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暑い日、エアコンを付ける時間を思案していると猫達は自分の身体を思い切り伸ばして少しでも暑さを紛らわそうと努力する。野生では在り得ないその姿に「家内平和」を感じる親馬鹿ですがのんびりもしてられない、この決定的瞬間をカメラに収めないと…。
しかし父ちゃんが動くとにゃーずも反応して付いてくる、結果モバイル端末のカメラ機能にお世話に成るのだけれど…出来ればデジイチさんで残したいお美しい姿で御座います。
あー素敵だ、いい…本当に猫を感じさせない姿に口元が緩んでしまう。しかし暑い筈なのになんで顔くっ付けて寝てるのだろう、ってか菊ちゃん(キジトラ)は苦しくないのか。
体調を考えて室内はサーキュレーターや工業扇などを多用してエアコンは余り使用してない、しかしこの時期はどうしても暑く、エジプトを起源にもつ猫達も高温多湿な日本の夏には適わないと見える。
エアコンのスイッチを入れ、やがて部屋が涼しくなると今度は深い眠りについた。しかし猫として、その寝相はどうなのよ、と。尊厳とか野生とか、なんか猫的なそういうの何処に置いてきたのか。
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REPORT - 219 │ 赤沢八幡野連絡道(赤沢八幡野連絡橋)
静岡県│未完成ループ橋(赤沢八幡野連絡橋)- 廃道 前編
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤沢八幡野連絡橋/八幡野開発工事連絡路
謎が多い通称伊豆のループ橋、未完成ループ橋などとも呼ばれているがその実は八幡野地区の別荘開発の為に建設された工事車両道路。八幡野の開発が終了すれば一般道として使用された可能性も在るけれど今と成っては確認の方法がない。
前回は余り知られていないこの廃橋のレポートをお伝えしたのだけれど「赤沢八幡野連絡橋」と言う名称が以外と認知されて驚いた、まあそれは良いとしてまずはお浚いとして前回のレポートを見て頂きたい。
※ 今回のエントリーを読むにあたり、前回のエントリーは是非お読み下さい。
今回のエントリーは前回の情報の未完全な部分の検証、追加調査の報告です。このエントリーだけだと理解しきれない箇所が在ると思います。
簡単に纏めると1973年から計画されていた八幡野の山間部開発、この場所に5区画に分けられた別荘地を建設する為に山間部への連絡橋を設置。当初は赤沢地区からの工事が予定されていたが地域住民の反対に合い、八幡野の調整区域から新規で連絡橋を設置して開発計画は進められた。実際に橋は完成し、多くの工事車両が八幡野の山間部へ行き来している。
1978年に開発業者が倒産、その後開発区画と共にこの連絡橋も破棄された。その後連絡橋入口が簡易封鎖され、1990年代(1993年の崩壊以降)には一部の解体作業と周囲の囲い込み鉄柵を設置。現在に至るのだが行政が1993年に廃橋の崩落の確認を発表した事で多くの人にこの廃橋の存在が知れる事に成る、諸説在るが地元住民の話を纏めると1980年代に入ってから自然崩壊した様だ。
よく語られる「伊豆半島沖地震で崩壊」なんて話、まだ橋出来てないし。そもそも開通したのが1976年なのにどうやって完成前の橋が崩落するのかと、…って言いながら崩落の正確な時期は調査しても解らなかったのはとても残念。
そして今回。
いよいよ皆様にこの廃橋の先の「開発途中で閉ざされてしまった廃道」をご紹介する、エントリーまでに2年余り掛かったのは途中忘れてたり房総の「間滝」に心を奪われていたりとか言い訳はしない。
開発が進められていた1974年から約3年間、通常の開発と違い山間部の土地造成はとても難しい。連絡道の整備や土地の造成(再度根が張らない様に樹根を綺麗に掘り出すのも大変な手間だと言う事です)、開発資材の搬入。しかしその3年間に開発が進められていたという事はだ、この先に確実に道が在る事を示唆する。
廃道歴としては30年そこそこの新しい道とも言えなくも無いけど廃橋ばかりに目が行く様で少々勿体無い、そこで今回は歴史検証も兼ねてこの廃道を実際に歩いてみた。そしてそこには確かに開発の痕跡が残っていて更に新たな謎も浮かび上がります、そんな仰々しい前振りだけれど実際は廃道歩いただけなんですがね。
それでは追加情報や行政の協力で判明した新しい事実などを踏まえてレポートを開始しましょう。
今回もお邪魔しますよ、この廃橋さん。ずっと「伊豆の廃ループ橋」として知られていたけれど2011年のエントリーで橋名を明らかにしてからは「赤沢八幡野連絡橋」の固有名詞も随分と浸透してきた、代名詞じゃあ可哀想だしねぇ。
取り敢えずは登りましょうか、上がるのではなくて「登る」んです。
あらやだ、歳かしら
するすると登って行く相棒だがこっちは身体が重い、ウチ帰って猫抱いて寝たい。
崩壊してズレ落ちた廃橋の一部区間、この部分は初の来訪からずっと登って見たかったのです。出来れば山間部に残るジョイントも確認したかったですし、んでいつもの「割橋」の装備でちょっくら登攀です。
剥き出しに成った鉄骨は意外と脆くて何よりこの傾斜、写真じゃ伝わらないけれど兎に角重力がこれでもかって地面に引き寄せる、セーフティには10mmのカーンマントルとストランドを更に三網した自作帯を併用して登攀して行く。
登っていて気づいた事があった、この折れた部分は山の斜面に寄り掛かって入るのだけれど先端は橋柱ジョイントが地面に突き刺さっている状態。つまり意外とバランスが良くないのだ、しかも先端部分は本来の廃道部分と接地しておらず大きくズレ込んでいる。
ちがう!考えてたのと違う!
よって登りきった場所から廃道が見える筈も確認する事も出来ず、この部分からのアプローチはどうやら不発だった様だ。いや、ね。元々はただ登りたかっただけなんですよ、だから満足なんですよ。
当初は相棒を登頂させてコッチは廃橋へ回り込んで”やったー(?)”の写真が撮りたかったけど面倒なのでやめました、暑いんだもの。
ごめりんこ(^ _-)☆
さて、まずは「折れた箇所で遊ぶ」って自己満足を無事終えたので廃橋を2年振りに確認してみますか。話では自然の侵食が更に進んでE感じらしいのでちょろりと期待。
あー、前回は5月だったけど今回は盛緑の時期に合わせたからモッサモサやな。こりゃー藪漕ぎもキツそうだ、やだなー。
さて、いつもは折り返し地点の廃橋崩落の先端部分。ジョイント部分を良く見ると綺麗に剥離しているのが解った、これ本当に自然崩壊したのかって位に綺麗。崩落時期は行政さんでも机上調査でも周辺地域の資料を探してもやはり解らない、コレだけ大規模な崩落なら廃道(廃橋)だったとしても地元のニュースに取り上げられてもおかしくは無い筈なんだよなぁ。
廃橋に成った経緯は前回のレポートを参照して頂くとして、まず疑問に思うのは、
・いつ崩落したのか
・何故そのニュースソースが無いのか
崩落に関する疑問はこの2点と成る、まずはこの2点の疑問に焦点を当ててみよう。前回でも記述したが行政としては「1993年に崩落の確認をした」のみで崩落に関する調査資料は残されていない、と言うより行政として崩落に関する調査は行われていない。そしてこれには理由が在った。
崩落当時、この場所は予定されていた別荘地を手掛ける不動産会社とは別の企業が所有していた。崩落前に別荘地開発の不動産会社は倒産しており、資産管財企業がこの土地を管理(放置)していた事に成る。行政としは企業が所有する敷地内の私設道路(工事車両運用道路として登録されていたので)の崩落に手が出せる訳も無く、またこの時点で開発中止から随分と時間が経過していた事も相まって正確な調査は行われなかった様だ。
この辺に関しては伊豆の不動産業者の協力を得て更に詳しく調べて見た。
国内で山間部の開発が目立つ様に成った1970年代、リゾートやゴルフ場建設で伊豆半島も開発の波に乗り、半島のあちらこちらで開発が始まる。そしてこの八幡野山中の別荘地開発も1973年に企画され1974年に開始する訳なのだが…。
時を同じくして1974年、山間部の土地開発に関する法律が改正された。森林法改正の際に山間部における開発事業の法律を新たに設置、それが「林地開発許可制度」だ。大規模土地開発事業が活発に成るにつれて法改正や細かな条約文などの見直しが国に求められる様に成って来た時期と成る、実はこれがこの「八幡野別荘地開発」に影を落とし始め、その後の開発中止のトリガーと噂される様に成るのは開発が開始してからの話。
開発許可制度 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e9%96%8b%e7%99%ba%e8%a8%b1%e5%8f%af%e5%88%b6%e5%ba%a6
林地開発許可制度 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%9e%97%e5%9c%b0%e9%96%8b%e7%99%ba%e8%a8%b1%e5%8f%af%e5%88%b6%e5%ba%a6
直ぐ近くの赤沢別荘地を成功モデルとして隣接する山間部の開発に着手した県内の不動産会社だったが工事車両の通行を赤沢別荘地の住人に反対される、そこで八幡野の私道から山間部へ抜ける仮説橋を立案。これが後の「赤沢八幡野連絡橋」だ。しかしこの立案時期が記述の法改正の前だった事や事業拡大の為の資金不足、工期の短縮から当時の橋梁整備手順を踏んで居なかったのではいかと地元建築業者(現存する伊東市の建築会社)の一部は指摘する。
この指摘が事実ならば違法な建築基準不足の橋を製作したのだ、この実態は現地に行った者なら直ぐにでも理解出来るだろう。あの歪な橋のネジレはこの様な理由が在った訳だ、が…確かな情報源が今と成っては得る事が出来ない為に確証を持ってお伝え出来ない事に関してはお詫びする。
この指摘は当時からあったものの随分と後に周知するに至る、勿論当時この橋の建設に関わった建設業者も知る所ではない。開発が中止され、1993年前後と予想される崩落当時においても薄広な情報だった。結果、その崩落当時に所有していた不動産業者がこの場所を放置していたのもこの様な理由が在った為で行政に知られる訳には行かなかった事に成る。
またこのニュースと言うか指摘が公にされない理由も判明している、詳細は控えるが実はこの土地の再開発の話が伊東市の企業意外にも持ち上がっていた事に起因する。つまり、「行政としては収入源(開発・観光・税収)と成る場所←→不動産業者としては土地を転売したい」の様に相互の思惑が一時期だとしても一致していた事、これが一番の理由だろう。いや、他にも色々と細かくは在るのだけれどね、うん。
そしてこの違法(全ての基準に適合していない)な工事はこの橋だけに留まらず、開発区画全域に飛び火していた事もその後の調査で明らかに成る。断っておくのだけれど当時この橋を担当した企業が率先してこの様な工事をした訳ではない。開発を企画した不動産会社が主導で図面が引かれ、法改正の時期と着工が被ってしまったが為に結果的に基準不足と成った恐れも在るって事。
また橋の工事と道路の工事、開発区画の工事などには複数の企業が名を連ねている。一部の廃墟系サイトでは崩落部分に記載されている建設会社”「池田建設」がこの開発を主導した”とか”「池田建設」の倒産によって開発が中断された”など勝手な憶測で纏められている情報を目にするが全くのデマ、この企業は橋の工事に名を連ねた企業の一つであってこの八幡野別荘区画開発を主導した訳でもない。そして倒産もしてはいない現役の企業だと言う事を付け加えておこう。
開発区画に関するこれらの件については廃道パートで再度詳しく語ろうと思う。
※ 複雑な経緯なので最後尾にて年表を掲載します
崩落したジョイント部分から廃道入り口を望む、うーん…道らしき物は見えるけれど、どうだろうか。この橋と道が一続きに成っていた当時の写真を参照するとこの先で大きく右折して山間部を登る様に見える、下部からアプローチするにはブッシュで時期も悪い。
どうしたものか。
恐らくはこんな感じで続いていた筈なんだよなぁ。右側斜面は冬季ならフックもステップも目立って登攀出来そう、この時期は背負ったバックパックが枝やブッシュに邪魔されて滑落の危険が在るからやはりアプローチは諦めるしかないか。
と、成ると付近の山間部からGPSを頼りに廃道へ直接ぶっ込むしかなさそうだ。写真の為にこの時期を選んだけど廃道を確認する事に関しては間逆の冬季にすべきだったかもなぁ。
さーて、折角だから降りてみるかねぇこの柱。高さもそれ程ないしビレイ取れば余裕のよっちゃんイカでしょ…そう考えていた時期が私にも在りました。
この柱、兎に角ツルツル。履いているフットギアはファイブテンの沢シューズ、これナメに強くてシャワークライムや比較的傾斜がキツイ岩場もツルりといかないナイスガイ。
しかし、そうはイカのキ○タマだったのです。
まあ、やるだけやってみる事にしよう。
この場所の写真は見た事ないなぁ、リブを伝って向こうまで行くってのも面白うだが時間がないなぁ。
面倒なのでビレイ役を買って出て相棒に降りる様に指示、アンタ身体軽いから大丈夫でしょ。ステップテンション取れなかったらパワフリャーに引っ張り上げてやろう、だから行け。
5分位アレコレ試行錯誤してる様だが既に姿が見えない、が。
変態だー!!
絶叫にびっくりしてザイルを引くと普通に相棒が顔を出した。
「なに、どうしたの今」
「あ、山に来たんで叫んでみたんですよ」ニカッ
まじなんなのアンタ。
それでは本格的にこの未開発区間(開発が中断した廃道)をご紹介して行きましょう。
と、行きたい所で3度目の悪夢。八坂(三ッ沢集落)、大山祇神社と引き続き文字数制限のアウトを喰らってしまいました。って事でキリの良いこの辺で前後編に分割エントリーとしたいと思います、通しで読みたかった方には本当に申し訳ないです。
と、言っても明日には後半のエントリーをアップ致しますので是非お読み下さい。
それでは本日は以上と成ります、後半リンクは上記よりどうぞ。
アプローチ
国道135号線から伊豆急行線の陸橋から八幡野住宅街に枝を折れます、赤沢住宅街へ向う途中、この枝の道路途中に廃橋が見える筈です。
地図リンク
http://yahoo.jp/U-SiYx
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REPORT - 220 │ 赤沢八幡野連絡道(赤沢八幡野連絡橋)
静岡県│未完成ループ橋(赤沢八幡野連絡橋)- 廃道 後編
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤沢八幡野連絡道/八幡野開発工事連絡路
文字数制限で分割エントリーと成ってしまった赤沢八幡野連絡道のレポート、本日は後半と成ります。前回の訪問と前半のお浚いは以下のリンクよりどうぞ。
早速ですが前半部分の最後尾から続きのレポートをどうぞ。
それでは本格的にこの未開発区間(開発が中断した廃道)をご紹介して行きましょう。
まずこの別荘予定地へのアプローチは3箇所残されています、これは行政に残されている事業計画書にも掲載されている物で工事車両の通行を拒否した為に南側からのアプローチを余儀なくされて造成された廃ループ橋と北側からのアプローチ(分譲後に赤沢別荘地へ抜ける為に予定されていた道で現在は廃道)、そして計画段階から近隣住民の反対に在っていた当初の開発道。この3本のどれかから入山する事に成ります、今回はハッキリと確認が出来た当初の開発道へアプローチ。
開発道に関する近隣住民の拒否運動に関する内容は前回のエントリーから引用しよう。
結構危ない場所も在るので凡そですが地図画像を、こんな感じです。
別荘予定地はこの2箇所。
http://goo.gl/maps/xy710
http://goo.gl/maps/H2hll
廃道へのアクセスは容易ではなく、計画時の通行路より更に北側の現在の赤沢別荘地と一番隣接する場所からアプローチする事に決定。本当は崩落場所からアタックしたかったのだけどそれはまた次の機会としたい、いやします絶対。
1976年の航空写真を確認するとまだ落ちてない橋とそこから続く開発の為の工事用車道が延びている事が解るだろう、地図内の朱入れされている場所が今回の目的地だ。
この斜線の印は原本に描かれている物で当時の事業計画が地図製作でも大きな改定場所として認識されていた事が如実に解ると思う。取り合えず今回は廃道の全貌を明かすには時期が悪いのでこの場所を目的地に据え、真夏の怒M藪漕ぎを慣行したい。
この地図は1976年に撮影された航空写真、それに現在の地図に記載されている道を重ねて見た。
この朱入れされている場所、計画当初では別荘地区画では無かった。と、言うのもループ橋(赤沢八幡野連絡橋)からも赤沢別荘地からの連絡道からも、遠い。また立地も丁度山と山の谷間なのも造成の難しさを指摘されていた。しかし開発に着手した不動産会社の見込み利益が南側と北側だけでは回収に時間が掛かる懸念され、計画見直しの際にこの中央部にも整備区画を割り当ててしまった。
工事用の通行路からは近いと言う利点も在ってその後この部分の斜面は急ピッチで削られる事に成る、それがこの朱入れの部分と言う訳だ。紆余曲折の一番新しい造成地で在れば何か当時の痕跡を見つける事が出来るだろう、そう思って目的地に据えたのだけれど…いや、これが…ねぇ。うん、まあ後述しよう。
この航空写真も先程同様に1976年に撮影されたもの、数ヶ月先の物で道路や建造物の設置が進んでいる。幾つかピックアップしてキャプションを付けてみよう。
① 当初の開発予定区画(A区画)
開発区画の把握の為、最初に整備が開始された場所、確認する事が適うならば恐らく一番道路の痕跡などが色濃く残っている筈の場所だ。
② 当初の開発予定区画(B区画)
開発が容易な場所に計画された区画、道路の整備は比較的初期にされた。しかし場所は近いのだけれど斜面の傾斜がキツかった所為で土地整備は遅れていた様だ。
③ 計画見直しによって新に加わった区画(D区画)
この区画は先程詳しくお話した通り、今回の目的地と成っている。
④ 工事関係のプレハブなどが設置される予定だった場所
この場所は工事関係者用のプレハブが数棟建設予定だった、また別荘地が完成した後は不動産業者の管理棟を建設する予定だった様だが結局どれも設置される事は無かった。
⑤ 当初の開発予定区画(C区画)
赤沢別荘地の通行路、崩落したループ橋共に一番遠い場所に位置する開発区画。しかし区画整備は当初より進められ、拡大写真で確認すると一番最初に工事関係者用のプレハブが2棟設置された場所。この場所も何れ調査予定だ。
今回の探索では廃道を確認する事が一番の目的だ、調査によって廃橋、開発区画、道路整備などに関してはある程度判明したのだけれど実際の痕跡を見付けるまではやはりモヤが晴れない。
晩秋、ブッシュが薄くなった時期に3度目の正直として全ての廃道を明らかにする予定だけれど今回は兎に角「開発の痕跡を発見する」事に重きを置く様心掛けた。
地図上のポイントで言えば廃道+①と③が発見出来れば上出来だろう、それではいよいよ廃道へアクセスする事にしよう。
正確なアプローチポイントは近隣住民の迷惑になりそうなので控えさせて欲しい、兎に角現段階で一番廃道から近い場所から山間部へ入る事にする。
この辺とだけ。
そして2分程GPSを確認しながら廃道方面へ歩を進めると道らしき痕跡を発見出来た、どうやら正解の様だ。GPSの位置情報もほぼ廃道上に位置している、ここから南下してみよう。
と、言うか。
初っ端からコレもんですか、まあ予想してたブッシュよりは薄い様なので助かった。倒木は人の手が入ったと言うより開発当時に簡易整備(土砂の凝固+掘削)されていた両側面が豪雨などで滑り落ち、一緒に倒れ込んでしまった様に感じた。
しかし道路痕自体は確実に人の手が入った事を示していた、これは更なる開発の痕跡が発見出来る事を予感させた。
等高線が若干集まってくる地点、GPS上でも同様の場所。道幅が極端に狭く成ってきた、そしてブッシュが濃い。
しかし写真を見て貰えれば分かる通り、両側面(写っている場所では左側)に関しては太くて樹齢の高い木々が茂っているが廃道上には若く細い木や草などしか生えていない。つまりここも立派に道路として簡易整備され、そして使用されていたのだ。
ただ気に成るのは左側は本来道路より隆起している筈がむしろ2メートル程沈み込んでいる、これはどう言う事だろうか。整備不良の為に自然に滑り落ちたのだろうか…。
いや、違うぞ。
ココが分岐地点なんだ、フラットな道でY字の分岐を予想してたけれど下方の沈み込みを確認すると人の手で造成した形跡が見て取れる。と、言う事はこの分岐を左側に進めば今回の目的地とした新しい整備区画(D区画)が姿を現す筈。
分岐を左側に進むと左側面はキツイ傾斜、右側面は緩く落ち込む大きな造成跡に辿り着いた。
ココなのか。
写真で確認して欲しい、いたる所に崩れ落ちた石垣(と、言うか恐らく造成用の石材)が散乱している。そして付近一帯が新しい木々しか群生していない、うん…間違いない。ここが計画の見直しで新に加えられた別荘開発区画、D区画だ。
だが、しかし。
1976年の航空写真ではアレほど綺麗に剥ぎ取られていた斜面がスッカリと自然に帰っている、期待していた基礎部分の工事跡や工事機器などの残留物は見付ける事が出来なかった。それでも確実にココに人が手を入れた(と、言うか人が来た)形跡を見付ける事が出来た。
コカコーラの空缶だ、パッケージを確認する。コレで開発当時のデザインなら決定的な物的証拠に成る、帰宅後にコカコーラ社の国内における缶デザインを参照する。(缶底のロットナンバーは不明瞭で読めませんでした)
んんん?
このデザイン、1991年の物だ。
いや、ちょっと待て。この八幡野別荘地の開発は1970年代中盤に行われ数年で頓挫、それから再開発などの話は何度か持ち上がったけれど1991年と言えばバブル崩壊の年だ。そんな時期に再計画など企画される訳も無いしそもそも頓挫から既に15年程経過した山中に確認に来るとも考えられない、あれー?
しかしこのコーラを飲んだ主は明らかに1991年にココに居た事に成る、誰が何の為に一体。
因みに現在の350mg缶、通称”豚缶”は1970年代の中盤には既に国内のコカコーラ社が採用している、しかし決定的に違うのはフラットデザインだったと言う事。当時の豚缶はそれまでの250mg缶をその間々大きくした様なシンプルな物だったのだ、しかしそれに近い空き缶は残留物の中には発見出来なかった。
このD区画から先は急にブッシュが濃くなって行った、そして緩やかに下っていた道は再び登りへ変化しつつある。道が不明瞭に成って来た事とこの先の廃道が若干複雑化する事を考慮、先程の分岐まで引き返してもう一本の枝道へ行ってみる事にした。
緩やかな登りを引き返す。分岐点の北から見て右側の枝道へ入る、少々濃いブッシュを越えると広い廃道が姿を表した。そしてココに来てハッキリと造成跡の痕跡を見付ける事に、抉り取られる様に二車線分の廃道の側面に写真の様に太い電線が走っていたのだ。
工事用の電力供給に使用されたと思われるこの電線、直系にして200mm程、そしてとても重い。地中から顔をだしたり埋まったり、良く見ると今来た廃道沿いに走っている様だ。
確認の為、面倒だったけれども分岐へ再々度戻ると北側へ折れていた。推測としては最初に区画整備が開始されたA区画へ伸びているものと思われる、が…途中で再び地中に潜り込んでしまってその先端部分を追いかける事は適わなかった。
電線発見現場に戻り、GPSで確認すると赤沢別荘地まで100mを切る距離まで来ている。この間々進めばアプローチ地点とは違う別荘地の道路脇に顔を出せるだろう。
そして少し歩いた頃だろうか、丁度相棒が「アニーにおまかせ」をフルコーラスで歌い終えようと言うタイミングだ。
!!!
鳥肌が立った。
あー、これは流石に解る。
これだけ立派な掘割はこの廃道の中では初めて見る、相互通行が出来そうな位の道幅とクッキリと残る造成跡、開発は確実に行われていたんだ。
振り返ると「蒸着した甲斐がありましたね…」と相棒…おいおい、歌の流れから言えば「焼結」だろ?
急にブッシュが濃くなって来た、等高線とGPSを確認するとこの間々斜面を登りつめればアプローチポイントとは別の別荘地内の道路脇に出るだろう。
さて、最後にこの赤沢八幡野連絡道について少し語るとしよう。
ここまでこの廃道パートを読み進めて来て疑問に思った事はないだろうか、そう…”アスファルト”が見て取れないって事実だ。今回確認出来なかった廃道区間、土砂の堆積によって埋もれている…そう考える事も確かに可能だろう。しかし幾ばくかの廃道を歩いて来た経験上、廃道歴数十年のアスファルト廃道にこれだけの草木が生い茂る場面を見た事がない。この赤沢八幡野連絡道には廃道上に実に多くの樹木が群生していた、これは初めからアスファルトは敷かれていなかったとは考えられないだろうか。
これだけ大規模な区画整備において、だ。隣接する赤沢別荘地は開発当初からアスファルトは整備されていた、しかし記述の通り問題が山積する開発状況において正しく開発が行われたかは疑問が残るところ。
また赤沢別荘地から予定していた工事車両の通行、これらが地域住民の反対にあって赤沢八幡野連絡橋(廃ループ橋)の設置に至ったのはこの山道から出入りする車両のタイヤ、その状態に問題が在ったのではないだろうか。
簡易整備されただけの通行路、勿論タイヤには大量の泥などが付着する。その状態で走行された別荘地内の道路は言わずもがな、ましては閑静な別荘地での大型車両の騒音も相まって反対するには最もな理由が挙げられる筈だ。
今後の最終現地調査をもって判断したいと思うのだけれど、恐らくはこの廃道にアスファルトは敷かれていなかったと予想される。統一されていない企業の開発運営、利益を重視した見直し案、そして倒産が近づいていた不動産業者の開発工期…これらを総合的に判断すとこの廃道も開発計画においてずさんな管理状況だった、そう判断されてもおかしくないと思える。
法改正も時期的にタイミングが悪かったとは言え、この別荘地の開発にはまだまだ明かされていない問題点や事実が隠されていそうで興味は尽きないのです。
更に少し歩いた後に別荘地の道路脇に出て廃道が終わりを告げた、廃道の先端付近は写真の様につい最近伐採された若い樹木の切痕が数本。ここからこの廃道に出入りする人でも居るのだろうか、若しくは山菜取りか。
最後の最後にちょっとした疑問点が増えてしまったけれども現地レポートはこれで終了したいと思います、全ての廃道を明らかに出来なかったし小さな疑問はまだまだ残っている物件、赤沢八幡野連絡道。もう一度藪の薄い時期に再訪して今度こそ全容を明らかにしたいと考えています、それではこの複雑で問題が山積した別荘地開発の簡単な年表と言うか、まとめの解説を書きたいと思います。
1973年 市内の不動産会社が八幡野の山間部に別荘地を企画
1974年 具体的な開発計画が複数の企業賛同の元に決定
1974年 山間部の土地開発に関する法律が改正
1974年 ~1975年の間に八幡野別荘地の開発開始
1976年 赤沢八幡野連絡橋(廃ループ橋)が完成
1977年 主導した不動産会社が倒産し開発が中止(倒産は1978年とも)
・放置期間 (時期詳細不明)何回かの再開発の企画・計画が出るも具体化せず
・放置期間 (時期詳細不明)土地の管理・利権が分散化
・放置期間 (時期詳細不明)開発区画の一部が県外の企業によって買収される
1993年 行政が赤沢八幡野連絡橋(廃ループ橋)の崩落を確認
この様に開発が頓挫してからと言うもの、この山間部の区画を巡っては県内外を含む複数の企業が手を入れしまいます。その為にどの企業が再開発や造成を再開するのか、また廃ループ橋や残されたインフラの撤去を行うのかが一筋縄では行かない状況を生み出してしまいました。
複数の企業がバラバラに入手した土地と成っている為に行政が主導して再開発や撤去などを行うのも難しく、残されている資料も僅かな為に正確な情報も入手し辛い訳です。また区画整備と通行路、ループ橋、インフラなど別々の企業が行っており、これも問題の複雑化を招いている一端と言えます。
今回のレポートは多岐に渡る取材、現地調査、机上調査、個人資料、行政資料の部分抜粋でまとめた物です。なので記載した内容が全て事実とも限りません、また推測も含まれている為にあくまで数多の情報を一本化した内容として読んで頂ければ幸いです。
本日は以上です。
アプローチ
国道135号線から伊豆急行線の陸橋から八幡野住宅街に枝を折れます、赤沢住宅街へ向う途中、この枝の道路途中に廃橋が見える筈です。
地図リンク
http://yahoo.jp/U-SiYx
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REPORT - 0702│間滝 - 後編
千葉県 │ 間滝(麻滝/間ノ滝/魔の滝) 後編
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 間滝(麻滝)
前編は以下よりどうぞ。
前編からのレポート続けます。
まずは地形の把握から入る、冬季と雰囲気は一転しているけれど地形が変化した訳じゃない。カメラの機材を背負って安全に降下する為にビレイが取れる場所とプーリーが設置出来る樹木を探す。
岩壁に囲まれた滝上部、ビレイの場所は取れてもビレイを取る人間の安全確保が心配だ。またプーリーが設置出来そうな樹木も少々距離が在る、岩壁に再度登って上方の樹木からロープを垂らす案を採用、ロープへの負荷バランスが良くないが仕方ない。
結局ビレイスポット後方の樹木からロープをエクステして滝を降りる事にした、セーフティロープも同様に設置してフックポイントとステップポイントの確認、水量の確認を行う。
photograph : saorigraph
photograph : saorigraph
最初に降りるのは割橋シリーズで特攻(ぶっこみ)担当のいつもの相棒、ワタクシ、新顔の学生の順、弟子(♀2○歳)は無線を持たせて上部待機。相棒に先行させて間滝第一瀑布の滝壺と着地地点の確保、確認をしてもらい、更にビレイを取って順番に降下。最終的には機材を背負った僕が滝壺より更に奥の間滝第二瀑布手前まで後退する事にした。
※ シャワーラペには本来12mm以上のザイルを使用、今回は使い捨ての為編みロープを使用しました。
どうやら第一瀑布は攻略可能の用だ。さて、問題はここからなのだ。
この小さな第一瀑布のエントランス部分から今まで間滝の全容とされて来た第二瀑布を降下する事に成る。しかしここからビレイやセーフティロープを新規に設置する事が出来ない、つまり最上部から伸ばしたロープで更に降下すると言う事だ。
photograph : saorigraph
ダブルロープとは言え新規に負荷方向を変更出来ない状態での降下は少々危険だ、たかだか10メートルだがそれでも一歩間違えれば大怪我をする事になり兼ねない。
第二瀑布の上部から下を覗き込むと抉り込む様なゴルジュ、そして堆積物が邪魔して見辛いけどオーバーハングして流れ落ちている事が解る。つまり滝上部からは第二瀑布の滝壺を見る事が出来ない、うーんコレは困った。
遡行ルートが壊滅的な現在、第二瀑布にどうやってアプローチするか。
悩んだ末、もう一度来たルートを途中まで戻って迂回する事に。道なき道を恐らく初めて踏破するルーファンが予想される。まあ取り合えずは美しい秘瀑「間滝・第一瀑布」を撮影するとしよう。
機材を片付けていざ撮影、資料写真用に沢山撮ったがココで全て紹介するのは控えよう。横構図と縦構図を撮影して撤収作業開始、これから第二瀑布に向う事に成る。
一先ずはお疲れ様でした、しかしこの後に地獄の山行が待っているとはなぁ。
間滝(まのたき)第一瀑布
上流から数箇所設置されている砂防ダムを昇降しながら下ると間滝第一瀑布が見えてくる、過去に間滝とされて来た第二瀑布を含めて複合連続瀑布帯(小滝を含めると5つの瀑布帯)が形成されていてこの第一瀑布が最初の滝と成る。
アプローチの難易度は10段階評価で2~3(沢屋・岩屋的考察)程度、一般的に少々厳しい地形(急傾斜)とルーファンを要する。この場所は必然的に個人が勝手にアプローチ出来る場所ではないのでどうしても行きたい方はお問合せ下さい、来訪目的によっては対応致します。
因みに地元の方(上流部に家屋が在る方)が言う間滝は実はこの第一瀑布の事でして、下流部の方が言う間滝は第二瀑布と言うちょっと変わった認識のされ方をした連続瀑布です。この辺も実は色々と伝記や言い伝えを含めて調査したのですが長く成るので割愛させて下さい。
さて、第一瀑布からのラペリングが不可能だったので迂回ルートを選択して道無き道を開拓しながらのルーファン。所々に炭焼き時代の古道が薄っすらと見え隠れ、何箇所かロープを垂らして急斜面を慎重に降りると1時間程で第二瀑布の流れ落ちる音が聞こえて来ました。
下流からの遡行ルートも断絶した今、ゴルジュをラペで降下するしか第二瀑布(今まで間滝の本滝とされてきた滝)へ向うルートは在りません。
当然ラペで降りたら垂直懸垂登攀するしか帰路は在りません、ゴルジュの壁質は硬度の低い泥岩で踏ん張る事は出来ません。もし独自にこの場所にたどり着いても単独アタックは絶対にしないで下さい、岩屋経験者が数人居て初めて10~20メートルの泥岩登攀は可能と成ります。
因みに第二瀑布手前には15年前に残されたテレビ取材で使用されたと思われるロープを発見しました、しかも別目的と思われる登攀用のハンガーボルトの打痕も数箇所。どう考えてもこんな軟質な壁には意味を成さないのに何故打ったのか、そう言えば第一瀑布にもステップポイントやフックポイント用に抉った跡が残されていたな。
photograph : saorigraph
奥が下流、この先50メートル程の絶壁をラペで降りて来た。驚いた事に前回初めて田代滝でラペリングを教えたばかりの弟子(♀2○歳)が降りて来てるではないか…
「き、貴様どうやってココまで来たんだ!まさか降りてきたのか。」
「えー、だって間滝見に来たたしー。見ないと意味ないしー。」
ジーザス
おまえスゲーな、僕だって降下するのにちょっと考えたのに。てっきり崖上でポニョってるかと思ってたよ、スゲーよホントに。
これが若さか。
「おまえ帰りどうすんだよ、アレ登れねぇだろが」
「えー、多分なんとか成りますよー(真顔)」
そして弟子(♀2○歳)は一瞬満面の笑みを零す、これはいい笑顔(椎名軽穂的に)。
ラーメンのチャーシューは最初に、寿司は下痢するまでウニ、宝くじ売り場での第一声は「当たり券1枚」…彼女は全力なのだ、如何なる時も。
photograph : +10
それでは単体の滝とされて来た間滝の第二瀑布に向うとしよう。
ゴルジュ上部からラペで降下、下方10メートルはナメ泥質の垂直壁。正直に話すとロープの回収が出来なかった場所が在る、内緒な(震え声)。
降下地点から50メートル程上流へ遡行すると滝の音が聞こえてくる、段階的な小滝群が姿を現して来訪者を阻む。小さな連続瀑布帯はM字に入り組んで10メートル程登る事に成る、そして最後のクランクを曲がるとずっと逢いたかった第二瀑布が眼前に。
photograph : +10
色々凄過ぎてわからない
「コレかな?」
「コレですね」
相棒も興奮気味に話す、そして勢い余って尿意を開放する。
放尿をしに向った相棒が大地に向って何やら叫んでいた、
「月光蝶であるっ!」
絶好調である。ディアナ様、先を急ぎましょう。
1時間程前に顔を覗かせた滝上部、下から見るとこう成っていたのか。来てみれば成る程、人を寄せ付けない立地条件だ。以降も訪れる人間は居ないか少ないだろう場所、そんな場所に来れた事が何とも嬉しいではありませんか。
辛く厳しい行程の最後にやっとこさで見る事が叶った間滝、その迫力も当然の事ながらなんとも美しい。
それでは帰路に着くとしよう、写真には残って無いのだけど本当に辛くて軽く遭難するかも…なんて思った一行が協力者のKさん宅に到着するまで凡そ2時間を要する事に成る。第二瀑布の詳細は下記参照、アプローチ難易度は10段階評価の5+と言った所、装備が有ればなんとか。
色々と現地調査を行い、資料写真も沢山撮影した。美しい風景に眼球破裂、房総の山に痺れ帰宅後に同行者全一致で吐いた言葉があった。
それ程辛い取材撮影だった、房総侮るべからず。兎に角本当に辛かった。
photograph : saorigraph
それでは最後にこの房総の秘瀑と名高い「間滝」に纏わる色々な事柄を書き連ねようか。
房総の秘瀑「間滝」とは
間滝は地元では殆どの人が知っている滝で実は秘瀑と言われる様な存在ではない、しかしそのアクセスの困難さが人を遠ざける結果に成り、付近の地域から少々離れると殆どその存在を知らないと言う事に成った様だ。後述する菅原譲太郎氏が第一瀑布を初めて発見したとの情報も過去には在ったが記述の通り、地元の方には何代にも渡ってずっと知られていたし1980年代には一部の沢屋にもアタックされていた様だ(この時はまだ沢ルートが存在していた)。
富津市での確認は1997年中頃、富津市広報誌に連載が開始される予定だった「滝シリーズ」に先駆けての事前調査が切っ掛けだった。この「滝シリーズ」が開始される事に成った経緯には写真家の菅原譲太郎氏が「富津市内の滝を紹介してほしい」との要望を行政サイドに打診し、元々広報誌で「癒し」をテーマに何かに焦点を当てる企画が立ち上がっていた事で話がまとまった様だ。
富津市広報誌の連載が決まり、「滝シリーズ」第2回(1997年12月01日発行/広報誌309号)に選ばれたのがこの「間滝」で続けて第3回(1998年02月01日発行/広報誌310号)にも登場している。今迄は地元民しか知らなかった秘境の滝「間滝」が初めて公共の目にお披露目したのだけれど実は時を同じくして全国区でも知れる存在と成る。
なんと1997年10月頃、広報誌に先駆けて日本テレビがこの「間滝」を取材していたのだ。番組は当時日本テレビでは朝の顔だった「ズームイン朝」で短い時間ながら確かに「間滝」を取上げて内容がテレビで放映された様だ。この取材時にも既に登場したOさんが全面的に協力し、今回の滝上部からのルートを取材班に教えたとの事。
この様に一時期的にメディアに取り上げられたこの滝だったのだけれど日々暴力的に生産される数多の情報に埋もれ、結局は一部の沢屋や滝好きの記憶に残るばかりと成った様だ。行政サイドからは当時の富津市広報誌のサンプルデータを頂いたのだけれど菅原譲太郎氏の写真に著作権があり、ここでその間々お見せする事は出来ないのが残念だ。少々画像と掲載方法を変えてご紹介しよう。
平成10年02月号 間の滝(まのたき)その1 田倉
「自然のままの姿が迫力に満ち、美しい」
「滝つぼには大きなクモが住み、滝を見に行った人はそのまま帰ってこない」と地元の言い伝えがある間滝。秘境の素朴さとぶきみさをあわせ持ち、自然のままの姿が見る人を圧倒します。落差10メートルから流れ落ちる滝は、悠久の時を刻んで岩肌をえぐるように浸食し続けています。自らの姿を隠すように奥へ奥へと。切り立つ岩に響き、とどろく水音。断がいが迫り、昼なお暗い間滝は、「魔の滝」の呼び名がふさわしいようです。
平成10年02月号 間の滝(まのたき)その2 田倉
「初めて全姿を現した、幻の滝」
前回紹介の「間滝」の上には、「もう一つの滝」が…。やぶを下り、沢を登って、やっとたどり着いた間滝。滝口に横たわった流木を取り除こうと再びやぶの中へ。目的の流木へたどり着いたつもりが、そこは、もう一つの間滝の口でした。垂直に落ちているため上からのぞいても姿は見えません。下の滝に10メートルのはしごをかけ、瀑音の中、飛まつを浴びながらやっとの思いで上の滝と対面。断がいをえぐり、落差7メートルを一気に落ちる滝、とどろく水音。おそらく、ファインダーからのぞかれたのは初めてでしょうが、たじろがず「威風堂々」の言葉がぴったりの名瀑です。
広報誌にも在る様に巨大な蜘蛛が滝に住み着き、滝見客を蜘蛛の糸で巻いて食べてしまうと言う恐ろしい言い伝えが残る間滝。呼び名が「まのたき」で在った事から言い伝えを知った地元民は皆「魔ノ滝」と勘違いしていた、と子供の頃の思い出を話してくれました。
魔物が住む滝、間滝。数度だけだけれども訪れてその魔物に確かに取り憑かれた事が解る、自然の美しさは確かに魔物。ウッカリ足を踏み入れると大怪我をすると言う古い言い伝えが蜘蛛の姿を借りて語り継がれたのだろう。
こんな美しい間滝では在るけれど北側(源流)にマザー牧場が出来てからは水質が悪化し、下流にはゴミが小さなダム造る様に堰き止めていた。東側のゴルフ場からも変色した水が支流に流れ込んでいるのを確認している、無責任な飼い主が放した犬達が集団と成って野犬化して滝付近に姿を現す事も在る(実際に遡上中に多数の野犬の声に追い掛けられました、姿は確認出来ず)。現地を訪れた者からしたら秘瀑は秘瀑として残して行きたいと思う、なのでこの間滝の詳細な場所は掲載しない事とした。説明部分にも一部大げさなフェイクを混ぜた、地元民からの希望でも在るのでご了承願いたい。
最後に補足。ある有名な滝サイトに掲載されている「河床縦断面」、これも現地調査した結果随分と違う地形だった事が解った。このサイトの掲載文では「滝の遷急点より急勾配(上流側)が続き、遷急点の少し上流で湧水が始まっている」と在る。現地は滝の急勾配(上流側)は緩やかに沢が続き、しかも湧水地は随分と稜線寄りだった。と、言うより湧水地は一箇所ではなく、左右幾つもの湧水支流から流れ込む事で恩田川が出来上がっている。
この辺の詳細は行政への資料(及び写真)提供と測量企業との合致精査の上、何れ公開したい内容だ。もう一つネタを書くとこの付近には「間滝(第一・第二瀑布)」の他にも滝が存在しています、勿論国土地理院にも掲載されていない正真正銘「新発見の滝」なのですが此方も諸事情で公開まで暫くお時間を頂く事に成ります。(地図を作る為の検証精査って大変なんだなぁ、測量企業さんってホント真面目)
国内でダントツに低い原野を持つ房総半島、それでも魅力溢れる沢や滝は沢山在る。間滝もその一つだと思って貰えたら沢屋として何より嬉しい限りだ。
今回のレポートは以上です。
※ 間滝周辺は現在富津市管理課が管理する土地です、個人・企業の土地では在りません。
※ 遡上、滝降り共に個人所有敷地内からのアクセスの為に一般の来訪は出来ません。
※ 間滝への同行依頼・詳細の問い合わせ等はお受け出来ません、何卒ご了承下さい。
(どうしても…と言う方は市・土地管理宅の方と協議をして餡子対応させて頂きます)
幾つかの追記したい事が在るので後に解った内容と併記する形でお伝えしたいと思う、この間滝もこの1年で随分と有名に成ってしまいました。
間滝へ私有敷地及び企業内敷地を経由して来訪する者が続出
以前より房総の秘瀑として話題に挙がる事が多かったこの間滝、当ブログで凡そのアタリを着けて不法に入渓する者が続出している。最初の不届き者はなんと東京山岳会に所属する私設登山団体のメンバー、この方達に関しては写真の不正使用なども在り、また随分といい加減な方達だったので行政にも報告。地元の住民にも注意を促す事に成った、その後ゴルフ場と地域住民の監視が以前よりは強く働いていると聞くのだけれど…。
しかしその後も不法入渓者は続き、ついに監視カメラの設置が。場所は言えませんが既にその場所にて3組の企業敷地進入、個人私有地進入時の姿が撮影されています(別の場所で車のナンバーなども記録されてました)。
監視カメラは数台設置されています、これ以上頻繁に無許可の進入が続く様だと即通報も考慮すると地域の方が仰っていました。とても魅力的な場所ですが企業敷地、個人私有地からのアプローチはどうかご遠慮下さい。
さて、それでは何故この様な事に成っているのか。
それは本来の上流からのアプローチ(個人宅の畑脇の斜面)、下流からのアプローチ(個人農場内の私設旧道/ゴルフ場敷地内)の何れも許可が必要だと言う事です。通常ですとどうしても個人のアタックに関しては許可が出ません、と言うか許可が更に出辛い状況と成ってしまいました。
行政も何か手を打つ可能性も在るので重ね々ねと成りますがどうか無許可・無断進入でのアプローチはお控え頂きたい思います、以上が地域住民の方からの伝言です。
間滝への旧作業道からのアプローチが知られてしまう
実はこのエントリーを書いて直ぐ、地元の方から製炭時代の旧作業道(現在山道として一部では山歩きの方に知られている廃道)が在る事を教えて頂きました。丁度2014年に出版社と新聞社合同での取材撮影が予定されており、その時に使用しようと考えていたルートです。
しかし親切な方が手製の案内板を数個設置、比較的危険の少ない道順と沢の遡行で第二瀑布まで行けるルートが広く知られてしまう結果と成りました。このルートには富津市管理課が管理する土地が含まれている為、近々全てを撤去する予定だと聞いております。今後、再び設置する様な事がない事を祈るばかりです。
現在許可が要らない間滝へのルートは…
実は許可など必要のないルートは幾つか、と言うか2つ程(私達が確認している限りですが)存在します。1つはそこそこ高さの在るゴルジュのピークからラペで降下する事で沢に下りるルートですが沢屋や岩屋でないととても危険です、クライミングギアの知識と使用経験がある方ならそこまで難しくは在りませんが最低でも2人以上でアタックして欲しいと思います。
そして残るルート、これが酷く長い遡行を必要とする恩田川下流からの遡行ルートです。途中どうしてもゴルフ場内を抜けますが巻く事で回避出来ます、正直余り現実的なルートでは在りません(恐らく片道3時間以上)。
私達も地元広報誌や新聞社への写真提供などの大義名分が無ければ易々と行こうとは思わない場所(立地)です、この場所へどうしても行かれたい方は今暫くお待ち下さい。そう遠くない時期に山道の整備が…おっとコレはもう少し詳細が決まってから再びアナウンス致しましょう。
さて、ココから追加調査の結果報告(と、言うか確認項目のチェック)と成ります。
この物件のエントリー時にも書きましたが恩田川源流付近にはまだ公表されていない滝が幾つか在ります、それらを含めて2014年に再度調査撮影に来訪するのですがコレがまたシンドイ感じです。
・間滝第一瀑布測量/資料写真撮影
・間滝第二瀑布測量/資料写真撮影
・湧水地点の確認(各ポイントのGPSチェックと湧水量測定)
・周辺山岳部の調査(行政が確認していない砂防ダムが在る為)
・未公表の3つの滝の調査
この5点です。
それぞれが既に個別調査として色々と動きが在るのですが再訪エントリー時に公開許可が降りた物を皆様にお伝えしようと考えております、興味の在る方はもう少しお待ち下さい。
本日は以上です。
アプローチ
秘境及び廃墟物件は自然保護と建造物保護の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
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REPORT - 0101│竹内農場(赤レンガ西洋館)
茨城県│竹内農場(赤レンガ西洋館)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 茨城県 竹内農場(赤レンガ西洋館)
今年も残す所僅かと成った2009年、年末。廃墟では有名物件である「竹内農場」に行って来ました、俗称では「赤レンガ」や「西洋館」でご存知の方も多いと思います。歴史はとても古く、建築されたのは1920年、所有者は吉田茂の実父の竹内綱。姓が違うのは竹内綱の親友で在った吉田健二の養子と出され為に吉田姓に改名した為だ。建築されてから10年と経たない内に手放され、同時期に建設された関連施設は売却されたがこの赤レンガの棟は複雑な経緯が在って取り残された様だ。
1931年には殆どの関連会社や人間の手を離れ廃墟への道を辿るのだけど歴史が何とも面白い、この竹内農場を記録した文献「龍ヶ崎・牛久・取手の目で見る100年の歩み」を読むと建設に至る背景や稼働した数年間の来客者などが想像出来ます。
現在はご覧通り、地盤と外壁を残すだけで自然の侵食を大いに受けている。しかし建造から90年近くが経過している事を考えれば当時としても強固でデザインも西洋文化を取り入れた素晴らしい物だったに違いない。
近年は心霊スポットとして雑誌やテレビ、ネットでも取り上げられてしまい、心霊系アタックや若いパッションを爆発させても尚有り余すエネルギーを発散する対象を探し求める茶坊主どもに荒らされいる。貴重な歴史的建造物だけに行政が文化財的な申請をして保存する事もアリだと思うだけどどうなのだろう、そう成ると写真好きや廃墟フリークが困る事に成るのかもなぁ。
この場所に限らず暗所での撮影は色々と不便な事が多い、それはカメラの設定だったりレンズの選択だったり。廃虚は特に狭くて暗くて構図も限られてくるし撮影には苦労する被写体の一つ。
訪問後の机上調査でこの建造に関わった方のお孫さんに当たる方をウェブ上で発見、また行政への問合せで色々と知る事が出来たのだけれど内容が長くなるので今回は割愛、何れ整理して追加レポートしたいと考えております。
まずはその前に機材を変更して再訪撮影、いつ崩れるかも解らないので早めに行きたいと。
最後に正面から、この竹内農場は度重なる無配慮アタッカーさんのお陰でヒッソリ楽しむ方々にも双方不利益を出し始めている様です。管理物件なのだけどこの場所にセキュリティは無し、なので場所さえ解れば出入りは自由。密林に覆われて解りづらいといえ近隣付近の住民からは度々訪れる土地の者でない人間の出入は怪しく映り、来訪者と近隣住民のトラブルや警察への通報も何度か在ったようだ。
もし今後来訪される方が居るのだならばヒッソリと、そして劣化意外の破損が生まれない楽しみ方をお願いしたいです。オマけで建設当時の資料写真を掲載。
いまでは見る影も在りませんがそれでも廃墟としての魅力は満点、大変美しい場所でした。コチラの資料写真は「龍ヶ崎・牛久・取手の目で見る100年の歩み」から転載、場所はこの資料名から茨城だとは解ると思いますが敢えて不掲載(2011年に公開しました)。探すのも楽しいですし直ぐに見つける事が出来るでしょう。
さて、この場所。地元で企画されたウォーキングイベントのコースに入っていまして取材撮影で同行させて貰いました、元行政の方も同行されていて色々と教えて頂きましたがホント歴史が在る建造物なんです。な、もんで興味は尽きずで再訪しました↓。
2011.09.25 - 追記 カメラ機材を変更して翌年の9月に再訪しました。
アプローチ
蛇沼の畔、沼の北東の位置。県道48号線龍ヶ崎若柴の長山北交差点2本手前の私道を蛇沼方面へ、畑を抜けて最初のT字路の角に鬱蒼と茂る森の中にこの廃墟は在ります。
地図リンク
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REPORT - 0102│海軍鹿島航空隊基地跡
茨城県│海軍鹿島航空隊基地跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 茨城県 海軍鹿島航空隊基地跡
2010年最初のレポートは茨城県では有名物件な「海軍鹿島航空隊基地跡」です、こちらは隠す物件でも無いので地図リンク在りですが探索は自己責任にてお願いします。
2011.04.30 - アプローチ+リンク記載しました
ここは当時軍国家としても利用価値の大きい大日本帝国海軍航空隊の1つとして建設された飛行場とその関連施設です、1920年から本格的に使用され、戦時中の国策を担う上でも重要な役割を果たした施設だった様ですね。詳しい事は流石に有名物件、アチラコチラで紹介されてますので割合します。
まずはグーグル先生のマップを空撮写真でどうぞ。
この基地跡全体が詳細な解像度で見る事が可能です。
写真では見切れてますが手前には「元鹿島海軍航空隊基地の跡」と刻まれた記念碑が建立されています、大きな防空壕の様なコンクリート建設物は燃料庫として使用されて付近はその関連施設の痕跡も見て取れます。
現在は付近の農家の農業用工具などが保管されていて二次使用が行われている。
意外と知られていないのがこの場所が「水上機搭乗員養成基地」だったと言う事、つまりあくまで”海軍所属”で航空基地としての重要性よりも海上戦に特化した人材を育成・運用する為に作られていたと言う事実。水上艦や潜水艇などの訓練もこの基地や付近の海域で行われていた。
しかし時代は海上戦より空中戦をメインに展開され、軍需産業も船よりも飛行機を主要鉄産業として捉え始めていた事もあり、結局は海軍兵学校出身の飛行学生や各隊の志願者から優秀なパイロットを養成する機関として運営したそうだ。この転換は早急に行われ、開隊から1年も掛からなかったと記録に在る。
整備工場跡、と言ってもかなり小規模な工場だ。飛行機と言うより各パーツや小型海上艇などの整備・改良などを行っていたものと思われる、この工場までには以前移動用レールが延びていたが現在は撤去されている。
既に解隊されてしまった発電施設とこの整備工場は場合によってその役目を交換していた様で(理由はハッキリと解らないけれど)どちらにも発電施設の痕跡が残っており、そしてどちらにも工場としての痕跡も見受けられたと知る人は語る。
グーグルマップでとても写りの良い空撮写真を見る事が可能なので建造物一つ一つをフォーカス、この建造物と二つの貯水槽はこんな感じ。
これより常用新聞社が出版した「等身大の予科練-戦時下の青春と、戦後」の販促用の紹介文を引用しながらレポートを進めよう。
常陽新聞新社 - 等身大の予科練-戦時下の青春と、戦後
http://www.joyo-net.com/syoseki/yokaren/syuuhenkoukutai.html
※ 全てをコピペしておりません、より詳細にお読み頂きたい方は上記リンクから。
霞ケ浦海軍航空隊の発端
わが国の海軍航空の始動は、日露戦争の経験を土台に始まった。1910年(明治43)年、航空技術研修のため有能な士官を欧米諸国に派遣し、1912年に海軍航空術研究委員会が正式に発足し、海軍航空術研究所が横須賀軍港追浜に建設された。
この建設と前後して、先に派遣されていた士官たちも研修を終えて帰国し、米国のカーチス飛行機と仏国のファルマアン飛行機の2機をもって、1912(大正元)年11月、追浜で飛行したのが、わが国海軍による飛行のはじめといわれる。
以後、海軍の体制づくりは着々に進められ、1916年4月、わが国最初の海軍航空隊が横須賀に開設され、海軍の航空技術教育が正式に開始されることになった。
時代は、陸・海から空の時代に入っていった。わが国も各国の航空軍備の発達に刺激され、飛行機の研究と局地的防御を行うために、水陸両用の飛行場を開設する必要が、1917年欧州から帰国した金子養三中佐によって提唱され、当時来日していたフランスのフォール大佐の助言によって、飛行場の開設が決定されたという。そして、水陸両用飛行の訓練用地として、当時の阿見村に白羽の矢がたった。
1919(大正8)年末、陸上機の練習場として阿見原に80万坪、水上機の練習場として阿見村霞ケ浦湖岸に約5万坪の土地買収が決定。湖岸の埋め立てをして1920年、霞ケ浦飛行場が開設された。
(『阿見町史』より)
霞ケ浦飛行場、用地選定理由と買収経過
陸上自衛隊武器学校編『郷土史』は、霞ケ浦飛行場の選定理由と土地の買収について次のように記している。
「この地は、金子養三中佐が発見し勧奨した…のであるが、陸上機の練習場として好適なばかりでなく、水上機の練習のためには、霞ケ浦の湖面を利用することができるので、海軍における水陸両用の飛行場としては、全く申し分ないところであった。…霞ケ浦飛行場の開設は、大正9(1920)年3月に、通称阿見原85万坪を買収したが、大部分が原野で、土質は悪く畑地に開墾しても農作物の収益は思わしくないところに、住家もわずかしかなかったので買収はきわめて順調に運び、その後1年がかりで整地と霞ケ浦湖岸の埋め立てが完了して、大正10年4月に臨時海軍航空術講習部の看板が掲げられた。これが霞ケ浦航空隊の草創期であった」
しかし、買収は必ずしも「順調」とはいえなかったようだ。当時の『東京日日新聞』茨城版は「阿見飛行場の住民 500名立ち退きを嫌って騒ぐ/移民の喧噪が全敷地内に波及す/近く委員を挙げて当局陳情」の見出しで伝えている。
(『阿見町史』より)
霞ケ浦飛行場の開場
1921(大正10)年7月22日、霞ケ浦飛行場の開場式が行われた。『霞空十年史』によると、その様子は次の通りだ。
「阿見町は勿論、近郷近在の老若男女、実に5万人が空の妙技を見んものと朝まだ早きからつめかけ、1年前の狐狸の棲家だった阿見原は人で埋まった。アヴロ陸上機3機編隊飛行、特殊飛行、オードリース少佐の落下傘降下に一同賛嘆措(お)くところを知らなかった」
こうして、阿見の地は、日本でも有数の海軍の街としての歩みを始めた。水陸両用の飛行場を備えた霞ケ浦航空隊は、おりからの航空機の世界的発達に伴い、世界一周ブームが起こり、離着陸場となった。
1924(大正13)年5月には、アメリカのスミス中尉の率いる水上機3機が飛来し、7月にはイギリスのマクレラン少佐の水陸両用機、10月にはアルゼンチンのザンニ中佐の水上機が飛来してきた。中でも有名なのは、1929(昭和4)年の飛行船ツェッペリン号の飛来である。
(『阿見町史』より)
ツェッペリンとリンドバーグ
飛行船ツェッペリン号は、世界一周の途中、1929(昭和4)年8月29日午後6時すぎ、西陽に巨大な銀色を輝かせながら、霞ケ浦上空に姿をみせ、東京・横浜上空を表敬の飛来をした後、午後7時40分に霞ケ浦海軍航空隊の飛行場に着陸した。
この飛行船は、当時世界最大で、その訪問はわが国の国民によって熱狂的な歓迎を受けた。アメリカのロサンゼルスに向けて飛び立つまでの4日間に、飛行船をみるために約30万人の観衆が飛行場に集まったという。
1931(昭和6)年8月には、太平洋横断飛行・アメリカ大陸横断飛行で、“空の英雄”ともいわれたリンドバーグ夫妻が、アリューシャン列島づたいに飛来してきた。これらによって、霞ケ浦航空隊と飛行場は、世界的に注目を集めていった。
そして、この年には、わが国海軍航空隊17隊半のうちの4割強にあたる7隊半が、集中することになり、東洋一の航空隊の基地になった。
(『阿見町史』より)
お隣へ移動。
内部も沢山の残留物が、雰囲気も良いが何故か余り興味を惹かれなかった。なので画像を数枚チラっとしておこう、まあ色々な廃墟系サイトで紹介もされているので詳細説明は割合させて頂くけれどまあボイラー室+焼却炉ってところ。
開隊の翌年に建造されいる、内部の焼却炉も開隊の昭和13年の翌年と成る昭和14年製だ。
海軍の街に変化した阿見
昭和初期は戦争の時代だった。1931(昭和6)年の満州事変勃発、1933年の国際連盟脱退などを背景にわが国の海軍は、航空隊要員の大量養成を計画。すでに1930年6月に海軍少年航空兵の募集を開始、さらに航空隊の増設と既存航空隊の整備を急ぎ、1934年8月には友部に筑波海軍航空隊の前身である霞ケ浦航空隊友部分遣隊を設置した。
1937年7月、日中戦争が勃発。長期戦に備えるために、練習航空隊2隊以上による練習連合隊の制度を設け、1938年に第11連合航空隊を開設、その司令部を霞ケ浦海軍航空隊に置いた。また、同年に練習連合航空隊を統制する必要から練習連合航空総隊を結成、霞ケ浦海軍航空隊内に司令部を置いた。
阿見は、わが国の海軍航空要員養成の中心機関としての航空隊の設置により、海軍の街として大きく変化した。
1920(大正9)年の阿見村人口は 603戸、3892人だったが、1937年には1238戸、7964人と2倍強に増加した。1937年の現在人口は、本籍人口の 1.6倍、男子が女子の 1.7倍という数字からも、航空隊の設置が村の姿を大きく変えたことが分かる。
(『阿見町史』より)
霞ケ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊
航空兵の大量養成に迫られた海軍は、1939(昭和14)年3月、飛行予科練習生の教育を、横須賀海軍航空隊から霞ケ浦海軍航空隊に移管し、同隊の中に海軍飛行予科練習部を設置した。
1940年11月15日、霞ケ浦海軍航空隊の水上班を母体にした土浦海軍航空隊と博多海軍航空隊(福岡県)を新設。これにより、阿見には霞ケ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊の2つの航空隊が置かれた。当時の新聞は、開隊式のもようを「海の荒鷲育ての親 海軍航空隊開隊式 けふ霞ケ浦湖岸で挙行」の見出しで次のように伝えた。
「わが国の荒鷲育成に全国唯一の霞ケ浦湖畔土浦海軍航空隊の竣工に伴ふ開隊式は、今10時15分から海軍大臣代理塩沢横須賀鎮守府長官以下関係多数列席の上挙行され、霞空の少年航空兵によって祝賀飛行が行われるだけで、催しもの等は一切なく、時局下にふさわしい簡素な開隊式である」
当時の阿見村には、両航空隊のほか、海軍第11連合航空隊司令部、海軍練習航空隊司令部、第11海軍航空廠、横須賀海軍経理部霞ケ浦支部、横須賀海軍施設部、海仁会霞ケ浦支所、海軍気象学校、海軍病院、中島飛行機製作所阿見出張所、隣の舟島村(現阿見町)には飛行艇格納庫が置かれた。
(『阿見町史』より)
茨城県初の舗装道路
「阿見町史研究」創刊号に収められた湯原又右衛門文書に「回顧スレハ航空隊設立ナカリシ以前ハ、我が阿見ハ農業ヨリ外ニ業ナク、人家ハ阿見原ニアリト雖トモ、豚小屋式ノ家屋、原野ノ間ニ点々存在ス。交通不便、道路粗悪、荒川ヘ行クニモ跣足ナラズ行ク不能、誠ニ不便ノ土地ナリ」と記された阿見は、航空隊設置で大きく変わった。
「粗悪」であった道路も改良され、1921(大正10)年には、土浦自動車商会によるバスが阿見-木原線に開通し、1923年にはアサヒ自動車の阿見飛行場行きが開通した。常磐線も同年、土浦駅まで複線化した。1924年に水郷汽船が開通し、1926年には常南電車が土浦-阿見間に開通した。さらに、土浦駅から荒川沖に至るまでの、霞ケ浦航空隊水上班、同陸上班を通る、幅8間の通称海軍道路といわれた舗装道路ができた。この道路は、本県で初の舗装道路だったという。
このように航空隊の設置と交通網の整備などによって、大正末から昭和の初期にかけて、水上班の前には、土産物店、食堂、酒屋、肉屋、魚屋、薬屋、呉服店、染物、履物店等々の商店が次々とつくられ、1つの市街地を形成していった。
(『阿見町史』より)
農業人口を上回った軍関係
阿見村内で、1944(昭和19)年5月までに海軍用地として買収された土地は、田73.1町、畑211.2町、宅地 5.2町、山林 135.4町、原野16.5町、計441.5町にのぼった。このため、「本村中央部ハ軍ノ敷地トナリ、為メニ各部落ニ連絡スル町村道ハ殆ンド中断セラレ、連絡ニ統一ニ極メテ困難ヲ来シ、尚、国民学校児童ノ登校ハ亦極メテ不便ナリ」という状態になった。
1943年度阿見村立国民学校児童調によると、在籍児童1190人中の56%にあたる668人が軍関係の子弟で、1940年以降、児童数の増加で毎年学級増を必要とした。1944年2月の職業別戸数では、軍関係が43.7%で、2位の農業36.4%をかなり上回っていた。
軍関係施設が拡張の傾向にあった1942年以降、村では、海軍用地の買収による村税、付加税の収入減、村民利用の町村道の修理拡張、児童数増による国民学校の教室の増築などの問題に直面した。村役場では国税付加税の制限外課税の認可や、町村改築事業県費補助および海軍省助成金の交付増額により解決を図ろうとしたが、1945年4月、軍関係の強い要望のもとに町制を施行した。
(『茨城県史 市町村編Ⅲ』より)
美浦村湖岸の航空隊
現在の東京医科歯科大学霞ケ浦分院・国立公害(環境)研究所の地(いずれも現美浦村大山)は、日中戦争・アジア太平洋戦争当時は海軍航空隊の基地であった。
1937(昭和12)年ごろ、大谷地区からの軍用道路と水道建設工事をはじめ、航空隊敷地になる水田・野原の埋め立て整地工事が行われた。
当初は、安中航空隊(仮称)と言われていたが、1938年5月11日霞ケ浦航空隊安中水上隊となり、同年12月15日、日中戦争たけなわの時、開隊された。最初は練習航空隊として水上機操縦訓練を主として行い、多くの飛行学生・飛行練習生を擁していた。
現在でも、霞ケ浦に面した病院の北側、東側には当時の水上機の滑走路跡が残存している。安中水上隊基地は、どんな風向きに対しても飛び立てる立地条件をもち、練習には好適地であったと伝えられている。
1945年5月5日に、練習航空隊の指定を解除され、鹿島北浦派遣隊となり、鹿島航空隊と呼ばれるようになった。鹿島航空隊の任務は、内地防備・鹿島灘対潜作戦・搭乗員教育などだった。
(『美浦村誌』より)
鹿嶋市と神之池海軍航空隊
茨城県は長い海岸線の鹿島灘に面し、首都東京に近接しているなど、首都圏の防衛にかかわる軍事的・地理的な自然条件が備わっていた。そのうえ、軍事施設の設置に十分な土地と広大な平地林が各地域に分布していた。これらの立地条件から太平洋戦争では軍用地として使用され、陸海軍の航空隊基地などの軍事施設が次々と増設されていった。
鹿島地域には、神之池海軍航空隊基地と鹿島地区防空監視隊が設置された。
1940(昭和15)年ころから43年にかけて、旧高松村(現鹿嶋市)の粟生・国末・泉川と旧息栖村(現神栖町)の居切の岡と浜の中間にまたがる約500㌶の広大な土地が、飛行場用地として買収された(現在の住友金属鹿島製鉄所)。基地の建設工事も急ピッチで進み、1800㍍と1400㍍の2本の大滑走路も完成した。
1944年4月、戦闘機の訓練基地として神之池海軍航空隊が正式に開隊され、多数の海軍の隊員が集結した。その中には、士官候補生、予備学生、予科練出身の搭乗員や整備員らがいて飛行訓練が開始された。
(『鹿島町史』第5巻より)
少し時間を進めます、敗戦が色濃く感じられ始めた翌年の2月からの記載を転載。
太平洋戦争末期の筑波海軍航空隊(友部)
太平洋戦争もおしつまった1945(昭和20)年2月の特攻訓練は、わずか2カ月で修了する猛訓練ぶりだった。
訓練項目は、離着陸8回、編隊7回、計器飛行10回、航法訓練5回、特攻攻撃法10回、薄暮飛行6回、定着5回、最後に総合訓練が行われた。このうち特攻攻撃法と総合訓練に零戦が使用され、他は練習機が使われた。計器飛行、零戦操座は2月22日から1週間、北浦鹿島で訓練が行われた。3月から4月にかけて、筑波航空隊で特攻攻撃法や夜間訓練、総合訓練が行われた。
訓練を修了した若い飛行士は、特攻要員として九州や沖縄に配置されていった。
筑波航空隊でも3月28日、神風特別攻撃隊筑波隊が8名編隊で8隊、計64人で組織された。特攻隊員は各隊長が中尉で、小隊長、隊員は全員が少尉で、隊員のほとんどが20代の前半で学徒兵だった。
練習航空隊の筑波航空隊でも「ゼロ戦」か「紫電攻」が配備され、実戦さながらの訓練が行われ、特攻隊も組織された。4月20日には練習航空隊の指定を解かれ、作戦部隊に昇格し、特攻隊を編制する完全航空隊になった。
(『友部町史』より)
実戦部隊になった筑波航空隊(友部)
1945(昭和20)年4月20日、筑波海軍航空隊は作戦部隊に昇格し、特攻隊を編制する完全航空隊になったが、5月1日現在の使用可能機は、零戦12機、修理中18機、紫電改12機、修理中8機だけだった。5月末の報告では、零戦修理中6機、紫電改21機、修理中49機だった。
当時の司令は中野忠二郎大佐、飛行長は横山保少佐、遠藤三郎少佐、通信長北原正一少佐で、教官、飛行士、整備士、通信士、気象士、軍医など士官は274人。下士官、兵は、兵科 222人、飛行科 346人、整備科1456人、機関科192人、工作科 118人、看護科17人、主計科 132人、その他39人、合計2522人だった。学生ゼロ、臨時講習員9人だった。
筑波航空隊では5月、ゼロ戦、特攻隊員を送り出し、紫電改が整備されて首都防空の一翼を担うことになった。5月8、17日に警戒配備につき、24日B29を1機撃墜、25、26日B29が茨城上空を飛んだため紫電改8機が空中待避、28日P51の8機編隊が航空隊上空を飛行したため総員待避、警戒配備についた。30日も爆音がとどろき、飛行機を分散させ警戒体制をしいた。
(『友部町史』より)
今回進入出来なかった建造物が在ります、それは「司令部」が設置されていた廃墟なのですが侵入ルートは全て塞がれていました。しかし甘い箇所も発見し、次回は確実に入れるのでこの場所は再度レポートする事に成ると思います。
と言っても出来れば撮影許可を取りたいと考えております、現在交渉中ですが取材撮影扱いに成れば正面玄関からお邪魔するかもです。
2011.06.08 - 司令部へ2011年1月に再訪しました、その模様は下記リンクから。
アプローチ
美浦方面へ国道125号線を走行、JRA美浦トレーニングセンター→バイオ・エコエンジニアリング研究施設と探していくとそのバイオ・エコエンジニアリング研究施設の裏手が海軍鹿島航空隊基地跡です。
地図リンク
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REPORT - 0103│黄和田畑字追原集落跡
千葉県│君津市黄和田畑字追原集落跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 千葉県 黄和田畑字 追原集落跡
千葉県の房総半島中央に位置する養老温泉、その温泉地から意外と近く人気の清澄寺を横通る清澄養老ライン上に黄和田畑と言う地域が在ります。旧名称は黄和田畑字、養老川の支流七里川が眼前を流れとても自然溢れる素晴らしいロケーション。
その七里川を挟んで昭和30年代まで集落が在り、それが今回のレポート内容なのです。この場所は10年以上前から知っており、1回だけなのだけれど集落跡まで行った事も在った。丁度その頃にこの地域の自然を壊しかねないダム建設計画が挙がり、その話題を知って現地まで訪れたのだ。
今回その時の記憶を辿って再訪したのだけど随分と開発(もしくは河川工事)が進んでいて風景が若干異なっていた、その所為で今回のレポートは集落前の作業小屋の少々先までにしか及ばなかった。
来訪当時、行政の計画伐採が行われていて道が途中で寸断されていた所為で記憶違いを起こした様です。下記リンクで再訪した際は普通に1本道で追原集落跡まで辿り着けました。
新緑の頃、もう一度行こうと思っています。(ヒル地獄覚悟うぇぇ)
戦後10数年をこの場所で過ごされた地域住民の方は山深いこの追原でどの様に生活していたのかがとても気になって郷土資料を探してみた、すると対岸の現黄和田畑地域に引越して現在でも関係者さんが住んでいる事が判明。またこの追原より少し離れた場所にも数件の集落跡が存在したらしいのだが現在は場所の詳細が不明だった、またもう少し鴨川よりには湯ヶ滝と言う集落跡も在ってこちらも後々レポート致します。
※ 新聞社さん、追原保存のNPO団体さんとご一緒して取材も予定しています。
関連リンク
http://www005.upp.so-net.ne.jp/boso/sitiri01.htm
予備調査の内容を少々記載して終わりにしよう。
この追原集落は折口原と言う場所に位置し、集落から少々離れた渓谷には七里川水系の阿武隈川が流れている。集落自体の歴史は古く、江戸時代の中期には数件軒を連ねる様に家が建てられていたと文献に残されている。
山中集落は田園などの水田農業が難しい為に主な産業は製炭、そして木材の販売だった。明治維新後に国から周辺の田園造成許可と技術提供をしてもらい、斜面に小さな田んぼを作ったのがこの集落での農業の始まりだ。山中には現在では使用されなくなった作業道が幾つも在るがハッキリと道筋が残るのは3本程、その1本は東京電力の定期検査用として使われ、山歩きの方には残りの集落よりの廃道が有名だ。踏み痕もシッカリしていて今でも人の往来は少ないながらも在る、近年に成って行政の手も入った。
時代は経過して1950年代、戦後復興もひと段落した時代で山間部での農業は自給自足も間々成らない状態で続けられていました。しかし3軒残っていた家屋の住民も次第に近代化された世相を慮ってか1959年、とうとう最初の転居者を輩出します。
以降1967年までに全ての住民が七里川対岸、もしくは親戚筋を頼って別の地域に越して行きました。と、言ってもキッカケはこの七里川を跨いでいた吊橋が増水で崩落した事が原因。この箸崩落によって買い物やその他の物資のやりとりに支障が出始めた事で転居を決意された様です。
そして1975年、千葉県はこの場所を含む黄和田畑地域に巨大な744トン級のダム建設を計画します。行政広報から一般の周辺地域に住む住民に伝えられたのは1982年、そこからゆっくりと計画は進行して1990年代に成る頃には本格的に地域住民による建設反対の活動が開始されます。
夷隅郡市自然を守る会 - 会報
http://www005.upp.so-net.ne.jp/boso/sitiri12.htm
1998年、この年から活発化した反対活動は幾つかのNPO団体が団結して行政と対峙する様相に。工事の本格着工を目前に周辺の住民もダム建設に伴うメリットとデメリットに右往左往しました。
追原を歩く会 - 追原ダムの本格着工休止に思う
http://www005.upp.so-net.ne.jp/boso/sitiri09.htm
住民の反対活動が実を結び、県事業評価監視委員会では「今後2年間、本格的な事業着手に入ることを当分中止するよう求める意見で一致」と成りました。1997年に結成された「追原を歩く会」が中心と成り、地元住民の心情を行政に訴えた事が大きく状況を変えました。
小櫃川源流域の自然を守り育む連絡会 - 追原ダム建設中止へ
http://www005.upp.so-net.ne.jp/boso/misuno02.htm
そしてとうとう行政の計画を覆し、ダム建設は中止へと大きく傾きます。
追原を歩く会 - 追原ダム計画は中止になりました
http://www005.upp.so-net.ne.jp/boso/abe01.htm
2001年01月25日、県は追原ダムの中止を発表。これにより追原集落を飲み込む程の巨大なダム建設は中止・廃案と成りました。
数奇な運命を辿った廃集落追原、予備調査と言っておきながら恐らくこれで殆どの主要歴史は辿れた筈です。って事で再訪レポートはこの集落に残るランドマーク、「追原の大楓」をレポートしたいと考えています。随分と歪なカタチで成長を続ける噂の大楓、今からとても楽しみです。
2011.08.17 - 追原の大楓へ2011年7月に再訪しました。
アプローチ
養老温泉側から清澄養老ラインに入る、七里川温泉を抜け白岩温泉の先に吊り橋が見えてくるのでその吊り橋を渡る(徒歩のみ)。渡りきったら左側の斜面を登り(右側は川へ降りるルート)、最初の二股を右側へ。後は道なり歩くと作業小屋→集落跡と発見出来る。
地図リンク
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REPORT - 0104│翁島ペンション(幽霊ペンション)
福島県│翁島ペンション(幽霊ペンション)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 福島県 翁島ペンション
廃墟好きさんの中では比較的有名物件の福島は幽霊ペンション、心霊系のアタックも多くてホントそういう系は勘弁して欲しい。イタズラ描きも年々増えて廃墟写真をヒッソリ撮りたい者にとっては天敵だ。だけど今の時期ならと思い雪深いこの地域に向かってみると道は積雪で見えなくなっているし寒いし、んにゃ深々と降る雪の中での廃墟はとても美しくて撮影は素晴らしく捗りましたでしたよ。
いつもより集中して撮影出来た良物件、翁島ペンションをレポートしましょう。
ウェブで見てモニター越しに何度もため息を吐いたり吸ったりしたこの画、やっとこさで見る事叶ったわけだけど恐らくこの雪の翁島ペンションは初撮影ではなかろうか。本当に美しかったですよ、初見で大変気に入りましてもう一度新緑の頃に来ようと決めましたです。
廃墟としてはまだまだ期間が浅く、心霊系アタックの馬鹿なエピソードは全部妄想の域を出ない内容。地元の方に話を伺ったところ、オーナーと言うか地主さんは現在も別の場所で別の商売をしているそう、心霊系の脳足りんアタッカーが地下のワインセラーがどうのとか首吊りがどうのとか、ホントにもう…。どの様な経緯で此処が残されているのかは知り得ないけど出来ればもう暫くはひそおりと残っておいて欲しい場所だ。
ああ、それと。
確かに地元の人もこの廃墟は有名で色々と噂は耐えない様です、んだどもその噂の殆どは現実的な「オーナーは何処何処の人で…」とか「借金が幾らで」…とかそんな内容だったりします、ぶっちゃけると周辺地域の方はこの地域自体の開発計画を知る人達なので直接お話を聞けば色々と知る事が出来ます。
有名な廃暖炉、整備すればまだ使えそうだった。気になるのはウザったい落書き、どうにか成らんのかと思うくらい1階部分も2階部分も沢山描かれていた。
広角で2階から1階部分を撮影、壁や屋根が所々抜け落ちてるので雪がペンション内に吹き込んでいた。その上手すりも何もないので滑って転んだらあらビックリな事態に成り得る、床も凍っていてツルツルぺったんなので怖い怖い。
地元の方の話では一時期は本当に工事車両が頻繁に往来したとか、それほどまでにこのペンションの建築が大規模だとは思わないのだけれどなぁ。
…と、この疑問は数年後に判明する事に成ります。
この場所までは膝より高い高さにまで降り積もった雪道を歩いて来た、到着する頃には正直疲れ果てていたけれど憧れの撮影対象という事も在って時間を忘れてパシャリパシャリ。
内部は随分と荒れていて手摺などの安全具が無くなっている、これは解体工事などが行われた訳ではなくて破壊行為によるものだと地元の方にお聞きした。
陽も暮れてきた、そろそろ帰る時間だ。薄暗く成ったペンション内で最後の数枚を撮影した。
色々と噂されるこの場所、何故か噂と共にペンション名が錯綜する程多岐に渡って語られている。「幽霊ペンション」とか「グリーンランド」とか呼ばれてるけどなんでだろう?普通に「翁島ペンション」と印刷されたスリッパとか色々と落ちてるのに…。
最後に。
猪苗代町役場の総務課と税務課の見解としてはこの建造物の建設当初から「個人宅」などとは認識してはおらず、商用施設(宿泊施設)としています。ただ運用形態など詳細な事に関しては一切関知把握しておらず現在に至るとの事、出来る事なら営業されていた時代の写真でも入手したいところです。
いずれ、恐らくは随分と時間が経過した頃だとは思いますが追加エントリーとして詳細を再度調べて公開したいと考えております。再訪自体は近々行く予定ですので手掛かりが在れば調査のトリガーにしたいところ。またこの廃墟について営業当時を知る方、写真などを所有されている方は是非ご一報下さい。
2011.12.15 - 正式名称についての追記
廃墟好きの方なのか心霊さんなのか解りませんが多方面から頑なに「グリーンランド」が正式名称だと繰り返しメールを頂きます、幾つか呼名が在るってのはペンション時代に複数のオーナーがいたのかなぁ…とか想像出来なくもないですが。
まあ少なくともこのペンションが終焉を迎えた時点では「翁島ペンション」だった様です、既述しましたがペンション内に落ちているスリッパにはそう書かれています。
それから心霊さんへ伝言です。
・ オーナーはペンション廃業後市内で別事業を行われています。(現在は知らんよ)
・ この場所で自殺などの事件は一切在りません。
・ 地下室に繋がる階段は無いし、そもそも地下室も在りません。
※ 事件・事故及び建築(工事の着手届け等)に関しては行政に問い合わせて確認済みです
2012.12.26 - 現在判明している事を追記しました。
詳細を解明する為に行政へ協力を求めたのだけれど総務課、税務課共にこの建造物に関する記載資料は持ち合わせていないとの事。運用形態については把握していないけれど”家屋として認識しておりません”と回答を頂いた、つまりは商業運用だった事の裏づけは取れたのが幸いだろう。
個人所有の建造物である為、行政としてこの建造物をどうにかする訳にはいかず…かと言って招かざる来訪者が多数いるのは知っているので対策に困っている様だ。
有名な暖炉が残されているホール部分、このホールを囲みこむレンガの壁には沢山の悪戯描きが描かれては消され描かれては消されの繰り返しで随分と汚く成りました。また近年ではプリントシートを一面に貼り付け、それが剥がれて一層汚く成っている事も確認しました。
2010.03.06 - 積雪のペンションを撮影しに再訪しました。
アプローチ
翁島駅から県道206号線を猪苗代湖方面へ、翁島駅と県道48号線の間丁度半分ほどの距離に旧車道の枝道が在ります。言葉では表現し辛い場所(森の中)に在ります、地図を拡大して参照して下さい。
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REPORT - 0105│黄和田畑 湯ヶ滝集落
千葉県│君津市黄和田畑 湯ヶ滝集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 千葉県 湯ヶ滝集落
千葉県の房総半島、この地域は意外にも温暖で北九州と同じ様な気温、勿論雪も殆ど降らない。それは戦後の山間集落の復興や発展にも大きく影響を及ぼす様だ。
気候自体が安定している為に戦後復興の国内生活水準が上がると県内での衣食住と仕事が戦前などとは随分変化して多様化、都市化が進んで労働層が離村すると限界集落化し、後に人が居なくなってヒッソリと残った廃屋達はいつしか「廃村」なんて呼ばれる様に。
んだども記録や文献によれば千葉県には廃村と言うモノが無い事に成っている、つまりは大きな集落移動が無かった地域という事だ。軒を連ねた2~3軒の本当に小さな集落はやはり幾つも存在した様だけれど「廃村」と呼ばれるまで大きな集落は少しばかり調査しただけでは見つける事が出来なかった。
これには推論が在って「離村する意味がない」程の温暖で農作に適した地域、そして何より千葉県房総半島のみで発展した「川廻し」の特殊な農耕法が在った為だと聞く。
しかし探せばやはり出て来るもんですよ。と、言っても廃村ではなくて小さな集落。本当に極々小さな集落跡、時には1軒ほどのモノでは在るけれど行ってみたく成りますよ。
って事で今回は千葉県房総半島では珍しい廃集落「湯ヶ滝」に行って来ましたですよ。
本当は新緑の頃に伺う予定だった、それでも場所が判明してから兎に角行きたくて2010年初頭、しかもまだ正月気分な時期に集落跡…と、言うか廃屋跡を見に出掛けたのだった。
この場所は養老渓谷からも程近い七里川温泉と言う観光地からそれ程離れていない地域の山間部に現存する、小櫃川の支流である七里川を沢登りし、緩やかな山を上り、時には道が立ち消えた場所を歩き進むと辿り着く事が出来る。
「こんな処に…なんでよ」
そう、正にこんな処に何故。そんな場所にこの廃屋はひっそりと佇んでいた。今にも人が出てきそうな玄関側とは裏腹には読んで字の如く、勝手口に廻るとその朽ち具合は中々素敵な状態だった。それもそうか、この場所は1960年代にとり残されてしまったのだから。
盛時には3家屋が軒を連ねた集落で地下水汲み上げの井戸やワイヤー駆動の貨物軌道も稼動していた、メインの道路は山道と七里川を渡る木製の橋。しかしこの橋が崩落した事で交通手段も限られ、買い物も別の険しいルートで往来していたとか。
屋内を見ても突然時間が止まった様な、そんな感じがアチコチからする。恐らくそれらの原因は多く残された家具や長く生活に使用された品々が散見出来るからだろう、しかし実際は何十年も放置されて獣臭が酷い。
写真の座布団も動物が引っ掻いた後の様で部屋中に鹿などの糞が散らばる。
しかし1960年代に放棄された割には随分と近代的な雰囲気と言うか、これはこの場所に到着して一番最初に感じた違和感だった。この違和感によって興味はこの集落よりも残された建物へシフトする、いっちょ調べますか。
※ 3年後の再訪で沢山の新事実が判明しました、最後尾の再訪リンクから是非ご確認下さい。
裏手には井戸の汲み上げポンプや発電機、手動放水車など今では見なくなった備品が。自転車も在ったのだけれど集落が在った当時から現在に至るまで自転車が走れる様な道は整備されていない。一体何の為に、そしてどうやって持って来たのだろう。
山の斜面上側にはゴミを燃やした穴の後や放置された比較的大きな家具などが、どれも当時棄てられた物だったけど幾つか最近の缶ジュースの空き缶も。ここに訪れた人の物なのかな。
山の斜面下側にはこの家屋の他にも家が建っていた事が解る基礎が幾つか発見出来た、この場所に関しての資料は房総史と市歴に幾つか記述が在って多い時で6軒(家屋は3軒)の家が立ち並んでいたそうだ。主な収入は山岳集落では多い炭焼き、周囲の斜面には炭窯跡も残っていて集合墓地も苔むして並んでいる。
現在のアプローチルートと昔のアプローチルートは違っていて昔は橋(記述した崩落した橋)が架かっていた為に今よりは多少楽な山道が存在した、今でも踏み後はシッカリ残っていて道祖神や石仏が。
※ 2012年後半以降、道祖神の確認が出来ません。ご存知の方、お知らせ下さい。
取り壊されること無く千葉県の房総半島で自然に還るのを待つ湯ヶ滝の廃屋、中を覗いた感じではまだまだ綺麗でとても数十年もの間誰も立ち入る事が無かったなど信じられない。廃墟好きの中にはこの場所に訪れた方も居るかも知れないけど少々驚いたのはほんの最近に人が居た気配がした事、ホームレスさんにしたってココまで来るのは健常者でも面倒な場所だ。
そんな場所にワザワザ大汗かいてこの廃屋へ来る意味は無い、衣食住の内どれもが安定しないこんな山中に。
1966年に最後の転居が在って暫くは行き来する元集落の方が居た様だ、しかしそれも山間部での産業が衰退して完全に放置されると市の建造確認も1970年には打ち切られてこの様な廃墟と成った。今では登山者や沢屋位しかこの地を歩く事は無いけど2000年代に入って山間部の電線の引き直しの事業が行われ、その時にこの付近の古材回収なども行われたとか。東京大学演習林が在る関係でその関係者も周囲を歩く事が。
さて、この湯ヶ滝の廃屋は今年度の新緑の頃、再度来訪予定(行政広報の写真撮影に同行)です、その時にまた詳しくレポートしたいと思っております。恐らくそれまでの間に誰にも見つかる事なく待っていてくれる筈でしょう。
2013.05.31 - ずっと気に成っていた物件詳細調査を行いました。
疑問究明の為に再訪しました、と言っても沢の遡行「キンダン川遡行+川廻しの撮影」のついでだったのでメイン物件としてでは在りませんが聞きこみ調査や机上調査を踏まえた最終結論を記載しております。興味が在りましたら是非お読み下さい。
アプローチ
秘境及び危険物件は自然保護と建造物保護、安全確保の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
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REPORT - 0106│岩屋堂
千葉県│岩屋堂
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 千葉県 岩屋堂
公開を迷った物件、千葉県の房総半島に在るちょっと特殊な岩屋堂のご紹介。と、言っても詳細は控える。恐らく近々県か市の指定文化財に指定される話が持ち上がっているからだ。しかもこの場所、管理人も保護柵も何もない場所に掘られた手掘り岩屋堂。
なので状態を危惧して場所は控えたい、興味の在る方は探してみるのも楽しい筈。ご覧の通り、僕は1枚の写真からこの場所を見つける事が出来た。この日は夜の撮影だったが昼間でも雰囲気が素晴らしい歴史的な建造物だ。
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REPORT - 0107│翁島ペンション(幽霊ペンション)
福島県│翁島ペンション(幽霊ペンション)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 福島県 翁島ペンション
まだ解らない事だ沢山在りますが少々調査が進んだので報告出来る範囲で追加エントリー、上の追加エントリーバナーをクリックすると最後尾の追加報告までジャンプします。
翁島ペンション再び。暖かく成ったら再訪すると書いておきながら暖かくなるドコロか一番寒い時期に再訪して来ました、積雪は2000ミリを超え、夏季成らば5分の行程を1時間掛けて進む。廃墟馬鹿は進むよ何処までも、雪が降っても槍が降ってもカメラと三脚を担いで何処へだって行くのです。
前回のレポートは下記リンクから。
最初の写真はペンションへ向かう路地の中間地点、この時点で既にスタートから40分程経過。まだペンションは見えて来ません、絵としては雪山登山ですが2000ミリの雪の下には道が在るのです。
雪に埋もれる幽霊ペンション、これだけ辛い行程を乗り越えてやって来ると怖いのは幽霊より疲労。もう疲れて果てて帰るのがシンドイっす。まだ中に入ってないのに帰りたくて仕方が在りませんわ、何しに来たのか酸素不足で既に忘却の彼方よよよ。
因みに玄関部分は雪に埋もれ、2階部分まで積雪が在る場所も。
内部はこんな感じで、ペンション付近やペンション内部には無数に野生動物の足跡が。犬でも猫でもない、何でしょうねぇ。
いや、動物以外で。恐らくこの時期にこの場所に来たのはアタシらボンクラ共が初めてだと思うのですが如何でしょ、普通なら進入路の雪の高さ見たらまず帰るだろうし。まあそお甲斐あってこの廃墟と雪の素晴らしいコントラストを拝めたわけですが。
しかし帰りが、ねぇ。ホント。
2011年の夏頃から悪戯描きが消されたと報告が有ったのだけどコレはどうやら消したと言うより上からペンキ(もしくはスプレー缶)でレンガと同系色で塗装した様だ、有志の現状報告では他にも色々と変化が在ったそうで。
(写真は2010年の物、まだ悪戯描きは消えてない当時の様子です)
獣の足跡、それとアタシらの足跡。撮影中にも数匹見掛けたけどなんの動物かは解らなかった。キリンかも。
2階の便所、便所かっけぇ。廃墟に来ると何故か必ず便所を撮る。
特に新しい情報が在って確かめに来た訳じゃない、勢緑の時期の方が画的にも綺麗なのは解るけれどどうしても雪のこの場所に再訪したかった…ってのは言い訳で。
大内宿の雪祭りを見に来たついで物件に寄ったのです、そしたら雪がもう。
外から吹雪く雪が雪崩込んでペンション内の至る所で積雪してます、入れない場所も沢山在りました。正直2階部分はカナリ危ない状態でアイスバーン化している箇所も在り、もしこの季節に行くのならば撮影は限られた場所でアングルを考えなければ成らない面倒な作業と成る事を覚悟しましょう。
が、兎に角綺麗。雪+廃墟は正義でした。
この場所、どうしても詳細が知りたくて猪苗代町役場の総務課さん、税務課さんに協力を要請。その後その調査結果を送って頂いたのですが内容としては「行政としては詳細を把握していない」と言う物だった。税務課の担当さんにお願いしたのは納税記録からこの建造物の詳細を辿れるかと思ったからなのだけれど上手く行きませんでした、残念。
今後何か追記出来る情報が在ったら記載します、うーん不完全燃焼ですわー。
2012.12.26 - 現在判明している事を追記しました
詳細を解明する為に行政へ協力を求めたのだけれど総務課、税務課共にこの建造物に関する記載資料は持ち合わせていないとの事。運用形態については把握していないけれど”家屋として認識しておりません”と回答を頂いた、つまりは商業運用だった事の裏づけは取れたのが幸いだろう。
個人所有の建造物である為、行政としてこの建造物をどうにかする訳にはいかず…かと言って招かざる来訪者が多数いるのは知っているので対策に困っている様だ。
有名な暖炉が残されているホール部分、このホールを囲みこむレンガの壁には沢山の悪戯描きが描かれては消され描かれては消されの繰り返しで随分と汚く成りました。また近年ではプリントシートを一面に貼り付け、それが剥がれて一層汚く成っている事も確認しました。
スッカリと旬を過ぎたこの廃墟さん、以前は「おばペン(おばけペンション)」や「幽霊ペンション」、そして「グリーンランド」と沢山の呼名が存在したけれど今は昔。「翁島ペンション」と言えば「ああ、あの暖炉の…」って位に名称が浸透して来た、でこの翁島ペンションですが。
ハッキリ言って名称位しか解る事がなく、それも現場に残されていたスリッパから判明したと言う謎っぷり。行政から落ちて来た情報もお察しレベルでその全貌が全くと掴めなかった、そこで地元の方への聞き込みと既に廃業してしまった猪苗代町の元不動産会社の関係者さんに辿り伝でお話を伺った。
そこから判明したのは意外な事実でした。
翁島の観光開発
1973年位から猪苗代町周辺の本格的な観光地開発が計画され、既に温泉やスキーと言った集客スポットに加えて宿泊施設を増やそうと言う動きが翁島で持ち上がる。この時点ではまだ場所などの選定はされておらず、また地元住民が密集する場所は避ける形で計画は進められて行った。
地元の方のお話から判明する計画の雑多な部分
翁島周辺、実は大きく2つに別けられる。一つは既に整備されている田園地帯、猪苗代湖北西側には平地が広がっていて翁島周辺は田んぼだらけと言っても良い。残りの1つはその田んぼや畑の持ち主で在る地元住民の住宅街だ、1970年代前半において現在と大して変わらない風景が既に出来上がっていた事に成る。
と、すれば。
宿泊施設を建設する場所は本当に限られてくる、行政区分で管理されている自然保護推奨区と国有地、既にゴルフ場建設などの計画で抑えられている広い未開発地域を除くと地元住民の住宅街と隣接する小さな廃農家跡地や個人所有の森林地域しか残されていない。
まあ話の流れから解るとは思うのだけれど白羽の矢が立った場所、それがこの廃墟を生む事に成る翁島ペンション周辺の森林地域だったです。
お話を聞いた住民の方を含め、宿泊施設建設に余り良い印象は持っていなかったそうで。元々閑静な農村地帯から少しづつ発展した土地だけに余所者が頻繁に往来する事に反対だった様だ。
しかし行政としては手順を踏んだ建設の申請に許可を出すのは当然の事でして、1976年にはとうとう最初の宿泊施設建設が開始されます。
そう、ココで注目して欲しいのは「最初の宿泊施設」って言葉。
廃業した地元の不動産会社さんに話を聞く
これ、実は全く別の雑誌の仕事でお知り合いに成りまして。そこからたまたまこの地域の温泉宿の広報を手掛けた時にお話を聞いたってのが実際の所だったりします。
さて。
後の翁島ペンションと成る「最初の宿泊施設」の建設が開始されたのが1976年、建設に携わった建設会社や不動産会社の方ではないのであくまでその内容を知りえた人物とだけお断りしておこう。
建設場所はご存知の通り、まずは最近の航空写真を見て頂こう。
現在では森に囲まれ、南側は畑として綺麗に整備されているが開発が始まった当時は北側同様に木々に囲まれた鬱蒼とした区画だった。この場所に急遽アスファルトが敷かれ、伐採と地盤整備が急ピッチで行われた。
グーグルマップでも解ると思うけれどペンション北側に森の中を走る人工的なラインが見える筈だ、これってば実はアスファルトの道路跡。既に腐葉土で積み重ねられた土壌の下にはボロボロのアスファルトが目を出す筈だ。
国土地理院の地図では少々の行程さが、ペンション南側に向かってやや登りと成る。住宅が並ぶ生活道路から伸びる造成地への一本道は緩やかにカーブを描いて登っていたと記憶しているけれど地図で見れば一目瞭然、それではどの様な開発が予定されていたのだろうか。
これが開発が予定されていた道路の完成予定図だ、当初は更に南側まで道路が延びる計画だったけれど畑の地主さんが売却を拒んだそうで。
更に翁島ペンションを含む全9棟の宿泊施設が計画されていました、東側の建造物が少ない事、他に比べて小さい事はやはり近隣住民と無いかしらのトラブルと言うかイザコザが在ったのかなぁ…なんて思ってたら開発当時には家屋はまだ無く、理由は不明でした。
しかしこう見てみると翁島ペンションで予定されていた建造物の中では最小クラスだった様で、まあ確かに小さかったけれど。
計画とは違い、実際敷かれた道路は予定の約60%。建設途中で南側の大規模なペンションの建造は保留される事に成ります、これは1977年辺りから企業主導の観光開発から行政主導の観光開発にこの地域がシフトして行く為に当初の参入業者が建設を取りやめた事で開発区画が縮小された結果だとお聞きしました。
そして他の建設予定だった宿泊施設の参入業者も次々にこの計画から手を引き始めます。
1976年9月の航空写真です。
道路は北側のみにアスファルトが敷かれ、南側の大規模ペンションの建設区画は綺麗に造成が終わっています。翁島ペンションはまだ基礎工事の段階ですね、この時点でガスや水道の工事もほぼ完了していた様です。
本来であればこの様な感じで全9棟のペンション群が出来上がる予定でした、それでは何故最終的に翁島ペンションのみ建設が進み、そして他は事業から手を引いたのか。そして単独運営されていた翁島ペンションはどの様な実態だったのか、この辺も現在調査が進んでいてそう遠くない内に最終的な結果報告をエントリー出来ると思います。
随分と中途半端な内容ですが今回の追加レポートはココまでです、それにしてもこの物件は調べるのが大変ですわホント。
アプローチ
翁島駅から県道206号線を猪苗代湖方面へ、翁島駅と県道48号線の間丁度半分ほどの距離に旧車道の枝道が在ります。言葉では表現し辛い場所(森の中)に在ります、地図を拡大して参照して下さい。
地図リンク
photograph - nee
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REPORT - 0108│保台清澄連絡道路
千葉県鴨川市保台ダム│保台清澄連絡道路
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 保台清澄連絡道路
御久し振りの更新ですが気にせず本題へ、今回は房総のガンダーラへ向かいました。人気サイト「山さ行がねが」でも人気だった「保台清澄連絡道路」、この廃道へ本気写真を撮りに行くったらもう。
この「保台清澄連絡道路」は地元の方では意外と知られていて山菜や写真好きがちょくちょく入っている道です、「廃道本」でも紹介されてますがそれよりずっと以前より沢登り、林道好きのお気に入りの場所としてヒッソリと存在してました。それでは早速ご紹介。
スタートは保台ダムの進入禁止柵より、ココから徒歩でのアタック開始です。車両は進入禁止ですが徒歩ならばOKです、因みにオフ乗り林道好きにはちょっとしたダートも別に在りますがそれはまた別のお話。(写真・+10)
50年程前までは使用されていた道ですが通常使用されていた道では在りません、経験則ですが到る所に房総特有の川廻しの痕跡が見られました。と言うか明らかに川廻しが施された場所が幾つか見て取れました。メインでどの様に使用されたかは解りませんがスタートから10分程でこの風景とご対面出来るのは素晴らしい事です。
ある程度調査した限りではやはり川廻しでの作業用道で使用された事も憶測の域を出ないが確率的に高い、と成ると随分古い道なのが解る。その後は別用途で昭和初期まで使用された様だ。
行政に確認を取ると市歴、町歴共にこの道路に関する詳細な資料は既に存在してはいませんでした。同地域の住民や清澄寺への聞取りでは馬車道として部分整備されていた(簡易整備:馬車→未整備:背負子→簡易整備:馬車)としての産業道、製炭の釜場までの作業道、そして山岳農耕で利用する為の川廻しに関連する迂回路などの情報を得る事が出来た。
山岳道路としての整備は明治時代まで遡る様だが結局、その詳細を明確にするには至らなかった。
(写真・+10)
到る所に足跡が。多少時間が経過しているモノや最近のモノも、山や沢をやっていると何時位の痕跡かは大体解る。マディな場所に残跡した足跡は少なくとも1週間以内のモノだった。
トレッキングコースとしては結構面白い地形、起伏に富んでいて歩いていてとても楽しい。何より絶景、個人的には林道好きが房総でよく秘境として語るT秘境より秘境らしい風景です。
全体を通して考えるとソック系のフラットソールよりトレッキングシューズやソフトブーツの方が歩きやすいです、トレーニング系やマラソン系のシューズは滑るので避けた方が。(写真・+10)
登ります。
「山行が」さんとは随分と違うルートを選択、と言うか途中間違えて無理矢理登ります。ルートファインディングを誤ると房総とはいえ随分面倒な事に成ります、この道は所々にルンゼなりガリーなりが顔を見せるので初めてのアタックでは避けた方が、正規ルートがシッカリ存在するので要下調べ。この辺は山や沢やってる人間の強みと言うか、傾斜が75度以下ならザイルなしで登るので今回は特に問題なし。(写真・+10)
掘割に到着、この地点で全行程の半分位。早ければ40分程度でココまで来れます、何故か掘割内部に「清水」と大きく書かれていて「山行が」さんでも紹介されてました。(写真・+10)
隧道群スタート、これより8つの隧道と掘削途中で中止した成り掛け1つ、用途の解らない掘削穴数個が。途中幾つか滑落注意ポイントが在ります、行かれる方はお気をつけ下さい。(写真・+10)
隧道内部はこんな感じです。実はこの写真の隧道の上に出れるルートが在りますが藪漕ぎが必要、見つけるのは難しいですが道は在ります。
髄道内から外を望む。
最後の片洞門、見所の多いこの「保台清澄連絡道路」も終了です。登り詰めれば関東ふれあい道に出ます、清澄寺から4キロ位の地点です。
これより車を停めた保台ダムまで引き返します、この様な道に慣れていれば1時間半弱で戻れる筈です。道の難易度としてはかなり低いので一部の滑落危険場所を注意すれば楽に走破出来ます、また植林された木々も多いので適当な場所で峰に向かって登ればビバークする様な迷子は無い筈ですよ。(写真・+10)
因みにオンシーズンにはじっちゃばっちゃが大挙して押し寄せるトレッキングコースとしても近年使用されています、お散歩気分ではちょっと辛いですが体力に自信が在れば困る様な道ではないので挑戦するのも良いでしょう。ただヒルや蛇には注意、山道に慣れてない方は滑落する場所が多いので経験者と一緒に自己責任で。
アプローチ
まずは保台ダムへ、駐車場から最初の写真の場所が見えます。
地図リンク
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REPORT - 0808│峰之沢鉱山住宅跡
静岡県│久原鉱業 峰之沢鉱山住宅跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 峰之沢鉱山住宅跡(久原鉱業/日本鉱業)
どれだけの人が訪れただろうか、それ程までに有名で撮り尽くされた鉱山廃墟が静岡に残っている。ご存知「峰之沢鉱山」、その鉱山夫住宅跡だ。もう語る事も殆どないと言える位に廃墟系のサイトや石屋(鉱物系サイト)さんのサイトで紹介されているのは皆さんの知る所だろう、そこまで有名なら一度位は行っておこうか…そう思って来訪したのが夏真っ盛りの8月中旬。
結果、爆死。
いや、藪死だろうか。もうホントに嫌に成る位に藪・藪・藪、山で慣れているとは言え東亜プランな行程は流石に懲りていたのだけれどねぇ、アチコチのサイトで夏場の写真が余り見受けられない理由が現地に行ってやっとこ理解出来ました。
付近には選鉱場跡や関連施設の残留物がチラホラ、それでもカタチとしてシッカリと残っているのは今回紹介する峰之沢鉱山住宅跡(鉱山夫住宅跡)だ。折角なので詳しい歴史を交えながらこの峰之沢鉱山住宅跡をエントリーしたいと思う、有名な割りには意外と知られていない事実も結構在るんですよ。
それではレポートを始めましょうか。
一服中の農業のおっちゃんと軽トラを颯爽と駆る森林管理のじいちゃんに案内され、熾烈を極めた藪漕ぎを越え、息も絶え絶えで到着した鉱山住宅の入口。この時点でとっても帰りたい気持ちをぐぐいっと抑えて住宅跡にお邪魔します、と言っても余りの藪漕ぎに15分はその場から動けずで真っ白け。
石屋や廃墟フリークさんには本当に有名でその殆どが語り尽くされているけれど興味が在る方はまずこの鉱山がどの様な歴史を辿ったのかを知っていただこう。
静岡地方の歴史を纏めたサイトにこの鉱山に関する詳しい記述を発見した、コピペで申し訳ないが少々長い説明をさせて欲しい。隣接する古河鉱業久根鉱山などの記述も面白いのでお時間が在れば読んでみて欲しい、まずはこの鉱山の歴史の中でも「戦時強制労働」について知って頂きたいと思う。と、言うのも全国の鉱山や銅山でも同様の問題が戦時下では色々と問題視されてはいたものの、現在それを知る機会が全くと言って良いほど希薄化しているからだ。当ブログでも数多くの鉱山関係のエントリーをして来たのだけれどこの問題には触れていなかったので少しで知って欲しいと思った訳だ、ちょっと複雑な内容だけれど以下引用。
日本鉱業峰之沢鉱山
峰之沢地域での採鉱は一七世紀ころからはじまっている。当時の採鉱を伝えるものに「金山地蔵」「女郎塚」などがある。資本主義の発達とともに峰之沢での採鉱が再びおこなわれるようになり、一八八八年、峰之沢鉱山と命名された。一九○七年、日立鉱山を開発していた久原房之介がこの鉱山を買収した。峰之沢鉱山は一九一二年には労働者六一四人を雇用し、銅鉄鉱等を年に二万二九七四トン余りを生産するようになった。
一九二〇年、峰之沢鉱山は鉱山火災により一時休山したが、一九三四年から採鉱が再開され、一九三八年、日本鉱業が峰之沢鉱山を直営するようになった。日産コンツェルン下の日本鉱業は全国に鉱山を所有していた。戦時下日本鉱業は、朝鮮人強制労働に依存して鉱山経営をおこなうようになる。
強制連行期の一九三九年から一九四一年度にかけての連行者承認数をみてみれば、日本鉱業傘下の各地の鉱山へと一万一千人をこえる朝鮮人が連行されていったことわかる。峰之沢鉱山へも朝鮮人が連行された。
一九四二年には選鉱場が完成、それにより月五〇〇〇トンの処理が可能になった。政府の地下資源増産政策のもとでさらに増産がねらわれ、月九○○○トン処理が計画された。一九四四年一〇月には鉱山発展祝賀会がもたれていった。
一九四五年一月には中国人が強制連行された。同年二月に鉱山火災が発生し、休山となり、四月、中国人は日立鉱山へと転送された。朝鮮人労働者も一部は四月に尾小屋鉱山、六月には久根鉱山へと転送された。
連行された中国人たちはつぎつぎに倒れていった。中国人にとってそこでの労働は絶滅にむかう労働であった。鉱山側は連行した中国人を、生産を維持するための労働力として使用することはできなかった。
強制連行された朝鮮人について、連行者数と逃亡・争議などの抵抗を中心にみてみよう。
厚生省「朝鮮人労務者に関する調査」によれば、一九四〇年から四五年の間に峰之沢鉱山へと四九六人が連行された。中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」によれば一九三九年に五〇人、一九四一年に二〇〇人が峰之沢への運行を認可され、一九四二年六月までに一八○人が連行されている。一八○人は「募集」の形で連行された人々であった。この時期に忠南洪城郡、京畿水原郡、始興郡、慶南固城郡などからの連行がおこなわれた。
一九四三年から一九四四年にかけて、「官斡旋」の形で、忠北清州郡、忠南洪城郡、全南海南郡・潭陽郡・長城郡などから六次にわたり、計二〇一人が連行された。
一九四四年一一月と一九四五年一月には「徴用」の形で、忠北清州郡、槐山郡から計九〇人が連行された。ほかに「縁故」という名で一九三八年~四四年の間に二五人が峰之沢鉱山へと連行された。
この名簿の記載によれば、これら四九六人のうち一九四五年八月までに逃走に成功した者は二四〇人であり、逃走率は四八パーセントになる。帰国、送還者などの数は七八人である。
峰之沢は一九四五年に入り火災のため休山となり、「募集」「斡旋」の形で連行された朝鮮人は一九四五年四月に尾小屋鉱山(石川県能美郡)へと六〇人、同年六月久根鉱山へと三〇人が転送されていった。日鉱尾小屋鉱山には一九四二年六月の段階で二四二人がすでに連行されている。
峰之沢へと「徴用」された朝鮮人は多くが現地に残留している。この「徴用」された集団の逃走率は低い。日鉱側の取り締りの強化がうかがわれる。「募集」「斡旋」された人々の逃走率は六一パーセントにおよぶ。
峰之沢鉱山でおきた二つの争議(直接行動)についてみてみよう。
一九四一年一〇月、原田星鶴ら二〇人余りが直接行動に出ている。きっかけは昼食の副食に予定されていた肉が入っていなかったことという。賄係が配給において手に入らなかったことを理由にわずかな肉で雑煮をつくったところ、二〇人ほどが憤激して、朝鮮人の賄夫婦を屋外に出し「殴打乱暴」したという。これにともない警察は七人を検挙した。そしてこの七人は本籍地へ送還させられた(『特高月報』一九四一年一〇月、『在日朝鮮人関係資料集成』四所収)。
強制連行、強制労働への怒りは食事を契機に直接行動へと転化した。おそらく、朝鮮人たちはさまざまな要求を鉱山側にぶつけていったのであろう。その結果、七人の検挙・送還となったと思われる。
「朝鮮人労務者に関する調査」の名簿によれば、原田星鶴は京畿道水原郡出身、一九四一年七月に連行されている。七月に連行された八四人のうち逃亡者は四二人、帰国送還者等は三六人であり、ほとんどが現場から姿を消した。連行された七月の翌月には八人の逃走と一人の送還、争議の発生した一〇月には一七人の逃走と七人の送還という状況であり、この段階で、連行した八四人のうち三三人が現場から離脱していった。ここに「募集」という連行への激しい抵抗をみることができる。
一九四三年九月二一日にも峰之沢において直接行動が発生した。「国民動員計画」によって連行された朝鮮人のうち三九人がかかわった争議であった。この争議は連行されて「訓練」をうけている期間におきた。飲酒を厳禁する「隊律」を破ったと飯場頭が労働者を叱責した。それに対し同僚の朝鮮人たちは飯場頭夫妻を殴打したという。その結果、中心人物二人が「検挙」され、他の労働者に対しては「厳諭」がおこなわれた。これらの動きを権力側は「誤解に基く闘争」としている(『特高月報』朝鮮人運動の状況 一九四三年一〇月『在日朝鮮人関係資料集成』五所収)。
ここにある三九人とは一九四三年六月に連行された忠北清州郡などの四八人のなかの人々であろう。この集団からは連行された六月に九人が逃走、九月には八人、一〇月には三人、一一月には一人が逃走した。連行されて四ケ月の間に二二人が現場から離脱している。一九四五年六月までに残っていたのは六人であり、逃走に成功した人数は三九人である。一九四四年には六人がさらに逃走、一人が帰国。一九四五年六月に二年満期をむかえるが、三月一人、四月二人、五月四人、六月五人がつぎつぎにと逃走し、満期帰国したのは一人だけであり、帰国を期待していたとみられる六人は、久根鉱山へと転送されていく。
この集団は連行された直後と二年満期を迎えるときの逃走が多かった。一九四三年九月の直接行動はこのような動きのなかで発生している。連行され隔離収容され、隊律に束縛された訓練と暴力的管理のなかで、朝鮮人たちは直接行動をおこなったとみることができるだろう。
なお、この名簿の記載には誤りがあることが、小池善之さんの現地調査で明らかになっている(小池善之「『厚生省調査報告書』と朝鮮人強制連行」)。それによれば、一九四二年五月に全華寿さんは慶南固城郡から連行された。面の役人と警察官による命令だった。飯場は外から出られないように鉄の棒で閂がかけられた。暴力は日常的におこなわれ、逃亡者は皆の前に出され棒で叩かれて半殺しにされた。全さんは二年経って帰国したが、名簿では六ヵ月後に逃亡したことになっている。全さんの知人の巴山点王さんは連行された四ヵ月後に落盤事故で足を切断し帰されたが、名簿では四三年九月に逃亡したとなっている。名簿では逃走日が月末とされているものが多く正確とはいえない。だが逃亡が多かったことは事実だろう。
強制連行による増産が狙われた。しかし、連行された朝鮮人は現場からの逃走や争議などで抵抗しつづけた。「所長会議資料三」(日本鉱業一九四一年度・『朝鮮人強制運行の記録』所収)によれば、日本鉱業峰之沢鉱山は作業能率の低下に不安を抱き、「取締方法」の確立をもとめている。「内地人ヲ割当テズ総テ移入半島人二依リ労務供給」がおこなわれることに対し、資本の側は作業能率低下の点からいだっていたのである。逃走やサボタージュ、帰国要求のたかまりのなかで鉱山側はさらに監視と統制を強めていったようであるが、抵抗をおさえることはできなかった。朝鮮人の逃走者は増加し、名簿から一九四四年、四五年の逃走成功者数をみれば一二〇人ほどとなっている。
このように現場での逃走を中心とする抵抗がつづいた。それにより日本の戦時動員体制は現場からうちくだかれた。峰之沢鉱山においても久根と同様、強制連行による生産態勢の確保は成功しなかったといえるだろう。
引用元 人権平和・浜松(戦時強制労働の調査/天竜久根・峰之沢鉱山より一部抜粋)
人権平和・浜松 - 天竜久根・峰之沢鉱山
http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/
なぜ飛ばしたっ!
初っ端から申し訳ない、何時か取り上げようと思っていたネタだけに読んで貰えたなら幸いだ。時代背景と産業復興の波に飲み込まれた数ある鉱山の内の一つ、峰之沢鉱山。そのお隣の古河鉱業久根鉱山との相互問題も歴史を辿ると面白い、何と言っても”あの”有名な「古河鉱業」だ。そう、「足尾銅山鉱毒事件」の古河鉱業。
それだけでも当時の歴史を色々と辿りたく成るでは在りませんか、以降少しづつですが説明して行きましょう。
2棟残る鉱山夫住宅、正面左側の棟入口からお邪魔します。
薮い、暑い、帰りたいっ。
森林管理のじいちゃん達に教えてもらった当時の旧道を歩いたのだけれど、いや「歩く」では無いか。兎に角這って転げて薮漕いでこの入口に到着、夏に来る場所じゃ無かったよココ。
鉱山夫住宅と言っても鉱山関係の資料などは一切残されてはいない、メインの住人が鉱山夫の家族の為の物だったからで鉱山夫達の簡易宿舎は別の場所に建設されていた。しかし現在その姿を見る事は残念ながら出来ない、閉鎖後に直ぐ解体されてしまった為だ。
1969年の閉鎖までは診療所、娯楽会館など多くの建造物が残っていたが現在は殆どが解体されてしまっている。
住宅内部も独身の鉱山夫には広過ぎる作りで家族用だったのが良く解る、残留物は少ないが当時を偲ばせる家具や雑誌など幾つか興味深い物が。
1700年代後半から採掘生成が開始されたこの鉱山、企業の手がシッカリと入ったのは1907年。この年に久原鉱業がこの鉱山を含む山間部の山々を採掘権利と共に買収、複数に枝分かれしていた業務を一本化する事で事業を本格化・効率化して行く事に成る。
久原鉱業に関してはこれまた色々と複雑内経緯が在るので以下ウィキリンクを順繰りと読み進めて欲しい、以降その予備知識が在る物として話を進めて行きたい(長く成り過ぎて全て記述出来ないのです、御免なさい)
峰之沢鉱山 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b3%b0%e4%b9%8b%e6%b2%a2%e9%89%b1%e5%b1%b1
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久原財閥 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e4%b9%85%e5%8e%9f%e8%b2%a1%e9%96%a5
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久原房之助 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e4%b9%85%e5%8e%9f%e6%88%bf%e4%b9%8b%e5%8a%a9
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株式会社ジャパンエナジー(日本鉱業) - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%83%91%e3%83%b3%e3%82%a8%e3%83%8a%e3%82%b8%e3%83%bc
貴様、また飛ばしたなっ!
斜面にへばり付く様に建設された鉱山夫住宅、当時はこの写真上部に生活道路と往来する為に住民専用の山道が整備されていた。今でも冬季にはその姿を確認出来るが夏真っ盛りの時期はもう、ガツっ晴れの青い空と盛緑の植物が迫って来てもう駄目さ。
第一次大戦後の不況で一時期まばらに成ったと聞くこの住宅、しかも1945年4月5日の鉱山火災で一時休鉱。この為、この住宅棟を含む幾つかの鉱山夫住宅から人々が消える時期が続いた。
住宅の内部はこの様に著しい傷みが見てとれる、閉山後の放置期間が余りに長い為だ。解体予算が算出された事も何度も在るのだけれど自然に飲み込まれてしまった現在では再開発の行政予算が計上されない限り、完全な解体は見込めない状況と成っている。
因みに閉山後、背と成る斜面を擁する山から土砂崩れの被害を数度受けている。この区域の災害記録にも残されていて現在使用されている生活道路にまで被害が及んだ様だ。
その為に森林開発局や行政、地元関連企業が協力して山間部の定期伐採や簡易整備が行われている。
鉱山火災、大戦と重なる企業ダメージから復興して最盛期を迎える1956年。この年に生成出荷量が過去最大と成り、従業員700人を抱えての地元鉱山産業は多いに潤った。
しかしその後、戦後復興と経済成長の礎と成る時期が重複した為に無計画な採掘が問題視され始める。鉱量激減と品位低下、貿易の自由化と全国の鉱山や銅山が煽りを受けたこの時代、峰之沢鉱山も当然その風に追いやられる事に。
最盛期から10数年と成る1969年、地域産業を支えたこの鉱山は閉山を迎える。
さて、先程の引用元サイトからもう一説抜粋しよう。飛ばすなよぅ?
一九四三年から峰之沢で事務員として働いた山本萬さん(一九二六年生)はつぎのように語る。
「入社してはじめに現場事務所で働き、その後事務所に入った。戦時中、増産のために乱掘したため坑内が荒れた。落盤が多くなり危険な状態となり、一九四七~四八年に事故が増えた。入社したころの労働者の構成は日本人が七~八○○人、朝鮮人が三〇人くらいであり、のちに中国人が二〇〇人ほど入った。
事務の担当者として朝鮮人をうけもった。私の仕事の内容は出勤状態をつかみ賃金を算定する経理だった。坑内は一交替だったが、忙しくなると二交替となった。終戦前に相当数が逃亡した。秋葉山の山を越えて逃げた。川ぞいに逃げればみつかってしまうからだ。
戦後、偶然、佐久間町浦川で、逃亡したのち現地に住みついた人と出会ったことがあった。
鉱山には生産管理のために軍政官が駐在した。賃金には本番式(日給固定給)、半請(半分が本番、半分が請負)、請負式(切羽から○○トン掘り搬ぶと○○円など)の三つがあり、日給制だった。労働者は四人で一集団(掘削一、支柱一、運搬二)をつくり、グループ毎に賃金を払うことがおおかった。職域毎に賃金がきめられていた。
朝鮮人の名簿には番号とともに朴○○、金本○○と書かれていた。はじめは名前を覚えることができず番号で呼んだ。軍隊出身者や朝鮮巡査出身の労務担当者が六~七人いて、見張り、警戒をしていた。逃亡して捕らえられた朝鮮人もいた。
朝鮮人の飯場は鉱山事務所北側の「赤ズリ」にあり、「半島飯場」と呼ばれていた。飯場では豚をさばいて食用にしたり、ドブロクをつくったり、キムチをつくったりしていた。労務は近づくが、一般の労働者は近づくことがなかった。単身者は飯場で暮らし、家族持ちは日本人の社宅内に居住した。当時、飯場頭の娘が婿をとり、結婚式があり、招かれていった。飯場の婆さんの喪式もあり、皆アイゴーアイゴーと泣いていた。
朝鮮人が増えたのは一九四四年ころだった。はじめは三〇人くらいだったが、四四年ころ増加し、労務担当が朝鮮人を連れに行き連れてきた。一回に三〇人くらいが連行されてきたが、頻繁に逃亡した。とくに中国人が連行されてきたころは逃亡が多かった。飯場に帰ってこないという連絡があると労務が探しに出ていった。
中国人は坑外の仕事をしたが、衰弱していて皮膚病が多く、戦力にならなかった。饅頭を食べていた。」(龍山にて、一九九〇年談)
ここから、朝鮮人連行者の増加と一九四五年における逃走者の増加、朝鮮人飯場の存在、軍による管理、朝鮮人名簿の存在などがわかる。
地元の鉱山管理者は「峰之沢には中国人が強制連行されたが、朝鮮人の強制連行はなかった」と語った。史料、証言などから朝鮮人強制連行があったことはあきらかであるが、峰之沢地域において朝鮮人強制連行は事実認識として共有は不十分である。日本が植民地支配と戦争犯罪の責任をはっきりさせることなく、現在に至っていること、それは峰之沢においては「朝鮮人強制連行はなかった」という発言になってあらわれてくる。
村で出会った老女は「朝鮮人のことを『半島さん』と呼んでいた。山の中で百姓をしていたら、時々朝鮮の婆さんがチョゴリ姿でおりてきた」という。鉱山への動員は「内鮮一体」の名のもと、「半島人」という名でおこなわれた。民族性を奪い朝鮮人を「皇民化」し戦争へと動員する政策によっておこなわれた朝鮮人強制運行。この強制連行・強制労働についての事実認識がいまも共有されていないということは、峰之沢においては、朝鮮人は「皇民」「半島人」のままであり、未解放のままであるといえるだろう。
龍山村役場の倉庫の一角に戦時下の鉱山労働者名簿の一部、戦後の外国人登録関係の綴があった。これらを含めての史料調査や、運行された人々自身からのききとり調査が早急におこなわれる必要がある。
引用元 人権平和・浜松(戦時強制労働の調査/天竜久根・峰之沢鉱山より一部抜粋)
人権平和・浜松 - 天竜久根・峰之沢鉱山
http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/
見ていたぞ、スクロールバーでまた飛ばした事をっ!
さて、ただの歴史検証ではなくて今回は軍需産業の影と外国人強制労働の実態を地元産業の在り方と絡めてレポート(コピペと他サイト引用で)したのだけれど如何だっただろう。取っ付き難いし現代とはどうしても時代錯誤な問題だったりするのだけれど興味は持って頂けただろうか、詳しい歴史は有名物件なので今回は記載しなかったけれど調べてみると新しい発見がある筈ですよ。
実は近年に成って「解体しねーなら建造物文化資料として観光地化しねぇ?」ってな話が行政にもチラホラと、地元の観光関連企業、NPO団体などが集まって整備して見学出来る様にしようとする動きも在るのだとか。ただそこはやはりお金の問題がどうしても、恐らくは実現不可能だと思われますねぇ。
静岡県としては静観の構え、浜松市はそもそもやる気は無い様です。
有名物件も調査すると色々と出て来る物です、てか有名物件だからこそ…なのかも。特筆する事が無くても現存している遺構から教わる事はまだまだ在りそうですね、本日は以上です。
アプローチ
国道152号線を天竜川と並走して秋葉ダム方面へ、川を挟み県道285号線から山間部へ入る枝線に。そこからは少々複雑な道順なので地図リンクを参考にどうぞ。
地図リンク
http://goo.gl/maps/vWFdY
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REPORT - 0809│乾坤山 南壁ロッククライミング
千葉県│乾坤山 南壁ロッククライミング
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 乾坤山 南壁登攀(鋸山 難壁)
サンバでアミーゴ。
抜き足差し足勇み足の愉快な仲間達が本日おっぴろげるは岩登り、熟練者様におきましては退屈極まりない内容では御座いますが何卒ご容赦を。あ、場所は房総半島の鋸山ですって。
兎角房総半島の壁は難易度が低いとされている、それは関東平野が物語る様に屹立したクライマーウォールが少ない事に起因する。勿論高低差だけがクライミングの難易度を測る指標では無いのだけれど一般的に登攀距離が長ければルーファンも慎重に成るし低くても厳しいムーヴが連続すれば完登は難しく成っていく、今回は全体的なグレードは高くは無いけれどその中でも比較的ルートが厳しい難壁と呼ばれる岩場での一幕をご紹介したいと思う。
場所は僕らにとって馴染み深い鋸山、正式名称は乾坤山と言う。以前にもこの場所はエントリーしていて内容としては旧道・廃道の類だった、今回は岩場なので興味の無い人は本当に面白くないレポートと成る事をお許し頂きたい。ただ、普段のエントリーの中でも危ない物件や場所が多数含まれる当ブログ。本職(メインの趣味って意味ですよ)の岩屋や沢屋がどの様な遊びの延長でアタックしているのか、そんな普段余りお見せしない内情を少しだけでも解って頂ければ幸いだ。
普段のエントリーでも登場する人達の格好が随分と重装備で大袈裟なのもメインに別の物件で遊んでいたり途中で急遽ボルダーな場所にアタックする事が多いって理由からでして、なので「割橋物件」参加者が通常はどんな事してるのかなぁって疑問に思ってる方も今回のエントリーで少しは解って頂けるかと思いますよ。
鋸山がどんな場所かはウィキペディア参照にて。
ウィキペディア - 鋸山 (千葉県)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e9%8b%b8%e5%b1%b1_%28%e5%8d%83%e8%91%89%e7%9c%8c%29
1980年代後半、房総のオーシャンクリフとして関東のクライマーに注目された鋸山。最も高い所で高低差40メートルのクラッククライムが楽しめる場所として2000年代に入って再び脚光を浴びている。この幾つか在るクラックルートを開拓したのが田中栄さんだ、国内ではフリークライミング黎明期に当たる1980年代。その初期において平野が多い関東地方、中でも最も低い房総半島でクライミングエリアを貪欲に開拓し続けたクライマーがその人だ。
今回メインで紹介するのは「サンシャイン・フェイス」と呼ばれる南壁(通称・難壁)、高いフェイスが印象的な約30メートル程のザイルが必須なクラッククライムエリア。岩質が砂岩で非常に脆く、ビレイ用のプロテクションが残置されているのだけれど幾分不安要素は拭いきれない。
海外の100メートル以上のガチ登攀には程遠いけれど難易度は最高で「5.11d」と中々のレベル、それでは「割橋メンバー」の練習風景エントリーを始めましょう。
割箸に関連するエントリーは以下の専用ページからどうぞ。
クライミングには幾つか種類と言うか登攀方法が異なる事によって別呼称でジャンル別けされている、今回の様にザイルを必要とするリードクライム(※1)は必ずビレイヤー(※2)と呼ばれる安全確保を地上から行う人間が必要とされる。今回の様なクラックルートではフリー(※3)で登る方も居てジャミング(※4)を駆使して完登するのだとか、手が千切れるっての。
※ 1:トップロープを必要とする、または使用した登攀
※ 2:クライマーを地上から補助する安全確保担当、複数のビレイヤーが支点を確保する場合もある
※ 3:安全器具などのクライムギアを一切使用しない登攀
※ 4:指を特殊な形に固定してクラックに支点を置く事
難易度が上がればそれだけインターバルポイントも限られてくる訳でして、シェイク(※5)が容易に行える様にチームアタックで望むのが安全面でも体力面でも重要なのです。なので単独アタックなんて以ての外、熟練者だろうとも若いパッションが爆発寸前の怖いもの知らずだろうとも必ず複数で楽しんで頂きたいスポーツなのです。
※ 5:インターバルポイントを確保した状態で両手をダラリと垂らして休憩する状態
さて、最初は比較的難易度が低い「浮島ロックガーデン」で肩慣らし。6本在るルートから人気の「トライアングル」ルート、「サウスポー」ルートを選出。
難易度はそれぞれ、
図04:トライアングル:5.10+(★★★☆☆)
図05:サウスポー:5.10-(★★☆☆☆)
と身体を温めるには丁度良いグレード、カンテ(※6)付近のハング(※7)を超えればカチ場も多いので完登は難しくない。南壁に来る方は最初にココでウォーミングアップされると良く聞きます。
※ 6:猫背状の凸岩、壁面の横末端にある岩角(アウトサイドコーナー)
※ 7:傾斜が90度を越えたスポット、またラペリングの技術で降下方法の一つをこう呼ぶ事もある
クラックルートでは登攀時の体の動きがかなり制限される、通常の岩場ならカチガチ(※8)に限らず力点の主体と成るのは下半身の場合が多い。つまりホールドポイントを幾つ保持出来るか、その保持する体勢を複数確保出来るかが焦点と成る(事が多い)。ボルダーな人は総じて安易なフットホールドを嫌う、また上級者に成ればフィンガリー(※9)なルートを好むだろう。
※ 8:カチ→かちっと掴める(指間接1本程)、ガチ→がちっと掴める(指間接全体で抱き込める)
※ 9:連続した細かなエッジで指を酷使するスポット
しかしクラックルートはそうはイカの●玉でなのである。
ルート自体がクラックで形成されている為、ルーファンはもとより身体の動きや指動のテクニックまで似通ってくる事が多々在る。今回のステージは砂質と言う事も在り、その砂岩の脆さからどうしても確立されたクライミング(スタイル・ルート共に)に成ってしまう。
まあプロテクション(※10)を使用すれば多少動きの幅も広がるし楽にも成る、この辺は好みの分かれるところだろう。
※ 10:安全確保の為のクライムギア
場所を移動して南壁で2番目の高低差が在る「サンシャイン・フェイス」へ。
サンシャイン・フェイスは今回のエントリーのメインの岩場だ。このサンシャイン・フェイスには5本のルートが確立されていて今回は一番難易度の高いセンターの「奥の細道」を登る、残りの4本含めた難易度は、
図無し:フィンガーレイク:5.11+(★★☆☆☆)
図無し:奥の細道:5.11+(★★★☆☆)
図無し:寒太郎:5.11+(★★☆☆☆)
図無し:サンド・シャワー:5.9(★★☆☆☆)
図無し:エブリボディー:5.6(★☆☆☆☆)
と言った所。高低差は30メートル、鋸山南壁では余り人気の無いフラットな登攀ステージだ。
アタシには身体が硬くて出来ないヒールフック、相棒はまだまだ余裕のご様子。この時も2週間程前のボルダリングの大会で痛めた身体(肋骨が折れてる状態)で登って行く、全くのアホ(身体能力は高い)である。
大会当日の彼曰く、「冷凍カジキに殴られた様な衝撃」との事。
この人、たまにランジ(※11)で越えたりするから見てる方はオッカナイ。ビレイやセーフティ取ってる場合は良いけれど余り無理はせんといて。
※ 11:手の届かない場所へジャンプしてフック、バイトする事
さて、如何でしたでしょうか。割橋メンバーは岩屋と沢屋がメインで行っていて山未経験者はある程度経験を積んでから参加させています、その理由がアプローチにこの様な場所を越えなければ成らなかったりギアの使用方法を良く理解しないと安全面で不安要素が大きく成る事を懸念しての事だったりします。
たまに物好きな方から「割橋や秘境にご一緒したい」とご連絡を頂きます、とても在り難い事ですし奇特(褒め言葉)な仲間が増えるのは大歓迎です。ですがまずは沢や比較的難易度の低いガレを経験して頂いてからと思っています、鍾乳洞なんかも同様で更に難易度は上がり、こちらは各種山岳保険に加入されてからの参加と成るので敷居が高いかもしれません。
最後にこの場所の説明を再度簡単に記載して終わりにしましょう。
最高でのロープスケールが40メートル近いこのステージ、迂回ルートが無い為にビレイヤーのザイルには倍の長さが必要です。また鋸山自動車専用道路の途中に位置する為にアプローチは車のみ、何より企業の私有敷地内なので通常は登攀禁止の場所なのも注意したい点。
しかしそれが何故、県内外のクライマーの人気ステージと成っているか。現在は鋸山自動車専用道路料金所にいる管理人さんから黙認という形で内諾を得て皆さんこの場所で楽しんでいます、それを可能としているのはこの場所を開拓した田中栄さん及びその関係者さんの日頃の献身的な努力による物です。また現在でも登攀者が自主的に草刈や自然荒廃の手入れを行っており、ステージの清掃活動等も分担してされている様です。
黎明期に開拓されたルートが殆どのこのステージ、一時期人気が下火と成った20年間で随分とルートも変化しています(経年劣化などで)。
他のクライマーサイトを覗いても「現在登攀可能なルート数も支点の整備状況から限られているのが実状」と書かれており、限りあるルートを現在の登攀者がマナーやリテラシーを守る事で楽しめると言う事を念頭において欲しい場所でも在ります。
「残置支点についても登る前に必ず安全を確認してください」とアチコチのサイトで注意されている場所なのでこのステージにアタックされる方は必ず熟練者とこの場所に何度も訪れた事の在る方を同伴して下さる事を切にお願い致します。
取っ付き難いスポーツ、ロッククライミング。しかしながらその実、絶景と己の身体能力を極限まで垣間見れる楽しくて面白いジャンルでも在ります。このエントリーで少しでも興味を持つ方が増えて頂ければ何より嬉しい事なのです、いやホントですよ。
って、事で本日は以上です。
アプローチ
国道127号線を南下して館山方面へ、高速を利用なら富津金谷ICで下車。国道沿いに鋸山自動車専用道路の大きな標識が見えるのでそれを目印にどうぞ。
地図リンク
http://goo.gl/maps/J0jkA
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永遠の輝きはダイヤだけじゃない、ニッチなニーズにリッチにお応え。虫好きには素敵な贈り物として、虫嫌いには克服のトリガーとして、小姑には日頃の恨みと感謝を添えて是非お一つ如何ですか。
REPORT - 0109│宇都野火薬庫
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REPORT - 0503│宇都野火薬庫
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REPORT - 0504│宇都野火薬庫
栃木県足尾町│宇都野火薬庫
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 栃木県 宇都野火薬庫跡(国指定史跡)
足尾銅山に赴いた時にどうせなら周辺の関連施設跡も廻って撮影しようと幾つか下調べした、その時に特に行きたいなぁと思ったのがこの「宇津野火薬庫」だ。歴史的にもとても古くてその建造物達の持つ時間の経過が齎す雰囲気がとても素晴らしい場所だった。
簡単にこの宇都野火薬庫跡を説明したい、興味ない方は読み飛ばしておっけー。
この場所、足尾銅山からも程近い足尾町の山中に今も尚ひっそりと建っていて廃墟好きさんもアチコチから見に来る人気のスポットだったりもします。近くにはわたらせ渓谷線が走り、近い駅は原向駅。この辺の駅はどれも佇まいが都内などでは見る事が出来ないのんびりとした田舎の駅って感じで鉄道ファンも各駅に訪れたりしてるのだとか。
平成20年3月に国史跡に指定された足尾銅山関連遺構「宇都野火薬庫」は全部で5つの建造物から成り、しかしながらその建設された時期は諸事情あってバラバラです。軍事利用されていた火薬類の払い下げ品を銅山業に転用する為に保管庫として使用され、5つの役割や成り立ちも地域の歴史を紐解くと面白いのですがちょっと長く成りそうなので今回はこの辺で。
最初の写真は宇都野火薬庫跡の一番奥に在る「第4号庫」、因みにこの場所には入り口側から「火薬加工作業所・導火線貯蔵庫」→「第1号庫(雷管倉庫)」→「第2号庫(火薬・導火線貯蔵庫)」→「第3号庫(ダイナマイト倉庫)」→「第4号庫(ダイナマイト・導火線貯蔵庫)」と山間部を抉る様に掘られた脇穴の中に建設されています。
それぞれの入口にはこの様に山中で出会う事は稀な石垣と石造扉がお出迎えしてくれます、重いですコレ。扉から5メートル程歩けば中の火薬庫達とご対面、各通路には地面の様に思えて実は落ち葉のふかふかフロアだったりマディだったりと注意が必要、ヘビとかも居るので夏場はホントご注意を。
夏真っ盛りな時期だと熊さんとかオオスズメバチ親分とか色々賑やかな場所でも在ります、大自然の中で野生の生き物と戯れたい場合にもお薦めですね(すっとぼけ)。
こちらは第3号庫(ダイナマイト倉庫)、連なる火薬庫の中で唯一保温装置が取り付けられた。なぜ保温装置が必要だったかはちょっと専門的な話に成るし巧く説明出来ないのでごめんなさいです、簡単に説明すると火薬類の中には温度に敏感なモノも在って温度調整をする必要とする火薬がこの火薬に収められていたって事は確かです。
後程記述するれど屋根の傾斜、基礎のアーチ型通風孔など建設には色々な考慮を為して建造されている。同目的の建造物でタイルや石造りが多いのもシッカリと理由が在ります、珍しい物では洞窟や地下壕の様な火薬庫も存在します。
冬季は少しばかり寂しい気がするけれどそれはそれで素敵な景観です、ムッシーが苦手な方は寒い時期がお薦め。周囲の山では継続的に土砂崩れ防止などの工事が続けられているので平日は避けた方が良いかもしれませんね。
こちらは最初の写真と同じ建造物、第4号庫(ダイナマイト・導火線貯蔵庫)。この宇都野火薬庫の建造物はこうやって山中に掘られた穴の中に建設されている訳だけどそれには理由がやっぱり在るのですよ。
明治時代から大正時代に掛けての建設技術で爆風に対応する建設候補地、そして爆発した時の対処を考え、この場所に成った訳ですが穴の深さや広さも当時の技術者が計算して掘削したと言われ、またどの建物にも屋根が残っていないのは爆風を上に逃がす為に予め強度を落とした設計がされていたと参考資料には書かれています。
うーん、成るほどねぇ。
初めて来たのがまだ春の気配がするかしないかの頃だった、どうしても盛緑の時期に来訪したかったので機材を変えてこの場所に再訪したのが約半年後でした。
因みにこの場所、国の史跡に指定はされたものの管理は全くされていません。地元のNPO団体が中心に成って産業遺構や軍需遺構を保存する団体が幾つか集まってこの場所を保護・管理していこうと動きが在るようですが具体的な案は纏まっていないと聞きます。
観光課や地元商店組合の方達もこの史跡の事はご存知でしたがメインの道路である国道122号線沿いの活性化が優先である事、草木ダム東側の道路整備を進めて登山客を見込んだ商業施設を建設したい事などが管理の行き届かない理由の一つに成っています。
付近には旧道・廃道・廃線がひしめき合っている銅山集落を地で行く地域、ただでさえ足尾銅山の諸問題が解決していない現在において関係なくとも「足尾と関係してそう」と思われる様な史跡に住民は気が向かないのも十分理解出来る理由でしょう。
(((;゚Д゚))) ホゲェエエエエ
整合性の無い話で余り信用出来ない内容だけれど足○銅山の元関係者が共同でこの史跡を買い取るとか何とか…又聞きで全く全容が掴めない話なのだけれど。そもそも国の指定を受けている史跡って個人所有出来ないのではなかろうか、しかしながらその様な気概が在る方達に管理して頂いた方が歴史的に貴重な場所だけに良い事なのかもしれませんね。
ここで文化遺産オンラインの紹介文を引用しよう。
足尾銅山跡は栃木県西部に位置する日光市足尾町に所在する。
採鉱・選鉱・製錬の一連の工程を示す施設のほか、生活・経営その他に関わる諸施設・遺構からなる。 天文19年(1550)に発見されたと伝えられるが、本格的な経営は慶長15年(1610)で、慶安元年(1648)からは幕府の御用銅山となった。
明治4年(1871)民間に払い下げられていたものを、同10年(1877)、古河市兵衛が買収し、経営に着手して以降大きな転機を迎える。明治16年に本山坑を整備、明治18年(1885)に小滝坑、翌19年(1886)には通洞坑を開口し(完工は29年)、銅山経営の基礎が固められた。
20世紀初頭には日本の銅産出量の4分の1を担うほどの大鉱山に成長した。一方、各工程での廃棄物及び製錬時の亜硫酸ガスにより環境への影響が深刻化していった。明治23年(1890)には渡良瀬川の大洪水により下流域の農作物に被害を与えたことが契機となって鉱害問題が顕在化し、明治29年(1896)には「鉱毒予防工事命令」が出され、浄水場等が建設された。昭和31年(1956)に自溶製錬法による製錬が開始されるが、昭和48年(1973)に閉山、輸入鉱石による製錬も昭和63年(1988)に事実上の操業を停止し、足尾銅山の銅生産の歴史は幕を閉じた。
足尾銅山跡は、近世・近代を通じて経営され、特に近代にあっては銅鉱山として国内最大の生産量を誇った鉱山であり、我が国の近代産業の発展及び鉱害とその対策についての歴史を知るうえで重要である。今回条件の整った基幹坑道である通洞坑と銅産出の拡大を支えた火薬類を貯蔵す。
足尾銅山跡 - 通洞坑 宇都野火薬庫跡 - 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=218469
文化庁の国指定文化財のデータベースにも勿論登録されている。
国指定文化財等データベース(史跡名勝天然記念物)- 文化庁
http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp
現在周囲の足尾銅山関連遺構を含め、世界遺産に登録しようと言う動きが行政と民間双方で検討されている。しかし企業側は口には出せない諸問題を色々と抱えている為に協力的ではないのは如実に解る事だ。事実、この様な動きが活発化して数年の内に本山製錬所を含めた複数の施設跡が解体されている。
隠し通さなければ(周知されていても公表や認める事は避けたい問題)成らない沢山の事実が在るのだろう、この辺に関しては今回のエントリーから反れるので言及しないけれど興味が在ればグーグル先生にお伺いをたててみと良いだろう。
本日は以上です。
※ 2013年11月26日:エントリーを3つ統合した上で再編集しました。
アプローチ
わたらせ渓谷鉄道を併走する国道122号線、日光側からだと群馬方面へ左折。わたらせ鉄道で言えば通洞駅と原向駅の中間地点のT字路、国道で言えば遠下信号の先のT字路を右折。暫く山道、5分ほどで小さな橋の手前左側に山中へ続く道が見えます。
地図リンク
photograph - nee
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