REPORT - 0110│通洞動力所・新梨子油力発電所
REPORT - 0405│ 通洞動力所・新梨子油力発電所
栃木県足尾町│通洞動力所・新梨子油力発電所
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 栃木県 通洞動力所・新梨子油力発電所
※ 2011年夏季に通洞動力所左側が半壊し、内部は現在大変危険です。
ちょりーっす。
約1年振りに来ましたよ、足尾銅山系の遺構としては素晴らしい物件と言える通洞動力所・新梨子油力発電所の再訪(初回訪問と再訪双方のエントリーを再構築して掲載しております、本文中に幾分かの時間軸の前後が在る事をご了承下さい)です。2つの廃墟が混同されてますがコンクリート製の建造物が新梨子油力発電所跡、レンガ造りの建造物が通洞動力所跡です。
日光市教育委員会事務局の文化財課「世界遺産登録推進室」から頂いた資料によると、
動力所では、さく岩機の動力源である圧縮空気がコンプレッサーによって作られていました。
また、そのための電気は、間藤発電所(後に細尾発電所)から送られた高圧電力を併設の変電設備で変圧し、供給されていました。明治45年には、通洞動力所に大型コンプレッサー「インガーソルランドPE-2」が導入されました。このコンプレッサーは、当時の国内の鉱山では最大となる320馬力の出力を誇りました。大正3年には、本山動力所にも同型の大型コンプレッサーが導入されました。
本山動力所には現在もコンプレッサーが保管されています。
との事、この辺は少しづつ掘り下げていくと致しましょう。あ、余談ですが「本山動力所」が木造なのに対して、この「通洞動力所」は赤煉瓦造りです。理由は、うーん…なんだろ(机上調査では判明しませんでした)。
通洞動力所正面入口、地震の影響か2011年の夏に左側が崩落してしまった。311の影響は足尾銅山関連の遺構に影響は在った様で管理物件とはいえ形のみの放置されている建造物は軒並み部分損壊などの報告がなされている。
いやいや、そんな硬い話は抜きにして。
ここの何が好きって足尾銅山系の遺構が集中する地区に在ってそれがしかも2つも一度に楽しめる、でもって物件内容も美しいとくりゃねぇ奥さん。
まずはぐるっと周り込んでレンガの外装が素敵な通洞動力所へお邪魔しましょう、早朝のお邪魔ですが陽の高さを計算して内部へ入ったので光量は十分。よーし撮りまくるゾーウ…って…ん…?
おかしい、何かがおかしい…言うなれば気配。視線を感じるんだ、事故で傷めた左足も疼く様に「警戒しろっ」と僕のゴーストに囁く。
ふっ、見切ったぁあー。そこかー。
(´・ω・`)?
え…っと…唯さん…です…よ…ね?
すっかり忘れてた、廃墟に来てたんだ。初っ端でイキナリやられたからな、うん…ここは通洞動力所だった筈。あー綺麗だなー、偶然が作り出す滅美って唯一だよなぁ…唯…。
廃墟を撮影しているとですね、なんと言うか、人が介した歴史を一度凍結して僕らの様な廃墟好きがその歴史を解凍してると言うか。凍結と解凍、言うなればP-MODEL。P-MODELと言えば平沢進…平沢…。
こいつぁやべー、素敵な内部。壁の変色具合とかご飯3杯はいけらぁ、差し込む光なんか最高の塩加減でうっかりカロリーオーバー。
そう言えば2010年に訪問した時にはシッカリとこの場所に変圧器が残されていた、ギリギリとは言えその形を残した屋根が残る状態だったので特に気にはしていなかったのだけれど。
そして約1年後の訪問。
うん、無いでしょ変圧器。で、コイツは何処に行ったかと言うと正面入口付近に移動されていた。相当重い筈なのだけどどうやって…什器用コロ使ったって土の地面じゃ上手く動かせないし人力でやったのか…。
当初はこの移動に関して色々と憶測が飛んでいたのだけれど関係者が屋根の崩落を見越して入口付近に移したとの情報を入手、地震発生から1ヶ月以内の出来事らしいので崩落した夏まで少ししか猶予が無かった事に成る。
どちらにせよその予見能力は素晴らしいの一言だ。
写真は311の地震から1ヶ月半を経過した4月中旬、既に変圧器は移動されいて屋根の崩落は1年前とは随分変わって崩壊が進んでいる事が解る。
日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺構群」には、
明治45年には通洞動力所に大型コンプレッサー「インガーソルランドPE-2」が導入されました。このコンプレッサーは当時の国内の鉱山では最大となる320馬力の出力を誇りました。対象3年には、本山動力所にも同型の大型コンプレッサーが導入されました。本山動力所には現在もコンプレッサーが保管されています。
と在る。当時国内のコンプレッサーの出力が軒並み100馬力前後だったのに対し、凡そ3倍と成る大出力の320馬力。関連資料にはその出力を発揮して多いに事業に貢献した記されている。この「貢献」とは具体的にどういう事か、ほんのサワリだけ記載しよう。
本山動力所で大型コンプレッサーがまだ稼動してなかった時期、この通洞動力所で作られた圧縮空気を利用して銅山でのさく岩機の動力源としていた。電力は以前ご紹介した細尾発電所から送られていた電力を使用(初期においては間藤発電所)、送られて来た高圧電力は併されている通洞変電所で変圧し供給されていた。因みに通洞変電所は現在も稼動中の現役銅山施設だ。
この動力所は2度の増築を重ねており、当初の木造建築から無理やりレンガ補強とコンクリートでの外装補強がされています。それぞれが独立した建築法を確立している為に複数の建材が重複すると建築物としては逆に脆く成る事も在るのだとか、今後崩壊は更に進んで行くと予想されるだろう。
銅山の掘削において中枢を担ったこの動力所、広い内部には幾重にも機材が置かれた痕跡が見て取れるのもこの廃墟の見所。完全崩落と成る前に来訪出来て本当に良かった。
数年前まではこの動力所の保存を推進するNOP団体が在ったそう、しかし311の地震以降の大規模な崩落を経てその声は現在殆ど聞こえないのだと言う。しかも2011年の崩落を受けてお隣の新梨子油力発電所跡を含めた解体更地化の計画が予定されているのだとか、これは地元の住民からの聞き取り調査で得た情報なのでその真偽を確認する為に行政へ。
「現在予定は在りません」
うーん、現在は…ですか。行政内部も一枚岩ではなくて観光課、世界遺産登録を推進する関係部署とは随分と温度差の在る回答内容だった。行政上層部として面倒な問題を抱える「足尾銅山の関連遺構」は観光足りえる物を残して解体してしまいたいってのが本音だろう。
この辺を取材した地元新聞社の記者さんから提供された情報(ちょっとハッキリは書けないけれど)だと、近年中に幾つかの関連遺構が解体される事が既に決定しているとの事。
やはり地元感情や過去の就労被害者などとの世論を慮ると仕方ない事なのかもねぇ。
稼動開始時期はハッキリしないものの明治、大正、昭和と3つの時代を駆けた動力所は1959年(昭和34年)にその使命を終えて稼動停止と成った。それからは向う1年間で停止された関連施設の移管作業が続けられた事で行政の記録には「昭和34年頃に廃止」と残されている。
直接は関係ないけれど銅山関係の発電所や動力所は過去に沢山存在していて「通洞」と名の付く水力発電所も一時期稼動していた、1901年(明治34年)に開設した「通洞水力発電所」だ、1934年(昭和9年)に廃止されるまでこの通洞動力所とは切っても切れない関係に在ったのは言うまでもないだろう。
びっくらこいたでーな崩落状態の木造左側部分、こりゃ右側も時間の問題ですなぁ。解体計画もある様なので気に成る方は早めに写真に残した方が良いかもしれませんです。
それではお隣の新梨子油力発電所へ移動します、バイバイ唯。
こちらは新梨子油力発電所、隣接する臨時発電を担う銅山発電所です。と、言っても元々は工場として建造された建物でその時期も発電所の稼動が確認される1929年(昭和4年)より数年前の事。成る程、関連資料に目を通せば付近の発電所との稼動時期など「何故この時期に臨時発電所を?」と思い当たる節は沢山在った。
内部の作りも凡そ発電所としての作りでは無いし、工場だと解れば納得の構造と言える。しかしゴミが凄ぇな、こりゃあ。
工場としての役割は掘削機械の整備と木工製作で木工に至っては関係者の居住区の住居資材の加工まで行っていたと資料(行政から提供された非公開資料)に在る、そして1929年からは更に臨時発電所としての役目も加わって一見広く感じる内部は随分と手狭だった様だ。
発電所としての役目は1954年で終了、一部の発電機器はお隣の通洞動力所と他の動力関係施設に移された。発電所の稼動途中から場内クレーンと手動ホイスト(恐らくチェーンブロック的な使用だと予想)が設置され2階部分を増築、事務所と倉庫などとして運用された。
この新梨子油力発電所は呼び名が3つ在り、ご存知「新梨子油力発電所」、旧名の「新梨子火力発電所」、そして日光市教育委員会事務局の文化財課の保管資料にも記載されている「通洞工場」。歴史的にも行政に「工場」だったと認識されている様で今後製作される一般向けの遺構群パンフレットにも”工場”のキャプションが併記される事に成りそうだ。
工場工場と連呼してはいるけれどこの臨時発電所、当時の国内では最大規模の1000キロワットを出力。勿論銅山関係の発電所の中でも最大でメインより予備稼動施設の発電所の方が出力が大きいと話題に挙がった事も在ったと言う。
まあ、そりゃそーか。
相変わらずのゴミの山すなぁ、もうずっとこんな感じだけど内部は現役で利用されている様だ。関係者の出入りは比較的頻繁で倉庫や廃材置き場としてなのか来る度に物が減ったり増えたり移動してたり。
外壁はコンクリート製、戦時中は外壁全体に迷彩塗装が施されていたが今ではその殆どが退色してしまい、その配色を確認する事は難しい。
新梨子油力発電所も通洞動力所と同じく、日光市教育委員会事務局が公表している資料から抜粋しながら簡単な歴史を説明致しましょう。
足尾銅山系発電所としては珍しい重油燃料による発電を行ったのが新梨子油力発電所、足尾地区には日光地区と重複しながら足尾銅山関連の発電所は大小設置されていて本山にさえ予備発電施設が在ったほど。
説明を読む限りでこの発電所は何をしていたかと言えば更に不足の事態に備えた非常用電力供給発電の為の施設だったってのが答え。公表で出力1000kwは当時としては最大規模と謳われているけどそれはあくまでピーク出力で在って非常用電力としてその全てを利用する物では在りませんでした、大正4年に建設され昭和29年に廃止。
内容はレポートで調査したものと殆ど一致、まあ整備工場や木工加工工場としての説明は流石に掲載してはいなかったですけれどね。
最後に2003年(平成15年6月号)の「広報あしお」に掲載されたこの動力所と発電所、付近の関連施設を取り上げた部分をPDFで見つけたのでリンクしておこう。
広報あしお - 足尾の産業遺跡⑱
http://ashio.shokokai-tochigi.or.jp/dennouhakubutukan/sanngyou%20iseki/kouhouashio/h1506.pdf
本日は以上です。
※ 2013年11月29日:2つのエントリーを統合した上で再編集しました。
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REPORT - 0111│細尾第一発電所
栃木県│細尾第一発電所
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 栃木県 細尾第一発電所
足尾銅山遺構の関連廃墟では比較的管理が行き届いている物件、今回のエントリーは日光から程近い「細尾第一発電所跡」。最近に成ってハリボテの安全策が設置されたが本当に意味の無い形だけの物。有名物件だけに今後の改悪が心配されるけど元々内部には写真栄えしない廃材が並べられていてちょっと残念廃墟でも在ります、しかし作り自体はとても美しくて歴史的にも足尾銅山との関係も深くて興味深いってもお伝えしたい部分だったり。
歴史的には全国で3番目に古い発電所だった細尾第一発電所、付近のロケーションは結構良くて探し易い場所でも在るので日光方面に行く時にちょい撮りに如何でしょうか。
まずはいつもお世話に成っている「水力ドットコム」さんでスペック確認や。
水力ドットコム - 古河機械金属 細尾第一発電所
http://www.suiryoku.com/gallery/tochigi/hosoo1/hosoo1.html
歴史
所有:古河鉱業 [ 運開 ] - 古河機械金属 [ 廃止 ]
運用:明治39(1906)年12月運用開始
方式
種別:廃止(一般水力)
形式:水路式
方式:調整池式
出力
出力:認可最大出力2000kW(運開当時)
河川
取水:大谷川
放水:大谷川支流(名称不明)
足尾銅山がピークを迎えて不足する電力を補う為に建設されたこの発電所、冒頭でも少々書いたけれどえらく古い。1906年建造(同年12月より運用開始)って事でもう100年以上前、現在では屋根などの崩落が進んで保存の為の補修工事も予定されているとか。
その為か数年前までは無かった周囲の防護柵が設置され、この土地に入れない様に手前に車止め用のチェーンまで設置されてしまった(2012年確認)。所有利権者の古河日光発電株式会社からの正式広報は無いので詳細は結局解らないのだけれど、まあ文化財的な位置になる物と予想されます。
当の古河日光発電株式会社のサイトではこの発電所の歴史にちょっとだけ触れられていました。
古河日光発電株式会社 - 当社水力発電の歴史
http://www.furukawanh.co.jp/techinfo/story1.htm
成る程、中禅寺湖を貯水池に見立てて取水してたのか。こりゃ効率的、高低差も自然の地形として利用出来るから工事自体は難しい物ではなかっただろうなぁ。
撮影時はまだ多少の見学が許されていたけれど2013年現在は完全に立入禁止と成りました、地元広報誌の取材で新聞社さんと同行した時も担当の方に色々とお話を聞かせて頂いた時も、
「備品の持出し(窃盗行為)や夏季にここで花火などを行って警察に来て頂いた事も在る、今後の保存計画も多方面から意見を聞いて検討中」
なのだとか。うーん、こりゃ保存より解体の方が検討案して強いのかもしれないなぁ。別の案件の仕事で土木学会の方にお話を聞いたけれど一時期は保存の方向で資料を提供した事も在るそう、今後の動きを正確に把握出来なかったのが残念だったけれど見ておきたい方は余裕が無いかもしれません。
件の土木学会のサイトにこの発電所の紹介ページを発見、一応リンク。
土木学会 - 日光街道 関東支部栃木会
http://www.jsce-tochigi.gotohp.jp/b/1010/2001_043.htm
前回の「通洞動力所・新梨子油力発電所」でも記載したけれど2003年(平成15年6月号)の「広報あしお」にこの発電所も幾つかの記述が在る、興味が在る方は是非確認してみてほしい。
広報あしお - 足尾の産業遺跡⑱
http://ashio.shokokai-tochigi.or.jp/dennouhakubutukan/sanngyou%20iseki/kouhouashio/h1506.pdf
栃木県の土木遺産をウェブ資料化している「栃木県の土木遺産」さんからこの発電所の説明箇所を引用して終るとしよう。
古河鉱業㈱(現在の古河機械金属㈱)は、足尾銅山の動力電化のため、明治23年(1890) 12月、足尾に間藤水力発電所(90kw)を建設しました。自家用発電所としては、宮城紡績(宮城県仙台市)、下野麻紡績(栃木県鹿沼市)に次ぐ全国三番目に古い歴史ある発電所です。
その後、銅山の急速な発展と日光電気精銅所の建設に伴って、急増する自家用電力の需要を満たすため、さらに有利で豊富な水利地点を求めて、明治39年(1906)日光町細尾に細尾第一発電所を建設し、次に、明治43年(1910)には細尾第二発電所を建設しました。後に、第一発電所を移転し、第二発電所と合併して、細尾発電所と名称を変更しました。以来、大谷川上流部に発電所を開発し、上流から順に馬道・背戸山・細尾・上の代の4発電所があります。
水源は中禅寺湖の水を華厳滝直下から取水し、さらに、年間流量の変わらない白雲滝・般若滝・方等滝からも取水していることから効率の良い安定した操業を行っています。
発生電力は、足尾地区の当社足尾工場で自家消費するほか、日光地区の古河電気工業㈱及び東京電力㈱に供給しています。
引用:栃木の土木遺産 - 細尾発電所 471686
参考文献
創業100年史 古河鉱業(株)・(財)日本経営史研究会
足尾銅山は2010年3月、その姿を完全に無くしました。日本国内では最大級の銅山で周囲には専業さん用住居地区が設けられたり関連施設も沢山建設されましたが1980年代に操業停止してからの廃墟歴史も終止符を打ち、あの素晴らしい遺構を見る機械も永遠に失われたのはとても残念で成りません。
現在では足尾銅山の跡地にはプレハブと工事業者が使用した駐車場、それと少々の遺構が残るだけです。付近の物件で良く撮影される山中の「赤い湖」は現存(現役運用)してますが企業の管理下に在り、また人の出入りが最近多くなってきた事から詳しい状況と把握し辛く成りした。
関連遺構もいつ解体されるか解りません、奨励される行為ではない廃墟見学や物件撮影ですが文化遺産や歴史的な遺構としてアプローチすると例えその姿を確認出来なくなったとしても次の世代に残して欲しい建造物だと思いますね。
本日は以上です。
アプローチ
細尾水力発電所のお隣さんです、直ぐ解ります。
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(12月上旬より、電話が繋がらないとの報告があります。)
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REPORT - 0112│愛宕下地区
栃木県│愛宕下地区
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 愛宕下地区
※ 2010年10月迄に防火壁以外の全ての住宅跡が解体されました、現在は更地と成っています。
足尾銅山で最大級の居住区だった愛宕下地区、実は過疎化しているものの現在でもこの地区にお住まいの方が居る。今回は早朝の訪問でこっそりと写真を撮りに行って来た。
同じ居住区では「深沢地区」が人気だがコチラもとても素晴らしい廃具合で沢山の廃屋が残されている、アナウンスボードから抜粋してこの地区がどの様なものか説明しよう。
江戸時代の愛宕下は赤倉村字「坂詰」という地名で農家が3戸あったが、1887年に松木から起った山火事で消失し、以後草っ原となっていた。その後、足尾銅山の社宅地として開発され、始め1897年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人の飯場が建てられたが、工事が終わると撤去された。
次いで1907年代になると対岸の製錬所の社宅14棟(1棟7戸建)が建ち「赤長屋」と呼ばれるようになり、1921年に久蔵の社宅がこの地に移されるなどの変遷を経て増大した。戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから「愛宕下」と呼ばれ、1956年には181世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により徐々に減少し、足尾銅山閉山時の1973年には110世帯377人、足尾製錬株式会社設立時の1987年には49世帯127人、1997年で13世帯24人が住むのみとなり過疎化が進んでいる。
設置されたアナウンスボードの歴史から更に10年以上が経過した今(2010年現在)、この居住区の人口はもっと減少している筈だ。
細長い舗装されたアスファルトも現在では風化が進み、車はもとより人の往来も殆ど無い事が伺える。倒壊家屋も在るがしっかりと中を観察出来る廃屋も在る、管理は全くされてない様だ。
時折聞く「元住民の方が訪れて掃除をしている」などの噂も現在では本当に噂と成ってしまった様だ、確かに地域住民の聞き取り調査では20年位前までは頻繁に人の出入りが在った様だけれど流石に当時住民だった専業労働者さんも生存している方は少なくなったそうだ。
中を覗くと廃度は大して高くは無かった、ちょっと整備すれば住めそうかな…そんな状態で現在も静かにこの廃集落は残っている。
photograph:ohwashi
家と家の隙間を縫う細い道が無数に張り巡らされている、ただ通る者は居ない。
この愛宕下地区の住民が多かった頃、銅山工場からの飛火で火事が多かったそうだ。その為にカラミ煉瓦製の防火壁が幾つも連なっている。住居の建設は1907年から開始されたが増設される住居に伴って防火壁も増えていき、最終的には5枚ほどが建造されたそうだ。
この防火壁、そもそもは工場からの飛火を防ぐ為の物ではなくて密集する住居観の間に建造して延焼を防ぐ為に作られていた、つまりは工場からの飛火自体は防ぐ事が出来なかったという事。これは労働者の命より工場の運営が優先された事の何よりの証明で事実、この火事に関する問題は時代を追う毎に表面化する事に成った。
因みに健在として使用されたカラミ、これは銅精錬する時に取り出される不純物(カラミ)。このカラミを型に流し込んで作った煉瓦で防火壁として利用した。
photograph:ohwashi
集落中央に位置した大きな屋敷、随分と朽ちていた。
実はこの愛宕下地区の文献を色々と探したのだけれどどの関連書物も簡略化された歴史と数点の白黒写真しか掲載されていなかった、民間の産業遺構のNPOさんに協力を求めたけれどそこから頂いた資料も大体似たり寄ったり。
個人的には「足尾銅山の専業労働者が集う最大の居住区」ってのが気に成っていたからもっと詳しく調査さたかったのだけれど残念、勿論人口の推移や旧道が記載された旧地図などは出て来たけれど当時の住民の生活模様が描かれた資料は結局入手出来なかった。
そして撮影した2010年と同年の10月、別途の取材で日光に赴いた時に寄った時には解体されていており、お話を伺った地域の方も留守だった為に追加取材は諦めたのでした。
photograph:ohwashi
エントリー公開当時は住民が残っていた為に不掲載だったリンクなどを掲載へち切り替えました、現地には何も残っていませんが関連遺構(防火壁など)は現存しているのでそれ目当てだとしても十分歴史的好奇心を満たしてくれる場所かと思います。
アプローチ
国道122号線を足尾方面へ下り県道250号線へ折れる、わたらせ渓谷線の間藤駅から少し進んで左側に愛宕下地区の入口が。現在は更地化されている。
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REPORT - 0113│T秘境
千葉県│房総半島T秘境
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 房総T秘境(高宕渓谷)
※ 2013年10月に行政の水質調査が入りました、資料写真撮影の為に新聞社さんと関西の出版社さんとの同行取材も同時に行いました。今後この地区への進入が制限される事に成るそうです。
※ 2013年4月以降、アプローチルート(未舗装)最後の分岐に「車両進入禁止」の柵が設置されました。地元民への聞取り調査で不法侵入や手前空地での不法駐車は即通報との事です。
※ 2012年5月11日発売のアウトライダー(増刊号)誌に特集記事にてこのT秘境と関の犬岩(房州往還・馬堀坂切通し/S秘境)が実名及び地図付で掲載されました。
ツーリングマガジン・アウトライダー Vol.54(2012年06月号)
http://www.bikebros.co.jp/ec-goods/1191150/
もうヒッソリとした雰囲気を味わう事は出来ないのかなぁ…水質汚染の可能性も危惧されます。
2006年の初訪問、2007年の初写真撮影の頃の状況を元に2010年にエントリーした内容です。追記としてエントリー以降も色々と調査して再訪エントリーにてこの場所の詳細なレポートを公開しております、興味が沸きましたら続けてお読み下さい。
千葉県房総半島、気候も温暖で過ごし易いこのマイナーな地域。お隣さんには国内最大の都市、東京都をウラヤマ視線。が、しかし。房総半島には結構良い所が在るのですよ、いや本当に。
今回ご紹介するのは地元の方からしてみれば普通の釣りスポット、知らない方にはちょっとした沢登りトレッキングなプチ秘境、通称T秘境をレポートしたいと思います。
このT秘境、実は秘境でも何でも在りません、普通の沢です。千葉県には全国でも独自の農耕法「川廻し」が在るのですがその遺跡と申しましょうか、県内では有名な川廻し跡「弘文洞跡」と同じ様な物ですね。2000年代に入り、林道好きが勝手に命名した「T秘境」、その名の由来はこの沢を流れる地区と川に由来してたりします。
※ 2011年以降、この場所の詳細な地図や正式名称がウェブ上で公表される様に成りました。
まあ隠す程の場所でも在りませんしカナリ有名に成ってしまっていますが今回は敢えて場所は伏せておきましょう、でも本当に直ぐに見つけらるので興味が在れば是非訪れてみて下さい。
有名に成り過ぎて訪れる方(県内県外問わずこの場所を知らなかった方々)が増え色々と問題も起きました、グーグル先生にお伺いを立てると沢山ヒットするので此方も興味が御座いましたら御参見下さい。
有名な物だと4×4軍団が車で車両進入禁止区域に入り、それをネット上に公開した事で少々この場所についての議論が発熱した事が在りました。と、同じ頃県内の若い方達がここでBBQしたりキャンプしたりと騒いだお陰で地元民から警察に通報されたりオフロード車で沢内を爆走したり…現在(2012年)では下火と成った場所ですが色々と問題が山積している所だったりします。
沢屋のコースとしても途中区間が入っているので普通に在る区分には問題は在りません、しかし川を歩き慣れた沢屋さんなんかだと物足りない場所なのでオススメ出来ません、奥多摩の方がまだ秘境チックな場所が盛り沢山だったりなのです。
留意点
この場所(滝)には正式名称が在ります、数回メールにて質問されましたが自然の滝ではないですよ。川廻しに関してはグーグル先生にお聞き下さい。またこの場所の全ての支流、滝には名前が当然ありますが公開は致しません、メールでもお答え出来ないのでご了承下さい。
図書館の地域民俗学の本には全て載っているので調べるのも楽しいと思います。
※ 2013年現在では皆さんご存知の様なので詳細レポートの方で公開致しました、一番有名なこの滝は正式名称「黒滝」と言います。他の滝は詳細レポートを参照下さい。
岩屋さんや沢屋さんには申し訳ない位イージーな滝登り、いや坂登り。お遊び感覚で登れるので気軽です(乾季ならロープ要らない位の傾斜)。風景も確かに綺麗だし人工開拓された後の自然としては素晴らしいロケーションを楽しめます、少々道をそれると旧道(現在は川)にも通じます。オブローダーの方には入門編としてもオススメ出来ますね、また訪れるなら5月~7月が良いですよ。水量と流れの強さ、ポットホールに留意して楽しんでほしい場所です。
またこの川沿いには川廻しが3箇所、川廻しの滝が3つ、支流が5本以上、発見が難しい廃道が数本在ります。廃道は3つの内の1つの川廻し周辺が明治時代に牧場として使用されていたのでその付近に在ります、他にも沢屋さんなら見付ける事が可能な枝が幾つか在ります。
※ 再訪エントリーで詳細を掲載しました、後述のリンクを辿って下さい。
留意点
この場所(滝)には正式名称が在ります、そして珍しい事に房総で唯一の「牧場の為の川廻し」です。ここは秘境では在りません、近年の、しかも新しい川廻し。造成期は明治20年代で農業用川廻しではなく、牧場用の川廻しとして人工的に作られた場所です。この場所が世に知られる様に成ったのは1980年代後半、川や川廻し、地域民俗学とは全く関係ない分野の専門家による調査のモブとしてでした。
その後縁在って行政の方と水質調査に同行しました、その時は雨の中カナリの上流まで行きましたが驚く事にその場所でもゴミを発見しました。せめて持ち帰ってほしいと思います、折角綺麗な場所なのだから長く楽しみたいじゃあーりませんか。
※ 水質調査には2009年、2013年と同行しました。
2011.10.02 - あれやこれやの再訪エントリーでおま。
この川最大級の支流、右俣第一支流。その割には滅多人が入らない支流にのこのこと訪れたのだけれど予想以上に面倒くせぇええな行程で最後は自然の堰で終了、本来ならその奥に名の付いていない滝が在るのだけれど…これは行政の方と改めて地図に載せる為の調査協力で何れ再訪予定と成っております。
人工的に造成されたこの区域、川廻しの造成で残された滝の数々をご紹介します。メジャー化したので色々と正式名称を書いちゃってますので今後の来訪参考にどうぞ。
このT秘境の誕生の大本ネタ、房総半島唯一の「牧場の為の川廻し」の現場へ向かいました。牧場跡の今がどうなっているのかを確かめに。
何枚か写真を置いていきます。
2010年以降はウィキペディアにも登場しました。
高宕渓谷 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e9%ab%98%e5%ae%95%e6%b8%93%e8%b0%b7
アプローチ
秘境及び危険物件は自然保護と建造物保護、安全確保の為に不掲載としています、申し訳御座いません。
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REPORT - 0114│霊仙廃集落群・入谷集落跡
滋賀県│入谷廃集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 霊仙廃集落群 - 入谷集落跡
日本国内における高度成長期が終わり、人口比率が高齢化の一途を辿っている事は多くの方が知る所だ。現在でも過疎化する集落は沢山在るのだけどそれよりずっと前、時代は昭和の前半から中盤に掛けて実に多くの過疎化集落や廃村が生まれた。
当時の時代背景は元より、近代化が進んだ高度成長期にこそその原因が在った場合も多い。今回訪れた滋賀県の山中にひっそりと存在する廃集落群、今でも少ないが人の出入りが在ったりするけど基本は廃村だ。
その廃村の歴史的背景を追いながら、この素敵な場所をご紹介する。
彦根ICから数十分、登山ではそこそこ有名な霊仙山の登山道へ向かう道が在る。国道306号から県道17号に入る、この道がそうだ。
暫くと走ると幾つかの分岐を経て不思議な風景に出会う筈だ、人気の無い山中の道路両脇に倉庫群が現れる。古い手作りの標識には「入谷入口」とも、そう…今回の廃集落群訪問の最初の目的地、入谷(にゅうだに)集落の入り口だ。
この霊仙(りょうぜん)と言う山間地域では結構な数の集落が存在していまして、現在でも過疎化は進んでいるのだけれど幾つかの集落には僅かだけれど人が住んでいます。その霊仙の集落の中でも隣接し合う集落群が入谷(にゅうだに)、今畑(いまはた)、落合(おちあい)と呼ばれる3の集落。
近代記録では江戸後期から文献を確認出来て、明治7年にはこの3つの集落が合併して霊仙村(現在の多賀町)が誕生します。
入り口から50メートルほど、車で昇るには傾斜が厳しい坂を上ると集落が見えてきます。集落自体は最初の家屋から上部の廃屋跡まで100メートルも在りません、しかしこの地位は急斜面な山間部にへばり付く様な立地条件で実に興味深い場所ですねぇ。
廃村ですが完全な放置集落では無く、春先から初秋に掛けてはこの場所の出身者の方々が畑や家屋の手入れに訪れる事も在り、また倒壊した家屋の撤去なども行うそうです。冬場は完全な無人に成るそうですがそれ以外の期間は無人の集落へ配線された送電線を経由して街灯が照らされるとか、とても雰囲気が在るろうなぁ。
急斜面に作られた集落なので横に延びる私道も急勾配、家と家を繋ぐ道や排水溝なども工夫して作られています。1990年代に一応ですが無人化と成り、古かった公共インフラは停止、道も側溝も全て自然に還ろうとしています。
生活の跡を伺いしれる物が廃村の中には本当に沢山残されていて、昔ながらの集落ではトイレは基本的に外(厠)で流し台や釜、風呂なども外に設置されている場合が在ります。
また火を使う物は材料の節減と効率化で隣り合わせで作る事も多い様で浴槽と釜などが一緒に作られている物が多く見受けられました。
急勾配で在りながらのこの平地、作るには多くの時間と人力が必要だった事でしょう。この家の裏手では廃屋(と、言っても綺麗な)の補修作業と木材の切断作業の途中と思われる資材置き場が在った、今でもこの場所を大切に思っている元住民によるものだ。
この様に各家の入り口の階段でさえこの勾配、集落入り口の舗装道路など恐ろしく急勾配で軽トラか4輪駆動でないと「あら、いやだー」な展開です。未舗装だった集落本道を迂回工事せずに舗装した結果、この様な珍しい急勾配な舗装道路が出来あがったようです。
入谷に限らずこの地域には同じ集落内に寺と神社が同居している場合が多く見受けられる、此方は集落入り口の浄土真宗本願寺派の了眼寺。
此方は集落の最上部(資料ではまだ上が在った筈なのだけれど現在はこの辺が最上部)に位置する立派な鳥居が迎えてくれる谷神社、この神社の名前を知ってる方ってば結構少なくて廃村好きでもご存じない方も。
入谷の地名は米原の丹生との関わりも深く、また豊富な水源を水の神として信仰したモノと推測出来るのだけど詳細は資料を浚っても解らなかった。管轄されている観光課や行政にも問い合わせたのだけれど此方が用意した資料以上の物は提供して頂けなかった、つまり把握しきれていない土着文化や歴史が残されているって事ですな。
結構大きな集落ですが個別の姓は少ないのが特徴的で「大久保」・「西坊」の2つ、だけれど旺盛時には5つ程の姓が混在した様でその中にはどの霊仙廃村群で必ず目にする事に成る「藤井」姓もあったのだとか、これに関しては今後エントリーする霊仙廃村シリーズでお話して行くとしよう。
さて、最後に気に成ってた点を帰宅後の机上調査で明らかにした。その気に成った点とは…、いや他の堂区域の廃村を回って感じたのだけれど。
この入谷、他の霊仙廃村群と比べると妙に建築物が新しい物が目立っていた。これがどうしても気に成って何か理由が在るのだろうなぁと、すると一つの新聞記事が目に入った。
”百五十年目の大火” 霊仙入谷集落での大火災
実は1955年8月、この集落は家屋や倉庫を含めて26棟在った建造物の内2棟を残して全焼する火事に見舞われていたのだ。これには正直ちょっと驚いた、しかも当時は大々的に報道されていたにも関わらず現在では知る者が極端に少ない。
住人の殆どが道路が完備されていない当時の山道を落合集落まで歩いて逃げ延びたと新聞の記事には記載されていた、他にも幾つか気に成る歴史的な分岐点がこの集落には在るのだけれど長くなるのでこの辺で終るとしよう。因みに集落の人口に関してはこの火事で大きな推移は無く、1975年~1985年の10年間で10分の1に減少すると言う急激な加減を見せる事で廃村化が進んだ。理由は幾重にも在るけれど最もたるはやはり近代化の波と言えば解り易いだろうか。
入谷はまだまだ新しい廃村ですが長い歴史が在る為にこれだけ雰囲気のある風景を残す事に成りました、同じ様な理由で関連集落も素敵な「画」を楽しめます。最後に入り口の倉庫群ですが集落の方達が使用する農耕具や産業(林業)関連具が収納されています。
アプローチ
彦根ICより国道306号へ彦根市外方面へ、途中県道17号との分岐から霊仙地区へ。幾つかの分岐が在るので地図上で確認して下さい。
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REPORT - 0115│霊仙廃集落群・今畑集落跡
滋賀県│今畑廃集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 霊仙廃集落群 - 今畑集落跡
前回の霊仙廃集落群で入谷集落跡をご紹介した、今回は今畑集落跡をご紹介するのだけどこの集落跡は霊仙登山に行った事が在る方なら必ず知っている場所。その詳細も含めてレポートを投下したいと思う。
この今畑集落は最後まで車道が整備されなかった(出来なかった)山岳集落だった、その為近代化の為のインフラを整備する事が出来ず廃村化が進んだ集落だ。が、面白い事に霊仙廃村群の中で廃村が確認されたのは一番遅いと言う中々興味深い場所だったりする、行政が住民人口0人を確認したのはなんと1998年。まあこれはあくまで行政確認のデータで在って正確にはすの少し前には最後の住人が転居していて転居後の整理などで住宅跡に出入りしていただけの様。
霊仙山の登山道入り口、ここが今回ご紹介する今畑集落跡への入り口でも在る。この山には普通の登山客の他に季節で様々な植物が見頃に成ると各地から人が押し寄せる、つまり廃村や廃集落と言っても絶えず人が訪れる場所。
それ故に道なども整備されているかと言えばノー、若干マディな場所も在りながら土の山道を登る事に成る。因みに集落入り口までは10分程の歩行が必要、運動不足の方は少々の注意です。
今畑も入谷同様に対面地に倉庫群が在ります、理由は入谷同様で住民の産業道具などの保管に使われていました。
急勾配では無いのです、なのだけれど地味ぃに足腰をジャブってくる。登山道入口から10分程なのにマディな足場で予想以上に歩き辛いったらもう、こりゃ元住民さんもキッツイ生活を強いられていた事でしょうねぇ。
旺盛時には簡単な貨物車が通れる道が整備されていたとも聞きますが現地で見る限りとてもリヤカーなどが往来出来る状態では無かったです。
この山道の下方斜面側には小さな農耕地跡が見られたので生活の為の自家栽培なども行われていたのかも、これに関しては行政からの正確な回答も得られなくて書籍にや資料にも記載は見受けられなかった。
山道入口、集落入口とも成る場所に水場と成る小屋が建っている。昔から山道への導入区画にはこの様な水場が用意される事が多かった、この霊仙も例に洩れずに写真の様な水場が用意されている。集落自体が霊仙廃集落群の中で一番キツイ傾斜部分に在る事からこの様な水場小屋は大切にされて来た事だろう、各家屋にも一応水場は井戸などで用意はされていたのは勿論の事だけれど。
倒壊家屋跡、時間経過と風化でこの様に人が介さなくても人が離れた家は比較的容易に倒壊してしまう。それがこの様な通常の平地とは異なる立地条件なら尚の事、最盛期には17軒程の家屋が在ったが現在ではその殆どが崩壊倒壊して残り数軒を残すのみと成っている。
住民の姓は「藤井」・「鹿野」・「辻村」の3つ、やはり霊仙廃村群ではダントツの家族筋を有していた「藤井姓」がここでも顔を覗かせる。
余談だけれどこの「藤井」と言う姓、少しだけ解説してみよう。苗字の解説サイトによると、
百済帰化族藤井宿禰の子孫。清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流、利仁流などにもみられる。語源は、藤の木のもとに井戸がある所との意味や、藤にゆかりの地の意味がある。藤居。藤は、山野に自生する葛のこともある。
との事。ふむ、他の廃村でしかも山岳集落に何かと「藤井」姓が多いのはこの”藤は、山野に自生する葛のこと”ってのが大きいのかも。しかも井戸のくだりも納得、一般的な古い集落だと井戸ってのは村で一つ、とか区画分けされた箇所に設置とか、まあそんなに沢山無かった訳ですよ。
それは平地での水源や水脈と言った地質学的な要因が在るのだけれど山岳集落に至ってはこの例に当て嵌まる事は少ない、なんと言っても山なのだ。水を豊富に蓄えた土壌と言った山岳集落においては随分と初期の段階で各家庭に井戸が設置されていたと地域民俗学の資料に在る、そこに在っての「藤井姓」とはこれ当然と言えるとも考えられるだろう。
家屋が在った場所に最後まで残るのは井戸だ、現代においては井戸は古い家屋に多いが兎に角丈夫に作られる。この場所でも家自体が崩壊していても井戸は残っていた。1979年(行政確認では1998年)に廃村と成るまでは登山客や地元の方で賑わっていた場所なのだろう。
昔はこの場所まで、水以外の食料を含む生活必需品は全て背負子さんが運んでいた。一度尾瀬の背負子さんの取材をある雑誌の同行で行ったのだけど1日運ぶ送料は凡そ100~200キロの重さ、その荷物を往復で40キロ程歩くのだそうだ。
鳩待峠からビジターセンターまでの行程でお話を聞きながらこりゃとんでもない仕事だなぁと関心した記憶が在ります、これが更にキツイ山岳集落だとするとホントにインフラの整備次第で栄えもするし廃れもするのだろうなぁとシミジミですよ。
珍しい瓶を見つけた、関東の人間から見ればまず解らないブランド「名古屋牛乳」の牛乳瓶だ。東海地方ではずば抜けて有名なミルクブランドで隣接県の滋賀県でも知られたのかもしれない。因みに現在でも名古屋牛乳は商品を開発発売しています。
名古屋牛乳株式会社
ウィキペディア - 名古屋牛乳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%90%8d%e5%8f%a4%e5%b1%8b%e7%89%9b%e4%b9%b3
三種の神器と謳われたのも昔、電化製品に限らずプラスチックを利用した製品が廃村で自然に還ろうと頑張っている姿を見ます。しかしバクテリアの種類や環境などでかなり時間差は在りますが最低でも1000年以上の時間が必要なのは確かです、「画」としては素敵ですが環境的にはNG。過疎化の問題の一つでも在ります。
現在だとこんなプラスチックが在ります。
ウィキペディア - 生分解性プラスチック
今畑は廃村に成ってから結構な時間が経っていますが人が多く携わる事も多く、また浄土真宗本願寺派の宗金寺の手入れが定期的に行われている事からも廃度は高くありません。
それでもこの地域の歴史を紐解く一つの要因として重要では在ります。
地元の行政関係者から紹介されて「多賀町立図書館」へ、その図書館に所蔵されている芹谷霊仙分校の百周年記念誌「芹霊」を拝見させて頂きました。その中の「同窓生名簿」、その今畑の欄に住民の名前が並んでいます。1970年代後半まで記載されているので現在でも元住民を探す事は難しくなさそうですね、是非元住民の声を生でお聞きしたい、そして当時の様子を伺いたいと思ったのでした。
アプローチ
彦根ICより国道306号へ彦根市外方面へ、途中県道17号との分岐から霊仙地区へ。幾つかの分岐が在るので地図上で確認して下さい。
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REPORT - 0323│霊仙廃集落群・落合集落跡
REPORT - 0116│霊仙廃集落群・落合集落跡
滋賀県│落合廃集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 霊仙廃集落群 - 落合集落
霊仙廃集落群の中で最大の規模を誇る落合集落跡、霊仙には沢山の集落が形成されていたけどこの落合集落は家屋の密集度や開発の工夫、行政との連携など他の霊仙3集落に比べると組織的で運営も近代化された物に近かった。
今でも訪れる人達は多く、また元住人の方達による保存も廃村にしては手が行き届いている。明治7年に3集落が合併して霊仙村と成った跡も率先して地域に貢献した規模の産業を維持出来たのも頷ける規模なのだ。
教育の場としても3集落の中で唯一学校が在った事も他の霊仙集落と一線を画す要因と成った筈だろう。補足として書くと多賀町立多賀小学校霊仙分校がその3集落唯一の学校で1985年に休校、1993年に廃校と成っている。歴史は古く、1883年に設立した事を考えると山深い山中の学校としては異例の90年の歴史が在った事に驚く。
県道17号の終点、その開けた場所こそが落合集落。家屋の数では入谷に負けるものの村としての運営を含め、当時の霊仙では中心的な役割を果たす村でした。芹川本流と支流の合流部分にあたり、水の便は良かったそう。写真の橋を渡ると蓮休寺が、この蓮休寺は再建された物で1948年に一度全焼しています。
芹川の分岐を過ぎて落合集落端の山道、こちらは男鬼方面へ延びる。集落は丁度Tの字に川で分断されていて3つの区域に分かれていて他の霊仙集落には見られない村形成だ。主な産業は他の霊仙集落と同じく林業、製炭なども多く行われた。
芹川支流入口、ここから多賀町立多賀小学校霊仙分校へ向かう事に成る。石垣には苔が生し、経過した時間を感じさせるが意外と廃村に成ってからそこまで期間が開いてないのは以外。しかも冬季完全無人化集落であり、夏季には滞在する元住民が居る事を踏まえれば「廃村」と呼称するのも失礼なのかも。
因みにこの地域の石垣には数種類が見られ、その殆どは明治以前の施工と解る野面積みだった。他には近年積み替えたであろう谷積や関が原から近い事を考えると昔ながらの算木積なども見られた。
こちらも苔生すお姿が素敵な石積み階段、登るとしっかりと形を残した家屋と郵便ポストが在った。こんな所まで郵便物を運んだ職員さんはさぞ大変だったろうなぁ、因みに国内には郵便が運ばれない僻地が少なからず存在してまして。日本には郵便番号も住所も割り当てられているのに配達不可の地域が山間部などをメインに今でも在る、過疎化した集落など今後増えて行きそうだ。
とても古い家屋が連なるけれど行政が建設した公民館(霊仙落合荘)は目新しい、と言うのもこの落合集落は霊仙山への登山口としても現在頻繁に利用されていて登山者の集合場所や駐車場としても稼動している。登山客が集まる時期には公民館が開放され、臨時の休憩所としても利用されている為に新しい建造物が在るのだ。
一度霊仙山に登った時は確かに車が数十台停められておりました。
町歴を参照すると元々は犬上郡落合村、1874年に周辺の今畑村、入谷村と合併、霊仙村と成る。この時期にはとうに周囲の村の中心的な存在として落合集落は栄えていた、後に多賀町と成ってから廃村と成るまでそれは変わらず多忙で責任ある地方行政の縮図をこの場所に体言させていた事だろう。
こちらは冬季の模様、と言っても4月。落合集落から先は冬季通行止め(11月~3月)なので4月に再訪したのだけれど雪ドッサリで四駆のスタッドレスでもツルツル、目標だった比婆神社には到達する事が出来なかった。
ところでこの落合集落、名前の由来は勿論「落ち合う」事から来ている。まあこれは全国の「落合」って地名の殆どに当て嵌まるのでご存知の方も多い事と思いますが。
で、何が落ち合うのか。
これも全国の「落合」の付く地名同様に「川」なワケです、地形的には落ち合うと言うより支流が延びている様なものなのでけれど…うん、この辺は掘り下げなくて良いか。で、その川ってのが淀川水系芹川と淀川水系の支流。この2つの川が落ち合う事で落合集落の名前と成りました、恐らくは集落が出来るずっと以前に出来たこの場所を指す標示語だったと予想されます。
下流には芹川ダムも在って本流は複数の支流の流れ込みも在って大きく成るのですが落ち合うもう一つの川、これが淀川水系ってだけ川の名前が無いのです。当初ただの名称不明の川かと思ってたら正式に「名前が無い」名無し川、河川登録されてないので国土的には落ち合ってないって言うね。
豊富な水源(霊仙山雪解け水、芹川)のお陰で山間部においては珍しい小規模な水田農耕が行われていた霊仙の関連文献に記されている、山岳地域における農作は通常畑で水田は地形的に行わないのだけれど史実としてもハッキリしないので今後追加調査したいと思う。
写真だと水口から地下水が流れ落ちている事が解るだろう、冬季でも水管が凍結しない様に絶えず水を流し続けているのだ。これは他の寒冷地でも良く見られる凍結防止の方法。
管理されているのだろうか、待機電力を示す電気メーターのディスクがゆっくり回る家も在った。
既に解体されたが当時の公民館的な大きな建造物も在った、学校も分校扱いで設置されていたけれど老朽化の為に解体されている。山間部の隔離集落にあって学校の存在(教育の場)が在るのはとても重要な意味を持っている、何せそこで学ばないと成人して村外での生活や人と接する上で色々と問題が出てくるからで周囲の集落の子供長い山道を通って通ったそうだ。
多賀小学校霊仙分校
1883年 霊仙学校・明了学校を重複別学区として2校設立
1886年 霊仙学校・明了学校が併合し簡易科霊仙小学校に
1892年 校名を芹谷尋常小学校霊山分教場へ変更
1918年 校名を芹谷尋常高等小学校霊山分教場へ変更
1941年 校名を芹谷国民学校霊山分教場へ変更
1942年 校名を多賀国民学校第四教室へ変更
1947年 校名を多賀小学校霊仙教室へ変更
1963年 校名を多賀小学校霊仙分校へ変更
1985年 休校
この落合集落では「藤井」姓が目立つ、この写真の場所は恐らくその藤井姓の本家と思われる家屋跡。大変大きく、同敷地内に幾つかの家屋が密集していた。この家屋に掛けられた表札と同名の方の墓石がこの落合集落最南端で見る事が出来る。
と、言うかこの落合集落。他の「姓」が良く解らないのですよ、兎に角アチコチで「藤井」さんの標識が。
やっと見つけた移動手段、その原点、廃自転車。この自転車ってば恐ろしく廃っておりまして調べようと思ってブランドやらも確認したのだけれど結局解らず、1950年代の国産自転車メーカーって独創性に溢れていてそれこそ星の数程存在した。
その中からバイクを作ったり中には車を製造したり、個人ビルダーが技術を揮える時代だった筈だ。そう言えば昔のモーターショーって個人のビルダーさんが沢山居たって聞くなぁ。
アタシはモールトンとSUNNが在ればいう事ないけれど。
多くの登山客やこの廃村を訪れた方を迷わすあの張り紙「警察捜査中」、ええ…2010年最初の来訪から現在(2013年)に至るまで現役で確認出来ます。それどころか公民館(霊仙落合荘)にも新たに貼られ、増殖は留まらずダンボールや木版にも大きく書かれた「警察捜査中」の文字。
四方八方手を尽くし、この地で大きな事件や事故(この様に公表する意味がある内容の事案)を調べました、長い歴史と古い所以をもつ集落なのでそりゃー大きな出来事だって在りますよ…がっ。
どうやら地元警察が用意している紙でもなく、また近年でこの様な”張り紙をする公表事案”も発生していません。つまりブラフ、これは元住民によるラッパの様で安易な窃盗行為や破壊行為を抑止する為に増え続けている様です。
付近の集落の取材にあたり、元住民の方を同伴しましたが
「久し振りに来たけれど何コレ、まじやべぇ」(※ 意訳しとるで)
とタバコをぷかぷか、全く知らない様で一部の方が自主的に行っているとの事です。
落合集落の特徴、それは山間部の集落にして斜面が無い事。霊仙の3集落は何れも山中にへばり付く様に集落が形成されているけれどこの落合集落だけが平地に作られている。これは他の近隣集落に比べて通常の生活がそれだけ楽だった事を示す、また主要道路直結だった事も在り、この集落は繁栄するまでに時間は掛からなかった筈だ。
落合集落の中央に位置する落合神社、立派な鳥居と威風堂々な巨木がお出迎えしてくれます。ちょっと気に成って見てはいたのですがこの地域、霊仙や男鬼地区の狛犬って全て同じなんですよね。相違が無いって事は同一人物による設置だったのだろうか、でも霊仙と男鬼って区域が別の筈…。
墓石にはそれぞれ「先祖代々之墓」と記されている、それはつまり同地域において別姓がない事を意味する。実際どの墓石にも建てたのは藤井姓だと彫られていた、落合集落の実力者も藤井姓であり、村全体が藤井の姓の関係者だった事を想像するのは容易だ。またこの藤井姓で戦没慰霊碑も同墓地内に在り、ここから戦争に赴いた方も居たのだと驚かされた。
落合集落は調べればまだまだ沢山のエピソードを提供してくれそうな廃集落だった、今後も機会を見つけて追記出来ればと考えています。
※ 2013年12月13日:エントリーを2つ統合した上で再編集しました。
アプローチ
彦根ICより国道306号へ彦根市外方面へ、途中県道17号との分岐から霊仙地区へ。幾つかの分岐が在るので地図上で確認して下さい。
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REPORT - 0117│霊仙廃集落群・男鬼集落跡
滋賀県│男鬼廃集落
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 霊仙廃集落群 - 男鬼集落跡
霊仙廃集落群と一緒にされる事も多いが地域的にも神社の信仰性的にもハッキリと地域差が出る男鬼(おおり)地区、この男鬼集落はとても綺麗でしかも山奥なのに人の気配がアチらコチらに…な不思議廃村だ。
因みにこの地域ではダントツで古い歴史が在るのがこの男鬼地区、この地域に人が集まりだして集落としたのが西暦700年頃。
712年建立された霊仙山7ヶ寺の中に男鬼寺(おおりじ/おおりでら→×、正しくは「だんきじ」と言って現在の村名と読みが違う)と言う名が記録として残されている、この読みが違う点が地域民俗学の関係者を困らせていてこの場所に立てられた寺なのか別の場所なのかがハッキリしないそうだ。
中納言秀次(豊臣秀次)が近江一円氏に命じ作らせた1588年発刊の「絵地図」には武奈、男鬼の村名が記載されているのでこの時点では確かに男鬼集落は存在していたのだろう。
近年の歴史では製炭や養蚕などで得ていた収益も1960年代後半から減退し、遂には1971年に廃村に。無人に成ってからも林間学校や行政の自然学習、地元民の方の集まりなどで度々家屋などの改修は行われていた。
現在では夏季に家屋の手入れなどで元住民の方が不定期に在村されているが定住者はやはり一人も居ない、訪れた時も茅葺屋根の葺きなおし作業が途中だったので最近も人が入っているのは確かだった。これが人の気配を感じさせる要因だと知ったのはその後の調査での事ですが。
この男鬼集落にも寺と神社が隣接する、と言うか隣接して存在してた…と言うのが正しいだろうか。写真は日枝神社、とても立派でこの様な山深い場所に何故…と思わせる程の物。山の神様(大山咋命/おおやまくいのみこと)が今も尚、ゆっくりとした時間を過ごす場所。
ところで先に書いた様に寺はちょっと複雑な経緯が在る。
この地域は何故か寺と神社が隣接している事が多いのだけど地図を確認すると日枝神社と場所を隣り合う様に寺の印が在る、訪れると実際に寺は在るのだけどどうやら最近に成って廃寺と成ってしまったそう。人が居なくなり、維持と意味が薄れた結果だろう。名を誓玄寺と言うのだけど調べてみると寺はもう一つ在った、此方の名は無量寺。
元々は誓玄寺と無量寺の双寺体制だったが無量寺を明治初年に売却、その後この無量寺が在った場所に誓玄寺を移動。しかしその誓玄寺も2000年代に入って廃寺と成った、という事は本来の誓玄寺の場所を正しく記憶している方はもう居ない事に成る。
それと山岳集落には独自の自然信仰(土着信仰とは別に風土の文化的信仰)が在りまして、この男鬼集落では「水」が挙げられます。残る家屋には屋根部分に「水」と大きく彫られています、これ良く解らずに帰宅後に調べたのですがどうやら火事などの火災から守る為のまじないの様なモノの様でして。
山岳集落における火事は村の消滅と同意義(直ぐに火が回る)なのでこの様な土着信仰が広まったのだと思います、これは他の地域では余り見ない様式ですね。
で、この集落の山岳産業がちょっと面白い。
主な産業は林業でそのメインは勿論製炭だ、村の規模のわりには膨大な山岳地帯の土地を有していたこの集落、その広さは凡そ300町歩を越えていたとか。って、300町歩だって?
1町=10反
1反=300坪
て事は、だ。1町=3000坪だからえーと、900000坪?ちょっと何言ってるか解りませんね、ええ。ディズニーランド+ディズニーシー×3分位…、この小さな集落が、ですよ?
まあこれだけの広さです、豊富な木材を求めて他の村からも多くの杣人(杣夫)が山に入ったと記録に在ります。それまで人の手で彦根までの山道を炭俵担いで売りに行ったようですが1935年にリアカーが押して通れる道が開通、その後は今迄の10倍程の量を売って村内も潤った様です…が。
やはり戦後の燃料革命には及ばず、周辺の集落と同様近代化の波に飲まれる形で廃村への道を歩みます。しかしこれは考え方によっては自然災害からこの村を残す手立てを唯一残す結果と成る、製炭産業で地面が露出した山の斜面では到底大雨の水を吸収出来ずに年々増える水害に震えていた。火を恐れる山岳集落の土着信仰だった「水」に悩まされた時期が確かに在ったのだ。
現在では男鬼集落内を流れる小川は流れも穏やかだが山の神の怒りに触れた産業優先の反映に自然は「川の氾濫」と「山からの鉄砲水」で罰を与えた様だったと地元の方が語ってくれた。
またこの集落も桃原同様、村内は平地の為に畑が作れた、よってこれまた同様にゴボウ栽培もそれなりに収益と成って村の反映に貢献したそうだ。唯一他の集落と違うのは「養蚕」に特化した事、これはこの集落を語る上で重要なキーワードに成るのだけれど長くなるので割愛させて欲しい。
この美しい男鬼集落が長い時間を待たずして本当の意味での廃村に成る日は近い、国が率先して景勝地の様に保護プログラムを作ってくれれば今後の地域研究や文化研究に役立つ筈だ。実際この地域には近年になって城跡が発見されている、しかも謎が多い城跡だ。近江高取山城(男鬼城)跡がそれだ、城主が日光の東照宮を建てた大棟梁の一族かもしれないとの説もあり、今後の調査結果次第ではこの地域に多くの視線が注がれる事に成るかもしれません。
アプローチ
霊仙廃集落群と同じくして訪れる場合は彦根ICより国道306号へ彦根市外方面へ、途中県道17号との分岐から霊仙地区へ。幾つかの分岐が在るので地図上で確認し、落合集落跡を抜けて男鬼地区へ。
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REPORT - 0118│霊仙廃集落群・比婆神社
滋賀県│比婆神社
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 霊仙廃集落群 - 比婆神社
男鬼集落跡からほんの目と鼻の先の距離にその美しい神社は在ります、秘境の神社、山の守り神、そう信仰深く呼ばれ参拝客も同地域においては実に多い比婆神社。
しかもまだ解明されていない比婆神社の穴なる洞窟、まだ史実がハッキリしない高取山城との関係などこの比婆神社さんはぷんぷん匂いますねぇ…良質物件の良い匂いが。
予備式ゼロで遭遇したこの比婆神社、そう言えば国土地図で男鬼集落の横に神社のマークが在るなぁとは思っていた。が、しかし。標高線を無視して忙しく走る小道の表記がコレは面倒臭ぇ場所なんじゃないか、と見ない振りですっかり記憶から無くなっていた。現地で地図と照らし合わせてやっと地図表記の神社だと気付いたのだが、いやぁココは素晴らしい神社です。写真は比婆神社の入り口に位置する鳥居、普通なら直ぐ在る筈ですよね本堂が。
比婆神社はここから違う、なんとここから鳥居を抜けて本堂まで山道を行けとおっしゃる。因みにヤフーマップやグーグルマップには本堂までの道は記載されておりませんので国土地図でご確認を。
入り口には比婆神社についての概要が掲示されています、神社についてお話はとても面白く是非各々方にて調べてみて下さい。
さて、ここから肝心の比婆神社を楽しむポイントです。
比婆神社は元々険しい比婆之山への山道を有志の方達が別ルートで車で走れる車参道を切り開いてくれた事で参拝し易く成りました、人が徒歩で登る参道も在りますが現在は荒廃し、見付けるのも少々大変で実際人が歩ける状態でも在りません。アクセスはこの車参道のみ(男鬼集落方面からは)と成ります、山頂までは徒歩で急ぎで30分、ゆっくりで50分位掛かり、車では10分も走りません。
山頂付近に比婆神社本堂が在り、更にその上を登山道が在ります。
先程道は地図に描かれてないと書いたのだけれど実は鳥居を潜ってからも”車で走れる”道が現地に行けば確認出来る筈だ(記述の別ルートってヤツです)、ちょっと驚く仕様で戸惑うかもしれないけど車道として本堂まで行ける珍しい参道だ。これは元々人道しか無かったのだえれど余りに鳥居(アクセスメインの道路)から本堂が離れている為、また険しい山道だった為に地元の有志の寄付で整備されたのだそうだ。
写真引用:ウッスンの「B級紀行」│http://d.hatena.ne.jp/general_commander/
2007年にこの地方の大雪の為に参道が一部崩落、しかしこれまた地元の有志によって復旧されている。こんな山深い、しかも廃村が点在する人里は離れた神社を今でも大切に思っている方達が沢山居る事に再度驚かされる。
また2011年には参道、門、本堂と軒並み手を入れて改修工事が行われていて以降参拝客も増えたと聞く、信仰の厚い神社としても今後注目されることだろう。
あ、そうそう。
この改修工事には本当に嘆かわしい事実がもう一つ在りまして。実は玉垣の屋根を覆っていた銅板が取り外され盗まれてしまったと言うのだ、現在も元住民が通う男鬼集落をはじめ付近の信仰を集める神社だけに広くこの問題を知って欲しいばかりだ。
写真引用:松の陰から│http://matsunokage.at.webry.info/
本堂は脆い石灰岩に囲まれ、へばり付く様に鎮座している。伊邪那美大神が山入りされたと伝わっており、古書によれば山神さんと敬われこの聖地を求めて、全国から多くの参拝者が訪れたとの事。昔の神殿は宝暦以前の建立であったそうですが大正の末期に現社殿が再建されました。
資料から関連する一節を引用しよう。
写真引用:松の陰から│http://matsunokage.at.webry.info/
比婆山は、日本神話においてい伊邪那美が葬られた地であります。古事記において「かれその神避りし伊邪那美の神は、出雲の国と伯耆の国の境、比婆の山に葬りき」と記されています。本居宣長の『古事記伝』の記述からは出雲と伯耆の境に近い島根県安来市の比婆山であると推定しています。
こちらも改修工事で足元の危険が懸念されていた不安が解消、安心して参拝出来る様に成った。地元の有志の会や工事関係者によるとこの恐ろしく遠い道程を経て賽銭泥棒がやって来るのだとか、罰当たりな輩がいるものだけれど建材泥棒同様、その労力と気力が在れば他に生かして頂きたいと切に思う。
写真引用:松の陰から│http://matsunokage.at.webry.info/
比婆神社本殿への参拝を済ませたら比婆神社の穴と言われる洞窟の入口を探しましょう、実は比婆之山山頂付近には地下に洞窟が結構な規模で存在しているらしく、現在においてもまだ調査されていない天然の未踏洞窟が残っています。
入り口は一箇所だけでなく複数箇所あり、夏季にはコウモリ達の別荘として役に立っているとか。
国内にはまだまだ未踏の洞窟や鍾乳洞が多いけれどその理由は危険(地形的な問題や地質的な強度、また有毒ガスによる危険回避の為)が大部分を占める、がこの比婆神社の穴は信仰的な存在を蔑ろにする恐れを懸念して調査目的での探索調査を行っていない珍しい物件。
ケイビングが趣味な人間からすると是非洞内を探索してみたいが今回ばかりはそうはいかない、普段山の神様に一礼して入山し、下山時にも同様に頭を降ろす。だからこそ人々の信仰の場は安易に踏み入れてはいけないのだと山屋の諸先輩方もおっしゃっておられるのです。
写真引用:松の陰から│http://matsunokage.at.webry.info/
比婆神社付近には自然湧水が幾つか在り、参道にもそれは見られる。男鬼集落へ戻る道すがら竹割の湧水渡しが作られていた、地域柄で言えば硬水に成る。飲んではないが汲みに来る方が現在でも居るらしいので飲めるレベルの綺麗さは昔から変わらないのだろう。付近には清流にしか生息出来ない山菜として有名なワサビも群生する、本当に自然が豊かな場所だ。
さて、最後にこの神社の総括とエントリー内で触れた「高取山城」について語って終わりにしよう。
彦根市史によれば「山の神」、「山ノ神」は彦根で6か所。男鬼集落に小字名「山ノ神」がある。中世中期(室町時代)より古文書でその名は既に見て取れるので相当古い時期から存在したのだと予測されているそうだ。
比婆神社背後の尾根から約10分程度で到達する比婆山山頂から霊仙山の方角に向かうと高取山山頂に男鬼城(高取城)があります。何故この城が築かれたのか、築城の時代も不明、城主は河原豊後守しか判っていません。男鬼集落の最後でも少しだけ触れたけれど「城主が日光の東照宮を建てた大棟梁の一族かもしれないとの説」も在って大変興味深い。
この山々は古き時から人の往来があった間道も伝えられており、比婆神社の磐座も太古の時代から信仰されていたのではないかと思われます。文献(※1)では比婆神社の創立は1948年、しかしこれも初期建立→大正末期の再建→近代史での創立確認と経ているので整合性は取れない様です。
※ 1:1976年発刊 新註「近江輿地志略」の巻77 坂田郡 男鬼村
因みに男鬼城(高取城/高取山城)に関してはこちらのサイトで詳しく解説されていますので興味の在る方は是非ご覧下さい、本日は以上です。
城跡むぐり備忘録 - 高取山城
http://www.geocities.jp/buntoyou/f7/sh-f2425takatoriyama.html
アプローチ
霊仙廃集落群と同じくして訪れる場合は彦根ICより国道306号へ彦根市外方面へ、途中県道17号との分岐から霊仙地区へ。幾つかの分岐が在るので地図上で確認し、落合集落跡を抜けて男鬼地区へ。男鬼集落を抜けると数分で比婆神社の鳥居が見えてきます、本道までは入り口の鳥居を抜けて山道(現在は車道なので車進入可)を最後まで走ってください。
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REPORT - 0119│霊仙廃集落群・桃原集落跡
滋賀県│桃原廃集落(過疎集落)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 霊仙廃集落群 - 桃原集落跡
滋賀県多賀町、霊仙山の麓には多数の廃集落や残段数1人の電撃級に過疎化した限界集落が多数見受けられる。霊仙廃集落群と時を同じくして訪れた桃原(もばら)集落は近代化と昔ながらの生活観が同居するちょっと不思議な限界集落でした。
良く廃村と勘違いされるけれど厳密には限界集落であり、通年住居をされている方がいらっしゃいます。2010年現在で定住者が何人居るかは正確には解りませんでしたが冬季にも住まいに明かりが灯る事が在ると聞きます。この辺の集落では冬季限定廃集落が幾つか現存してますが1年を通して通われる方が居るのは珍しい事です。
手入れがされている様で実は一切されていない集落の裏手の路地、最近までは細かく剪定などがされていた様ですが今はどうなんでしょうねぇ。切り口が残る葉がなかった事から1年以上は剪定されていません、あらら…実は最近になって廃村化した?
いやいや、人は住んでますよ確かに。ごく僅かなんですけれどね、なのにこれだけ綺麗に残っていてしかも崩壊している家屋も少ないってのが霊仙の廃村群の中では本当に異質、ここだけ普通の田舎の山岳集落って感じなのです。関連書籍を見ると平家の没落武士が開墾した記述も見受けられますが公に残されている町暦資料には江戸時代からの歴史が書かれています。
1765年に発刊された「江左三郡録」に桃原が紹介されており、干柿やゴボウを中心にした農作産業と製炭に関する記述が出てきます。近代では1970年代までは京料理に使用されるゴボウはここから出荷されていたとする記録も在り、江戸時代末期から続く「お多賀ごぼう」として高級食材の一つに数えられていたとも聞く。そうか、庭木が今でも綺麗に残る理由は他の廃村より土と草木に特化した村だった事に起因しているのだろう。
主要道路(県道17号線)から小道を辿り裏手に出ます、この裏手の路地から更に奥へ延びる路地が何本も網の目の様に作られていて複雑な形成です。ただ斜面に作られているにも関わらず、霊仙地区特有のへばりつく様な集落形成ではなく、比較的平地を宅地、もしくは利用して作られています。
この平地と言う好条件と周囲はシッカリと山岳地帯な立地、これがここに新たな産業を生み出します。
1948年頃から斜面のゴボウ畑に積雪し、特に開けた場所をスキー場として冬季限定の商業区域を作るとこれが大当たり。旺盛時に60軒を越えた落合集落に次ぐ人口、それと農業、製炭、スキー場と行政側も無視出来ない発展を迎えます。
1960年代に入ると周囲は急激な近代化を迫られ、その波に飲まれていく集落が目立ち始めます。スキー場はメインの車道が遠い為に敬遠され始め、通年を通した農業技術の発展でゴボウの取引量も激減します。製炭も化石燃料に取って代わり、桃原の詠歌も間もなくして終りました。
主要道路は近代化してから作られた物でそれ以前は県道17号線にあたる旧山道からと歩道のみのアクセスでした、その頃に作られた家屋は総じてこの様な姿に成っています。風化が激しい、もしくは倒壊家屋は主要道路から2本ほど内側に入った旧路地に隣接する物が多く、桃原地区は上からではなく下から形成されたのではないかと想像出来ます。
因みに地図には表記されていない徒歩でのみ往来可能な山道が桃原から無数に延びています、一説には同じピーク沿いに位置する向之倉集落と繋がっていたとも噂されますがこれは事実では無かったようです。畑の開墾に四苦八苦した結果、残ってはいるものの実際生活道路として利用されたのはその内の5分の1程度。他は製炭用の釜場への産業道路として利用された様です。
いや、凄い。
新緑に遮られて桃原の旧家屋群が全く見えませんです、自然はホントに凄いですよ。
気に成った点、幾つか在るんですがちょっとホラー。明らかに最近まで人が住んでいた形跡、もしくは現在も住んでいる形跡が在るのに途中の道路の轍が古かった事。比較的新しい家ほどポストは在るのに名前の部分が剥がされていた事、屋外の蛇口が左に捻られた状態で水が止まっていた事。
どれもちょっと不思議、帰宅後調べたのですがこの桃原に注目している方が極端に少ない…これも不思議な事です。廃集落としても大変美しい場所だし、霊仙廃集落群からも近い筈なのに…。
最後にこの土地にまつわる言い伝えを幾つか(他サイトからの引用です)。
其の一「泣き地蔵」
昔、松兵衛さんという人が杉苗を植えこの木が立派に大木になったら自分は極楽浄土にいると思ってくれ。と家人に言っていた。そして傍にお地蔵さんを祀ったという。時が経って、立派な地蔵さんが1本杉の根元にあるのを隣村の二人の人が見つけて担いで帰ったところその夜、二人の夢枕にお地蔵さんが「早く桃原に帰りたい」といって泣かれたので元の場所に背負っていった。1本杉は大木になり、泣き地蔵様は今もそこにいらっしゃる。
其の二「金の鶏」
「朝日チラチラ夕日チラチラする所に埋めておくぞよ金の鶏を」という言い伝えがありその場所を示す書類もあったという しかし大火があり焼けてしまった。
其の参「火事と観音祀り」
昔、絶家になって放置されていた観音像を見つけた子供たちが、縄で括って引きずり回して遊んでいた。村人はすぐ止めさせたが、その日火事が起こり村の中心部を焼き尽くしてしまった。 宝物の在処を示す書類もこのとき焼けたという。村人は観音像を村の一番たかい場所に堂を建てて安置し、火事の起こった五月一二日に毎年火祭りを行っている。
其の四「室三郎」
昔、室三郎という剛の者がいたが、だまし討ちに会い生き埋めにされてしまった。そのあとに立派な蕨が生えるようになった。食べると腹痛や、高熱が出るというので村人は室三郎蕨を採らない。室三郎には姫があり父の仇を とろうとしたが殺されてしまった。その血潮の後には、毎年きれいな花が咲いたという。
其の五「大蛇」
桃原に「ジヤレ」という所がある。松の木が倒れているのだと思って、跨いだらそれは大蛇だったと何人もの村人が言う。そんな大きな蛇がいるわけない。と思うけれど、山へ行ったきり帰ってこない村人もいた。「ジャレ」は「蛇出」と書くのだろうか。
引用:桃原の伝説 - 滋賀県多賀町の山村「桃原」について、お話しましょう。
アプローチ
彦根ICより国道306号へ彦根市外方面へ、途中県道17号との分岐から霊仙地区へ。幾つかの分岐が在るので地図上で確認して下さい。
※ ウェブマップには道路表記が無い物が多いです、国土地図で確認して下さい。
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REPORT - 0120│白石工業桑名工場跡・白石鉱山/藤原鉱山
三重県│白石工業桑名工場跡(白石鉱山/藤原鉱山)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 白石工業桑名工場跡 - 白石鉱山/藤原鉱山
※ 2012年6月より解体開始、9月現在計画部分(旧木造建築)の解体終了。最後尾に予備説明在り。
※ 2013年6月現在、主要部分の解体は終了。今後一旦更地にし、跡地には全く別の建造物が建設される予定です(懸念材料が払拭次第に詳細を記載します)。
※ 2013年9月現在、サイロ設置側の建造物以外の解体が終了。地中の水路と電気配線管も取り除かれました、今後地質調査と更地化が行われる予定です。しかし現地にはまだ複数の関連施設跡と「特別管理産業廃棄物」として”PCB汚染物”を収納したコンテナが数戸置かれた間々に成っております、下記に記載しておりますが大変危険ですので現地で触ったりは絶対にしない様にしましょう。
PCBとは「ポリ塩化ビフェニル」の事で国内では1952年から生成が開始された合成油です。廃棄物として例に挙げられるのは蛍光灯の安定器、工業機械の潤滑油(当時)や熱媒体用工業油(当時)などです、現在では2001年にPCB特措法が施行されて以降2026年までに法が定める処理をしなければ成らない事も在り、今回放置されているPCB汚染物も近々厳正に処分される見込みと成っています。
PCBに関しては以下のサイトを参考にして下さい。
群馬産業廃棄物情報 - PCB廃棄物とは
http://www.gunma-sanpai.jp/gp15/003.htm
社団法人日本電機工業会
※ 以下、2010年当時のレポート内容(追記エントリーあり)となっております。
とうとうやって来た、自分的廃墟の主要ボスの一角「通称・白石鉱山」へ。どうしても撮りたい廃墟に自分で据えた3大廃墟が在ってそれはそれぞれ、「松尾鉱山」「神岡鉱山」、そして今回の「白石鉱山」だったのですよ。念願かなってやっとこ今回お邪魔しました、やたー。と、言っても余りに有名で廃墟系のサイトで度々そのお姿を見ていたから大凡の内部構造とか歴史は知っていたのだけど…それでもやっぱり素敵な所でした。
地元の方には山水を汲みに来るポピュラーな場所なのだけど関東から訪れた者にとってはもう最高に異次元でした、天地不覚で真っ白なアノ部屋を見に、いざ。
まずこの通称白石鉱山、正式名称を白石工業桑名工場と言います。何故俗称で呼ばれる様に成ったのか、有名な廃墟系サイトの管理者さんにお伺いを立てると「昔はそんな呼ばれ方はしてなかったけど最近に成って廃墟がブームに成って、廃墟初心者さんがその廃墟の歴史を調べずに便宜上の名前を付けた。藤原地区の鉱山(の様な)工場だから藤原鉱山とか工場主が白石工業(工場に名称プレートが在る為解る)だから白石鉱山とか呼ばれはじめたんじゃないかな」と。
成る程、そう言われれば確かにそうかもしれない。
ココまでのルートは通常の水汲み場の順路ではなくて裏手に回れる人気の無い運用門へ向かうルートを選択した、しかも各建造物の名称や役割を事前に調査していたお陰で時間のロスも無く、見たい場所を重点的に回る事が出来た。
更にこの白石鉱山で有名なサイロ四兄弟の真上へ出る林道(※1)も在ります、バイクや軽トラなら行ける筈。撮影の為の進入ならその場所が人気を気にせず、ゆっくりと回れるでしょう。
※1 本来の正門への道です、林道と言うより崩落が進んだ私道(企業道路)だったのですが現在(2013年夏季)は通行止めに成りました。この他にも白石工業が独自に敷いたアスファルト道路が計3本が山中に在りますがどれも通行止めと成っています。
因みに地図に書かれている正門までの道路は後から新設した物で本来は石垣が並ぶ細い道路が現在の正門まで延びていました、現在も徒歩でならば通る事が可能です。
私道の枝には崩落寸前の廃屋へ向かう物が在りました、これは創立者白石兄弟の兄「白石恒二」の別邸です(弟は白石正三氏)。下調べって大切です、やはり。
来訪時はまだ悪戯描きなどは少なかった、2011年辺りから急激に増えて解体間際では随分と酷い状態に成っていた事が確認されている。
この場所は運用門(正門)から入って正面に見える出荷管理棟、この棟の両隣には事務所棟や受電設備棟が在る。出荷されて居たのは石灰関連精製品、そうこの工場は鉱山では無くて工業製品の製作と出荷を主に運営していた精製工場だったのだ。
見る人が見れば一目で鉱山では無い事が解る様だけど素人さんにはさっぱり、因みに山形なんかにも炭酸カルシウム関連を扱った素敵な廃工場があり、似た様な「画」を楽しむ事が出来ますがそれはまた別の機会に。
精製消化棟、関連資料を見ても正直「なんのこっちゃ」な棟なのだけど棟内に植物が侵食している様はとても美しい、余談だけれどこの場所ってば猿が凄い居る。猿にはちょっかいを出さずに静かに回りましょ、噛まれたらオッカナイ病気も貰いますし。
出荷管理棟から階段を下りて試験室の在る試験管理棟を横切った、この棟では調薬実験やレポートの製作が行われたと聞く。
試験室内部は結構荒らされているのに驚いた、地元のやんちゃ小僧さんが落書きや暴れに来てる様子も見て取れる、ホント勘弁してちょ。
しかし一見乱雑放棄された様に見えて気に成る資料がチラホラと、公開はしておりませんが「お、こりゃまた」って感じの冊子が数札と手書きの資料が数点。本社が貴重な資料として保管して頂ければ一番良いのだけれどなぁ。
試験管理棟と貯蔵庫棟を隔てる構内トロッコ線路が頭上を走っている、そのアンダーパスを抜けると構内洞が。まだシッカリしていて崩壊の恐れは無い、穴から差し込む光が人工の照明の様に照らす。
構内洞には用水路と工業用電線トラス、電工管の設置跡などが見受けられた。
いよいよやって来ました、アノ部屋です。貯蔵庫棟の入り口、ここから棟内に入って石灰貯蔵庫へ向かいます。前方に見えるのは市場で良く見るターレかな、今でも良く似た車両が走ってますね。
因みに構内の至る所にトロッコの線路が工場内を横断していて近道としても利用出来ます、覚えておくと便利です。
分級棟は貯蔵庫棟内に在り、通路を隔てて手前側に第2貯蔵庫室、隣り合わせで第1貯蔵庫室が在ります。この分級室側の貯蔵庫室は屋根が抜け落ちて青空部屋に成っておりました。
憧れの貯蔵庫へやっまいりました、何度モニター越しに溜息混じりの吐血をした事か。そう言えば鼻血も出たし血尿も出たっけ、それも良い思いでです。この部屋に来れて本当に良かった、美しいよ貯蔵庫たん。
ほへへ…あたしゃログアウトしそうだよ。
やっとこれた、ちょっと普通に嬉しい。ああ、遠くの方で「Can Almost See You」が聴こえよるわ。
第2貯蔵庫の端に何かが燃えた跡が在った、焚き火じゃないよなぁ…ホント悪戯にこんな素晴らしい場所を無くす様な真似はしてほしく無いです。
貯蔵庫棟から風乾棟へ向かいます、途中の小さな棟やなんの役割か解らない部屋も多数見受けられました。
貯蔵庫棟の構内線路沿いには貯蔵庫と風乾棟が、この辺は結構崩壊が進んでいて危険ですな。また釘が露出した木材も足元に転がって居るのでソールがシッカリした靴やブーツで回ると良いでしょう。
彼は沢山の事実を知る白石鉱山の住人の一人、多くの資材を運び、今はゆっくりと休んでいるのでしょう。
ターレちゃんカワイイよ、まじターレちゃん。
構内中央の沈殿槽へ出ました、この構内路からは物理粉砕棟や消化棟、分級管理室、袋詰製品管理棟などへ行くのに便利です。サイロへ向かう時にも使用します。
沈殿槽からサイロを見上げると有名な「画」と重なりました、皆さんココから撮影されているのかー。広角で引っ張ってもまだ足りない、とても大きな工場っす。
消化棟へ向かう道すがら脇道を探索した、沈殿槽の裏側には可愛い椅子が土に還る準備をしていた。沢山の人達を支え、その重い仕事から解放された今、もう支える必要のない脚は静か朽ちて行く…とか真顔で言えねぇ、オシリから血が出ちゃうよアタシ。
乾燥炉の下を抜ける、無機質な人工建造物と自然の融合ってホント綺麗。物理粉砕棟の手前に大きな筒状の鉄遺構が在ったので覗きこんだショットも1枚。
こちらも有名な物理粉砕棟、入り口部分はかなり良い雰囲気出してた。この時期で藪ってるのだから真夏のアタックは難しいだろうなぁ、んだどももっともっと緑に包まれたこの場所はきっと魅力的なんだろうなー。
この立体的な構図、うーん、吐血しそうだ。
こちらは消化棟、だったと思う。位置関係が曖昧に成って来た、何せ結構バラバラに回ったもので申し訳ない。この場所には特筆すべき特徴が在るのだけれど、えーと止めよう。多分興味在る人殆ど居ないだろうし、いや本当は面倒なだけなんにょ。
守衛室へ来た、階段もシッカリしていて内部探索も安心して行えた。この棟はスッカリ植物に周囲を覆われてしまい、今や内部までもその脅威に脅かされている。内部には当時の電化製品や資料が散見出来た。
運用門の先に在る簡易事務室、ここにも沢山の当時資料が。
ざっくり回りました白石工業桑名工場跡、とても広くてまだまだ回り足りない感じですが時間の都合も在ってこの辺で撤退です。
工場を上空見るとこんな感じ、よく見ると結構残っている様で解体されてしまった棟や崩れてしまった棟が数多く在った事が解る。うーん、ちょっとズームしてみようか。
真っ白なアノ部屋を擁する棟は上空から見るとグチャてるのが解る、崩壊が先か解体が先かって話だけれどもここで操業停止の5年後と成る1974年に撮影された航空写真をご紹介しよう。
操業停止後5年、停止後数年は多くの人が残務処理でこの工場に訪れていた事を考えると廃墟に成ってほんの1~2年の時の姿だろう。建造物も全て残っているし道もシッカリしている、操業体後に建設された幾つかの棟はまだこの時には建造されていないのも面白い。
少しこの廃墟の歴史について語ろうか。
白石工業桑名工場は国内においてもとても重要な役割を担った工場でした、大きな役割と言うか特筆すべき点として幾つか。
明治42年、前身である白石兄弟商会が設立された。メイン商材だった軽微性炭酸カルシウム、実は近年に成って聞く言葉と成るナノテクノロジーを国内で初めて実用化した賜物だった。平成の技術が明治に既に技術として製品化レベルで運用出来た実に高度な技術を擁する工場だった訳だ、こうしたナノレベルでの研究、精製には微粒子用の顕微鏡が必要に成って来る。
国内で電子顕微鏡を初めて開発したのこの白石工業なのだ、その後の更なる研究成果で合成化学資材の開発としては国内最大規模で有名に成り、発展して行った。
現在の白石工業と成ったのは大正8年、その2年後で在る大正10年には桑名工場が操業を開始し、工場運営としては本格的な研究、生産を開始した。
昭和44年の操業停止まで国内の一分野の礎を作り、固め、支え続けた。現在においてもその優れた技術力は世界へ向けられている、白石工業は今も尚その熱心な研究と努力を形にして製品を販売し続けている。
白石カルシウム株式会社 - 沿革
http://www.shiraishi.co.jp/calcium/about/milestone/
余談だがこの手の工場が山間部に作られるにはシッカリと理由が在る、砕石したりする鉱山や銅山、溶鉱炉を有する溶鉱業などは原材料精製を立地上部に設け、精製、加工、製品化の工程を下部へ下部へとプロセスを形成している。国内に置いて昭和以降の工場設計は「上から下へ」が基本で建築デザインなどでも基本としている、山が大部分を占める日本国内においてはこの建築デザインの基本は打ってつけの立地条件な訳だ。
その現代的なデザインを大正8年の時点で施工した白石工業の創業者は研究者としても運営者としても天才的な頭脳の持ち主だったに違いない、重力と言う自然のエネルギーを利用したエコプラントとしても評価出来る工場なのだ。
最後にこの白石工業桑名工場跡の場所について、この場所は地元民の水汲み場としても現在利用されている。また管理が最近になって厳重化して警備員も巡回している事を踏まえ、自己責任で探索して頂きたい。よって有名物件でも在るので地図リンクは敢えて記載しない(※2)、探せば直ぐに解る場所だし工場名自体に答えが既に書かれている。撮影希望の方は各々で調査して現地に赴いて欲しい、十分な用意の元にどうぞ。
※2 解体に伴い場所の地図リンクを掲載しました。
2012年05月に解体計画現地見聞が実地され翌6月から開始された解体工事、8月には大部分が完了して09月には計画部分の解体が終了しました。この解体計画には色々と裏事情と言うか企業側が長年抱えた「意図しない進入者の安全確保問題」の他にも事情が在りまして…一般公開されていない情報なので詳細な記載は控えますが今後、大型の廃虚の解体が顕著になる筈です。廃カーさんには少々残念な”流れ”が出来上がりつつ在ります、うーんどう伝えればいいのか。
要点を言えば全国的に今後、2013年~有名な廃虚の解体が開始されそうな雰囲気だと。明言出来ない理由も諸々と在りますが地方紙なんかにはチラホラと…おっとこんな時間に誰かkfdsjひおいヤメロ何をすrんd
※ これはある地方議員さんとのお話で聞いた結構正確な情報です、実際どうなりますやら。
良くある勘違いの為に予備知識をひとつだけ。
白石鉱山や藤原鉱山と呼ばれたこの廃墟、まあ実際は生成加工工場と研究施設だったのだけれどこの「藤原鉱山」ってのは実は付近に実際に在る名称でして。
この廃墟から南方へ直線距離で5キロ。そこに大きなズリ山が見えるだろう、下記リンクを参照してみて欲しい。
ここが本当の藤原鉱山、出荷最盛期の頃は「小野田セメント藤原工場」でしたが現在は「太平洋セメント藤原工場」と企業母体が変わっていますが現役のコンクリート原材施設。ん?と思った方、そうです…有名な廃墟「太平洋セメント秩父工場」と同じ企業母体だったりするのです。あ、補足終わりです。
アプローチ
国道365号線でいなべ市藤原地区へ、目印となる「あづま食品」から2本先の上り坂の枝道を曲がって下さい。そこからは数本の分岐が在りますがどの分岐からでも出る場所は違えど廃墟への道で間違え在りません。
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パソコンが突然起動しなくて慌てた事ありませんか?
パソコン修理業者は多いですが、どの業者も何も教えてくれない。
まずは会員になって下さいと言う業者もあった。
口コミや評価の良い。埼玉パソコン修理隊と言う業者があり。
この業者は受付はパソコン整備士が電話口に。
ある程度の処置や見積もりも速い。
金額もポリシーがあるらしく結構安い。
大事なデータも見られる可能性も考えると信頼も必要だと思う。
以下のHPの埼玉パソコン修理隊は信頼、値段とも安心と感じました。
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REPORT - 0121│浸透実験池関連施設跡
千葉県│浸透実験池関連施設跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 新日本製鐵 - 浸透実験池関連施設跡
千葉県木更津市、航空写真で見るととても面白い地形が目を引く一体が在る。新日本製鐵が新事業参入の為に建設した浸透実験池とその関連施設跡が在る盤州干潟がそれだ、まあこんな感じ。
今回は今後この物件の詳細を調査するにあたっての予備撮影の来訪だったりする、と言うのもこの物件っては解らない事が在り過ぎて出版社や新聞社、そして地図製作会社に仕事の伝手で協力を要請。そして地元NPO団体にも話を振って本格的に調べようと思ったからだ、またこの干潟は干潮の歩ける範囲が大幅に変動する事や湿地帯足を取られると抜け出せなくなる可能性も考慮。今回は予備調査と成った訳でして、ウェブ上にも何分情報が無くてですねぇ。
地図リンク
古代魚の頭部みたいなこの地形、この場所が盤州干潟だ。丁度の目の部分が浸透実験池、現在は野鳥の楽園でもうモッサリと、鬱蒼としたこの場所にうじゃうじゃ居ます。ちょっと怖い。
あと、カニが凄い。カニだらけ。
カニに限らずこの干潟には多種多様な生物がわさわさしてる、まあカニが凄いのだけれど。そんな素晴らしいカニ天国のこの区画の生物を紹介したサイトが在ったのでリンクしておこう。
独立行政法人 港湾空港技術研究所 - 沿岸環境研究チーム 干潟の生物
http://www.pari.go.jp/bsh/ky-skb/eg-kky/ekanky/dictionary/higata.html
しかし「ワレカラ」まで居るのか、ナナフシマニアとしてこの類似する肢体はそこはかとなくエロい。似てるよね、ナナフシと。
浸透実験池へ向かう道は幾つか在るのだけど一番近道が出来るこの獣道を歩く事にした、実を言うと車もたまに走ります、行政関係者(※1)だと思うけど。
※1 後の調査で民間の干潟調査団体とNPO団体も車両で走る事を確認しました。
この道沿いには随分と古い電柱やコンクリート製の遺構が沢山残っている、でも何に使われたのか良く解らん(※2)のです。冬場に来ると結構自由に探索出来て夏場には見えなかった遺構にも出合えます、手前のコンクリート製の物は恐らく側溝などに使用される溝のジョイントレール。
電柱には既に電線は在りませんでした。
※2 後の調査で判明しました、追加調査の再訪エントリーでご確認下さい。
前日の大雨で道いっぱいに水溜り、鏡面撮りしたかったけど風が強くて水面が揺れて撮影できず。
更に進みます、ずっとこんな道です。
終点にコイツが。何物か全く判明せず(※3)、ここを訪れている方々のブログなどを確認してもやっぱりコレが何なのか不明な記述ばかり。ご存知の方おりませぬか、ずっと疑問なのですよ。
因みにこれを作ったのはこの会社。
新日本製鐵(※4)
※3 後の追加調査で仮説を挙げ、文献にて検証。しかしその詳細は判明しませんでした。
※4 日本製鉄と住友金属が2012年10月に合併、新日鉄住金と成りました。
浸透実験池の高台から撮影、画的に気に入らない何かを消してあります、夏場に来る場所では在りませんでした。
天気の良い昼下がり、ちょっと散歩って気分で行くには面倒な所だけど素敵な場所です。
因みに小櫃川を挟んだ対岸の金田海岸を以前レポートしてます、木更津の「海に沈む電信柱」で結構有名な場所です。満潮時には素敵な景色が眼前に広がる事でしょう。
2012.12.16 - 追記 更なる詳細調査の為に再訪しました。
ウェブ上にアップされている沢山のレポート、しかしながらこの場所の詳細を記載したエントリーは実に少ない。詳しく説明されているのは行政関係のPDFファイルなど極僅か、そこでどうしても知りたい沢山の遺構の歴史や未踏区画を実際に歩いて調べてみた。
アプローチ
国道からだと国道16号か国道409号、その支線は沢山在るのだけど県道287号や県道87号を使いどうにか接近して下さい、細かい道すぎて巧く説明出来ないのです。ホテル三日月(竜宮城)へ向かえば解りやすいと思います、以下地図と航空写真を参考に。
photograph - nee
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REPORT - 0122│東赤谷連続隧道(赤谷鉱山/飯豊鉱山)
新潟県│東赤谷連続隧道(赤谷鉱山/飯豊鉱山)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤谷鉱山 - 東赤谷連続隧道
新潟県にとても魅力的な隧道群が在ると聞いた、何でもそこには廃鉱山へ続く素晴らしいスノーシェードが連続で続いていて訪れる者を圧倒するのだと言う。その場所は新潟県の山中、三川温泉を北上した新発田市の滝谷。全く知らない場所だったので少々調べると古い鉱山跡が在った、しかし廃墟系のサイトでもこの鉱山は取り上げられておらず、鉄っちゃんや隧道好きのサイトでは稀に紹介されている程度。
鉱山名は飯豊鉱山、赤谷鉱山と2つの名前で呼ばれているがどうやら赤谷鉱山で正解の様だ。
で、その鉱山に向かうには新潟県道335号線を加治川冶水ダム方面へ走ると隧道群が姿を現すのだと下調べでは解った。この際鉱山跡はおいといてこの隧道群を是非撮影したい、そう思ってこの地を目指す事にした。
国土地図で場所、数、長さなどを事前に確認しておいた。山中を切る新潟県道335号線を暫く走ると信号機が付いた1車線の隧道が現れた、あのスノーシェードの様だ。これは美しい、いやホントに綺麗だ。来た甲斐が在りました、時間を忘れて暫く撮影。
真っ直ぐ伸びたモノ、大きくRを描いたモノ、それぞれがまた美しく、そして静かに佇む。初夏の気候とセミの声が遠くに感じる程この隧道内は涼しかった、滅多に出逢えない良物件に撮影枚数がえらい事に。
こんな山深い所にヒッソリと、普段はこの先の川加持治水ダムの職員位しか使用しないのだろう。
帰り際に向かう際に気に成った脇道に寄ってみた。
何か在る、何かが匂う。
あら素敵、こりゃ思いがけず絶景さんにお会い出来ました。
アプローチ
新潟県新発田市の「加治川治水ダム」へ向かう道すがらに点在します、アプローチは新潟県道335号線を終点として国道、県道から沢山の方法が在ります。ダムへ向かう様に地図上で確認して下さい。
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REPORT - 0123│赤谷鉱山軌道
新潟県│赤谷鉱山軌道(赤谷鉱山/飯豊鉱山)
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤谷鉱山/赤谷鉱山軌道
前回に引き続き赤谷鉱山関連のエントリー、実は赤谷鉱山自体をご紹介しようと思ったのだけど余りに鉱山跡の内容が貧弱過ぎてその手前に鎮座するトロッコの廃線をメインに据えた。
赤谷鉱山、別名飯豊鉱山。この赤谷鉱山に向かう一本の廃線、それが今回ご紹介する赤谷鉱山軌道だ。正式名称は日鉄鉱業赤谷鉱山専用線、路線内容は国鉄赤谷線(鉱山延長路線)として東赤谷から鉱山に伸びる610mmゲージの専用線だ。鉄っちゃんでは無いので詳しくは解らんのだけど調べると中々歴史の在るトロッコが走っておったそうな、鉱山が閉鎖された後はレールや路線関係の遺構も順次撤去され、現在ではこの鉄橋が残るばかりと成る。
前回ご紹介した隧道群はこの赤谷鉱山軌道の終点、赤谷鉱山の谷を挟んだ場所に位置する。鉱山現役時は沢山の鉱山関係者があの隧道群を走った事だろう。
赤谷鉱山の歴史は古く、約200程年前に発見された後に鉄鋼業に最適な鉄鉱石が大量に在る事が解った為に採掘一時代を築いた。採掘出来る石質は結構な量で現在でも石が好きな方には素敵スポットとして知られている、そして廃墟好きには人気が無い。
まあ野生の熊の出没地なので命がけで廃墟探索ってにはいかないのも一因、そして廃坑がそもそも小規模なのも在る。当時は大規模な鉱山だったのだけど遺構が少ないと言った方が正解かも。
鉱山跡にはこの鉄橋を手前の崖っぷちから渡っても行けるし迂回して県道から直接獣道を辿る方法も在る、どちらにしても結構な酷道なので行く方はそれなりの覚悟と家族へ残す生命保険への加入をお薦めします、いやホントに。
赤谷鉱山に行く為には山道ルート(獣道)が現在では常套で藪漕ぎする事数十分でエラく長い階段を見つける事が出来る、それが鉱山への入口。
今回は鉱山へのアプローチはパス、正直面倒臭ぇです。実は色々と他にも関連遺構は在るのですが本当に面倒臭ぇんです、ダム下方部の山中にもボチボチ在るのですが行っても大した物は無いので隧道群の道すがら点在する関連遺構(地下隧道入口や廃線の隧道)などを探索された方が楽しいかと思いますよ。
日鉄鉱業赤谷鉱山専用線
国鉄赤谷線(鉱山延長路線)として東赤谷から鉱山に伸びる610mmゲージの専用線、赤谷線自体は鉄鉱石の輸送を目的として建設され、1922年12月に新発田~赤谷間が開通した。
しかし鉄鋼関連の資材価格が下落した事を受け、全線開業の予定が延期された。3年後の1925年、通常の路線として人を対象とした運行が開業し、第二次世界大戦中の1941年に戦略物資の確保を目的とした鉱山再開を受けて鉱山延長線を含む全線開通と成った。
1960年代後半から全国の鉱山が閉山し、1980年代後半には長い歴史に終止符を打った。同時期、有名な足尾鉱山も閉山した事を考えると本当に鉱山関連事業がバブル期に次々と閉山した事が解る。
アプローチ
新潟県新発田市の「加治川治水ダム」へ向かう道すがらに点在します、アプローチは新潟県道335号線を終点として国道、県道から沢山の方法が在ります。ダムへ向かう様に地図上で確認して下さい。
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REPORT - 0124│鹿沼市立石裂小学校跡
栃木県│鹿沼市立石裂小学校跡
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 加蘇路地区 - 鹿沼市立石裂小学校跡
ちょっと前に霊仙廃集落群をご紹介した、内容は各々興味の在る集落のエントリーを参照して下さいまし。
これらの集落は国内でも稀に見る「廃村」としての色合いが非常に強く、限界集落、過疎集落としての貴重なモデルケースとしても取り扱われる事も少なくない。滋賀県霊仙地区は日本国内に置けるこの手の調査では欠かす事の出来ない地域と言える。
その中でも冬季限定で無人化する期間限定限定集落や数少ない住民で運営された通常の限界集落、その形態と非常に酷似した地域が栃木にも存在した。大まかな括りでは「加蘇路地区」と表現出来、今回紹介するのは栃木県鹿沼市上久我の「石裂(おざく)集落」だ。
この石裂集落は歴史も古く、地域に密着した産業や文化を大切にしてきた集落だ。現在の居住人数は少なく成りつつ在るが調査対象としてはとても興味深い。今回はその石裂集落の児童教育を支えた鹿沼市立石裂小学校をレポートしたい。
因みに奥に見える赤い屋根の物置小屋は現役当時は教室として使用されておりました、どの様に使用されていたかまでは判明していませんが仮説は在りますので最後尾にて少々記載しようと思います。
この鹿沼市立石裂小学校は廃墟さんや廃校さんにも余り知られておらず、素晴らしいロケーションが現在でも残されている。場所を特定してアナウンスするか考えたが地域文化や廃校のデータベースにはシッカリと記載されている場所なので当ブログでも普通に掲載する事にした。
データベースには廃校後に鹿沼市石裂寄栗地区集会施設として転用と在る、しかし現地の方にお話をお聞きした限りはもう何十年も使用されておらずに機能していない。と、言うより別の場所に集会所が新築されており、集まりはその建物で行っているそうだ。
入口は2箇所、此方は裏手にあたる。今回はこの裏手からお邪魔した。
とても古い作りの校内、撮影後に自宅で詳細を調べた。するととても長い歴史を持った学校だった事が解った、創立はビックリの1873年(明治6年)。その頃は民家を仮校舎に充てた簡易的な学校だったが1902年に現在の校舎が完成した。
増改築を何度も経てこの校舎が残ったのだけどそれもいつ迄見れるのか、窓ガラスは年々割れて行き、知るだけでも3枚は新たに割れていた(訪問時)。
ネット上で幾つかこの学校を取り上げているサイトやブログを目にした、運悪く近年に心霊にもさん知る物件と成った様だ。幾つかその形跡も垣間見れた、ホント勘弁して下さい。
自治体では夏季の間を中心に夜間の見回りをするそうだ。
ちょっとニッチツ鉱山を思い出した、こんなロケーションが確かに在った。この鹿沼市立石裂小学校は近年の市町村統廃合とは関係なく、随分昔に廃校と成っている。簡単に歴史を振り返ろう。
栃木県の地域文化冊子によるとこの学校は意外と複雑な経緯を辿っている。
1873年 - 創立(当時は民家を仮校舎として運営)
1892年 - 久我尋常小学校石裂分校として運営
1894年 - 久我尋常高等小学校石裂分校と改名
1900年 - 石裂小学校として独立運営
1902年 - 校舎を新築
1912年 - 校舎の増築
1926年 - 校舎の増築
1941年 - 加蘇村石裂国民学校に改名
1947年 - 加蘇村立石裂小学校に改名
1954年 - 鹿沼市立石裂小学校に改名
1964年 - 鹿沼市立久我小学校と統合し廃校
この様に約90年間に及び、長い歴史を刻んだ。簡易的な流れを記載したがこの学校には地域と国の問題、そして戦争、過疎化と多くの問題を抱えた児童教育の場だった。深く調べるとその時代背景に翻弄された地域性が良く解る、それでも約90年間に渡ってこの地域の児童の教育を担った素晴らしい学校だったのだ。
この学校の卒業生に話を伺おうと考えると現在46歳以上の方でこの地域の出身者と成る、探すのは大変そうだ。
さて、冒頭でもちょっと離した赤い屋根の元教室として利用されていた建造物。ボロボロに見えるんですがこれ、実は本校舎より新しい建築物でして。それは記録にも残ってるので解る、そしてその建造が1950年前後だと言うのも複数の証言から明らかに成っている。
ところでこの小学校、一時期(約7年間)だけ中学校が併設されていた事は余り知られていない。その中学校の名を「鹿沼市立加蘇中学校石裂分校」と言う。しかしこの中学校の分校、現在の中学校(鹿沼市立加蘇中学校)に統合されるまでの所在などが明らかに成っていない。
行政の資料にも残されておらず、ちょっとした謎だったりするのです。当時は鹿沼市立加蘇中学校ではなくて「加蘇村立加蘇中学校」と言う名称、その分校が先程の「鹿沼市立加蘇中学校石裂分校」だ。この分校は1950年10月21日に校舎新設と資料に記載されているが…ん?ちょっと待てよ。
鹿沼市立加蘇中学校石裂分校の校舎が1950年に新設されて。
その後7年間だけの運用で統合先の中学校へ(1957年3月31日に閉校)。
あれ、鹿沼市立石裂小学校の赤い屋根の元教室として利用されていた建築予想時期って確か1950年前後って…。ああ、そうか。多分だけれど、恐らくは。
この同じ土地に小学校と中学校の両方が存在していたんだ、一応と思って中学校の方の現在のサイトを見ると「沿革」に資料と同じ年表が記載されていた。
鹿沼市立加蘇中学校 - 学校概要
http://www.school.kanuma.ed.jp/j-kaso/gaiyou.html
正式な資料や記録が行政に残されていない以上は確認のしようがないけれど、まあその内現地調査で聞き込みが出来れば確証が持てて良いのだけれどねぇ。うん、個人的にはこんな予想。
※ 他にも解体された建造物が過去に存在したとの情報もあり、あくまで予想と言う仮定の話です。
この学校、と言うよりこの石裂と言う集落は実に面白い歴史を見せてくれます。今後霊仙の様に何度かに分けて調べて行きたいと思える場所でした。次回のレポートではこの石裂集落を含む加蘇路地区を掘り下げてみようと思います。
本日は以上です。
アプローチ
鹿沼からだと国道121号線から県道へ。県道は14号線と240号線をハシゴして上久我方面へ、石裂集落までは国道から30分~40分程。
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REPORT - 0810│東海紙料 笹間渡水力発電所
静岡県│笹間渡水力発電所
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 笹間渡水力発電所(東海紙料/東海パルプ/中部電力)
東北の水力発電所の雄「旧和賀川水力発電所」。その雄姿は未だに記憶に新しく、そして発電所跡の魅力を強烈なインパクトと共に眼神経に焼き付けた戦犯物件でも在った。それから幾ばくか発電所の廃墟を探していて”行くのがシンドイ”やら”崖やら川やらに阻まれて面倒臭ぇ”など心滾るキャッチーな伝聞、そうですか…そんな面倒スメルな物件が在るですか。
なら、行かなければなりませんね。
お誂え向きにアタシら岩屋と沢屋だし、うーん素敵な煮汁の香りが漂ってきたわっ。しかも50年モノの煮汁ですって?カピカピじゃないの、汁じゃないじゃない…でも良いの。
アタシらカピカピも嫌いじゃないもの。
意気込みは竹槍でB29を撃墜せんとばかりか血液さえ沸騰する程、因みに血液の沸点はモル計算とか面倒だけれど水と一緒位なんやって。モル計算とか懐かし過ぎてケツから血ぃ吹いたわ。
そうだ、物件名。
はい、これ「笹間渡水力発電所」ね。さっきもチョロリと書いたけど50年モノの熟成廃墟でして、これがシングルモルトならさぞ旨かろうて。んで、色々と複雑な経緯を辿った発電所なのだけれどその辺も説明しながらエントリーを進めたいと思います。実は有名物件でしてダムマニアさんや廃墟好きさんには結構な頻度で撮影されているみたいです、現在の管理人さんからも面白い話が聞けたので一緒にまとめてお伝え致しましょう。
それでは「笹間渡水力発電所」のエントリーを開始しましょうか。
来訪当日は3件の撮影を予定していた為余りゆっくりは出来なかったけれど行程も含めて中々楽しめたこの物件、噂通り事前調査が無いと結構な距離を歩かされる面倒な立地だった。
こりゃ水位によっちゃ来れない方もナンボか居た筈だ、特に危ない場所はないのだけれど「面倒くさい」の一言に尽きる。どんな場所に在るかってーとこんな感じです、はい。
大井川が大きくうねり込んだ山間部の片岸、その小さな平地にその発電所は残されております。実はですね、対岸から楽に行けるルートが在りましてこの茶畑を管理されている方はその道を通ってココまで来ます。この場所に来た事が在る方はご存知かと思いますが茶畑の管理人さんが自作された対岸とを繋ぐ滑車(鉱山の空中索道の様な物)が設置されています、この自作滑車は道具や収穫された茶葉を運搬する為の物で人道は別に在りますが今回は管理人さんの要望で未公開とさせて下さい。
と、言うのもちょっとだけ危ない場所が在るのですよ。対岸の道路からは5分と掛からずこの発電所まで来れるのだけれど…その他ににも3つのルートが。
一つは釣り人が使用する少々離れた崖を降りる場所、ですが近年土砂崩れでそのルートの一部が崩落していてこちらもちょっと危険だったりします。
二つ目は下流から砂岸を歩くルート、これは入渓地点から2キロ程歩きます。非常に疲れる行程でお薦め出来ませんが現地で探せば直ぐに解る位の緩い斜面が下流方面に在りますので自己責任でどうぞ、こちらは川を渡る以外に危険は在りません。
三つ目のルート、これが殆どの方が利用されている上流から巻く行程です。今回はこのルートだけ簡単に説明しましょうか、水位が低い時で在ればこのルートが一番安全かと思われます。
本来この場所はとても簡単に行ける所では在りませんでした、と言うのも。上の図を見て頂けると解りますが東西南北自然の鉄壁ガードが構築されてまして、道路開発と公園整備が為される前は先程書いた釣り人ルートがメインでした。
大井川がうねり込んだこの立地、笹間渡水力発電所から見て北側に鵜山森林公園が在ります。手前にその町営駐車場が在るのでデポ地としても人気の様です(特に釣り人が利用)、そこから公園を抜け河川へ降りる未整備道が伸びています。
まあこんな感じで歩く訳です、時間して30分位でしょうか。河川法の問題で地元でも問題視されていますが更に上流から車で進入出来るポイントが幾つか在ります、実際四駆車のタイヤの跡も在りますが流石に止めた方が良いでしょう。地元の方の話によると他県ナンバーの車がBBQなどをやりに来る様で頻繁では無いですが警察沙汰も在るのだとか、それと不法投棄の話もされてましたが割愛しましょう。
貨物運搬用の自作滑車装置、溶接などもする様ですが現在は茶畑の管理がメインだそうで。発電所跡もちょっとした個人的な経緯も在り倉庫として活用しているとの事、この辺も諸事情で未掲載とさせて下さい。
余り知られていませんが右側の山間部上部にはサージタンクが解体されずに残されています、冬季なら行けると思いますが来訪時は8月。夏真っ盛り、思春期特有のやり場の無いリビドーの様な勢いで草木が生い茂っていてとても登る気には成れませんでした。
これ、よく自作したなぁと。作動風景を見るとぶっ壊れそうなスピードで飛んで来ますが今の所は現役で頑張ってくれている様です、個人的にはFRPで外装作ってLEDで装飾し無駄なギミックを詰め込みたい所です。
ほいじゃ内部にお邪魔しましょうか。
実は此方側は裏手だそうで、正門は逆側なんだとか。あー噂通り「旧和賀川発電所」にソックリさんですねぇ、状態も悪くないし何よりアクセスが悪い事が功を奏して破壊行為などが一切されていない事が嬉しいっす。
相棒もこの美しい被写体に魅了されたのかシャッター音が量産されていく、彼のTシャツの背中にはカタカナで「ボディアンドソール」と大きく書かれているが特に気にせず此方も撮影に入る事にしよう。
比較的小さな規模の水力発電所跡だ、旧和賀川発電所の1/5程度の広さしかない。それにはシッカリと理由が在りまして、取り入れ口と成る川の規模に左右されているのです。
そう、この発電所は大井川に隣接していますがサージタンクの設置されている東側山間部には別の川が流れていまして。現在では笹間川ダムでコントロールされている管理河川の笹間川、この笹間川が取り入れ口だったりするのです。
笹間川からサージタンクを経て流込み式の発電を行い、眼前の大井川に放水すると言う形でした。取り入れ口で在る笹間川も大井川下流で合流するのですが支流間で上手く発電する為の位置を模索したらこの人を寄せ付けない場所に建設する事に成った様ですね、行政から提供して頂いた1950年代のこの発電所の資料を読むと山間部には建設の為の作業道や管理用の管理道が在った筈ですが流石に閉鎖から50年…とうに自然に帰ってしまった様です。
撮影率が非常に高いこの2台の自転車、何気なく皆さん撮影されていますがコレってば実は大きなヒントだったりします。そう、つまり当時の生活道路とこの発電所を自転車で行き来出来たって事なんですわ。
その道についても調査して判明したのですがダム建設の為に付近の地図が書き換えられておりまして、興味の在る方は各々調べてみて下さいませ。
photograph:+10
それではこの「笹間渡水力発電所」について少々説明しましょうか。
先ずはこの発電所のスペックなどを、水力ドットコムさんにはいつもお世話になっております。
水力ドットコム - 東海紙料 笹間渡発電所 跡
http://www.suiryoku.com/gallery/shizuoka/sasamado/sasamado.html
○ 発電所諸元
歴史
所有:東海紙料[ 運開 ]→中部電力[ 廃止 ]
1931年04月01日:運用開始
1961年03月31日:中部電力所有、廃止
水力発電方式
種別:廃止(一般水力)
形式:落差を得る方法/水路式(未確認)
方式:水の利用方法/流込み式(未確認)
最大出力
認可最大出力:4030kW(後に5000kW)
設備(導水路延長)
水路:3220m
面積(流域面積)
面積:61.92平方里(955平方キロメートル)
発電利用河川
取水:笹間川
放水:大井川
内部に残されているのは農業工具・器具などで当時の発電所時代の物は周囲の関連設置物の解体作業時に撤去されてしまっている、因みにまだ作業道が在った頃に持ち込まれた道具やリアカーも。このリアカーじゃあ喜界島1周は厳しいなぁ、そう言えばあのリアカーに名前着いてたよなぁ。
発電所諸元の続きです。
開運した東海紙料について
東海紙料とは旧大倉財閥に属していた製紙会社で、現在の東海パルプの前身。まずは各企業のウィキさんを。
ウィキペディア - 東海パルプ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%9d%b1%e6%b5%b7%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%97
ウィキペディア - 大倉財閥
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%a4%a7%e5%80%89%e8%b2%a1%e9%96%a5
ウィキペディア - 特種東海製紙
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e7%89%b9%e7%a8%ae%e6%9d%b1%e6%b5%b7%e3%83%9b%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%87%e3%82%a3%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%82%b9
元々は東海紙料がパルプ製造のために大井川に発電所を建設したのが始まり、その後は一度停止期間が在り(その間に別の民間企業に委託→委譲)、中部電力に完全に移譲されるまで再び運用される。中部電力での運用は農業用発電だったがコレもダム建設に伴う発電量不足、また規模の小ささが問題と成って1961年に廃止される。
また笹間川ダムと密接な関係(ダム発電)と成る川口発電所にその全ての業務を移譲、本来東海紙料が利用する発電量は赤松発電所に移された。管理権限も中部電力から企業名が変わった東海パルプに戻り、現在も稼動している。
水力ドットコム - 中部電力 川口発電所
http://www.suiryoku.com/gallery/shizuoka/kawaguti/kawaguti.html
水力ドットコム - 東海パルプ 赤松発電所
http://www.suiryoku.com/gallery/shizuoka/akamatsu/akamatsu.html
総じて当時の発電量の問題と笹間川ダムの建設に起因するこの発電所の停止・閉鎖ですがただ単に箇条書きで終わる歴史では在りません。
この辺は更に詳しい調査をしている最中ですので終わり次第皆様にお伝えしたいと考えています。
ウィキペディア - 笹間川ダム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e7%ac%b9%e9%96%93%e5%b7%9d%e3%83%80%e3%83%a0
1階は勿論タービン室なのだけれどお決まりの台座と地下が見下ろせるマウントホールの掘削痕が見当たらない…と思ってたら。ああ、廃材やらで塞がれてたのか。
通常の水力発電所同様にサージタンクから繋がる水路が地下に在ります、現在は埋没しちゃってますが撤去された訳ではなくただ長い年月によって埋まってしまった、と。
ホント、コレだけ見ると旧和賀川水力発電所そっくり。昔の水力発電所はどうしても落差によって水圧動力を得る水路式、なので山間部の谷間とか人を寄せ付けない場所に建設されてしまうのです。
外に見える大井川、この発電所が稼動していた当時は水位も随分とあって流れる速度も速かったとか。
2階部分、こちらも旧和賀川水力発電所同様に発電機か誘導電動機が設置されていた筈なのだけれど(資料には稼動当時に2機の発電機が設置されていたと在る)台座が見当たらない。
写真の入口2つは稼動時にドアが取り付けられていたけれど現在はこの通り、行き着く内部も同じ部屋。造りがちょっと解らないけれどきっと理由が在った筈、人用と重機用かなぁ…幅が違うし。
さて、ここから地元の方からお聞きした話を少し記載しよう。と、言っても稼動当時は子供だった為に余り詳しくは覚えていないと釘を刺されての内容なので整合性は欠けるかもしれない。
「この発電所が動いていた当時、これが企業の生成用の発電所だとは知らなかった。付近にはまだそこまで家が多くなかったが当然地元の電力供給の為の発電所だと思っていた」
これ、実は他の発電所を調査している時にも聞いた事がある台詞だ。
国内の企業が独自運用する為の発電所、今では当然の様に建設されているが戦時中を交え戦後の復興開発と話を絡めると国の主導ではなくて企業(当時は個人として認識され易かった)が発電所を建設すると言う事が如何に”以外”で”普通ではなかった”かが良く解るエピソードだ。
この地元の方も勿論当時は子供だったのでそこまで深く理解して居なかった様だし発電所が稼動停止する数年前の話だとしてもギリギリ1960年代、ポニーモナークやらキャブトンやらが走ってた時代だ。いいなぁ、RTFのミュージアムコンディションとか幾らするんだろ…いや待てよ。確か1950年の頭に4CVのライセンス生産してるからリアルで日野ルノーとか走ってたのか、羨まし過ぎるっ。
ああ、地元の方の話に戻りましょ。
「発電所までは山を回りこんで歩いていけた、自転車を持ってる人は行きは押して帰りは乗って帰って来た。中には入れて貰えなかったが回りで遊ぶ事は出来た」
ほほう、それはそれは。道が在った事は調査で判明していたけれどやはり生の声で聞くと実感が沸く、当然廃墟の中に自転車が残されているのだから当然っちゃあ当然なのだけれど。で、ここでもう一つ気に成った事が在った。
”行きは押して”、”帰りは乗って”。
つまり発電所から見て人が住んでいる場所が低い場所に在ったと仮定出来る、しかし1950年代の周辺の土地図を入手してもそこまで高低差(自転車を押す程の)は見受けられない。そして帰りは乗って帰って来ている事から平地か下り…これはちょっと調べてみても面白いかもしれない。
事前に調査した道と地元の方が利用した道が違う可能性が出て来た訳だ。
狙ったかの様な椅子の場所、そして陽の射す角度。違う誰かがきっと上手くセッティングしてくれたに違いない。折角なのでこの間々撮らせて頂こうか。
外周を見て回ると茶畑のおっちゃん(現在の管理人さん)が休憩していたので
「おっちゃんコレ登ってもよか?」
「よかよか、行きんさい」
鉄部の錆びが気に成ったけれど強度的には問題なし、ハーネスつけてヨロレイする程の高さでも無いし流石におっちゃんに悪い。普通に見学するとしよう。
photograph:+10
良く見ると茶畑の葉の色が違う、実は別の種類の葉かとも思ったけれどお茶って基本的に煎れ方で別けてるし狭い場所で別の茶葉作るってのもなぁ。これは聞くのを忘れてました。
手前には既に解隊された関連施設のコンクリートベースが残っています。
正面シャッターの所で休憩中の管理人さんに話を少しだけ伺った。
「この場所には意外と人が沢山来る、テレビやインターネットで取り上げられているのも知っている。最近は若い人に混じって結構年配の方もどうやって来たのか訪れる事が在る。大学生なんかも先生と一緒に来るけれど写真を撮るのは普通の人ばっかり、偶に畑の中をズカズカ歩く輩がいるのが心配事の一つ」
ああ、どの物件の管理人さんも似た様な事を話されます。
「それとなんか変な服着て写真撮って帰る奴等、あれは何?気持ち悪い、挨拶もしないし声掛けても知らん顔だし」
ええっと、あー多分”コスプレ”さんですね。色々居るんですよ、色々と、ねぇ。
他にもこの発電所に関しての話をお聞きしました、その内更なる調査の結果内容と一緒にご報告しようかと思いますので暫くとお待ち下さいませ。
おっちゃん帰るでー、また来ますわー。
声を掛けるとわざわざ手を振ってくれた、見えないマスクの中で口元が「ファック」と呟いた様に感じた。とても優しい管理さんだった、空を見ると秋を知らせる高積雲が羊の様に身を寄せ合っていた(※1)。
※1 当日は快晴でした。
photograph:+10
千葉県からはちょっと遠いけれど中々撮影意欲と調査意欲を掻き立てられる物件だった、資料や書籍からでは解らない事や地元の方の証言、管理人さんからの話をお聞きした感じから更なる歴史の掘り下げをしたいと思わせる内容だったのも嬉しい誤算。
まだいつに成るか解りませんが追跡調査の結果報告をしたいと考えています、ひとまずは以上です。
アプローチ
本文を参照して下さい。
地図リンク
http://yahoo.jp/P0ihZM
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