元卒業生、明星大学の学生など沢山の書き残し(落書きも含めて)が描かれている。教室、廊下、もう本当に至る所に。その中で僕は見つけてしまった、そうか…貴方もここにいらっしゃったのですね…。
つ…つの丸大先生…こんな山奥に何用で…いや、しかし。
サバゲーのロケーションにこんな山奥を選出するとは…ご苦労様です。
※ 2012年以降、無関係な来訪者に対する本格的な調査が在りました。その後の警備も人員的な物ですが強化されています。
確認を忘れたけどこの学校にはHONDAの名車、CⅡ72が朽ちていると聞いていたのだけれど…うーむ。総一郎がデザインした神社仏閣スタイルには10代の頃の僕もすっかりホの字でしてC92プレスハンドル、CⅢ92ダブルシート仕様、C72とレストアした思い出が。
今なら…今ならJC57とかレストアしてみたい…しかし無いだろうな。ずっと欲しいんだよなぁ、JC(女子中学生じゃない)。余裕が在ればキャブのRTFとか…どっかに落ちてないかなぁ、ミュージアムコンディションで。
photograph:+10
一通り巡った様なのでこの廃校を後にした、思い出とBB弾が沢山散らばった素敵な廃校だった。実はこの廃校の歴史をちょっと調べたのだけど資料が複数出て来て開校時期が合致しない、って事でもう少し調査を進めてからこの廃校の年表を掲載したいと思っている次第で在ります。
田老関係で追跡調査はこの物件だけ、有名物件でも以外と解らない事が出てくるものです。
管理会社の爺様は語る。
「この場所はんなぁ、時代と人の欲、そして今は自然に呑み込まれてしまったんのす。んだんも俺が飲まれんな酒だけなんのす」
イ…イイハナシカナー
のす…そういえばATOMでのモジャ桐仁さん以来だ、この語尾ってば。そんな事を思いながら移動しようと思った矢先。
「後、ほら、あそこな。あの山のあそこさ、あっこでマツタケ採れんだ」
何ぃぃいい?
アプローチ
エントリー導入部を参照。
地図リンク
https://goo.gl/maps/hD0sm
photograph - nee
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REPORT - 0519│田老鉱山竪坑巻上施設
岩手県│ラサ工業田老鉱山跡 竪坑巻上施設
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 田老鉱山抗口跡 竪坑巻上施設
正直今回紹介する場所を廃墟系サイトで見掛けた事が無い(2011年現在)、その位田老鉱山に在って知名度がない関連物件を取り上げて見たいと思う。その存在自体、僕も現地に行くまで気付く事が出来ないでいたのでレポートは全て帰宅後の机上調査で明に成った物。
※ 2013年頃にはとうとう廃墟好きさんに見付かってしまいました、がココの撮影許可ってとても難しいプロセスがある筈なのに他の方はどうやって申請したんだろう…その辺は後述します。
選鉱所跡から北西に山岳作業道を2キロ半弱歩くとそれは見えて来る、と言っても幾つかの分岐やブッシュに阻まれた旧道も通るので本当に解り辛い。見付けたのも別物件の調査中に偶然ってなもんでして(※1)、実は田老鉱山の中でも歴史が在るその廃墟の正体を先に記載してレポート開始と行きましょう。
「田老鉱山 初期抗口跡 竪抗巻上施設」
今では関係者も来なくなった山中に佇む廃墟にお邪魔しましょう。
※1:関連施設及び敷地内の撮影許可は事前に取ってあります(この廃墟の発見自体は偶然でした)
今までの関連エントリーは以下より。
実はですね、この場所に至るには一部私有地(山岳所有地)を跨ぐ事に成ります。どういった経緯で明星大学から敷地を入手したのか解りませんが不明瞭な敷地を含むと言う事で地図の記載を控えます、ヒントとして下記グーグルマップのリンクを置いておきます。(写ってます)
※ この場所へ行くのが難しい要因、それが通過しなければ成らない一部の私有敷地です。
田老第二小学校跡の手前の分岐から右折して作業道に入る、ここからは普通の車では少々厳しいので軽トラか四駆、2輪ならモッサーでどうぞ。
長内川を渡る「砥澤橋」、迂回した川を再び渡る「中砥澤橋」を超える。小学校に裏手からアクセスする廃道手前に車を止めて徒歩で向かう事にした、何せ本当に道が悪いのなんの。因みにこの駐車した場所に廃神社が在る、現在は階段と狛犬を残すのみ。残念な事に神社の正式名称が解らず、解りそうで中々ハッキリしない物件って以外と多いのです。
写真はかつてこの先に抗口が在った事を示した看板の名残、2つ目のT字路を左に折れるとこの場所だ、更に次の分岐左に折れる。
photograph : saorigraph
そこから少し歩くとブッシュが薄くなり、轍の在る旧道に出た。更にヒントとしてこの時点で長内川は左手斜面下に、進行方向は小学校跡の方に向いている。つまり巻いている状態だ、この場所で山岳内の一般所有敷地は抜けていて元の明星大学敷地内に成っています。
どちらにせよ無許可の撮影や来訪は通報対象だそうです、2012年からは選鉱所跡を含む区域警備も強化され、この場所も警備対象と成る様です。管理会社の担当さん曰く、既に監視カメラも区域に内に設置済みだそうですよ。
photograph : saorigraph
最後のカーブ手前に古い鉄製のワークデスク、右に折れると坑口跡と竪抗巻上施設が見えてきます。
抗口には施錠されていますが許可を取れば入る事は可能です、縦坑約200メートルの地下への口が今でも残っていますが安全上の問題で部分的に塞がれてしまいました。
photograph : +10
坑口から対角線上に外部巻座台が残り、更にその奥の施設へをワイヤーを伸ばしていた事だろう。簡単に言えば台座付きの釣りのギミック、それではその釣り糸を巻き上げるリールを見るとしましょう。
竪坑巻上施設内部の2階から、中央が巻上機。
この抗口は初期の頃から稼動していたのだけれど1961年の三陸フェーン大火で選鉱所が全焼した時に一緒に被災、新設されて機器も翌年の1962年に操業再開と共に新たに導入されました。
2階反対側から。
この施設は巻上機能のみの施設(+巻上操作室)なので規模としても小さい物件、見所が特に在る訳では無いけど余り知られていないって点で撮影に来る価値は在るかと思いますよ。
内部巻座台に残る巻上機、写真でも解る通り日立製作所が納品している。製造年月日も操業再開の年と合致、その他の機器(誘導電動機、発電機やコンプレッサー)も同時期に日立が納品した様だ。
photograph : saorigraph
地元新聞社さんから頂いた資料から幾分か当時の稼動状況を推測する事が出来る、1962年の操業再開から設置されたこの施設。竪坑から約50メートルの抗口の方向とリールの巻上げ方向が一致する事からこの竪抗地区が重要な施設だった事が解る。
このリールのワイヤーは直線状に口を開けている引き込み窓から抗口に一直線で伸びていた筈だ、錆びたガイドローラーの方向も一致していた。
巻座は腐食しているけれど強度はまだ残っている様だ。
勘違いされそうだけれどこの巻上施設がこの物件のメインではない、メインはあくまで竪抗だ。提供された資料によって深さが異なるのだけれど280~320メートル位まで掘り進められた、残念ながら抗口は鉄板で閉鎖されている。
手前に見えるのは日立製三相誘導電動機(発電機)だ、こちらも資料を確認すると電圧3000ボルト、出力200キロワット。確かに大きな出力だけれど同時期に稼動していた鉱山と比べるとやや少ない。
こちらはエアコンプレッサー、当時としても結構大きいタンクが設置されている。ここで蓄積された圧縮空気は坑道内の打撃式削岩機の運用に使用された、現在ではこのタンクより小さいサイズで数倍の力を生むコンプレッサーも在る。
1階と2階の間に浮く様に残る中二階の施設はこの巻上重機の操作室、坑道内を計器でモニターしつつ眼前のリールを操作していた。
操作室、見るからに随分と古い形式。1962年と考えても技術的に時代遅れのギミックを使用していた様だ、この施設に関しては提供された資料だけで十分な調査が出来なかったので今後機会が在れば詳しく調べてみたいと思う。
因みにこの巻上施設を含む竪抗地区は狭い様で実は広い、今は残っていないが稼動当時は他にも幾つかの建造物が設置されており、また竪抗も現存するよりも規模が大きかった。これらは今と成っては確認する事は出来ないがその名残は散見出来る、ただその遺構を探すのは更に藪漕ぎが必要なのだけれど(※2)。
※2:これらの遺構は斜面と藪の鉄壁防御で見付けるのがとても困難ですが現存しております
お問い合わせ頂いた内容について(2013年現在)
今年(2013年)に入ってからこの施設に関して数件お問い合わせを頂きました、どうやら当ブログの他にもこの場所について記載しているサイトが在るとか。で、そこでは「巻上室」と言うのが紹介されているがこの施設と何か違うのか、と。
確認しましたが呼び方が相違しているだけで同物件です、と言うより「巻上室」と言うのは存在しません。この物件は「ラサ工業田老鉱山 竪坑地区 竪坑巻上施設」が正式名称の様です(資料確認)、またエントリー内に追加情報を記載しました。
最後にもう一つ、これも問い合わせ内容に在ったのですがこの場所。ウェブ上の地図には記載されていません、「どうしても建造物が見つけられない」との事ですが一般的に使用するヤフーマップやグーグルマップ、大正義の国土地理院の地図にもどう言う訳か掲載なし。うーん、コレに関しては解りませんです。
アプローチ
土地管理者諸事情の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
地図リンク
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REPORT - 0522│浦の崎変電所
佐賀県 │ 浦の崎変電所
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 浦の崎変電所(浦ノ崎変電所跡)
2012.03.27 - 行政より情報を頂いた為に追記
以前より調査していたこの変電施設、関係各所からの回答とこの区域を担当する行政機関「伊万里市総務部情報広報課」様より報告を頂いたので追記エントリーしたいと思います。追加画像は無し、最後尾にてその内容を書きましたので興味の在る方は是非。
残念ながら解体中の川南工業浦之崎造船所跡、この造船所の関連施設は以外と語られない事が多いのだけど廃カーさんだとピンと来る方も居る筈。丁度のこの廃墟の前に設置されたバス停に書かれた停留所の名前、
「浦の崎変電所前」
造船所と直ぐ近くに残る変電所の廃墟。うん、匂いますね。しかしこの物件を扱うブログやサイトが殆ど無い事からその正体を知る物は少なく、実しやかに囁かれる「造船所の電力を変電していた」との噂。
以前レポートした造船所のエントリーはご覧に成っただろうか。
この造船所を調べている最中にこの変電施設についての文献や資料は全く出て来ていない、また佐賀県にこの造船所の歴史や不動産関係の詳細を問い合わせた時に頂いた関連資料にもやはり記載がない。
これは…。
この施設は一帯何の為に作られ、そして廃墟と成ったのか。ちょっとだけ興味が沸いたので造船所の関連物件として調査してみた、最終回答は実は県からの回答待ちなのだけどまずはレポートを読み進めてほしい。
問題のバス停「浦の崎変電所前」停留所から数分でこの廃墟に辿り着く事が出来る、バス停の名前に偽りなしの位置関係。場所は最後尾の地図リンクを参照して欲しい、写真モードではちょっとした林の中に在ると思って頂ければと。
薄っすらと残るこのライトなブッシュを抜けると小さな変電施設が現れる、それが今回の物件である「浦ノ崎変電所跡」だ。
概観を良く見渡すと少ないながらヒントが見て取れた、まず目に付くのは「佐賀労働基準局」の看板。
労働基準法
適用事業場
佐賀労働基準局
こう書かれた公称看板が今でも残っていた、「労働基準法」ねぇ…。それとこのコンクリートの建造物、ふむ…何となく正体が解ってきたぞ。
施設内は変電所として関連機器が置かれていたであろうコンクリート製のベースが並んでいる、内部には随分と荒らされた形跡も見受けられ、またゴミも不法投棄されていた。そしてこのゴミも実はヒントに成る、不法投棄された家具や家電のどれもが1970年以降の物なのだ。
そして内部に書かれた道具のアナウンス「ヂスヨン棒」の表記、まあこれは間違いなく「ディスコン棒」の事だろう。このディスコン棒とは絶縁高圧用作業具の一種で変電所の様な高電圧を扱う場所には設置されている道具、良く聞くのは鉄っちゃんが話す「パンタグラフの作動補助道具」としてのディスコン棒。
それではそろそろヒントをまとめてみようか。
・川南工業は1955年に倒産
そもそも造船所の変電施設っては何処から出て来た噂か、それが定かではないのだけれど造船所が軍需としての役目を終えたのが1955年。その後は南極観測船「宗谷」や大学設立の資金基盤として残っては居たものの実質既述の1955年の倒産をもって稼動はしていない。
・労働基準法の本格稼動は1952年から
終戦を迎えた1945年から2年を経過した1947年、現在の労働基準法の雛形が完成する。しかし時は戦後間もなく、その適正運用は10年を要した。日米地位協定締結の1952年以降やっとこ法として稼動し始め、諸問題が山積していた新安保が正式に1960年に条約締結して始めて国内法は国内法として運用される。
・軍需施設に労働基準法?
と、言う事は…だ。1955年に倒産した川南工業にGHQ撤退後直ぐの1952年から公称看板を掲げてまで「労働基準法適用事業場」を謳う意味が在ったであろうか(※1)、軍需で成長し、終戦と共にその意味を無くしたこの軍需造船所が…だ。
・廃墟化後の不法投棄
先ほども書いたのだけど残留している家具、家電が1970年以降の物。これも重要なヒントだ、それ以前に廃墟化していれば…少なくとも川南工業と同時期に稼動が停止していれば1955年以降のゴミが残っていても不思議は無い、それがどうして1970年以降のゴミしか残っていないのか(※2)。
・国内の鉄筋コンクリート構造は1950年代後半から
この建物はコンクリート構造の施設だ、戦後国内で鉄筋コンクリート製の建造物が頻繁に建てられる様に成ったのは1950年中盤以降、つまりこの建物が少なくとも1950年代以前には無かった(※3)事を意味している。
そろそろか…。
ここまでをまとめよう。労働基準局の看板が示す労働基準法の本格運用が1952年、川南工業は少々遅れる事1955年の倒産。倒産以前の不法投棄ゴミはなく、15年以上経過してからのゴミしか残っていない。建造物自体が1950年代以降の物で川南工業が手掛けた建造物としては不自然、以上の点からこの変電所は川南工業との関連性が低い(※4)と思われる。
更に。
目の前を走る鉄道、「松浦鉄道西九州線」。戦前から存在するこの鉄道の最寄り駅の表記は「浦ノ崎駅」、戦後設置された「西肥バス」の路線上に今でも残る最寄停留所の表記「浦の崎変電所前」。「浦ノ崎」と「浦の崎」、この意味と時代背景による表記の相違。オマケとして鉄道関係の変電所には必ず設置されているディスコン棒のアナウンス表記、うむ…これは。
これらの情報から導き出されるのは川南工業とは何の関係も無い鉄道関連の変電施設なのではと言う事、時代背景や残留物、位置関係や諸々の表記がそれを裏付けている。つまり…
ってトコまで考えたがそれ以上の物的証拠なし。
これ以降は改めて佐賀県や今回の考察で出て来た鉄道会社やバス会社にメールで問い合わせた、回答が集まり次第更に確証を得た上で追記したいと思う。
中途半端で御免なさい、公開しても後悔はしねぇ。
※ 重要 ※ 2014年01月に読者さんから有力な情報を頂き、注意書きで訂正を行いました。
※1:電力会社(現・九州電力)からの認可は1935年に下りており、電力関係の建造物建設に関する申請は前年の1934年に行われていました。「労働基準法適用事業場」としては法律運用後に適用された事が確認されています。
※2:大きな立替工事と2度の改修工事が記録として出て来ました、最後の改修工事に凡その以前の関連道具は撤去されていますが1974年の運用終了時の撤収作業時にほぼ全ての関連機器が撤去されました。よって残留物は1974年以降の物と成る訳です。
※3:立替の為、変電施設は1935年(申請及び認可日からすると同年に運用開始が予想される)から建設されていたものの1950年代以降の立替工事で現在の姿に成ったと思われる。
※4:これに関しては2012年の追加情報で関連施設だった事が判明しています。
これら注釈をまとめると最初期の予想と検証が全くの的外れだった事が解りました、お読み頂いた読者様には大変ご迷惑をお掛けしました。また有力な情報を提供して頂いた長崎県のK様においては感謝の言葉が尽きません、本当に有難う御座いました。
2012.03.27 - 追加情報追記 (※2014年の情報提供前の追加エントリーです)
冒頭でも書いた様に関係各所に送っていた「この変電施設に関する詳細」の回答が出揃った、最有力だった「伊万里市総務部情報広報課」様からの回答を中心にこの変電施設が何で在ったか、それをお伝えしよう。
まず最初にお詫びしたい、ウチで散々ばら推測した「鉄道関係の変電施設ではないだろうか」の部分に関しては惨敗、つまり鉄道関係では在りませんでした。付近の鉄道企業とこの変電施設は全く関係なく、松浦鉄道西九州線に関わった全ての社歴にも記されてはいなかった。
と、言うかですね。まあぶっちゃけてしまうとですね…行政曰く、
「山代町史にも関連文献にもこの変電施設に関する資料が残っておりません」
ってのが結論。アレコレと推測して来たのだけど軍需指定された建造物では無かった事は判明している、って事はやっぱり「川南造船所」とは関係ないのか…?
それが、そうだとも言い切れなく成って来ました。
付近の「変電施設を必要と予想される企業、もしくは過去に存在した企業」を洗ったのだけどどう考えても「川南造船所」しか当て嵌まらないのだ。ガラス製造工場だった頃には変電施設を必要とする電力は供給されてはいなかった、ありゃりゃ…やっぱりコイツは軍需指定されなかった軍需遺構。つまりは「川南造船所」に電力を変電、供給していたのかなぁ?って結果に。
いやいやいや、だったらオカシイだろ。労働基準局の看板や、建築方法に関する時代背景の矛盾点はどう説明すれば良いんだ?って事で今回は別の角度から攻めてみた(※1)。
川南造船所の解体、この解体には沢山の企業と地元の利権者、そして資料製の高い建造部分を保存する為に参加した大学関係者が存在する。諸事情で伏せる事に成ったのだけどこの部分保存に関係した大学の協力を得る事が出来た、しかしそこでもやはり資料は発見出来ず。なのだけど当時の軍需稼動していた状況から付近の電力供給量、そして造船作業に必要な電力の出力などを元にこの変電施設が何なのか。これを予測して頂いた、全くと言って資料が無かったのでこの予測を掲載する為に地元の方の聞き込みを同時期に行っている。
最終予測(某大学予測+地元民から聞き込み)
この変電施設「浦の崎変電所跡」はガラス製造工場から軍需稼動用に造船所として転用され、工場本来の電力設備では造船作業に支障在りと判断された後に建築された川南造船所用の電力の変電、供給施設なのではないか。それを裏付ける様に造船所稼動当時付近では電力不足により停電が頻発、しかし何故かその停電が起こらなく成る(※2)。この時に建設された事を裏付ける証言が取れれば間違いないのだけど…、しかし地元電力関連企業でこの変電施設を利用した記録は皆無。
また一般公開されていない当時の造船所の概観写真、この写真になんと山向こうから電柱を介して伸びる電線が写ってるじゃないですか。建築当初の写真には無いのだけれど軍需稼動している最中の写真にはこの電柱と電線がシロクロながらシッカリと写り込んでいる。
よって「浦の崎変電所は川南造船所用の電力の変電、供給施設」、これが最有力の説としてこの調査を終えたい。…って、あれ?んんん?こりゃあ…
最初の噂「造船所の電力を変電していた」で合ってるじゃん…
※ 重要 ※ 2014年01月に読者さんから有力な情報を頂き、注意書きで訂正を行いました。
※1:電力会社(現・九州電力)からの認可は1935年に下りており、電力関係の建造物建設に関する申請は前年の1934年に行われていました。「労働基準法適用事業場」としては法律運用後に適用された事が確認されています。
重ねて記載しますが大きな立替工事と2度の改修工事が記録として出て来ています、変電施設は1935年(申請及び認可日からすると同年に運用開始が予想される)から建設されていたものの1950年代以降の立替工事で現在の姿に成ったと思われます。また当初は周辺の家庭や鉄道関連施設に送電していた様です。
※2:送電技術が向上し、別の変電施設からの電力供給が可能に。よって浦の崎変電所は造船所へその全ての変電能力を注げる事に、これで周辺一般家庭の電力細くと軍需工場としての機能が損なわれなかった理由が解った。
結論、当ブログの調査能力の低さを露呈したエントリーだった…と言う事です。結局はその事実をしる読者様からの情報提供が無ければこの”答え”に辿り着けなかった訳ですし、今後の課題として歴史検証のルート開拓を一層強化していきたいと実感した物件でした。
アプローチ
国道204号線沿い、松浦西九州線浦ノ崎駅から徒歩5分~10分の距離に在ります。本当に道路沿いなので直ぐに解ります、夜間では街灯が無い為に解り辛いかもしれません。
地図リンク
https://goo.gl/maps/L6Bou
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REPORT - 0521│岩泉町袰野の吊橋
岩手県│下閉伊郡岩泉町袰野の吊橋
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 岩泉町袰野の吊橋
東北へ遠征撮影に行った時、田老鉱山から龍泉洞へ向かう道すがら割橋ストの血が反応する物件を見つけてしまった。吊橋の名前は解らず、また現地には人が全然居ないもんだから詳細などは一切は解らない状況。
まあ規模的にもオマケ物件だからちょっと渡ってみますかと車を止めた、割橋は基本「ああ、自分生きてるなぁ」って実感する為に無茶するのだけど今回は何と言うか。
滞在時間15分程の割橋オマケ物件のエントリー、覚書程度にレポートしたいと思います。
車で長閑な田舎道を走っていると流木だか倒木だか、結構大きな物が引っ掛かった吊橋を発見した。ただ流れていく山間部の道で一際目を引くその存在感、ちょっと寄ってみましょうか。
正面から、解り辛いとおもうけど途中でグニャって。
photograph:saorigraph
ほら、こんな感じ。
photograph:+10
来てみた、割橋には成らんな…この物件。割橋は「高所」で「廃橋」で基本人が渡らない事が前提、この吊橋ちょっとだけ頑張るとこの間々渡れちゃう。
所々ワイヤーしかない場所が在る、しかしワイヤーは強度が十分で緊張感が無い。低い事と下は川が流れていてる事もその原因、もう少し行ってみよう。
流木だな、しかも枯れて流されたんじゃない。増水による物だ、木が若いし。
根こ削ぎカネヨン、色々凄い。裂けてるし割れてるし折れてるし、どうしたの。
おや?相棒の様子が…
まあやるよね、何時でも何処でもぶら下がるの好きだものな。さて、この吊橋。名称以外で状況も含めて解った事をまとめよう。
場所はココ、岩手県下閉伊郡岩泉町袰野。袰野の吊橋って地元では呼ばれているみたい、国道455号線から小本川を挟んだ対岸の畑に掛けられた吊橋だ。
在りし日の吊橋、何故こんな姿に成ったのかと言えば日本全国に大被害を齎した台風15号(2011年9月21日~22日)の影響で上流の木が地盤ごと流された結果との事だった。
平成23年台風第15号 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b9%b3%e6%88%9023%e5%b9%b4%e5%8f%b0%e9%a2%a8%e7%ac%ac15%e5%8f%b7
台風通過後の河川の状態、水位がかなり高い事が解る。台風の時に限って何故「田んぼの様子を見に」行ったり「コロッケ買いに」行ったりするのか、消火戦隊スプリンクラーとは何のか。
上の写真と比べると水位の違いが解ると思う、相変わらず相棒はぶら下がっている。その後彼は誰にも聞こえない様にボソっと
「最近ガーデニングに凝ってましてね…」
老後の楽しみに、と始めた彼が最初に植えたのはファミ通だと言う。「春には最新号の芽が元気に顔を出すんですよ…」、車中で力なく語る彼の眼には薄っすらと涙が浮かんでいたという。
※ こんなついでエントリーさえ気に成ってお問い合わせを頂く事が在るんですね…幾ばくかの方からその後この吊橋はドウナッタ?と聞かれたのですが寧ろ「コッチが知りてぇよ」状態でした。が、2012年現在では綺麗に補修されて生活吊橋としてシッカリと使用されている様です。
アプローチ
詳細導入部を参照。
地図リンク
https://goo.gl/maps/wFa2g
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