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REPORT - 0610│曽木発電所
鹿児島県│曽木発電所跡(曾木発電所跡)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 曽木発電所跡
九州の極上有名遺構物件、鹿児島県に残る「曽木発電所跡」を今回は取上げようと思う。と言っても余りに有名でしかも観光地化されている事も在り、今更感は否めない。それでも内部を紹介したレポートは少ない(※1)のでご紹介する事に、歴史など遺構に関して詳しい事は他のレポートサイトに沢山情報が在るので探してみて下さい。
※1:2012年現在では余り多くありません
それでは「曽木発電所跡」のレポートはじめましょう。
川内川の岸壁上に在る展望台からよく撮影されるアングルじゃあどうしても物足りない、そう言えば以前内部を撮影したレポートが転がっていた様な。それならウチも内部を撮りたいじゃなイカ、って事でお邪魔しまーす(※2)。
※2:内部は危険な為、撮影には許可が必要です
近年まで土砂に埋まってた部分、岸壁整備と遺構補修で建物が久し振りに姿を現したのは最近の話なのです。展望所のアナウンスボードを転載するのでお暇な方は是非。
曽木発電所から学ぼう
明治40年(1907)、曽木の滝のすぐ下に曽木第一発電所が完成し、大口に始めて電灯がともることになった。出力は800キロワットであり、大口にあった3ヵ所の金山の動力源や近郊町村の電灯用に供給しても、半分の電力でまかなうことができたため、余剰電力を送電して水俣にカーバイド(漁船や自転車の点灯燃料)工場を建設した。
明治42年(1909)には、第一発電所に代り、約1.5km下流に発電量約6700キロワットの第二発電所が完成した。レンガ造りの洋風建築の発電所もさることながら、ドイツのジーメンス社製の発電機の導入や5つのトンネルや水路橋を持つ約1.5kmの導水路建設が示すように、一大事業であったため、全国から技術者や作業員が集まり、下ノ木場集落は再び活気に包まれた。
曽木の滝右岸から取水し、現在の曽木の滝公園下、下ノ木場地区へと続く導水路を流れて、発電所の4本の水圧鉄管から一気に落としていた訳であるが、現在でも発電所やヘッドタンクの一部、水路やトンネルの大部分が残り、スケールの大きさを物語っている。
鶴田ダム建設にともない集落は移転し、約60年にも及ぶ発電所の歴史も幕を閉じ湖底に沈むこととなったが、水の力を利用した発電はクリーンな自然エネルギーであり、また電気化学工業の発祥のきっかけとなった曽木発電所は、湖底から現代に静かにメッセージを送り続けている。
稼動当時の曽木発電所。
釣り客にも人気の正面岸壁、冠水時には遺構全体の3分の1程しか姿が確認出来ず建物頂上部しか水上に顔を出さない。
以前まではココに至るまではちょっとしたアクセス道かボートを使用した、現在は岸壁整備と遺構補修時に使用された作業道が残っているので簡単に来る事が可能だ。
崩壊寸前だったこの遺構も2009年以降の補修工事(※2)で暫くは楽しむ事が出来る様に成った、行政もこの遺構には観光効果を期待しているらしく助成金が毎年計上されている様だ。しかも毎年ライトアップなどのイベントも企画されていて来訪者を楽しませてくれている。
※2:2004年にも国の登録有形文化財として補修工事が、近代産業遺産に指定されています。
2009年、改修工事中に夜間のライトアップが行われていた。
旧式の水力発電は山間部で行われる事が殆どだった、それと言うのも送水落差を利用した物が大部分を占めていたので斜面に建設される事が多かった。過去にも類似する水力発電所を取上げているのでリンクしておこう。
比べると解り易い、冠水時と放水時の水位の差はこれ程も在る。このダム貯水時期限定でボートなどで接近する事も可能です。
簡単にこの水力発電所の概要を記載しておこう。
曽木発電所遺構の概要
曽木発電所遺構は、川内川の中流にある曽木の滝(東洋のナイアガラ)の約1.5㎞下流にあります。
いつもは鶴田ダム(西日本最大級の重力式ダム、昭和42年完成)がつくる大鶴湖の底に沈んでいて、洪水に備えて貯水位を下げる五月から九月にかけて優美な姿を湖面に見せてくれます。
この曽木発電所遺構は明治42年(1909)に、日窒コンツェルンの創始者で、我が国の代表的経済人である野口遵(ノグチ・シタガウ)により建設された水力発電所で、東西に幅43m、奥行20m、高さ19m、総面積2207.7㎡(約669坪)の2階建一部3階建であり、鹿児島県に唯一残る明治時代建造のレンガ造り建造物です。また、当時は水俣のカーバイト工場「チッソ株式会社水俣製造所」に電力を供給して、我が国の電気化学工業発祥のきっかけになった貴重な近代化産業遺産でもあります。
(アナウンスボード抜粋)
補修工事前にはこの様にして倒壊の危険性が在った、倒壊防止柵も設置(2009年当時)されていたが現在では補修工事が行われ倒壊の恐れは無い。
補修前の曽木発電所遺構、低い所では1メートル、高い所では5メートルもの土砂とブッシュで遺構の半分ほどが埋もれていました。
当時の方が遺構としては神秘的だったのだけれど…まあ倒壊して無くなるよりは。
九州の廃墟や遺構として取上げられる事も多いこの曽木発電所跡、今後も段階的に周辺の観光地化が進み、また改修工事も行われるとの事。今後時間が経過すれば訪問し易くは成るけれど生々しい遺構の姿は少しづつ減ってしまうんだろうなぁ。
アプローチ
観光地なので特に記載はしません、撮影アングルによって現地で利用する道路が大幅に変わります、以降は各々で地図リンクを参考に訪問して下さい。
地図リンク
https://goo.gl/maps/8Jks4grVbn32
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 6020│国立療養所晴嵐荘病院
千葉県│国立療養所晴嵐荘病院
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 国立療養所晴嵐荘病院(独立行政法人国立病院機構茨城東病院/財団法人村松晴嵐荘/晴嵐荘看護学校)
この廃病院を知ったのは随分と前、廃墟を撮影対象にしてから直ぐの事だった。茨城県に大規模かつ見応えのある病院の廃虚群が残っている、そんな話を出入している出版社の方から聞いた事が切っ掛けだった。
今思えばその時に「関係者伝に聞いた話だともう直ぐ解体作業が始まるらしいよ」とのアドバイスをして頂いた記憶も薄っすら在る様な無い様な、そしてそれから数年後。別物件も引っ提げて茨城県の廃墟を数物件取材訪問した際にこの廃病院の廃墟群へも赴いた。
しかし…。
残念な事にその廃墟群のメインと成る看護学校棟の解体作業真っ最中(※1)、折角来たのだからと広い敷地内に残る数多くの廃墟を見て回った。メイン物件が見れなかったのは残念だけどそれでも噂通りの見応えで迎えてくれた今回の物件、
国立療養所晴嵐荘病院
この廃病院と関連廃墟群についてのレポートをエントリーしたいと思う、調べると何かと話題に事欠かない物件だったけれど簡単にまとめてみたので是非ご覧頂きたい。
K療養所S荘とか看護学校の廃虚とか色々と別称は在るけれど関連出版物まで世に出ている事、解体作業が始まった事を考慮して正式名称でのご紹介としよう。
※1:解体中の建造物内部の撮影は許可が下りませんでした
取材の舞台と成るのはこの広大な敷地だ、現在は独立行政法人国立病院機構茨城東病院として運営されている余剰敷地(過去の院内敷地)に廃虚群が残る。場所は1999年に日本を騒がせた茨城県東海村、今でも「東海村JCO臨界事故」が記憶に新しい筈だ。
東海村 - ウィキペディア
https://goo.gl/Wx2iye
それと此方もリンクしておこう。
東海村JCO臨界事故 - ウィキペディア
https://goo.gl/WlHbw0
それでは地図を見て頂こうか、現在鬱蒼と広がる余剰敷地に残る廃墟群はこの様な位置関係で風化の一途を辿っている。全敷地の4分の3を占めるこの廃墟群が残る部分をさて、どう回ろうか。
航空写真から地図に切り替えて説明していこう、位置関係はこの様に成っている。メイン物件は敷地内最上部の「看護学校校舎跡」だ、期待ワキワキで向ったが数十分後に驚愕の事実を知る事に成る。
それでは少しづつ敷地内の物件を見ていこう。
管理棟及び宿直棟
入口は今回のエントリー最初の写真、概観からして既に倒壊しそうだが中に入ると成る程、既にこの有様だった。以前この廃墟群にて撮影を行った出版関係の方から話を聞き、写真を比べるとある時期を境に急激な崩壊倒壊が見て取れた。
お気付きだと思うが2011年3月に襲った大震災「東日本大震災大地震」だ、この地震によってどうにか建物として現存していた物件の内の数棟が甚大な被害を被った様だ(※2)。
※2:震災以降は新聞社などの大手メディア以外の撮影許可は殆ど降りない様です
この建物は元々この様な倒壊具合だったが地震の影響で更にその進行が早められたみたい、以前の写真と比べると所々崩壊が進んでいる。
この連続棟は管理棟と宿直棟を兼ねていて写真正面が宿直室、裏側が管理棟と資料倉庫を兼ねていた。何故か農耕機具まで収納されている、旧字体の資料もチラホラ。
※ 大切な資料は新しい病院の建設時に持ち出されたと聞きましたが意外と色々な使用が残っていました
先ほどの場所を別角度から、向って左側が宿直室。廃屋内には新しい足跡が数種類見受けられたので随分と招かざる訪問者が居るのだと解る。
資料保管倉庫、今と成っては何をどの様に保管していたかも解らない。が、驚く事に2005年以降の廃棄物が幾つか残されていた。最近だと2010年の家電だ、関係者なのか不法投棄なのか、不法投棄だとしてもココまで持って来たとは流石に思えない。
※ 国道245号線側の樹林地帯には監視カメラも設置されています
標語板が今も残っていた、この様な物は解体時に是非歴史資料として保管して欲しいものだ。地元のNPO団体にも確認を取ったけれど資料性の高い残留物を残そうとする動きも以前は在った様だ、しかし病院側に断られたとお聞きしました。
管理棟入口、此方は幾分見れる状態で残っていた。建造が1935年なので今から77年前(2012年現在)と成る、そしていよいよ解体の足音が近付いて来た。
それでは道路を挟んだ機械室が残る機材倉庫へ向うとしよう。
資材倉庫及び備品倉庫
管理棟眼前の道路を挟んで少々のブッシュを漕ぐと右側に資材倉庫が見える、機材倉庫の前に少々寄るとしようか。
この棟は比較的完全な状態で残っている、手前には体重計。
資材倉庫は横長に外部屋1、内部屋5の合計6部屋から成る。それぞれ特に分別された様子の無い看護学校関係の資材や教材、学校家具が残されている。また旧学生宿舎から新しい学生宿舎に移行する際に不要に成った物が残されている。
特に見る物も無いのでお隣の機材倉庫へ移ろう。
機械室及び機材倉庫
この機材倉庫は敷地内の建造物の中でも初期に建設された物だ、殆どの木造建造物が1935年に建てられているがここは建設段階で初期建設されたと聞く。確かに機械関係の建造物を最初に立てるのは理に適ってはいる、しかし概観は廃校だなこりゃ。
ここで有名だけれど少し面白い話をしよう、いや皆さんご存知だとは思いますが。この国立病院機構茨城東病院、以前は国立療養所晴嵐荘病院として運営されていた。その時代、もう少し的を絞って1970年代後半~1990年。ある人物がこの病院に勤めていた、その人物の名は「林 郁夫」。父親が医師、母親が薬剤師の開業医の家に生まれ、慶應義塾大学医学部を卒業後に自らも医師と成ったエリート。ホーリーネームはボーディサットヴァ・クリシュナナンダ、そう…彼は元オウム真理教幹部であり、地下鉄サリン事件の実行犯の1人。
そして4人の実行犯で在りながらただ1人死刑を免れた人物でもある、その彼がこの病院に長い間(一時退職期間アリ)勤めていた事でも有名だ。リンクを貼っておこう。
林郁夫 - ウィキペディア
https://goo.gl/V8YcUi
地下鉄サリン事件 - ウィキペディア
https://goo.gl/KAl4MN
機材倉庫と言っても当時の機材が残っている事はなく、その後別倉庫と使用されてしまった為に現在残るのは1970年代後半~1983年までの比較的新しい物ばかりだ。
と言っても1983年だ、既に30年前と言う事に成るのか。
この棟も解体を待たずに倒壊しそうな勢いだ、やはり地震の影響も大きいのだろう。ささっと撮影して2本の煙突が目印と成るお隣の機械室へ移る。しかし此方は建物の半分が倒壊し、また見る物も少なかったので資料写真を数枚撮影して外へ。
そしてココから旧学生宿舎を通り過ぎて学生宿舎とメイン物件の看護学校へと目を向ける、が。暫く考えて理解した、あのグチャグチャに解体された木片達が数ヶ月前まで茨城県内最大かつ魅力溢れる廃病院(看護学校)跡の廃墟で在った事を。
それでもと思い、工事の邪魔に成らない様に休憩時間まで待たせて頂いて資料写真を数枚。どうやら解体作業の真っ最中(※3)らしく、解体機器も傍らに置かれていた。ああ、遅かったんだ。愕然としてプリントアウトして来た敷地内のマップと資料に目を向ける、残るは旧診療棟だけか…。
少々離れているが最後に見て帰ろうと診療棟へ向った。
※3:実際に重機で解体作業が行われていました、と言うか関係者が敷地内に沢山います。
診察診療棟
敷地内を大きく横断してやって来たのは廃墟群最後の棟、診察診療棟。崩壊具合が結構な物でして、中は真っ暗だし特に撮影する物も無い…でも折角なので。診察棟の中もご覧通り、床は抜け落ちただの倉庫と化していた。廃病院としての美しさは既に失われていた。雰囲気は岐阜県の廃病院の雄「洲原村診療所」と若干似ていたけどコッチはもう廃美成分が薄くなり過ぎて撮影意欲は低下気味に。
裏手もご覧の感じで倒壊していた、約1時間程の短い撮影時間(本来は看護学校でもう1時間撮影する筈だった)でこの廃墟群を後にした。遅過ぎた訪問の後悔がジワジワ、だけれどもチラホラと見え隠れした廃墟美に無理矢理自分を納得して次の物件に向ったのでした。
最後にこの病院の現在のウィキペディア情報を引用転載してエントリーを終えるとしよう。
独立行政法人国立病院機構茨城東病院
独立行政法人国立病院機構茨城東病院(いばらきひがしびょういん)は、茨城県那珂郡東海村にある医療機関。独立行政法人国立病院機構が運営する病院である。旧国立療養所晴嵐荘病院。政策医療分野における循環器病、呼吸器疾患(結核を含む)、重症心身障害の専門医療施設である。地域医療支援病院の承認を受ける。
1935年 - 除役結核軍人療養施設、財団法人村松晴嵐荘として創設
1937年 - 国立結核療養所官制公布により内務省移管
1938年 - 厚生省移管
1942年 - 傷痍軍人療養所村松晴嵐荘となる
1945年 - 国立療養所村松晴嵐荘となる
1976年 - 国立療養所晴嵐荘病院と改称
2001年 - 厚生労働省移管
2004年 - 独立行政法人化により国立病院機構茨城東病院となる
2007年 - 地域医療支援病院の承認を受ける。
独立行政法人国立病院機構茨城東病院 - ウィキペディア
https://goo.gl/H1FAEs
独立行政法人国立病院機構茨城東病院
http://www.hosp.go.jp/~ibaraki/
関連書籍
晴嵐荘看護学校48年のあゆみ - amazon
http://goo.gl/EMd1jN
晴嵐荘看護学校48年のあゆみ - 国立国会図書館
http://goo.gl/dkvlLn
アプローチ
茨城県那珂郡東海村、国道245号線沿いの原子力機構前交差点手前。茨城東病院の公式サイト内のアクセスマップでも参照出来る、現在廃墟群解体作業につき訪問時は注意。
地図リンク
https://goo.gl/maps/A2VwHoVNRiG2
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0916│七ッ釜渓谷 梨沢不動滝 再訪
千葉県│七ッ釜渓谷 梨沢不動滝 再訪
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 七ッ釜渓谷(梨沢 七ッ釜渓谷/梨沢不動滝/大滝/天神山不動滝)
良い目覚めは心穏やかで爽やかな音楽と共に。
右の耳にはテスタメントの「First Strike Is Deadly」、左の耳にはインぺリテリの「The Future Is Black」、トドメにお尻の穴にはペンデュラムの「Self Vs Self」でお腹のビフィズス菌もすっかりハッピーに。うーん、マッシュアッパーモーニン(そんな英単語はない)っ。
おはようございます、「行ってみた」のお時間ですよ。
毎年の恒例行事として「行ってみた」では房総の梨沢へ赴きます、この場所はその年に加入したメンバーの新人研修の場としても活用させて頂いていて房総では稀な素晴らしい景観を残す自然溢れる地域。シーズン到来で折角の陽気…ですがワタクシの現状はオロローンな感じでして。
この様な事態により、予てより進めていた「岩塔ヶ原」とGW恒例の「霧降の滝/岩屋不動(※1)」の調査が停滞してしまいまして。本当に申し訳ない想いで御座いますです、病状は固定して保存治療+リハビリへ移行してるので今後は後発に任せて極力指導の方へ力を入れようと考えて
ねぇです、やります。
※1:史跡調査で両岸の内左岸の石像は発見(先に地元調査隊が発見しています)、現在は2年掛けて右岸を調査中です。
正直なところ左上腕と指2本は以前の様に動かんけどどうにかなるっしょ、たぶん。
さて、まずは今迄の梨沢に関するエントリーを。
今年で5年目、流石に余裕を持って歩けます。ただ気に成るのは2014年の豪雪と2015年の連続台風で途中大きく崩落した滝までのアプローチ数か所。有志による倒木の解体や七ツ釜の掘り起し作業のお蔭で少しづつではあるけれど以前の梨沢の姿を取り戻しつつある様です。
で、今回。
新人のメニュー構成は去年と大体同じで、
・基本的なワープワークの講習(※2)
・倍力システムの理解と実践(これは時間がなくて出来ませんでした)
・シャワークライムの基礎知識
・20メートル以上のラペリング
※2:安全確保に必要な最重要ロープの使用方法とセルフビレイの実演
大切なこの4点。重点的に新人に覚えて貰うのはこの位、次に付加要素として期待出来るのは2012年以降雨量が少ない時期にしか来訪してない所為か全くシャワークライムの実演を新人メンバーに見せる事が出来なかった点。しかし今年は違う、昨夜まで結構ガッツリと雨が降っておりましてねぇ。
梨沢不動滝の本当の姿とシャワークライムの楽しさも是非知って欲しい、どうせ半年もすれば100メートル近い滝に挑戦して貰うんだ、ふひ。
それと滝上部左岸で昨年発見した「捨て炭」に関しては行政(富津市教育委員会生涯学習課/環境保全課)さんの協力を得て資料を提供して頂き、その資料を元に現地調査した内容も一緒にご紹介したいと思う。
※ 今回は富津市のみならず地元商工会や相川地区・梨沢地区にお住まいの住民の方への聞き取り内容も反映した内容と成ります、以前「エコー牧場」でお世話に成ったSさんやKさんも有難う御座いました。おまた、お茶飲みに行きます(子供の相手はもう勘弁して下さい…元気すぎ)。
それではレポート開始としましょうか。
入渓して直ぐに解る、今年は水位が高い。
沢歩きのちょっとしたスパイスに成る話をしながら歩を進めて貰います、水位の高い低いの見極めを周囲の状況から判断する方法やガレの種類、砂利の大きさで沢の総長とどの位の位置にいるか、河童の頭の皿は濱田庄司(※3)が手掛けていると言う以外な事実などだ。
うーん、きゅうかんばー!
※3:日本を代表する人間国宝の陶芸家、他の陶芸家にも多大な影響を与えたが今回のレポートと一切関係はない。
滝までのアプローチ中間地点に到着、此処までユックリ歩いて20分位。うん、今年も綺麗ですわ。
暖冬だった所為もあるのか水位が高い事も相俟って普段より魚影が多い、この辺には小ぶりのアユやウグイが泳いでいて手掴み(追込み漁)で捕まえる事も出来る。
傾向として滝より下流はアユ、上流はウグイが多い。味は勿論アユの方が上だけど上流のウグイは丸々と太っていて食い応えもそこそこ、沢歩きの醍醐味の一つとして山菜や果実を採取してその場で食べる事が挙げられるのだけれど魚も処理と調理法を知っていれば更に楽しい。
小魚に限ればその処理方法は簡単で、
① エラ処理して肛門から切れ込みを顎下まで入れる
② 内臓を取り出して背骨付近の血合いを取り除く
③ 表皮を軽くナイフの刃を立てて滑り取り(本当は最初に塩で処理するけれど自然の中なので)
④ 川で洗っていざ調理
って流れでお昼ごはんもアリです。大自然のクックも慣れ次第では色々と捗る場面が出てきます、ペンロッドさえ要らない原始漁もたまには楽しいものです。
※ 魚では余り留意しませんが山菜や果実には非常に似通った姿で毒性の高い種類も多数存在します、不慣れな方は手を出さずに持参した食料と飲料を利用して下さい。
photograph:U川
今年の新人さん1号W見さん、去年新人だったU川君は指導する立場に成りました。
因みにこのポイントのちょっと手前でU川君が化石だ化石だ騒いで石を見せてきました、うん…そう見えなくも無いけれどキッパリ「違うよ」と言うとションボリ。教えるの忘れてたけどそれは「はみあと(食み跡)」って言うんだ、アユなどが石に付着した藻(珪藻類)を食べた後に出来る跡なんよ。
見ようによっちゃ化石に見えん事もないけんどなぁ、海外放浪中のメンバーK田君が帰国したら一緒に釣りやろう。
※ K田君は元テレビマンさんで釣りの番組を担当していました
あっち剥いて(向いて)4ねぇぇええの掛け声と共にデュエル(講習)開始。
流れも緩やか、水位も股下、そして適度なガレ。そんなレクチャーポイントにはウッテツケのこの場所で簡単なムーブを覚えて貰います、如何に体重を別の角度に拡散して楽にクリアするか(サイドプルやバイトポイントのアンダーなども結構重要です)、3点支持による安定性はどの様なものかなどを中心に予想されるトラブルも説明。
今後は指を痛めた場合や腕、脚など部分的なダメージを負った場合の身体に動かし方や道具での補助、セルフレスキュー(緊急簡易治療)などの知識も得て頂きましょう。冬山に参加して貰う様に成ったら更に厳しい訓練が待ってますよー、んだどもその前に夏場の野営ですかねぇ。
photograph:U川
何度か繰り返してパーミングや身体全体を預ける事の意味やズリ上がりの動きも簡易説明、こうして少しづつ自然との対話を覚えて貰います。
photograph:U川
動画はモバイルやウェアブルなどの機材を組み合わせて色々と試行錯誤中です、動画の手振れ酔いにはお気をつけてご覧下さい。
ここも埋没の恐れがある場所、2012年までは水流も水位も高くて遊べるガレポイントでしたが近年ではスッカリと流木倒木&土砂でダム化してしまいました。
この梨沢を元の姿に戻そうとしている有志(NPO)が数団体あるそうですがどの団体が実質作業を行っているのかは行政も把握していません、ご存知の方は是非お知らせ下さい。
※:近年の作業は「行ってみた」が把握している団体とは別の様です。
梨沢の絶景ポイントがココ、ゴルジュ帯~梨沢大滝(梨沢不動滝)が連なるこの場面が何とも素敵でして。やはり今回はこのゴルジュ帯も水位が高い…うん、こりゃつまり「滝」が見れるってこった。
うっひゃー、やttぐぇほげほ…うう(喜んで大きな声出そうとしたらゑづいた)
お久し振りです、思えば4年振りのジャバジャバな不動滝さん。これを見たかったしウチのメンバーに見せたかったんでげほぇ…げふぉ。
この大自然のマイナスイオンはアタシの肺には負担が大きい…やはり水と油は相容れないと言う事か…心の汚いおっさんは来るなと言う事なのか、ここに来て気管支炎トーマスとは…(これが言いたかった)。
photograph:U川
動画はモバイルやウェアブルなどの機材を組み合わせて色々と試行錯誤中です、動画の手振れ酔いにはお気をつけてご覧下さい。
動画でも確認出来ると思うけれど結構な水量で嬉しい限り、去年のチョロチョロ滝を体験しているU川君は興奮してカメラで黙々と撮影中でした。
ただこの位の流れなら身体を浮かせて殆ど濡れずに登る事も可能、時間も数秒だ。それが意識せずに出来る様になればムーズのルートも増えるし判断する時間も増える事に成る。結果、更に難しい場所での安心感や手足の負担の軽減に繋がるのです。
photograph:U川
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロールでグリグリして下さい。モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます、通常モードでグリグリ、360°ビュー(一眼/二眼)でなら更にうひゃひゃな感じです。VRガジェットで立体視も面白いですよ、ハコスコさんとか安いので是非お試しを。
※ 疑似HDRと着色補正をしています
それでは肝心のロープワークレクチャー開始です、これ覚えんと死ぬんやで。
「行ってみた」では極力ガチャガチャ(登攀器具)を使用しない軽量化したスタイルで山に入ります、と言ってもメインロープの他にもラダーやワークベンチなどの装備が増えると結構な重さに成ります。そこでクライムギアを除外してロープワークで出来る限りラぺリングと自力登攀(垂直単独登攀と自力脱出用の空中登攀)、様々なセルフビレイ方法とセーフティに関する知識を覚えて貰っています。
※ 自力登攀にはボディハーネス(簡易的にナイロンスリング+ヌンチャクで構築する事も)でボディ+チェストでマッシャー確保、フットテープ側でもう1ヶ所マッシャー確保で登り返しを覚えて頂いています。エイト環やATCを利用した+ガルダーヒッチの登攀技術は今後取り入れていく方針ですが最終的にはクライムギアに収束させる予定です。
どうしても一度に覚えるのは難しく、何度かの現地実施と反芻練習、そして低い場所(20メートル以下)での実技研修をしてから危険な場所へお誘いします。ガチャガチャは故障や落下、そして何より重量増加が懸念材料でして、なので最初の内はロープワークのみで出来る範囲を全てマスターして頂く方針を取っています。
古い考えですがこれらの知識が有ってこそのクライムギアかなぁと、マッシャー用の細ロープとフットテープ、ヌンチャクが2本有ればまずは脱出が可能な場面が実に多いのです。降りたら登る、登ったら降りる…この2つがどれだけ技術的に熟成しているのか、安全面は疎かに出来ません。
※ 「行ってみた」ではプルージック否定派です
一通り低地講習が終了したら次は実技です、アプローチの斜面10メートル+際場5メートル+ハング壁15メートルの複合壁面をセルフビレイとセーフティを駆使して降下作業に落とし込んでいきます。慣れると50メートル以下の壁は低く感じますが新人さんにはたった20メートルそこそこの壁面がとても高く感じる筈です、今後は日常で体験出来ない解放感を味わって泥沼にハマって頂くとしましょうか。
※ 左側下方に見えるのが梨沢不動滝、真下は滝壺です。
しかしたった1日でここまでの行程を実施したのは実はウチのメンバーでは初めての事、いつもは別途講習を2回位経て現地実技へ…と言う流れですがワタクシが麻痺の病気でポンコツ化したのでレクチャー時間が限られてしまいまして。
動画はモバイルやウェアブルなどの機材を組み合わせて色々と試行錯誤中です、動画の手振れ酔いにはお気をつけてご覧下さい。
全員で降下して再度滝を登ります、これを数回繰り返してラぺリングとその時に必要な安全確保作業、そしてシャワークライムでのムーブ(水飛沫で壁面が見えない場合の身体の動かし方とバイト+ステップの確保)をシッカリと覚えて貰いました。
何れ相棒(サブリーダー)さんにボルダリングで辛い扱きに合う事でしょう。
例年通りの美しさ、そして多様な地形のお蔭で十二分に楽しめた房総半島の梨沢。個人的には流石にもう良いかなぁって気がしてきています、今後は後発のメンバーさんが独自に他のメンバーと交流+講習する場として、そして野営の練習場として来訪して貰えればと考えています。
それでは昨年からの疑問点だった「捨て炭」に関して、ジックリとはいきませんが歴史を紐解いてみましょうか。
・山中で発見した捨て炭は本当に「炭」なのか
2015年にたまたま発見した梨沢不動滝の上流左岸の黒い物体、現地で触ったりする限りどう見ても「炭」である事に間違いはない。ならば何故こんな山奥に「炭」が残されているのか、
・登山者が焚火をした跡
・野営者が此処で幕営した時の名残
・山火事の跡
などが先ずは頭を過る。が、この短い沢として初心者にも愛されている梨沢で焚火を必要とする登山者や野営者が居るかは疑問が残る。山火事に関しても限定的な場所に散見する炭の他には見当たらない、って事は房総では各所小規模で行われていた製炭産業の名残であると結論付けるのが最も正解に近いのではないか。
写真説明:昨年発見した梨沢不動滝上部左岸の捨て炭
そうは思ってみてもやはり色々と疑問は残る、まずは製炭の窯場として何故こんな不便な場所を選出したのかと言う事。ここで製炭したと言う事は「炭」を市場に出す為に町まで運ばなければ成らない、似た様な樹木が原生する梨沢においてこの滝上部を選ぶ理由が思い当たらないのだ。
って事で行政さんにお伺いを立てる事にしました、スッカリと富津市さんには馴染みに成ってきておりますが今回協力頂いたのは富津市教育委員会生涯学習課さんと環境保全課さんです。特に生涯学習課のHさんには資料の提供などもして頂いて本当に感謝しております、それではその資料なども織り交ぜてこの梨沢地区の山岳産業などの歴史をご紹介しましょう。
・旧梨沢村地区における製炭産業
江戸時代、全国的に林業は盛んで建築用材や薪炭(製炭)産業は房総半島の低い山々でも勿論行われていた。森林伐採を規制する「御留山(※4)」の指定はこの地区には無かった事で山岳産業自体は比較的自由に行われていた様だ、この辺に関しては行政が保管している「富津市史」に詳しく記載されているが今回は割愛する。
※4:江戸時代、各地の森林管理が幕藩領主に任されており「保護林」や「占有林」の広用汎称として「御林(他にも幾つか呼称名がある)」と言う代名詞が使用されていた。御林は幕府の直轄林で諸国御林帳に登録された保護林の事を指すが藩の資源保護制度として伐採を規制した地域を「御留山」と呼び、産業林としての伐採を禁止・規制した。
旧梨沢村(現在の梨沢地区)では農業と共に特に製炭業が盛んであったと記録に残されています、この記録は梨沢地区の鳥海家文書(※5)や金谷地区の鈴木家文書(※6)にもそれぞれ記載されており、特産物としても有名だったともあります。
※5:鳥海家文書は梨沢地区に居館があった鳥海家が残した古文書、文化年間に改姓するまでは吉原性でこの地の豪族。元は戦国時代に「峰上城の尾崎曲輪二十二人衆」として名を連ねた吉原玄蕃助に連なる家系で「千葉県史料」の中世編諸家文書にもその記載を見る事が出来る。
因みにその居は梨沢公民館の向かいの台地で現在でも土塁が残されている、また公民館の敷地内にも関連する石碑が建てられている。
因みにこの古文書は袂を分かれた相続者(東京都大田区)から1986年に里見氏関係文書(館山市有形文化財)として館山市立博物館に寄贈され、現在も収蔵されています。
※6:鈴木家文書は金谷地区に今でも第16代目(現当主)として残る鈴木家に残されている古文書、元々は石材業者(金谷石や房州石として知られる国内でも有名な石を取り扱う)として既に広く知られる家柄だった鈴木家には周辺地域の歴史を記した古い記録が残されていてこれを鈴木家文書と呼ぶ。
鈴木家の居は現在、国の登録文化財と成っていてその歴史の長さも伺える。
請取証文等も残されていてその確証性は非常に高い、つまりこの梨沢地区では特産となる程の製炭が産業として成り立ち、その記録も史実としてシッカリと残っていると言う訳だ。この梨沢を含む天神地区には「かじ」や「かじや」と言った屋号が今でも残っていて(勿論運営はされていない)鍛冶業も行われていた事が判明、成程…鍛冶炭の原料としても使われていたのか。
炭薪生産と共に鍛冶業も行われていた事の証明として梨沢地区より東の峯上地区では1706年(宝永3年)に鍛冶炭の原料について訴訟が在ったと古い記録も出てきています(行政資料から)。
当時のこの地域における製炭を記した別の資料には「富津南部の木炭は品質も良い」との記載が残されていて遠方にも運ばれたそう、ただの製炭に留まらず鍛冶炭の原料としても使用される位に人気があった梨沢の特産炭。
するとあの窯場からどの様に運んで各方面に物流して行ったのだろうか。
・梨沢の窯場は無数に存在した
先程説明した通り、梨沢の豪族であった鳥海家。なんとその鳥海家の周囲(特に梨沢公民館の敷地内)には現在でも解る窯場跡が残されていると言う、これは富津市の教育委員会から齎された情報で現地で確認は出来なかったが記録としてそう記載されている様だ。
その後の現地の方への聞き取りでは確かに「昔は窯場跡らしき物があった」との証言を得る事が出来たが…うん、ちょっと現実味が有り過ぎて夢が無いけどその後は、
・何の穴か解らず埋めた
・ゴミを燃やす為に今も使っている
・整地してプレハブを建てた
など…、まあそうなりますよね。ええ。因みに金谷との関係性も教えて頂きまして、殆どの窯は現地の石で造られた様だけど一部の窯は金谷石が使われていたらしいとの発言も。ただ確証は得られないしその窯がどれでその石を調べる事も出来なかったので一証言として記載しておくに留めておこう。
写真説明:崩落してしまった山中の製炭用窯場
場所を戻して梨沢不動滝上部の左岸、元々は滝壺左岸の絶壁を降下したくてそのルートを探している最中に見つけたのがキッカケ。
そしてその行動はもう一つの発見を僕らに与えてくれた。
そう、それは山中に廻った獣道だ。左岸平地からピークへ上り詰める道や崖上を舐める様に続く薄い踏み跡、恐らくは何十年も人が通った事がないと思われる残路を複数発見出来た。そうか、これなら解る。GPSで確認するとこの道の先には鋸山の作業道を経て金谷港に向かっている、そして対岸には相川地区へ向かう山中の道も薄っすらと見て取れる。
つまり。
産業として山中から少しづつ居住区に窯の位置は移動して行った、しかし物流路とし滝の上から運んだ方が早い山中の窯場にもそれなりの需要があった…そして開発が活発化した居住区の窯場は姿を消し、人が往来しないこの場所(他にも山中には数か所あります)に窯場が残ったと。
そしてその予想を証明するかの様に房総の製炭に関する資料の一節を発見した、そこには意訳するとこう書かれている。
「梨沢地区の製炭産業は一般利用と公利用とに分別されており、その製炭場所も分かれていた」
この文面には更に幾つかの要素が付随するのだけど最盛期にはこの様に分製される様に窯が設けられ、衰退と共に居住区へ数を減らしながら移動して行った様だ。山中と居住区のどちらが公用かは判明しなかったけどより精密な管理はやはり居住区の方だったと予想される、こればかり思いを馳せるしか他にないけれど。
写真説明:明らかに金谷石ではなく、周囲の岩から切り出した物だった。
写真説明:窯場の土台として石垣が積まれている
美しい風景に誘われて初めて来訪したのが2012年、それからは新人研修の場として毎年遡行する様に成って去年(2015年)には捨て炭を見付けて。小さな疑問だけれど行政さんは一緒に成って市歴を漁ってくれました、お蔭で知る事の無かった沢山の地域民俗学における歴史を辿る事が出来ました、これ…ホントに嬉しい事です。
歩いて気持ちよく、知って楽しい。
そんな場所が全国にきっと沢山在る、とは思うけれど。大好きな房総半島の沢でこんな調査欲を掻き立てられる要素に出会う事が出来るなんて思ってもみなかった、いやぁ山歩きは本当に面白いです。
って事で今回は終了です、この周辺地区に関してはもう調べる事は無いかもだけれど新しい史実が解ったら追加エントリーとしてご紹介したいと思います。
今回のレポート製作でご協力頂きました、本当に有難う御座いました。
・富津市教育委員会生涯学習課(担当Hさん)
・富津市環境保全課
・梨沢地区の住民の方々
※ 諸事情を考慮して実名は伏せて記載しました
アプローチ
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
地図リンク
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0917│トビ岩
千葉県│トビ岩山 山頂トビ岩
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - トビ岩
FUTTSU(富津)のレジェンド伝説として語られる以前より気に成っていた場所がある、と言っても対象と成るポイント周辺に連なる山々は既に10年以上前に踏破しており、更には近年「エコー牧場」の調査や沢歩きの新人教育の場として欠かせない「七ツ釜渓谷」の梨沢大滝来訪などでお世話に成っている地域だ。
そう、「行ってみた」ではお馴染みのFUTTSU市は梨沢地区である。その梨沢地区からちょいと歩いた山中に爆発エクスプロージョンな絶景が存在すると言うではないか、新緑のライムグリーンともなれば何ともKAWASAKIの血(?)が騒ぐ。
歴史的な興味も尽きない地ではあるけれどやはり山間部とくれば盛緑の絶景さん、梨沢の沢歩き道程においては房総イチの美しさと以前ご紹介したけれどこの地区には今回の来訪地と成る素晴らしい景観が望める場所が在る事は知ってはいました。
それが今回のエントリー、トビ岩さんです。
地元相川地区~梨沢地区の方は皆さんには勿論ご存知の景勝地ですが現在は諸事情あって気軽に行ける場所では無いんですよね。その理由の一つはこの地域における平均年齢、現在この地域には定住者として子供がおらず、その殆どが高齢の方達(※1)。
※1:妙蔵時住職の聞き取りから
トビ岩はアプローチを含めて難しいルートや登山技術は必要としないものの、やはり高齢には少々辛いコースと成る。地元の方の話では「昔は行ったけど今は、ねぇ…」と言う状態だ。
それに加え、直接的なアプローチルートだった相川からの開発道が「エコー牧場」閉鎖に伴って立入禁止に成った事にも起因する。そうは言っても勿論許可を得て入山する事は可能だ、相川地区・梨沢地区共々この地域の方々はとても優しい、「行ってみた」でも毎度お世話(休憩や準備、駐車場)に成る妙蔵寺の住職さんとその奥さんや開発道入口のご家族(昔の話を色々としてくれました)、特に妙蔵寺さんは土産を持って行くと逆にそれ以上のお返しを頂く事もあって今後も新人含めてお付き合いして行く事に成る素敵な地元民。
※ 開発道(エコー牧場入口)は現在立入禁止です、実質的な土地の所有権は都内の土地開発業者が保持しています。現地管理は相川地区の方が委任されて行っております、入山許可は相川地区の方に申し出た方が良いでしょう。入山には事前に許可を申請する必要があります、当日は恐らく無理かと思われますが連絡先は記載致しません。連絡先や連絡方法は各々で調べて頂くよう、宜しくお願い致します。
と、この様な理由によって現在のトビ岩は地元付き合いがあるか利権者に許可を取るなどのプロセスを介するか別途残されている登山道を利用して迂回来訪する事に成るワケです。
事前連絡とか面倒じゃオラァな体力自慢の皆様におかれましてはやはり登山道ルートもご紹介せねばなりますまい、って事で呼吸は寝起きのそれぞれ1回づつと言うマックスパワーなブラザー達は秘めたる力を開放しつつ以下参照。
一般的なアプローチルートは北側の旧別荘地からの東電の作業道(巡視路)経て枝尾根から主尾根を経由するルート、
南側の物見塚山から入山して稜線沿いに北上するルート、
https://goo.gl/maps/M6BRsEtiaBP2
西側から旧登山道の入口、上白狐登山口から北上するこれら3つのルートだ。どれもそれぞれが起伏に富んだライトな登山が楽しめる、ロープレスだし基本体にピーク沿いを歩くので踏破技術を特別必要としないのが嬉しい所。
ただ、ツマラナイのは覚悟。これらの一般ルートはウェブ上に沢山のレポートが散見出来るしヤマレコなんかはGPXファイル付でエントリーが公開されているのでモバイルや手持ちのGPS機器と組み合わせてみて欲しい。
そして今回自分も被害にあったのだけれど5月~9月は非常に毛虫が多い点は留意願いたい、中でもチャドクガの幼虫(黄色い毛虫)の毒毛…正に諸行無常。「チャドクガ 虫刺され」なんて感じでグーグル先生にお伺いを立てると
うっ。
※ 数日経っても広範囲で刺痕と強い痒みが残ります
まあ山やってればヒルだの毛虫だのには多少耐性(気に成らなくなる)が付くので大丈夫な方は盛緑期に是非挑戦して下さい、また自ら刺されに行くと言う希有なプレイスタイルも有りでしょう。敬虔な虫信者でなくとも新緑~盛緑の時期の山ってのは本当に美しいのです。
対応策としてはピンチ缶の中にエタノール、抗ヒスタミン剤、ハッカ油なんかを忍ばせておく位。服(タイツなど)上からでも関係なく刺されます、と言うか毛虫自体が居なくても葉に付着している毛や空中に舞っている毛でも同様の症状が。
チャドクガの症状と画像と刺された際の応急処置や市販薬について
http://rarara-ran.com/790.html
上記リンクは参考程度にどうぞ、山屋さんはまた別の対応策などを持っているので興味の在る方は色々と検索してみて下さい。
既に全体のテキストの30%を消費してしまいましたがトビ岩のレポート、開始です。
殆どの方は一般的な入山ルートに成るのでその分岐点からスタート、現在地はこの辺です。
https://goo.gl/maps/MnQxZ6fsP5H2
古くは製炭の作業道として何本も枝が伸びる旧山道の一つ、その殆ど自然に還ってしまったけれどピークに出る道はハッキリと辿る事が可能だ。
並行する様に獣道と薄いガリーがあるので間違えない様に、と言っても何処でも直登出来るレベルなので問題は特に無いですよ。因みに直進すると風早山に、風早山から更に南北に旧登山道と西側に細く薄い枝が延びる。
※ 東側には牧場跡の管理道が在りますが通常の登山ルートから入山した場合は進入禁止です、そして意外と敷地内が広くてブッシュで迷う事もありますよ(以前GPS持ってるのに迷った経験あり)。
風早山からの分岐でピークに登る場所だ、下方には馬頭観音と壁龕石碑が残されている。この道を下ってトラバース気味に延びる登山道からトビ岩へ直登も可能、ただ登った感じだと多少ボルダーなムーブを必要とされるので岩経験が無い方は避けた方が良いだろう、この辺りで怪我したら単独の場合一大事になり兼ねないです。
無難に行くならピークを選択、楽ちんですよ。
今回はこの岩根に延びる下方の道を歩いてみよう。
地盤が岩の為に傾斜にしろ地面にしろ樹木の根が広がる様に伸びている、この様に植物と地形を観察する事でこの場所の地質やある程度の地形的な歴史を想像する事が可能だ。整合性は机上調査に、現地では現場の状況から判断を迫られる場面が多々発生する事も肝に銘じておこう。
※ どのルートを選択しても特殊なムーブやロープは必要ありません。
こちらが件の馬頭観音と壁龕石碑。有名なので詳細は割愛、馬頭観音に関しては以下参照。
馬頭観音 - ウィキペディア
因みにこの付近では他にも「磨崖仏」などをはじめ殆どウェブ上に挙がる事のないマイナーな石仏(※2)などが残されています、それぞれ設置時代が違っていてその文化的重要度も多岐に渡るのですがそれはまた別の機会に。
※2:物見塚山からのアプローチで幾つかの枝が薄っすらと発見出来る筈です、その中には行政が把握していない石仏が残されておりこの地域の歴史においても大変古いと思われる磨崖仏などもあります。現在写真を専門機関(と言っても知り合いの大学研究室だけれど)に提出、周辺地域の地域民俗学の書籍などとも照らし合わせて調査中です。判明次第追加エントリーで記載したいと思います。
製炭の歴史検証を行った時に行政から頂いた資料、そして独自に調査した内容を加味するとこの相川・梨沢地区は非常に面白い歴史を内包した地域と言えます。
愛宕神社と清遵法師入定塚、相川を挟んで対丘には巨岩群や城址(※3)、梨沢大滝不動など山岳信仰と土着の神の信仰が折り重なった宗教的な重要地域だった歴史も見て取れます。この辺に関しては上記の馬頭観音などを交えて何れご紹介しようと思っています。
※3:巨岩群(石田村)に関しては別途調査の上単独エントリーを予定、この巨岩と関連する山中の常代城跡も同様にその時に記載したいと思う。常代城の「トコシロ」は房総半島において古い城に命名される事が多かったと富津の郷土資料にも記載があり、(梨沢字常代越・相川字古屋敷)に在るとされるが現地にその面影は一切ない。その城址と巨岩群の関連性を示す資料も発見されていて非常に興味深い地域でもある、また特殊な地形な為に学術的にも今後調査が待たれる地域で在る事も記載しておこう。
カッとなって直登した場所、後悔どころか意外と両足片手でも登れるもんだと人間の凄さを実感。
今後ウチのボルダー担当にはバイノーラルマイク+360°アクションカム装着で色々やらそうと画策中、今回はそのテストも兼ねて音声の入り具合なんてのもチェックしてました。
おっさんボディを気遣いつつ登りきるとそこには…うん、成程。
( ˘•ω•˘ ) こりゃすげぇなぁ。
さんざんと周辺を歩いて来たけどトビ岩に来たのはHAJIMETEでして、こんなにも絶景さんならもっと早くに来るんだったですよ。
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロールでグリグリして下さい。モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます、通常モードでグリグリ、360°ビュー(一眼/二眼)でなら更にうひゃひゃな感じです。VRガジェットで立体視も面白いですよ、ハコスコさんとか安いので是非お試しを。
いいじゃんココ。
アタシ、ココが気に入りました。房総の某岩場も中々の素敵ロックだったけれども此処も中々どうしてウットリロックじゃねぇですかぁ。
眼前に広がるブロッコリーも彩鮮やかって言うね、やはり虫と藪漕ぎさえ我慢出来ればこの時期の山は最高ですわ。
周囲はこんな感じ、兎に角ブロッコリー。見た感じこの場所が一番高く感じるけれど良く見れば北東側の風早山が標高192メートル、トビ岩は152メートルなのでやや低い。南側には228メートルの物見塚山が、それでもその眺望は素晴らしい。
[ THETA動画 ] ※ 不具合の為、一旦削除中です(後程再アップします)。
360°動画です、モバイルならジャイロが捗ります。PCならマウスでグリグリして雰囲気を少しでも感じて頂ければ。動画はモバイルやウェアブルなどの機材を組み合わせて色々と試行錯誤中です、動画の手振れ酔いにはお気をつけてご覧下さい。
折角来たので色々と周辺の地形調査とラぺ可能ポイントを探してみます、今回の同行人のU田川君を少々離れた場所に移動させて簡易セーフティ後にフィクス出出来そうな場所を確認。
向こう側は足場が悪いので結局トビ岩の裏斜面からロープを取る事にしました、今回は20メートルの簡易ロープ(アプローチロープ)なので無茶はせずに撮影アングルを確保するだけとします。因みに左側の窪地は此処から60メートル程の高低差、このトビ岩自体は下方地面まで15メートル位で意外と大した高さはありません。
※ 安全対策を行った上での壁面行動を行っています、ハーネスの装着と最低限のロープワークの知識が無い場合は類似する行為はオススメ出来ませんので御注意下さい。
チェストハーネスを持参してないので即席でナイロンスリングで代用、左腕が麻痺しているので上部でガルダーヒッチを利用した簡易倍力システムを応用したロープワークで降下。
まあ親ロープにマッシャーで確保してるので落ちる事は無いですが。
左手に関しては殆ど握力の無い状態ですがちょっとだけトラバース、こりゃ気持ちがいいや。
すっかりとお気に入りと成ったこのトビ岩、折角なのでこれだけでは勿体ないと思いまして別途来訪日を設ける事に。その時には色々と用意して皆さんに楽しんで頂こうかなぁって企画も用意している最中です、恐らく秋頃ですが追加エントリーなどでご報告させて頂こうと思います。
暫く千葉から離れたエントリーもボチボチと、廃村なんかもストックしているので調査が終わり次第エントリーしようと思っています。
本日は以上です。
アプローチ
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。(と、言いながらも本文参照)
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REPORT - 0918│天津滑山 大山祇神社 確認再訪
千葉県│天津滑山 大山祇神社
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 神道教派 御嶽滑山大山祇教会
初詣はここでと決めて幾ばくかの年月が過ぎました、2014年を最後に遂に行く事が無かった2015年。そんな罰当たりな身の上で今更どの面提げてって言うね、そんな後悔の念をグッと堪えて行って参りましたよ大山祇神社。
最初まだ廃神社の体でしたが今やスッカリと崩落が進み崩れかけの廃墟感たっぷり、それでも合祀された大山祇大神と御嶽大神はまだいらっしゃると想いつつお邪魔します。いや、この様子ではやはり神様の威光は既に残照の域なのかもしれません。
過去のエントリーは以下の連載ページより、鴨川市教育委員会さんにも協力頂いて解き明かしたこの廃神社の過去を是非ご覧下さい。
2014年の時点では記録的な豪雪にも耐え抜いておりましたが昨年(2015年)にはこれまた連続体風などの自然災害が頻発、房総半島も被害を受けた地域の一つです。
それでは改めてご紹介しましょう、本年度の大山祇神社さんです。
!!!
まだ建ってるやんけ!
そう、まだその威光は少しながらこの神社を照らしておりました。いや、本当に良かったです。って、言うかアレ?意外と2年前と大して変わらないお姿でいらっしゃいます?
※ 狛犬さんはお二方とも息災でおられました
この写真が2014年10月の状態、うん…何か意外と持ち堪えている感じ、なの…かな?
と、思って良く見てみると。
左側の崩落は裏手を覗き込むと更に進んでいました、最後の柱が辛うじて折れずに残っているけれど本当の本当に時間の問題って感じ。右側は樹木で隠れて解り辛いけれどやはり潰れちゃってますねぇ…しかし凄いのは大山祇大神と御嶽大神の祭壇それぞれがシッカリ残っている点、やはり神様っているのかなぁ。
因みに狛犬さんは仁王門の仁王様と同様で口を開けた「阿(右側)」、口を閉じた「吽(左側)」の並びがスタンダードだ、勿論組み合わせのパターンは色々とあるのだけどその詳細は割愛しよう(凄く説明が長く成るのです)。この大山祇神社の狛犬さんもスタンダードに「阿(右側)」、「吽(左側)」の並びです。
真正面から、うん…やはり屋根や壁など細かく見て行くと崩落が進んでいるのが良く解る。そして残念なのは中央奥の祭壇、もう長い事お供え物(御嶽教祭壇)が移動された形跡が無い。
これ、本当に崩落する前に色々と保存すべき神具などを移動した方が良いのではなかろうか。この場所でなくても記念碑の方にでも小さな祠を作って祀るってのは駄目なのかなぁなんて思う、どうにか残して欲しい文化遺産だと思うのです。
流石に中に入る勇気はありませんです、左脇からブッシュの隙間から。こうして内部を見ると持ち去られたのかどうかは解らないけれど無く成った物が非常に多い、特に大山積神の祭壇からは殆どの物が無く成っていた。
元々は土着の神として祀られていた大山積神(滑山大明神からの由来)、地元の方が優先的に此方の祭壇を保護した可能性も捨てきれない。
いずれ地元の方に再度聞き取り調査をしたいと考えています、鴨川市内宗教法人名簿にはいまだにその名を残しているこの神社。
今後どの様な経過を辿るのか、興味深く追跡調査していきたいと思います。
鴨川市内宗教法人名簿
https://www.pref.chiba.lg.jp/gakuji/shuukyou/houjin/kamogawa.html
来訪時の留意点
この天津滑山大山祇神社は現在非常に危うい建築状態と言えます、力学的な崩落の方向や崩落の仕方が判断出来る人物だとしても半径3メートル以内に近づくのは咄嗟の判断では難しいと進言します。また内部に入ろうなどとは絶対に思わないで下さい、その位危険な状態です。
近々この神社が崩落した場合の行政の対応なども管轄する課に伺いを立てる予定です、調査継続物件ですので出来れば現地を訪れるよりレポートをお待ち頂ければ幸いです。
因みにこの板の意味が解る方いらっしゃいますか?
この板、当初は奉納額の裏側かなぁと漠然と思っていたのですがどうやら全くと違う様でして。突然思い出したのでこれから調べようとは思っているのですがもしご存知の方が居ましたら是非ご連絡頂きたく思います、宜しくお願い致します。
※ 左サイドメニュー「連絡はコチラから」よりお願い致します
本日は以上です。
アプローチ
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
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REPORT - 0919│白雲瀧 再訪
栃木県│白雲瀧
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 白雲瀧(白雲の滝/華厳渓谷/鵲橋/五郎平茶屋滝壺道/華厳瀧壺道)
※ 2014年に中宮祠下水処理センターの排水口付近の崩落とアプローチルート壁面の崩落が発生した為に来訪は非常に危険です。またこの崩落箇所の上部壁面が新たな崩落を予測される横亀裂を起こしています、絶対に類似行動は控えて下さい。
写真引用:パワースポットJAPAN│http://風水.co
栃木県日光は中善寺、日本三大名瀑と評される落差100(計測値97m)メートルの華厳滝から程近く、しかし知られる事の少ない名瀑「白雲瀧」を以前ご紹介したが覚えているだろうか。
2011年の初来訪から早5年(その間4回再訪)を数え、諸々と準備をした上で向かえた2016年7月。今更ながらではありますが新しい発見の為にやって参りました華厳渓谷、そして眼前に広がる美しさに再び驚愕してしまうのでした。
※ 説明簡略化の為、上記レポート(初来訪のエントリー)を読んだ上でお楽しみ下さい。
改めまして今回の来訪地に関して説明したいのですが先人の素晴らしいレポートが存在します、予備知識としても是非お読み頂ければと思います。
山さ行がねが - 橋梁レポート 華厳渓谷と鵲橋
http://yamaiga.com/bridge/kasasagi/main.html
photograph:+10
時間:0710
標高:1265m
天温:晴/14℃
到着から早々に場面は移り朝7時、既に入渓の為に以前から利用しているアプローチルートへ。傾斜がキツく、山道具を装備しての斜降は非常に気を使う。
※ ルートに関しては記述のリンクを参照して下さい
時間:0720
標高:1204m
天温:晴/14℃
このやや先の斜面で大規模な崩落が2014年の大雪(平成26年豪雪)と2015年の連続台風により発生。この崩落の所為で白雲瀧へは随分と来訪者が減った筈だ。
※ 実際は河川管理の為に日光土木事務所と古河日光発電馬道発電所の各職員が往来する
渓谷を下方に望むと濃い霧が掛かっていたが気温上昇と共にこの霧は晴れる筈だ。
photograph:U川
安全な帰路確保(※1)の為細いアプローチロープを設置した。これはマディや怪我をした時などの体勢確保や補助動作でも活躍する、面倒でも安全確保は登山では基本中の基本だ。
※1:当チームでは問題の無い状況でも緊急退路は確保しています
場面はロープ設置風景、ここをトラバースするのだけれど写真ではただのブッシュに見える。しかしこの場所、実は急斜面で植物がないと眩暈がする様な危険な難所区間。浮き砂利と少ない岩場を利用して移動、樹木に複数フィクスしてルートを確保した。
photograph:U川
時間:0735
標高:1196m
天温:晴/13℃
1年振りの白雲瀧、霧が晴れてその姿が確認出来ると予想より水量が多いので少々面食らう。今日は調査項目が多いので渡河準備とルーファン作業を早速開始。
photograph:+10
まずはバックパックからロープを出して詳細な地形図を確認っと…そうそう、今回の来訪目的を説明してませんでした。以前より考えていた現地見聞と史実の机上調査から確認したい点などを踏まえ、
① 源流帯の撮影
白雲瀧の湧水現場を確認、複数存在するので出来る限り資料写真として収める。写真と動画は行政へ提供し、地元メディアにも報告。
② 渡河して対岸へ
白雲瀧を渡り、河(滝)内や周辺の地形などを調査。
③ 対岸の風景と旧開発道の発見
明治時代の初期観光開発道の発見と当時の遺構を発見し写真に収め、地図と航空写真で確認出来る急斜面の現状を現場調査。
④ 対岸から鵲橋を撮影
対岸の帯状丘(右岸2本目の丘)から鵲橋を撮影、初来訪時に橋上から”行けそうだ”と見えた場所へ実際に向かう。
⑤ 机上調査の現地実証(後述)
この白雲瀧へ至る遊歩道に関して事前提供されていた情報を元に現地検証、また資料との合致箇所探索。
この5項目の実行だ、これは初来訪当初から現場調査したいと考えていた内容で各関連機関に協力を仰ぎながら情報提供を収集していたのだ。
※ 栃木県立日光自然博物館の派遣調査員Oさん、栃木県庁県土整備部元職員のNさん、日光市観光協会さん有難う御座いました。
最初はこの白雲瀧の湧水地の確認である「① 源流帯の撮影」だ、華厳渓谷の河川の水源は地質学的には男体山の地下水脈(伏流水)、後天的要因として男体山の噴火によって大谷川が堰き止められた中禅寺湖が挙げられるが近年、男体山との位置関係や形成に至る迄の地殻変動等に関して諸説議論されている。
過去を説けば白雲瀧と華厳滝は別の水源だった可能性も指摘されており、周辺一帯は専門の地質学の世界でも現在進行形で多角的に考察中なので明言は避けよう。
現状は華厳滝(溶岩瀑布)は中禅寺湖と人工堰によって地中に漏れ出た地下水、白雲瀧(潜流瀑布に近く、分類的に溶岩瀑布では無いが噴火の為の堰も形成要因の一つと言える)は加えて直接的に男体山の水脈からもその水源を得ていると言える。
地図解説:男体山と華厳滝、白雲瀧の位置関係。
が、この地の形成は非常に複雑で詳細は割愛させてほしい。今回は来訪地の白雲瀧に主題を絞って説明していく、解説を一本化しても表層的な解説が複雑化するのは主水源と湧水量が比例しない事実に起因する。
日本地質学会によれば中禅寺湖からの下流への流水率は華厳滝が19%、白雲瀧(+周囲の伏流水)は37%。複数の水源を得ている白雲瀧の方が華厳の滝より中禅寺湖からの流水総量が多い、理由は地形。
大きく湾曲してみえる大谷川の流れが実は地下水脈では白雲瀧へ直線状に伸びており、華厳滝は高低差の所為で別滝と認識される十二滝の流水率が36%と多い事も特徴的。
地図解説:航空写真で見る華厳渓谷の源流帯
因みに残りの8%は地下水脈によって足尾山地へ浸み出している、自然の地形造成と人工的な観光地整備により白雲瀧は豊富な水量が約束されている状況なのだ。これらを総考すれば中禅寺湖からの総流水量の81%(華厳滝伏流水/十二滝:36%+白雲瀧:37%+足尾山地への地下水脈:8%の合計)が地下水脈を通して各湧水箇所へ漏れ出ている事が解る、この件…後程出てくるので覚えておいて頂ければ。
photograph:+10
写真は90メートル程の絶壁(柱状節理)の直下斜面から湧き出る白雲瀧の水源と思われる湧水地(伏流水源)、各所から水が湧き出ている様子。
【用語説明】
伏流水
河川の流水が河床の地質や土質に応じて河床の下へ浸透し、上下を不透水層に挟まれた透水層が河川と交わる時に透水層内に生じる流水。水脈を保っており、極めて浅い地下水。
溶岩瀑布
火山の爆発で流れ出た溶岩が川を堰止め、その末端、又は複数個所で断層が生じて滝になる。華厳の滝の場合は直瀑形の溶岩瀑布と成る。
潜流瀑布
川の水が流れ落ちるのではなく、地層の中を走る伏流水が崖の途中から突然流れ出して形成される滝。白雲瀧の場合は段瀑形の潜流瀑×渓流瀑などの複数の形状特徴を持っている。
次なるフェーズは「② 渡河して対岸へ」、初来訪からずっと考えていた対岸トレックだ。まずはロープを横断行動に必要な分だけビレイヤーがリリース、足場を確認しながらルートを構築して樹木に複数個所フィクスする。
対岸までのルートが確保出来たら不測の事態用(※2)に別ルート(最悪ロープが無くても迂回出来そうな場所)を確認、個人がセーフティ出来る休憩場所を設定して後続に合図して渡河を開始。
※2:基本的に水場のトラバースや横断は親ロープを張り、そこへセーフティ用のナイロンスリングやマッシャーで滑落防止対策を講じる。
この滝床、実際に歩いてみると非常に危ない。状況から判断出来るのは北側に聳える華厳溶岩壁(柱状節理)から剥離崩落した板状の岩が積み重なった状態で不安定だと言う事、その上に苔が群生していて滑り易く崩れ易い。
更に枯枝が集まった小さな堰の上に苔が乗っているだけ箇所もあり、足場に見えても加重すると潰れてしまう。
photograph:U川
白雲瀧は既に説明した通り伏流水型の潜流瀑×渓流瀑で複雑かつ段瀑と言う傾斜渓流瀑布、写真はこの先が最初の第一段瀑で高低差15メートルの落込みと言う場所。
足を滑らすと水中滑落の前に浮きガレの板状の岩が雪崩を起こして非常に危険、この特殊な地形と言うか滝床形成の為に内島の樹木は上手く根を張る事が出来ない。触れる支点も心許無く、堆積土砂も薄い為に神経が擦り減る踏破区間だ。
photograph:U川
時間:0820
標高:1229m
天温:晴/16℃
何度でも言いたい、この場所本当に美しい。
最後尾だったU川君も無事到着、入滝してみればこの白雲瀧、特に核心部分は存在しないし踏破レベルも全体的に低い。ただ環境が特殊過ぎるんだな、滝床や周囲の壁面等を考慮するとどうしても他人に勧められる踏破行程では無いのは確か。
※ 携帯の電波状況は良好でGPSもバッチリです、ですが遭難時の要救助者収容が非常に厄介な場所なので何卒無理をせずに…出来ればモニター越しにお楽しみ頂ければと思います。
photograph:+10
こりゃホントに凄ぇや。
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロール、モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます。
休憩もそこそこに行動再開、先程開いたルートで親ロープにセーフティをセットして渡河します。ここから川幅(滝幅)が広がり、流れの水圧も増加。
今回の行動リストも「③ 対岸の風景と旧開発道の発見」へ、渡河後は赤線で囲った場所へ向かいます。
※ マウスオーバーで目標ポイント表示
大きな赤円線の場所は高さ50メートル程の柱状節理からボロボロと剥離崩落した板状の岩が堆積しているので注意が必要、幾つかの資料を見るとこの場所にその昔開発作業道が在った様ですが…うーむ、流石に埋没しただろう事はココからでも解りますねぇ。
小さい赤円線の場所は最初の訪問時に鵲橋の橋上から見えた伏流水(潜流瀑布の湧水箇所)、流石に近年ではこの周辺を歩いた人物はおりますまい。歩くだけでもオッカナイ、こんな浮きガレ斜面は僕らでも滅多に歩きません。
丁度この辺に着く予定です。
時間:0910
標高:1198m
天温:晴/17℃
ここ怖いです、何が怖いって大小形状様々な岩と言う岩全てが浮いていて地面全体がグラグラ。私の右側のデカイ岩もグラグラ、足元もグラグラ、伏流水周辺もグラグラ…ああ、もう。
迫力の崩落岩堆積現場、先程の大きな赤円線の最上部に成ります。相棒さんの左側のデカイ岩なんて最近落ちたのかと思う程綺麗、日常的に崩落が続いています。
大谷川において華厳滝や白雲瀧周辺の地形成は北側の男体山の度重なる噴火に因る部分が殆ど、それは溶岩だったり飛来物だったりするけれど主要構成岩質は通称「華厳溶岩」と呼ばれる安山岩と集塊岩の互層だ。
元々の地層を形成していた第三紀溶結凝灰岩(地質学的には約2万年前に堆積形成)でその上に噴火堆積した華厳溶岩が積層している。噴火の力は絶大でその溶岩は南方の足尾山地に迄届いたとか、その後は崩落を繰り返して現在の華厳渓谷を形成した様だ。
【用語解説】
安山岩
火成岩の一種、殆どがプレートの沈み込み帯で噴火した非アルカリ質の岩石。日本の火山が流れ出る溶岩は殆どがこの安山岩が溶解した物、柱状節理を形成する過程で硬度は確保されてもクラックにより剥離し易い状況を内包する事も多い。華厳渓谷においてはその特徴が顕著に見てとれ、多数の崩落箇所を発生させている。
集塊岩
地を這う溶岩と対照的に火山噴出物が固まった岩石、総称して火山砕屑岩とも呼ばれる。石材として容易に切断加工出来るが自然においてはその脆さが落石として人を襲う事も。
この様にこの華厳渓谷では脆く崩落し易い岩盤が周壁を囲い、自然現象や気象災害によって更に削り取られて年々その姿を変えていく事で有名だ。華厳滝の滝口も凡そ20年前に大崩落が発生し、落水の姿を大きく変えた過去が記憶に新しい(※3)。
白雲瀧においても同様で写真の様に大小様々な剥離崩落が現在進行形で進行している、この事からもこの地への来訪は非常に危険なのだと理解して頂きたい。
※3:大谷川山腹崩壊対策事業(http://goo.gl/wi9QCU)
岩盤内部で別々の岩質互層境界部分で大きな亀裂を発生させている、先程の小さい赤円線最上部だ。この箇所は特に危険だと思われる、資料を確認するとこの上部から裏手に掛けて最初期の観光開発作業道が存在した筈なのだけれど…流石に100年以上前の形跡は発見出来なかった。
やや上流の華厳の滝付近では頻繁に維持対策工事(※4)が行われているので当時の地形とは大きく異なる、もし該当時代を偲ぶ痕跡が発見出来るなら人がまず入らないこの辺りだと期待したのだけどねぇ。
※4:大谷川流域直轄砂防事業(http://goo.gl/T6SklO)
さて、ココで思い出してほしい。中禅寺湖から一帯に浸水している総流水量は全体の81%、つまりは雨などに関係なく地中には常に十分過ぎる水が絶えず流れ込んでいる。
人工的にある程度管理されている華厳滝でさえ大規模な崩落を発生させるのだ、白雲瀧に至っては元々脆い岩盤+過剰とも言える湧水(浸水)量によって特殊な条件が揃った「形成維持が危うい滝」だと理解出来るだろう。
そんな中で約1世紀も前の遺構を見付けるのはやはり至難の業だった様だ。
photograph:U川
対岸最大規模の伏流水箇所、浸水量も半端なく湧水している。うん、恐らくだけどこの白雲瀧、何れは直瀑に成るんだ。
この間々崩落が進めば遠い将来だけど段瀑を形成している滝床は全て崩落して大谷川支流を侵食、華厳渓谷の大谷川へ直接流れ込む大きな滝へ変貌するのだろう。
そこで思いを馳せるは裏手の華厳滝、この華厳滝も大谷川においてもっと下流に存在した筈だ。侵食を繰り返し、後退しながら現在の渓谷を形作ったに違いない。一応地質学の研究者に質問済み、回答が来たらこのエントリー上で追加記載します
背後は絶賛崩落進行中の岸壁、足元は恐怖の浮きガレ。写真のお二方は落ちたら50メートルの崖からダイブです、私は崖上から崩落した樹木の枯れ根にフィクスして眼下へ顔を向けるとですね…。
時間:1025
標高:1196m
天温:曇/21℃
これもんですよ、ぱいせーん。
photograph:U川
此方は崖っぷちでブラブラしている枯枝上に堆積した僅かな土砂の上に歩を進めた方、眼下20メートルには第二段瀑が見て取れます。
※ 段瀑までは高低差20メートル位ですが直下に関しては50メートル程あります
photograph:U川
調査は後半戦、「④ 対岸から鵲橋を撮影」の行動開始…なんですけどね。いや、もうさっきからチラチラ見えてるんですよね…鵲橋。
流石にこのアングルで撮影された「鵲橋」は存在しないかと、もう1人居れば2人×2人の2チームに別けて無線連絡しながらお互いを撮影出来たのになぁ。
photograph:+10
鵲橋
1900年(明治33年)1890年より進めていた華厳の滝(滝壺)までの道を開拓していた星野五郎平翁が設置した吊橋(初代鵲橋)がルーツ。場所は現在より20メートル程上方で現在も基礎部分が見てとれる(確認済み)、その後昭和初期に架け替えが行われ木造の桁橋へ。この頃には管轄が行政へ移行しており、工事も行政主導で行われている。
日光市から提供された資料に記載には無いが現在の位置、そして形状に成ったのは1949年(昭和24年)だろうと推測出来る古い観光案内紙が残っている。華厳渓谷遊歩道自体も翌年の1950年に完成して一般開放されている事から恐らくは間違い無いだろう、元々は華厳滝への遊歩道整備から開始された観光開発だったが戦後は渓谷全体を対象とした様だ。
詳細は冒頭の「山行が」さんのレポートを参照して欲しい。
観光開発は上手くいったものの、これまで解説した通りこの渓谷の岩質は非常に脆くて崩落を繰り返す事で現在の形に成った経緯を持つ。一般公開当初から崩落事故や落石は絶えなかったと聞く、それからは一時的な閉鎖期間なども経て1972年には一般通行が禁止へ。
翌年には華厳渓谷の整備を行政と現・日光土木事務所、現・古河日光発電株式会社が分割及び平行管理する様になり、名勝と名高い華厳滝を主に据えた主場変更を余儀なくされた。
photograph:+10
それでは元の左岸に戻って下流を少々拝見しましょうか、初来訪時に気に入りましてその後何度も撮影した絶景ポイントがあるのですよ。
時間:1155
標高:1232m
天温:曇/22℃
先程対岸に居たガレ場から見えていた第二段瀑の丁度上方、そこから懸垂降下。
※ ここが白雲瀧において一番の絶景ポイントです
先程まで恐々と歩いていた対岸の崩落箇所、今思うとフィクスする樹木が沢山あるのだしラペで滝まで降下しても良かったなぁと。
来て良かった、大満足です。
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っと、そうそう。最後の「⑤ 机上調査の現地実証」が残ってましたね。それでは最後にこの白雲瀧や五郎平翁が作ったとされる道筋、その他付随する謎を解き明かしていきましょうか。
時間:1310
標高:1175m
天温:曇/22℃
photograph:+10
白雲瀧と鵲橋
そもそもこの白雲瀧は1890年から星野五郎平が華厳滝の滝壺までの遊歩道整備を開始したのが切っ掛けで2年後に発見される事になる、整備当初から滝の存在に気付いていたが星野五郎平は華厳滝だと勘違いしており、1892年に滝左岸に着いて初めて別の滝だと判明したのだ。
滝壺までは右岸壁面に沿って開拓され、1900年には10年の歳月を掛けた苦心の傑作道が完成。この滝壺への遊歩道の正式名称を、
五郎平茶屋滝壺道
と言う。五郎平自らが名付けた名称でその道すがら、白雲瀧を越える為に設置された橋は「鵲橋」と名付けられた。当初は吊橋で何度か架け直しをした記録も残っている、木造化したのは大正後期とも昭和初期とも言われているが写真として残っているのは昭和に入ってからだ。
ってアレ?この道って「華厳瀧壺道」じゃないの?ええ、そうです、華厳瀧壺道ですよ。二つあるんですよ、この道の名前。大正時代位までは「五郎平茶屋滝壺道」と並称され、その後「華厳瀧壺道」と公称された様です。なので古い文献には「五郎平茶屋滝壺道」と記載され、近代書籍や地域地図には「華厳瀧壺道」と記載されました。
当ブログでは当初の名称を正式名称として指定、なので「五郎平茶屋滝壺道」をこの道の真名として記載致しました。
写真引用:絵葉書.com│https://絵葉書.com
現在より20メートル程上方の第二段瀑辺りに架けられ、写真の木造橋も数度の補修工事や架け直しがされている。1949年には現在の位置に石造橋が架けられ、今も変わらない姿を見せてくれているのは幸運と言える。
因みにこの鵲橋の命名については翁自らとする記述や別の者だと言う記述、実は別の名前が付けられていたなど諸説語られている。
1929年までは滝壺への観瀑遊歩道として活躍したが翌年の1930年、観瀑台エレベーターが完成。明治、大正、昭和と時代を跨いだ観光主要道路は人の往来が少なく成っていく事になる。
写真引用:絵葉書.com│https://絵葉書.com
この写真を見て欲しい、マウスオーバーでその道筋がお解かり頂けるだろう…そう。この道筋こそが星野五郎平が開拓した「五郎平茶屋滝壺道」なのだ。
現在はその殆どが失われ、ハッキリと確認出来るのは鵲橋のみだ。華厳渓谷遊歩道はまた別の管理と成っていて開拓業者も時代も全く異なる…のだけど少なくとも1970年代までは平行運用された(鵲橋付近までは)筈だ、それは古い地図(※5)を見ると確認出来る。
※5:国会図書館などに所蔵されている国土地図
写真引用:絵葉書.com│https://絵葉書.com
当初私達が探したのは右下の大正時代から昭和初期に人が往来した開拓道(後に一部遊歩道と成る)だった、白雲瀧右岸から回り込む様に華厳滝へ壁面空中歩道が在ったと思うとその形跡をどうしても見つけたかったのだ。
が、結果は既にご存知の通りでして。
五郎平茶屋滝壺道の終着点には五郎平翁が設けた五郎平茶屋(確認出来ている営業期間は1902年~1932年)が当時の来訪者を持て成したと言う、この頃は華厳滝と言えば五郎平茶屋と答えが返ってくる程の有名店に成っていたが1930年の観瀑台エレベーター完成からは僅か2年で滝壺道と同様の歴史を辿る事に。
地図から星野五郎平の痕跡が消えたのは1972年、国内全ての発行地図から滝壺道や茶屋の名称は削除されたのだけどこの辺に関しては年度がやや曖昧です。
1890年の発起から実に82年もの歳月が経過、廃道に成ってからは今年(2016年)で44年も経ってしまっており、元の姿を取り戻すのは勿論絶望的だ。適うならば是非血縁者にお話をお聞きしたいとも思うけれど…まあそれは少々無粋なのかもしれない。
白雲瀧や華厳滝を要する華厳渓谷、そして観光開発に揺れた当地と現地の人々。沢山の歴史と今も残る少しばかりの痕跡、それらを求めてやって来た今回の白雲瀧の再訪エントリーは如何だったでしょうか、これにて今回のレポートは終了です。
アプローチ
中禅寺湖T字路から国道120号線下り方面(いろは下り)のみとなる分岐部分、手前のガソリンスタンドが目印。石碑は道路から比較的発見し易いので入口は間違わないと思います。
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0515│ラサ工業株式会社 田老鉱業所
岩手県│ラサ工業田老鉱山跡 明星大学田老キャンパス(明星大学田老宇宙線観測所)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 田老鉱山 選鉱所跡
※ 2016年にトルコ・スェーデン・日本の合同取材チームで国際プロジェクトが行われ、国内でのオーガナイズをスゴログで行いました。その際トルコ人カメラマンから希望されたこの鉱山跡の来訪によって再び見聞する事が出来ました、約5年の月日は無常で各所の崩落が目立っていました。
詳細は追加のエントリーよりご確認下さい、「追加調査更新バナー」をクリックすると最後尾に移動します。
東北三大鉱山跡に名を連ねる大規模な鉱山廃墟、「田老鉱山」跡。廃墟美としてもとても評価が高く、是非一度訪れたいと思っていた。ウェブ上で何度も見たこの鉱山跡を撮影する為、僕を含む当スタッフ3人と関西から参加して頂いた廃墟サイト「The Decadent World」の管理人HYPOさんの合計4人で一路東北へ向かったのでした。
The Decadent World
田老鉱山、廃墟好きの世界ではとても有名で沢山の方が撮影に訪れている大型物件。現在では明星大学の田老キャンパスとして使用されているのだけど実質的には明星大学さえその殆どの役目をこの場所から退けており、明星大学田老宇宙線観測所として現役稼動するのみと成っている。
山奥に在りながら平日休日を問わず宇宙線観測所の管理会社関係者が出入りしており、またこの廃墟から更に続く山道で山仕事をされている方達も居る為に以外と人通りは多い。春と秋には山菜を求めて遠方からも訪問客が居るらしく、年々管理会社の目が厳しく光る結果と成っている。
今回の訪問では運良く管理会社さんから撮影の許可を頂けたので気兼ねなく実に沢山のアングルから撮影出来た、これはとても幸運な事だった。それでは簡単にだけど田老鉱山について説明しよう。
一般的には1919年からラサ島燐鉱(現在のラサ工業)によって開鉱されたとされているけれども1857年、横浜の実業家「高島嘉右衛門」によって上部褐鉄鉱床が発見され、その歴史が始まりました。
コストマネジメントの観点から当時はこの鉱山に魅力が無いと判断され、高島嘉右衛門は鉱山の利権を売却、紆余曲折の細い歴史を編みながら1918年に当時の利権を持っていた井口儉治が資金難の為に放棄、釜石鉱山が引継事業者に成る。
そして田老鉱山の一時代を築く立役者、ラサ島燐鉱が田老鉱山を買収する事で廃墟好きの聖地の一つとまで言われるこの場所が本格的に運営を開始する事に成った様だ。詳しい歴史などは少しづつキャプションとして、またいつも通り最後尾に詳細説明を記載するので興味の在る方は是非読んで頂きたいと思う。
公式訪問が故に出入口に車を番長止め、その後「いくらなんでもそこは邪魔だから車を移動しなさい」と注意されての撮影と成った田老鉱山。その美しさに溜息が止まらず、管理会社のジイ様の昔話にもやっぱり溜息が止まらなかったこの物件のエントリーを開始するとしよう。
※ 無許可で進入する者が増えた為、現在は報道や関連取材などを除いて通常の撮影見学などはお断りしている状況です。敷地内には現役稼動施設も在り、関係者が絶えず居る状態ですので無理な違法な進入は控えて下さい。
311の震災で大規模な被害を被った宮古市から国道45号線を北上、地図リンクの場所から田老鉱山へ道は伸びているのだけど非常に路面が悪い。軽トラやジムニーなら楽しい道中でも人と機材を満載したミドルワゴンではどうにも厳しい、気を付けながら走っていると有名な沈殿池が見えて来た。
似た様な風景を思い出した、そう言えば足尾銅山にも非常に良く似た景観を持った沈殿湖が在るのだ。その辺については各々調べてもらえば解るが足尾銅山はちょっと酷い内容でして、今回は割愛しよう。
場所はココ。
田老鉱山への道へ折れてから500メートル位だろうか、足尾銅山同様に現役で稼動している施設の一部の池が確認出来る。鉱毒処理用の沈殿池で道路から下るゲートで閉じられた細い枝を更に1キロ程、今でも鉱毒処施設が過去の大きな代償を払い続けている。
4キロ程更に進むと今回の本丸、田老鉱山跡が見えて来た。選鉱所手前には鉱夫住宅跡が今でも6棟残されていてる。
以前にはこの住宅跡の他に役員社宅が在った様だけど随分と前に解体された様だ、しかしその社宅へ続く獣道は今でも残っていた。
場所はココ、本当に選鉱所の真裏と言っても良い。さて、長い悪路を走って来たのだけどやっと報われる瞬間を迎える。田老鉱山をやっとこさで拝めるのだ。
位置関係としては本当に住宅跡から近い、住宅跡の裏道からも行けるが現在では獣道。普通に撮影に訪れるなら道路沿いに回り込んだ方が良いだろう。
田老鉱山はこの様な位置関係で廃墟が残っている、と言っても道路側のシックナー(貯水槽)や宇宙線観測所などは現役稼動している。少しだけ解説してみようか。
ゲートで閉鎖された入口(今回は公式訪問なんで管理会社さんによってゲートが開けられています、通常は閉鎖されています)から車を滑り込ませると最初に目に入るのが明星大学の理工学部土木工学科が過去に使用していた実験トラス橋、カーブをその間々登ってT字路を右へ行くと正面に選鉱所跡が。
右手(道路側)には管理会社が使用している明星大学倉庫、現役稼動中の宇宙線観測施設と事務所が併設されている。一番奥には有名なシックナーが残っていて此方も現在稼動中だ、全部で3基在るシックナーだけど基本的には絶えず2つは稼動してる様だ。
これらのシックナーは宇宙線観測とは全く関係なく、鉱山運営時から続く鉱毒処理用貯水槽として運営され続けている。
先程のT字路を左に折れると作業倉庫と鉱山事務所跡が現在でも残っている。
さて、それでは待ち焦がれた田老鉱山の選鉱所内部へ向かうとしますか。今回は撮影機材の他にラペ道具も持って来たので余り見ないアングルなども撮影したいと考えてココまで来たのだ、そんじゃ行くぞー。
…
弟子(26♀)!ちょ来い!
「美しい所だな…」
「い、痛ーぃ…え?ちょ、なんで今叩かれたの…」
「凄いな、ここ…」
「いや、え?あぁ、はい…そうですね…あれ?」
選鉱所のコンソールルーム、選鉱用重機のコントロールやホイスト、各接続電子機器、その他排水などの操作がココから行われた。このコンソールルーム一帯の網板はとても腐食しており、随分と歩き回ったけど主柱が朽ちていたコンソールルームからの渡り廊下部分が一番緊張した。
1919年から開鉱操業を始めた田老鉱山、不況の為に幾度かの操業停止を余儀なくされていたにも関わらず一時代を築いていたと記録に在る。鉱床枯渇のため閉山するまでの間鉱山集落として一つの町機能まで擁したのだからその反映振りが伺える、類似物件は全国に幾つか残っているけども現役だと埼玉のニッチツ位だろうか。
ピーク時では常駐鉱夫1800人、臨時鉱夫数百人と2000人を超える人々がこの鉱山で働いていた。現在では随分と変わってしまったけれども当時をしのぶ写真を発見したので掲載しよう。
現在と随分風景が違う事が解ると思う。
余り知られていないエピソードを語ろう。田老鉱山は操業当時からこの姿だった訳ではない、実は再建されてからの選鉱所跡が現在残る廃墟なのですよ。
1944年4月24日、田老鉱山の選鉱所は火災によって一度消失している。と言っても稼動施設としては一部の機能を失ったに過ぎず、翌年には復旧していた。(その後の大規模山火事によって全焼の運命に在りますが)
が、時は2次大戦終盤。1945年4月28日、軍需省及び航空本部の命令により休山。戦後と成る翌年の1946年6月15日、実に2年振りに通常の商業状態へと戻ったと記録に在る。
photograph:+10
さて、折角色々な道具を持って来たのだからと気に成っていたこの場所へ登る事にした。と、言っても余りにすんなりと登れてしまい、道具も使用しない素手登りOKの場所でした。
どこかのサイトで「行く事の出来ない場所」なんて書いてあった記憶が在ったので期待したのだけど…。田老鉱山自慢のスカイオアシスへは普通によじ登るだけでした、ただブロック塀のブロックが崩れ易いのでお気をつけて。
相棒が上から飛び降りて踵を傷めたのは内緒にしておこう。
photograph:+10
ここに来る方がまず抑えるアングルと言ったらこの場所だろう、確かにこの場所は田老鉱山を代表する廃墟美の画角だろう。
しかし。
取り合えず高い所が好きな僕らは天井のトラスにでも登ってみるか…とアプローチを考え出した、まずは余り見かけないこの場所の正面のショットを。
側面トラスが4段に成っていたので一番上まで登れば天井トラスへの道が開けると判断、ハーネスと自作安全帯+カラビナでするすると登っていく。
写真は下から3段目のトラス横柱の上から。
一段降りて2段目のトラス横柱から、1段下がるだけで随分と視界が変わる。だけれど思ったより建物全体の高さが無くて残念だった。
見上げているのは弟子。
少々パースを効かす、あれ…でもこのアングルって見た事在るなぁ…以外と登る人多いのか…。まあそんなに高くないですし。
相棒も後から登って来た、僕の2倍の速さで。若さが、若さがっ、若さが!
先に降りて相棒を写す、丁度3段目のトラス横柱の中央辺りに居るのが解る。噴出しに拡大写真を、ピースをしている様だが良く解らん。
考えたルートはこうだ、難しくもないし何しろ低い。しかし、しかしなのです。
天井トラスが部分的に腐食が激しくて強度が不足している、しかも迂回ルート(右側のコンクリート主柱ルート)は手前が崩れている。
「どうする?」
「めんくせ、やめっぺ」
止めた。
「その代り何か」
「んじゃコイノボリでも」
選鉱所から更に奥に現役稼動しているシックナーが在る、温泉みたい。
「入れ」
「簡便して下さい」
最後に記念撮影をする事にした、「脱力、無気力、抑止力(?)」で視線は晴れ晴れしきかな明日の方角へ。
photograph:saorigraph
いやぁ綺麗でしたよ、田老鉱山。しかし我々撮影班はそれだけでは終わらないのです、ずっと以前に企画倒れに成った「深夜の廃墟」。その撮影をここ田老鉱山で行おうと出発前から考えていたのです、バッテラの充電不足で光量が全く足らない状況下での深夜の田老鉱山。
大失敗だったけど良い勉強に成りました、次回は「真夜中の田老鉱山」でお会いしましょう。それでは最後にこの田老鉱山についてまとめたので興味が在りましたらお読み下さいませ、今回のレポートは以上です。
田老鉱山跡 - ラサ工業株式会社 田老鉱業所
1857年、密貿易の罪で幕府に追われ盛岡へ逃亡した高島嘉右衛門が発見した。盛岡藩(南部藩)の助力も在り、田老鉱山の初期開鉱地から釜石の精錬所へ鉱石を供給。しかし幕末の混乱期に突入し、コストマネジメントの観点から当時はこの鉱山に魅力が無いと判断され、高島嘉右衛門は鉱山の利権を売却。紆余曲折の細い歴史を編みながら1918年に当時の利権を持っていた井口儉治が資金難の為に放棄、釜石鉱山が引継事業者に成る。
同年1918年に田老鉱山を買収したラサ島燐鉱株式会社が翌年の1919年に操業を開始、東北鉱山の三大巨頭の一角に上り詰める事に成る。しかしラサ自体この鉱山で本格的な操業を行うのはずっと後に成ってからで不況の煽りも在ってか試験的な操業も1923年に一度打ち切られてしまう。
幾つかの坑口を開拓して鉱山操業としての地盤を固めたのが1926年に成ってから、この段階で試験操業が再開されている。1933年、本鉱床着床。翌年にラサ島燐鉱株式会社からラサ工業株式会社と改称し、休山扱いにしていた田老鉱山を本格操業に導いたのは1936年。発見から79年、買収から18年も経過してからだった。
因みに田老鉱山の鉱山敷地約102万坪を当時の金額で17万円で買収、換算額としては高額だけど敷地利用面積と将来性を考えて安い買物だった…とは現在も続く鉱毒処理用貯水槽の管理も含めて一概には言えないだろう。
1944年(4月24日)、機械トラブルに因る選鉱所の火災によって鉱山機能の一部が消失。しかし深刻な問題では無かった様で翌年には操業再開。
しかし時は2次大戦終盤、1945年(4月28日)には軍需省及び航空本部の命令により休山。主戦間際の同年8月9日、米軍の無差別空爆攻撃によって微粉炭工場、送風機工場、ベルトコンベア、粉鉱舎などが壊滅。
終戦を経て同年初冬には修復工事が開始、翌年の1946年(6月15日)にはついに操業再開にまで漕ぎ着けた。
新たな鉱脈が発見されるなど暫く続いた平穏な操業だったが1961年(5月29日)、日本海を北上した台風4号の影響で太平洋側が異常乾燥のフェーン現象となり、三陸地方では各地に大規模な山火事「三陸フェーン大火」が発生した。この山火事は同時に複数の山間部で延焼が進み、田老鉱山も飲み込まれてしまう、殆どの施設と社宅400戸が全焼して操業停止。
東北の鉱山では比較的資金力の在った田老鉱山の管理会社「ラサ工業」は鎮火直後に再興計画を立案、同年12月には総工費11億円を掛けて再建への工事を開始した。翌年1962年には操業を再開、新たな鉱床を求めた調査も平行して行われた。
1960年代後半から暗雲が立ち込め始める、災害後再調査した鉱床の規模は予想を下回り、鉱石品位も低下。指摘されていた埋蔵鉱量減少が本格的に問題と成った1971年には休山を決定。
石油ショックと流通変革に伴い輸出入の均衡が破れ世界経済自由化の波が国内の鉱山需要に烙印を押す形と成った、と言うのも大規模な施設と人件費のかかる国内鉱山は徐々に下火に成っていたし国内の鉱山自体に国が経済資本としての重要度を見出せなくなった事もその理由の一つだった。
1972年休山、1974年には明星大学が敷地内の一部施設を転用する形で譲渡された。その後は施設周辺は明星大学田老キャンパスと成り、明星大学田老宇宙線観測所として現在も稼動中だ。
それでは現在に至るまでその後の歴史も踏まえた簡単な年表を確認して頂きましょうか。
1857年 高島嘉右衛門が田老鉱山を発見
1918年 井口儉治が資金難の為に放棄、釜石鉱山が引継事業者に
1918年 ラサ島燐鉱株式会社が田老鉱山を買収
1919年 試験操業開始
1923年 不況の為に試験操業を停止
1926年 試験操業を再開
1933年 本鉱床着床
1936年 本格操業開始
1944年 機械トラブルに因る選鉱所の火災によって鉱山機能の一部が消失
1945年 操業再開
1945年 軍需省及び航空本部の命令により休山
1945年 米軍の無差別空爆攻撃によって鉱山機能消失
1946年 操業再開
1961年 三陸フェーン大火の為全焼
1962年 操業再開
1971年 不況の為に休山を決定
1972年 休山
1974年 明星大学へ鉱山施設敷地を譲渡
1979年 宮古精錬所、電気精錬部門が操業停止
1980年 肥料工場の人員整理
1981年 宮古工場を合同資源株式会社へ譲渡
1983年 肥料部門をコープケミカル株式会社へ営業譲渡
1984年 明星大学田老宇宙線観測所完成
1990年 小山田用地を宮古市総合体育館用地として市へ譲渡
こうして133年間続いたラサ工業における田老鉱山の歴史は終止符を打たれた、今でもラサ工業は別事業で現存しており、田老鉱山の鉱毒処理に関しては明星大学が地元鉱山企業と協力して行っている。
さて、最後にラサ工業について面白いエピソードを書こう。まずはラサ工業のサイト、その中の「社名の由来について」を見て欲しい。
ラサ工業 - 社名の由来について
http://www.rasa.co.jp/MFra_k_index.htm
リン鉱石の採鉱は当の昔に終了したラサ島、そんな価値が無い様なただの無人島を国ではなくて一企業である「ラサ工業」が何故今に至っても保有しているのか。島の管理や固定資産税とて馬鹿に成らない筈だろうに…、しかしラサ工業にはこの島を手放せない絶対的な理由が在りました。
「在日米軍の爆撃射撃場」
これが理由、正式には「沖大東島射爆撃場」として現在でも在日米軍が射撃場としてこの島を使用している。かつては大日本帝国海軍の気象台があり、1945年に空襲で焼失するまで、日本の台風観測上重要な位置を占めていた。
南大東島や北大東島と異なり、現在でも一貫してラサ工業の私有地だ。沖縄返還時には誤って国有地とされてしまったが、翌年にはラサ工業の所有権が確認された。1980年には燐鉱床の探鉱が行われ、燐鉱石が約300万トン残存している事が確認された。
一時期、ラサ工業による再開発計画もあり、残存しているとされる燐鉱石を採掘しつつ、島内に石油備蓄基地を設ける計画もあったが、空対地爆撃射撃場が返還されない事、燐鉱埋蔵量が不透明などといった理由から消滅している。
しかし真実はどうやら違う様でこれは対外的な風評対策だとする声もチラホラと聞かれる、私有地だと認められたこの島に在日米軍の射撃場が在る。
と、言う事はこの島の使用料は国ではなくてラサ工業に支払われている事になる訳でして。その額大凡にして年間数十億(詳細が明記されたソースが発見出来ず)、成る程…これは手放せませんね。
関連リンク
田老鉱山 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e7%94%b0%e8%80%81%e9%89%b1%e5%b1%b1
ラサ工業 - 企業サイト
http://www.rasa.co.jp/
ラサ工業 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%83%a9%e3%82%b5%e5%b7%a5%e6%a5%ad
明星大学 - 法人サイト
http://www.meisei-u.ac.jp/
明星大学 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%98%8e%e6%98%9f%e5%a4%a7%e5%ad%a6 ]
現在の田老鉱山の管理状況
田老鉱山跡は関連施設を含め「明星大学」がその所有権を有しています、当然ながらの私有地、出版の様な利権の絡む取材の場合は明星大学の許可が当然必要に成ります。
周辺は山菜採取の場所としても有名で春先や秋頃には結構沢山の方が山菜を求めてやって来ます。この場合は付近の山毎に割り振られた山間部の管理者や管理会社が存在しています、田老鉱山の宇宙線観測所もこの管理会社の一つが管理していて最終的には明星大学の判断を仰ぐ事に成っています。
最初に言ってしまうと個人では許可が下りる事は無いそうです、実は近年に成って廃墟の撮影で問題に成っていると勘ぐったのですがどうやら盗難事件が多発している様で。施錠された倉庫から鉄関連を盗んだり松茸の群生地へ無断で侵入して採取したりと、管理人のお1人に色々と事情を聞く事が出来ました。
管理会社の方に無断進入が発見された場合は状況にも依りますが厳重注意だそうです、しかし明星大学関係者が発見した場合は即警察へとの事。今後この田老鉱山跡へ撮影に行かれる方は十分にその辺の事情を把握した上で来訪して下さい、鉱山跡の先に伸びる山道(徒歩のみの道)にも実は知られていない関連施設が在りますがそちらはまた管理されている方が違う様です。
現地には空撮写真でも見えず、また国土地理院の地図にも記載されていない施設跡などが現存しています。それらの探索もとても楽しいのですがくれぐれも上記の旨を租借した上、単独事故、下山が不可能ほどの怪我、そして熊(ツキノワグマの生息地です)に気をつけて下さいませ。
2011年の震災後に取材訪問した時はまだ東北3鉱山の廃墟としての威厳の様な雰囲気があったこの田老鉱山、しかし復興に沸く同東北地方において山深いこの地は逆の道を辿った様だ。廃鉱山なのだから当山と言えば当然、が…はやりショックではあった。
掻い摘んで書けば選鉱所の道路側は大きく崩落していた、一目瞭然と言える程に。更に内部でも各所で崩落が進んでおり、特に空中階段や操作室などは落ちてしまっていた。各所の階段は部分部分が抜け落ちてしまい、壁も大きく倒れ込んでいる箇所を発見。
崩落の原因は2015年の連続台風、全国に甚大な被害を齎した夏の嵐はこんな山の中の廃墟までに大きなダメージを与えていたのだ。
この大規模な廃墟を管理する明星大学によれば解体の予定はまだ無いと言う、しかし無許可での来訪が相次ぐ中周囲では立入禁止の看板の設置・監視カメラの設置・そして以前は通行出来た道路の閉鎖などを行った。封鎖ゲートも新調され、より大きな物となったのも驚いた。
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロール、モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます。
屋根が大分抜け落ち、壁も剥離崩落が進んでいた。鉄骨部分は所々で錆びによるダメージでグラグラの場所さえあった。
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロール、モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます。
正面階段も崩落が進んでいます、もうこの階段を使用する事は不可能でした。更に奥の上部操作室は地面に落ちてしまい、空中通路はもグラグラでとても人の行き来に耐えられる状態ではありませんでした。
国内の産業遺構としても資料的価値の高いこの廃墟、保存は難しいですがせめて出来る限りの写真と当時の紙媒体資料を残していって欲しいと願うばかりです。
2016.08後期再訪
アプローチ
エントリー導入部を参照。
地図リンク
https://goo.gl/maps/cmSKl
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0517│ラサ工業株式会社 田老鉱業事務所
※ 2016年にトルコ・スェーデン・日本の合同取材チームで国際プロジェクトが行われ、国内でのオーガナイズをスゴログで行いました。その際トルコ人カメラマンから希望されたこの鉱山跡の来訪によって再び見聞する事が出来ました、約5年の月日は無常で各所の崩落が目立っていました。
詳細は追加のエントリーよりご確認下さい、「追加調査更新バナー」をクリックすると最後尾に移動します。
岩手県│ラサ工業田老鉱山跡 田老鉱業事務所(明星大学田老鉱山資料館)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 田老鉱山 田老鉱業事務所跡
田老鉱山の関連物件で概観が近代建築の為に以外と人気が無い物件が在る、それが旧田老鉱業事務所、後の田老鉱山資料館(明星大学運営)だ。手前に作業倉庫と車庫、一番奥にこの事務所跡が残るのだけれどどうしてか廃墟サイトでは余り取り上げれる事が少ない様だ。
※ 2012年中盤から取り上げるサイトが増えました、しかし内部は崩落が進み危険な常態です。
これまでの田老鉱山関係のエントリーは以下より。
まずはこの建造物の位置関係を説明しようか。
イエローポインタの場所が事務所だった場所、元々はこの場所に事務所は存在していなかったのだけど鉱山後期にRC5階建てとして建築された比較的新しい物件。崩壊が特に進んだのは近年10年(1990年代後半~2000年代下一桁)らしいのだけどその辺の詳細は判明しなかった。
もう少しズームした位置関係を参考にレポートを進めていこう。
選鉱所へ向かうT字路を逆の左に折れると今回の物件が見えてくる、手前から作業倉庫、車庫、旧事務所と成っている。この他にも過去には建造物が在ったのだけど現在はこの区画には3棟のみ、概観から紹介していこう。
PLフィルターにゴミなんか着いてないんだからね。(小さな点がね)
一見するとまだ現役施設かと思う位普通、ホント普通。だけれども航空写真で確認した限り屋根部分の大崩壊は確認出来る、近づくと外壁にも無数のクラックが入っているし実は崩壊が近いのかなぁ。
※ 2014年確認、外壁の一部が崩れ落ちています。
右奥が作業倉庫、施錠されているけど中を見る事は可能。だけれどもレンズ付け替えて撮影するまでもないかなぁとスルー、僕はさっきからチラチラと目に入る車庫に収まる車両が非常に気に成っていた。
ゴーマルじゃないですかー。
うひょー、しかもFJ56Vのオリジナルカラー。かっけー、欲しいー。これ下さい、レストアします。過去にBJ41V幌、BJ42長箱と乗り継いだけど状態の良い50は全くお目に掛からず入手する事が出来なかった。廃墟見に来てノスヒロ魂が再燃するとは思わなかったさ、思わず管理の方に「あれ、欲しいんですけど」って本当に迫ってしまいました。
※ 本当に管理の方や関係者に聞いたのですが所有者がハッキリしない様でして、この状態ないらレストア可能なので勿体無い…ゴーマルってば本当に貴重なんです。
久し振りにSJ30でも欲しいなぁ、いやココは大人っぽく遊び心溢れるSJ40か。
それた。
それではちょいとお邪魔しましょうか。
中は天井が崩壊した為にその階下まで侵食が進んでいた、コンクリートは所々剥離して鉄部の酸化は予想以上に酷い。階段もこの通り、因みに1階(本当は2階部分)部分は床が腐っていてウッカリすると落ちるので気をつけて進んだ。
ガラスが割れた部屋に関してはこの様に自然の侵食が進んでいる。
鉱山の鉱業事務所から明星大学の田老鉱山資料館に鞍替えしたのが1975年、翌年には一般にも開放したと話を聞いたのだけどウェブに転がっている記録と上手く合致しない。管理会社の方の中には実際にココで働いていた方(と言っても閉山処理に従事した程度)が居たのだけど詳しく話しを聞く時間が無かった、勿体無い事をしたなぁ。
4階部分に到着、成る程…確かに崩壊が進んでいる。そう、進んでいたのだ。この建造物の屋根が崩落している事は以前より知ってはいた、幾つかのサイトでもこの崩落した現場の写真が掲載されていたのだけど数年前の写真と比べると更に、大規模とは言えないけど随分と空を仰ぐ部分が拡大していた。
そう言えば松尾鉱山では雪が降っていた、東北の秋は短い。直ぐに真っ白な世界が寒さを風に乗せてやってくる、そんな世界を撮ってみたいけど何しろ遠いんですよ。関東から東北の物件目指すと片道800キロは覚悟しないと。
そうそう、この事務所。
実はこの5階部分から鉱山の抗口に入坑出来るのです、裏手の抗口間際にこの事務所を建設するのはそのアクセスを簡易化する為でも在った様で現役稼動時は沢山の鉱夫がここから入坑したと聞いた。
抗内軌道は508mm、全国の鉱山で使用された鉱山起動軌間610mmと508mmの内田老鉱山は508mmを選択した様だ。
田老鉱山が閉山してラサ工業が撤退、その明星大学が管理したものの名ばかりの「田老キャンパス」。実質的な運営は数年しか続かず結局は宇宙線観測所として稼動するのみと成った場所、今後どの段階で解体されていくのかは解りませんが自然に因る侵食崩壊の方が先の様な気がします。
見るなら今の内、この廃墟も写真の中だけの存在に成りそうです。さて次回は引き続き田老鉱山の関連施設「田老第二小学校跡」をレポートしたいと思います、田老鉱山関係もう少し続きますよ。
2010年頃までは取り上げられる事の少なかったこの鉱山事務所跡、後に明星大学運営の下で田老鉱山資料館として息を延ばしたものの。やはり本命の選鉱所の派手さに眼を奪われて訪れる人は多くなかった、管理の方に話を聞いたが昔から選鉱所の方は千客万来だったそうだけれど此方の事務所は全くと望まざる客は来なかったそうだ。
まあ現役の建造物の様に見えて内部は酷い有様なので取材でも此方の撮影はお断りが多いと聞く、今回有り難くも久し振りのお目通しが適ったわけだけれども…うん、こりゃ酷いや。
兎に角酷い。
もう倒壊するかも、こちらさんは。一見大丈夫そうに見えて内部のブレスは相当傷んでる、床材は1階に関して言えば完全アウト。鉄筋なので骨は残るが外壁もダメージを随分と蓄積している事が解る、たった5年でこんなにも腐食が進むものだと驚きを隠せない。
それではこの事務所跡の大本命、3階の資料室を見てみようか。
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廃度が進んでこの手の「画」が好きな方には大変喜ばしい状況と成っていた、が当然の事ながら室内は異常な湿度とカビ臭さが充満していて長時間居座る事は適わない。
今回の取材撮影で一応各部屋も確認したけれど特に筆する事もなく、多国籍撮影班の誰もが「早よ出たい」と思い続けた物件だった。実はちょっとした資料提供がありまして、「田老鉱山資料館」当時の運営資料を入手出来たのだけれどこれも別段記載する内容でもないので割愛したい。
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幾ばくかの開放感を得たくて屋上に急ぐ、そう…この廃墟は4階の屋上部分が抜け落ちている事を前回の訪問で知っていたからだ。
いや、ここも素晴らしい…概観は至って普通の廃墟だけれども内部はとても廃美に溢れている事がお解かり頂けるだろう。が、やはり臭い。
臭いよ、ココ。
一通りの撮影を終え、そう言えば前回管理のおじい様方に本気でオネダリしたゴーマルが気に成った。そして件のゴーマルはまだ鎮座していたのだけれど…、流石にレストアはもう無理ですねぇ。普段の足にSJ40とCT110ってのが個人的に理想なんですがゴーマルは今でも常用したい車だったりします、がコイツも例に漏れず古いランクルの業(ドアパネル下部に水が溜まって腐食する)を背負っていました。
さて、天候が余り宜しくないので次の物件(廃校)に移動しましょうか。
2016.08後期再訪
アプローチ
エントリー導入部を参照。
地図リンク
https://goo.gl/maps/cmSKl
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0518│田老町立田老第二小学校
※ 2016年にトルコ・スェーデン・日本の合同取材チームで国際プロジェクトが行われ、国内でのオーガナイズをスゴログで行いました。その際トルコ人カメラマンから希望されたこの鉱山跡の来訪によって再び見聞する事が出来ました、約5年の月日は無常で各所の崩落が目立っていました。
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岩手県│田老第二小学校跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 田老町立田老第二小学校跡
実に見所の多い田老鉱山、管理会社の方にこの学校周辺は熊が良く出ると脅されての見聞だけど気にしない。選鉱所跡、鉱業事務所と見て来たけどこの田老第二小学校は良物件だと噂されていたので楽しみだった。まずは前回までの関連エントリーを記載しよう。
田老町に存在した小学校は田老第一から第三までの分校を含む8校、以下その廃校をちょっとだけリスト。
1971年 田老町立田老第二小学校
1985年 田老町立田老第一小学校田代分校
1987年 田老町立田老第一小学校末前分校
1987年 田老町立田老第三小学校畑分校(田老第一小学校分校から改称)
1988年 田老町立田老第一小学校樫内分校
1988年 田老町立田老第三小学校水沢分校(田老第一小学校分校から改称)
1989年 田老町立田老第一小学校青の滝分校
2004年 田老町立田老第一小学校堀内分校
今回のレポートで紹介するのは1971年に廃校と成った田老町立田老第二小学校跡だ、不況下で運営が危ぶまれた田老鉱山が同年に休山を決定している事から翌年の休山を待たずして鉱夫達がこの鉱山を離れた事は予想に容易い。実際1960年代後半から田老鉱山は規模を衰退して行った事は記録によって明確と成っているわけだし、災害後の再調査で判明した鉱床規模が予想を下回って居る事などから鉱山集落は少しづつその人口を減らして行ったのだろう。
既に今までのエントリーで説明した通りこの廃校を含め鉱山集落の広大な敷地は明星大学が後任として管理している、譲渡に至る経緯を話すと長くなるので割愛するけれどこの田老キャンパスを重要視しなかった事が幸いして現在でも沢山の関連施設の廃墟が楽しめるのは幸運だと思いたい。
それでは簡単な説明も済んだので廃校「田老第二小学校」跡をご紹介しようと思う。
位置関係だとこの場所、選鉱所より更に奥に成る。管理人さんや関係者に後程工場跡に再度戻って話を聞きたい旨を伝え移動、明星大学のセミナーハウスと管理棟へ続く道が急カーブを描くのだけど丁度その地点から封鎖されている廃校への道が延びている。
※ 厳密には管理管轄が工場とは別との事、勿論一般的には侵入禁止です。
校門から小さな校庭を抜けるとブッシュの中に小学校跡の校舎が見えて来る、松尾鉱山では既に雪が降っていたがこの場所ではもう少し先に成りそうな茂り具合だ。
まず目に入ってくるのが体育館跡、この建物は比較的傷みが少なくて内部の残留物の保存状態も良い。
長くこの区域を知っている管理会社の爺様によるとこの体育館では過去に卒業生が集まったりして思い出を語り合ったりなどのイベントも開催されていたとの事だ、しかしそれも今では全く無くなってしまったと話しておりました。
まあ何だ、「廃」としての美しさは皆無なので然程探索する事も無く本丸の学校跡へ足を向ける事にしよう。
※ 2015年の連続台風で大崩落が発生、この体育館は半壊しました。
体育館横手の川沿いから渡り廊下を介して田老第二小学校跡の校舎と成っている、対岸から延びる橋は酷い劣化の為渡る事は出来ないので此方からのアプローチが正解。
校舎内は朽ちてはいるものの建造物としての強度はまだ保持されていた、降雪によって年々その姿を変えつつ在るのだけどこの校舎に関しては卒業生が中心に成って保存しようと言う働き掛けも今後始まる様だ。
※ この教室の川側が崩落、現在危険な状態と成っています。
給食室、何度か廃校の校舎内で見かけた給仕釜が姿を保っていた。と、ここでやっとこ気が付いた。木造だとばかり思っていたこの校舎、よく見ると所々にトラスが組まれている。この年代の学校校舎で鉄骨トラス?
そうか、成る程。調べると施工主が鉱山関連企業だったのか、選鉱所と同じトラスが組まれていたのが帰宅後の調査で理解出来た。
※ 同年代に建造された山間部の学校で鉄骨建築はとても珍しく、トラスが剥き出しは更に希少。
校舎の中には再来した元卒業生、明星大学の学生など沢山の書き残し(落書きも含めて)が描かれている。教室、廊下、もう本当に至る所に。その中で僕は見つけてしまった、そうか…貴方もここにいらっしゃったのですね…。
つ…つの丸大先生…こんな山奥に何用で…いや、しかし。
サバゲーのロケーションにこんな山奥を選出するとは…ご苦労様です。
※ 2012年以降、無関係な来訪者に対する本格的な調査が在りました。その後の警備も人員的な物ですが強化されています。
確認を忘れたけどこの学校にはHONDAの名車、CⅡ72が朽ちていると聞いていたのだけれど…うーむ。総一郎がデザインした神社仏閣スタイルには10代の頃の僕もすっかりホの字でしてC92プレスハンドル、CⅢ92ダブルシート仕様、C72とレストアした思い出が。
今なら…今ならJC57とかレストアしてみたい…しかし無いだろうな。ずっと欲しいんだよなぁ、JC(女子中学生じゃない)。余裕が在ればキャブのRTFとか…どっかに落ちてないかなぁ、ミュージアムコンディションで。
※ この教室は壁が崩壊して二部屋が繋がり、川側は外壁が完全に崩れ去りました。
photograph:+10
一通り巡った様なのでこの廃校を後にした、思い出とBB弾が沢山散らばった素敵な廃校だった。実はこの廃校の歴史をちょっと調べたのだけど資料が複数出て来て開校時期が合致しない、って事でもう少し調査を進めてからこの廃校の年表を掲載したいと思っている次第で在ります。
田老関係で追跡調査はこの物件だけ、有名物件でも以外と解らない事が出てくるものです。
管理会社の爺様は語る。
「この場所はんなぁ、時代と人の欲、そして今は自然に呑み込まれてしまったんのす。んだんも俺が飲まれんな酒だけなんのす」
イ…イイハナシカナー
のす…そういえばATOMでのモジャ桐仁さん以来だ、この語尾ってば。そんな事を思いながら移動しようと思った矢先。
「後、ほら、あそこな。あの山のあそこさ、あっこでマツタケ採れんだ」
何ぃぃいい?
5年振りの来訪と成った田老鉱山、その最後の来訪物件はこの田老第二小学校跡だ。今回の来訪では他の現存物件である「田老町立田老保育園」や「鉱山夫住宅」などをはじめ関連施設も見聞させて頂いたけれど特筆すべき事は無いので追加取材や新たな机上調査も行っていない、記念碑や郵便局跡、実験施設や講堂も崩落は多少進んではいるものの以前と同じ様な佇まいだった。
しかし。
そう、この第二小学校は違った。それは変化ではなく終焉の始まり、恐らくではあるけれどこの廃墟はそう遠くない未来に確実に崩れ去るのだと確信した。それだけの崩落があった、事前情報を併せて少々この廃校の現在をご紹介したいと思う。
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まずはここ、前回印象に残った壁に穴が開いていた教室だ。穴は今も健在ではあったけれど…うん。穴というよりは、ねぇ。川側の壁がスッカリと崩れ落ちていた、これはこの廃校全体に言える事だけれど5年前と比べて川側の壁や外壁が兎に角崩落していたのだ。
読者の情報で2013年位から崩落が進んでいるのは実は知ってはいた、けれどここまでとは。そして2015年の連続台風によって選鉱所と同様、この廃校も甚大な被害を被っていた。
これも読者情報だけれども昨年までに周囲の関連施設は全て立入禁止のロープと看板が設置されている、これは選鉱所への無断立入の対策と廃校でのサバゲーによる怪我人の発生、最後にクマの出没情報が多くなった事に起因する。
行政に確認する確かにツキノワグマの目撃情報が近年多くなっており、その対策を賄いきれない管理側が少しでも来訪者を少なくする為、また放置施設での怪我人を出さない為の対策を取ったと言う。明星大学に確認したが個人レベルでの見学や撮影の許可は一切出していないそうだ、が今だ絶えることの無い来訪者。
監視カメラも稼動しており、問題があった場合は随時警察にその映像を提供するとの事だった。実際車のナンバー位ならシッカリと映りこんでいる事を管理側から知らされている、許可に関しては同行する人員確保が難しい様で今後もメディアの取材以外は基本的にお断りするとの回答を頂いた。
多く山に入る僕らからしてもこの周辺はクマが出没する条件が整っている、廃墟見たさに自然動物の脅威に晒される危険性を今一度熟考して頂ければと思う。クマ、怖いですよ。
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この教室も良く覚えていた、天井が疎らに落ちて差し込む光がとても綺麗だった記憶がある(このエントリーにも写真が掲載されています)。が、現状は…。
ネットで少々この学校の来訪者の写真を眺めていると2013年辺りからこの様な大規模な崩落が始まり、記述の連続台風でそれが顕著化した様に見える。鉱山事務所同様、鉄骨部分は残っても川側の外観は年々大きく変化している事が如実に解る事だろう。
1階東棟の最奥の手前、この辺りの教室は何故か床の反り返りと崩落が目立つ。西棟は全然大丈夫なのに何故こちら側だけ…と思い一番端の部屋に眠るCⅡ72を確認しに…ええ、在りましたが床がグラグラでもう近づけない状態でしたねぇ。
シッカリと確認出来ないけれどアレ、多分プレスハンドルだよなぁ…勿体無いなぁ。
と、色々と変化が大きかったこの廃校舎。体育館共々にその寿命は短く、美しい廃美も残すところ幾ばくかといったところでしょう。
因みににつの丸大先生は壁の崩落故か、発見出来ませんでした。残念です。
2016.08後期再訪
アプローチ
エントリー導入部を参照。
地図リンク
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写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0602│ 松尾鉱業株式会社 松尾鉱山アパート群
岩手県│松尾鉱山 至誠寮・緑ヶ丘アパート・松尾鉱山中学校跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 松尾鉱業株式会社 松尾鉱山関連遺構群
※ 2016年にトルコ・スェーデン・日本の合同取材チームで国際プロジェクトが行われ、国内でのオーガナイズをスゴログで行いました。その際トルコ人カメラマンから希望されたこの鉱山跡の来訪によって再び見聞する事が出来ました、約5年の月日は無常で各所の崩落が目立っていました。
詳細は追加のエントリーよりご確認下さい、「追加調査更新バナー」をクリックすると最後尾に移動します。
東北三大鉱山合同撮影でご一緒「The Decadent World」のHYPOさん、ウチのメンバーと僕を含む合計4人でこの松尾鉱山に訪れたのは10月に入ったばかりの頃。関東を出る時は半袖で「暑い、ビール、梵ちゃん(ウチの愛娘/猫/とても可愛い)」を呪文の様に口にして東北道を走った。松尾八幡平ICを降りる頃には「寒い、熱燗、梵ちゃん(ウチの愛娘/猫/激しく可愛い)」と呪いの言霊は変化しておりました。
高速を降りていよいよ松尾鉱山と対面だーと八幡平アスピーテラインに入って直ぐでした、「降雪の為アスピーテラインは通行止め」との看板。
?
というわけで、流れ解散となりま
いや、まて。
ニンジン振ってる道路関係者に詰め寄る、何せ関東からえらい距離を不眠で走って来たんだ。どうしてもココを通らねばならない、松尾鉱山さんにタイマン張る為に。
「ちょっと!降雪で通行止めってどういう事だ!」
「ああ、雪が降ったんで道路を一時的に封鎖しているんです」
そ、そうですよねー
「そうですか、それは大変ですね」
「お気をつけてお帰り下さい」
いや、これはご丁寧にどうもじゃねぇ静脈掻っ切るぞ!
どうやら予想より早い初雪で除雪の準備が出来ておらず、走行上の安全が確保出来ない為に24時間程アスピーテラインを封鎖した様だ。
オーライ話は聞かせてもらった、しかしこちとら男の怒勝負が待ってる身。詳しく事情を話して通して貰う作戦に出た、
「この度はうんぬんかんぬん、ほにゃほにゃうまうまで可及的速やかにですね…」
「いいよ」
いいの?
「いいよ、わりとマジで」
いいの?わりとマジで。
何か通れた。やったー
取り合えず誰も居ない松尾鉱山に誰への気兼ねもなく自由に探索出来る状況が揃った事に成る。一般車両は入って来ないし、うん…こりゃ好都合やでぇ。
松尾鉱山に関する詳細はいつもの様に最後尾にて説明しましょう、最初の写真は管理職単身寮「至誠寮」から探索メンバーと緑ヶ丘アパートを広角で。いやぁ「画」に成るなぁ、ホント来て良かったよ。
至誠寮はこれと言って掲載する写真も無いので本命の緑ヶ丘アパート群に向かう、が…この寮は他の集合住宅とちょっと歴史が違うので詳細をお伝えしよう。
photograph:+10
・至誠寮
この独身寮は戦前から松尾鉱山の管理職向けに松尾鉱業が用意していた物、当時は木造2階建ての1945年8月9日、米軍の空襲にて全焼消失。翌年から付近には仮設住宅が建設されましたが鉱山復興は比較的早く、緑ヶ丘アパート建設の1951年には既に全室の入居が完了していました。
この地域では初と成る鉄筋コンクリート4階建て、地下(窪んだ地形の為実質的には1階部分)に暖房機器などの設備室と管理人が常駐していた管理人室などが。鹿島建設がそれまでのノウハウと積雪に耐える為の研究を繰り返した40年耐久の建築物でした、その技術はその後の建設ラッシュと成る緑ヶ丘アパートに引き継がれます。
閉山後は鉱毒水処理施設の倉庫として使用されましたが1978年頃には使用されなく成ったようです。
付近にはこの様な独身寮が幾つか在り、至誠寮同様に現存する廃墟も。
・五寮 - 崩落激しいが現存
・桂寮 - 現存
・鶉山集合住宅群 - 1972年(8月25日)消防実験の為故意的に全焼消失
・野田山集合住宅 - 1972年(8月25日)消防実験の為故意的に全焼消失
※ 野田山集合住宅は少し離れた管理職独身寮が単独で1棟現存してます
緑ヶ丘アパート群の位置関係はここ、連棟なので一番目立つし何よりココを訪れた方が絶対に撮影に訪れる鉄板の場所です。
緑ヶ丘アパートの配置図はこちらでご確認を、遠目で煙突が2本立っていたから関連施設が隣接してると思い込んでいた。違うのね、ボイラー室なのか成る程。
斜面手前の「い・は・ほ・と」棟、一番有名なアングル。緑ヶ丘アパート群は松尾鉱山の鉱山バブルが膨れるちょっと前、1951年に松尾鉱業初代社長の中村房次郎氏が主導で建設されました。
岩手県全域を通して標高1000メートルと言う場所での初の大規模な集合住宅建設、そして厳冬期の降雪での耐久性。まして鉄筋コンクリート高層(当時は4階建てでも一般住宅としては高層でした)4階建ての建築、松尾鉱山としどれだけこの住宅群の建設に力を入れていたかが窺い知れます。
この一大プロジェクトを請け負ったのは鹿島建設、前身の鹿島組の立役者鹿島精一氏が岩手出身だった事も在り設計から建設まで全てを依頼したそうです。
「は」・「ほ」間の中央通路、通称「大階段」前、有名な場所ですがサバゲーの舞台としても人気で階段前には沢山のバリケード。仕方ないのでちょっとだけ御片付けをして後程(太陽の傾き加減を考慮して)撮影致しましょう。
驚く事にこの緑ヶ丘アパート群、その巨大さ故に建物内にテナントが入っておりました。売店、クリーニング店、理容室などの他鉱夫用に用意された大浴場など福利厚生にも力を入れていた様です。
また県内はおろか東北地方で生活基盤のインフラが十分では無かった1950年代初頭、上下水設備、水洗トイレ、ダストシュート、作業用道路と生活道路の区域別け、車道の拡大など工業機能と都市機能を上手く合要した区画設計がされていました。
スチームを利用したセントラルヒーティングは特に堆力した様で厳冬期には十分その役目を果たした様です、しかしこのセントラルヒーティングにも弱点は在ります。
日本では「中央暖房」と呼ばれていましたがつまりはコレ、暖房施設から一括して暖房熱を配分しています。と、言う事は「個人や個室で暖房の温度設定が出来ない」って訳です。まあ厳冬期ならまだしも、春先や晩秋など気温の体感差が個人で出る様な季節はさぞ大変だったでしょう。
緑ヶ丘アパートは棟によって入居していた家族スタイルがすごし易い様に設計されていました、夫婦、+子供1人~3人、2世帯など間取りも幾つか用意されていました。独身寮は既述した用に少し離れた場所に在ったのですが鉱夫の方達にはやはりこの山間部の大都会、「緑ヶ丘アパート」が人気だった様です。
因みに建設としては「い・ろ・は・に・ほ・へ」棟が1951年10月25日完成、2ヶ月程の後に「と・ち」棟が完成しました。この時既に先に完成していた「い・ろ・は・に・ほ・へ」棟には入居者がおり、「と・ち」棟も我先にと入居を希望する人達で溢れたと記録に在ります。
その後1年以内には更に上部の「り・ぬ・る」が別棟として建設され全11棟が完成した時点でプロジェクトは終了しました、当初の予定では20棟程の計画が在ったようですが…。
photograph:saorigraph
大階段。
「おい、弟子(26♀)!」
「はーい、何ですか」
「え…また…ぶたれた…」
「勝ったヤツはいないよ。ただ負けたと思ったヤツがいただけだ」
「え?あ…はい。んんん?え…っと…はい?」
写真左側はクリーニング店跡、右側手前が売店でその奥がアパートの管理部が在りました。更に階段を登ると左側に理容室がその名残を残した間々と成っていました、確かにこの規模だとこの様な施設が在るのは便利です。
こちらは売店の内部、天井が崩れ落ちてしまっています。売店の他にも通常の部屋と違う作りの間取りが存在します、在庫管理や事務に使用した感じですが調べても解りませんでした。
photograph:saorigraph
中にはこの様な小さな部屋も在ります、どの様に使用されたかご存知の方、どうか教えろください。
さて「い~ち」棟を堪能したので上部棟の「ち~る棟」へ移動しましょう、この3棟は高台に建設されているのでこの緑ヶ丘アパート群の中で一番見晴らしが良いとの噂。勿論屋上に上ってその風景を堪能したいと思います、別動班を無線で呼んでみる。
「 なのは完売、なのはが完売。どうぞー 」
程なくして合流、いざ松尾の全景を見に。
ほう…。
ほほう…。
「 風が…そうか、今か。 」
かっけぇえよアニキ。
!?
こ、これは…こりゃまた呼ばないとな、弟子を。
「おい!何処行った、こら弟子(26♀)!」
|д・)
「ちょこっち来い」
|д・) < また叩くんでしょ
|彡 サッ
「いや、違うんだ。この美しい風景を一緒に楽しみたいだけさ(棒」
|д・) < そんな事言って本当は叩くんでしょ?
「ばっかやろう、ほら飴ちゃんあげるから」
|・д・) < 飴ちゃんやてぇ?
「ほら、この景色見てみろ。飴ちゃんもあげるから」
|...(・д・) < あ、飴ちゃん…
「何故叩くのかと聞きたそうなツラだな、まあぶっちゃけ理由はねぇよ」
「よくぞ聞いてくれ…はい?」
セントラルヒーティングを支えたボイラー室、現在でもその煙突が2本残る。これ実は登ろうと思いまして実際少し登った結果タラップの強度は上々、これなら相棒と二人で別々の煙突に登ってお互いを写そうと相成りました。
が、まず風が強い。
車まで戻ってハーネスとか装備しなくちゃらなないのも面倒、しかし今思うと何故途中でやめたのか…ホント登っておけば良かった。
これだけの為に再訪してもいいな、ココは。
photograph:+10
ところ変わりまして松尾鉱山中学校跡にやってまいりました、この物件は閉山後に色々と所有者が変わりまして。まず簡単にその歴史を辿ってみましょうか。
1947年 松尾鉱山小中学校開校
1953年 小中を別けた為に松尾鉱山中学校開校
1969年 会社更生法を申請して松尾鉱山が倒産(元従業員の下山開始)
1970年 閉山処理に伴い閉校
1969年の倒産にて鉱夫を含む全ての社員が解雇、それに伴い一緒に住んでいた家族も下山する事に成った。この学校に通学していた生徒達はそれぞれの家族の転居先で新たな区域指定の学校に通う事に成り、1970年には最後の卒業生を送って廃校。
こちらは体育館、1階部分も2階部分も体育館って始めて見た。現在はご覧の通りサバゲーの舞台として活躍している模様。当時、体育館は学校の生徒の他に松尾鉱山でのイベントや集会なども行われた。
それにしてもこの廃校と体育館、緑ヶ丘アパートと2年しか建設期間が開いてないのにその建築技術の向上は目を見張る物が在る。同時期の建設には思えないほどだ、鹿島建設がこの松尾鉱山で得た過酷な環境での住宅建築のノウハウ。それは現在でも生かされていて後の類似物件で発揮される事に成る。
校舎の屋上部分、と言うか屋根の上。長い期間積雪を繰り返した為か崩壊が進んでいる、特に問題に成る様な場所は無かったので訪問の際は是非ここへ…と言いたいが自己責任でお願いします。
・松尾鉱山中学校
松尾鉱業が松尾鉱山一帯に鉱夫住宅の建築を決定、先行して従事していた鉱夫の家族用に設置予定だった松尾鉱山小中学校が1947年に開校。その後1951年に緑ヶ丘アパートが完成して大規模な鉱夫家族の転居が可能に成った、1953年に兼ねてより小中分離教育を希望していた父兄の願いが叶い松尾鉱山中学校が開校。
その後この土地がどの様に分配されてどの様な区域別けで譲渡などが進んだか定かではない、と言うか資料が見つからない。
この学校周辺の土地は閉山後は盛岡大学が部分的に購入し、校舎はその間々利用した形で合宿施設を開設。その名が今でも残る「生活学園」だ、学園と言ってもここに学校が在った訳ではなくてあくまで合宿施設として使用されていた。
閉山後の1970年代後半までは解っているけど細かな年数が不明、しかしその頃にこの場所に「盛岡大学付属生活学園松尾合宿校」が開校。1992年までは管理下に在りましたが実質的には1980年代後半でその役目は終了していた様です。
いつもの。
photograph:saorigraph
グラフィティが無かった頃に来たかった、しゃんないから消してみたけど途中でスタンプ作業に飽きてしまいました。ちゃんとやらなくて御免なさい。
まあいいか、綺麗だしやるか…アレ。
「おい、で(ry」
|д・) < いかねぇよボケ
|彡 サッ
それにしてもこの通称「赤い部屋」は本当に素敵、だった。初期の頃、グラフィティが無い頃は本当に廃墟美が在ったなぁ。仕方ないから僕が上から塗って行こうっと、何せ”赤い塗料”には困りませんからねぇ…。
一体この男は何と戦ってるんだ、何故すぐに登るんだよ。
「おーい、どうした?そんなに急いで…」
ああ、そうか。コレを撮るのか、うん…これは撮っておこうか。
標高1000メートル、山間部の天気は目まぐるしく変化する。この日の撮影も快晴やら霧雨やら魔理沙やらとレンズのフィルターの掃除には随分と時間を取らされた、この場所を去る前にもう一度最初の撮影ポイント「至誠寮」へやって来たのだがまさか鉱山跡に掛かる虹が見れるとは。
美しいな、ホント。そんな場所が多過ぎた松尾鉱山跡、そうだ…、こういう時こそ。
「おい、で…」
そうだ、もう弟子(26♀)は居ないんだった。馬鹿だな…僕は”赤い塗料”と引き換えに何かを失った気がした…したけど直ぐ忘れた。
うん、僕らは最初から3人でやって来たんだった。そうそう、うっかりさーん。
車に乗り込むその刹那、虹越しに顔のボヤケタ誰かが微笑んでいる気がした。移動中の車内は何故だか妙に広く感じ、とても快適だった。
松尾鉱業株式会社 松尾鉱山
1766年 寄木村茶臼ヶ嶽下通・沢目筋の硫黄調査がその歴史の初御披露目
1879年 現在の八幡平市緑ヶ丘一帯の硫黄調査及び鉱山発見の記録
1882年 佐々木和七が自然硫黄の大露頭を発見
1888年 試掘失敗
1911年 横浜の貿易会社増田屋が松尾鉱山の利権を掌握(買収ではない)
1914年 松尾鉱業株式会社設立(初代社長は中村房次郎氏)
1934年 松尾鉱山鉄道が開通
1949年 朝鮮人労働者投入
1945年 米軍の空襲で住宅を含む鉱山施設が消失
1946年 住宅などの鉱夫施設を再建
1947年 松尾鉱山小中学校校舎完成
1953年 松尾鉱山中学校開校
1951年 緑ヶ丘アパート完成
1955年 採掘最盛期を迎える
1969年 会社更生法を申請して倒産(同年全従業員を解雇)
1970年 一部の事業部を残し、黄鉄鉱専門の新会社を設立
1972年 鉱業権を放棄しての計画倒産
「雲上の楽園」、「雲の上の都市」そう呼ばれた松尾鉱山、最盛期の1955年には13594人もの従事鉱夫関係者を抱えた山間部の都市だった。写真は操業時の物で硫化鉄鉱を運んでいる時の状況が写されている、背後の精錬煙は有毒だったけれども鉱夫は野外でマスクなどは着用しなかった様だ。
精錬場が残っていた時代の貴重な写真、当時はまだ木造の施設が多くて火を常時使用している鉱山施設においてはとても危険状態での操業だった。少しづつ石造、コンクリート、鉄筋と建設技術が向上していく訳だけど施設を大規模に改築するのもは大予算と成り苦労したようだ。
鹿島建設が緑ヶ丘アパートを建設するに当たって周囲の関連施設を同様の建築技術で改築したものの本格操業当時から一度も改装されない施設も在った。
まだ緑ヶ丘アパートなどが建築されていない、しかしながらのこの規模。1955年に迎えた最盛期、国内に於ける硫黄産出は40%近くまでこの鉱山が賄っていた、人工約1400人は現在の八幡平市の総人口の半数に匹敵。アジア圏においても硫黄産出量は一時期ではあるけれど1位に成ったりもした。
2棟(ぬ・る棟は建設中)を残すだけと成った緑ヶ丘アパート群建設当時の写真、手前には至誠寮も見える。
栄華を極めた松尾鉱山だったが1969年3月に会社更生法を申請して倒産、同年11月には採掘と精錬を中止。1972年に一部事業部と合理化を図った新組織を合わせて作られた新会社も鉱業権を放棄、歴史にその名前を刻んでから206年、本格操業開始から58年の歴史に幕を閉じた。
その後の松尾鉱山
企業の残務部隊と企業再建の試算管財人、そして県+国とで鉱山自体は閉山されました。その後の鉱毒水中和を請け負ったのは現在の国土交通省、暫定中和処理施設を運営していましたが岩手県の管理下に置く為に1976年、新たに中和処理施設を建設する事が決定。
1982年に中和処理施設が完成、1984年には恒久排水路トンネル(鉱毒水の導水路)が完成して本格的な中和処理が県主導で開始します。
と、言っても。中和処理施設に約62億円、貯泥ダムに約31億円、更に年間運用費が6億円と莫大な予算が鉱毒水と共に流れていきます。勿論岩手県のみの財政予算では運用は儘ならず、結局は現在でも国が管理していると言うのが実情です。
住宅群に関しては八幡平市民から安全上の問題と観光面での景観上の問題が指摘され続けています、閉山後直後においては既に倒産していた松尾鉱山からの資本は見込めず、「木造家屋延焼実験」と言う名の下に県が主導で解体計画を立案。決行されます。
古い木造建築住宅群や関連施設はこの時に殆ど消失しました、点在したその他の20棟ばかりの木造建造物も1974年に消防庁消防研究所が企画した「大規模火災を想定した延焼実験」で消失。
1970年代後半には延焼実験で燃え残った灰などを計画的に埋め立て、植林も開始。暫定的に国が中和処理を行っていた同時期に廃材や埋め立て、植林の基本計画が決められて行った様です。
延焼実験後の空撮、1976年のもの。現在の状況とほぼ同じ様な建造物配置と成っています。
さて、それでは緑ヶ丘アパートなどの新規建築された鉄筋コンクリート建造物はどうなったか。皆さんも知ってる様に今でも廃墟として残っています、それでは何故今でも残ってしまったのえしょうか。
解体予算の問題
延焼実験からも除外され、解体する筈の母体企業は倒産済み。只でさえ予算の厳しい状況下に在った松尾鉱山の解体問題、木造建築物に関しては「実験」として予算が下りました。
中和処理施設は国が主導、まあこれは税金で賄われています。残るは一部の鉄筋コンクリート建築物、独身寮や緑ヶ丘アパート群。これらの解体には規模が規模だけに企業や県が負担出来る金額では無い上、現在も中和処理施設の予算も計上しなければ成りません。
そこで次の手。
分割譲渡、まあ早い話転用販売です。松尾鉱山病院は学習院が買収して現在でも研修施設として運用されています、驚く事に建設時期は緑ヶ丘アパート群と同じ…片や廃墟、片や現役施設。鹿島建設の技術が凄いのか、自然の侵食力が凄いのか。
松尾鉱山中学校は盛岡大学が生活学園の合宿施設として買収転用、1992年までは管理下に在りましたが実質的には1980年代後半でその役目は終了した事は既述の通りです。
盛岡大学も2005年にはこの生活学園関連施設を放棄、2006年に解体して現在は旧校舎と体育館が残るばかりと成りました。
1992年に無料一般開放された八幡平アスピーテラインからアクセスする観光地の観光団体が松尾鉱山跡地の安全・景観の問題を提起、車から見える場所は必要が無くても全てスノーシェードで覆われました。
しかし八幡平市民からも同様の問題提起がされている事を重く見た県は八幡平市に跡地を譲渡、八幡平市は大規模な予算を組んでこの場所を「メモリアル公園」とする事を立案。
数年後には建築開始…だった筈ですが。311の影響でこの計画も少々間延びしそうな雲行きです、松尾鉱山の緑ヶ丘アパート群廃墟…崩壊具合と相談しながらもう少し楽しめそうでは在ります。
長かった松尾鉱山のレポート、如何でしたか。「八坂」の様に前編・後編に成りそうでしたがどうにか1本に纏められました、廃墟としてだけなく、鉱山遺構としても興味深いこの場所。是非一度遠目からでも良いので見に行ってみて下さい、素晴らしい景観と人の歴史が体感出来ると思います。
本日は以上です。
2本の煙突の上でバドミントン、そんな夢を胸に秘めた間々5年もの月日が経過しちゃいましたが再びやって来ました松尾鉱山さんの追加エントリーです。
福島の原発及び津波の取材撮影を終え、気仙沼や石巻を経て東北の産業遺構を廻った今回。海外にもその廃美力を放ち続けるこの廃墟への撮影訪問、トルコ人カメラマンきっての願いでもありました。
しかしこの再訪までに個別寮は崩壊が進み、生活学園は解体され、大階段付近は相変わらずサバゲーの戦場と化し、まあ色々と酷い状況ではありました。
が。
やはりこの廃墟群は素晴らしい景観をまだ残していてくれました、生活学園を要する盛岡大学管轄と違い、松尾鉱山のアパート廃墟群は今だ金属鉱業事業団/松尾管理事務所(現・JOGMEC)が管理しているので当分は残される筈です。
と、言うのも。
松尾鉱業株式会社が倒産してから国が主導して当時の林野庁、通商産業省(現経済産業省)、自治省(現総務省)、環境庁(現環境省)で構成される「北上川水質汚濁対策各省連絡会議」を設置。その後岩手県の委託を受けたJOGMECが「旧松尾鉱山新中和処理施設」の維持管理業務を30年に亘って行い続けているからです。
つまりはこの事業が終わらない事には下手な解体事業などに予算は裂けないし企業責任を負うべき松尾鉱業株式会社は倒産している為、便宜上はJOGMECですがハコモノに関しては誰も口を挟みたくない状況なのです。
そんなJOGMECですが近年この事業の功績が認められて以下の様なニュースにも成りました。
旧松尾鉱山新中和処理施設の維持管理に対する岩手県からの感謝状贈呈http://www.jogmec.go.jp/news/release/release0445.html
さて、見所の大階段はと言うと。
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悪くない、やはり迫力あるわココ。
が、それでも色々と気に成りますよね…以前のこの場所を知っている方々は。ハコモノ自体は経年劣化といった様相で崩落や崩壊が緩やかに進行、周囲の草木はスクスクと育ちまして夏場の藪漕ぎは中々のモノでした。同行者の通訳さんは「とてもじゃないけれど一緒には…」、うん…まあそうですよね。
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特別記載する追加情報も無いけれど近年危惧されているのは県による立入規制の厳重化です、これは大きなニュースに成ったのでご存知の方も多いと思いますが、2014年には侵入者の焚火が元で火災も発生しています。
先程「JOGMEC管理の為に解体はない」と書いたけれど実はそれだけではない複雑な所有者の利権問題が問題に成っている。松尾鉱山資料館からの情報提供では、
解体の話は以前より何度も議題に上がってきた、地元行政は元より国としても処理施設の拡大化と残る廃墟の処分を行いたい旨は関連各所に通達してきた過去があるのだと言う。それでは何故解体事業が進まないのか、それは当時の所有者が見つからないからだ。
似た様なケースは「川南工業浦之崎造船所跡」でも見受けられ、国の半ば強制的な買い上げが無ければ解体は実現しなかった。この辺に関しては色々と企業や個人の事情もあり、詳しく語る事は避けよう、ただ倒産の折に所有権の是非をハッキリさせない間々現在に至った区画が存在するのは確かだ。
それらを含めて現在管理しているのがJOGMECと言う訳だ、結論から言えばこの周辺を一元化して管理すのは実は不可能で便宜上行政と企業が協力して整備保安しているに過ぎない。八幡平市への土地譲渡と「メモリアル公園」の整備はどうするんでしょうねぇ。
が、記述の火災が流れを大きく変えた事も確かだろう。地元新聞社からは「解体に関する情報は別口からも入っているので確証が取れればニュースに成るだろう」とも、この転機に産業遺構として残されるか解体されるか…詳細が判明次第追記したいと思う。
2016.08後期再訪
アプローチ
東北自動車道松尾八幡平ICを下り、県道45号線を八幡平方面へ。松尾八幡平ビジターセンターのT字路を右折して八幡平アスピーテラインへ、4キロ程走ると左側に緑ヶ丘アパート群が見えます。
地図リンク
https://goo.gl/maps/ehGuk
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0920│赤磐市立吉井中学校城南校舎
岡山県│赤磐市立吉井中学校城南校舎(白い廃校/白亜の廃校)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤磐市立吉井中学校城南校舎(白い廃校/白亜の廃校/吉井町立城南中学校/吉井町立仁美中学校/赤磐市立吉井中学校/富士興産株式会社)
仕事で九州へ行った折、帰りはゆっくりと西日本の廃墟を久し振りに巡行しようと考えていたのだけど諸事情あって急遽帰宅する事に。その僅かなタイミングで回る事が出来た数物件の内で特に期待していたのがこの通称「白亜の廃校」と呼ばれる真っ白な教室が特徴的な廃墟、随分前から知ってはいたけれど岡山県は鍾乳洞位しか来る機会が無いのでずっと来訪を先延ばしにしていたのだ。
やっとこさで来る事が叶ったこの素敵な廃校さん、情報は少ないけれど知る事が出来た歴史を軸にご紹介しようと思う。写真については色々と今更なので余り気にせずに、それではレポートを開始しましょう。
この様に概観は蔦に覆われ、校庭と思われる敷地内には草木が茂っておりまして。来訪時は夏真っ盛りの8月、普段藪漕ぎしている身としては全く何とも思わないけれど最近チャドクガの幼虫に痛い目に合わされていて少々及び腰。
正面校門を入ると左側2棟の校舎と右側1棟の教員棟に別れており、上空からは3本の建造物が見て取れる。昔の航空写真では鮮やかな赤色の屋根も現在は随分と色褪せた錆び色と言ったところ、この廃校は統合を数度繰り返してはいたが最終的には企業へ売却された。その時に若干の改築がされ、現在の「白亜」もその時の物。そう、学校現役当時は普通の木造校舎だったのです。
まあその辺も含めて少しづつ歴史を紐解いていきましょうか。
まずは一番近い教員棟から伺います。
教員棟(後の従業員詰所)は教員室、特別学習教室、事務室、教材保管庫から成り立っています。この使用形態は当初の城南中学校~吉井中学校まで変化なく運用されました。
特別学習教室、資料によると学校運用当時は教室の半分程に机や椅子が並べられいて増員時は教材保管庫から予備の机を持ってきたのだとか。これだけ広いと結構な生徒が一同に学習出来た事でしょう、当時の平均的なクラス編成からすれば1クラス45人~50人なので2クラス分は楽に収容出来た筈です。
資料では此方でも特別学習教室として運用された様ですがとても狭いですねぇ、黒板があるから教員用ではない筈だけれど…うーむ、この辺は詳しく解りませんでした。
補足だけれど教員棟は本校舎の床材が違った様でして、理由がよう解らんです。因みに50年以上昔の航空写真には教員棟の東側に校庭らしき敷地が確認出来ます、が解像度が低い上に白黒なので判別出来ず。土地運用に関する資料も敷地面積などは記載があるものの区分までは記載が無い為に此方もよう解らんでした。
校舎(後の工場部分)へ移動、左側2棟の校舎を見て初めて「白い廃校」や「白亜の廃校」の本当の意味が理解出来ます。うん、本当に真っ白やんけ。
そそ、この「廃校」って部分…実は最終的な運用目的は工場としてでした。なので廃墟の物件カテゴリーとしては「廃工場」だったりします、企業名は「富士興産株式会社」。残念ながら倒産した様で現在の企業登記名簿にこの住所と企業名が一致する項目はありませんでした、運営内容は「縫製工場」とネット上ではあるけれどこれも関連資料を見る限り業務形態などの記載が無くて確認出来ず。一体どこから「縫製工場」との情報を得たのか、地元の方も良く解らないとの話だったし…ご存知の方、是非情報をお寄せ下さい。
ああ、美しくて眼がアレしそう。
有名なこの部屋、兎に角白くて綺麗で御座います。ワタクシ、綺麗な心の人とか綺麗な物とか見ると眼がアレしそうに成るんですよ。
最近活用している360°カメラさんにもご登場頂き、この素晴らしい空間の雰囲気を幾ばくかお伝えしましょう。
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロール、モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます。
ほんま綺麗やなぁ、おっぺけぺーやで。
さて、中々と語られる事のないこの廃校の歴史。実はそんなに古くは無かった、幾つもの廃校を見ていると山岳部には実に歴史の長い廃校が今でも残っているがこの「吉井町立城南中学校」は戦後に運用が開始された学校です。
なのだけど…ちょっと校舎が古いですよね、それには理由がありまして。実はこの校舎、学校運用開始前から既に存在していたのです。これらに関しては岡山県と赤磐市から提供して頂いた資料と教育政策課(岡山県教育広報協会)の協力、それらに独自入手した資料を併せて説明していこう。
この学校、古くは現地の尋常小学校の校舎からスタートする。開校当時は戦後の資金難から独立校舎を持たない間借り中学校として運用されていた。1947年(04月01日)に中学校認可が降りるも記述の理由で仁堀村該当生徒は仁堀小学校で、布都美村該当生徒は布都美小学校で、夫々校舎の一部を借用して授業を開始します。
1946年 赤磐郡仁堀村並布都美村は村会の議決を通過
1947年 (04月01日)右両村(仁堀村及び布都美村)の組合立中学校が認可
1947年 (04月01日)岡山県赤磐郡仁堀村布都美村組合立仁堀中学校として開校
1947年 (04月28日)仁堀小学校に於て開校式
1949年 仁堀村大字仁堀西625番地へ独立の校地と校舎(木造)を新築
1949年 生徒過剰の為に元龍南青年学校の校舎の一部を移転改造し倉庫1棟を改築し授業を開始
1952年 (04月01日)校名を岡山県赤磐郡仁堀村布都美村学校組合立仁美中学校と改称
1956年 (09月30日)仁堀村・布都美村、吉井町と合併、岡山県赤磐郡吉井町立仁美中学校と改称
1969年 城南中学校と仁美中学校が統合、赤磐市立吉井中学校と改称
1971年 (03月31日)この年までの2年間は吉井中学校城南校舎、吉井中学校仁美校舎としてそれぞれ存続
1971年 (04月01日)吉井町の新しい教育の場として現在(現役校舎)の地に新校舎が完成
この様な経緯で現在の廃校舎が残る訳ですがまあ解りますよね、そう…色々とこの廃校を「城南中学校」と言えない事実があるのです。
結論から言うとこの廃校、正確には「別の土地に存在した城南中学校と現在の位置に存在した仁美中学校が統合して城南中学校は消滅、別途校地を確保して廃校側は吉井中学校城南校舎として運用し、現在も現役として残る吉井町立吉井中学校側には吉井中学校仁美校舎として2年間運用」、その吉井中学校城南校舎が現在の「白亜の廃校」と呼ばれる廃墟なのです。
解るかなぁ…つまりはこの廃校は「元城南中学校」じゃなくて「元赤磐市立吉井中学校城南校舎」なのです、現役当時の城南中学校は別の場所で運用されていました。それではこの建造物の最初はと言うと…
”1949年 生徒過剰の為に元龍南青年学校の校舎の一部を移転改造し倉庫1棟を改築し授業を開始”
沿革のここです、この元龍南青年学校の余剰敷地(古い校舎)が現在の廃校の住所である「岡山県赤磐市周匝1613(※1)」なのですよ。統廃合と行政統合の為に非常に解り辛い歴史を辿ったこの廃校、出来るならば「旧吉井中学校城南校舎」と覚えて頂ければ間違いないかと思われます。
その吉井中学校城南校舎も1971年03月31日に閉鎖(城南中学校自体は1969年に廃校)、その後地元企業の富士興産株式会社に土地と校舎が売却されます。1970年代後半までは綺麗に整備されていましたが1980年代中期には生い茂る草木が敷地内を埋め尽くしています、となれば企業として運営されたのは10年にも満たない間でして。その間に改築改装された状態(真っ白な校舎)がその間々廃墟と成って残ったのでしょう、実はまだ記載出来る歴史が幾つかあるのですが話が枝分かれし過ぎて説明が非常に難しく、また面倒でもあります。
なのでこの廃校に関する歴史はこの辺で、ただ覚えて欲しいのは物件名称が「旧吉井中学校城南校舎」か「富士興産株式会社」であると言う事と学校運用時は白くは無かった点ですね。
こう歴史を紐解くと物件も違い、整合性の取れない情報が溢れ、また白亜の廃校でもない事が解りました。廃墟好きさんはこの辺の関連史実には興味が無いと思いますがまあマメとして頭の片隅にでも。
※1:学校の統廃合に関して若干資料による住所の記載違いが散見出来ます、整合性に関しては参考程度に留めて下さい。
本日は以上です。
協力(電話取材と資料提供)
岡山県教育委員会
岡山県教育庁教育政策課
岡山県教育広報協会
岡山県赤磐市
岡山県総合教育センター
参考文献
岡山県教育史
吉井町史 第3巻 史料編 下
吉井町立吉井中学校 開校30周年記念誌
アプローチ
山陽自動車道から国道374号線を吉井川に沿って北上して赤磐市周匝周辺、中国銀行周匝支店の交差点は左折。2本目の右折路へ、浄心寺を越え数メートルで右側に廃校が姿を現します。周囲の路地が非常に狭いので道の勘違いには注意。
地図リンク
https://goo.gl/maps/UK6vho1jTR22
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0921│竜山鉱山
岡山県│竜山鉱山
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 竜山鉱山(宇都宮鉱業所/昭和鉱業/亀山鉱山/神目鉱山)
岡山県の山中に今も残る鉱山跡が良く知られている、廃墟好きの方などは随分と以前からこの鉱山跡に来訪している様でウェブ上には検索すると実に沢山のレポートが散見出来た。折角近くまで来たのだから少々覗いて行こうとやって来たのは有名物件とされる「竜山鉱山」、しかし腑に落ちないのは皆さんがレポート中に必ず注釈する「この鉱山の歴史は詳細不明」の文字。
ふむ。
現代において名称や場所が判明しており、これだけ大規模な鉱山跡の詳細が不明な道理は無い。って事で何時も通りですが色々と調査してみました、行政協力(※1)の下で聞き取り調査(※2)も行った竜山鉱山の歴史を少しづつ紐解いていきましょうか。
※1:最後尾に協力一覧にて記載してあります
※2:個別の聞き取り内容の記載は掲載しておりません
この鉱山に興味を持ったのは冒頭の通り、あちらこちらで眼にする「この鉱山の歴史は詳細不明」と言う言葉。絶対にそんな事はないのです、近代日本において産業史に名の残らない小規模な採石現場なら兎も角。それは現地に立っても同じ思いと成ります、いやだって
「これだけデカけりゃ資料は必ず残ってるだろ」
と。いや、まずは現地調査と簡単な地形の把握。そして残留物からヒントになる物をメモして机上調査に繋げるとしよう、が…。
アブ多いな、怒ちくしょう。
まずはこの竜山鉱山の簡易マップを見てもらおう、鉱山発見初期の鉱山口は流石に記録に無かったが周囲殆どの山々から採石は行っていた事が解っている。最後尾に補足説明するがこの付近には3つの鉱山が連なっており、昭和中期まではそれぞれが稼動していた様だ。
写真は稼動が既に中止している1974年(05月)の航空写真、この時点で既に色々な建造物が解体されています。鉱山の稼動中止が1961年なので13年も経過している写真と成りますが…そう、随分と綺麗ですよね。
その辺も含めてご説明していきましょう。
まずは鉱山事務所(※3)からお邪魔します、受付をしないと…です。
※3:ウェブ上で良く記載される「住宅跡」や「兼役員住宅」を便宜上表記しておりますが実際は鉱山事務所です、後の運用で住宅利用されていますが誤解が無い様に。
よく「住宅跡」などと表記される事が多いこの建物、まあ冷静に考えれば立地と内部設計を見れば解ります。居住の痕跡が見れるので住宅と思われがちですが正解は「鉱山事務所」です、鉱山閉鎖後に別会社の管理人(売却先企業の関係者)が常駐していた事から残留物が生活観に溢れ、結果住宅と勘違いされた様です。
※ 鉱山運営は関係なく、閉鎖後の在駐管理人の事です。(詳細後述)
数年前までは形を残していた2階への階段部分、現在でもアプローチの方法はあるのですが…うん、止めましょう。ちょっと危険なんですよ、現在において2階へ上がるのは。
少なくとも5年程前までは上がれた筈なんですよねぇ、資料や貴重なヒントが残される事が多い鉱山事務所。残念ながら机上調査を中心に進めていくしか無いようです、と言うか実はこの時点で行政には幾つかの協力要請をしているので結果待ちでもあった訳です。
この布団などの残留物が沢山の人に誤解を与えました、言ってしまえば「住宅」は別の場所に在ったんです。解体済みではありますがその名残としてバス停にも「住宅前」と名前が冠された場所があります。
https://goo.gl/maps/Np7afk9PAwm
ちょっと車が邪魔ですが右側に見えるバス停、これが「住宅前」です。
https://goo.gl/maps/6kvPudkhHCH2
そしてこの分岐を右側に下りていくと沢向こう右側に住宅群が在りました、そりゃそうですよ…これだけ大きな鉱山です。あんな家屋一つで賄える人員数ではありません、場所に関してはマップを参照下さい。
このバス停の東側にはマップ上の住宅群ポイントまでズラリと平屋鉱山夫の住宅群が広がっていたと資料に記載されています、松尾鉱山や田老鉱山と比較すると小規模に見えますがあれらが特殊であってこの竜山鉱山は当時で考えれば十二分に大規模な鉱山運営だったと言えます。
※ 閉山後1~2年で撤去された様です
この写真の状況、ワタクシ個人としてはとても違和感があります。元々は鉱山事務所だったこの家屋、どうしてこの様な生活観溢れる状態で残っているのでしょうか。
そして何故閉鎖後に発売されたであろうボックス型の冷蔵庫が…いや現場に残されている家電が妙に新しいのは一体どう言う事なのか、大きな疑問が残ります。
そもそもこの竜山鉱山、岡山県と旧久米郡教育会(現・久米南町教育委員会)によれば最初期の発見は1830年代で本格稼動したのは記録としては1869年から。当初は「宇都宮鉱業所」の竜山選鉱所として運用が開始され、少しづつその生産量を拡大していきます。
現在の木造廃墟群は全盛期の1935年からこの鉱山を運営した昭和鉱山(現・昭和KED)が事業拡大の為に整備した名残り、つまり現存するのは1935年~1936年辺りに建造された昭和初期(昭和10年頃)の物と成ります。
さて、そこで先程の違和感です。
その後1961年まで実質稼動するこの鉱山、30余年の経過を考慮しても残されている家電が余りにも近代的(1970年代~1980年代)過ぎます。ではこれらの家電はどの様に持ち込まれ、誰が利用していたのか。
その答えは簡単です、鉱山閉鎖後も人が居たんですね…この竜山鉱山にたった1人だけ。その管理人は山深い鉱山跡でその後20年以上を過ごす事に成ります、これらに関しても後程「年表」を交えて説明しましょう。
場所を選鉱所に変え、少々内部を見てみましょう。
選鉱所も既に崩落の末期を迎えていていつ潰れてしまうか解らない状況だ、鉱山の廃墟として廃美は極僅かで興味の矛先はどうしてもこの鉱山の歴史とその残留物の発見だ。
先程「当時で考えれば十二分に大規模な鉱山運営」と書いたけれど、うーむ。比較対象がアレらに成ると…どうしても、ねぇ。
この年代なら世界的に見てもこいつらはバケモノ過ぎる…。
この竜山鉱山は斜面にへばり付く様に建設されていて三層の平地を整備して上物が残されていた、中段階を含めると五階分の部屋が用意されていて木造建築の自由さを生かしたデザインに成っている。
あれ、何か過去に似た様な…ブッシュで斜面で…ああ、アレだ。「峰之沢鉱山住宅」、あそこは酷かった。あの鉱山住宅と立地条件が似てるなぁって、いや関連性はゼロなんですけどねぇ。
※ この選鉱所は基礎設計が古いので土台部分に石垣が使用されています
絶景ではありますが真夏に行く場所ではありません、虫注意の物件です。
2層3階中段、ここより更に1層上階(実質2階)が残る。竜山鉱山の設計図が入手出来なかったので何とも言えないけれど通常の鉱山と同様の内部構造だと解る、選鉱所に隣接する様に別棟ホッパーが幾つか残されていたり対岸にも鉱山口が今だに口を開けていたり排水溝沿いに鉱山軌道と別に運搬用トロッコレールが残されていたり…うん、こちらは実に沢山の残留物で溢れている。
これなら行政から届く資料と既に入手した関連資料(提供書籍)、それから聞き取りと合致する部分を抽出していけばかなりの歴史と運営状態が把握出来るだろう。
因みにこの様な資料も現存する。
岡山県竜山鉱山および鉱床
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I9049366-00
内部はこの様に床が抜けている箇所が多数見受けられる、本当に時間の問題だろう…旬は棟に過ぎた廃墟だが歴史的な価値は高いと思われるこの鉱山跡。
現在の所有者を含めて、少々面倒な問題も残されている(総括時に後述)。
さて、それではこれまでの現地調査での残留物や検証に値するヒント。それから少々の聞き取りと幾ばくかのネットからの情報、それに今入手できる資料や書籍を行政から提供された情報と吟味して年表と共に推察、史実を記載するとしよう。
まずは年表ですね、一般的な運用開始から少しだけ遡る事30年程。鉱山の初期発見からご説明致します。
183*年 久米南町地区に複数の鉱山が発見される
1869年 宇都宮鉱業所が管理を開始して「竜山鉱山」として運用スタート
1935年 昭和鉱業(現・昭和KED)が買収して運営が切り替わる
1948年 採石量の減少により採掘を終了、選鉱所としては継続運用
1957年 選鉱所の稼動限界を超えた為に設備を増設拡張
1961年 需要が著しく減少した為に閉山、選鉱所も休止
1962年 昭和鉱業が鉱山を売却(売却部分以外は撤退開始)
1962年 中本商事が鉱区のみを購入、管理人1人を常駐させる
1984年 管理人死去の為に鉱山事務所を閉鎖
発見から150年余、その長い歴史の中で運営やその形態が変化し続けたこの竜山鉱山。歴史的に面白いポイントはやはり1948年以降からです、と言うのも採石量が減少した為に採掘は終了したのにその後施設の増設や人員増加を行っています。
これは周辺の鉱山がまだ採石量が十分だった事を意味します、そもそもこの地区だけで「竜山鉱山」、「神目鉱山」、「亀山鉱山」と3つの鉱山が存在しており、特に竜山鉱山と神目鉱山はズリが重複する様な隣接する鉱山でした。
が、採掘される石は同地区ながら様々です。
竜山鉱山:黄銅鉱・銅
神目鉱山:カオリナイト
亀山鉱山:黄銅鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・石英
黄銅鉱 - ウィキペディア
http://goo.gl/gJs8aU
銅 - ウィキペディア
http://goo.gl/mmKTT2
カオリナイト - ウィキペディア
http://goo.gl/G9cxcK
方鉛鉱 - ウィキペディア
http://goo.gl/mGf0Nm
閃亜鉛鉱 - ウィキペディア
http://goo.gl/JgzXiw
石英 - ウィキペディア
http://goo.gl/iYNyPI
※ この地方の山間部は主に銅の産出量が多いが上記記載鉱物も比較的安定して採石されていた、今回の紹介物件の竜山鉱山は主に「銅」を採石。後に選鉱所のみの運用時は多様な鉱物を処理してた。
この様に付近の鉱山施設から委託され選鉱所を稼動させた事も予想でき、運営母体の「昭和鉱業」が竜山鉱山の他に4つの鉱山(睦合鉱山・鰐淵鉱山・大久喜鉱山・三永鉱山)を運営しており、そこからの鉱物を処理していたとの記録が残っています。
また別の提供資料には旧勝田町(現・美作市)の八幡銅山から委託を受けて産出した銅を処理していた事も記されています。これらに加え、事業拡大の為に「三井金属鉱業株式会社」から精錬を受注(委託精錬)する事に成功して元々の選鉱所の稼動限界を突破します。
しかしこれは寧ろ嬉しい悲鳴で通常末路へ一本道な採掘終了→閉山の流れを委託精錬で全盛期を超える売り上げを記録するまでにした稀有な例でもあります、この辺りが歴史的に非常に面白い異例の鉱山と言える企業努力の成功例です。
三井金属鉱業日比製煉所
http://www.mitsui-kinzoku.co.jp/company/c_kyoten/c_kyoten09/
※ 現在でも運営されています
同じ岡山県だけに受注もし易く、また地方鉱山としては規模が比較的大きかった事も寄与した要因だった様です。まさか採掘終了後に新しい鉱山夫住宅の建設や設備投資するとは、業界内でも余り聞かない事例だったと予想出来ます。
しかし1961年、とうとう竜山鉱山も終焉を迎えます。同時期、国内の鉱山業界は近代化の流れに右往左往しており、1970年代初頭には殆どの大規模鉱山が姿を消します。この鉱山も等しく、その流れに身を任せる事に成りました。
その後鉱山業とは関連性の低い「中本商事」が中央鉱区を中心に買収、その他は各々別に売却されていきます。他の関連施設が解体されて残されていないのはこの為で中本商事が購入した部分だけが現在廃墟として残っていると言う訳です。
因みに皆さんに良く知られている選鉱所の付近にはズリ山へ続く鉱山軌道が2本、火薬庫、鉱山間作業道(山中車道)が今でも残っています。
1961年の閉山後、中本商事がどのタイミングで管理人を置いたのかは定かではありませんが複数の聞き取り調査では1960年代には確実にこの鉱山事務所を住宅代わりに居住していたとの事。その後は如何なる再利用を構想したのか、しかしその構想も実現する事無く閉山後23年で管理人は亡くなります。
現在の中央鉱区は中本商事の手を離れていますが運用に関しての模索も無く、ただ荒廃が進む鉱山廃墟と成っています。今後、行政主導での解体事業は計画されておらず、あくまで現所有者の判断に任される所ですが恐らくは。
ただ危惧されるのはどの鉱山でも抱える事業後処理、鉱山廃水や流出する鉱毒を含む土壌や湧出水など。竜山鉱山にはこう言った問題が一切表面化していない、それは情報として無いだけなのか、それとも別の理由があるのか(足尾銅山の様な)。
足尾鉱毒事件 - ウィキペディア
http://goo.gl/Ams1mv
新たな山間部開発が計画されない限りこの間々なのかもしれません、中々と取り上げれる事の少ないこの竜山鉱山の歴史は如何だったでしょうか。確かに調べづらく、情報の少ない鉱山跡でした。成程、詳細不明と散見出来る筈だと納得した物件でもありましたね。
以上で竜山鉱山のレポートは終了と成ります。
簡易マップに記載した関連施設のグーグルマップリンク(ストリートビュー)を記載します、現在は何も無い所もあります。
・重機倉庫
https://goo.gl/maps/VGFWNau2Bd92
・倉庫
https://goo.gl/maps/9k6N1A9asYU2
・後期ズリ山
https://goo.gl/maps/ew5BojTUNWv
・鉱山夫連棟住宅群
https://goo.gl/maps/rjgDUJZ7PJA2
協力(電話取材と資料提供)
岡山県教育委員会
岡山県久米南町
岡山県美作市
参考文献
久米南町誌/著・久米南町誌編纂委員会
久米南町50年のあゆみ 町制施行50周年記念誌/著・久米南町誌編纂委員会
籾村風土記/著・石田農夫男
籾村よもやま話/著・石田農夫男
勝田郡公文村誌/著・石田 清
勝田町誌/著・勝田町誌編纂委員会
美作町の歴史と現在 岡山県美作町/著・岡山大学教育学部社会科教室内地域研究会
アプローチ
国道53号線から有名な上籾棚田へ至る山道を北上、県道375号線への枝道が二手に分かれるが更に細い山道を走ると間もなく右側に選鉱所跡が姿を見せます。北側からのアプローチも含めて非常に解り辛い場所にありますのでご注意下さい。
地図リンク
https://goo.gl/maps/ah6Gx7n6pZF2
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0923│梨沢 釜ノ台集落
千葉県│梨沢 釜ノ台集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 釜ノ台集落
千葉県における近年史上の廃村は存在しない、そう数多くの関連書籍で記されてきた房総半島。そうは言っても過去に、
など廃村とまで言えなくとも極少数規模の廃集落をレポートして来た。中には当ブログのレポートが切っ掛けで数十年振りの再会を果たした元住民や研究機関への現状視察同行など、嬉しい繋がりも。
そして今回は山の新人教育の場として活用している梨沢(相川)地区の南方に位置する廃集落、「釜ノ台集落」にスポットを当てたい…と思っていたのだけれど。
ここ、とーっても資料が少ない。
そうと成ればと何時もお世話に成っている富津市教育委員会さんに打診して現存する資料や聞き込み調査の協力をお願いしたのでした、流石に事前調査で殆どの歴史が解らなかったこの集落。行政さんでもこの地域の元住民さんなどの聞き込みは時間が掛かった様で回答までに3ヶ月を要したのです…が。
実は東北のある大学と個人で房総半島の製炭の歴史を調べている方、そして梨沢地区の住民からの独自聞き取りである程度の概要は私達も把握していた。昨年までは1人の住人が居た事やその住民の現状、山間部の旧作業道の存在などだ。
それらの調査結果と行政から届いた情報を元にレポートを公開する予定ではあったのだけれど…諸事情あって非公開と成りました、富津教育委員会の担当さんと聞き取り調査をした元住人さんからの要望も考慮して今回は内部資料として保存する事に。
提供情報を精査する為に江戸後期から大正時代辺りの農地造成を調べていたらちょっと面白いサイトを発見しました、これは今回に限らず房総近圏の調査に役立ちそう。
歴史的農業環境閲覧システム
http://habs.dc.affrc.go.jp/index.html
※ ここにもちょっと面白い道が描かれていてですね(未公開の為、対象非リンク)
何れ陽の目を見れる機会に恵まれましたら再度此方でアナウンス致します、付け加えますがこの廃集落は現在も畑の管理で人の手が入っております。またアクセスルートが部外者には非常に厳しい状況(崩落箇所多数+荒地)の為、行かれる事はオススメ出来ません。
歴史がとても古く、現在に至るまでの産業の移り変わりや住人の減少のプロセスは地域民俗学的にはとても面白いケースです。今後も独自に調査は続けますので何処かのタイミング、行政と元住民さんの了解を得られた時点でその内容をエントリーしたいと思います。
仮エントリーと言う事で、今回はここまでとさせて下さい。
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0924│日本弁柄工業株式会社 和気工場
岡山県│日本弁柄工業株式会社 和気工場
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 日本弁柄工業株式会社 和気工場
岡山県、特殊登山を愛する僕らにとっては魅惑の鍾乳洞が残る素敵な土地。まあその鍾乳洞に関しては何れ語るとしては今回は廃墟とその歴史についてでして、と言っても「超」が付く程の有名物件である「弁柄工場」が今回の物件だったりします。
そう、あれです。あの「紅い」工場廃墟ですね、最近レポートした「白亜の廃校」と場所も近い事から良く一緒に紹介されています。いや、紅白で大変縁起が宜しいのでは有りますが…うーむ。この物件、非常に調べるのが面倒臭ぇでした。
これだけ有名ならその歴史を辿るのは簡単かと思っていたのだけど、いやはや。白亜の廃校も相当厄介でしたがコイツは殆ど資料が無い状態で行政も把握していない状況、まあ出来るだけやってみましょうかねぇ。
それでは早速とはじめましょう、ご紹介しますは「日本弁柄工業株式会社 和気工場」です。
そもそも弁柄とは何か、そこから入ろう。
弁柄 - ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E6%9F%84
語源はインド・ベンガル地方産の紅顔料を仕入れた江戸時代の通用名称が輸入帰化した結果ベンガル→ベンガラと訛り、その後当て字された現在の「弁柄(弁殻とも表記)」に定着呼称される様に。
用途は現在でも多種多様で広く使用され、顔料としてのその歴史も世界的に古い。今回の弁柄工場は岡山県和気郡に廃墟が残るが県内では別の場所が特産地として有名、岡山県って弁柄が特産らしく観光地にも成っているのでご存知の方も多いだろう。
高梁市吹屋観光協会(公式ホームページ)
https://sites.google.com/site/fukiyakankou/home
資料としては此方が参考に成るかと。
https://www.khi.co.jp/knews/backnumber/bn_2005/pdf/news138_04.pdf
岡山県での弁柄の生産及び加工に関して掘り下げていくと全く別のレポートに成るので今回は割愛、まあ知識としてキャッシュしておいて頂ければ。なのでこの有名な廃墟「弁柄工場」は特産として和気の町を盛り上げたワケではなくて大きな弁柄企業の数ある工場の一つ、そんな感じでご理解頂けば間違いないでしょう。
時勢と企業の諸事情あって事業が細分化していき、結果大企業の子会社化(吸収合併及び事業譲渡)されてしまう運命を辿るこの工場の母体であった「日本弁柄工業株式会社」、それらを含めた歴史を少しづつ紐解きながらテキストリッチなレポートをお届けします。
弁柄の製造を中止してから16年(2016年現在)、その着色性の良さは放置された建造物を見れば納得の一言。一見錆とも思えるが間違いなく弁柄で着色されている、しかもこの毒々しい紅色が人の身体に無害だと言うから驚く(合成弁柄は別、初期の天然弁柄は完全無害)。
建造物の殆どは放棄されて何の役にも立っていない、正直なところこの古い工場が2000年まで稼動していた事に驚く。
そう、この弁柄工場は2000年の05月まで操業していたのだ。
しかも驚くのは創業が1922年のこの場所、第一次世界大戦から間もない岡山県の山中に起こした合同会社がその後世界シェア60%の企業に成長するって事でしょうか。この辺の経緯を最後の年表に集約する様に話を進めていきますよ。
今と成ってはこの工場を運営していた日本弁柄工業株式会社の沿革を辿るには非常に難しい、と言うのも2005年にこの会社は吸収合併されており、社内部署は異なる企業へ分散化して譲渡されてしまったからだ。しかもその時期がバラバラ、事業者名簿からも削除されていて正直この会社の影を掴むのにはかなり苦労した。
まあそこはアレですよ、ホラ…ね。大人のね、ええ。
※ 地元新聞社のご協力で詳細な情報を得る事が出来ました、また協力頂いた関連企業の担当者の方にも感謝です。
マップは絡めませんが現在の姿が全てではありません、時代と共に増改築したり解体したりを経て今の山間部斜面へ操業行程が並ぶ(製造工程が下方に向かう程出荷状態へ近付く)形に、現在は
・管理室
・貯水施設
・消化水タンク(消火用貯水施設)
・原料倉庫
・原材料貯蔵施設
・作業員事務所(作業員休憩室)
・場内運搬車両倉庫
・貯蔵施設
・混合待機室(保管設備室)
・分離精製施設
・調色室
・事務室(事務員休憩室)
・集塵設備室
・混合粉砕製荷設備室
・出荷待機倉庫(運搬車両倉庫)
とそれぞれ15のエリア(建造物)で区分けされて残っている、細かく説明すると20以上の施設があるけれど重複する設備に関しては割愛。
※ 創業当時の資料を元に記載しています
マメ程度で語ればこの工場(この場所)、実は創業当時は本社兼合同操業工場だったりします。その後事業は大きく躍進して別の場所に本社を建設(1995年に更に移転しますが)、会社としては最初期の製造工場と成る訳です。その後工場の数は海外のシンガポール工場を入れて4箇所を運営、バブル崩壊ギリギリまでは順調に業績と従業員を増やしていきました。
※ シンガポールの工場の所在も判明していますが現在どの様に再利用されているか不明なので記載を控えました
皮肉な事に本社を計3回移動しましたが結局最後までオリジナルで残ったのは創業時の工場と言うのもなんとも、当時バブルが弾けなければ更に工場を増やす計画もあったとか。
※ 他の社屋や工場は全て転用、または更地化されています。
※ 2000年前後、この会社のウェブサイトを製作した関係者に話を聞く事が出来ましたが最初期の操業時工場とあって会社としてもこの場所ははじまり大切な地としており、ウェブサイトにもその様な事が記載されていた様です。
そうそう、この場所は建造物が残っているのでまだ検査が入っていませんが既に解体された工場跡(現在更地)では土壌汚染の報告がされています。
岡山県環境への負荷の低減に関する条例に基づく届出状況
http://www.pref.okayama.jp/uploaded/life/455304_3128203_misc.pdf
※ 和気郡和気町塩田307(塩田工場跡)の欄が該当地です
それではこの弁柄工場の核心部に触れて見ましょうか、まずはどの様な会社だったかを。
日本弁柄工業株式会社
設立:1922年06月
資本:3億円(授権資本5億6000万円)
代表:永田長寿
事業:弁柄製造・ボンド磁石用・カード用・(焼結磁石用)ハードフェライト粉の製造
取得特許:http://tokkyoj.com/syutu/595156333.html
本社所在:岡山県久米郡柵原町吉ヶ原1045(※1)
塩田工場:岡山県和気郡和気町塩田307(※2)
和気工場:岡山県和気郡和気町矢田1099
棚原工場:岡山県久米郡美咲町吉ヶ原1089(※3)
物流倉庫:岡山県和気郡和気町矢田1004(※4)
この他にもシンガポールに加工工場を所有、ボンド異方性フェライト粉で世界の60%以上のトップシェアを誇った。また上記工場の他にも母体企業の同和鉱業の資本により本社内に品質管理課と研究開発(同和鉱業株式会社磁性材料研究所)が運営されていた。まあ資料を見る限りバブル崩壊までオリャーな企業だった様ですねぇ、その辺は年表を見ると一目瞭然なんですわ。
さあ、恐らく関係者以外全く知らない(そして興味を持つ人も殆どいない)日本弁柄工業株式会社の沿革を。これ、多分ネット上には残ってないと思うので意外と貴重かも。
1922年 和気郡佐伯町矢田において日本弁柄工業合資会社を設立
1951年 日本工業規格表示許可(許可番号401番)
1959年 希土類酸化物の製造開始(姉妹会社、日本希元素工業株式会社を設立)
1964年 塩田工場完成
1969年 日本希土類元素工業株式会社と合併、社名を日本弁柄工業株式会社と変更
1980年 物流センター完成
1983年 同和鉱業株式会社の系列企業に(※5)
1986年 研修施設「青雲寮」落成
1987年 シンガポールに日弁マグネティックス・シンガポール株式会社(NMS)設立
1989年 NMS社シンガポール工場完成・操業開始
1990年 研究開発本部棟落成
1995年 営業権を同和鉱業株式会社へ移管
1997年 研究開発部門を同和鉱業株式会社磁性材料研究所に統合
2000年 同和鉱業の弁柄事業撤退を受けて弁柄事業を戸田工業に譲渡(※6)
2000年 弁柄事業担当だった日本弁柄工業の弁柄担当従業員は戸田工業へ受容
2005年 日本弁柄工業株式会社柵原工場の操業停止(※7)
母体企業だった同和鉱業の弁柄事業撤退により日本弁柄工業の全工場は操業停止、工場だった物件は順次売却される。受け容れ先の戸田工業にとっては日本弁柄工業の顔料部門を吸収統合した形と成る、しかし日本弁柄工業が消滅した訳ではなくてあくまで主要事業だった「顔料部門」が自社操業から離れたと解釈して欲しい。
一方本社及び2つの工場と物流センターからの4つ物件は同系列企業のDOWAエフテック株式会社が購入、その後本社跡地は更地に成っておりこの企業から手を離れた模様。棚原工場と物流センターは現役で運用されているが今回の弁柄工場の廃墟である和気工場は取材先の希望で割愛する、問い合わせ先も非公開とさせて頂きたい。
※1:現在は「美咲町柵原居宅介護支援事業所」に
※2:現在この場所は更地と成っている
※3:同和鉱業母体関連事業のDOWAエフテック株式会社が同系統事業の工場を継続運用(一部解体)
※4:同和鉱業母体関連事業のDOWAエフテック株式会社が同系統事業の倉庫を継続運用
※5:同和鉱業グループに加入
※6:同和鉱業株式会社創業百年史(https://goo.gl/fnQT6P)
※7:産業新聞/同和鉱業が弁柄事業から事実上撤退(https://goo.gl/ZUfUp8)
因みに2005年の操業停止に関してはこの様な資料が出てきた。
簡易株式交換による完全子会社化に関するお知らせ
http://www.dowa.co.jp/jp/ir/pdf/news2005/release050711_kabukou.pdf
既に弁柄部門は細分化譲渡され、日本弁柄工業とは名ばかりにフェライト粉の製造を主事業としていたこの会社。母体企業が更に効率化統合を進める中で系列企業から完全子会社化、これにより企業の「個」たる意味は消滅し、企業名称を残した同和鉱業株式会社の一部と成った。
工場の歴史で言えば2000年05月で終わっているので工場内に残された事務所のカレンダーが「2000年」で止まっている事も頷ける、長い歴史を誇った弁柄企業ではあったがバブル期手前の合成顔料の台頭。そして平成大不況の煽りを受けての吸収合併に泣かされた近年、現在その流れを見る事は叶わない状況だ。
外観にばかり目が行ってしまう程インパクトの大きいこの弁柄工場、異様な紅色一色の世界は蓋を開ければ企業運営の難しさを体現した地方産業の一例だったと言う訳ですね。
現在は簡易倉庫として使用されているので建造物に関しては手付かずの間々、車庫使用されている部分(2箇所)以外は操業停止当時の姿をその間々残していると言って良いでしょう。
が、近年は無断で入る輩が多いと関係者の方は嘆いておりました。手摺や階段の破壊行為も過去にあったようでして不審者が絶えない様なら防犯カメラを設置するとも、中々個人では許可が得辛い廃墟物件。この弁柄工場も撮影が厳しい状況へ移り変わりそうな時期を迎えた様です、本日は以上と成ります。
※ 今回「画」的な興味が全く沸かなかったので山で活躍しているWGでの撮影でした、旬を過ぎた所為か人の手が入ったからなのか…写欲を掻き立てる要素は既に薄い様に感じました。
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 1001│福島県帰還困難区域① 双葉町
福島県│被災地取材 福島県帰還困難区域① 双葉町
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 福島県帰還困難区域① 双葉町
震災から5年、すっかり日常を取り戻した揺れに揺れた東日本ではありますが…しかし震源から近かった東北の被災地や二次災害(福島第一原発)では今も尚復興する事が叶わない福島など、終わりの見えない現実に直面している地域はまだまだ”今”の問題として眼前に存在しています。
特殊報道として震災当時は翌日に現地入りして取材撮影(これは本業の方で)に追われていた記憶を呼び戻します、あの時は崩壊した高速道路を警察車両や自衛隊車両と共に東北まで走り、夜が明けた現地は宛ら戦場かと思う無残な街景で非常に驚いたものでした。
世界的にも稀なこの大規模地震の被災地となった日本、今回はその二次災害(福島第一原発)に現在も悩まされている福島県に来訪、特別な許可を得て立入禁止区域(※1)を撮影した。またこの撮影に至るまでの経緯も含め、震災5年目の福島の今をお伝え出来ればと思います。
※1:警戒区域や帰還困難区域など立入禁止区域への立入には許可が必要です、今回私達は公益目的立入の許可を得て正規立入ゲートから入っています。
まずは今回の取材撮影に至るまでの経緯をお話しましょうか、この福島入りは2016年の春先に頂いた1通のメールから始まります。
そのメールの送信者はトルコ語通訳を生業とされる方でして。内容は、
「スウェーデンやトルコのメディア協力の下、トルコ人のドキュメンタリーフォトグラファーが世界中の産業遺構を撮影する国際プロジェクトを進めている。日本においては軍艦島や福島の被災地に興味を持っており、日本国内における撮影に関するオーガナイズをお願い出来ないか」
と言うもの。紆余曲折あり軍艦島や根岸競馬場(※2)、東北の鉱山跡(※3)などを絡めたプランを製作。メインに福島の取材を据え、ドライバーから宿泊施設の予約など出国までの全てをロケーションコーディネータばりに同行すると言う内容だ。通訳には元外務省勤務の非常に忙しいトルコ語通訳者が着いてくれた、日本ではニッチな需要(トルコ語通訳)な為に同行中にもバンバン仕事の依頼が携帯に入る非常に優秀な方でした。
※2:軍艦島に関しては長崎市観光推進課、根岸競馬場に関しては横浜市環境創造局施設管理部管財課の各担当者さんが親切に対応してくれました。
※3:田老鉱山や松尾鉱山など
8月後半の来日までにも実に沢山の人が協力してくれ、どうにか無事取材を終える事は出来たが兎に角色々と立入が厳しい福島。各行政の広報課や秘書課の担当者さんにも随分と便宜を図って頂いた、今回とは別件で「行ってみた」としても再訪予定なのでその時は行政同行者や現地の方の話を交えてレポートしたいと思う。
が、今回はドキュメンタリーフォトグラファーの意向を中心に行動したのでいつものレポートとは少々毛色が違うかもしれませんね。
それではプロジェクトの内容や件のフォトグラファーさんの紹介を交えながら福島での取材撮影、その模様を書き綴ると致しましょう。この福島レポートは全3回を予定、それぞれ「双葉町」・「浪江町」・「大熊町」とエリアを分けてエントリーします。
最初のエントリーは「双葉町」、余り知られていませんが津波被害がとても大きかった地域です。
掲載写真について
全3回の福島取材撮影レポート内の写真はスゴログで撮影したものです、また行政より許可を得て撮影していますが特に現在進行形で問題を抱える地域や場所、施設の写真は掲載を見送りました。各行政、出版社との取り決めもありますのでご了承下さい。
撮影箇所の地図リンクがありますが一般立入が可能な場所とそうでない場所があります、防護服などを着用して映っている箇所は特に被爆の可能性の高い地域ですので安易に来訪しようと思わない様、お願い致します。
写真説明:津波被災地域である双葉町、特に海岸沿いは大きなダメージを受けた。
今回のクライアントであるトルコ人のドキュメンタリーフォトグラファー、名前をエミン・アルタンさんと言います。本国では成功されている写真家の1人でウェブサイトから過去の作品を見る事も出来ますので興味のある方は以下より。
簡単に氏を説明すると、
トルコ国内・ギリシャ・ルーマニアでの個展開催、撮影プロジェクト「Narcissus Once Upon a Time」などにもリスト入りしている写真家でトルコ写真協会IFSAK・写真基金の運営メンバーでもあります。
現在はイスタンブールに在住、スウェーデン人写真家Anderes Petersen(※4)氏に師事。 2012年よりスウェーデン国籍の写真家ハリル・コユテュルク氏と共に、世界各国の産業廃墟をテーマにした撮影プロジェクトを開始。その流れで今回日本に来日し、私達がその滞在中のオーガナイズをしたと言う事なのです。
※4:http://www.anderspetersen.se
写真説明:周囲は田園地区だが津波の塩害で今後どの様に再利用するかなど問題は山積
海岸から300メートル程の中野(宮ノ脇・竹の花)地区、押し寄せる波に飲まれたはしたが崩壊した漂流物が殆どない(海から近過ぎた為)事と周囲が田園地域だった事で家屋自体は形を残している。
流石に道路も車が通行出来る状態には成っているが漂着した車や船の残骸が痛々しく積まれた状態が続いている、畑や田んぼは機能していない。福島第一原発から僅か4キロ、南方にはその姿を肉眼でも捉える事も出来る距離と言うのも要因の一つだろう。
写真説明:津波被害では幸運な方、もう少し内陸に位置する家などはバラバラになり流された。
幸いこの地区の方達は非難する事が出来た、が2階建ての家屋を超える津波で家全体が大きく損壊。形は残れど居住する事は出来ない、これら被災家屋の解体や土地の利権なども復興の問題点の一つ。
写真説明:大きく段差が開いたアスファルトの道路、被災地はこの様な道路が多い。
撮影箇所:https://goo.gl/maps/36CWTsYDoHN2
これでも状態は良い方、静かな海岸沿いの道路に見えるが復興関係の工事車両が絶え間なく往来している。その車両の1台に声を掛けて周囲の状態や復興状態の話を少しだけ聞く事が出来た、
「ここ2年ほどで残っていた損壊家屋の殆どを解体した、今残る行政関係の建造物も近い内に解体する。大規模な工事が開始されればこの様な道路も優先的に整備される、2020年のオリンピックまでに加速度的に再開発が進む筈」
…成程。国内においても海外からの人やメディアに対しても災害状況をビジーにしておくのはイメージ的にも悪いと、そのお陰で復興が進むなら良しとする所だけど根本的に東北や福島に至っては現住されている方の為に再開発を進めて欲しいと思うのだけれどなぁ。
まあ建前も必要ですか。
写真説明:海岸沿いの施設とその内部、グーグルマップで確認出来た関連施設は解体されていた。
撮影箇所:https://goo.gl/maps/vpQfxyfFmiy
震災直後の映像があったのでリンクします。
この街道から一本中へ入ると今回私達が走った海岸沿いの道となります、映像を見ると現在の状態でさえ随分と片付いているのだと解りますね…。
双葉町はこの様に海岸沿いを中心に大きな被害を受けており、隣接する浪江町と共に解体作業が進められています。本当は双葉町の現状を沢山ご紹介したいのですが諸事情ありまして、なので直ぐお隣の浪江町の有名な学校へお邪魔した模様をお伝えしたいと思います。
※ 住所的には本当に直ぐの場所です。
写真説明:崩落している外階段を登り詰めると眼下にはプール、その先には海が見えた。
撮影箇所:https://goo.gl/maps/PzPxcnn1zWG2
皆さんは「請戸小学校の黒板」をご存知だろうか、先程の中浜通りから少し北へ移動するとこの震災においては奇跡的な犠牲者ゼロと言う避難を成し遂げ、今も尚「震災時における避難成功例」として語られる事が多い浪江町立請戸小学校。その2階部分のある教室は運よく大規模な被害から免れた、当時捜索活動の拠点となった事で捜索関係者や避難で立ち寄った方々によって黒板に沢山のメッセージが書き込まれた。
津波被害の小学校の「黒板」のメッセージが物議を醸している
http://matome.naver.jp/odai/2143762713147112901
請戸小学校の黒板について
http://blogos.com/article/124646/
折角通りすがりなのでこの学校も見ておきたかった、エミン氏に同意を求めると興味を示したので短い時間だけれど内部を撮影させて貰う事にした(※5)。
グーグルマップの360度ビューでも周囲を一望出来る写真が確認出来た。
※5:エントリーの時点では恐らく周囲は絶賛大規模作業中です、また土壌の除染土を集積しているので近付く事はオススメしません。
写真説明:内部はこのやられよう、とてもカビ臭い。
地震発生時間は午後の授業のが終わろうかと言う14時46分、校内にはまだ沢山の生徒が残っており、当時の在校生と81人(1年生は既に下校していたので実質2年生~6年生までの77人)と教職員13人は突然の大きな揺れに驚いた筈だ。
地震から40分後に津波警報(津波情報は地震発生後10分程で学校に伝達されています)が響き渡ると避難場所に指定されている西側約2キロ先の大平山へほうほうのていで避難、職員の運転する車や徒歩、通りがっかった民間人や工事関係者のトラックなど様々なルートにも関わらず全員が避難に成功している。
校内の殆どの時計は津波到達時間と予測された15時38分で止まっていた、僅差10分が生死の明暗を分けた事に成る。
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロール、モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます。
写真説明:1階部部の崩壊は凄まじい
以下のブログエントリー内に当時を伝える新聞の記事と避難経路などの位置関係が掲載されているので参照頂きたい、立地的にも運が良かったと言えるが原発から10キロも離れておらず、しかも目の前が海と言う今回の地震ではムリゲーマップだった事は明らかだ。だからこそ「奇跡」と謳われ、その成功例として評されるのだと。
福島県浪江町の請戸小学校の津波避難成功例
http://blog.goo.ne.jp/jp280/e/13e06de298af287252766d48fbf60379
写真説明:こちらも有名な写真構図と一緒なので見覚えがある方も居る筈
福島県浪江町の請戸小、「激励の黒板」があった最後の姿
http://www.huffingtonpost.jp/takeshi-inomoto/ukedo_b_9520730.html
学校の津波対応「運が良かっただけ...」間一髪、課題残す
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/11/post_2582.html
しかし賛辞ばかりでは無い様で、危機的な現場に直面したからこそ今後の課題も多いと専門家や行政自身がこの学校の成功例を生かそうと動いている様だ。
以下、非常に資料性の高いこの学校を取材した映像です。
写真説明:卒業式を次の日に控えていた体育館
ここは何故か大量(100羽以上)のツバメが死んでおり、そして何よりそのツバメの糞が堆積していて臭かった。幕などはカビていて兎に角衛生状況が非常に悪い場所、そうそうに立ち去りました。
ここもグーグルマップの360度ビューで確認出来る、ウチでも数枚同様のカメラで撮影した。
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写真説明:請戸地区北側最後の大きな十字路付近、現在も周囲の解体作業は続いている。
撮影箇所:https://goo.gl/maps/iTZbEFMbuCT2
学校から少し北へ移動すると周囲全体を絶賛解体中の区域に入った、この一体は請戸地区で漁港を要する漁村だった場所。
周囲は消波ブロックや防波堤の残骸がゴロゴロしています、3トン~10トン位の大きさまと様々で津波と一緒に流れてくれば家屋も容易崩壊するでしょう。請戸地区の家屋の殆どが基礎を残して倒壊した事を考えるとこれだけ形が残っているのは稀と言えます。
写真説明:1階部分のみが残ったYさん宅(詳細はリンクのブログを参照)
撮影箇所:https://goo.gl/maps/qhwH2PcoHzj
取材当時も印象深かったこの家屋、地方紙媒体メディアから少しばかりの情報を手掛かりに検索すると非常に興味深いブログがヒットした。
東日本大震災・浪江町請戸の災害者応援Blog
http://blog.livedoor.jp/ukedo311/archives/2969616.html
このブログのコメント欄で度々出てくる消防団の方は後に葬儀が新聞に取り上げられる程の避難誘導活動に尽力された方だと知る、その行動力で実に沢山の方が助かったのだとか。
以下の動画リンクを参照、震災直後の付近はこの様な状態だった様だ。
写真説明:解体待ちの家屋内部を見せて頂いた、外観は残れど内部は酷い有様だった。
写真説明:坊さんがこの場所で祈る模様がテレビで放映されたのでピンと来る方も居る筈
撮影箇所:https://goo.gl/maps/3sVmHLu5XiS2
写真説明:徒歩でさえこの私道を歩くのは容易ではない、それ程草木が乱立している。
撮影箇所:https://goo.gl/maps/K4acdik7pR42
少し離れて高台を走ると以前通りの町並みを見る事が出来る、それがほんの少し坂を下って海岸に近付くと。
付近の建造物の解体が終われば基礎部分も掘り起こして土壌の除染作業が行われる、除染と言っても建造物の洗浄と土壌入替が基本。簡単な作業に思われるかもしれないが数が多く、そして何より対称区域が東北地方の海岸沿いの殆ど+福一から指定距離内の山間部に至る為まだまだ終わる気配はないのが現状です。
一時期市街地で動物が闊歩する姿や農場の動物などが話題に成りましたが流石に今は、それでも当時の映像を見るとこの災害の一面を垣間見れる気がします。
写真説明:在庫を抱えた間々の状態で残された中古車ショップの車たち
撮影箇所:https://goo.gl/maps/JZiMpRbPAr52
車関連で言えばこの写真、何処かで見た事ありませんか。
http://blog.goo.ne.jp/flyhigh_2012/e/b98f158dbe2f84b222f88a795972bb6b
この記事の冒頭の空撮写真、どの様な経緯か解らないけれど脳味噌がアレな人を中心に「人々が乗り捨てて逃げた車が、4年半の歳月を経て草に覆われていた。ここは現在でも毎時6~7マイクロシーベルトほどの放射線量が記録されている」等と紹介されたりしている。
グーグルマップではここ、ええ…私も実際に見てきましたよ(既に撤去済/2016年3月に撤去)。
https://goo.gl/maps/bHsWk3C7KGG2
乗り捨てたとか…ねぇ。ここ道路じゃないんですが、そもそも自動車整備工場が借りていた土地に不動車を置いていただけの場所。それを面白可笑しくフィクションで塗り固めて雑誌やテレビまで釣られたって言うから余りに滑稽、福島に限らず被災地のこういったデマは実に多い。
因みにこの場所、6~7マイクロシーベルトパーアワーと書かれているが大嘘。震災直後でもそんな数値は無いですし記事が書かれた2015年も現在の2016年も1マイクロシーベルトパーアワー以下です(現地計測)。
写真説明:一見綺麗だが既に5年以上稼動していない
撮影箇所:https://goo.gl/maps/Ji4x4MnkaHH2
2015年までは分断が続いた国道6号線、現在通過が可能とは成ったがそれは道路のみで道路沿いの殆どの区域は依然として帰還困難区域に指定されている場所が多い。
常磐道富岡ICから国道6号線に向かい、5年振りに福島入りして驚いたのはその徹底した封鎖状況だった。以下のストリートビューのリンクを見て頂きたい、
https://goo.gl/maps/53PQRTm3v2C2
この様に家屋から私道に至るまで国道からアクセス出来る箇所は全てゲートで封鎖されていた。震災直後はこんな対策はされていなかったので正直驚いた、行政や国がどれだけ本気でこの地域(原発付近の被災地)の危険性を把握しているのかが如実に解るだろう。
震災直後のビデオニュースドットコムさんの取材映像、最終的には100マイクロシーベルトパーアワーを超える場面で終了になるが現在は同じ場所でもそこまで上がらない。しかし危険性は一緒、その理由については次回語るとしてこの震災が如何に異常だったかを再度以下リンクから認識して欲しい。
東日本大震災 - ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
メディアで取り上げられるのは東北が殆どだけれど福島も福一だけではなく、津波被害が非常に多かった地域だ。そしてその原発事故問題で復興進まない地域としても知られる様に成った、恐らくは数十年では解決出来ない規模だと現地の住民は元より来訪した人間は誰でも思う筈だ。
さてさて、今回は双葉町とタイトルに表記していながら諸事情で隣接する浪江町や大熊町などの状況も掲載した。次回は浪江町、その山間部に焦点を当ててみたいと思う。原発から近い場所は人の往来があって活気を取り戻しつつあるのに何故か20キロも離れた山中は依然除染作業が進まず…それにはやはり理由がありました。
誤解が無い様に記載しますが重ねてお伝えしている通り、今回は以下の様な各行政から発行される許可証を取得して現地取材に同行しています。かなり面倒ですが個人でも取得は可能だと思います…が、メディア関連でもパトロール車両に何度も止められます。
総じて個人での帰還困難区域への来訪は敷居が高い段階と言えます。
覚える事も結構多く、また基本的に行政関係者が同行します。ルートは事前に提出してスクリーニング場などの予約や線量計の用意、防護服やマスクなどの準備も必要です。ゲートでは毎度身分証明と行政発行の書類、乗車名簿を提示しなければなりません、予定外ルートや時間の遅延、予定外のゲート出入りなどは現地で管轄する役所と連絡を取り始めて通行が許可されます。
いや、本当に面倒ですねぇ。
今回の双葉町に関しては以下に「一時立入」に関しての一覧があるので参考に、双葉町が公表している「双葉町内の環境放射線量率の測定結果」も是非参照下さい。
http://www.town.fukushima-futaba.lg.jp/2760.htm
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 1002│福島県帰還困難区域② 浪江町
福島県│被災地取材 福島県帰還困難区域② 浪江町
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 福島県帰還困難区域② 浪江町
前回、原発から程近い「双葉町」をレポートしました。現地では至る所で検問、バリケード、進入制限ゲートが散見。震災後5年と言う時間は実はまだまだ傷を癒すには短過ぎる、そんな現実に直面した来訪でる事をお伝えしました。
既にご存知の方もいらっしゃると思いますがこのエントリーが初めての「行ってみた」閲覧者である事も考慮して前回の冒頭部分をコピペ、何故私達が福島へ来訪したのかを知って頂ければ幸いです。
まずは今回の取材撮影に至るまでの経緯をお話しましょうか、この福島入りは2016年の春先に頂いた1通のメールから始まります。
そのメールの送信者はトルコ語通訳を生業とされる方でして。内容は、
「スウェーデンやトルコのメディア協力の下、トルコ人のドキュメンタリーフォトグラファーが世界中の産業遺構を撮影する国際プロジェクトを進めている。日本においては軍艦島や福島の被災地に興味を持っており、日本国内における撮影に関するオーガナイズをお願い出来ないか」
と言うもの。紆余曲折あり軍艦島や根岸競馬場(※2)、東北の鉱山跡(※3)などを絡めたプランを製作。メインに福島の取材を据え、ドライバーから宿泊施設の予約など出国までの全てをロケーションコーディネータばりに同行すると言う内容だ。通訳には元外務省勤務の非常に忙しいトルコ語通訳者が着いてくれた、日本ではニッチな需要(トルコ語通訳)な為に同行中にもバンバン仕事の依頼が携帯に入る非常に優秀な方でした。
※2:軍艦島に関しては長崎市観光推進課、根岸競馬場に関しては横浜市環境創造局施設管理部管財課の各担当者さんが親切に対応してくれました。
※3:田老鉱山や松尾鉱山など
8月後半の来日までにも実に沢山の人が協力してくれ、どうにか無事取材を終える事は出来たが兎に角色々と立入が厳しい福島。各行政の広報課や秘書課の担当者さんにも随分と便宜を図って頂いた、今回とは別件で「行ってみた」としても再訪予定なのでその時は行政同行者や現地の方の話を交えてレポートしたいと思う。
が、今回はドキュメンタリーフォトグラファーの意向を中心に行動したのでいつものレポートとは少々毛色が違うかもしれませんね。
それではプロジェクトの内容や件のフォトグラファーさんの紹介を交えながら福島での取材撮影、その模様を書き綴ると致しましょう。この福島レポートは全3回を予定、それぞれ「双葉町」・「浪江町」・「大熊町」とエリアを分けてエントリーします。
今回はその2回目、「浪江町」です。福島県警の方の話では
「震災後、この地域には全国から泥棒が集まった。兎に角対応に追われ、今では全国の県警関係者が集う特別な警戒地域に成っている」
と悲痛なお話も。
行政さんに関しては福島滞在期間で一番お世話に成った「浪江町」、その現状を少しでも知って頂ける様にレポートを進めたいと思います。
掲載写真について
全3回の福島取材撮影レポート内の写真はスゴログで撮影したものです、また行政より許可を得て撮影していますが特に現在進行形で問題を抱える地域や場所、施設の写真は掲載を見送りました。各行政、出版社との取り決めもありますのでご了承下さい。
撮影箇所の地図リンクがありますが一般立入が可能な場所とそうでない場所があります、防護服などを着用して映っている箇所は特に被爆の可能性の高い地域ですので安易に来訪しようと思わない様、お願い致します。
浪江町の滞在期間は2日間、その中でエミンさんとハリルさんは各々「東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)」に対する想いをファインダー越しに写し取っていました。
東日本大震災 - ウィキペディア
https://goo.gl/W955z7
東北地方太平洋沖地震
https://goo.gl/zI5Gkq
浪江町の東側(海側)は今でこそ人が往来し、復興作業員の進捗状況が如実に解る景観と成りましたがほんの少し前は悲観的な地域として知られていました。
原発事故で放棄された「浪江町」のゴーストタウン化した悲惨な現状 - NAVER
https://goo.gl/jHra6s
※ アーカイブ:https://goo.gl/mKA0ck
浪江町「見なければいけない風景」被災地ルポ - 毎日新聞
https://goo.gl/nsIW0J
※ アーカイブ:https://goo.gl/spWrk3
津波の被害に関してはどうしても海岸沿いに集中する為、当時のメディアも取材のポイントを海岸沿いに絞っていた事はどうしても否めない。
福島原発・警戒区域内ヘリ映像 浪江町(12/02/28)
しかし人為的被害に限って言えば。
その殆どは山間部である西側に集中していたと言っても過言ではない、それは窃盗行為然り、汚染被害然り…浪江町は色々な複合的被害に兎に角悩んだ地域でもありました。
近年やっとの思いで開通したライフラインである国道6号線、そこから浪江町の山間部へは国道114号線を利用する事になる。
ゲートで取材用のパスを提示して尚、車両のナンバー紹介・役所の許可証・免許証及び同乗者のパスポート・そして口頭での進入目的の伝達…それを通過しても特別警戒区域と言う事で度々ロケバンが警察車両に止められてしまう。
神経質に成らざるを得ない、そんな緊迫した場所なのだと。同乗者含めて全員がこの浪江町に対する気持ちを改めた機会でもありました、うん…福島はまだまだ課題が山積しているんだ。
写真説明:浪江町市外から20キロ弱、人の気配は全くない。
撮影箇所:https://goo.gl/F793gH
この地点は海側から山沿いに入って初めて幾つかの大規模な枝道に分岐する所で牧場や畑、民家などそれぞれの道が重要な役割を果たしている。
因みにこの周辺の分岐から一本入って走り続けると全く別の場所へ至る事に成るので道の生成として随分と古い筈だ。
写真説明:商業的な面影はあの日で止まっている
撮影箇所:https://goo.gl/RizdQu
神社も手入れされる事が無くなりました、信仰が途絶えた神社はいずれ。
写真説明:山津見神社の「やまづみ」は「大山祇」、房総半島のあの廃神社と同じ神様です。
撮影箇所:https://goo.gl/66LFH6
私達がこの区域で行動する為に行政から推奨された「防護服」と「マスク」、「ブーツカバー」に「フィールドグローブ」。この辺りは線量が低いからこの程度だけれど「空間放射線量予測」で完全な進入制限が実施されている箇所だと高額な装備で身を固める必要がある。
浪江町の放射能汚染状況
http://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/921.pdf
この帰還困難区域から住居制限区域や避難指示解除準備区域に入る場合は事前の予約したスクリーニング場で汚染濃度の検査と汚染された防護服などの廃棄などが義務付けられている、また公益目的の一時立入だとしてもその取材ルート、どの時間帯にどのエリアに居るかなど細かな詳細な取材行程を提出しなければ成らない。
因みに今回お世話に成ったスクリーニング場は主にこの2箇所、最終日には既に馴染みの顔に。
http://www.tomioka-town.jp/living/cat25/2014/11/002003.html
写真説明:多国籍でこの格好は非常に怪しい
撮影箇所:https://goo.gl/0xXD4F
随分と山間部を走ってきたけれどこの辺は人の気配と言うか、出入りが頻繁にあるのだろうなと思わせるこの日最初の場所だった。
周囲には保育園・小学校・中学校・高校と揃っている事から人口も多かった筈、子供が多かったと推測されるけれどこの学校の通学生はどうしたのだろうか。
浪江町立津島小学校 - 震災・原発事故後の学校の状況
http://www.namie-es.jp/about/#after2011
やはりそうですよね、そうなりますよね…っとここで面白い記事を見つけた。
http://inforanger.tasukeaijapan.jp/report/20140331f-4/
確かに珍しい状況だ、さて中学校は…と。
浪江町立浪江中学校オフィシャルサイト
http://namiejhs.seesaa.net/
状況云々よりも気になったのがこのサイト、ブログ…。教育機関として公式のサイトがブログなのは何か理由があるのだろうか。
福島県立浪江高等学校津島校
http://www.namie-h-tsushima.fks.ed.jp/
残念ながらウェブサイトからその状況を図り知る事は出来なかったが震災後のアナウンスがPDFでリンクされていたのでご参考までに。
http://www.namie-h-tsushima.fks.ed.jp/htdocs/?action=common_download_main&upload_id=306
写真説明:人の気配はあれど姿を見る事はない
撮影箇所:https://goo.gl/wDg8xc
ストリートビューと比較しても少しづつ崩壊進んでいるのが解る
写真説明:崩落寸前だが解体工事も間々成らない建造物が散見していた
撮影箇所:https://goo.gl/Egtkve
そして私達は核心部へ。
打ち捨てられた山村、南津島。ここは良くも悪くもこの震災の色々な面を凝縮していた、圧縮濃度の高い被害状況が印象的なこのエリアが元の姿に戻る事は当分先の事に成るだろう。
富岡街道、国道114号線からこの南津島に入る私道からして既に凄惨さが滲み出ていた。当時、本当に車が通れるのか不安に成ったほど生い茂った草木が道路を約半分までに狭めていたからだ。
写真説明:道路は地震の影響か凹凸が目立った
撮影箇所:https://goo.gl/yglzbM
既に幾つかの家屋は自然の侵食に身を委ね、細い私道はアスファルトが見えない箇所も多々あった。この一体は敷地にフェンスなどが一切されておらず、緊急性の高い避難が行われた事を如実に示唆している状況だ。
警察からは「右を見ても左を見ても泥棒だらけ、全国から集まって空き巣の見本市だった」と言わしめた一帯でもある。震災直後からの1年間、それは酷い荒らされ様だった様だ。
関係者の聞き取りでは既に家屋も残した物全てを放棄して新たしい生活を初めていて、この地域には二度と帰りたくないと話していた。それは震災と汚染除去が進まない現状と、人為的な被害(窃盗など)でこの地に嫌気がさした結果なのだと言う。
写真説明:人工物が自然に飲み込まれる瞬間を見ている気がした
撮影箇所:https://goo.gl/IqytxO
ふたば広域ライブカメラ - 津島支所付近
https://goo.gl/vGZC45
写真説明:窃盗被害は役場までに及んだ
撮影箇所:https://goo.gl/pqhEQq
この地区のある意味凄い所は震災によって道路や家屋の被害と言うより放射能汚染や窃盗被害の為に移住を迫られ、その事後処理と除染作業が上手く進められていない事に集約される。簡単な確認しかしていないけれど多くの家屋が戸締りもせずに放置していて窓が開き放しの家も在った、街中なのに野鳥やイノシシ、狸など様々な動物が往来して全く人の関与から外された世界が形成されていたのも驚いた点の一つ。
そんな事もあってかライブカメラの設置台数が多い、と言うより集中しているのもその被害の名残なのかもしれない。
情報公開も限られているので口惜しくはあるけれどとてもこれだけでは説明が終わらない、そんなエリアだった。
写真説明:直ぐそばでは倒壊した家屋も
撮影箇所:https://goo.gl/ftiO3o
因みにここから程近い場所に日本テレビの番組「鉄腕Dash」で企画運営されていた「Dash村」が在ります、現在は既に移転していますが企画段階から震災までの間はこの場所で撮影がされていました。火災事故などで住所が判明してからもずっとこの場所だったそうで、皆さんご存知かと思いますが一応。
Dash村 - グーグルマップ
https://goo.gl/oCzGuV
震災直後は上の動画の様な線量だった様で、これでは当然撮影続行は無理と移転を決めた筈です。2016年(エントリー時)の時点で帰還困難区域が続いているので運営陣は良判断だったと言えます。
最後の取材先へ向う道すがら、立派な古民家を見つけた。ストリートビューと比較するとたった2~3年でこれ程までに茂るのかと言う位緑に覆われていた、そう…一見自然が生い茂る豊かな山間部に思えるけれど実は原発付近より線量は高い。
これは地形的問題と風向きなどが関係している、現在は3~4μSv/hで安定しているが一時期は20μSv/h以上の場所も在った。
都市部より山間部の線量が多い要因は他にもあって単純に「土」の量に比例しているとの話も聞いた、余りに広大な山間部の汚染土は除染に膨大な時間が掛かる為に今だ放置状態…それがこの現状を生んでいるのだろう。
写真説明:年々線量は降下しているが…
撮影箇所:https://goo.gl/8q5VjI
ここからは同行カメラマンの意向ではなくて「行ってみた」の取材目的だったとある採石場に伺う、記憶の留めてる方もいらっしゃるかもしれないけれどこのニュースを覚えているだろうか。
染コンクリで建築福島と二本松 マンションから高線量 - Everyone says I love you !
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/25d8c4eaa7d2b5ea361631fe4da36ca0
※ 殆どのニュースソースが消失している為、記事にしている個人ブログをリンクしました。
辛うじて残っていて取扱ニュース(ブログ引用)記事
http://blogos.com/article/29537/
この場所へやっと行く事が出来た、まずは現地の様子はどうだろう。
この採石場、管理は「双葉砕石工業」と言う採石業者。当時の記憶を併せて考えると国が指示している手順に沿って行われていた工事の様だけれどその管理基準の正しい指針がどうにもあやふやだ。
どの段階で検査すべきか、また責任はどの段階の担当者が追うのか。それ以前の問題だったと、そんな大元と成る場所をこの眼で確かめたかったのだ。
写真説明:双葉砕石工業の南津島採石場入口
撮影箇所:https://goo.gl/MZ2xsZ
驚く事にこの場所の線量は付近の道路などより高い数値を示した、最高値では6μSv/hを超えていたが平均的には4μSv/h。それでも少々高いだろう、やはり鉱物や土には滞留し易いと言うのは本当の様だ。
震災から翌年、先程は少々高いと書いたけれど…いやはやとんでもない。当時はこんなモノでは無かった用でして、それにしても凄い数値です(下記リンク先の内容を参照)。
双葉砕石工業の採石場付近の放射線量 - ぽこ&けんいち通信
http://blogs.yahoo.co.jp/pocoyuko2006/54379098.html
※ 個人ブログのエントリーをリンクしています
この件に関してはニュートラルな取扱が少なく、当時の偏った情報がメディアの風に乗って流布されてしまったと言う経緯があります。心象問題もありますが一応メディアのソースも一つだけ。
汚染砕石どこに 県民不安、業界怒り「対策どうする」「風評心配」- 福島民報
https://goo.gl/P89lFS
写真説明:浪江町が公益目的での一時立入者に貸出す線量メーター
撮影箇所:https://goo.gl/maps/ewHNauHViiH2
震災後も稼動してた様だがこの問題が発覚しての前後で操業はストップ、現在はこの様な廃墟状態が続いている。しかし早々に帰還困難区域に指定された場所ゆえに規制後にどの様なプロセスを経て操業していたのかは判明しなかった、それだけが少々心残りだ。
この件に関してまとめページを発見したけれどどのURLもアーカイブ化されてない生アドレスだった為に殆どがリンク切れだった、とても残念。
東日本大震災でやらかした人まとめWiki - 双葉砕石工業
https://goo.gl/fGHSof
少しばかりの月日が経過した後、この問題に対しての調査結果(福島県災害対策本部原子力班発表)が公表された。さて、これはどう判断すれば良いのだろう…。
双葉砕石工業(株)阿武隈事業所における保管砕石の核種分析結果等について
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec_file/monitoring/etc/monitoring.saiseki120215-1.pdf
この他にも地元癒着企業と原発の問題など、この地域を舞台とした解決していない山積している諸事は尽きません。
浪江町・帰還困難区域の桜 - 津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに
https://goo.gl/wggIsn
故郷も自宅も山の幸も奪われた浪江町民の叫び - 民の声新聞
https://goo.gl/DTayA4
帰還困難区域のゲートを再び通り、避難指示解除準備区域に戻ってきた。浪江町役場の周辺だと思って頂ければ良いだろう、それでも巡回する警察車両の数は多い。
当時衝撃的な「画」で各メディアに取り上げられた浪江駅前の大通り、今では復興の兆しが見えたかの様な復旧具合ですがほんの少し…10分程離れるとまだまだ震災の傷跡は大きく残っています。
本当に時間が止まってしまった様な、ただ増え続ける草木だけがその経過を現実として認識させてくれます。国道6号線沿いはもとよりこんな街中でさえ、あちらこちらにフレコンバッグが山積みにされているのです。
除染作業で出た放射性廃棄物、行政は一時的保管の中間貯蔵施設だと繰り返し広報していますがその受け入れ先や最終処分場の目処は立っていません。つまり、これはきっと。
除染で取り除いた土壌等の管理 - 環境省
http://josen.env.go.jp/soil/index.html
理想と現実、福島のこれからはどうなるのか本当に解らない現状なのです。
写真説明:街中のアパートでさえこの状態だった
撮影箇所:https://goo.gl/ZMwkK1
大型重機が除染作業を行う眼前の民家、鬱蒼と茂った草木に飲み込まれる寸前で外国人カメラマンは言葉少なげに撮影していました。
写真説明:駅から程近い立地でも自然の力は押し寄せる
撮影箇所:https://goo.gl/BgzIVb
浪江町役場から徒歩5分程の位置、この旧町営住宅区画は周囲と少々雰囲気が違いました。こういった場所まで除染は進んでいません、メインの住宅街から近い遠いかではなくてその場所に予算を充てる価値があるかどうか。それ故に除染が進まない地域が国道から直ぐと言うロケーションでも多数残っています、これは復興に紐付く重要な問題です。
写真説明:古い町営住宅区画
撮影箇所:https://goo.gl/BeZTD2
さて、今回の福島での取材でメインだった浪江町。その姿は予想以上に厳しい問題と隣り合わせの、未だ緊張感溢れる現場でした。
環境省は除染した汚染土を3年間保管、その後減容化して更に20年~30年貯蔵した上で県外に搬出するとしています。しかしその除染期間は何年掛るのか、安全だと明言された「汚染土」はどの様に何処へ処分されるのか。安全ならば県外へ搬出する必要がないのではないか、そんな声がずっと続いています。
それもその筈、このロードマップ自体がまだ確証性の無い導の無い道だからでしょう。計画が順調に進めば福島が元の姿に戻るまで数十年だと言う説があります、しかし現実はそんな机上論を一蹴する事実ばかり…浪江町はそんな一端を様々と見せてくれた地域でした。
来年(2017年)、今回とは別口で再訪予定です。今度は原発の中へ、その時が来たらエントリーさせて頂きますね。
誤解が無い様に記載しますが重ねてお伝えしている通り、今回は以下の様な各行政から発行される許可証を取得して現地取材に同行しています。かなり面倒ですが個人でも取得は可能だと思います…が、メディア関連でもパトロール車両に何度も止められます。
総じて個人での帰還困難区域への来訪は敷居が高い段階と言えます。
覚える事も結構多く、また基本的に行政関係者が同行します。ルートは事前に提出してスクリーニング場などの予約や線量計の用意、防護服やマスクなどの準備も必要です。ゲートでは毎度身分証明と行政発行の書類、乗車名簿を提示しなければなりません、予定外ルートや時間の遅延、予定外のゲート出入りなどは現地で管轄する役所と連絡を取り始めて通行が許可されます。
しかしそれだけこの地域の安全対策に力を入れてるって事でもあります、身体への影響や防犯対策を含めて行政が弛まぬ努力をしているワケです。
前回の双葉町に引き続き震災後の福島、その5年後をレポートしていますが次回は最終回「大熊町」です。と言っても初回の双葉町同様にアチコチと飛び地取材しているので便宜上その地域をタイトルにしていますが…本日は以上です。
REPORT - 0921│梨沢 石田村の巨石群 - 前編
千葉県│梨沢 石田村の巨石群 - 前編
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 梨沢 石田村の巨石群(大字相川石田村/大字梨沢石田村/梨沢常代城址)
「何か山ん中に巨石がゴロゴロしてる奇景が房総にあるんだって」
「へぇー、巨石言うてもヒメマルカツオブシムシ位やろ」
そう、私達は甘く見ていたのです。
世相と時事に翻弄されて上へ下への右往左往、現代社会の闇をバッサリ切り捨てる事でお馴染みの「行ってみた。」ですが今回は房総半島有数の絶景地「梨沢(の山の中)」で御座います。当ブログでは度々来訪してきたので聞き覚えのある方も居るだろうと思います、ロケーションの美しさは元より周辺の地域民俗学に関するネタが尽きない懐の深さにスッカリと惚れ込んでしまった事も要因と言えるでしょうねぇ。
とは言っても流石にしゃぶり尽くしたであろうと思っていたこの梨沢、地域産業(※1)と隣接する廃村(※2)の調査を進める過程で住民から得た情報が新たな謎をよび込んだ。その後多くの関連機関に協力を仰ぐ事に成るわ、行政も把握していない事実が出てくるわで実はまだ調査が終わってなかったりします。
※1:REPORT - 0916│七ッ釜渓谷 梨沢不動滝 再訪 → 旧梨沢村の製炭業についてのレポート
※2:REPORT - 0923│梨沢 釜ノ台集落 → 周辺地域の民俗学についてレポート
その場所は「城址関連の遺物が発見された歴史ある土地」だったり、「まるで富士の樹海の様で気味が悪くて昔から地元の人間でも近付かない」だったり、「森林地帯に巨石群があると言われている」だったり色々と出てくるものの…総合的には大昔から「忌避地」として有名だった様だ。
地図からは既にその名を消されていて知る者も地元民の年配の方だけとなった謎多き山林地帯、今回は付随する言い伝えを検証しつつ「巨石群」をメインに見聞探索へ。
やや引っ張り気味のその地とは
梨沢の石田村
過去にそう呼称された房総の山にひっそりと残る土地。久々に唸る物件が我らがホームの房総半島とは嬉しい限りではありませんか、それでは今回の物件「石田村」を知るキッカケから少しづつレポートを進めていくとしましょうか。
朝6時に出発し、いつもお世話に成っている梨沢地区の寺院「妙蔵寺」さんに到着したのが8時前。このお寺の駐車場をお借りして準備を進める、住職さんともすっかり顔馴染みに成りました。当日は寺院内の剪定を行う様で高所作業車や林業関係者が既に沢山いらっしゃっていました、中にはこの梨沢出身の方も居て折角の機会なので色々と質問したり子供の頃の話を聞かせて頂いたり。
真言宗智山派 妙蔵寺
http://hasunoha.jp/temples/43350
そう、思えば2年前。梨沢の沢歩きの新しいルートを開拓する最中で発見した廃牧場、その牧場を調べる為に地域の方を接点を持った事で土地の古い歴史を知る人物として件の妙蔵寺の住職さんを紹介されたのでした。
実はその時に全くと気にもしなかった住職さんの「こっち(相川を挟んだ対岸の山を指して)にも地元じゃいわくつきの場所がある」という言葉頂いていて、メモには残したものの当時の興味は廃牧場(※3)とその後調べるつもりでいた限界集落(後の廃村)についてばかり。
※3:この廃牧場についても新たな事実を知る事が出来ました、後述します。
それから2年が経過してトビ岩(リンク参照)のついで物件として先程の廃村の調査を行い、その現地調査としてお話を聞く事に。諸事情あってその廃村についての詳細レポートは公開出来ない状態だけれど住職さんから2年振りに再び聞いた「裏の山にも昔から伝え聞く言い伝えが…」
ああ!それ聞きましたよ随分以前に、詳しく教えて下さいっ!
何度かこの梨沢に足を運ぶ度に新しい事実と深まる謎と、全国に類似する言伝えなんかを加味しながら各方面に調査の協力を仰ぐ。…が、この地に関する調査団体は幾つかあれどその殆どが製炭に関する歴史検証ばかり。
解っている事と言えば「石田村」と呼ばれていた事と忌避地としての伝承、石田村としての情報源は行政に残る幾ばくかの記録とこの地に農業体験で頻繁に研修に来る東京大学の学生(※4)。後はその学生に協力している地元の谷田皿引農地水保全会の方々だろうか。
※4:東京大学の学生による農業農村支援を目的としたサークル(東大むら塾)
うん、行政に関しては富津市教育委員会が協力してくれるだろう。地元の住民の方々にも随分と伝が出来たので妙蔵寺さん経由で聞き取りも可能だ、となれば後は東京大学さん。こりゃどうにか成りそうだ、調査日までに出来る限りの机上調査内容を携えていざ行かん。
待ってんさいよー、石田村ー。
妙蔵寺の住職さんや林業関係者さん、造園業者さんのお話を聞いていたら当初の入山予定より30分も押してしまってはいましたが貴重な情報を沢山得る事が出来たので良しとしましょう。
さて、今回謎多き山林地帯の石田村に挑むわけですが来訪時点では「石田村」と言う地名が実在するかも判明していない状態でした。地元の方達もそう呼ばれていた事を知るだけで行った事がない方、噂しか知らない方、子供の頃に入ったが大人に止められてそれ以降行かなくなった方など確証性が薄いか僅かな体験談ばかりなのだ。
どうしてだ、距離としてはほんの少しだし山の傾斜もそこまで酷くも無い。開発だってアプローチルート途中までは1960年代に田畑として運用した過去もある、それがどうだ…「忌避地」としなければならない「理由」があるのだろうか。
事前情報で得た内容を簡易的に航空写真に充て込んでみる、妙蔵寺からはほぼ東側直線状に調査対象の物件が並んでいる。この一帯の歴史を辿る過程でその存在を知った「常代城址」、これはアプローチルートに含まれているので追加調査するとして目的は房総の樹海と言われる「樹海エリア」と「巨石群」。
※ オンマウス(ロールオーバーで画像が切り替わります)
1960年代、妙蔵寺裏側の斜面を切り開いて田畑が整備されている。これは調査当日お会いした林業関係者さんの証言とも一致する、「昔、そうだね…50年位前はそこの山は農地としてよく入っていた」とお聞きしていた。
と、言ってもやはり入り乱れるピークの手前までで峰越えはした事がないと言う。地図で言う所の盆地の様な地形で「樹海エリア」とされている場所だ。
※ オンマウス(ロールオーバーで画像が切り替わります)
1970年代後半に成ると廃田廃畑となり、少しづつだが自然に帰りつつある事が解る。因みに城址北西側の平地はその後植林され、現在では自然自生植物と植林で非常に雑多な自然形成地と成ってしまった。
航空写真や地図では予想する事は非常に難しいが現地に行くとまずその元平地部分の場所で迷う事に成る、その後はピーク沿いを歩くので問題はないが樹海エリアは更に酷いものだった(地形の複雑さと地面の歩き辛さ)。まあその辺も後程説明するとしてまずは出発だ、最初の写真はその荒れた元平地を抜けたピークの登り始めから。
国土地理院の地図には点線が描かれているが通る者が殆ど居ないのだろう、道筋は薄く辿れる程度で廃道(旧作業道)に近い。写真で言えば眼前10メートル先は大きく落ち込んでいて20メートルは在るだろう高低差、言わば小規模な盆地を形成していた。これは地図には描かれていない、と言うかこの辺の地形はちょっと辺だ。
何と表現すればいいのか…兎に角「房総っぽく」ない。そしては奥に進むにつれて更に如実に感じる事に成る、何かあるなぁこの一帯は。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差10m
まずはアプローチルートの途中に残ると言う城址の調査に入る、この一帯は実は多くの城址が残っており(在ったと確認されていた物を含む)、詳細な調査を行うと富津~君津の歴史を紐解く事になりそう。今回のメインはあくまで「石田村の存在の確認と巨石群」、通りすがらの物件として興味が出るかは現地次第と言ったところ。
名称を「梨沢常代城址」と言い、散在する周辺城址と共に地域防衛の拠点のひとつとされている。ざっくりとだが周辺の築城に関する記述を見つけたので引用させて頂こう。
○ 天神山城跡
富津市海良にある。標高は100m前後の山城で、手前は湊川である。『君津郡誌』によると、文明年間の築城らしい。初めは真里谷氏が在城、後に里見氏の武将戸崎玄蕃頭勝久の居城となったという。『富津市史』では、城域に天神社があることや、近くに妙見社があることから、千葉市一族の天羽氏が築城した可能性を指摘している。
※他に、常城砦跡(関尻字常城)、東大和田城山砦跡(東大和田字堀切)、服部館跡(相川字柳糸、『富津市史』では「正木館」としている)、天羽城跡(相川字天羽城)、鳥海館跡(梨沢字小向)、君ヶ谷城跡(竹岡字二又山)、城山砦跡(金谷字大久保)、岩富城跡(亀沢字岩富山)、北上砦跡(亀沢字座房)、旗本山砦跡(相野谷字辻畑)、虚空蔵山城砦跡(障子谷字堀ノ内)、梨沢常代城跡(梨沢字常代越・相川字古屋敷)、不入斗常代城跡(不入斗字常代)があり、合計で18ヶ所確認されているが、湊川流域や佐貫、三舟山周辺に集中している。同地域が、安房里見氏と真里谷武田氏、後に北条氏による攻防の境界であったことを示しているといえよう。なお、上記の旗本山砦は、『君津市の歴史』「小糸川流域の中世城郭」では、「八幡の森」としてその写真を掲載している。「旗本山」は、「八幡の森」ともいうらしい。
引用先:君津地方歴史情報館 - 久留里歴史散歩Ⅱ
http://www.geocities.jp/marusyou03/sub7.htm
この地域には複数の城址がある事の理由がお解かり頂けるだろう、ただ私達が来訪した梨沢常代城址に関しては幾つかの説があり、周辺の歴史と現地の地形などを考慮して総合的に判断すると正確には城址ではないとの見方が大きい。
参考:千葉県内の城館主氏名
http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/futtusi.htm
富津の城に関する資料サイトにも記載が。
http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/futtusi.htm
ふさの国文化財ナビゲーションにおいても「富津市梨沢」×「梨沢常代城址」で検索をすると関連資料を閲覧する事が可能だ。
http://wwwp.pref.chiba.lg.jp/pbbunkazai/index.html
跡名:梨沢常代城跡
読み:ナシザワトコシロ
所在:富津市梨沢字常代越・相川字古屋敷
種別:城館跡
時代:中近世
立地:丘陵・山林
遺構:曲輪・腰曲輪・土橋・櫓台・井戸
作図:日本史学者(城郭研究)- 村田修三
参考として見て欲しい。山間部の城址で曲輪が現存する例として上の図解の様な区画分けが見て取れるのだけれどこの梨沢常代城周辺には何も…いや、見つけられないだけなのか。
次回探索時には是非この遺構も発見したいところだ。
手前が城址側で左側は盆地で落込んでおり、前方はピークが続く。周辺は帯状の小規模丘陵がある為、この地形を利用して築城したと思われるが石垣などは全く残ってはいない。恐らく岩上に見張り小屋の様な簡易建造物が在った位だろうが出土品が城址のそれであり、正確な判断が出来ない状況が続いている。
また妙蔵寺に付随する有名なやぐら群「相川石見堂と窟堂」は富津市指定史跡として詳細な調査が過去に行われている、これらのやぐら群とこの梨沢常代城が深い関係に在ったと思われる為に城址ではないが別の重要な信仰対象としての建造物が在ったとの見解も有る様だ。
この城址に関しては帰宅後に興味が沸いたので追加調査の対象として別途そのレポートをご紹介しようと思う、現段階では既述の内容が限界だった。午前中には巨石群での資料用動画撮影を終えたかったので先を急ぐ、また改めて足を留める機会をつくりましょう。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差20m
現在地:https://goo.gl/dHdS2x
起伏が激しい為に短い距離でも結構疲労が蓄積する、うーんおいちゃん疲れたなぁ。
さて、後はルート的にピーク沿いを通って部分的に緩やかな等高線部分から盆地内部(樹海エリア)へ入れれば御の字だ。しかし11月(来訪時)だと言うのに房総の山々は緑が多い、常緑種が多い事と温暖な気候がそうさせているとは思うけれど流石に最近は寒いんだけどなぁ。
っと、この辺で今回の調査目的をリストしておこう(城址関係は除外)。
① 房総に富士の樹海の様な景観は存在するのか
② 巨石群は存在するのか
③ 石田村と言う地域は本当に存在したのか(その場所は何処か)
④ 忌避地とされる理由は現地で発見出来るか
これらに加えて地元の造園業者さんと林業関係者さんから妙蔵寺で情報提供された、
昔からの言い伝え①
石田村には悪さをする子供や若者を閉じ込めた「穴」があり、その穴がある岩には「南無妙法蓮華経(※5)」と刻まれている。一度その穴に落とされると二度と出て来れない。
昔からの言い伝え②
石田村には金谷へ抜ける穴が開いていて猟師の犬が入り込んだ事があった、その後金谷方面の海近くの横穴から出てきた。
昔からの言い伝え③
誰も住んでいない(相川・梨沢地区の住人は知らない)のに昔から「村」があると聞いていた、山仕事の人間も気味が悪いと言って誰も近付かなかった(数世代に渡ってそう言い聞かせられてきた)。
などの昔話に出てきそうなエピソードも調査対象とした、特に「穴」に関しては全国に類似する伝承が残っていてそれぞれ信仰的意味を持っている事も多い。山岳信仰に関する忌避地は今でも国内に沢山あってその様な意味がこの場所にも在るならば「いわれ」の物的証拠も掴みたいところだ。
以降、これらの謎解きに軸を置いて話を進めていく。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差10m
現在地:https://goo.gl/THi52V
ピークを登り詰めると右側が随分と開けた、GPSをヘッドアップで表示させると東側だ。部分的に眼下を確認出来る絶壁が見えてはいたがここは人が3人位並ぶ事が出来る眺望ポイントの様だ、ロープを垂らそうとも思ったけれどこれからの行程が不明だし先を急ごうか。
暫くピーク沿いを下ると行く手左側(GPS上で北側)に緩やかな斜面が姿を現した、ずっと急斜面か岩場だったのでここから樹海エリアに入る事にする。元々等高線の流れでアタリを付けていた地点とも合致するし往路の確保も容易に見える、何よりこの地点で気に成る景観的変化も目に入っていた。
「ちょいちょい岩が散見してる」
うん、ちょっと異質だ。房総半島でこんな風景は見た事ないぞ、しかも結構な大きさの岩がアチコチに見える。こりゃ「巨石群」っての本当に在るのかもですなー。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差10m
現在地:https://goo.gl/XHn0NM
あ、来たかもコレ。
ああ、これ変だわ。確かに巨石がゴロゴロしてる、しかも斜面や平地に関わらず形も様々で統一感が全く無い。うん、やっぱりオカシイ。
上から転がってきたとも思えない、隆起している方向もバラバラだし…かと言って人が運んだ様にも見えない。写真じゃ解り辛いけれど現地はそうとう不思議な景観を見せてくれていた。
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位置補足:誤差10m
現在地:https://goo.gl/xj4yKr
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しかしまだ樹海エリアに入ったばかりなのにこの有様か…こりゃ期待出来そうな雰囲気じゃねぇですか、まずは周辺を探索して地形などの把握に努めると致しましょう。
っと、一つは検証出来たな。
① 房総に富士の樹海の様な景観は存在するのか
「後編」最後尾に掲載した動画を是非見て欲しいけれど確かに樹海っぽい(重要)場所は在った、房総とは思えない入り組んだ地形と雑多に自生した樹木や植物。うん、これは樹海っぽいわ。ただ竹が、ねぇ…竹って自然界でもかなり繁殖強者なんだけれど結構侵食して来てるんですよね、この辺。その所為で恐らくは確かに「樹海」であったのでしょう、しかし現在に置いてはちょっとだけその雰囲気は削がれたのかもしれません。
巨石群に関してはまだ何とも、確かに密集して巨石がゴロゴロしてますが「群」とまで言えないんだよなぁ…これで終わりじゃないですよね?石田村さん。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差20m(時々圏外表示)
現在地:https://goo.gl/Vbeuc2
更に進むと岩と岩の間にクラックホールの様な竪穴を見つけた、これってば穴と言うより岩と岩の隙間かな。残念ながらそこそこの深さを感じさせたものの見える範囲は3メートル位、その先はどうにも窺い知れず…人が入り込むには少々狭過ぎる様だ。
※ それぞれの岩が結構大きく、洞窟や穴で無い事は判断出来るがたまたまクラックホールの下方に自然の穴が存在する可能性も考慮。今後の課題としてひとつひとつ確認して行こうと考えています、しかし残念ながら地質や周囲環境で判断する限りこの場所に洞窟的な穴は存在しないと…いえ、個人的な見解なんですけどね。
うーむ、しかしこの周辺は学術的に考えてもどうも腑に落ちない。
詳細は控える(面倒)けれど資料は添付しておこう、以下PDFを時間が有れば参考程度に見て欲しい。簡単に要約するとこの辺の岩質が過去の房総半島の地質調査を合致しないって事、ただ下記の資料はこの場所からやや離れた場所なのでご留意を。
地域地質研究報告 - 那古地域の地質
https://www.gsj.jp/data/50KGM/PDF/GSJ_MAP_G050_08094_1990_D.pdf
こちらも併せて見て頂けたらと思う。
地質学会 - 千葉県房総半島にみられる特定の凝灰岩単層のみを石材として利用した石蔵
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosocabst/2015/0/2015_375/_pdf
凝灰岩層で知られるこの地域の地層だが隆起(若しくは何か別の理由で落下してきた)している岩は明らかに隣接地域の岩質と異なる。「名草の巨石群」と言う有名な天然記念物が在るのだけれどそれに近い、地層地質的には関連性は無いけれどどうも他から落下(転落)して来た様に見えない事で個人的には地層に隠れていた岩が隆起した結果じゃないかと思えて仕方が無い。
いや、そもそも新しく落下(転落)したと思われる石や岩が見当たらない。眼前の巨岩の殆どは苔生す間この状況を維持している訳でして、うん…多分「元々存在した」巨石群なんだろうな、ここは。
そしていよいよ核心部へ、結論…在りましたよ本当の「巨石群」。いや、ね。ここは凄く凄いですよ、確かに「群」でしたよ、ええ。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差20m(時々圏外表示)
現在地:https://goo.gl/e7iCSU
イイトコロ切りで前半終了、資料を外部から引っ張って来ても引っ掛かりましたアメブロのテキスト24キロバイト規制。って事で後半は以下よりどうぞ。
※ エントリーは2日間に分けて行っております、後半は明日(161230/2000)に更新致します。
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 0922│梨沢 石田村の巨石群 - 後編
千葉県│梨沢 石田村の巨石群 - 後編
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 梨沢 石田村の巨石群(大字相川石田村/大字梨沢石田村/梨沢常代城址)
訓読みの「訓」は音読みなんですよ、こんばんわ「行ってみた」のお時間です。昨日に引き続き今回の素敵物件「石田村」に関するレポートの後半エントリーです。
大きな物から小さな物まで働く力と闇の力が交差する時、その強大な敵の前では人類は塵に等しい存在だったかは解りませんが大晦日イブですよ。前半は以下よりどうぞ、それでは後編スタートです、荒ぶる心は過積載ディゼェルウ(白煙)。
ちょっとこれは異常だぞ。
先程の岩の群れをすっかりと「巨石群」と勘違いしていた、いやね…こりゃ凄いですわ、本当に本当の「巨石群」が確かに在りました。
大小様々な岩が確かに群れておられます。
いやホントにちょっと房総っぽくないぞ、久し振りに千葉県の底力を見た様な気がする。こんな衝撃は「本村川源流帯」以来だろうか。
※ 房総半島ナンバーワンの奇形絶景、そして素晴らしい秘境感。
何よりデカイ、そうなんです。岩が本当にデカイんですよ、この辺。エル・ヒガンテ兄貴でも恐らく持ち上げるのが無理って岩が小石レベルでゴロゴロ、こりゃあバーガ293で薙ぎ払う他あるまいて。
② 巨石群は存在するのか
房総の巨石群、ヒメマルカツオブシムシにあらずぅぅううわああっ。(存在しました)
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差20m(時々圏外表示)
現在地:https://goo.gl/RzBzuC
リコーのシータアップロードサイトへ移動(ブランク)します、PCからならマウスのジェスチャーコントロール、モバイルの方も同様ですがVR系アプリがインストールされている場合はジャイロが良い働きをしてくれます。
今回「樹海エリア」に余り焦点を当ててませんがこのエリア、隅々まで歩くと色々と発見があります。勿論「巨石群」はインパクトがあるし樹海っぽさを十二分に感じさせる「密集群生樹木」としての美しさも実感出来た。
しかしですね、恐らく。
この「石田村」と目されるこの場所、その魅力の根源は「樹海」でも「巨石群」でも無いのだ。ここには人が住める環境を想像させない自然の深さを感じるが目にするヒントがどうにもね、
「人臭い」
んですよ、ええ。まあこれも次回来訪の課題でもあるのだけれど…兎に角、もし「石田村」が公式に存在したならば。そこには「村」としての意味が必ずあった筈、ビンビンに感じるんだよなぁ…ここが村で在ったんだ、と。
※ 解説フェーズで説明
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差10m
現在地:https://goo.gl/ggUJip
成程、”房総の樹海”とは上手く表現したものだ。確かに四方八方がこの様な景観で埋め尽くされている。まあ本物の樹海に関しては少々感じ方と言うか雰囲気が違うのだけれど、それでもこれだけ鬱蒼としてるのは房総の山々を歩いていても見掛けない光景である事は確かだ。
岩のそれぞれが確かに大きくて「巨石」と人目で解る物から一枚岩か判断し辛い「超でっけぇ岩」など、小さくても3メートル級~って感じで10メートル級もチラホラ。
さてさて、無線でやり取りしながら随分と離れてしまった今回の相棒U田川君にコールする。
「何か穴的で伝承的なアレとか見つけた?」
「竹薮が凄いですね」
「竹薮凄いよね、こっちもホント厄介な程の竹薮。で、何か」
「ええ、そうですね…竹薮が凄いです」
そう、竹薮が凄くてもうね。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:圏外
位置補足:圏外
現在地:https://goo.gl/fSEki0
竹薮ぅぅうう(ツルハシ+!?)
立派なトサカはインパルスのエキゾーストノートと共に、しかしここは”B”突堤に非ず…もうやめて、これ以上は進めないよ。
冗談でなくて本当に少し進むだけでも結構な時間を浪費させられる、これは調査の時間の無駄遣いだ。よって詳細な調査は次回に持ち越すとして現状効率良く歩く事が出来る範囲で宿題を進める事にしよう。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:圏外
位置補足:圏外
現在地:https://goo.gl/oupm3b
人が入れそうな岩の隙間やクラックホールを探す、この岩は周辺では一番大きいと思われる外周20メートル程の巨石。その下方に隙間が在ったので確認はしたものの…うん、ただの埋没。
こんな類似する環境が本当に多くて、なのに穴や洞窟なんて見つからない。いや、山やってる人間なら本当は気付いてもおかしくないのだけれどね…この石田村と呼ばれる地形環境でまず洞窟は在りえないんだよねぇ。
洞窟 - ウィキペディア
https://goo.gl/omDJo3
「生成作用による分類」を見て頂ければお解かり頂けると思う、その殆どがこの場所の地質と合致しない生成条件なのだ。唯一、発見当初に予測したクラックホールが「集積作用」にあたる。
集積作用
巨岩塊が積み重なった隙間がつくる擬似洞窟
が、集積作用による生成条件が整った場合は閉塞・埋没と言った小規模な洞窟しか存在しない。ましては語り継がれる様な
昔からの言い伝え①
石田村には悪さをする子供や若者を閉じ込めた「穴」があり、その穴がある岩には「南無妙法蓮華経」と刻まれている。一度その穴に落とされると二度と出て来れない。
昔からの言い伝え②
石田村には金谷へ抜ける穴が開いていて猟師の犬が入り込んだ事があった、その後金谷方面の海近くの横穴から出てきた。
昔からの言い伝え③
誰も住んでいない(相川・梨沢地区の住人は知らない)のに昔から「村」があると聞いていた、山仕事の人間も気味が悪いと言って誰も近付かなかった(数世代に渡ってそう言い聞かせられてきた)。
の様な穴は可能性がゼロなのだ、でなければとうに発見されて調査もされている事だろう。国内で未発見、若しくは公式な確認がされていない洞窟や鍾乳洞は特殊な環境を覗きほぼ記録が残っている物だった(信仰対象や地域沿革など)し開発が進めばその過程で発見された事もあっただろう。
地質や岩質、そして歴史がこの場所には大規模な穴は無いと理論的に告げている。勿論探してはみましたよ、でも結論としては
危険な場所に子供を近付けさせない大人の知恵、そこから時間が経過して真偽不明な言い伝えが残り続けてしまった。故に大人も半信半疑ながらその言い伝えを信用して付近には出入りしなかった…
これが古い伝承と「忌避地」としての真実だったのではないでしょうか。
④ 忌避地とされる理由は現地で発見出来るか
確証は全く無しの個人的見解だけれど状況がそうだと、伝承に繋がる証拠は無いけれど伝承内容と幾ばくか類似する環境が実際に存在しただけに現在(伝え聞く内容)に至ったのではないかと。
ただ「昔からの言い伝え③」の「誰も住んでいないのに”村”」とはどういう事なのだろうか、これも子供を怖がらせるブラフの一つだったのだろうか。これは検証目的としてあげた「③ 石田村と言う地域は本当に存在したのか(その場所は何処か)」と共に机上調査を織り交ぜて詳しく解読していくとしよう。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:||||||||||
位置補足:誤差10m
現在地:https://goo.gl/fo7ko3
確かにバーチカルな穴は見つけましたよ、でもコレだもの。長辺30センチ、深さ1メートル未満じゃ大人はもとより子供だって入れない。
迷い易い、起伏が激しく転落事故などを起こしたら自力で帰路につけない、ピーク沿いに至っては即死級の高低差。山に慣れていない大人なら十分に危険とされる条件が揃っている、ならばやはり子供同様に大人が伝承を信じてしまった事は致し方ないのだと言えるだろう。
[ GPSの感度の位置補足の精度を記載しています ]
電波感度:圏外
位置補足:圏外
現在地:https://goo.gl/Ii7JyN
実はこの時、無線でお互い連絡を取りながらほぼ同時に別々の場所で「ある物」を発見していた。凡そ人が定住する様な場所でない事は探索当初から気付いていたので「村」とされた別の証拠を探していたのだ。
そしてここは距離は離れていても「梨沢」だったのだ、ならばその可能性は予見出来た筈だったのだけれど伝承や「樹海」・「巨石群」などの魅力溢れる言葉に盲目に成っていたのかもしれない。
人工的に同じ様なサイズにカットされた黒い物体、梨沢遡行中に発見した「アレ」と同じ物だ。そう、「製炭産業の形跡」だ。
向こうは捨て炭ばかりだったが此方は商品だったのか随分と形が良い、そして部分的に集まって残っている。
成程。
豊富な岩場、それに伴うクラックホール、密集する樹木…これは製炭に適した環境と言えるのではないか。記録には残っていないこの場所での製炭産業の形跡、昔から忌避地とされた本当の理由、定住者が居ない「村」と言う記号。
見えて来た、うっすらと見えて来たんじゃないか。
離れた場所でもU田川君が発見していた。
次回来訪時にはマップ上に捨て炭の発見場所をマーキングしようと思う、勿論「窯」が発見出来れば言う事はない。一先ず現地で得る事が出来た情報と机上調査の内容を刷り合せる事が先決だと判断、少し早めの撤収を決めた。
その後、僕らはいつも通りに「ばんや」へ行く。疲れた身体を新鮮な魚介類が癒してくれる山と海の架け橋と言えよう。
漁協直営食堂
http://www.banya-grp.jp
「このオススメのタコ旨いですね」
「そうか、これはタコ…つまりお墨付きって事か」
\\ꐕ ꐕ ꐕ//
「こっちのイカも旨いでぐぇぇえ=3」
「そうか、これはイカ…つまりお墨tゲップしてんじゃねぇ」
⁽⁽₍₍ꐕ ⁽⁽₍₍ꐕ ⁽⁽₍₍ꐕ
検証と解説 - 石田村は実在したのか
これまでの現地検証での結果をまとめよう。
① 房総に富士の樹海の様な景観は存在するのか
確かに存在した、それも結構本格的な景観を見せてくれる程に。
② 巨石群は存在するのか
これまた存在した、しかも地質学的に色々な謎を残しつつ。
④ 忌避地とされる理由は現地で発見出来るか+各昔からの言い伝え
危険な地形や状況を考慮して推測、リスク回避の為に忌避地とされ…たのかもしれないけれど幾つか検証しなければ成らない事実を発見。
そして最後に、
③ 石田村と言う地域は本当に存在したのか(その場所は何処か)
である。それでは③と④を平行して解説して行く事にしよう。
当初我々は石田村と言う地名は存在はせずに地元の方が昔から便宜上根付けたローカル呼称の一つだと考えていた、しかも樹海エリアの中の巨石群のエリアをそう呼んだのだと思い込んでいた。
これは単純に石田村の「石」と巨石群の「石」を並列に考えた実に安直な考えだった。
恐らくはこんな感じだと、なのでそんな自作推測マップを元に現地を探索していたのだ。しかし行政にお願いしていたこの地の資料提供が私達の考えが大幅に違っていた事を明らかにしたのでした、何ともお恥ずかしい。
見て欲しい、これが行政が把握してる「石田村」の地域区画分けの図だ。ん…、おいおい。って事は、だ。
石田村って正式にあるって事?
ええ、在りました。現在の富津市梨沢の山間部に確かに石田村は存在しました、1971年3月10日に製図(市町村合併前)の土地法典には上記マップの大字大字相川及び大字梨沢(※5)それぞれの箇所に載っており、存在した事は確かな様です。
※5:大字大字相川石田村と大字梨沢石田村
これは隣接する様に石田村が2つ在った事をしまします、ならば地元の住民は一体どちらを指して「石田村」と呼称したのでしょうか。
これも推測ですが恐らくは梨沢石田村を「石田村」と呼称していたのではないか、と。その後住民の方へ確認を取りましたが「2つの石田村が在った」事をしる人は1人もおらず、総じて巨石群の辺りを石田村と呼んでいたとおっしゃっていました。
しかし、何故隣通しで同じ地名を付けたのかなぁ。
当初は左側をベースに現地を探索、しかし実際には右側の様な区画分けがされていました。偶然にもその探索エリアの殆どが
石田村じゃない
ってのがまた、ねぇ。
ああ、因みにこれ以上古い記録は提供されていないのだけれどこの2つの石田村…元々は1つの石田村だった可能性(別途取材にて)が出てきました。これも今後の課題(宿題)とさせて下さい、現在も調査中(※6)なのですよ。
※6:石田村の名称の由来、これにも巨石群が関係している様でして。
これでやっとこ片付きましたね、最後の
③ 石田村と言う地域は本当に存在したのか(その場所は何処か)
石田村はちゃーんと在りました。
うん…記録が残ってて良かった。
しかも驚く事に行政からの回答にはこの様な一文があった。
「また、課税用の資料等でも両大字において石田村という地名が使われており、石田村という地名は今でも”存在する”と言えるかと思います。」
なんですぅえってぇえ?
「人臭い」、私達は現地でそう感じていた。人が住んでないのに、だ。しかし確実に人が入っていた証拠「捨て炭」なども発見している、課税用の資料として「石田村」の地名が使われている…これは。
公式記録として残っているのは沢沿いの製炭産業だ、この石田村には製炭の記録はない。伝承で隔離された忌避地としての本当の理由…。
ここで製炭集落に関する資料をリンクしよう。
製炭集落の諸類型(1962) - 国立情報学研究所
https://goo.gl/fo3JDL
※ 類似資料として「わが国における製炭時期の諸型式の分布 (1956) 」
この資料では戦後まとめられた製炭集落に関するレポートが記載されている、この資料を読むとですね…うん。年代的にも形態的にも、石田村ってば”そう”だった可能性がある訳ですよ。
確証が持てないけれどどうしても予想しちゃうよねぇ、何かアレ的な。なのでもう少し調査を進めます。富津市役所にも直接乗り込んで色々と聞いてきますよ、そして多方面に協力をお願いした結果も次回にまとめようと思っています。
行政から提供された簡易的な石田村の区分け、梨沢については緑色・相川は紫色で着色されている。って、あれ?
ちょっと待ってくれ
常代越は地名的にその間々の由来で解りやすい、「常代」を越えた地なので「常代越」なのだと解る。気に成ったのは2つの石田村に挟まれた場所に記載されている
「大穴」
あれ、もしかしてこの辺にあるの?この辺に行けば「穴」あるですか?なんかその辺も歩いた気がするけれどもう一度挑戦しなくちゃ駄目ですか、そうですか。
あー、もう。
ここ面白過ぎ、新人研修してた梨沢大滝から程近いこんな場所で住民の記憶も行政の記録も定かではない…だけれど現場の状況が何かを語ろうとしている、そんな物件に出会えるなんてなぁ。
兎に角だ、不確定要素をリストして潰していこう。その過程で解る事実もある筈だ、答えの直ぐそこまでは近付いている気がするんだよねぇ。
解った事もあった、解らなかった事もあった、何より新しい謎も出てきてしまった。これらをやっつける為にこの「梨沢」と言う地を根本から調べ直す必要性も感じた今回のエントリー、中途経過としてのレポートに成りましたが房総半島の魅力の一端を感じて頂けたら幸いです。
次回、私達は更なる発見をします。
協力(資料提供と聞取見聞)
富津市教育委員会
真言宗智山派 妙蔵寺
※ 他、梨沢地区及び相川地区にお住まいの協力者の皆様
アプローチ
エントリーを参照して下さい。
地図リンク
エントリーを参照して下さい。
写真撮影:6Frogs Design Works
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REPORT - 1003│福島県帰還困難区域③ 大熊町
福島の被災地取材最後は大熊町、と言っても見るべき所が余り無かったので広範囲(別の地区)に足を伸ばしてしまったので撮影地はアチラコチラと飛んでいますがご勘弁を。前回までのエントリーは以下よりどうぞ。
既にご存知の方もいらっしゃると思いますがこのエントリーが初めての「行ってみた」閲覧者である事も考慮して前回の冒頭部分をコピペ、何故私達が福島へ来訪したのかを知って頂ければ幸いです。
まずは今回の取材撮影に至るまでの経緯をお話しましょうか、この福島入りは2016年の春先に頂いた1通のメールから始まります。
そのメールの送信者はトルコ語通訳を生業とされる方でして。内容は、
「スウェーデンやトルコのメディア協力の下、トルコ人のドキュメンタリーフォトグラファーが世界中の産業遺構を撮影する国際プロジェクトを進めている。日本においては軍艦島や福島の被災地に興味を持っており、日本国内における撮影に関するオーガナイズをお願い出来ないか」
と言うもの。紆余曲折あり軍艦島や根岸競馬場(※1)、東北の鉱山跡(※2)などを絡めたプランを製作。メインに福島の取材を据え、ドライバーから宿泊施設の予約など出国までの全てをロケーションコーディネータばりに同行すると言う内容だ。通訳には元外務省勤務の非常に忙しいトルコ語通訳者が着いてくれた、日本ではニッチな需要(トルコ語通訳)な為に同行中にもバンバン仕事の依頼が携帯に入る非常に優秀な方でした。
※1:軍艦島に関しては長崎市観光推進課、根岸競馬場に関しては横浜市環境創造局施設管理部管財課の各担当者さんが親切に対応してくれました。
※2:田老鉱山や松尾鉱山など
8月後半の来日までにも実に沢山の人が協力してくれ、どうにか無事取材を終える事は出来たが兎に角色々と立入が厳しい福島。各行政の広報課や秘書課の担当者さんにも随分と便宜を図って頂いた、今回とは別件で「行ってみた」としても再訪予定なのでその時は行政同行者や現地の方の話を交えてレポートしたいと思う。
が、今回はドキュメンタリーフォトグラファーの意向を中心に行動したのでいつものレポートとは少々毛色が違うかもしれませんね。
それではプロジェクトの内容や件のフォトグラファーさんの紹介を交えながら福島での取材撮影、その模様を書き綴ると致しましょう。この福島レポートは全3回を予定、それぞれ「双葉町」・「浪江町」・「大熊町」とエリアを分けてエントリーします。
大熊町は震災後に印象深い写真によって風評被害を被った地域でもありました、その問題も取り上げながら最後の福島レポートを進めたいと思います。
掲載写真について
全3回の福島取材撮影レポート内の写真はスゴログで撮影したものです、また行政より許可を得て撮影していますが特に現在進行形で問題を抱える地域や場所、施設の写真は掲載を見送りました。各行政、出版社との取り決めもありますのでご了承下さい。
撮影箇所の地図リンクがありますが一般立入が可能な場所とそうでない場所があります、防護服などを着用して映っている箇所は特に被爆の可能性の高い地域ですので安易に来訪しようと思わない様、お願い致します。
フレコンバッグの山が見慣れた福島滞在4日目、最終日は大熊町の予定だった。が、行政の方と話した結果撮影コンセプトと合致する場所は更に特別な許可が必要との事で今回は諦める事に。現在の通行許可証で入れる地域と現地で気に成る場所を無作為に撮影していくスタイルへ変更した、なので撮影場所を記載したグーグルマップのリンクは必ずしも大熊町では無い事を予めご了承願いたい。
それではこの福島レポート最後のエントリーを始めよう。
帰還困難区域の道路は何処も彼処も草茫々、走れるだけまだ幸運な方だ。クライアントからこの日はどうしても見たい場所があると指定されていたので途中気に成った場所に立ち寄りながら希望の物件へ向かう事にした。
閉鎖された工場と隣接するビニールハウス農業地、どちらも広大な敷地だったが勿論人の姿は無い。因みにこの時点までGPSロガーをオンにするのをスッカリと忘れており、場所のリンクが記載出来ない事をお詫びする。
さて、そろそろお目当ての場所の付近。
ここだ、うーん…解り辛いだろうか。それならば。
https://goo.gl/maps/ZdiWoqmoe5r
これならどうだろう、この場所…写真で見た事がないだろうか。
https://goo.gl/714CDV
https://goo.gl/kZf8It
https://goo.gl/IokNXu
実はここ、冒頭で記載した問題の場所でもある。
この様な感じでこの場所を取り上げたブログやメディアのソースが一時期溢れた事があった、その大元は「デイズジャパン」の記事。
http://www.j-cast.com/2016/02/02257343.html
嘘がバレて直ぐに訂正文を掲載するもこれまた嘘を掲載。
https://www.facebook.com/daysjapan.net/posts/1017124921660027
デイズジャパンはわざと解り辛く”「人々が乗り捨てて逃げた車」とあるのは誤りで、正しくは「投棄された車」でした。”と訂正したがこれでは結局「原発事故で投棄した」と誤解を招く表現を敢えてしている様にも思える、その後も批判は集中したが現在においてこれ以上の訂正は行われていない。
グーグルアースで過去の航空写真を確認すると2004年までは何もないけれどハッキリ映し出される(廃車が並ぶ)のは2009年、因みに地震前の2011年3月に撮影された震災直前の写真にもシッカリとこの車たちが映し出されている。
元々は車のリサイクル業者のストックヤード的な使用で置かれていた場所、これを想像でバックストーリーをでっち上げてまで”印象操作”するのは一体何処の誰で何を意味するのだろう。
http://www.minyu-net.com/news/sinsai/michishirube/FM20160207-048190.php
別メディアなどでも幾つか後日談を取り上げているけれど結局再取材などの約束は果たされていない。そんなこの場所の現状を確かめに行きましたが、ええ。
撤去されてました。
ものの見事にキレイさっぱりと、誤解された間々の方達やウェブメディアに疎い方達への対処としては有効な措置かと思われます。私達が来訪したのは2016年の8月でしたがどうやらその2ヶ月前の6月頃に作業が行われた様です、ドローン飛ばして類似の写真を撮りたかったのですが残念。
取材班は地元の温泉組合の方をアドバイザーに迎え、何処か取材場所として適した場所はないかを伺うと「放棄された窯元の小さな町が在るからそこはどうか」と提案され向かう事に。
社の無い鳥居(※3)が迎えてくれた窯元集落、帰還困難区域の為に現在も無人の場所だ。この一体は相馬焼きで有名で全国にもリピーターが数多く居る有名な窯元が集う地域。
http://www.town.namie.fukushima.jp/soshiki/7/334.html
※3:その後斜面上部に社を確認しましたが神社の名称は不明な間々でした。
写真説明:緑に覆われた鳥居
撮影箇所:https://goo.gl/xZkLz0
警察車両がやけに多く巡回している地域で少々緊張したが震災後に陶器の窃盗が頻発して特に警戒しているのだとか、建物の中を首を伸ばして覗き込むと未だに製作中の物や売り物だった陶器が残されていた。
写真説明:この窯元は幸運にも別の地で営業を再開する事が出来た様だ
撮影箇所:https://goo.gl/ASCfPs
南相馬のホテルへ帰る途中に海岸沿いを走ると解体されていない崩落建造物が眼に入った、この手の建造物は直ぐに解体されるのだけれど何故残っているのだろう…車を停めてみて見る事にしよう。
特別変わった施設では無いだろうと思うけれど…工事関係者に伺ったが建造物の用途は不明との事、因みに近い内に解体される様だ。
写真説明:海岸沿いの建造物の殆どは解体されている
撮影箇所:https://goo.gl/wtdTkh
ロガーの不調で撮影場所が解らない写真も数枚。
福島第一原発は双葉町と大熊町に挟まれる様に位置している為、今回の大熊町も震災時には実に高い線量を記録した。今回取材した「双葉町」・「浪江町」・「大熊町」はそれぞれが数ある理由と立地条件によって大きな被害を余儀なくされた地域だ。
それは現場に立つ事でペーパーメディアやウェブでの情報以上に色々な事を教えてくれます、例えばですが。
この様な動画が大げさなのか、本当なのか、表現は適切なのか、線量計を映さない事に意味はあるのか、公開時期が2012年にしては内容と閲覧数が不自然ではないかなど疑問が出て来るのは当然だと言えます。それが事実なのかどうか、それを確かめる為には報道される内容を元に現地で実際に体験するしか方法はないでしょう。
今回の取材でこんな基本的な事を改めて気付かせて頂いたトルコとスエーデンのカメラマンさんには本当に感謝です、日本人なのに福島(や東北)の震災時と現状をもう忘れ掛けているのですから。
最後に大熊町でのニュースでずっと気に成っていた事がありました、同行取材が決まってから知って経過が語られて無かった行方不明者のお話なのですが。
こんな事もあるのだと、そう思いながらも。未だ発見される事のない行方不明者が数多く居る事も忘れてはいけない事実なのでしょう。
東日本大震災における死者・行方不明者の推移
https://goo.gl/nQLat1
東日本大震災における死者・行方不明者数及びその率
https://goo.gl/gbiqr3
氏名の推測ができない(身元不明)犠牲者の方々
https://goo.gl/egmHCj
福島での滞在を終えて私達は東北へ、震災の爪痕をより色濃く残す地域で写欲が掻き立てられたのかクライアントの強い要望もあって追加で東北の鉱山施設跡の撮影も行う事に。東北の鉱山跡と言えば「田老鉱山」・「松尾鉱山」・「尾去沢鉱山」の3箇所、スケジュール的問題もあって立ち寄ったのは田老と松尾でした。
海外の産業遺構を数多く見てきたトルコ人カメラマンのエミン氏、その彼をもってしてもこれ等の廃墟と化した鉱山跡は非常に興味深く映った様でした。
福島から移動して最初の産業遺構は田老鉱山、クライアントもこの日本が誇る美しき廃墟には満足した様子で撮影を終えた。その日のスケジュールで時間的な余裕が少々あったのでちょっと変わった奇景があるので行ってみないかと提案、場所は程近い浄土ヶ浜だ。
宮古観光文化交流協会の計らいで時間外の「宮古市公園内道路車両通行許可証」を発行して貰い、夕暮れの浄土ヶ浜へロケ車で横付けする事が出来た。更に「トルコ人とスエーデン人が鯨が食べたいと暴れている」と伝えると缶詰を出してくれ、しかも良く合う日本酒や地ビールも提示してくれた。
主任の○田さん、どうもすみません。
写真説明:夕暮れの浄土ヶ浜
撮影箇所:https://goo.gl/HQHcEz
※ 震災後、別途で来訪した時はレストハウスは無残に破壊されて道路は凸凹でしたが数年振りに来訪した浄土ヶ浜は観光化整備が進み、見事に復興していました。
浄土ヶ浜からその日の宿泊地だった花巻市に向う道すがら、記憶に残る風景があった。遠野の山々は本当に美しいのだけれど思わず車を止めた場所、それが新田牧場だ。
新田牧場はその景観が美しいだけではなくて歴史も長く、そしてその奥地にあたる長者森には「長者森金山」が在った事で地域産業史もおいてもその重要性は高い。
ネット上にその情報は多く無いけれど興味がある方は是非調べてみてほしい。
新田牧場を後にして立丸峠を下り、遠野市街地へ車を走らせているとこれまた素晴らしい景観に出くわした。地元では話題に全く成らない様だけどこの直線は結構凄いと思いますよ、いや…北海道の国道12号直線に比べれば微々たるものではありますが。
写真説明:国道340号線の直線区間
撮影箇所:https://goo.gl/U0AkX9
日本の滞在期間最後の撮影対象物件は「松尾鉱山」、この松尾も随分と久し振りに来た。「荒廃した撮影対象物には深い曇空が合う」とは氏の言葉、成程…どうにか晴天に成らないかと気を揉んだが要らぬ心配だった様だ。
写真説明:松尾鉱山で撮影中のエミン氏
撮影箇所:https://goo.gl/RBUaif
今回の仕事で学んだ一番の重要点、それは共通言語は「英語」じゃないとちょっとしたコミュニケーションもとても大変だという事でした。
スケジュール管理でも運転でも取材交渉でもなくて、そう…やっぱり言葉なんですよ。トルコ語難しいんです。
いや、ホントにね。
誤解が無い様に記載しますが重ねてお伝えしている通り、今回は以下の様な各行政から発行される許可証を取得して現地取材に同行しています。かなり面倒ですが個人でも取得は可能だと思います…が、メディア関連でもパトロール車両に何度も止められます。
総じて個人での帰還困難区域への来訪は敷居が高い段階と言えます。
覚える事も結構多く、また基本的に行政関係者が同行します。ルートは事前に提出してスクリーニング場などの予約や線量計の用意、防護服やマスクなどの準備も必要です。ゲートでは毎度身分証明と行政発行の書類、乗車名簿を提示しなければなりません、予定外ルートや時間の遅延、予定外のゲート出入りなどは現地で管轄する役所と連絡を取り始めて通行が許可されます。
しかしそれだけこの地域の安全対策に力を入れてるって事でもあります、身体への影響や防犯対策を含めて行政が弛まぬ努力をしているワケです。
震災後の福島、その5年後をレポートしました。今回ウチはあくまでオーガナイズの為の脇役でその片手間で撮影した写真を中心にまとめはしましたが…いや、何とも情報不足は否めませんです。今年(2017年)に再度来訪を予定していますが次回は少々趣が異なる内容に成ると予想されます、それでは本日はこれにて。