SCENERY - 165 │ ライブイベントの撮影
SCENERY - 166 │ LRB 小岩バンド ライブ撮影
PR: 気になるニュースにコメントつけて簡単投稿、共有しよう
PR: 966戸の間取りから、空住戸を検索!
REPORT - 049 │ 塩谷町立熊の木小学校西高原分校
栃木県│熊の木小学校西高原分校
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 塩谷町立熊の木小学校西高原分校
2012.12.23 - 関係者から当時のお話お聞きしました、最後尾に追記。
夏場って意外と廃墟の写真が撮り辛い、何せブッシュが酷くて目的地に辿り着けない場合も在るし建物が緑に覆われて撮影する対照として魅力が隠されてしまう事も。廃墟と緑って綺麗なのだけど余りに自然の侵食を受けてしまうと勿体無い事に、まあそれに夏場はヒルやヘビ、その他の虫にも攻撃されるし大変なのです。
そんなのはビッグなお世話だ、と言う屈強な廃カーさんの写真はそれはそれは綺麗なのですけども。
さて、以前ご紹介した廃校を覚えているだろうか。
同じ栃木県内で場所もそれ程遠くないからセットで行くのもアリかと、場所は後の地図リンクでどうぞ。
時、既にお寿司。来るのが遅過ぎた、覆われてるよモッサリと。それでも間近で見られた感動は大きい、この廃校は廃校さんでさえ余り有名では無いらしく、ウェブ上の廃墟仲間でも2人ほどしか知る者がいなかった。また廃校に成ったのが1975年と近隣地区では結構時間が経過していて覚えている方も少なくなった事も起因しているのかもしれない。
行程側から正面を撮影、駄目だコレ。石垣に植樹された植木達に阻まれて折角の校舎が写せない、それでも雰囲気でだけでもと思って色々な角度から撮影はした。
この場所、そもそも見つけるのが面倒な立地条件。現在は不定期で地元公民館として使用もされているらしいのだけど肝心の地元の方もどの様に運営されていてしかも使用されているのか殆ど知らない始末、本当に現在も使われているのだろうか。
窓などは施錠されていて勿論正面口にもシッカリと鍵は掛かっていた。
これが一番この校舎を広く写せた写真だった、ガラスの割れも無くて管理はされていそう。
帰宅後にこの学校の歴史を調べてみたのだけど情報が少なくて記載できる事が無いのが残念、廃校後に統合された小学校でさえ2000年を前にして廃校していた。
裏手に回るとトイレの別舎、給仕関係の物置と倉庫が在った。緑の侵食が目立ったけど此方も管理されているのかも知れない、特に人的破損が在る様には見えなかった。
水は通ってないから使用はされて無いのだろうな。
最後に校庭と遊具を撮影、校庭内は茂っちゃってヒルのパラダイスでした。アチコチでうねうね、にょろにょろ。
遊具は錆が進んで自然に帰ろうとしておりました、んでも綺麗だなぁ。この廃校、なんで注目されないんだろう…綺麗だし人的被害も受けてないしかなりの良物件の筈なのだけど。
もし来る事が在ればゆっくり見て欲しい、一見狭い様に見えるけどこの学校の敷地自体は実は広い。樹や土地の形状に騙され易いけど校庭は全部で3つ程、関連建造物は5舎以上在る。是非時間に余裕を持って訪れて欲しい、因みにココに向かう途中の私道は完全な個人所有の土地内に在ります。またこの廃校の先には一般住宅と畑が在って人も居ますので不審者と思われない様にご注意下さいませ。
2012.12.23 - 追記 運用当時の関係者さんからお話をお聞きしました。
当ブログの中では比較的簡素なレポートだったこのエントリー、見返してみれば成る程…全くとこの廃校の歴史などを掲載していなかった。と、言うのも掲載当時は別件の大型物件のエントリーが目白押しだった事やこの廃校自体に然程の興味が無かった事なども影響していた。
そんなイージーレポートでもテキストリッチがお好みな読者さんから是非この廃校の詳細が知りたいと問い合わせを貰う事数件、それならと久し振りに調査内容を掘り起こしてみた。以外と掲載していない内容も含めて新たに各方面に協力を求めると何ともタイミング良く素晴らしいお話を聞く事が出来た。
この分校が運用当時に地域ボランティアで遊具などを設置した関係者からのお話だ、数十年前なので記憶も曖昧らしいが貴重な内容のお話を聞けたので追加掲載したいと思う。今回も行政の担当さんと地域ボランティアのNPO代表さんに色々とご協力頂けたのは幸いでした、地域復興の企画などでこの廃校が使用される時はカメラマンとしてお呼び頂けるとの事、お仕事まで頂いてなんとも嬉しいばかり。
それでは追加エントリーを少々ながら記載したいと思う。
まずはこの「熊の木小学校西高原分校」の歴史を辿ろう。正式名称を「塩谷町立熊ノ木小学校 西高原分校」と言う、正しい表記は「熊ノ木」なのね。
1889年に「玉生村」、「船生村」、「大宮村」が成立、それまでは別称で集落単位の呼称だった様だ。1957年に上記3村が合併して「塩谷村」と成る。戦後の人口増加と都市部復興の人員が周辺地域に増加した事により1965年の町制施行と共に「塩谷町」と改称、以降1985年までは人口の増加もしくは極小さな増減で水位する。当然子供の比率も増え、既に開校していた「塩谷町立熊ノ木小学校」から分校として山中に小学校を設立する事に。ここから僅かながら山村教育を育んだ「塩谷村立熊ノ木小学校西高原分校」の歴史が始まります。
1957年 塩谷村立熊ノ木小学校西高原分校 開校
1965年 町制施行により「塩谷町立」へ改称
1975年 地域の子供の人口比率が低下した事で塩谷町立熊ノ木小学校へ統合(分校は廃校)
1999年 人口減少に伴い塩谷町立玉生小学校へ統合(熊ノ木小学校は廃校)
たった4行の歴史、しかも分校としては18年間しか運用されなかった訳だ。当時は本校の塩谷町立熊ノ木小学校から教師が1人赴任し、校舎手前の小さな教員宿舎に居住して職務に当たっていたそうだ。試行錯誤した上でこの過疎化した山中少人数教育が残した功績は大きい、実はこの学校が廃校されてもなお卒業生や関係者が協力して地元のNPO団体として活動されている。
特定非営利活動法人塩谷町旧熊ノ木小学校管理組合
http://kumanoki.or.jp/index.htm
現在は「星ふる学校・くまの木」と名打って地域ボランティアと中心とした多くの企画、活動を行われている。地域の歴史に関してもより深く知る切っ掛けとして地域の住民でなくても参加してみるのも面白いだろう。
さて、別のルートからこの分校が運用されていた当時に地域ボランティアとして遊具の設置や夜間宿泊学校(別地域の学校生徒を招いて校内に宿泊して相互意見の取り入れや文化交流などが行われていた)などの活動に参加されていた方にお話を聞く事が出来た。
当時は既に子供が減少傾向に在って山中での少人数教育に関しては行政、教師は元より生徒自身が一番「人が少ない」事を実感していた。少しでも子供達の楽しみの一つに成ればと行程の遊具増設を手伝ったり廃タイヤなどを活用してタイヤ飛びを作ったり、夏季には林間学校の様な宿泊学習も行って他地域の子供と交流も行った。
先生は数年おきに本校(熊ノ木小学校)から派遣されていて生活の道具や周辺の説明なども地域住民が率先して協力していた、一緒に食事をしたり時には授業の手伝いをする事も在った。廃校してから一部の教師や生徒と交流が在ったが今は流石に40年近く経過しているので誰も解らない、地域のボランティア(呼称が無かったのですが恐らく「塩谷町旧熊ノ木小学校管理組合」だと思います)さんが今でも関係者とお付き合いが在るそうで。
当時の話ならそちらの方面の方が詳しく聞けると思う。
本当に有難う御座いました、大変貴重なお話でした。実はこの地域には別にも類似するNPO団体さんが活動されています、何れ双方のNPO団体の聞き取りを纏めて追加エントリー出来ればと考えております。
短い内容ですが今回は以上です。
アプローチ
県道63号沿いに進入路が在りますが本当に見つけ辛いです、もしナビが在れば塩谷町内で「高原公民館」で検索して出れば楽でしょう。地図リンクを参考に見つけて下さい、説明し辛い場所なんです、ホント。
photograph - nee
GIRLS │ photograph - 043
PR: 今ならもれなく2000円相当プレゼント!
GIRLS │ photograph - 044
CAT │ photograph - 074
PR: 気になるニュースにコメントつけて簡単投稿、共有しよう
CAT │ photograph - 075
REPORT - 073 │ 旧房総自然博物館 - 廃屋(台倉集落)
千葉県 │ 旧房総自然博物館 - 廃屋(台倉集落)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 旧房総自然博物館 - 廃屋(台倉集落)
2012.12.29 - この廃村に関する詳細を当時を知る方に教えて頂きました
丁度2年前(偶然にも日にちまで同じ)にエントリーしたこの台倉集落、廃村に至る経緯から房総自然博物館設立。そしてどの様な方達が手掛けて来たのかなど貴重な情報を提供して頂きました、一応机上調査は修了ですが今後も情報提供が予想されるので判明次第追加エントリーをしていきます。今回の追加情報は最後尾に、是非お読み下さい。
毎度お得意の房総半島、秘境っぽい所や無名の滝、廃集落跡などをちょいちょい行くのだけど土地柄か気候か…大規模な物はどうしても見付からない。廃道と隧道に関しては房総はパラダイスでその手の方面からは大いに好評な地域なのだけどやっぱり廃墟撮りたいなぁって思ってしまう。
本来沢屋なのだけど沢歩きの途中に自然では出来難い枝(獣道や農林作業要路)っぽいのを見付けると浮気して入ってみる事もしばしば在る訳で。
沢屋の本領を発揮すべく挑戦した房総の廃屋と廃道レポートを2回に渡ってお伝えしたい、まあ分ける程でも無いのだけどジャンルが違うので別途レポートとした。
まずは最初の物件、現在では廃屋化してますが現役の施設…と言っておきましょう。施設名は「房総自然博物館」、比較的近年の物件だけど歴史もそこそこと在って面白そうだったのでアタックの計画を以前から立てていた。他の物件を探索する予定と合わせ、やっとこさで撮影に挑む事に。登山と沢歩きが大好きなのに薮漕ぎが大嫌いでヘルニアが年々悪化する重い身体にムチを打ち、いざ参らん。
実を言うとここ自体が目的では無いのですよ。この物件自体は廃墟を撮り始めた頃に山歩き系のサイトで知り、撮ってみたいなぁとは思って居たのですがその後大型物件に心を奪われてからスッカリ忘却の彼方へ、脳の老化はまっこと恐ろしい事よ。
さて、その後の経緯ですが。
知り合いの林道ライダーさんからたまたま今回の物件の近くを通る林道の件でご一緒した時の会話で、
「廃墟とか写真撮ってたよねぇ?」
「ああ、撮りますね」
「この近くに廃屋って言うのかな、ずっと使われてない施設跡が在るよ」
「ほう、興味深いですな」
「行っとく?」
「ええ、是非行きましょう。直ぐ行きましょう」
「行かねぇよ、面倒くせぇ」
「ちょっと表出ようか」
既に表なのはスルー、山奥で激しい殴り合いをした後に帰宅しても気成っていたのでちょいと調べてみた。調べた結果、暴行罪で立件出来る様なので相手に早速電話。
「例の廃屋行きませんか?」
「霊の廃屋?おっかねぇよ、それよりラーメンでも食いに…」
※ 結局この林道ライダーさんとは行きませんでした。クソが。
そこから計画を立てる過程で面白い事実を知る。
どうやらこの施設から廃道に成った道が数キロ離れた集落まで延びていると言う事、既に地図からは抹消されている事、何人かが挑戦してまだ道が見付かって居ない事など…これは面白そうだ。
廃屋と廃道、一度にペロっと呑み込んでやんよ。
しかし、僕の脳は老化していて1ヶ月も経つとスッカリとこの物件の事を忘れていた。まっこと恐ろしい事よ。
既にレポートしたこのエントリー、
開墾場の滝
http://ameblo.jp/6blogs/entry-10726847809.html
この物件の別ルートを探している時に物語りは再び始まった、たまたま航空写真でウロウロしている時だった。
んんー?なんか居るな。
確実になんか居るなココ、なんだろコレ。ってかココまでの道あるのかなぁ。
うむ、コレは廃屋臭ぇ。匂うぜ、こりゃいつもの国土地図サービスで確認だ。
ビンゴー、3棟の建造物が確認出来た。ってあれ?この場所って確か…
ここで脳内MMX133がようやくカリカリと動き出す、不良セクタだらけの脳に鞭打って記憶を洗い出す。そうだ、この場所ってあの時の話で出て来た所じゃないですかー。
そこからは早かった、場所とルートが解れば廃屋の正体や現在の所有者なんかは数分で判明する。どうやらNPO法人の物らしい、調べてみた。
房総自然博物館
名称:特定非営利活動法人房総自然博物館
所轄:千葉県
所在:富津市宇藤原316番地
代表:直井洋司
目的:千葉県房総地域でサルの生態調査
※ 現在の住所は今回の物件とは違います、旧施設が今回の物件で新しくNPO法人登録する時に事務所が移動し、上記の住所に成りました。
元々は別の施設(後程詳細を説明)だったのだけど現在はこの団体が地域の自然との共存を模索し広く理解してもらう為に用意した施設の様だ、2004年にNPO法人の認可を受け、2005年頃まではウェブやテレビでの活動も在ったのだけど現在は休止中の様だ。
兎に角現地に行ってみたい、廃屋の事前調査は後々でも可能なので一度現地に行って廃道の調査をしたい気持ちが大きかった。
それでは前置きが長く成りましたがレポートのスタートです、房総半島ってやっぱり面白いですわ。
どうやらココが入り口の様だ、ここから更に深まる謎解きが始まる。このレポートを書いている時点ではまだ全てを調べ切れていないので今後も追跡調査する事に成るのだけどちょっと複雑な経緯が在りそうだ。(写真・ohwashi)
山中を歩き始めると人の交通道路としては脆弱だけど山屋さんにはとても楽な道が延びていた、一定区間毎に電柱(傾いていたり倒れていたり折れていたり)が。電線は既に切断されていて切っただけの物がアチコチに放置されている。(写真・ohwashi)
何度か川を越える、ずっと昔には橋が掛けられていた痕跡も在る。(写真・ohwashi)
歩いている途中で何度も川廻しの雰囲気を感じていたのだけど決定的な人口水路を見つけた、川廻しには農業用、牧場用、生活用水用と色々と種類が在るのだけどこの規模だと生活用水用かなぁ。(写真・ohwashi)
次第に道が川から離れていく、持ってきた等高線が描かれた地図を見る。道は房総半島にしては荒れて行く、持病のヘルニアが「引き返せ」と警鐘を鳴らし始めた。
こんな事なら風呂の中でコイた屁の気泡を数えていた方が良かったのか。(写真・ohwashi)
等高線を見ていて嫌な気配は感じていた、川沿いに旧道が書かれているのだけど途中から川から離れて山中に伸びていた。しかも等高線が丘陵を登る形だ、そしていざその場所に着くとヌカヌカの九十九折、普通のブーツで着ちゃったよ。ここまで酷いなら登山用履いてくれば良かった、足元泥だらけ。
で。
どうにか着きましたよ、廃屋の裏手に出た様だ。(写真・ohwashi)
脇に人の轍が在るので通ると竹薮のトンネルに成っていた、左手に航空写真で見た廃屋が見えた。(写真・ohwashi)
この建物は房総自然博物館、福岡出身の直井洋司さんと言う方が房総の山中であるこの台倉に個人的に発足、建造物は活動ベースとして利用していた様だ。サルと人と環境を考える場を提供する為に旧家屋を借りて1970年代~1980年代半ば迄この場所で活動していた。
元々は3軒の旧家が存在した小さな集落、現在は2軒の廃屋と物置小屋2軒(内一軒は風呂とトイレの名残アリ)。
1970年代までは半住居として集落の人が居た様だ、その後房総自然博物館として先の方が借り上げて研究と調査のベースに。1980年代には自然体験などのイベントの場としても使用され、簡易宿泊施設としても機能した。
1980年代中盤から一山越えた宇藤原へベースを移して活動を継続、それが2004年にNPO団体として認可されて現在に到るのだけど最近は大きなイベントも無い様だ(1998年位までは頻繁に人の出入りが在った事が卓上調査で判明)。(写真・ohwashi)
付近には畑の跡や井戸、墓地などが点在している。今回山中に入る為に平田側からの道を歩いたのだけど途中途中の電柱から引かれた電線は既に切断されている。
その代り関東ふれあいの道から新しい電柱が何本か設置されて電線も屋中に延びている、通電はして無い様だが廃屋の玄関口で面白い物を発見した。(写真・ohwashi)
東京電力の領収証だ、この発見から卓上調査の限界が顕著に成ってくる。実はこの廃屋の元々の居住者姓は「河野」と言うのだが1970年代には先の説明通り房総自然博物館の代表である直井洋司さんが借りていた。
宇藤原にそのベースを移ったのが1980年代中期、調べた結果どうやら1984年から1986年の間に移動した様だ。
しかし。
(写真・ohwashi)
領収証には「コウノ***」と在る、何故に元々の集落の居住者の名前で請求書が届いているのか。しかも一番新しい請求書は2010年08月の物…
???
契約者は直井洋司さんじゃないの?そもそもベースが移ってから約30年間ずっと?そして東電の職員さんは毎月この場所まで歩いて領収証を届けに来ているの?
少なくとも1年間程の領収書が挟まれていた事からこの期間に関係者が訪れては居ない、中の様子を見て2007年に関係者が沢山来た事は解ったのだけど。
もう一つ、この場所には現在も住所が振られている。どうやらこの場所は…
千葉県君津市西日笠477
と言う場所。あれれ?事前に調べた住所は「千葉県君津市平田***」なのだけど違うのか…解らない事が沢山出て来た。(写真・ohwashi)
柱に打たれた旧電話認識プレートには「西日笠」と在る、旧住所の清和村の頃の物だけどこの当時は「台倉」じゃないの…?
幾つもの疑問が、これは追跡調査で自己納得の為に是非解き明かしたい。(写真・ohwashi)
物置小屋です、中には畑仕事に必要な道具や機械が朽ち錆びていました。(写真・ohwashi)
中の様子はこんな感じ。(写真・ohwashi)
手前左側は風呂付の納屋、こちらも中は道具で一杯だったけどしっかりと部屋として作られて痕跡が。(写真・ohwashi)
中は物置に成ってるけど離れ的な使われ方でもされたのかなぁ。(写真・ohwashi)
先程の場所から30メートル程離れた所に立派な廃屋が在った、此方も随分と朽ちていたけど屋内は30年以上の時を隔てても生活感が感じ取れた。
そして更に謎が生まれる事に成る。
実は当初この集落まで歩いた道(平田~台倉)は生活道路ではなくて作業用道路として集落発生以降随分と経過してから作られたと事前調査で結論付けていた。
つまりはこの後に探索する「旧廃道・台倉~宇藤原間の旧台倉宇藤原道」が植畑からの道以外でこの集落に達する唯一の初期道路だと思っていた、しかし探索後に宇藤原の住民(78歳のおばあちゃん)から聞いた話とは一致しない。
色々と調査不足と現地での発見が混乱を招く物件だ、先述の通りこの廃屋に関して随分と消化不良で追跡調査する予定。(写真・ohwashi)
それでは次回は今回と合わせて行った廃道、旧台倉宇藤原道の探索と結果をレポートしたい。
2012.12.29 - 旧房総自然博物館(台倉集落)に関する追加情報を掲載
当時を知る方から大変貴重な情報を得る事が出来ました、設立当初から房総自然博物館の活動へ参加していた方で当時の話を色々と聞かせて頂きました。以下追加記載の情報です。
この台倉集落の一角を占める敷地の残されている旧房総自然博物館、これはこの地で農業で生計を立てて生活されていた河野さん(エントリー内で電気の請求書に在る「コウノ」さんと同一人物)が離村され、残された農家を再利用する所から話は始まります。
1974年以前、既に離村が進んで廃村同然(1976年まで河野さんが住んでいました)と成っていたこの農家を「天然記念物ニホンザルの生息地保護管理調査団のベースキャンプ」として家屋と同様に作業小屋なども借り上げて小規模で運営されていました。その活動は人伝いに広がり、1974年に房総自然博物館が発足しました。
当初は自然観察や田んぼ、畑などの農耕を中心に設立のトリガーで在った記述の「天然記念物ニホンザルの生息地保護管理調査団のベースキャンプ」活動を地道に行っていました。
博物館の設立宣言に「博物館を囲む自然そのものが展示物である」、「価値を見ない人の活動により自然が失われようとする時代にあって、物言わぬ自然の代弁者たらん。」と言う言葉を信条に活動は続きましたが1980年代末、細々と活動していたメンバーも年を取り、忙しくも成って少しづつ足が遠のきます。また林道も度重なる台風で崩落が進み、通行が難しく成った事も要因の一つだった様です。
驚いた事に一時はトタン屋根のこの家屋に参加者が屋根材(かや、萱、ススキ、チガヤなど)を荷揚げし、茅葺屋根にすべく人海戦術で葺いたとの事。それほどこの「房総自然博物館」に思い入れが在ったのでしょう。
初代館長は渡辺隆一さん、研究分野は環境教育学で信州大学の先生です(当時はまだ先生では在りませんでした)。2代目は動物学者(類人猿学者)である島泰三さん、NGO日本アイアイ・ファンド代表を務め現在も精力的に活動されている方だ。
そして驚くべき事に今年(2012年)に無くなってしまった千石先生(千石正一)も関わっていた事、千石先生は動物学者としてだけでなく、古くは「わくわく動物ランド」や「どうぶつ奇想天外」などの解説やコーナーの担当を勤めて広く認知されている名物学者さんだった。
現在はメンバーだった直井洋司さんが設立宣言の意思を継ぎ、2005年にNPO団体「特定非営利活動法人房総自然博物館」を新たに設立。こうして今回のエントリーの内容へ収束して行きます。
つまりはこの集落が完全に廃村に成ったのは正確には河野さんが離村した1976年という事に成る、この台倉には3軒の家屋が在り(一つは房総自然博物館が一時無活動化した時に崩壊しました)、現在残るのは2軒。内一つが博物館として、残りの家屋が旧河野家として今でも見る事が出来る。
河野さんの他には別姓で高梨さんと言う方が古くは住まわれていたとか、丁度崩壊した中央の家屋に住んでいた様です。高梨姓に関する情報は乏しく、詳細は解りませんでした。現在でも通電しているのは「関東ふれあいの道」整備時に新たに電柱を設置しなおして電気供給を接続した為、これは新設置時に家屋と東京電力の契約が切れていなかった事で行われた様です。
以前は平田側から残る馬車道(旧道)沿いに電柱が並んでいて現在でも木製の電柱が見て取れます(何本かは電線の着いた状態で残っています)。
実はまだまだ公開出来る情報は在るのですが纏めたのはココまで、何れ(近い内に)更に追加情報を公開しようと思っております。そして実は地味ーに下記リンク「旧台倉宇藤原道」も2012年12月15日に追加情報をエントリーしております。宜しければご一緒にお読み頂ければと。
連続エントリーの「旧台倉宇藤原道」は以下のリンクからどうぞ。
アプローチ
国道465号線から植畑集落へ入ります、左右数えて5本目の交差路を右折。支道を進み、2本目のY字路を左折(道なりです)。途中から川沿いを走り、最初の小さな橋手前から台倉へ向う山道が延びています。
photograph - ohwashi
CAT │ photograph - 076
REPORT - 200 │ 天津坂本2号ループ橋
千葉県│天津ループ橋
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 市原天津小湊線坂本2号橋
房総の道はツーリングや山歩き、沢歩きの場所移動でアチラコチラと走り回るのだけれどずっと工事中の気に成る橋が頭から離れなかった。清澄養老ラインとして実に沢山の方が利用する観光主要道路、県道81号線だ。国道128号線から養老方面へ向う為のメインとして地元の生活道路としては元よりバスや他県の観光で訪れた車が多く通行するこの県道81号線、恐らくは誰もが一度は気に成って視線を向けた工事中のループ橋が在った筈。
国道128号線から県道81号線に折れて約1キロ半、そこには巨大な工事用の鉄骨仮設橋と建設途中のループ橋が目に飛び込んで来るだろう。一般的な通称としては「天津ループ橋」、工事関係者の中では「天津坂本2号橋」、資料によって色々な呼び名が在るけれど正式名称は以下の通り。
「市原天津小湊線坂本2号橋」
まだ日本に帰国したばかりの頃に自転車で走った時は鉄骨の仮設橋さえ完成していなかった、その後サイドカーで通った時もモタードでズリズリの時も一向に完成しないこの橋は一体何の為に作っているのか解らない不思議な橋。その謎を解く切っ掛け迄はこの橋を知ってから20年近くの時間を要する事に成る。
時は移って山の相棒と「割橋」を初めたのが2年前、ああ…そう言えば房総に丁度御誂え向きの鉄骨橋があるじゃないかと記憶が呼び戻される。それから少しづつこの橋に関する情報を集めるものの機会に恵まれなくて片思いする事1年半、待ちに待ったご馳走をやっとこさで頂きにやって来ましたよ「天津ループ橋」さん。
この橋に関する詳細はいつも通り最後尾に記載するので興味の在る方は是非お読み下さい、それでは魅惑の二重螺旋「天津ループ橋」のレポートを始めましょうか。
ああ、もう駄目だ。始める前からこの迫力に殺られてまうわ、どないしよ。山間部に突然と現れる巨大建設物に相棒のボルテージもアンリミテッド、防寒服も既にエクスポロージョン寸前だ。
スタート直後の不幸に見舞われた私達だったが悲しんでばかりではいられない、彼の死を無駄にしない為にもこの巨大な鉄骨橋を割ってやんよ。まずは簡単な経過概要から。
2008年ではこの状態、まだ工事車両の為に仮設鉄骨橋さえ完成していない。その、この真っ赤に錆止め塗料が塗られた鉄骨は本来の橋ではなく、工事車両が走行する為の仮設橋。写真手前の建設中のコンクリート基礎部分が今後延びて道路と成る。
写真引用:マルセ的世界│http://maruse164.blog47.fc2.com
2年後の2010年、綺麗な二重螺旋が完成しつつ在りますね。本来の道路と成る部分が迂回出口まで延びてもう少しで連結されそうな迄に工事が進みました、本当はこの時期に行きたかったんですよ。この時なら橋の主柱からも降下出来ただろうなぁ。
写真引用:風に向かう刻│http://samurai.blogzine.jp/kaze_toki
更に2年後、2012年。迂回用のループ橋はほぼ完成して前後の山間部を切り開く工事が始まります、道路が出来れば現在の九十九折れは廃止されてループ橋と新設迂回路が使用されます。勿論このループ橋自体は完成した訳なので仮設鉄骨橋はこれから解体作業に入る訳です、今回の訪問は解体前にギリギリ間に合った状態でした。
写真引用:道にあるちょっと古いもの│http://ameblo.jp/papagenopapagena航空写真だとこんな感じ、道路の完成度から見ると今年の撮影と思われる。これから現在の県道81号線を大きく迂回する形で山間部を切り開き、新県道81号と成る迂回道路が建設される。
航空写真から地図モードにすると道路の予定路図が表示されます。
「突然の死」を迎えた筈の相棒も何時の間にかその辺で写真を撮り始めているので此方も撮影開始、それにしてもボディハーネス着けてカメラと機材もパッキングすると動き辛くていかんな。
これから挑むこの仮設橋は斜面に作られていて上段と下段では仮設橋の高低差が違う、最上部から最下部(斜面下部の地上)迄は恐らく30メートル(鋼台単一では最大25メートルの高さ)以上の差が在るのだけれどパっと見た感じは「君津エース」の方が高さを実感出来る。
まあ兎に角機材を落さん様に、それとハーネスとカラビナの確認を怠らずに行きましょうか。
きゃん○まがモゲそうな素晴らしい光景が飛び込んで来た、これは確実にモゲるな。とか思ってたら相棒の方が先にモゲた。
若いだけあって元気が良い、跳躍に勢いを感じる。
ほうほうの体で確保した相棒のアレだったが易々と返すわけにもいきますまい、世の中金次第だよ、キンだけにな。ほーら、こっちだー。
早くしないとおでんの具にしちゃうぞー。
激昂した相棒に奈良づくしをお見舞いされ、危うくアレする所だったがどうにか落ち着きを取り戻して撮影再開。
しかしコレは本当に凄い風景だ。
ホーリーシッ
来て良かった、すっかりとこの大きなジャングルジムの虜に成っちまったよ。しかし中々と高さを表現した1枚が撮影出来ない、設置場所が複雑で構図が難しいんだよなぁ…と思ってたら。
相棒が撮ってくれてた。
生きてて良かった。この上ない喜びであります。
うん、高所興奮症の割橋ストにとってこの複雑なトラスと高さは呑み過ぎた翌日の味噌汁より旨い極上のご馳走です。
(photograph : +10)
おや?
余りの美しさに何か格好良い事を言いたくなった。
「時に無言とは、有象無象なる言葉より雄弁となる(キリッ」
「…だったら無言で語れよ」
「ヒリヒリするなぁ君の言葉は」
「片腹☆大激痛~」
ドラム缶にねじ込んで硬化ベークライト流し込んでやろうかと思ったが生憎とさっき飲んだモーニングショットの空き缶しかないので止めた。リターンアプローチの最中も撮影は続き、静寂の山中に時折響くシャッター音は文明開化の音がした。
さあ帰ろう、僕らのマイホーム(病室)へ。
市原天津小湊線坂本2号橋
通称「天津坂本2号ループ橋」、「天津坂本2号橋」や「天津ループ橋」とも呼ばれる建設中の巨大ループ橋。その美しい二重螺旋は本道(ループ橋)と工事車両用の仮設鉄骨橋が併設されているから。
初期構想は1980年代後半、県道81号線上で一番カーブ角が酷く九十九折れの箇所を大きく迂回して安全走行の向上を考慮して発案された大規模道路工事計画だった。計画書では1991年から2010年の約20年で完成する予定だったが途中事業計画の見直しや予算補正案などの問題も山積して中断時期が発生する、2005年から再度計画が練り直され全工程の完成は2020年に延期された。
現在県が公開している工事期間については下記参照。
千葉県 - 主要地方道市原天津小湊線
http://www.pref.chiba.lg.jp/cs-awa/douro/shuyouchihou.html
建設途中の見学会など近年は工事進行に行政も気を使い、今後の観光主要道路としての改善策事案の一つとして重要視している様です。見学会の模様は下記リンクより。
土木の風景 - (仮)坂本2号ループ橋 no.247
http://blog.livedoor.jp/gijutunohiroba/archives/51318573.html
その後の見学会や関係者研修会の模様は下記リンクより。
千葉県地質調査業協会ホームページ - 安房地域整備センター合同研修会
http://chisitsu.livedoor.biz/archives/1422162.html
事業計画の当初の予定通り最初の10年(2000年期)でループ橋を含む迂回路(新県道81号区間)の始点部分980メートル、終点部分800メートルの工事は順調に進んでいた。記述の問題も在って数年の工事中断期間を経て2005年に新たに事業計画を発案、2013年前期にループ橋部分も完成し残すは橋を挟んだ迂回路の道路部分だ。
未供用区間はループ橋部分から先の940メートル(ループ橋を含む)、現在の県道81号線から山間部を大きく迂回する形で切り開く為の大規模な工事も今後予定されている。
県としても地方行政としてもこの工事は何としても2020年までには完成させたい理由が在る、特に地方行政の焦りが如実に解るのは近年の海岸沿い観光能力の弱体化。山中側(養老温泉側)には七里川温泉、養老温泉を始めトレッキングコースや単発の観光名所がまだまだ集客を見込める状態だ。しかし鴨川から勝浦に掛けての海岸沿いの温泉宿や鮮魚割烹などの店舗数は年々減少し続け、海水浴客もピーク時に比べると半分以下と言う現状。
そんな中、2021年に日蓮の生誕800年と言う記念期を迎える。誕生寺や清澄寺など関連する宗派施設は記念行事を年を通して予定していてその記念行事にあやかる周囲の観光施設も多い、つまり落ちる金額の大きいイベントの前に観光主要道路を完成させたいのだ。
現在の道路状況だと大型の観光バスはこの県道81号線を通過する事が出来ない、元々は山間部の安全通行が事業計画の基本だったのだけれど時代背景を反映してか2021年の為にどうしても完成させたいのがこの「市原天津小湊線坂本2号橋」の正体と言う訳だ。
山歩きをしている方にはご存知かもしれないけどこの周辺には一般には全く認知されていない旧道なども在りまして、その中にはこの迂回路と交差する部分も在って今後問題化しそうな事案もちらほらと。
ままま、完成したら便利に成るのは確実な道路なので是非完成して頂きたいものですねぇ。と、言う感じで今回のレポートは以上です。
アプローチ
国道128号線から養老渓谷方面へ折れる清澄養老ラインがこの県道81号線です、県道に入ってから1キロ半程で建設中の天津ループ橋と成ります。
photograph - nee
SCENERY - 167 │ 式場カメラマン普遍の一枚
SCENERY - 168 │ 記念撮影のお仕事
こちらは新婚さんのアニバーサリーショットのお仕事、結婚式の式場カメラマンのお仕事を頂いた時に季節をズラして記念撮影を提案したのだけれど良い写真が撮れて本当に良かった。
ロケーションも彼方此方と探した上で季節も吟味、一枚の為に随分と時間と手間を掛けた作品なので自分的にも大満足。でもこの様な仕事って滅多に貰えない、アイディアは沢山在るのだけどなぁ。
上の写真を撮った時に少々場所を変えてオマケの写真を撮影、出来上がってみたらクライアントさんは此方の方がお好みで。他のクライアントから「これ日本でしょ、何処?」なんて聞かれるけど企業秘密ですよ、まあ普段は海ですからココ。
photograph - nee
REPORT - 201 │ 天津滑山 大山祇神社 確認再訪
千葉県 │ 天津滑山 大山祇神社
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 神道教派 御嶽滑山大山祇教会
2011年からその回帰模様を拝見させて頂いている房総の山岳信仰神社、「大山祇神社」の様子を今年も確認しに行って来ました。2012年の時点では前年度の震災と大型台風で崩壊が進んで居たのが顕著に見てとれたけど今年(2013年)はどうだろうか。
信者でもないのに毎年正月の時期にこの神社に来てしまうのはこの廃美だけではなくて歴史や現在に至るまでの沢山の調査内容が総じて興味を惹く魅力に溢れているからに違いない。
今迄の詳細な調査内容は以下の過去エントリーからどうぞ。
興味を持ち始めてから伺った最初のエントリー。
膨大な調査資料と協力頂いた他のサイトの管理人さん、そして鴨川市の教育委員の担当さんに多大な感謝。やっとこさでその全貌を解き明かした。
それでは今年の様子を見て頂きましょうか。
おおおっ、掃除されている。しかも極々最近というか数日前に行われたご様子、恐らく新年を迎える数日前の大掃除が行われたのだろう。
1年以上置かれているお茶のペットボトル、献花台などは特に変わりないが御札が少なくなっていた。そして感じるのは明らかに参拝客が減っていると言う事実、しかしながら散見していた奉納額や神祭用具が無くなっているのには驚いた。賽銭箱も無い、コレは一体どうした事だ。
これは何だろう、全く解らない。貼り付けられているのは古銭でもないし、しかしその形は明らかに鳥居のそれだ。と、言うか以前は無かった物だから崩壊が進んでまた天井裏から落ちて来たのだろうか。
恐らく。きっと今年の内に最後の柱が折れてしまう、もう終わりなのかもしれない。2年間だけなのだけれども何度も足を運んで見てきた神社の内部、壁は更に剥がれ落ちて柱は訪問の旅に少なくなっていく。屋根も最初に来た時に比べて半分程に成ってしまった、どうする事も出来ないけれど崩壊後にだって再び訪れたいと思わせる何かが確かにこの場所に在る。
2013年中にまた再訪予定です、夏季を予定していますが別物件で付近を通過する時は寄ってみたいと考えております。
アプローチ
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
地図リンク
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
※ 自分も教えて頂いた身です、場所がどうしても解らず現地に赴いてみたいと思う方は御連絡下さい、対応致します。
photograph - nee
PR: デザイナーの求人情報・転職支援はマスメディアン
PR: So-net モバイル 3G
REPORT - 159 │ 旧和賀川水力発電所
秋田県 │ 和賀川発電所跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 122 和賀川発電所跡(旧和賀川水力発電所)
2013.01.15 - 詳細問い合わせ多数の為に追加エントリーしました。
有名物件の為にこの発電所の詳細を割愛していましたが昨年末(2012年)辺りから何故かお問合せが多かったので以前机上調査した内容を追加エントリーとして掲載したいと思います、と言っても沢山の廃墟サイトや林鉄サイトで解説されているので殆どの方がご存知の内容かと思います。
最後尾に追加エントリーが在ります、ご覧下さい。
美式(うつくしき)かな、久し振りの廃墟美を堪能せしたるは岩手県の山中に在る旧発電所跡。余り取上げられる事がない物件だけどその美しさと言ったらもう、見た瞬間眉毛がごっそり抜け落ちるレベルなのです。
さて、この物件「和賀川発電所跡」。まずアクセスが容易ではない、物件後方に聳える山を巻くか手前を流れる川(和賀川)を渡るかの何れかと成ります。川は比較的浅いのですが流れが急な上、場所によっては沢屋位しか歩けないガレ沢状態。
よって人気のルートは山を巻く方に成ります、僕らも今回は当初そのルートでアタックしたのだけど台風のおかげで土砂崩れを起こし、地形図と合致しない事ともはや山屋でも無理(岩屋ならまあ行けます)な地形へと変化しておりまして。
結局は川を渡るルートを選択したのですが運の良い事に素晴らしい協力者と出会う事が出来、比較的安全にこの廃墟に到達出来ました。
それでは美式「和賀川発電所跡」のレポートをはじめましょう。
先人の例に倣って僕も山を巻くルートを選択した、と言うのももう一つの前菜物件がその手前に在るからでして。
なんでも踏み板の無いオッカナイ吊橋が在るとか無いとか、在っても首だけ無いとか。割橋ストとして吊橋は大好物な物件、行くしか在りません。
この和賀川発電所跡は岩手県北上市の「和賀仙人」と言う変わった駅名の近くに在る事は知っていた、航空写真でも確認出来るし国土地図さんで地形図もバッチリ。
現地入りしても迷う事無く車のデポ予定地まで到着する事が出来た、それでは早速参りましょう。
車のデポ地はこの場所、この場所の直ぐ脇に「踏み板の無い吊橋」とやらが在るらしい。皆さんはそこを渡って「和賀川発電所跡」向かっているらしいのでまずは前菜を頂きに、さてどんなモンよ。
え…っと、これ?いや…確かに踏み板は無いけど、さ。低いし揺れないし、えええ?普通の吊橋やんか、いつもの相棒もガッカリ気味。
比較的怖がりな弟子(26♀)も普通に渡ってる、あれ…ココじゃない…?
(photograph:+10)
渡ってみて暫く周辺の地形を確認する、うーん等高線通りの地形じゃな無いなぁ。初めての山でルーファン間違えると何があるか解らん、しかも今回は弟子と関西からゲストも迎えての合同撮影。相棒と2人でいつもの無茶は出来ない、ロープを使用すれば何処でも登る事は出来るのだけど。
当初予定していたのはこのルート、実はこの山には定期的に人が入っている様で行政の山林調査用の作業道が薄っすらと残っている。お馴染みの赤スプレーや赤紐も随所に在るのだけどどうも様子がオカシイ、斜面のエグレ具合が普通じゃない。
こう言う時って絶対無理しちゃ駄目、大怪我の素です。
後から知ったのだけど台風で土砂崩れが起こり、地形が随分変わってしまっていたのだ。その時はまだその事実は知らなく、どうしたもんかと悩む。
時間の無駄に成るので引き返し、川を渡るルートを再度検討する事に決定。しかし予定していなかったのでココでも30分程崖下に下りる場所を探す事に成った、どうにも地形がアクセスを許さない。地元の方に道を聞くがそれも少々僕達の本意とはズレていた、地図を見る限りとある場所からアクセスし易い所が在る…行ってみるか。
赤丸の部分、ここには等高線が描かれていない。ポイントなのは対岸にも描かれて無い点、これはこの部分が川の水位と1000mmも変わらない事を顕著に教えてくれている。
ココしかない。
しかも写真だと解ると思うけど川にガレ砂利(小岩)が集まっていて川底が浅い事を示している。んだどもどうやら工場の敷地内、許可を取るしかありますまい。
ご協力頂いたのは日本重化学工業株式会社南岩手事業所の方、通常は許可など出さない様でそもそも無断でこの場所からアクセスしようとする者も居て警備している位だそう(実態は廃墟じゃなくて釣り目的らしいけど)。
僕らには地域民俗学の調査と登山と言う大義名分が在ったのが幸いした、道案内までして頂いて自分達も6年位前にあの廃墟には行ったよと教えて頂いた上に色々と親切にしてくれスッカリほノ字。
東北人は優しいなぁ。(しみじみ)
これでお膳立てはやっとこだけど揃った、行くぞ「和賀川発電所跡」に。
途中この「和賀川発電所跡」にアクセスする為に作られた吊橋が廃橋として残っていた、崩壊具合が栃木の「旧竹の上橋」にソックリで割橋ストの血が騒ぐ。
が、今回はこれじゃない。先を急ごう。
「 ぅぉぉお… 」
相棒がこの美式「和賀川発電所跡」を目の当たりにして興奮している。
「 うおおおぉぉぉおお小田急線の車両は化け物か 」 うっ
「何の話してんだよ、落ち着け」
吹き矢で相棒を眠らせて場を収め、残った者で向かう事に。さらば、相棒よ。
( ゚д゚)!?
素敵ー、耳から血のゲロ吐きそー。これは好物です。
緑と廃墟は大好物なんですよおおおぉぉぉおお小田急線の車両は うっ
それからの記憶がない。
禍々しい緑色のキノコで復活。撮影と復讐の為、先に行ったであろう同行班を追った。配管工の悪夢を繰り返してはならない。
oioi(おいおい)これはヤベェな。こりゃ今まで見て来た廃墟の中でも3本の指に入る物件ではありませぬか、血が滾るな…おい!弟子は何処だ。弟子っ(26♀)!
|д・)
「ちょこっち来い、ワリとマジで」
|д・) < またぱーんってやるんでしょ
※ 田老鉱山、松尾鉱山レポート参照
「やらねぇよ、やるとしても言わねぇよ」
|д・) < いや、そこは誤魔化せよ
「ほら、どんどん焼きあげるから。キャベツ太郎もあるぞ」
|・д・) < 現金3万円やてぇ?
「ねぇよ、ねぇし言ってねぇよ」
「まあ2千円札ならあげてもいいかなぁ…(棒」
「…」
「…?」
「…」
「???」
「…」
「せめて何か言わないんですか?」
1940年稼動開始、1964年の稼動停止までの24年間と言う短い期間水力発電所として地域の鉱業電力を支えた。
種別:一般水力
形式:落差水路式
方式:流込利用式
当時の認可最大出力は解らなかった、似た様な水力発電の方式は多かったけど年代的にはちょっと時代遅れだったかもしれない。
しかしタービン室の広い事、そして高い事…高い、うん…高いなら登らないとね。
なんという。
正面口の上部にタラップが在ったので登ってみた、ちょっとした屋上スペース(更に本当の屋上が在ります)が広がっている。端からパースを利かせて一枚。
それでは始めますか、この場所に来る事自体随分と面倒な場所なのだけけれどコレだけは真似しないで欲しい。
本当に。
この写真が撮りたかった。
ありがてぇありがてぇ
タービン室の2階、台座の形状からして設備用の発電機か誘導電動機が設置されてたのかなぁ。廃墟美は素晴らしいけど歴史には余り興味が沸かない物件なのです、地域の過去の産業を考えると恐らくは鉱山関係の電力を担っていたと推測されるのだけどその鉱山物件がここから遠いのと資料が上手く引き出せなかったのが原因。
いずれ本格的に調査するかもしれません。
( ゚д゚)!?
ジャッジ、これは…。
「はい、美しいでおま」
ん?誰だ今の。このタイミング…まさかちくわ大明神の人か。
タービン室の地下、この更に下層にはサージタンクからの水路などが在ります。タービン室から複数開いている穴(タービンシャフトとクランクギアの穴でしょうか)からこの層、更に下層と結構な高さが在るので撮影時は注意しましょう。
地下から戻ると相棒と弟子が撃ち合いをしてました。
「幻の6速キック!」
「武丸パンチ!」
???
「制服さんの悪いクセだ、事を急ぐと元も子も無くしますよ閣下。」
「まずはそのふざけた幻s「駄目駄目駄目、それあかんヤツや」
危なかった。
「眼球抉り出し踏み潰し健康砲(近距離用)」
「なにそれ怖い」
もうやだ、こうなりゃバラバラに成った気持ちを一つにする呪文を唱えるしかない。いくぞー
「そして輝くぅ?」
「「ウルトラソゥッ!!!」」
元気だなぁ。
時間の都合でサージタンクには行けず、折角ラペで降下しようと思っていたのに本当に残念だ。しかし驚くべき美しさで僕らを魅了したこの廃墟「和賀川発電所跡」、来る者を選ぶだけ在って人為的な崩壊は全く無い。
それ故自然に任せた朽ち具合が素敵な良物件でした、機会が在れば是非再訪したい場所です。類似物件だった埼玉の「矢納水力発電所」のリンクを最後に記載して今回のレポートは終わりたいと思います。
(photograph:saorigraph)
※ 山奥で撃ち合いなどしてはいけません、ホル・ホース先生がお怒りです。
2013.01.15 - 詳細問い合わせ多数の為に追加エントリーしました。
(photograph:saorigraph)
有名物件の為にこの発電所の詳細を割愛していましたが昨年末(2012年)辺りから何故かお問合せが多かったので以前机上調査した内容を追加エントリーとして掲載したいと思います、と言っても沢山の廃墟サイトや林鉄サイトで解説されているので殆どの方がご存知の内容かと思います。
旧和賀川発電所
まずはこの発電所の成り立ちを説明する上で大切な湯田ダムについてウィキペディアの一節を引用して解説を始めよう。
ウィキペディア - 湯田ダム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%b9%af%e7%94%b0%e3%83%80%e3%83%a0
1953年より実施計画調査に着手したが、ダム建設に伴い湯田町中心部が水没する事で反対運動は強く困難を極めた。湯田ダムが完成すると湯田村の中心部が水没する。水没対象となるのは湯田村川尻・大石・大荒沢の三集落、民家405戸・622世帯・3,200人でこれは小河内村(現在の奥多摩町)全村が水没した東京都の小河内ダム(多摩川。奥多摩湖)の945世帯に次ぐ全国最大級の水没世帯数となるからである。これに加え水田63ヘクタール、畑地57ヘクタールといった農地、国道107号線約13キロメートル区間と村道約22.5キロメートル区間、国鉄横黒線(現在のJR北上線)大荒沢駅・陸中大石駅・陸中川尻駅の三駅と15.3営業キロメートル区間、鉱山13ヶ所そして水力発電所2ヶ所及び発電用ダム1基が水没するという大規模かつ複雑な水没物件となる。このため補償交渉は村民・国鉄・鉱業権所有者・山林所有者・水利権所有者と多岐にわたるものであった。
約3年間、全くの膠着状態が続いた。この時期は田子倉ダム補償事件を始めダム建設に伴う水没地域問題がクローズアップされており、全国屈指の補償問題となった湯田ダムは新聞などで報道がなされ注目された。事業の早期進捗を願う事業者の建設省は度々住民団体と交渉を進めたが、生活基盤が完全に喪失することを懸念する住民との溝はなかなか埋まらなかった。事態が動き出したのは1956年(昭和31年)9月のことで、建設省は水没補償基準を発表したのと同時に補償方針を定めた「湯田ダム水没者更生大綱」を発表。水没対象者の生活再建について最大限住民の要望に沿った形で進める旨を示したのである。これに対し水没者側では翌1957年(昭和32年)5月に開催された湯田村ダム水没者大会において「大綱」に応じ、補償基準の妥結を決議した。住民側の大多数は家屋現物補償による村内近隣への集団移転を要求、建設省もこれに応じダム水没予定地上流部の湯田村館・上野々・耳取の三地域を移転地として計4万坪の宅地造成を行った。この移転地は生活道路・上水道・電気といったインフラが完備されたものであり、1963年(昭和38年)頃にはほぼ移転を完了した。
国道107号線付け替えについてはダム水没予定地の北岸に道路を新設。国鉄横黒線付替えについては国鉄との合意で1959年(昭和34年)8月より付け替え工事に入り、ダム水没予定地の南岸に路線を新設すると同時に陸中川尻駅を水没予定地西端に、陸中大石駅を南岸にそれぞれ移転。さらに下流にある和賀仙人駅も移転させてルートを付替えた。大荒沢駅については大荒沢信号場に格下げし、1970年(昭和45年)廃止された。鉱業権補償については湯田村が東北有数の鉱産地であったこともあり難航、鉱産物内容の評価鑑定によって補償を行う方針とし東京大学や東北大学から専門家を招聘し鑑定を行った上で補償を行った。水力発電所の補償については、東北電気製鉄(現在の東北水力地熱)が所有する発電用の大荒沢ダム(重力式・26.0メートル)と出力15,500キロワットの発電所が水没することから、代替補償として湯田ダムを取水口とした和賀川発電所(後述)を建設することで妥結した。
こうしてダムによる水没補償は1960年代には概ね解決したが、その後の水源地域対策特別措置法制定(1973年)を始めダム事業において多大な影響を与えた補償交渉となった。北上川流域全体の治水・利水のため3,200人に及ぶ関係者の犠牲の上に成り立った事業ともいえる。
(photograph:saorigraph)
ここで勘違いし易いのは上記の和賀川発電所と「旧和賀川発電所」は別物と言う事、大荒沢ダムと共存していた「旧和賀川発電所」は湯田ダム建設の為にその役割を終える事に成ります。
元々は東北電気製鉄(現日本重化学工業)の鉱業用発電所として大荒沢ダムと時を同じくして建設された訳ですが湯田ダム建設の為に大荒沢ダムは錦秋湖に水没処理されます。大型発電什器を撤去され、放置されてから約50年。解体の予定は全くなく、行政としても現段階でこの発電所の処理に関してはノータッチと成っています。
因みに新たに建設された「和賀川発電所」に関して。
湯田ダム建設に伴い、ダム水没予定地の代替補償が問題と成った。その中には鉱業用発電や個人宅へ送られるインフラ用の発電を賄っていた大荒沢ダム水力発電所が入っていた為、新たに代替発電所として「和賀川発電所」の建設を発案。
諸々の代替補償問題が1960年代の最中右往左往するのだけれど発電に関しては決着を見る、建設は1961年から開始され運用は1963年の12月からと資料には在る。
水力発電所のデータベースとも一致する内容だ。
水力発電所データベース - 東北 > 北上川 > 和賀川
http://www.jepoc.or.jp/hydro/index.php?_w=usData&_x=detail2&pp=1&OwnerNo=514&AreaNo=02&RiverSys=2340&fd=1
(photograph:saorigraph)
この廃墟に訪問するには大凡5ルートが在る、メジャーなのはサージタンク建設時に使用されていた吊橋を渡って急斜面(若しくは通常の登山ルート)で迂回する行程。次に良く使用されるルートは眼前の川を直接渡ってしまう行程、これは水量や水温、季節などに寄って厳しい時期も在るので留意して欲しい。
今回のレポートでは台風直後だったので水位の低い場所からの特殊なアプローチだった、エントリー内でも書いたけれど企業敷地内なので通常は使用出来ないと考えて欲しい。これが第3のルートだ。
残る2つのルート、これは中々知られていない。と、言うのも一つは森林軌道(北本内川森林鉄道)の旧作業道で現在は殆ど道筋を辿るのが難しいからだ。もう一つは旧道を歩くルート、有名な廃道サイト「山行が」さんでも歩かれているルートで関連廃墟も数件見る事が出来る。
しかしとんでもなく大回りな迂回コースと成るのでオススメはしない、よって詳細な地図の記載は控えるけれど調べれば直ぐに判明するだろう。
以上、追加エントリーはこれにて完了。もう一度位は行ってみたい素敵な発電所跡「旧和賀川発電所」、少々危険な場所に在るので行かれる場合はお気をつけて。
アプローチ
秋田自動車道北上西ICを降りて県道225号線を北上m国道107号線との合流で左折(和賀仙人方面)。国道107号線(子規ライン)を暫く走り、2度目の川越え(和賀川)後のT字路を右折し山間部へ。大きくL字クランクに成る場所に車のデポ地として最適な空間が在ります、目印は廃橋と成った石造の主柱です。
photograph - nee